横浜ご近所探検隊 報告   隊長 伊達美徳

わが横浜都心住まい界隈を、うろつきまわる徘徊老人となって、ご近所探検隊を結成した。
といっても隊長1人だけだが、毎日とは言わないが閑に任せてうろつくから、念入り探検だ。
場所はかのブルースで有名な(古いか)伊勢佐木町を中心に半径1〜2km程度である。
ここには都市の持つピンからキリまで、なんでもそろっているといってよい。
折に触れ報告を綴ることとする。

 


164世界最終戦論 2009.8.11
 野毛坂の古本屋で変な本を見つけて、つい、買った。
 石原莞爾著「世界最終戦論」(第一改定版1940立命館出版部発行)である。
 父の十五年戦争を追っていて、満州国に興味が深まった。満州というキメラには前から興味はあったのだが、そこに身内が命を懸けたとわかると、それなりに興味の湧き方も深まるものだ。
 徘徊老人のいつものコースの横浜ご近所古本屋探検は、ちかごろは105円棚の充実する伊勢佐木町ブックオフで思いがけない掘り出し物に凝っているのだ。
 特にこのところの十五年戦争関係資料の掘り出し物は、「日中戦争」児島襄の第1巻と2巻であったが、この類はブックオフにはめったに出ない。
 やはりブックオフでは奥が浅いので、古典古本屋にも回帰しつつあり、今回の石原莞爾である。
 ときには古典的な紙魚の香りがする古本屋さんにもいかないと、禁断症状が出る、ということもある。
 満州のことについてなにを読んでも教祖様の如く石原莞爾が出てくるし、とくにその「世界最終戦論」は、彼の満蒙植民地化論のバイブルみたいに書いてある。その後の世界の構造を予言したとも書かれている。
 気になっていたが特に探す気もなかったのに、偶然にその論の本に出会ったのだ。四六判、100ページ足らずで定価40銭、古本価格は1000円であった。
 1940年9月10日初版5000部発行、すぐに20日には増刷5000部、更に重ねて買った改訂版まで合計3万1千部発行である。
 大ベストセラーである。時代の空気をどう読むべきなのだろうか。
 たまにこのような戦前戦中の古い本を買うことはあるが、これまではほとんど建築か都市系の本であった。
 いよいよ老人趣味になってきたか、、、もっとも、初版本や稀覯本をあさるような古書趣味は全くない。

追記:その後、青空文庫に「世界最終戦論・戦争史大観」という石原の著書があるのを見つけた。買わなくてもよかったのだ。インタネット時代はすごい。


160自然の音 2009.8.5

 横浜都心の7階に住んでいると、聞こえる音は、ほとんどが自動車走行の騒音であり、近くに消防署があるので救急車が特にうるさい。
 朝はシャッターが上がる音が毎日定時に聞こえる。時には人の声も聞こえるが、それは喧嘩のような大声であるときだ。
 時にはどこかのビルの火災報知非常ベルが聞こえ、いつまでも鳴っていると不安になる。
 自然の音といえば、強風のときの壁に当り角を切る音が強烈である。
 雨は、吹き降りで窓にたたきつけると音が聞こえるが、普通の雨はまったくわからない。雨だれの音はないから、外を見ないと雨かどうかわからない。
 今は真夏、この季節だけは蝉の鳴き声が、ミ〜ンミンミン、ジージージーと聞こえている。これがこの家でのもっとも自然の音らしい音である。
 蝉といえば、生家は神社の鎮守の森の中にあったから、夏の間は蝉の声に包まれていた。それはもう、森の中の空間には蝉の声が充満していた。森の中に縁台をだして、蝉の音にくるまれつつ昼寝をしたものであった。
 その音色が夏のはじめから秋に向って次第に変っていった。それは蝉の種類が変るからだ。その音色の変り具合で、耳から季節の変化を感じ取ったものである。ヒグラシが鳴き出すと、夏も終わりの寂しさがただよう。
 中越山村の法末の夏、茅葺民家に寝ていると、早朝一番にヒグラシが鳴きだす。日暮しならぬ日明しである。その音でちょっとだけ目を覚まし、あちこちでカナカナカナと交互に呼び合いつつ鳴く声を聞きながら、また寝入るのは心地よいものである。
 夜中には、庭の池の主である蝦蟇がゲコゲコググと鳴き続けるの聞きつつ寝入る。
 茅葺の上にトタンを張っているから、雨音は大きい。雨だれが土を打つ音も聞こえる。でも、雨音で目覚めることはない。
 朝目覚めて初めて聴く雨音で、今朝は田んぼ仕事は休みだなあと、また2度寝に入るのは、ちいさな幸せである。

135王子様の夢の跡2009.5.24
 横浜の南の東京湾沿いに磯子という地域がある。昔は高い海岸段丘の下まで海が押し寄せていて、東京の別荘地だったらしい。
 昭和天皇の義弟の東伏見宮邦英(1910-)が、1937年に磯子別邸を段丘の真上に建てたのも、海の風景を眺めるのがひとつの目的だったろう。
 だが、海は1960年代に工業用地として埋立てが進み、目の前は仏壇のお灯明のごとく灯がちらつく工業コンビナートが広がる。もう、保養地ではない。
 もっとも、ちかごろは工場萌えなんて変なマニアが出てきて、あの風景を愛でるとかであるから、見直されてまた保養地になるか、まさか、。 
→萌える工場達http://f.hatena.ne.jp/wami/20050215040849
 海ばかりじゃなくて、陸のほうの埋立ても進んできた。東伏見宮別邸まわりの緑の丘陵が、住宅群にどんどんと埋めつくされていくのである。その変遷の様子を、この60年の航空写真に見ると興味深い。
 その東伏見宮別邸を買い取ったのが西武の堤康次郎であったのは、猪瀬直樹の書く「ミカドの肖像」のとおりで、王子様のお屋敷だからプリンスホテルになるのである。
 そして1954年に客室4室、60年に28室の横浜プリンスホテルが開業する。もうその頃は目の前の海の埋め立てが決まっていたか始まっていたはずである。とにかく営業をするが、次第に土地の切り売りをして住宅地にしていく。
 1990年、一挙に建て直しをして440室の大ホテルになる。あんな不便で景色もよくないところに、なんと村野藤吾の設計の豪華ホテルなんて、どうして?、という感じであったことを覚えている。一度だけ、なにかの会議だったかで行ったことがある。
 それからわずか16年、2006年に営業終了、2009年の今は歴史的建築の旧東伏見の別邸の木造建築の一部だけがあるが、そのほかは村野設計の15階建ての大ホテルもなにもかも、きれいさっぱりと取り払われて巨大な空き地となっている。
 風景はともかく、半世紀前に戻ったことになる。跡地は共同住宅開発のSPCが買い取って、いまは土地利用転換のための都市計画提案を地元などに説明中であるという。
 つまり、これで磯子は海側も陸側も埋立てが完了するのであろう。
 それにしても、あの大ホテル建築、しかも名手村野藤吾の作品が、たったの16年しか寿命がなかったというのが、おかしいというか、不審というか、もったいないというか、そういうものというか、奇妙な感じがする。
●横浜プリンスホテル史
http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/page287.htmlから抜粋、加筆)
・1937年 東伏見宮磯子別邸が竣工(設計施工竹中)1945年 終戦連絡局長鈴木九万が官邸使用(〜947)、GHQフランス使節が使用
・1953年 西武鉄道が買収
・1954年 横浜プリンス会館開業食堂7室・客室4室
・1960年 横浜プリンスホテル新館開業(28室)
・1964年 根岸線(桜木町−磯子間)開業
・1966年 西部鉄道が磯子台分譲
・1977年 西武不動産が日本住宅公団にゴルフ場跡地売却
・1987年 横浜プリンスホテル営業終了
・1990年 横浜プリンスホテル開業(441室)、旧館は「貴賓館」(宴会場)
・1993年 「貴賓館」を横浜市が歴史的建造物に認定
・2000年 西部不動産が磯子プリンスハイツ販売
・2001年 「プリンスブリッジ」開通
・2005年 横浜プリンスホテルの売却検討を発表
・2006年 横浜プリンスホテルを特定目的会社に譲渡、東京建物が大規模住宅開発を発表、横浜プリンスホテル営業終了
 東伏見宮邦英なる人のことをウィキペディアで見ると、磯子の土地を手放した頃から京都の有名な寺院の青蓮院門跡の門主となって、京都古都税問題で京都市と争ったときの京都仏教界リーダーだったそうだ。8年の抗争の末に京都市はその税の廃止をしたから、勝ったことになるのだろう、頑固坊主らしい。
 大昔に、偏屈な将軍として有名な足利義教がここの門主だった。わたしは学生のときに卒論研究調査で行ったことがある。話が逸れてしまった。
 ◆横浜ご近所探検隊が行く


