●横浜B級観光ガイドブック横浜の戦後復興の残照を関外地区に見る2010年4月1日
ついに完成、ご近所探検ガイドブック決定版、これさえあればB級横浜・関外の戦後が分かる
●横浜ご近所探検隊が行く(その32)街なか高齢者施設
2010年2月25日
●横浜ご近所探検隊が行く(その31)都市はきれいごとだけではない
2010年2月17日
●横浜ご近所探検隊が行く(その30) 都計審委員全敗記録更新
2010年1月24日
●
コピー再現時代 2010年1月22日金曜日
横浜球場のそばに、ストロングビルという、ちょっとモダンな戦前の3階建てのビルがあった。2007年に壊されて、跡地にホテルが建った。この1月に開業らしい。

表から見ると、1階から3階まではもとのストロングビルのファサードをコピーして再現している。
もとのビルとの格好の違いはよく分からないのだが、どうも階高が高くなっているようである。大きな違いは、もとのビルは道路境界線まで一杯に建っていて、一階は5段くらいの階段を登って入るようになっていたが、新ビルの1階は道路面と水平、外壁が道路から5mくら引いていることだ。
ビルのコピー再現は、本町通りの銀行だったビルを共同住宅の下に持ってきている例があるし、国の合同庁舎も蚕糸検査所を低層にコピー再現だし、横浜には多くある。
伊勢佐木町の商店街にある松坂屋も閉店してもう1年以上になるだろうか、これもそのうちに壊して建て直すが、ファサードの一部をコピー再現するそうである。
いまや建築ばかりではなく、牛や馬はクローンとかでコピー再現が可能になっているから、世の趨勢だろう。そのうちに人間もそうなるか。
●横浜ご近所探検隊が行く(その28)斜面地共同住宅
2010年1月11日月曜日
街の中を車で走っていたら、建物の陰からチラッと、異様に明るく真っ白に輝く巨大な丘が見えた(右の上の写真)。
とまってしげしげと眺めると、それは大きな丘の斜面におおいかぶさって斜めに建っているというか寝転んでいる共同住宅ビルが、西日を浴びているのであった。
後に見えるふたつの鉄塔は、その丘の上に建っているらしい。
丘陵の斜面の緑をそっくり剥ぎ取ってしまって、住宅群に置き換えられた丘には、まるでたくさんの切り餅のようにバルコニーが積み重なっている。中央に青い包丁が立てかけてあるのは、斜め昇降エレベーターらしい。
また別のところでも斜面地共同住宅に出会った(下の写真)。こちらは隣に緑の斜面があるので、元はどんなところか分かる。
斜面地は相対的に地価が安いから、土木や建築の工事費がかかっても採算にあうのだろうが、こんなのばかりになると風景は一体どうなるんだろうか。
●参照→崖地はめ込み共同住宅
●横浜ご近所探検隊が行く(その27)日の丸デモ・鉛筆ビル
2009年12月28日月曜日
近所の方のビル建設計画のお知らせが郵便受けに入っていた。図面を見て現地と照合すると、左右後と三つの鉛筆ビルにはさまれた小さな敷地に、鉛筆ビルを建てるのである。裏になる隣の共同住宅は完全なる日陰になるが、仕方ない宿命であるとしてよいのかしら、。
わたしが住んでいる横浜都心部にある共同住宅の周りには、大きな敷地の太目の集合住宅ビルも多いが、狭い敷地の細身のっぽビル、いわゆる鉛筆ビルがたくさんある。
これらのたいていは土地を持っている人がビルのオーナーであるらしく、下に店舗や事務所、一番上にはそのオーナーの住宅、中間に共同住宅というのが典型的な例である。
肩を接して建ち並ぶから、住宅の日照は道路側だけに頼らざるを得ない。近所よりは早めに建てて隣にむいて窓をあけていても、そのうちに建ち並んで日陰ビルになる。
じつはわたしの住む南側の道路向こうは、低層ビルと駐車場である。ここにいつ高層ビルが建つだろうかと、びくびくしている。そのときは引っ越すしかないが、借家だからその点はちょっとは気楽である。
その北側で建設中のままで止まってしまった高僧共同住宅ビルは、いまだに再開の様子は見えない.
