東京街並み探検      文・写真伊達美徳

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●東京風景●日本橋から銀座へ  2008年9月7日  伊達美徳

1.高架道路こそが日本橋かも
 久しぶりに銀座尾をぶらぶらした。今でも銀ブラという言葉を、どこかスノッブな感じで使うのだろうか。
 日本橋の上空の高架道路が景観として邪魔だ、撤去して昔の姿を取り戻そう、という運動はいつごろ始まったかか知らないが、民間レベルではいろいろと検討されていたようだ。
 4,5年前だったか、小泉純一郎首相とその都市計画ブレーンの伊藤滋さんとが意気投合して、にわかに表舞台の登場して専門家の委員会を作って、ナショナルプロジェクト的な様相になった。
 それはソウルでチョンゲチョンができて評判になったので、隣に負けてちゃられないって、いつも起こる外圧気分もあったような気もする。もっとも、石原都知事は鐘ばかりかかる、橋ならどこかに移せばよいと、渋い顔だった。
 そうこうしているうちに、1000億円くらいかかるプロジェクトとして、なんだかお花見とお祭りの場のような河の絵がついた整備計画が発表された。景観復元は、高速道路を地下に移して、地上の超高層群のならびたつ、壮大な都市再開発計画となっていた。
 ところで、小泉さんがいなくなった今、あれはどうなっているのだろうか。
 日本橋については、わたしはこのサイトのほかのところでも書いているが、このところ短絡的にとっぱらいさえすれば景観はよくなるって、お調子ジャーナリズムに載せられた論調ばかりが多いのが、どうも気に食わない。
 あの高架道路(1960年頃)を造った時代は、ちょうど今の中国と同じで、発展途上国としての日本の誇りの風景だったのだ。どろどろヘドロの真っ黒な日本橋川(今もそうか)のなかで、カーンカーンと杭打ち機の音が鳴り響いて、あの高架道路の基礎杭を次々と打ち込んでいた風景を思い出す。
 そして空中を飛ぶ高架道路は、まさにH.G.ウエェルズのSFというか手塚治虫の漫画というか、日本にもアメリカのような未来が来た、という感じだった。そのみんなが高揚した時代の評価をどうしてくれるのか。
 今の中国を哂うようにその時代の日本を哂うのは簡単だが、かつては日本橋の高架道路はまさにわたくしたちの中国であったのだ。視点を現在だけにすえて物事を見ては短絡過ぎる。単なる技術(景観もその傾向にある)だけで見て、歴史社会の視点を忘れてはいけない。
 あの二つの橋の重なる姿は、20世紀近代日本の発足と戦後日本を築いた高度成長との合作であり、時代のランドマークとしての象徴的景観なのである。
 問題があるとすれば、日本橋(1911年)の古典的姿に妙に媚びて、なにやらオイラン頭的装飾を施した高架道路のつけたりデザインにある。昔は単に鉄の長い箱が無愛想に空中にあっただけだったから、日本橋の妻木 頼黄のデザインはそれなりに生きていた。
 ところがあるときから、鉄の箱の上になにやら日本橋のボキャブラリーの似非装飾がいろいろくっついてきた。あまつさえ、橋の真ん中に立っていた道路原標地点を示す装飾照明ポールは、その上の高架道路に取り上げられてしまった。
 高架道路日本橋が、元祖日本橋をのっとりつつあり、東京のどこにでもあるどこかあいまいな都市風景となりつつある。
 まあ、考えようによっては、そのへたくそな装飾そのものが、時代の象徴的景観でもあるといえよう。へたくそと思わない人々によってデザインされたとしても、。
 そして今では、高架道路が日本橋であって、その下になんだかしょぼくれた石橋があり、麒麟が虚しく吼えているのである。
 
2.日本橋から京橋へ
 日本橋から南を見れば愛想のない超高層が建っている。ところが日本橋交差点の南から見ると、おや、この建物はひん曲がっているよって感じのカーブしたガラス面が、これまた傾く壁にに寄りかかっている超高層だ。