132崖地はめこみ共同住宅  2009.5.21
 ものすごい共同住宅を見つけた。
 横浜の磯子よりの海岸段丘崖ぎりぎりに、崖地に崖の高さに応じて4段構えくらいにはまり込んでいるのである。
 下から見ると、玄関部分の1スパンは崖下まで降りていて、ここは14階建てになっているらしい。その左は11建て階らしく、更に左端には崖が4階分せりあがって建物をがっちりと支えているのであった。
 右を見ると、8階建てくらいになっているし、写真では見えないが、更に右は5階建てくらいになって続いていた。
 屋根の高さは同じだから、下から地面というか崖がぼこぼこといろいろな高さに盛り上がって、建物を支えている格好である。
 こういうのは何階建てというのだろうか。
 崖下から入ることができるが、道路から車で直接入ることができない状況だったから、多分、崖上に車アクセスの玄関があるのだろう。
 全体の半分以上は崖に背中がくっついているらしいが、風通しはよいのだろうか。
 崖地に埋没というか一体化というか、崖地との取り合いの土木的な処理はどうしているのだろうか。土木工事がえらくかかっただろうと思う。斜面緑地は当然に失われたはずだ。
 こんなに高くつくような工事をしても、名ばかりマンションは売れるものなのか、。
 それにしても、建築と崖とのデザインは、そのモンスタラスな取り合いがアートとしては面白いが、生活空間の風景としては、いかがなものか。
 安東忠雄設計の「六甲の集合住宅」を思い出した。
参照→あらかじめ発掘された遺跡   ◆横浜ご近所探検隊が行く


097哀しきは寿町といふ地名  2009年2月16日

 哀しきは寿町といふ地名長者町さへ隣にはあり
             (ホームレス)公田耕一

 これは2009年2月16日朝日新聞朝刊の朝日歌壇入選(高野公彦選)の投稿である。
 そうですとも公田さん、近くには福富町、黄金町、真金町なんてお金のたまる街も、永楽町とか不老町とか健康に長生きする街もありますよ。
 埋め立てして街を作ったときに、街に住む人の幸せを祈念してつけた町名なんでしょうね、でも、そうなったのかしら。
 こんなにおめでたい町名なのに、マンション寿町なんて販売しているって聞いたこともない。黄金マンションとかマンション永楽・真金なんて名前の分譲共同住宅も一向にないのが不思議、わざと命名を避けている哀しき地名。
 街のイメージは名前じゃなくて、その背負う歴史で決まる。そのうちに歴史も変わるだろうが、まだそれらは負のイメージを引きずっている。
 同じ朝日新聞の社会面に「ホームレス歌人さん、連絡求ム」との見出しで、この歌詠みがこれまでに何度も入選しているが、連絡がとれないとの記事がある。寿町の簡易宿泊所でその日暮らしか、それとも労働福祉会館の庇の下で野宿か。
 それにしても、このドヤ街はいつまで持続するのか。持続することがよいことか。
 日本の住宅政策が社会政策ではなくて経済政策であったことの歪みが、この寿町には見事に現出している。
 参照→◆地域の持続可能とはなにか   095貧困な住宅政策
    ◆横浜ご近所探検隊が行く

092隣に迫る大不況 2009年2月3日
 わが家のあるビルの隣に、昨年の春ごろから建設が始まった共同住宅は、延床9000u、 180戸、高さ31mの結構大きいビルである。
 なんだか最近は工事騒音が聞こえないなあと思っていたのだが、その工事が、このところ止まっているらしい。
 いつも通行に邪魔な工事車両が出入りしないし、2階床までのコンクリートうちが終わって型枠もはずしたのに、そこから鉄筋が立ちっぱなしで更に上の階へと型枠を組む様子がない。
 周りをグルッと見ると、現場事務所が閉じているし、デシベル数値が大きく表示されていた騒音計にも蓋をしたままだ。
 おお、わが家のお隣までも不況が迫ってきたぞ。資金繰りがつかないのだろうか、工事ストップだ。
 まあ、静かになって助かるが、このまま立ち腐れになるのも、ヘンな雰囲気で困る。

●横浜ご近所探検隊が行く(その15)
2008年11月20日名ばかり邸宅地 →画像
 ちょっと必要があって、横浜市内の14箇所の「生産緑地地区」を回って見た。生産緑地地区とは、そこは農林業のほかに使ってはいけないと、都市計画で指定した地区のことである。
 行ってみて驚いた。
 ミニ開発住宅地の造成中、数棟の建物建設中、すでに建物が立ち並んで入居しているところなど、農業など影も形もなくなっているところが、ひとつやふたつではなくてたくさんあるのだ。
 え、生産緑地指定してあることは確実なのだから、これは違法建築かと見れば、開発許可済みとか建築確認済みとか看板が掲げてある。合法らしい。どういうことだ?
 実例をひとつ挙げると、港北区内のある住宅地の中、このあたりは田んぼを1枚づつ次々と住宅地に変えていって、次第に住宅地となったスプロール市街地である。
 その密集する狭い道路の住宅地の中に、生産緑地地区となっている畑が一枚ある。
 探し訪ねてみると住宅建設の真っ最中、既存の4mほどの道路からその生産緑地の土地の中央に新しい5m道路が突っ込んで行き止まり、その両側に7軒の住宅が建つ。
 ひとつの敷地は100uくらいか、もちろん庭はなくて、道路がオープンスペースであり、周りの住宅地と同じような密集状況である。
 「●●●○○○×××」と格好よい邸宅地名がつけてあり、●と×には庭園と大邸宅をイメージするカタカナ、○には隣の隣の町名で1キロ半ほど先の駅名がはいっている。
 さて、名ばかりマンションを非難しているわたしには、これのほうが良いというべきか。
 まあ、どちらかといえば、名ばかりマンションよりも、まだこちらのほうが安心度は高いと言える。震災で隣が倒れても、こちらが負担することはないから、。 火災はもらいそうだが、。
 それにしても、名前は立派だが、日照通風防災にどうかなあと思うような「名ばかり邸宅地」も、困ったものである。
 でも、住宅政策貧困日本では、庶民はこういうのでないと一戸建て住宅は手に入らない現実だから、しょうがないか、都市計画屋の端くれのわたしも含めて、。
 ところで、初めに書いた生産緑地地区指定のままなのに、現状は生産緑地でないのはどういうことかと調べたら、そこで農業をしていた人が死んで農業継続の後継者がいないと、生産緑地地区が指定してあっても自動的に農業をやらなくてもよくなり、家でもビルでも建ててよいのだそうだ。
 えっ、じゃあ、何のために生産緑地地区指定を都市計画で決めているんだよ〜?、意味ないじゃん、都市計画ってのは土地が誰のものであろうが関係なく決まるものなんだぞ〜、。
 参照→都計審初出演と生産緑地の不思議