参照→092隣に迫る大不況
●横浜ご近所探検隊が行く(その26) ミニ開発地を行く
2009年11月10日火曜日
この1週間ほど、横浜市の郊外住宅地をまわって、街の中にある農地を住宅地に替えたところばかり、いくつかのミニ開発をみてきた。
ミニ開発とは、農地を小さく分割した建売住宅のことである。50坪程度に分割するのだが、そのまま小さく分割しては細くなってつかいにくかったり、道路に面しない裏宅地もできるの。そこで色々と工夫をしているのであった。
農地だったところに行き止まりのみぢかい道路を突っ込んで、これに沢山の敷地をぶら下がらせる。この道路が路地のようになって、それなりに面白い空間となっている。
あるいは裏宅地となる敷地から、細い棒のような敷地を表の道路までつけているものもある。これを通 称で旗棹宅地といっているのは、まるで敷地が旗と旗棹のような形だからだ。
土地だけでなく必ずといっても良いほどに、そこには建物も建てて売っているのは、そうするほうが開発事業者の利益が見込めるからだろう。その建物は敷地の真ん中に配置されていて、庭らしいところが少ないのが特徴的である。どうも買うほうは建物ばかりを見て買うらしい。
狭い敷地だが、それでもここに分譲共同住宅(いわゆるマンション)が建って、もっと敷地分割をするよりもいいだろうとも思う。もしも災害で倒れても、敷地は独立して一応あるから、権利者が多くて敷地が共有の分譲マンションよりは復旧はしやすい。
農地の跡に2階建て賃貸共同住宅(いわゆるアパート)も結構あちこちに建っているのを見た。賃貸住宅経営を請け負う事業者がいるらしく、なんだかいずれも派手なコケティッシュなデザインの建物である。
アパートといえば、裏宅地にあって木造モルタル塗りで錆びた鉄骨外階段がついているという貧困イメージがあるが、今やなんとなくオシャレ気取りであるようだ。
参照→都計審は何を審議するのか
●横浜ご近所探検隊が行く(その25)神輿と便所
2009年9月21日月曜日
横浜都心の関外地区は、今、お祭の最中である。ビルの谷間にお囃子のBGMが流れている。
メインストリートの伊勢佐木町の通りは、端から端まで車はシャットアウトして、道の真ん中にみこしがデンと置いてあったりする。
関外の鎮守とも言うべき「日枝神社」、通称「お三ノ宮神社」の祭であることが、あちこち掲示してある。
うちの空中陋屋にも、お囃子と神輿のワッショイなる掛け声が聞こえて、バルコニーから見下ろせば子ども神輿が行く。町内のものらしい。
ワッショイではなくて、雅楽の優雅な響きが聞こえてきて、また見下ろせば今度は 本物の神輿である。日枝神社のものらしい。担ぐのではなくてトラクターのようなものが曳いている。
では、日枝神社に神輿を見に行くかと、ご近所探検の徘徊に出かける。
このあたりは各町内に神輿や山車があって、それぞれに街角や町内会館に飾っている。そこが日枝神社の神輿のお旅所でもあるらしい。
日枝神社は江戸中期に江戸山王の日枝神社を勧請し、埋立地の吉田新田の守り神様にしたとかで、埋立地の端っこの大岡川のほとりにある。かつては伊勢佐木通りが参道のようになっていたのかもしれない。
境内には懐かしい露店がたちならび、神楽殿では笛・太鼓・鉦のお囃子を大人や子どもが演奏している。
あった、神社の一角に見下ろしたあの神輿が鎮座している。実に立派な典型的な百貫神輿である。
境内には大人や子どもが祭気分丸出しで大勢たむろしていて、せんだって長岡市小国町の太郎丸で見た村の祭も、この横浜都心の街の祭も雰囲気はまったく同じである。
そこからぶらぶらと大岡川沿いに弘明寺まで散歩することにした。
やがてやってきた弦巻橋、そのたもとの傾いた公衆便所はまだ健在であった。
1年前に「発見」して、いつまであるか気にかかっていたが、大丈夫であった。きちんと用を足してきた。