 ここには江戸時代から白木屋という呉服屋があり、近代は百貨店となって三越と競争していたが、2000年に閉店したその跡である。(→白木屋が消えた
 1928年に建て直して竣工した白木屋は、石本喜久治設計のモダンデザインは、最先端流行建築だったといってよい。単にモダンだけではなく、金ぴかで商業建築のコツを押さえてもいた。石本の下で図面を描いたのが山口文象であり、創宇社建築会の若い連中だった。
 まあ、時代の先端を行くデザインが好きな地区ならば、このような曲がり具合のビルもよしとしようか。ただ、写真を撮るときに、カメラを水平に構えるのがなかなか難しい。
 日本橋から呉服橋にちょっともどって、(旧)日本相互銀行ビル(1952年)はあるかしらとみたら、消え去っていた。撤去工事の板囲いに「監修 前川国を建築設計事務所」との看板がある。
 たしかのこの建物は前川國男の現代建築技術的冒険の傑作のひとつであったが、取り壊しを監修するというもの、考えようによってはなかなかできないことである。たいがいは設計者がいらぬうちに撤去されるものなのに、、。跡に建つビルも前川設計なのだろうか
 中央通りから戦前からの風格ある建物は次々に消えていっているなかで、日本橋では丸善が建替え、その前の高島屋(1933年)は健在である。三菱UFJ信託銀行 とある新ビルは、もとの日本信託銀行(1927年)だろうか、様式建築を建替えて、入り口周りに申し訳程度にオーダー柱など貼り付けているのがいじらしい。
 八重洲通りまで来て、道路の真ん中に立って東京駅八重洲口方面を見る。大丸百貨店のあった鉄道会館(1954年)はまだ建っているが、多分取り壊し中であろう。
 1954年に8階建てでできて、1968年に12階建てに増築し、このあたりでは、いやその時代では日本で一番の高層ビルだった。
 思い起こせば、高校の修学旅行に東京に来たとき、工事中だったが竣工直後だったのか。取り壊した跡にどんな風景が出現するのかしら。
 八重洲通りを風の通り道にして、皇居の森と東京湾を吹き抜けさせるために壊すのだとかいうもっともらしい話があるから、ここから皇居の森が見えるようになるんだろうなあ、ほんとかしら、。
 京橋では明治屋(1933年、曾禰中條建築事務所)がもう唯一の戦前のビルである。竣工はである。今は北隣が空き地になっているのでよく見える。
 京橋駅に入るのを忘れたが、ここも日本で始めての地下鉄らしい懐かしい風情を持つ駅である。日本で始めてつくった地下街だったとか。

3.銀座1丁目から7丁目へ
 京橋から高速道路をくぐったところに、銀座1丁目交番がある。たしか山下和正さんの設計だったような気がする。もう30年位前に建ったかしら、 烏帽子をかぶったような奇妙な格好なのだが、なんだか妙にクラシックに見えてしまうのが不思議である。
 おや、銀座通りは歩行者専用となっている。ずっと前に休日は歩行者天国って、やっていていつだったか廃止になったと思ったが、復活したのであったか。
 銀座2丁目のマロニエ通りの有楽町よりにヘンなビル発見。酔っ払いビルというか蛇使いのコブラビルである。その向こうには、あばた 面のような窓のビルがある。どちらもモード・ファッション屋らしいが、東京にまたもバブルがやってきた感じがする。
 たしかこのあたりに、クラシックな東邦生命ビル(1931年)があったような気がするが、消えた。
 3丁目の松屋は建て替えではないが、すっかり衣装換えしておしゃれなガラス張りとなっている。 元がそれ程様式建築ではなかったから改装しやすいか。
 4丁目の三越は近いうちにたて直すらしいから、この風景も変わる。
 和光(1932年、渡辺仁)はまさか建て直さないだろうが、網がかかっているのはどうしたのだろうか。三愛は健在である。