●横浜ご近所探検隊が行く(その14) 酉の市  →画像1 →画像2
 今日は今年の一の酉の日で、横浜真金町の大鷲(おおとり)神社の一帯は歩行者専用道となり、屋台がぎっしりと並んで裸電球や提灯があかあかと光っていて、大勢の人たちが通る。
 縁起物の熊手を担いで帰る人はあまり見かけないが、屋台をひやかす子ども連れや若者が多い。
 いつの時代も祭りは楽しいものであるが、こんなにたくさんの屋台を見るのも、毎年のこの時期だけである。
 昔は真金町一体は遊郭街で、大鷲神社のにぎわいもそれとかかわりが深かったのであろう。
 裏通りなのに中央分離帯に柳や桜が植わって奇妙に広い通りはかつて遊郭が立ち並んでいたが、今は中高層共同住宅街となって、屋台が立ち並んでいる。
 その共同住宅のネーミングに、いずれも町名の真金町をつけているものは皆無で、かなり離れた関内とか大通り公園の地名をつけているものが多いのが、どこかおかしい。
 遊郭だった名残を見つけるのは難しいが、ある唐破風の門構えが立派な堂々たる瓦葺の家が1軒だけあるのがそうかもしれないし、風呂屋2軒があるのもそうかもしれないし、産婦人科が数軒あるのも名残かもしれない。
 大鷲神社の玉垣には、この地の遊郭経営者の子として生まれ育った噺家の桂歌丸の名が刻まれている。
 それにしても夜店屋台デザインのなんともキッチュなことよ。このバラエティに富みながらも、ある種のデザインコードがあるのは、屋台専門の制作者が居るのだろうか。

●横浜ご近所探検隊が行く(その13) 象の鼻 2008年10月22日 →画像

 横浜港が幕末に開港した当時(1859年)のもっとも古い近代港の位置は、黒船でやってきたぺリーの上陸地点である。近代港湾として徐々に整備をして行くが、明治初期に作った防波堤は、その形から象の鼻とよばれる。
 今の横浜港は現代的なコンテナ埠頭が他に作られていて、象の鼻の中は小船のたまりになっているが、この周辺を整備して歴史的港湾の公園とする整備工事が、横浜市によって行われている。
 日本大通から直接には入れるように元税関の倉庫群を取り除いて、公園整備のための掘削を始めたら、線路が出てきた。
 調べてみたら、20世紀初頭頃の荷役用の人力トロッコの線路であることがわかったというのである。左側見学に行った。 
 丸い転車台、つまりトロッコの向きを変えるための1台分のターンテーブルがあちこちにある。
 この線路の方式は、人力で押す労力を最小にするために原則として線路はまっすぐに敷いて、方向を変えるときは、この転車台で必要な角度に方向を変えて、その方向の線路にまた載せて進める仕掛けである。
 線路はたくさんの倉庫や桟橋を結ぶ多方向にあるので、そのたくさんの結節点ごとに転車台を設けていいる。煩瑣なようだが、その時代の技術をなるほどと思わせる。
 まだ完成していないが、この公園から見る港の風景はいかにも港らしい。
 ●参照→象の鼻公園辺りからのみなとみらい風景


●横浜ご近所探検隊が行く(その12) スプロール郊外風景 2008年10月20日
 保土ヶ谷区の横浜国大近くに郊外地域の典型的な風景がある。地形的には谷戸と丘陵であり、土地利用としては残存緑地、農地、バラたち戸建住宅、バラたち共同住宅、ゴルフ練習場、野球演習場などが入り乱れる。
 なんとも典型的な大都市郊外のスプロール景観である。せめてスカイラインにあるあたりに、緑を保全するような土地利用コントロールをすれば、それだけでも景観は落ち着くと思うのだが、。
 現場風景をちょっと画像処理をしてみたのでご覧ください。 


横浜ご近所探検隊が行く(その11)・横浜都心の百貨店閉店 2008年10月20日
 横浜の伝統ある都心商業地・伊勢佐木町にある百貨店「松坂屋」が、2008年10月26日に閉店する。
 横浜駅前の三越が一昨年だったかに閉店したから、横浜の都心の百貨店は、そごうと高島屋だけで、どちらも横浜駅前である。
 横浜松坂屋はその前身は「野沢屋」といって、生糸商から始まる横浜地元資本の伝統のある百貨店だったが、30年位前だったか横井英樹が株買占めで登場してごたごたの末にいろいろあって松坂屋となっていた。
 横井英樹といえば、東京日本橋の白木屋百貨店(石本喜久治設計・1926年)にも登場して、ごたごたの末に東急百貨店になってしまい、それも閉店(2000年)した後に今は外資による新ビルとなっている。
 関内、関外という横浜の伝統的と商業的停滞とみるのか、それとももう百貨店の時代ではなくなったということなのか。わたしはむしろ後者だと思う。
 わたしの横浜ご近所探検のコースでもあり、買い物はほとんどしないが4階にある郵便局にちょくちょくいく。
 いつ行ってもガラガラで店員のほうが多い。よくやっていけるものだと思ってはいたが、本当に閉店となると残念な気もする。
 戦前の様式建築なので、建物の表の顔は凝っている。建築保存運動がおきつつある。ただし、建物としてはつぎはぎつぎはぎで建てて来ているから、プランは悪いし、不等沈下しているし、耐震性もよくないとあって、多分、持ち主は建て直したいに決まっている。
 今の持ち主が建て直すならば、この建物の姿に愛着があるかもしれないから、なんらかの表顔だけでも継承した伸建物にするかもしれないと期待もしたくなる。
 この土地建物をそっくり他の企業、たとえばファンドとか不動産デベロッパーとかに売ってしまったら、通常はそうはいかない。保存なんて儲からない面倒なことはお断り、ってことになる可能性が高い。
 建築デザインとしては二流だが、戦前の建物は珍しいし長く市民に親しまれたから保存したいのも分かる。だが、保存運動はどのような戦略があるだろうか。
 わたしが思うには、最も効果的な保存運動は、毎日買い物に行くことである。
 この数日間は閉店セールの安売りをやっているらしく、店内にはものすごく大勢の客があふれている。いつもと大違いである。いつもこれほどの客が来るなら、廃業はしないで続けられるだろうから、当然に建物も保全されていくだろう。
 建物保存も地方の鉄道線の保存と同じようなことで、へいぜい利用しないでいて、廃止になったとたんにただただ保存をしてほしいといっても、それは無理というものだろう。
 もしもなんらかの保存をされるとしても、うまくいっても今の表の壁の一部を新らしい建物の一部に取り付けてお茶を濁すくらいかもしれない。もっとうまく行けば、今の半分くらいはどこかに再現するだろう。
 ファサードだけでも良いからきちんと保存するなら、なにか行政からインセンティブを与えるとしても、容積率の上乗せしかないだろうが、そうすれば超高層建築になるだろう。この街並みの中で超高層建築が果たしてどうなのか。
 床の使い方としても分譲共同住宅が一番可能性が高いだろうが、それはわたしの主義としては全くいただけない。公的賃貸住宅ならまだ良いが、。