次に来たときもあるといいなあ、って、別にとり立てて特別なデザインじゃないけど、傾きだけで立派な存在価値がある、、か。
●横浜ご近所探検隊が行く(その24) 横浜都計審の愚直委員2009年11月10日火曜日
昨日は朝から横浜市の都市計画審議会だった。
一昨日は鎌倉で世界遺産登録促進の市民ワークショップがあり、コメンテーターとして参加していて、終わってから仲間と愉快に飲んだ。
明日は都計審だから早く帰ろうと決めていたのに、飲み始めると忘れて遅くまで飲み過ぎて、昨日はちょっと二日酔い気味だった。
でも審議会ではちゃんと意見は言えた(と、思う)。
このところ数回の審議会のいくつかの議事で、わたしがかなり問題指摘の意見をのべても、現地を見ていない委員にはよく理解ができないらしいのであった。
前々回の審議会で、廃棄物処理施設の立地と住宅立地が競合するおそれがあることに現地を見て気がついて、審議会でそれへの対処方策の提案を詳しく述べたのだが、分かってもらえなかった。
そこで、今回は現地に行って写した写真等を使って意見を言うことにした。
議題となっている生産緑地の各地区について、それらの現地で撮ってきた写真、市の都市計画サイトにあるその場所の都市計画図画像、そしてグーグルアースのその場所の航空写真、これらをひとつにまとめて各地区の映像としてhtmファイルに編集したものを映写しつつ意見を言った。
それなりに議論になったのは、現地を見ていない委員もこれでよく分かったからだろう。
この映像を使うことで、審議会の 3日前にちょっとしたことがあった。
審議会当日にいきなりでは事務局が戸惑うといけないから、事前にメールして
「9日の都市計画審議会で、わたしの意見を映像を使って発表しますので、PC,プロジェクターをつかわせてください。映像データはhtmファイルにして、USBメモリーで持ってゆきます。よろしくお願い申上げます」(原文のまま)
と、いちおう仁義を切った のであった。
ところがそれに対する市の都市計画審議会担当からの返事が、こうである。(公用の通信文だから公開してもいいだろう)
「ご依頼の件ですが、今回の都市計画審議会は案件数が多く、内容も多岐にわたるため、伊達委員の御意見の発表については、審議会の進行状況と会長の判断になると思います。審議会委員として、案件の審議を優先させていただきますようよろしくお願い申し上げます」(原文のまま、挨拶文は省略)
えッ、委員の発表を制限しようというのか、“委員として案件審議を優先せよ”とのお説教は何を意味するのか。未だ言ってもいないのに何を根拠にわたしの意見は案件審議ではないというのか。映像を使って説明するほうがはるかに時間の節約になるはずを、何を考えているか。事務局は映像で説明するのに、委員には制限するのはどういうわけだ。
猛烈に腹が立ったので怒りの反論メールを出しておき、当日強行するしかないと腹をくくって行ったのだが、会場ではもめなかった。
どうもわたしはいつも意見を言い過ぎると、警戒されているらしい。
でも自信を持って言うが、現地を見れば子どもでも分かるようなつまらない質問だけしかしない、なんてことは断じてしていない。
それは、横浜市の都市計画審議会サイトに公開されている昨年11月以来の議事録を読めば分かるはずだ。
参照→横浜市都市計画審議会
●横浜ご近所探検隊が行く(その23)横浜都計審一人相撲
2009年8月29日土曜日
公募に応募して昨年11月から委員となった横浜都市計画審議会に、昨日はわが4回目の出席であった。
議題は3つあったが、図らずも、またもや、わたし一人がしゃべったのだ。委員のみなさまどなたも、ご意見を出されなかったのであった。
いつも寡黙なるわたしが、なぜに都市計画審議会では饒舌になってしまうのか、われながら不思議である。もちろん饒舌であるか否かは、他の委員との比較にすぎないのだが、。
