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100キロウォーク伊達レポート&古田スケッチ

奥能登−漁村と山村を歩きつつ考えた
   (伊達レポート 文・写真:伊達美徳)

 ガタガタみしみしとゆれる、地震だ、大きい。余震もきた。
 能登半島の輪島市の郊外、漁村集落の民宿について、やれやれと一休みしていた。大きな2階家は、古くて2階の客が歩くとみしみしがたがた足音がする。
 音だけではなくてゆれたので、これは地震だ。コンクリ長屋の上のほうでユルユル揺れるのとは違う、ナツカシイゆれ方だ。
 囲炉裏部屋のテレビを見ていると、震源は新潟といいつつ、しだいに被害が広がるのが分かる。能登は震度4だったのだ。外では防災無線放送が、津波の心配はないと言っている。
 2004年10月23日夕刻から始まった中越地震に、こうして旅先で出会ったのだった。この旅は、わが大学同期の翁12人が、能登空港を起終点にして奥能登をひとまわりする120キロの行程を、5日間かけて歩きとおす企画である。
 地震はその2日目のことだったが、次の日から歩いた漁村や山村を、はからずも災害の視点から見る目もできたのだった。


1.農山村は消えてゆくか

 歩いて街を出ると人家は切れ、田畑の中を行き、山間に入る。谷奥の小さな集落を抜け、山あいの道を登りきると、え、こんなところに、と、思うところに田畑が広がって小さな集落が登場することがよくあった。
 農林業で暮していけるのだろうか、街に働きに行っているのだろうか。
 ある山村では、道端に老女(この言葉は語感がよくないので以後「」(おうな)ということにする。同様に男のほうは「」(おきな)といおう)がひとり、手押し車を前に座り込んでいた。あるいはまた、林のなかにぽつんとある大きな農家の庭先から翁が一人、こちらを珍しそう眺めている。たしかに歩く人は珍しいに違いない。
 大きな立派なつくりの家が、田畑を前に山林をうしろにして散在しており、典型的な美しい農村風景だが、果たしてこの村はいつまで維持できるのだろうか。
 現に、歩く道のところどころに廃屋があり、そのまわりを仔細に眺めると、そこここに住家あるいは田畑がかつてはあったとおぼしき平地があり、今は雑草地になり林になっているのであった。確実に山村集落は消えつつあるのを、あちこちでこの目で見てきた。
 能登には有名な千枚田と名づけられた棚田がある。海に向かう斜面を何段にも切り刻んで水平面を作り出し、そこに水をためて水田を耕作してきたのだ。その稲作への情熱的労働は、いまや平地においてさえも生産の場としては輸入食料におされて成り立ちにくい。棚田は今では文化の伝承の場として、ボランティアの手になる維持らしい。
 高齢化して減少する集落人口、流通経済のための生産手段の断絶は、山村を成り立たせない。それはもう止めようがない社会現象かもしれない。
 2004年夏と秋の豪雨、台風、地震は、そのような山村を襲った。道路崩壊で孤立する集落、大きな半壊住家で孤立する老人、水没した泥だらけの農地など、山村集落の復興はできるのだろうか。
 これはある種のタブーであることを承知で言うが、この際、集落ごとの住み替えをしてはどうか。もっといえば、高齢化してから個別に集落を離れるのはいろいろと難しいだろうから、50歳代から積極的住み替え政策をはじめてはどうか。