横浜ご近所探検隊が行く(その10)・外国人が作る日本流肉鍋屋 2008年10月1日
 横浜を徘徊老人をやっていて、伊勢佐木町商店街に「肉屋の正直な食堂」なる看板を掲げた店があることを書いた。
(→横浜ご近所探検その9・伊勢佐木町2008年9月16日) 
 書いただけでは申し訳ないので、今日、夕食をそこで食ってきた。要するに牛、豚、鳥の肉を、いろいろな鍋料理にして食わせる肉鍋定食屋である。
 カウンター席だけしかなくて、そのカウンターに電磁誘導加熱装置(induction Heating)がずらりと並んではめ込まれていて、客はそこに置かれた鍋を煮ながら食うのであった。
 味はどうってこともなかったが、煮えてきた豚野菜鍋の中が焦げ付くのである。鍋料理ってのは普通はワリシタとかの水を入れて煮るのだが、ここでは鍋蒸し炒めかと思いつつポン酢で食っていた。
 やがてカウンターの中の女性がやってきて、鍋を指し示して「ミズ、イレマスカ、アリマスカ、、」みたいなことを言っている。「エッ、なに」と問い返してもさっぱり要領を得ない。
 別の男性がやってきて、「水入れるのを忘れてました、ごめんなさい」という。どうやら、厨房から出すときに、あらかじめ入れておく水を入れ忘れたってことらしい。
 このあたりで私は気がついたのだが、顔は日本人と同じだが言葉から判断してこの二人とも外国人らしい。厨房にいる間違えた張本人を見ると、これは立派なインドアーリアン系の外国人顔である。
 その厨房の黒い顔も出てきて、「すみません。鍋と料理をとり換えて持ってきます」というのだが、もう半分も食っている。そんなに食えないから、いいよいいよ、と言うと、「すみません、ではコーラを飲みますか」といって、気を使ってくれる。「年寄りはそんなに飲み食いできないから、いいよ」とやさしく断る。
 「ねえ、君たち、どこなの、コーリア?」と聞けば、初めの男女は中国、厨房の男はバングラデシュだという。
 この外国人3名で日本式鍋料理屋をやっているのかしら、そんなわけはなかろうと、インタネットで調べるとやっぱりチェーン店であった。マニュアルどおりにやれば外国人でも日本式肉鍋料理屋ができるってことである。 ただ、食べつけない料理には、料理人もちょっとマニュアルを間違えるってことか。
 「肉屋の正直な食堂」は、こうしてそれなりに“正直”ではあった。だが、 「正直な食堂」であって、「正直な肉屋」ではない看板は、いまどきはどうも気になる。


横浜ご近所探検隊が行く(その9)・伊勢佐木町 2008年9月16日
 徘徊老人としては、横浜ご近所探検がいちばん面白い。
 「タバコバラ販売はじめました」と、横浜の伊勢佐木町商店街スーパーマーケットの入り口の柱に張り紙がある。
 タバコバラという薔薇があるのか、スーパーマーケットで売るくらいだから、いまどき流行している園芸種なんだろうなあと、ちょっとだけ思った。
 すぐに気がついたが、これは、タバコを箱から出してバラバラにして、1本でも5本でも売るってことに違いない。
 突然に頭は半世紀ぐるぐると回転して戻り、大学生協の売店で、10円玉1個で「新生」5本を買った記憶がよみがえった。
 あの頃、一番安いタバコが新生であったかゴールデンバットであったか忘れたが、貧乏学生のために大学生協だけで「タバコバラ」売りしていたのである。
 ということは、今は大学生協店じゃなくてもバラで売るような貧乏な時代に戻ったのだろうか。あ、それよりも、今も大学生協でタバコバラ売りしているのだろうか。
 「肉屋の正直な食堂」と、レストランの看板にある。笑ってしまった。
 そうだよなあ、BSE対策にかこつけて輸入牛肉を国産牛肉と偽って平気で税金をだまし取った雪印、ハンナン、日本ハムとか。
 偽物の肉を平気で売った丸明、ミートホープ、比内鶏とか。
 あまりに多くて、すっかり肉屋はウソツキが本性みたいに思えてきたもんなあ。その面の皮のものすごい厚さには、もう感銘するほどだ。
 毒肉、偽肉なに食わせられるか分かったもんじゃない。
 でも肉屋さん、ご安心ください、「米屋の正直な食堂」も「魚屋の正直な食堂」も、もうすぐに登場する可能性のある時代になりました。 毒米、偽米、偽産地魚の登場である。
 眼民土干す、え、いや、メタミドホスも腐れた肉も、何でも食って大きくなった、、。


●横浜ご近所探検隊が行く(その8) 隣に高層 共同住宅が、(2008年7月1日)
 わたしの暮らしている横浜都心の集合住宅の北隣に、やはり集合住宅の建設が始まった。こちらと違って分譲型であるらしい。→山田町写真
 事前に周辺地区に配られた建設計画説明書によると、建物は9階建て、半分以上は
単身者向けのような小型の住戸である。
 たしかにここらあたりの都心には、非定住の若者が多いようである。ウィークリーマンションなるホテルとアパートの中間あたりの滞在型ホテルの居住形態も多く見られる。
 その滞在型ホテルとは、どうもはじめからそのように建てるのではなくて、空き部屋の多くなった分譲住宅や社宅あるいは小ビルなどを買い取るか借りるかして、改装して転用しているようである。
 関内、関外あたりで特徴的なのは、1950〜60年代の防火建築帯や防災街区事業として建設した下駄履き住宅の住宅部分をそのように転用しているものがあちこちに見られることである。
 狭い住戸でも一時滞在ホテルならありうるし、老朽化した設備を更新すれば、立地条件は良いのだから、これは目のつけどころが良い。都心部だからこそこのような再生方法があるのだ ろう。
 この営業形態はホテルなのか賃貸住宅なのか。法的な規制はどうなっているのだろうか。このような非定住形態が増えすぎると、定住者との間になにかトラブルが起きそうであることが気になる。
 典型的なことがゴミ出しだろう。このあたりも歩道上の一時集積所に、回収されないままに家具や電気製品が放置してあることが多い。さて、隣の再規模な集合住宅でこのあたりがどう変わるか、ご近所探検隊は不安とともに楽しみである。
 関内の北部の北仲地区の帝蚕倉庫跡地とそのとなりのUR賃貸住宅の一体の大規模な再開発が始まった。
 掲げているお知らせ看板には、地上50階建、高さ200mで、集合住宅(約500戸)、ホテル、事務所、商業施設、専修学校で16万平米という巨大複合ビルとある。このほかにも建つだろう。
 歴史的な建物もある地区だし、横浜の港観光客の目によく見える景観として気になる地区である。予定の2011年5月1日にはどんな風景が登場するのか 、不安とともに楽しみである。
→北仲地区写真