前回と同様に今回も廃棄物処理場の新設許可議案があった。前回はわたしは現地を見てきて、その周辺を住宅立地規制をする附帯決議を提案したのだが通らなかった。
今回も現地を見てきて、前回のような混在可能な立地ではなかったし、環境アセスメントで審査会が専門的な注文をつけているので、内容的には特に異議はない。
ただし、手続きおいて法的な疑問があったので、その指摘をしたのだ。これが今回の審議会の唯一といってよい審議であった。
しかし、である。その法的解釈が実はわからなかったのであった。
え、こんなこと、法に基づいて執行する行政庁が知らなかったのか。
法学部教授の学識委員が解釈を披瀝されたが、それが定説というものでもないらしい。
ふ〜ん、そうなのか、法律を読めば誰もが疑問に思うはずと、そう思ったわたしは、どうも変な人らしい。
参照→横浜都計審(8月)報告 ●横浜市都市計画審議会報告(7月)
●横浜ご近所探検隊が行く(その22)
都計審市民委員は疲れる
2009年7月4日土曜日
昨日の横浜都計審は、無事に(文字通り)終った。
つまり、わが提案やお願いは一蹴されて、議事は原案とおりに事も無く可決されたのだ。
会場にはまちづくり仲間数名が傍聴にきてくれて嬉しかった。
ご期待に応えるべく提案やお願いにがんばったのだが、やっぱりドンキホーテか寅次郎、あれあれというまに一蹴二蹴されたのであった。
これまで2回の審議会で上手く主張が通らなかったので、今回は作戦を変えて、議案に附帯決議をつけるという提案をしたのだった。
今度はうまく行って、これについて審議をシッカリとしてもらえた。
結論はNOだったが、審議してもらえただけでもわが進歩はあったと思うこととする。
♪奮闘努力の甲斐も無く〜♪というところを、少しは甲斐のあったかもしれない審議会だった。
それにしても、議事資料が着てから5日間しかないから、暇人のわたしでも結構忙しかった。
一番の問題だった廃棄物処理場付近の土地利用に関しては、現地に2回も足を運んで見てきのだ。それでこの地域に住宅を禁止する措置を取ることが、どうしても必要と提案したのだが、通らなかった。
審議会で感じたのだが、どうも、現地を見ている委員がいるのかしら、いてもごくわずからしいのである。議員委員の方はご自身の選挙区ならよくご存知であろうが、。
現地を見ないで都市計画を審議するのは、都市計画の本質から言って大問題だと思う。
孤軍奮闘又負けた。
疲れるような、楽しいような、こりゃボケ防止になりますねえ、。
●参照→横浜市都市計画審議会報告
●横浜ご近所探検隊が行く(その21)
都計審市民委員は忙しい
2009年6月30日火曜日
横浜市の都市計画審議会の公募市民委員となって、3回目の審議会が2009年7月3日にある。この前は1月だったから半年振りである。
その議事内容の詳細を記した議案資料が来たのが6月27日、開催日まで中5日間しかない。
その間に、議事内容を読み、都市計画を決める現地を訪ね、議案書を読んでもわからないことを横浜市の担当者に聞きに行くのだ。これは忙しい。
都市計画は土地にかかるものだから、現地を見ないとわかりっこないのだ。今回は現地を見る場所が3箇所だからまだよいほうだが、前々回は20箇所以上、それも横浜市全域に散らばっていたから、もう忙しいったらなかった。
新米委員はこうなのだが、ほかの委員はどうなさっているのだろうか。
まさか現地を見ないままで審議会に出席されているのではあるまい。でも、ベテラン議員委員や学識者委員は、現地を見ないでもおわかりになるのかもしれない。わたしも早くそうなりたいものだと思うが、なにしろ任期が2年しかないから、そうなった時点でクビである。
この前の土曜日は、廃棄物処理施設の現地を見てきて、今日は横浜市で景観関係部局の担当者に質問に行ったのだが、なんと8人も雁首揃えていただいて恐縮してしまった。