2.漁村は持続するか

 以前に若狭をつぶさにまわって、農村は美しいが漁村は醜いと感じて書いたことがある。ところが今回、能登では美しい漁村集落に出会った。輪島市内の西のほう、大沢上大沢である。
 日本海の自然海岸に切り立つ崖を削ってつくった道を歩きに歩いていくと、岬をまわりこんで入り江を見下ろす中腹部に出た。入り江のなかに港があり、その向こうの谷間の平地には漁村集落が見える。入り江に注ぐ川が作った細長い三角平地に、黒い甍の屋根が集落をなしている。
 その海側に面する道沿いには、防壁のような囲いがめぐらされている。近づいて見れが、竹、笹、細い材木を組み合わせてつくった高さ3メートルもありそうな高い垣根である。それはさぞや厳しいと想像する日本海からの北風を防ぐ役目を持っていることが、一目で分かる。
 バス停で嫗が3人いたので、これはなんというのかと聞けば、『間垣(まがき)というのよ。テレビにもよく出るよ』と答えてくれた。そんなに有名なのに、おまえは知らないのかっていう感じだが、テレビを見ないこちらは答えようがない。「間垣の里」なる看板もあり、それなりに売り出しているらしい。
 自然の素材を使うそれは、確かに美しいし、きちんと手入れされて生きている。間垣のうしろの集落も、なかなかに立派な家々であるのが、若狭の漁村とは違う。
 それは奥能登の日本海からくる北風に対抗するためには、貧弱な家のつくりでは成り立たないのかもしれない。
 今回、農村の消える様子は見ることができたのだが、漁村のそれは発見できなかった。漁村は、農村にはない持続性を備えているらしい
 農村集落が拡散的であるの比べて、漁村は集約的に密度が高く家が配置されるのは、その生産構造の違いだろう。
 生産の場と生活の場を結ぶ漁港という共用の拠点、海という生産の場も共用であり、漁村は農村と比較して共用性が非常に高い。
 共用性の高い空間が生産の基礎にあることは、共同社会が営なまれる状況にあるということだろう。それが地域社会の持続性を保障しているのかもしれない。
 その前に、農業が国際的な食料輸入攻勢のなかで後退を続ける状況にあるのに比べて、漁業はその危機にさらされていないこともあるのかもしれない。このあたりのことは経済額や社会学の方面に聞きたいことである。
 ひとつ確かなことは、漁村は海を資源として観光産業が成り立つが、農村は田畑を資源してそれは難しいことである。今回の旅の5泊のうち、山村に泊ったのは1回だけだが、そこはグリーンツーリズムの政策投資が入った公共的な宿であった。漁村では民宿が成り立つが山村では難しい。
 ところで、地震が起きたら、漁村のほうが問題は大きいと気づいたのは、津波である。山村には津波はないが、道路寸断と言う問題がある。漁村には道路寸断でも、船便という手段がある。だが、津波はそれ以前の問題である。
 社会経済的には、農村は消えて行き、漁村は持続するらしいが、災害問題は悩みが深い。

3.杉植林は手入れされ続けるか

 能登の植生はブナクラス域らしく、歩く道のまわりの斜面や丘陵は、スギ植林とブナ林である。スギ植林はよく手入れされている様子である。
 見事にそろう樹冠の海、伐採中の山、枝打ち中の林、苗木を植樹した皆伐跡の山など、多様な山林の様相を見ることができた。全国各地を歩くと、手入れをしない放置されている植林も多いなかで、能登では林業がまだ生きているようだ
 大規模な皆伐跡の苗木を植えたところに建っていた事業の看板に、土地の持ち主は製紙会社だが、植林事業の負担者は農水省関連の独立行政法人となっていたのは、いまや製紙会社のような民間でさえも、生産林としての山の維持ができなくなったこと示しているのだろうか。
 植えてから伐採するまでの収益率が、金融利率よりも安いのが林業を維持できない基本だといわれるが、今やこれだけ金利が安くなっても、林業が息を吹き返すのは難しいのだろうか。
 林道が、集落から山地まで網の目のようにはりめぐらされている。たいていの林道は舗装されていて、車の通行を前提として整備されている。
 その道を歩いていて、林道は、実は生産のための道としてばかりではなく、集落を結んで生活道路になっていることに気がついた。農道も林道も、つくる名目は生産道路だが、実は生活道路なのだ。
 その林道のところどころに、がけ崩れが見られる。横たわる大木や岩石をまたいで越したところもあった。先日の台風の爪あとだろう。
 この夏、福井県鯖江市の河和田盆地で起きた豪雨の大水害直後に現地を訪れたが、周囲の山地のスギ植林のなかに、まさに巨人の爪でひっかいたように土砂崩れ筋が赤く、いくつも見えていた。
 聞けば、中腹の林道が水を集めて川となり、それが脆い谷筋をねらって一気に流れ込み、ふもとの集落を襲い、次いで盆地中心に集まって街を浸したのだ。
 能登では林道の新設工事中のところも歩いた。見れば、斜面を切り崩した土砂や伐採樹木類を谷に落とし込んでいて、不安定な地形をさらに不安定している。
 林道は生活道路でもあるが、つくり方によってはそれが生活を襲うこともあるのだ。このあたりが、自然、生産、生活の折り合いの難しいところだ。
 見事にそろったスギ植林ともうすぐ紅葉しようとするブナ林の混じったモザイクの山々は、能登の美しい風景の源泉であるが、その底には鬱勃たる人々の営みがある。
notoHURUTA041025.jpg (190980 バイト)
古田スケッチ「穴水の山中にて」
 画:古田淳一郎
 2004年10月25日 
  (クリックで拡大  右の写真と見比べてください)