 ●横浜ご近所探検隊が行く(その7) ふるさとの森の横浜国大キャンパス(2008年5月3日)
  この4月から週1回、横浜国立大学に外部評価モニターとして受講に通っている。
  横浜国大を訪れるのは30年ぶりぐらいだろうか、1973年に設立された環境科学研究センターの宮脇昭研究室(植生学)に、個人的に学びたかったり林地開発のプロジェクトに助言を受けたくて数年間にわたって出入りしていた。
  その頃から見ると、キャンパスにはしっかりと環境保全林が育っていて立派な森の中の学園となった。→画像
  元はゴルフ場だったから森はなかったし、キャンパスとして整地工事で赤禿げになっていたものである。
  そのころまで宮脇昭さんが研究を進めていた潜在自然植生理論に基づく植生学を、1970年頃から工場緑化で実地に現場に適用を始めていた。
  それは公害を発生する工場の周りを、密に植えてとりかこむ森の「境界環境保全林」づくりであった。当然にこのキャンパスも実験台にしたである。
  その後、日本全国ばかりか諸外国まで広めた宮脇方式といわれる「ふるさとの森」づくりとなったが、その成功例のひとつをキャンパスにも見ることができる。 →画像
  横浜国大の常緑樹の森は、主に境界環境保全林なのでキャンパスの周囲や建物群のまわりを帯状に取り囲んでいるから、全体的には森の中のキャンパス景観であるが、ひとつひとつの森そのものは、実はそれほど広くはない。
  それににもかかわらず森の中にいるように見えるのは、まさに周りを取り囲むように配置する境界環境保全の役割を果たしているといえよう。
  境界を守っている森は、その中に入って散策するものではない。林床には落ち葉が厚く積もり、枯れ枝が散らばる。密植した苗木が競争して育って、いまや高さ20メートルを超えて空を覆うから、草本や低木類は林縁にしか生えていない。
  シラカシ、タブ、スダジイなどの常緑樹の幹は、30年たっても意外に細いのは、競争の結果であろう。宮脇昭説では、生物は互いに競争しあいながら、互いに我慢しあって生きるのが、実は生存の最適条件だと実験から分かっているという。その現場であろう。→画像
  高木の常緑樹林の外周部の足元周りには、サツキなどの花咲くマント群落を設けて目に優しくまた林床の落ち葉が道にあふれ出ないようにしている。
  しかし、そこかしこに足元が裸のところもあって、今は春の落葉の季節だから落ち葉が広場にも舞っている。それを自然が豊かで良いとするか、掃除が行き届いていないと見るか、人それぞれだろうが、大学キャンパスでは落ち葉が舞っていても良いだろう。
  スダジイ、タブノキ、クスノキなどの常緑樹は、宮脇さんの唱える「ふるさとの森」として、この地域では風土に最も適した樹種で、緑の葉を一年中つけている。
  常緑樹について笑い話がある。街路樹を植えるときに、沿道の住民にどんな樹種が良いかと聞くと、ケヤキのような落葉樹は葉が落ちて掃除に困るから、葉の落ちない常緑樹にせよと要求されることが よくあると、行政の人から聞いたことがある。
  ホンコンフラワーじゃあるまいし、葉の落ちない木なんてあるはずもなく、世の人々は意外に木を見ていないのである。落葉樹が秋なら、常緑樹は春に葉が落ちるのだ。だから横浜国大のキャンパス は、今が落葉の季節である。

  ●参考リンク先→国際生態学センター    →宮脇昭       

 ●関連ページ →緑の生態的景観現代の意志の道


横浜ご近所探検隊が行く(その 6) あの世とこの世 (2008年3月6日)
 いつもこの世の面白いところを徘徊しているのだが、時にはあの世も見ておかなくてはと、墓地徘徊に出かけた。
 わが家から歩いて30分、横浜市西区久保山墓地は尾根筋から谷戸にかけて広大に広がる。案内が書いてあるのを見ると、1874年にできたというから歴史もある。
 そこから眺めわたす景観は、あの世とこの世が交差しているのであった。
 文字通りこの世のランドマークの「横浜ランドマークタワー」やら横浜の高層ビル群が、実に見事にここに収まっているのである。どこからこの世でどこからあの世か分からない。特にランドマークタワーは石塔そっくりであるから、なおのことだ。(→写真)
 墓場を歩いていたら、1920年代建築の表現派風の、墓とも建物とも付かない、高さ4mほどの坊主頭の建物が建っている。近づいてみると無縁供養塔とあるから無縁仏の共同墓所らしい。
 うねうねとする曲線によるデザインは、近代建築史の本のどこかで見たような形である。山口文象の震災記念塔の図案もこのような形だった。
 それにしてもいつのものだろうかと、WEBサイトで調べたらあった。(→サイト) それによると設計は山本外三郎で、1925年に建てられたそうだ。横浜市の吏員だったらしいから、市営墓地にこれを建てるに当たって設計担当したのだろう。良くぞ今まであったものだ。墓地だからこそだろう。(→写真)
 自分の墓地をただいま準備中なものだから、ちょっとは参考になるような墓があるかと思いつつ徘徊したが、そんなものは無かった。
 それよりも、この墓地に行く途中で出会った橋に驚いた。尾根を開削した道路の上に尾根道をつないでかかっている橋であるが、開削した下の道から近づいていって、一見してこれはなかなかなものを発見っしたぞと思った。
 近づけばそのプロポーションといい、気持ちよいアーチの曲線といい、手すりや付属らしい公衆便所まで、なかなのものである。
 銘盤がとりつけてあり、この「霞橋」は1928年にできており、内務省復興曲の設計とある。関東大震災からの復興橋梁のひとつである。
 とすれば、もしかしたら山口文象もかかわっていただろうか、と思いつつ見れば、数寄屋橋や浜離宮正門橋の面影も見える。周りとの取り合いのデザインも、モダニズム建築のの色が濃い。
 やはりこの世のほうが面白いものがたくさん発見できる。