明日の朝も市の廃棄物処理施設担当の方に質問と、午後はもうひとつの現地見学である。その上で審議会提出用の意見をまとめていると、おお、もう開催日となるぞ。
引退している今のわたしは時間があるからよいのだが、仕事の現役にいらっしゃる委員たちはどうなさっているのだろうか。
とにかく新米素人委員は、審議会の当日にどうでもよいようなバカな質問で本質的な審議の邪魔をしないように、議案に対して審議すべき提案をきちんとできるように、事前に準備をするのである。マジメマジメクソマジメ、、だって私が当選したために落選した48人の応募者の代わりにがんばらなくっちゃ、。。
参照→・都市計画審議会ウォッチ →・都市計画審議
●横浜ご近所探検隊が行く(その20)
自然の音
2009.8.5
横浜都心の7階に住んでいると、聞こえる音は、ほとんどが自動車走行の騒音であり、近くに消防署があるので救急車が特にうるさい。
朝はシャッターが上がる音が毎日定時に聞こえる。時には人の声も聞こえるが、それは喧嘩のような大声であるときだ。
時にはどこかのビルの火災報知非常ベルが聞こえ、いつまでも鳴っていると不安になる。
自然の音といえば、強風のときの壁に当り角を切る音が強烈である。
雨は、吹き降りで窓にたたきつけると音が聞こえるが、普通の雨はまったくわからない。雨だれの音はないから、外を見ないと雨かどうかわからない。
今は真夏、この季節だけは蝉の鳴き声が、ミ〜ンミンミン、ジージージーと聞こえている。これがこの家でのもっとも自然の音らしい音である。
蝉といえば、生家は神社の鎮守の森の中にあったから、夏の間は蝉の声に包まれていた。それはもう、森の中の空間には蝉の声が充満していた。森の中に縁台をだして、蝉の音にくるまれつつ昼寝をしたものであった。
その音色が夏のはじめから秋に向って次第に変っていった。それは蝉の種類が変るからだ。その音色の変り具合で、耳から季節の変化を感じ取ったものである。ヒグラシが鳴き出すと、夏も終わりの寂しさがただよう。
中越山村の法末の夏、茅葺民家に寝ていると、早朝一番にヒグラシが鳴きだす。日暮しならぬ日明しである。その音でちょっとだけ目を覚まし、あちこちでカナカナカナと交互に呼び合いつつ鳴く声を聞きながら、また寝入るのは心地よいものである。
夜中には、庭の池の主である蝦蟇がゲコゲコググと鳴き続けるの聞きつつ寝入る。
茅葺の上にトタンを張っているから、雨音は大きい。雨だれが土を打つ音も聞こえる。でも、雨音で目覚めることはない。
朝目覚めて初めて聴く雨音で、今朝は田んぼ仕事は休みだなあと、また2度寝に入るのは、ちいさな幸せである。
●横浜ご近所探検隊が行く(その19)
王子様の夢の跡2009.5.24
横浜の南の東京湾沿いに磯子という地域がある。昔は高い海岸段丘の下まで海が押し寄せていて、東京の別荘地だったらしい。
昭和天皇の義弟の東伏見宮邦英(1910-)が、1937年に磯子別邸を段丘の真上に建てたのも、海の風景を眺めるのがひとつの目的だったろう。
だが、海は1960年代に工業用地として埋立てが進み、目の前は仏壇のお灯明のごとく灯がちらつく工業コンビナートが広がる。もう、保養地ではない。
もっとも、ちかごろは工場萌えなんて変なマニアが出てきて、あの風景を愛でるとかであるから、見直されてまた保養地になるか、まさか、。
→萌える工場達http://f.hatena.ne.jp/wami/20050215040849
海ばかりじゃなくて、陸のほうの埋立ても進んできた。東伏見宮別邸まわりの緑の丘陵が、住宅群にどんどんと埋めつくされていくのである。その変遷の様子を、この60年の航空写真に見ると興味深い。
その東伏見宮別邸を買い取ったのが西武の堤康次郎であったのは、猪瀬直樹の書く「ミカドの肖像」のとおりで、王子様のお屋敷だからプリンスホテルになるのである。