 4丁目交差点から有楽町方面を見ると、昔々、大きな地球儀みたいな屋上広告を思い出す。たしか亀倉勇策デザインでネオン管が美しく、森永キャラメルと書いてあったような気がする。
 6丁目の松坂屋は健在だが、外装は大きく変えている。このビルは近々建て直す計画があるらしい。 初めは超高層計画だったらしいが、銀座の地元から猛反対で、5〜60メートルくらいの高さになるようだ。
 つまり銀座には、丸の内のような超高層は建てないって「銀座ルール」があって、そこが老舗の街の矜持なのであるようだ。まあ、いま銀座とオリを見通すと、変にでこぼこしていなくて、まとまっていることはたしかである。それをよしとするか、ダイナミックな変化のある景観がよいとするか、地域のひとたちによる選択の結果である。
 7丁目のライオンビアホール(1934年、菅原栄蔵)は、外はどうってことはないが中に入るとすごい空間である。
 この日は友人先輩たちと、久しぶりにここでビールを飲んだのであった。あっ、このところ 尿酸値が高くなっていたのを忘れてた。
 こうやって眺め渡して分かったのだが、いま残る戦前のそれなりの建物は、みな、関東大震災の跡に復興として建てられたものばかりである。東京の風景は、よかれしかれ関東大震災と太平洋戦争の戦災という二つの大災害がつくり上げていることが、いまさらに分かるのである。(08091 1)


●東京風景2008年2月25日
 久しぶりに東京に行ったので、おのぼりさん気分で街を見物してきた。最近は超高層建築でも1年くらいで建ちあがるようで、ちょっと見ないうちに東京の風景はどんどん変る。
 10年も前には、超高層建築を目印にしてあのあたりはどこそこと地名をいえたが、もう超高層だらけでどこがどこか判断しにくい。
・東京駅周辺は変りつつある
 まずは東京駅に降りる。駅の西、丸の内側は丸ビル、新丸ビル、工業倶楽部ビル、オアゾ(旧国鉄本社跡地開発)
などで駅前風景がかなり変った。(→2008年写真)  (→1987年写真)
 ところが東の八重洲側も負けていないほどに変りつつある。1954年に6階で建て、68年に12階建てに増築した八重洲駅ビル(鉄道会館)は、今は閉鎖して取り壊し中である。その南北に並んで新超高層ビルが昨年暮にできて、鉄道会館にいた大丸百貨店はそのひとつに移って営業している。鉄道会館を壊してからそのあとに大丸を一部増築し、駅前広場も少し広げて再整備するらしいから、まだまだ景観は変る。(→写真)
・秋葉原から御徒町は変らない
 秋葉原に3年ぶりくらいに降りた。東のほうは筑波新線が入ってきて、大型電器点のビルが建って、駅の風情もどことなく垢抜けてきた。
 西のほうは、電気街と線路との間にあった青果市場跡は、大きなオフィスビルになっている。電気街は相変わらぬごてごてした看板だらけのビルが立ち並び、小さな市場みたいなパーツ屋も人が多く、この街はあいかわらず元気に見える(→写真)。噂に聞くメイド喫茶の呼び込み嬢が、あの格好で道に立っていた。
 電気街から北へ歩いて御徒町へ向かう。鉄道の東の宝飾街は、これが宝石の店かと思うような安ッぽい景観が続くのが不思議である。アメ横は、ガード下の雑貨街も食品街も健在で、アジア的な景観がそれなりに楽しい。(→写真
・上野公園はきれいさっぱり
 上野公園は冬枯れであるが、それにしてもなんだか随分さっぱりしている。随分前から公園名物?だった林の中の青ビニルシート覆いのダンボールハウスが、今は探さないと見えないくらいに少なくなっている。寒いからだろうか、それとも撤去が進んでいるのか。
 見たところあちこちに縄が張ってあり、やたらと立ち入り禁止看板があるので、撤去というか退去というか排除措置が進んでいるようだ。