横浜ご近所探検隊が行く(その5) 雪が降った 2008年2月3日
 横浜都心にも今日は雪が降り続いている。積もりそうで、久しぶりのことだ。昨年は雪降ったかしら。
 自宅バルコニーからの眺めはほとんど白一色であるのだが、日産自動車の看板の真っ赤な邪魔さがいまさらに目立つ。
 この看板さえなければ、まあまあの風景なのに、腹が立つ。色の白いは七難かくすというのに、赤看板は逆に醜さが目立ってくる。→写真
 このあたりはほかに屋上看板がないのに、日産だけが掲げている。しかも夜はライトをあてるから、ますます目だって目障りはなわだしい。→写真2
 たとえ車を買うことになっても、日産車だけは買わないぞ。公害や死人を撒き散らす自家用車反対主義だから、トヨタだってホンダだって嫌いだから、万が一のことであるが、。
 そして高架高速道路がなければ、わが家からの眺めもちょっとはよくなるし、離れているとはいえ騒音も少しは減る。
 ということは、これら二つとも自動車がらみの風景である。日本の都市を醜くしているのは、やっぱり自動車産業である。
 郊外道路沿いに並ぶ自動車屋店舗や野外展示場の醜く汚いことにはまったく閉口する。→写真
自動車屋はデザイン産業でもあるはずなのに、どうして景観へのセンスがこれほどに欠如しているのだろうか。
 鎌倉市役所の屋上から街を見ると、建物にかかげる看板がひとつも見えない。さすがに古都であるとて、企業広告も遠慮しているらしい。日産の社長はいつもそっくり返っているだけじゃなくて、ちょっとは見習ってはどうだ。→写真


横浜ご近所探検隊が行く(その4) B級観光(2008年1月29日)
 横浜都心に引越してきたのが2002年9月だから、もう5年半になろうとしている。この間、ご近所を探検を随分やってきているので(早く言えば徘徊老人)、この街の変化が見えてきた。変化を追って探検隊報告をしていくことにする。
 去年の8月の暑い暑い日のしかも午後、友人たちと歩き回ったときのことを書いておく。このときはドヤ街の寿町を出発した。寿町のことは既に書いた。
 名づけてB級横浜観光である。もちろんA級とは、山下公園とか中華街とか港の見える公園である。(B級横浜観光ルート図参照
・永楽町・真金町写真)に入り、突然出てくる中央分離帯のある広い住宅街に入る。ここは永真遊郭とよばれた1950年代前半まで栄えた横浜の歓楽街であり、並木道の両側には遊郭が立ち並んでいた。今は中高層共同住宅街となっており、その裏は戸建の住宅街で、遊郭の後を見つけるのはかなり難しい。数軒のラブホテルや産婦人科、2軒の風呂屋がその痕跡か。大鷲(おおとり)神社には「遊郭」と彫りこまれた石碑もあり、玉垣にはこの地出身の噺家・桂歌丸の名もあった。
・横浜橋商店街写真)は、遊郭街に接する市場の雰囲気をもつアーケード型の近隣商店街であり、このあたりに暮らす朝鮮半島系の人たちの生活に対応する食品物品が多く、昼間から下町商店街らしい活気を呈している。シャッター通りなんてどこのこと?
・黄金町界隈(写真)は、かつて太平洋戦争直後からの都心占領の影響を受けて、このあたりから野毛にかけて大闇市街だった。中でも黄金町は青線街で栄え、黒澤明の監督映画「天国と地獄」の地獄の街として極端な暗黒街に描かれた。京急高架下とその周りの非合法売春街が取締りと再開を長年にわたって繰り返していたが、2年前の徹底的取締りで今は壊滅して空き家が並ぶ。六尺棒をもって24時間の立ち張り番をする出動服姿の警官に「ご苦労様、この暑い中をありがとう」と声をかけ(そう言っておかないと不審尋問されるのだ)、かつては朝から外国人娼婦たちが戸毎に立ち並んでいた売春飲食店跡の空き長屋群(写真の赤いテントの建物)を見ながら大岡川沿いの道を歩く。環境浄化まちづくりが進められていて、一部がBank Art(横浜の芸術創造都市づくり拠点のひとつ)になっている。
・伊勢佐木モール写真)を歩く。買い物する気はないから、戦後横浜まちづくりでつくられた耐火建築促進法による防火建築帯の街並みをいくつも見ながら行く。戦後横浜の復興事業として積極的に建築による街並みを作った努力の跡がまだ健在だが、評価もされずに次第に建替えられていくのが、都市計画の専門家としては気になることだ。
・福富町写真)には、その防火建築帯の典型的な共同建築の街並みが健在である。横浜市ではじめて建築協定(はねだしアーケードや道路から建築セットバックなど)による模範的まちづくりを進めた。当初は問屋街だったのが小売店街になり、今は風俗街となりつつある。そうやって都市の商店街は生きつづけるのだ。
・都橋商店街写真)は、戦後闇市時代から60年代まで続いていた野毛の路上露天商たちを、1964年の東京オリンピックでやってくる外国人たちに恥ずかしいとて、大岡川の堤防の上に横長の二階建て商店街建築を建てて収容した。敷地は半分が道路で半分は河川にある超法規的建築。
・野毛飲食店街にはいる。戦後の大闇市の街は、今は大飲食店街。あまりに暑いので熱中症寸前となり、カウンター居酒屋でビールと串揚げで暑気払いして解散。
関連ページ:◆関内地区戦後まちづくり史   


横浜ご近所探検隊が行く(その3)●川と道の上に建つ商店街
 横浜の都心を流れる大岡川は、櫻が咲き、時はカヌーが行き、埋め立てから逃れた都心のうるおいの空間である。
 桜木町から野毛の飲み屋街を抜けて大岡川に至ると都橋に出る。その橋から川に沿って2階建ての細長いビル形式の都橋商店街がある。
 1階は川を背にして道に向かって主に物販の店が並び、両端にある階段を登ると川の上につきだす廊下に小さな飲み屋が並ぶ。
 とり立ててどうということもない商業ビルだが、よく見ると前半分は道路、後ろ半分は川の上、つまり堤防をまたいで建っているのだ。(写真参照
 建物は交番や地下街でなければ、原則として道路の上下や川の上に建つことはない。これはどうしたことなのだろうと調べたら、奇妙なことが分かった。
 この建物は、正式には都橋商店街ビルといい、1964年に完成している。東京オリンピックの年である。
 横浜は都心部の関内、関外のほとんどが1945年敗戦後すぐに占領軍に接収されたので、隣接する野毛のあたりが闇市となっておおいに繁盛した。そのころから道路上での店を広げる露天商がたくさんいた。
 東京オリンピックで外国人が来ると恥ずかしい風景であるとかで、これを契機に野毛本通りの露店商60軒を、戦後20年ぶり撤去したのだった。
 法的には違法な土地利用であるから、金銭補償はできなかっただろう。そこでそれらの収容先として、横浜市建築公社が建設したのがこのビルである。
 鉄骨造2階建て延床823u、大岡川の堤防敷と河川上空および道路の占有許可で建築敷地として建てた。かなり超法規的な扱いのように思うが、時代が可能にさせたのだろう。
 さすがに所有権を民間に移すことはしないで、ビルを一括して野毛商店街協同組合に賃貸し、これを移転した露天商の組合員に転貸する仕組みとなっている。
 デザインはぱっとしないが、東京オリンピックという時代のまちづくりの記念すべき珍しい建築物といえる。
 横浜都心には戦後復興時代に、その時代としては最先端の防火建築帯や防災建築街区などの建築物が多い。
 戦前の建築は注目されるが、戦後建物は注目されないままに壊されていく。せめて評価してから建て替えしてほしいと思っている。(2008年1月26日)
 関連ページ:◆関内地区戦後まちづくり史