そして1954年に客室4室、60年に28室の横浜プリンスホテルが開業する。もうその頃は目の前の海の埋め立てが決まっていたか始まっていたはずである。とにかく営業をするが、次第に土地の切り売りをして住宅地にしていく。
1990年、一挙に建て直しをして440室の大ホテルになる。あんな不便で景色もよくないところに、なんと村野藤吾の設計の豪華ホテルなんて、どうして?、という感じであったことを覚えている。一度だけ、なにかの会議だったかで行ったことがある。
それからわずか16年、2006年に営業終了、2009年の今は歴史的建築の旧東伏見の別邸の木造建築の一部だけがあるが、そのほかは村野設計の15階建ての大ホテルもなにもかも、きれいさっぱりと取り払われて巨大な空き地となっている。
風景はともかく、半世紀前に戻ったことになる。跡地は共同住宅開発のSPCが買い取って、いまは土地利用転換のための都市計画提案を地元などに説明中であるという。
つまり、これで磯子は海側も陸側も埋立てが完了するのであろう。
それにしても、あの大ホテル建築、しかも名手村野藤吾の作品が、たったの16年しか寿命がなかったというのが、おかしいというか、不審というか、もったいないというか、そういうものというか、奇妙な感じがする。
●横浜プリンスホテル史
(http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/page287.htmlから抜粋、加筆)
・1937年 東伏見宮磯子別邸が竣工(設計施工竹中)1945年
終戦連絡局長鈴木九万が官邸使用(〜947)、GHQフランス使節が使用
・1953年 西武鉄道が買収
・1954年 横浜プリンス会館開業食堂7室・客室4室
・1960年 横浜プリンスホテル新館開業(28室)
・1964年 根岸線(桜木町−磯子間)開業
・1966年 西部鉄道が磯子台分譲
・1977年 西武不動産が日本住宅公団にゴルフ場跡地売却
・1987年 横浜プリンスホテル営業終了
・1990年 横浜プリンスホテル開業(441室)、旧館は「貴賓館」(宴会場)
・1993年 「貴賓館」を横浜市が歴史的建造物に認定
・2000年 西部不動産が磯子プリンスハイツ販売
・2001年 「プリンスブリッジ」開通
・2005年 横浜プリンスホテルの売却検討を発表
・2006年
横浜プリンスホテルを特定目的会社に譲渡、東京建物が大規模住宅開発を発表、横浜プリンスホテル営業終了
東伏見宮邦英なる人のことをウィキペディアで見ると、磯子の土地を手放した頃から京都の有名な寺院の青蓮院門跡の門主となって、京都古都税問題で京都市と争ったときの京都仏教界リーダーだったそうだ。8年の抗争の末に京都市はその税の廃止をしたから、勝ったことになるのだろう、頑固坊主らしい。
大昔に、偏屈な将軍として有名な足利義教がここの門主だった。わたしは学生のときに卒論研究調査で行ったことがある。話が逸れてしまった。
◆横浜ご近所探検隊が行く
●横浜ご近所探検隊が行く(その18) 崖地はめこみ共同住宅
2009.5.21
ものすごい共同住宅を見つけた。
横浜の磯子よりの海岸段丘崖ぎりぎりに、崖地に崖の高さに応じて4段構えくらいにはまり込んでいるのである。
下から見ると、玄関部分の1スパンは崖下まで降りていて、ここは14階建てになっているらしい。その左は11建て階らしく、更に左端には崖が4階分せりあがって建物をがっちりと支えているのであった。
右を見ると、8階建てくらいになっているし、写真では見えないが、更に右は5階建てくらいになって続いていた。
屋根の高さは同じだから、下から地面というか崖がぼこぼこといろいろな高さに盛り上がって、建物を支えている格好である。
こういうのは何階建てというのだろうか。