 旧東京藝大奏楽堂のあるあたりの林の中は、2年前までは一種の集落を形成していた。どうやってこの集落が成立していったのか興味が湧いてきて、誰か研究していそうなものだと気にしていた。ところが、今は中低木が伐採されて高木だけになって、樹下はきれいさっぱりの芝生となり、アートオブジェが建ったりしているから、撤去作戦があったのだろう(→写真)。あの集落住民はどこに行ったのだろうか。
・巣鴨地蔵通りは変らない
 鶯谷まで歩いて次は巣鴨で降り、地蔵通りからお地蔵さんを覗いてきたが、ここは10年ぶりくらいだろうか。ばあさんの原宿といわれる賑わいのある商店街はあい変らずで、地蔵さんに水をかけて洗う御身拭いをやる女性たちの姿も相変わらずであった(→写真)
 変ったようでいて、生活の場の風景は実は大して変りもしない東京を見たのであった。


●東京スカイライン2008年1月10日(木)
 用あって久しぶりに新宿の都庁舎に行ってきた。ついでに45階の展望室に登ったが、ここは10年ぶりくらいか。
 1階のエレベーター前で、荷物チェックがあるのが前と違う。一般事務階へはチェックなしだから、尻ぬけの感もある。
 展望室の四方の窓から東京のスカイラインを眺めると、東と南方面は高層ビルが多く建てこんできている。西と北方面は、部分的には高層ビル群があるが、東と南に比べて概して低層であることが分かる。
 東の窓からの眺めは、日本橋、丸の内あたりから六本木あたりまで超高層建築のスカイラインが続いている。(写真1)
 超高層からの眺めといえば思い出すのは、例の2001年9月11日に崩壊したニューヨークのWTCビルである。20数年前だったか、その最上階の展望室に上がったが、ガラスが天井から床まであったので、隣のフィナンシャルセンターの上をヘリコプターで飛んでいるような気分になった。
 別のときだが実際に、足の下までガラス張りのヘリコプター操縦席の隣に乗って、ニューヨーク空中遊覧もしたことがある。わたしは閉所は苦手だが高所は平気なので愉快だった。都庁の窓は腰から上で、つまらない。
 シカゴのシアーズタワーの展望室からの眺めは、道路パターンや高層建築と低層建築の土地利用ゾーニングなど、都市計画というか街の構造が明快に分かるのが、楽しかった。
 東京都庁から眺めても東京の街の構造はさっぱり分からない。はてしないガラクタが広がる感がするが、それが面白いといえば言えるのだ。

 新宿西口は超高層建築群の元祖の街だったが、ここしばらくは特に目あたらしいものはなかった。ところが今日見たら、駅のすぐ前に、デザイン学校の超高層が奇妙な形で建った。悪く言えばテープぐるぐる巻きビル、優雅に言えば白い竹かご編みビルか。この設計者は丹下健三事務所と現場に書いてあるから、氏の遺作だろうか、息子か弟子の作品だろうか。  
 東京都庁舎のスクエアーな重厚さと比べると、そのふくらみカーブといい白い竹かごといい奇妙な軽薄さが漂う。二つ同時に目に入ることもあるから、余計に奇妙に見える。このところ建築デザインに軽薄さ(つまり“軽やかさ”ですな)が流行のようだから、超高層もそうなったか。(写真2)


●景観と財産権のはざまになにがある?ー国立と鎌倉 2002年5月5日
・国立の大学通りで
 「景観と財産権、綱引き/東京・国立マンション紛争/住民・行政と業者が衝突」との新聞見出しが踊っている(朝日新聞2002年4月30日朝刊)。
 東京都国立市は、一橋大学のある学園都市である。そのJR国立駅前の大学通りは、桜や銀杏の並木が素晴らしい。この道に面して最近、高さ55メートルで建物幅もかなり長い集合住宅(いわゆるマンション)が建ち上がった。
 これが建つだいぶ前から市民と事業者の間で、並木より高さを低くせよ、いやそれでは採算が合わないと、紛争があり話題になっていた。
 その市民運動のリーダーの女性が規制派市長当選するや、事業者は建築確認申請の駆け込み、市長は高さ規制の地区計画を制定、市民と事業者両者訴訟合戦と、有名な争いになっている。