4.歩くことから見える地域像

 予定では、1日に30KMも歩くことになっている。
 このあたりの人はほとんど歩かないから、道を聞いても、車で行くことを前提にして教えてくれる。「いや、歩くのですけど」というと、困惑させてしまうし、教えてくれてもかなりいい加減なことになる。現に穴水町のすし屋のおやじは、空港まで4キロ、1時間で行くよ、といった。実は12キロもあるのに、。
 道を訊ねて一番困ったのは、初日の歩き出しの空港でのことである。観光案内所で地図を出して、自動車の少ない旧道を行きたいといっても、まったく話が通じない。空港から歩いて出る道が分からないのである。珠洲道路を車で行けという。空港から歩いて出るなど狂気の沙汰らしい。
 結局、空港を作ったときに旧道へは連絡できなくしたことがあとでわかったのだが、そんなことは道を聞いただれも知らないのだった。
 しかたないから、自動車専用道ではないが歩く人間など予想もしていない珠洲道路の路側帯を、排気ガスを浴びながらテクテクと歩くのであった。
 そのうちに集落を結ぶ道に入ると、ほとんど車は通らないから、これは快適である。だがこんなに車が通らないのに、こんなに立派に舗装しているのはどうしてだろう、などと思う。
 集落の家々には、必ず車庫がある。茅葺屋根が崩れて傾きそうになっていても、そばに車庫があり、ピカピカの車がある。畑仕事にも山仕事にも自動車は必需品である。
 だがいつか運転できなくなる日が来ることも、忘れてはならない。そのときはどうするのだろうか。
 あまりにも人が乗らない奥能登の電車はついに廃止されてしまったが、バス路線はそれなりにある。時刻表を見れば、1日に5本程度、さてだれが乗っているのだろうか。
 一度だけ、門前町のバスセンターから宿まで路線バスに乗った。足が痛くなったので、サボリコースにしたのだ。バスの運転手の親切なことよ、なんと特別に宿の前に停車してくれたのだ。
 それほどに乗る人が少ないということか。そのときもわたしたち3人のほかに2人の地元客が居ただけであった。
 山道を登ってわずかな客を運ぶ路線バス、それは地域の肢というにはあまりにか細い。だが、地震問題を考え合わせると、路線バスが通る道だからこそ日常の生活道路として維持され、災害時にもその確保がされるだろうという安心感があるに違いない。
 ところが、その道が災害で寸断されたときには、人は歩くしかない。日常的に車にしか乗らない人が、災害時に果たして歩けるのだろうか。
 冗談では、都会人は鉄道駅でむやみに歩かされるので、日常的に歩く訓練をしている、いざとなったら田舎人よりも歩いて逃げる能力がある、というのだが、今回の中越地震ではどうだったのだろうか。歩く能力の高いことが、災害から人を救うもっとも近道かもしれないと思ったのである。

            ****
 最後の日は、ざんざん降りの雨のなかを歩いて能登空港にたどりつけば、空港ロビーをわがもの顔に占領した翁どもは、長椅子で着替えをし、手すりに濡れ衣服や雨具を干し、濡れた靴と足を乾かすために裸足で歩き回り、土産売店の売り子にあきれられたのであった。
 これとても、雨に濡れて歩いてやってくる人など予想もしない空港設計になっているからだ。
 わたしは実は、一昨年夏に発病した肢の病が癒えたのが今年の春だが、それが本当に治癒したのかどうかわが身で試す目的が、この旅にはあった。
 結果は、歩けたのだ、一時は不治の病と診断されたのに、。
 それにしても1日に30キロ歩くのは結構くるしい。わたしはちょっとサボリコースにして、毎日ほんの一部だけをバス、タクシー、宿の送迎車に乗った。
 いつもビリになるわたしの前に、飴玉、チョコ、紅茶、ドライフルーツなどを馬のにんじん代わりにぶら下げて励ましてくださった畏友たちに感謝し、とくに企画した原さんには2002年春房総100キロ以来のお礼を申し上げます。(041107)
●関連サイト能登路ウォーク(楜沢融)

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