崖下から入ることができるが、道路から車で直接入ることができない状況だったから、多分、崖上に車アクセスの玄関があるのだろう。
全体の半分以上は崖に背中がくっついているらしいが、風通しはよいのだろうか。
崖地に埋没というか一体化というか、崖地との取り合いの土木的な処理はどうしているのだろうか。土木工事がえらくかかっただろうと思う。斜面緑地は当然に失われたはずだ。
こんなに高くつくような工事をしても、名ばかりマンションは売れるものなのか、。
それにしても、建築と崖とのデザインは、そのモンスタラスな取り合いがアートとしては面白いが、生活空間の風景としては、いかがなものか。
安東忠雄設計の「六甲の集合住宅」を思い出した。
参照→あらかじめ発掘された遺跡 ◆横浜ご近所探検隊が行く
●横浜ご近所探検隊が行く(その17) 哀しきは寿町といふ地名
2009年2月16日
哀しきは寿町といふ地名長者町さへ隣にはあり
(ホームレス)公田耕一
これは2009年2月16日朝日新聞朝刊の朝日歌壇入選(高野公彦選)の投稿である。
そうですとも公田さん、近くには福富町、黄金町、真金町なんてお金のたまる街も、永楽町とか不老町とか健康に長生きする街もありますよ。
埋め立てして街を作ったときに、街に住む人の幸せを祈念してつけた町名なんでしょうね、でも、そうなったのかしら。
こんなにおめでたい町名なのに、マンション寿町なんて販売しているって聞いたこともない。黄金マンションとかマンション永楽・真金なんて名前の分譲共同住宅も一向にないのが不思議、わざと命名を避けている哀しき地名。
街のイメージは名前じゃなくて、その背負う歴史で決まる。そのうちに歴史も変わるだろうが、まだそれらは負のイメージを引きずっている。
同じ朝日新聞の社会面に「ホームレス歌人さん、連絡求ム」との見出しで、この歌詠みがこれまでに何度も入選しているが、連絡がとれないとの記事がある。寿町の簡易宿泊所でその日暮らしか、それとも労働福祉会館の庇の下で野宿か。
それにしても、このドヤ街はいつまで持続するのか。持続することがよいことか。
日本の住宅政策が社会政策ではなくて経済政策であったことの歪みが、この寿町には見事に現出している。
参照→◆地域の持続可能とはなにか
095貧困な住宅政策
◆横浜ご近所探検隊が行く
●横浜ご近所探検隊が行く(その16)
隣に迫る大不況 2009年2月3日
わが家のあるビルの隣に、昨年の春ごろから建設が始まった共同住宅は、延床9000u、 180戸、高さ31mの結構大きいビルである。
なんだか最近は工事騒音が聞こえないなあと思っていたのだが、その工事が、このところ止まっているらしい。
いつも通行に邪魔な工事車両が出入りしないし、2階床までのコンクリートうちが終わって型枠もはずしたのに、そこから鉄筋が立ちっぱなしで更に上の階へと型枠を組む様子がない。
周りをグルッと見ると、現場事務所が閉じているし、デシベル数値が大きく表示されていた騒音計にも蓋をしたままだ。
おお、わが家のお隣までも不況が迫ってきたぞ。資金繰りがつかないのだろうか、工事ストップだ。
まあ、静かになって助かるが、このまま立ち腐れになるのも、ヘンな雰囲気で困る。
●横浜ご近所探検隊が行く(その15)2008年11月20日名ばかり邸宅地
→画像
ちょっと必要があって、横浜市内の14箇所の「生産緑地地区」を回って見た。生産緑地地区とは、そこは農林業のほかに使ってはいけないと、都市計画で指定した地区のことである。
行ってみて驚いた。
ミニ開発住宅地の造成中、数棟の建物建設中、すでに建物が立ち並んで入居しているところなど、農業など影も形もなくなっているところが、ひとつやふたつではなくてたくさんあるのだ。
え、生産緑地指定してあることは確実なのだから、これは違法建築かと見れば、開発許可済みとか建築確認済みとか看板が掲げてある。合法らしい。どういうことだ?