 慣習的に既に高さ制限ありとする論、事業者の財産権の侵害という論、法手続き論争も訴訟によって勝ち負けが分かれるし、なんだかよくわからない。
 私は現地に行ったこともないが、もう売り出しているらしい。
鎌倉の若宮大路で
 他所のことながら気になるのは、私の住んでいる鎌倉市にも、そのようなことが起きないという保障はないからである。八幡宮からまっすぐに由比ガ浜まで延びる若宮大路は、まさに国立の大学とおりと同じで、鎌倉の中では一番広い道だから、いつ高層マンションがたってもおかしくないのである。→写真
 今の若宮大路の沿道にたくさんあるの建物は、せいぜい4階か5階建てである。だから街を歩けば緑の山並みが見えて、鎌倉の街のエリアをはっきり認識することができる。
 しかし、これは法律や条例でそう決めているのではない。いわゆる行政の指導要綱で、この街で建築する地主や事業者たちに高さを低くするように、お願いをしてきているからである。
 そして市民も沿道の土地建物所有者も、今はそれがよいこととしているのである。
 ところでさて、鎌倉にも国立のようによそから誰かやってきて、若宮大路沿いの土地を買って、法律違反じゃないから55メートルの高さのマンション建てるぞと、真正面から申請を出したらどうなるか。
 国立と全く同じ紛争が起きるだろう。このあたりでは、4階建てでもあちこちで騒ぎが起きているだから、。
財産権の侵害はあったのか
 国立に話を戻すと、さてどちらが正しいか、と言う問題でないところが苦しい。
 事業者は、後から規制が追いかけてきて、財産権の侵害だという。法的に可能だからとて、その土地を高度利用開発をする前提の価値に対応する価額で買いとり、その投資額の回収をすることが自己の責任でない要因によって不可能となれば侵害であろう。
 その土地を売った方は、今、合併問題のある銀行だったと聞いた。買った事業者が、投資回収できないようになると、買い戻し特約でもあるのだろうか?
 売るほうも買うほうも、ここでは高度利用開発が容易に可能であると、善意のもとでの取引として、紛争は全く予期されないことだったのだろうか?
 これがもし鎌倉の若宮大路であれば、大紛争となることは目に見えている。善意の第三者の取引と見るには相当に無理が生じるだろう。
 ここで気になるのは、土地の前の所有者はもちろんのこと、くだんの開発事業者も、その財産権が他に移転してしまうことである。移転した先、つまり集合住宅を買った人たちの財産権については、どう考えればよいのだろうか?
 マンションを買った人たちも財産権の侵害を受けたのだろうか、あるとすればそれは誰から受けたのだろうか?
財産価値は下がったのか上がったのか
 景観を財産と見るとして、これが建ったことによりその土地建物の価値が低下したとするならば、集合住宅を買った人たちは価値の低下した財産物権を得たことになるが、そのことと開発事業者の財産権との関係は、どう考えればよいのだろうか?
 結果的に財産価値を下げたとすれば、その周辺地区の財産価値も下げたことになるが、それはどう考えればよいのか?
 開発事業者から言えば、高層建築ができたことにより、この地域の財産価値が高まったと解釈するのだろうか?
 財産権とは、財産の価値を保全する権利あるいは財産の価値をそれ相当に処分する権利のことなのだろうか?
 また、この建物の建築確認済みの後におきた地区計画の制定により、今後は高い建物の建築はできなくなった。この建物は建築基準法の言うところの既存不適格建築物となり、建て替え時には財産縮小を余儀なくされる。
 このことは、もしも開発事業者がこの建物をこれからも持ちつづければ、取得時の財産価値が下がったと解釈して財産権の侵害なのか?
 それとも、その規制にも関わらず高度利用ができたので、より財産価値を高めたことになるのだろうか?