横浜ご近所探検隊が行く(その2)●B級横浜観光 伊達美徳
 横浜の寿町に、1泊観光ツアーに行ってきた。この「寿町」を知っている人ならば、なんでまた物好きな、と思うだろう。そう、まったくもって物好きな7人の仲間で「B横浜お泊りまちあるきツアー」である。
 ドヤの3畳間に泊り、ドヤ街の食堂で300円定食を食い、横浜下町の元遊郭街、元青線街、現風俗街、元ヤミ市街等を歩いたのである。歩いたのは夜ではなくて真昼間のことで、今年の夏はことのほか暑すぎて熱中症直前になり、早々に切り上げて居酒屋に避難、ビールで生き返った。
●寿町とは
 横浜には寿町、東京には山谷、大阪には釜が崎(愛隣地区)、これらは江戸幕府が江戸石川島にもうけた浮浪人の収容所「人足寄せ場」をもじって、現代の3大寄せ場と呼ばれる。分かりやすく言えば、日雇い労働者相手の安宿の街である。9割は単身の男性であり、中には野外に寝起きするものもいる。いわば吹き溜まりの街である。
 横浜の寿町は、横浜市中区の寿町を中心に松影町など約6ヘクタールの地区である。そこから半径500メートルほどの範囲に、元町や伊勢佐木町のショッピング街、山下町の港横浜観光街あるいは山手高級住宅地のような、横浜の有名な街があるところだ。
 約6400人の簡易宿泊所(ドヤ)住人たちが寝起きしているが、人口密度を計算するとヘクタールあたり1000人を超える超過密である。それに高齢化も押し寄せて、今や労働者の街から介護の街になりつつある。
 ここが日本3大寄せ場のドヤ街と言われるようになったのには、それなりの歴史がある。横浜は、1945年に太平洋戦争に負けた日本が、占領軍を最初に受け入れさせられた都市である。連合軍として進駐してきた米軍基地として、横浜港とともにそれに続く関内・関外の都心部が接収され、日本占領政策の中枢となった。加えて1950年から始まった朝鮮戦争では兵站基地となった。
 このことは横浜が戦災と接収という二重苦によって、日本の他の戦災都市と比べて戦後復興が10年は遅れるという大きなハンディを背負った。その一方では、戦争直後の食うや食わずの時代に、占領軍による人員雇用や物資調達の需要で、地域経済を潤したことも事実であった。
 特に横浜港では戦後の占領下の諸物資輸入や朝鮮戦争時代の兵站のために、数多くの荷役労務者を必要とした。主にその労働力需要への対応のために、ここに24時間を通じて日雇い労務者を確保できる簡易宿泊所を設けたのが、今に続くドヤ街である。ヤドをひっくり返した隠語は、宿というにはあまりに劣悪な環境への皮肉であろう。
 1956年にここに職業安定所ができて、どのような経緯があるかは知らないが、計画的に寄せ場としたようである。ここは1955年に接収解除されたが、一般に接収地は元の地主に返還されるのを、当時のドサクサで土地権利が複雑に動いたらしく、いまもその事情を引きずっているようだ。
●寿町には誰がいるのか
 その土地権利者がドヤ建物投資者でもあり、現地には不在地主・家主である。いまはその2代目から3代目になりつつあるのだが、初代の頃とは大きく社会環境が変化しており、新たな対応を模索しているものもいるようである。
 大きな社会環境の変化とは、1970年代から港湾荷役そのものがコンテナー化というドラスティックな技術革新をしたために、かつてのような荷役労務者を必要としなくなったことだ。港湾労働者は激減しても景気の良い時は建設労働者の需要はあっただろうが、今は寿町の職業安定所では求人は全くないという。
 では誰が寿町のドヤに暮らしているのかといえば、かつて若くて体力のあった荷役労務者たちが、仕事がなくなったままにずるずると暮らし続けて、そのまま老いてるのだ。50歳以下は極端に少なく、65歳以上の高齢化率は31.5%(2005年)、そして9割は男単身世帯である。高齢者が多いから病人も多いという。日雇いだったから健康保険も年金もない。8割の世帯が生活保護費を受給している有様である。
 簡易宿泊所の宿賃は、1室ネット約5u(3畳)で2200円/日である。実質的には住んでいるのだから月66000円、つまり13000円/u・月の家賃である。このあたりのワンルームマンションの家賃相場は3〜4000円/u・月だから、これは超高価格で有利な不動産投資である。だからだろうか、このところ古いドヤ建築の建て替えが盛んだし、寿町隣接地にも建設がある。建て替えも新築も3畳間が主流で、高層化すれば土地利用効率が良くなる。
 だが実は、その投資側にも問題がある。なにしろ需要が減るばかりであるのだ。いまや高齢化して介護の街となりつつある港湾労務者の成れの果て住人たちは、今後は決して増えることはない。格差社会が進行しているとしても、ここで新にドヤ暮らしにやってくるものが増えるとも考えにくい。
 現に簡易宿泊所数は118 軒、8461 室あるが、住人は約6400人(2005年11月)であるから、2000室程度は空いていると見られる。空室率2割はホテル事業としてはぎりぎり採算点だろうが、この有利な投資が今後そう長くは続かないことは目に見えている。
 つまり寿町は、住人は減少する一方であり、街には建物はあるが空洞化しつつあるのだ。その立地と現象は、まるで地方都市の中心市街地と同じだが、違うのはあまりに街のイメージが下流(げりゅう)に過ぎて、中心市街地のようなある種の歴史的な求心力を持たないことである。
●ドヤの街からヤドの街へ
 そのような寿町には、今、多様な運動体による活動が起きている。当然のことながら、生活支援や医療、介護等の福祉関係の活動団体は多い。ここではそれらと連携しながらも、ちょっと異なる活動を紹介しよう。
 それは、簡易宿泊所の空き部屋を活用することによって、街に活気をつくり出そうとする活動である。この街を「ホステルヴィレッジ」と名づけて広く紹介し、あちこちの簡易宿泊所の空き部屋をリニューアルしてホテルとして、横浜観光客をここに泊らせようというのである。
 どこの観光客が「ドヤ街」なんかに泊るものか、と思うが、やってみると結構いるのであった。都心であるから何かと便利であるから、なんの予備知識もない外国人、懐のさびしいバックパッカーやスポーツ遠征隊など、さまざまな客が1泊3000円の宿賃につられてやってくる。
 その「ドヤの街からヤドの街へ」の事業をやっているのが「ファニービー株式会社」である。このたびのツアーでは、この会社の幹部のかたに寿町ツアーガイドをしていただき、インタビューをした。
 この会社は、地域で福祉活動を行っている非営利団体の「NPOさなぎ達」を運営している人たちが立ち上げた。この街の簡易宿泊所に空き室を持っているオーナーたちと契約し、その空き室をホテル(ホステル)として運営し、売り上げをオーナーと折半しているビジネスである。ツアーガイド・インタビューもビジネスとしている。
 ハードウェアとしてドヤの建物が再生し、ソフトウェアとしても新たな人たちの流入で街に活力を再生するのである。このビジネスは、まさに「まちづくり」活動である。まちづくりをビジネスとしていることは、実にすごいことだ。採算がとれているかどうか聞かなかったが、新たなビジネスモデルである。NPOと会社の両輪であるところも、先進的である。
●普通のまちへ
 この街の姿も、ここで活動する人々のおかげで、この数年で随分きれいになったのだが、それでもまだ歩くには、非合法らしいと店もあってちょっと引いてしまう。それがここにどんどん見知らぬ宿泊客たちが入りこんでくれば、「普通の街」に変っていくだろう。
 「普通の街」とは、特定階層の人がいる特定機能の街ではなく、多様な人々が暮らし、働き、行き交う街のことである。「多様な人が今の寿の町の良さを残しながら、何かを排除してのまちづくりではなく、懐の深い街として、現生態系を残しつつ、街の元気さを取り戻してゆきたい」と、ファニービーのリーダーたちは語る。これこそまちづくりの本質である。ニューヨークにおけるようなゼントリフィケーション(下層階級追い出し策)ではないのだ。
 現に外国人やら若者がウロウロしていて、その気配が見えてきている。駅に行くにも遠回りして避けていた近所の人たちも、ちかごろは通り抜けるようになったそうだ。そしてさらに普通の人々が住み働く普通の街になれば、まさにそれは特殊な街だった寿町の再生である。
 地域内部は行き詰まったなかで起きてきた内部不経済を克服するのに、外部経済を利用するのだ。それは実は、ここが横浜都心に立地するというポテンシャルの高い内部経済の顕在化である。
 もっとも、ここが普通の都心の街になっていくには、それなりに課題はいくつもある。まずは、空き部屋に非合法な営業がはいってこない対策がいるだろう。黄金町の非合法飲食店街排除のような強力なクサビが、原状対策としても予防対策としてもいるだろう。
 クサビの反対のカスガイとしては、高齢化する人たちへの福祉的対応がますます必要となる。別の意味でその盾の両面となる強力なカスガイが、ホステルビレッジ事業である。
 現在の小部屋ばかりの建物が過密に立ち並ぶ環境は、決して普通のビジネス街や住宅街には適さないので、再投資が必要になる。つまりガタが来たところをカスガイでとめる段階の次には、新規普請も必要になる。
 それが個別投資のままでは街としての再生は難しいから、総合的な計画や特定のインセンティブ政策あるいはコントロール策も必要である。普通の街を見越した公共投資の先行が望まれるところである。
 潜在するポテンシャルが高いだけに、空洞化して実質的な住民がいなくなる街に登場する投資家のビヘビアが気になるところだ。(070903、070906補筆)
●参考サイト・ページ
a・
NPO法人さなぎ達 http://www.sanagitachi.com/wiki/?FrontPage
b・Funnybee株式会社
http://www.funnybee.co.jp/top/company.php