実例をひとつ挙げると、港北区内のある住宅地の中、このあたりは田んぼを1枚づつ次々と住宅地に変えていって、次第に住宅地となったスプロール市街地である。
その密集する狭い道路の住宅地の中に、生産緑地地区となっている畑が一枚ある。
探し訪ねてみると住宅建設の真っ最中、既存の4mほどの道路からその生産緑地の土地の中央に新しい5m道路が突っ込んで行き止まり、その両側に7軒の住宅が建つ。
ひとつの敷地は100uくらいか、もちろん庭はなくて、道路がオープンスペースであり、周りの住宅地と同じような密集状況である。
「●●●○○○×××」と格好よい邸宅地名がつけてあり、●と×には庭園と大邸宅をイメージするカタカナ、○には隣の隣の町名で1キロ半ほど先の駅名がはいっている。
さて、名ばかりマンションを非難しているわたしには、これのほうが良いというべきか。
まあ、どちらかといえば、名ばかりマンションよりも、まだこちらのほうが安心度は高いと言える。震災で隣が倒れても、こちらが負担することはないから、。
火災はもらいそうだが、。
それにしても、名前は立派だが、日照通風防災にどうかなあと思うような「名ばかり邸宅地」も、困ったものである。
でも、住宅政策貧困日本では、庶民はこういうのでないと一戸建て住宅は手に入らない現実だから、しょうがないか、都市計画屋の端くれのわたしも含めて、。
ところで、初めに書いた生産緑地地区指定のままなのに、現状は生産緑地でないのはどういうことかと調べたら、そこで農業をしていた人が死んで農業継続の後継者がいないと、生産緑地地区が指定してあっても自動的に農業をやらなくてもよくなり、家でもビルでも建ててよいのだそうだ。
えっ、じゃあ、何のために生産緑地地区指定を都市計画で決めているんだよ〜?、意味ないじゃん、都市計画ってのは土地が誰のものであろうが関係なく決まるものなんだぞ〜、。
参照→都計審初出演と生産緑地の不思議
●横浜ご近所探検隊が行く(その14) 酉の市
→画像1 →画像2
今日は今年の一の酉の日で、横浜真金町の大鷲(おおとり)神社の一帯は歩行者専用道となり、屋台がぎっしりと並んで裸電球や提灯があかあかと光っていて、大勢の人たちが通る。
縁起物の熊手を担いで帰る人はあまり見かけないが、屋台をひやかす子ども連れや若者が多い。
いつの時代も祭りは楽しいものであるが、こんなにたくさんの屋台を見るのも、毎年のこの時期だけである。
昔は真金町一体は遊郭街で、大鷲神社のにぎわいもそれとかかわりが深かったのであろう。
裏通りなのに中央分離帯に柳や桜が植わって奇妙に広い通りはかつて遊郭が立ち並んでいたが、今は中高層共同住宅街となって、屋台が立ち並んでいる。
その共同住宅のネーミングに、いずれも町名の真金町をつけているものは皆無で、かなり離れた関内とか大通り公園の地名をつけているものが多いのが、どこかおかしい。
遊郭だった名残を見つけるのは難しいが、ある唐破風の門構えが立派な堂々たる瓦葺の家が1軒だけあるのがそうかもしれないし、風呂屋2軒があるのもそうかもしれないし、産婦人科が数軒あるのも名残かもしれない。
大鷲神社の玉垣には、この地の遊郭経営者の子として生まれ育った噺家の桂歌丸の名が刻まれている。
それにしても夜店屋台デザインのなんともキッチュなことよ。このバラエティに富みながらも、ある種のデザインコードがあるのは、屋台専門の制作者が居るのだろうか。
●横浜ご近所探検隊が行く(その13) 象の鼻 2008年10月22日 →画像
横浜港が幕末に開港した当時(1859年)のもっとも古い近代港の位置は、黒船でやってきたぺリーの上陸地点である。近代港湾として徐々に整備をして行くが、明治初期に作った防波堤は、その形から象の鼻とよばれる。
今の横浜港は現代的なコンテナ埠頭が他に作られていて、象の鼻の中は小船のたまりになっているが、この周辺を整備して歴史的港湾の公園とする整備工事が、横浜市によって行われている。
日本大通から直接には入れるように元税関の倉庫群を取り除いて、公園整備のための掘削を始めたら、線路が出てきた。
調べてみたら、20世紀初頭頃の荷役用の人力トロッコの線路であることがわかったというのである。左側見学に行った。
丸い転車台、つまりトロッコの向きを変えるための1台分のターンテーブルがあちこちにある。
この線路の方式は、人力で押す労力を最小にするために原則として線路はまっすぐに敷いて、方向を変えるときは、この転車台で必要な角度に方向を変えて、その方向の線路にまた載せて進める仕掛けである。
線路はたくさんの倉庫や桟橋を結ぶ多方向にあるので、そのたくさんの結節点ごとに転車台を設けていいる。煩瑣なようだが、その時代の技術をなるほどと思わせる。
まだ完成していないが、この公園から見る港の風景はいかにも港らしい。
●参照→象の鼻公園辺りからのみなとみらい風景
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