 一方、建て替え時には縮小することを知りながら取得した者にはとっては、どう考えればよいのだろうか?→写真
 素朴に考えて、なんだかよくわからないことだらけである。
 とにかく分かったことは、写真を見て大学通りの風景がいびつになったらしいことである。(020505)


●江戸の名園乗っ取りに成功した汐留開発(2003年6月1日)
 近頃、東京新橋のあたりと品川のあたりが、いつもみょうに空がうっとうしい。国鉄操車場跡地の再開発が立ち上がってきたからである。
 たくさんの超高層ビルがあるのだが、どうも、それぞれ勝手に向いたり、勝手な姿でありながら、妙に高さがそろっているものだから、ただうっとうしい、ごちゃごちゃした壁に見える。
 悪名としてのペンシルビルが建ち並ぶ日本の典型的な市街地を、そのまんまに拡大した風景である。少なくとも景観としては、なんの計画性もないとしか見えない。
 2000年秋に書いた上のような乗っ取り計画がどうなったか、2003年春の過日、浜離宮に入ってみてきた。それがこの写真である。
 おお、見事に上の広告写真どおりに、いや、写真をはるかに超えたレベルで、借景というか、貸景といったほうが、それもムリヤリ押しかけ貸景に成功している。
 これでニューヨークのセントラルパークに負けない、超高層と緑の「調和」する景観を、やっと戦後58年にして日本も手に入れて、アメリカ並みになりましたな。
 写真の中央あたりのビルの上のほうには、「日本通運」と押しかけ責任者の名が堂々と書いてあるくらいだから、わが社は風景についての見識は持ち合わせておりません、という宣言だろう。
 庭園の中で、絵の趣味グループらしき数名の男女が、まさにこの風景の方を向いて写生している。ちょっと覗かせてもらったら、あら、みなさん、ビルをまったく無視した絵になっている。緑の樹冠の上には、青い空が直ぐに広がるのだ。
 風景画を描く人は、美しく描きたいと素直に思うのだろうから、やはりビル群はごく素直に邪魔な風景なのであることが、こうして証明されたのだった。
 失った公共の美しい風景の替わりに、私たちはなにを手に入れたのだろうか。ビルに入った金持ち(なにしろ億円がつく住宅だし、一流大企業ビルばかりだから)が風景を手に入れた替わりに、私たちはなにかを確実に失った。(030601)


●乗っ取られる江戸の名園(2000年10月7日)
 これから書くことは、どうも不動産屋の手の内にはめられたかと、承知の上で書く。書けば書くほど敵の宣伝をしそうだ。
 10月5日朝日新聞東京版の真ん中2ページ見開き大カラー写真、東京の名園・浜離宮庭園の池と緑の美しい風景、その上の青空になんとドドーンにょっきり超高層ビルが2本、庭園を踏んづけて"押しかけ"借景になってしまっている。→広告写真
 これじゃあもう、徳川将軍家別荘の天下の潮入り池の回遊式庭園はぶち壊し、いつの間にとびっくり仰天。
 見まわすと、新橋汐留開発の集合住宅の広告だった。写真は合成したもので、建物はまだできてはいないが、実物写真みたいだ。
 宣伝文句に曰く
『浜離宮というこの上ない借景を得て真の都市居住・・』
 うーむ、普通は、庭園のほうから借景とはいうがねえ。外から庭園を借景にして、お借りした相手方をぶちこわしにすることを、これほどはっきりと宣言しているのも、珍しい。
 それにしてもよくマア、これほど無神経な合成写真と宣伝文句がよくもまあ書けるもんだねえ。つくづくと感心している。一体どういう神経なんだろうか。
 と、思ったが、もしかしたら、これはどうも、広告した方は実に良いことと、真実思っているのかもしれない、と思えてきた。
 だって、普通ならこれほどの犯罪的行為を、三菱地所以下8社のそうそうたる業界リーダー会社がそろって、これほどあっけらかんと正面きって宣伝するはずがないですよねえ。
 普通なら、こうなることは分かっていても遠慮して、これほど堂々と写真にしませんな。
