「間」に従う      大岸文夫


 謡の稽古場は、舞台横の幅一間ほどの見所である。南庭を背に拍子盤の前に座る師匠野村四郎先生と一間ほど離れて座り、見台の謡本を開くと稽古が始まる。師匠の謡声を詩と節を目で追いながら脳裏に焼付け、張扇の拍子に合わせながら耳に残る音を頼りに謡う。
 時々、複雑で苦手とする節回しではやや強調してもらえるが、なかなか思うように謡えない。すると師匠は二歩、三歩とにじり寄り、一句一句を復唱するが、それでもと向きを変え同じ視線で連吟となり、記憶を確かなものにする。途中、シテがワキへ呼掛ける場面などでは、その距離や関係を、いわゆる「間」を意識して発声するように指導が入る。
 最後に通しの復唱が済むと、曲趣の説話で締め括られる。この一連の「間」の詰め方が正確な発声と能楽の世界へと導かれる。

 ひょんなことから能界に迷い込み、謡に励む内、稽古場の連面と佐渡の大膳神社能舞台を借り、一日稽古を行ったことがあった。
 この能舞台は、佐渡に残る能舞台では最も古く、杜に囲まれた茅葺舞台で、鏡板には珍しく老松の左上に日輪が描かれ、木立からの零れ日や吹抜ける涼風が舞台を演出しているようである。
 以来、農村に建つ素朴な能舞台の虜となり、今では各地の能舞台巡礼がライフワークとなっている。
 初めは佐渡の能舞台を訪ね、薪能にも足繁く通った。やがて世阿弥の流刑の道行を遡るように、能の里である加賀〜若狭〜近江へ、そして京、山城を経て能楽発祥地とされる大和へと、能舞台を求めて各地を往来した。近年は更に西の丹波、播磨、但馬の旅が続いた。
 意外にも、播磨周辺には江戸初期の流れを受継ぐ可能性を持つ能舞台が佐渡よりも多く残っていた。これらは江戸中期刊行の「播磨鑑」を基に、民俗学者や建築家のグループにより昭和四十年代に発掘され、「兵庫県の農村舞台」として刊行された。中でも篠山春日神社能舞台は有名で、桜吹雪が舞う薪能に大勢の能楽愛好家で賑わう。
 この能舞台は、文久元年(一八六一)篠山藩十三代藩主青山忠良による創建とされ、京間三間四面の本舞台に後座、地謡座、橋掛、鏡の間、楽屋が整い、床下に瓶が埋め込まれた本格的な様相で、国の文化財指定を受けている。しかしこの地域の能舞台の多くは、播磨灘に面する高砂、加古川、明石あたりを加古川本流域から支流を遡る地域の鎮守に創られ、本舞台の広さは一間を六尺五寸または六尺三寸とした京間による二間半四面や二間四面と小振りである。

 平成十五年四月、丹波に程近い三田市大川瀬住吉神社において、十年毎の薪能が能舞台修理竣工披露を兼ねて開催された。その前年、解体修理で骨組みが露出したところに遭遇した。床下には音響効果のためか、径三尺程の木製の樽が数個伏せて置かれていたが、工事中の写真からは樽が消え、その行方が気になるところである。薪能当日は日差しが強く、拝殿と能舞台間の花道を避けて七尺四方に縄張りした村落毎の桟敷席に、大勢の氏子衆が寄合い能を堪能していた。
 なぜこの地域に小規模な能舞台がこれほど多く創られたのか、歴史的な検証は今後の論及を見守りたいが、関が原の役後、姫路城に入封した池田輝政が築いた龍野、高砂、三木、明石などの城下において、水運や新田開発が、村落の鎮守での神事能を誘発し、能舞台建設の原動力となったのではないだろうか。

 私見だが、能舞台広さは、世阿弥の伝書「花鏡」にある
 『大事・大庭(おおにわ)の能に出くること、上手の習いなり。小庭(こにわ)・片(かた)脇(わき)などに出で来る能は、下手の習いなり』
と、神事での晴れ舞台や地方興行での様子が記されている。
 享保六年(一七二二)観世太夫が江戸幕府に提出した「書上(かきあげ)」では
『大場(おおにわ)三間四面中場(なかにわ)二間半四面小場(こにわ)二間四面』
とあり、地域性や社の規模、場(にわ)の広さ、役者の力量などにから「間」を宛がったと考えるのが妥当であろう。
         (おおぎしふみお・日本工業大学建築学科講師)

注:本論は「国立能楽堂 第282号」(独立行政法人日本芸術文化振興会、平成十九年二月七日発行)に掲載した。大岸文夫氏は、当サイト管理者とともに野村四郎氏の素人弟子の一人である(伊達美徳)

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