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問題提起―都市風景をつくる文化的資産の保全を考える
ー特に近代以降を中心にー 日本都市計画家協会 伊達美徳
東京目黒区の碑文谷に第一勧業銀行のスポーツ施設があり、目黒区が買収して運動公園とすることにした。そこにあるクラブハウスと倉庫の建築保存運動が、区民の有志から起きた。
当協会会員も運動に関わったこともあって、当協会も会長名で保存要望書を目黒区と区議会に出した。明治の名建築家である妻木頼黄設計の貴重な作品だから、是非とも残して欲しいというのがその主張の中心であった。
私は、はたして妻木の設計という、あまりにもプロ的な理由で果たして議会筋に理解されるか、疑問もあった。むしろ、市民が日常の行き通いに見なれた地域固有の特徴ある風景の保全を言うべきだと思ったものである。
結果は、目黒区に引き渡す条件として更地にすることになっているとの理由で、建物は消滅した。
もう一つの事件。静岡県伊東市は中心市街のまん中が、古くからの温泉地であり、木造3階建ての旅館がわずかに残る。その一角に、野間別荘と呼ばれる大きな別荘邸宅地がある。
そこには、北里柴三郎氏(細菌学者)が1913年に建てた木造和風別荘から引き継いで、野間清治氏(講談社社長)が1936年に増築した洋風木造建築があり、庭園と共に格調ある空間を持っている。
伊東は別荘地としての特有の文化を育てたが、その中でも伊東のまちづくりにも貢献した人々の由緒ある場でもある。
ところが、2001年3月になって突然、建物の管理団体から伊東市に、建物を取り壊すことにしたので、建物だけを市に寄付するから、どこかに持っていってくれ、と、申し入れた、という情報が流れた。
今、伊東の中心市街地の再生計画を市民参加で進めようとしており、その中で文化の核として公開してもらって活用したいとの意見も出ていたところであった。
驚いたまちづくり市民団体のいくつかが保全運動に動き出し、所有者、管理団体、市長、議会にその要望を出したのであった。
調べていく内に分かったのは、取り壊して幼稚園を建設する、児童関係の図書館も設ける、設計は有名な建築家の安藤忠雄氏に依頼する、現建物を鹿島が調査したところ危険で保存は不可能との結論であった、などである。
が、市も金はないし、持って行き所もない。なによりもその場所にあることに意義があるのだあら、移設は適切でない。
この建物が会社の保養所あるいはゲストハウスであるので、市民がほとんど知っていないためもあって、保全運動は盛り上がりに欠けたものにならざるを得ない。
保全運動の市民団体は、最近イタリアのベネトン本社で保全と創造の入り混じった設計をした安藤忠雄氏だから、こんどもなにか保全策を考えているだろうと、氏に手紙を書いて訴えた。安藤氏からも丁寧に返答があったようだが、危険な建物を壊すと言う所有者と管理者の意図は変わらないから、ベネトン流も無理らしい。
そうこうするうちに、議会は陳情を却下、市も買取できずで、現在(2001年7月)ついに取り壊しが始まった。
これらの保存運動不成功の基本的な問題点は、その建物に対する社会の評価が安定しなかったところにあるとわたしは考える。
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いわゆる日本近代化時代から現代までに人間がくつった資産については、いまだに社会的な評価が定まらないままに、とり壊されることが多くなっている。
都市の問題として、都市の風景の問題として、都市の計画の問題として、それに都市計画家はどう対応するべきか問題提起したい。
近世以前の文化的資産(あえて遺産とはいわない)の保全(あえて保存といわない))については、歴史的な評価の市民コンセンサスが比較的得やすいが、近代以降のそれは評価がかなり難しい。
建造物としての専門的な評価ばかりでなく、生きた今の社会的評価が求められるからだろう。
時には、誰も文化的資産として気づかないままに消えていくこともあれば、保存に値しないと評価されての消滅もある。
それが人間の営みとしての文化的資産として保全するにふさわしいか、都市の風景(あえて景観と言わない)というメタフィジカルな視点からも評価をするには、どのようなアプローチがあるだろうか。
これまでの保全論の多くは、単体としての文化財保存の発想だった。古いものだから、有名建築家が設計したから、有名人が住んだから、有名事件があったからなどである。
それはそれでよいのだが、人間がつくってきた文化の極致ともいわれる都市、その視点から保全へのアプローチは、どうなっているのだろうか。
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東京駅丸の内側に、通称赤レンガ駅舎とよばれる建物(辰野金吾設計)がある。
昨年、東京都知事とJR東日本社長が会談して、竣工時の姿に復元することになったと報道された。
1914年竣工、45年戦災炎上、46年修復のこの建物については、66、77、88そして99年と11年周期で、壊すの保存するのと騒ぎが起きては消えている。さて今度はどうなるのか。
東京駅丸の内赤レンガ駅舎は、それが建ってきた社会的背景の中に、あるいはあの立地の風景としてどのように位置づけられているのか。
1914年のいわば第1次大戦戦勝記念碑の姿を復元することで、1946年のいわば第2次大戦敗戦記念碑として今日まで歴史を積み重ねた姿を消滅させる意味は、どう問われるのだろうか。
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辰野金吾設計の京都烏丸通りの「第一勧銀京都支店」は、壊されてしまった。ところが、外観デザインは、もとの姿とまったく同じに復元されるそうだ。これに対して単体としての保存問題が問われているが、では、都市風景の保全としてはどうとらえられる事件なか。
神戸の大震災の後、いくつかの近代建築が復元され、修復保全され、あるいは元に戻らなかった。そこには、どのような都市の論理が働いてたのだろうか。
「朝鮮総督府旧庁舎」(韓国ソウル)が、単体としては保存に値する評価の上で積極的に消滅させられたのは、国家の論理であり、都市の論理であり、文化の論理であった。これほど積極的に消滅の意味を評価された建物は、他にもあるだろうか。
橋は、古代から文化的位置づけが色濃く、固有の場所性を持つものだ。自動車交通の時代となって橋の架け替えが各地でおきているが、その保存が問われるようになって、どこか別の公園内に移すことが多いようだ。
場所性を失ってしまうのだが、地域の固有の風景として、民俗学的にも研究の重要な題材となるように、橋ほどその場所性の重要な代物はない。
簡単に移して、それでよいのだろうか。
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これらに見るように、近代以降の文化的資産の評価には、それが生きていればこそ評価の多様性があり、そこに保全の単純でない難しさがある。風景を構成する建造物を、地域の文化の資産として評価して保全するには、都市計画あるいはまちづくりとしてどうするか、それを考えたい。
(この論は、日本都市計画家協会会報「都市計画家」27号2000.7に掲載したものを、一部補綴した。010707)
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