 この駄文を書くと、ますます宣伝の片棒を担ぐ羽目になるのかなあと、心配になってきた。 と、思いながら広告をみまわすと、あった。
 宣伝文句の続きに曰く。
『あらゆる価値観が大きく変わろうとしている、、、』
 ふーん、あらゆるねえ、価値観がねえ、変わるんですかねえ。
「普通なら、」とくり返しているこちらが遅れているらしい。いやもう恐れ入りやした。 →関連写真(乗っ取られた名園)(001007)


●白木屋が消えた(週まち掲載 2000.1)
 昔、東京日本橋のそばに、「白木屋」という有名な百貨店がありました。江戸時代の呉服屋から続いた、三越や松坂屋と張り合った老舗でした。
 先先週の関東の各新聞に、東京・日本橋の東急百貨店だった建物を壊して、跡地にオフィスビルを建てる計画が、完成予定写真つきで出ました。
 その壊されようとしている建物が、白木屋のなれの果てです。戦後高度成長期に新興鉄道資本にのっとられて東急百貨店になりました。それも去年閉店して、300年以上の歴史を閉じました
 さて、その建物ですが、東京駅みたいに、だれも、なんにもいわないのは、なぜでしょうか? 実は建築の世界では結構有名なのですが、建築家さえも、言ってないようです。→写真
 そりゃ、東京駅みたいに派手じゃないからだろうって? そうですね、なんだか灰色のコンクリ板がはりつけてある、なんの変哲もない建物です。
 でもね、あの建物がはじめてできたのは1928年のこと。そのときは大変な評判のデザインでした。あんな格好がどうしてって? そうじゃないのです、あのコンクリ板は1957年に、全面改装してからの姿なのです。
 戦前の姿は、クラシック様式の三越の向こうを張って、外はインターナショナルデザインとかいって直線とガラスで構成しながらも、入口やら内装は金ぴかタイル貼りのお飾り過剰のアールデコ風やら、まあ、いかにも商業建築らしくあれこれと派手な俗受けするデザインでした。設計は石本喜久治という有名な建築家。
 では、それを何ゆえあんな愛想のないデザインにしたか。そこが建築界の面白いところで、1950年代頃は、あのようなある種の純粋さを求める建築デザインが主流だったのです。今見るとえらく無愛想なデザインを賞賛した時代があったのですね。
 改装デザインをしたのは、これまた有名な建築家・坂倉順三です。けっこう、そのときも評判になりましたが、建築界だけのことで、さすが俗受けはしなかったですね。
 面白いのは、裏通りから見上げると、昔のままの姿が見えることです。でも、えらく無愛想な純粋に柱と壁だけの構成なので、これも戦後の坂倉デザインかと見間違うのですが、実は裏は戦前からの姿なのです。
 これが手抜きじゃなくて、はじめからその意匠なのですが、どうしてそうなのかを語るのも結構面白い建築デザイン史になるのです。これは専門的面白さなので別の機会にします。
 ついでながら、白木屋の百貨店としての歴史もその建物の歴史とともに、数奇な運命をたどっています。例えば、白木屋火事という、日本女性下着史に大きな影響を与えた大惨事がありました。
 白木屋のっとり事件も、横井英樹や五島慶太など、時代の怪しげな猛者どもが登場して、新聞沙汰になって面白かったですね。
 さてと、そんな白木屋がなくなってしまうのですが、今の建物を見ても面白くもないので、だれもなにもいわないのだろうと思います。
 でも、あの建物の中に込められた歴史も、東京駅に負けないものがありそうだなあ、なのに、この新築予想図は白木屋の歴史をなんら感じさせないデザインだなあ、このネオクラシックスタイルは三越との競争に負けて三井軍門に下った象徴だなあと、思ったのでした。
 わたしは去年の閉店売り出しのときに、この建物にお別れにいってきました。
 補足:テレビを見ていたらこの日本橋東急跡地開発の絵が出てきた。以前とはなんの関係もない姿の建物らしい→写真。(2001.4.8)

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