c・Funnybee
往来日記 
http://blog.goo.ne.jp/tomoko_y0306/
d・ねたままでしつれいします。http://netamama.funnybee.co.jp/proof/ytkr.html
e・
Yokohama Hostel Village http://yokohama.hostelvillage.com/ja/
f・寿地区が「ドヤの街」から「ヤドの街」へ
 http://www.hamakei.com/special/72/
g・まちあるき観光ビジネス研究会 http://www7b.biglobe.ne.jp/~machikan/

●追記(2008年9月23日)
 上記のサイトのうち、aからdまでが今は消えている。ホステルビレッジは今も健在だが、その経営会社のファニビーは消えたか休眠したのか、別の会社の経営になっていることがウェブサイトから分かった。
 現地をぶらぶらすることもあるが、2007年に訪ねたときにいらしたあの活動家の女性リーダーの方(ファニービー社長だった?)が、今は姿が見えない。
 また、「ハチ」さんと呼んでくれといっていた案内担当の奇妙な男性もいないし、彼が書いていたブログ「ねたまま・・」も消えた。


横浜ご近所探検隊が行く(その1)●ご近所探検隊出発!(まちもりコラム2003年5月号)  
 2002年10月から横浜の都心(関外)に暮らしている。鎌倉の緑あふれる谷戸の中から抜け出して、車の喧騒の街中で暮らして半年たった。
 去年まではわが家で鶯を聞きながら、ご近所に花見散歩の春だったのに、今年は車の騒音を聞きながら、バルコニーから桜を遠望したのだった。
 だが実は、ここの街もなかなか面白いところであることが、予想にたがわずわかってきた。自転車による「ご近所探検隊」を結成して(隊長の私一人だけだが)、暇があればぐるぐる回る。
 四半世紀前にも、横浜(郊外の公団の団地)にいたことがあり、鎌倉に移ったときも「ご近所探検隊」をやったが、このときはときに息子が隊員だった。
 そのうちに隊員は育ってきて、隊長に付き合ってくれなくなってしまい、一人探検隊になってしまったが、社寺やハイキングコースそして街など、鎌倉もなかなかの探検しがいのあるところだった。

 さて、横浜都心一人探検隊の復活である。
 わが家を中心に半径1キロくらいをとって、地図をしげしげと眺めると、これはすごい、都市のあらゆるものがそろっているのだ。何しろ野球場だって高速道路だって地下鉄だってあるのだから。
 住宅ならば、山手の超高級住宅街から、寿町という東京の山谷・大阪の釜が埼に匹敵するいわゆるドヤ街がある。
 ホテルだって、寿町の一泊500円くらいのドヤもあれば、有名な風俗街である福富町あたりのラブホテル、関内のシティホテルもあるのだ。
 黄金町あたりには、昼間から化粧濃いミニスカート女性が店先に立ち並ぶ。いちど平日の真昼に通ったが、鉄道ガード横に間口7尺程度で立ち並ぶミニ飲食店街には、なかなかの見ごたえある(なにが?)風景が展開する。さすがに写真をとる勇気は無かった。
 もちろん、伊勢佐木町、馬車道そして横浜元町商店街などの高級なストリートもある。庶民的な横浜橋商店街は、アーケードのかかった市場的な雰囲気でにぎわう。野毛も中華街も飲食店街として、にぎわっている。
 1キロをもう少し出ると、山下公園あたりの観光の街となる。

 「まちづくり」の目で見ると、興味深いのは福富町である。今は風俗街となっているが、かつては問屋、小売屋の集まる賑わいのある街だったので、40年前に積極的なまちづくりをやっていた。その痕跡を見ることができる。
 でも、探検隊はまず昼の福富町からである。夜の福富町探検は、お金とエネルギーが要るので、どこか別の探検隊にお譲りせざるを得ない。
 もうひとつの興味深いところは、なんといっても寿町である。ここがどうしてドヤ街となったのか、ドヤ街の生活はどんなものだろうか、探検隊はまだ探検の仕方がわからないでいる。

 話が身に合った下々に流れてあとまわしになったが、もちろん文化施設もいっぱいある。音楽ホール、演芸場、画廊など、文化探検もできるが探検というほどではない。もっとも、ライブハウスは探検してみたい。
 いまこのあたりは、マンションという名の高密共同住宅開発ブームである。山下町の港に近いほうにが特に開発が著しく、海が見えるのキャッチフレーズで売り出しが盛んである。
 共同住宅開発がしだいに隣接街区にドミノ的に建ってきているから、環境的には危ないものだ。不良資産となる可能性も高い。
 私のところは公社賃借住宅だが、まわりにしだいに高層ペンシル共同住宅がたってきている。いつ目の前に建てられて日陰にされるかもしれない。そのときは、賃借の強みで、家主に別の家を頼むことになるだろうから、気楽だ。とはいっても、引越しがめんどくさい。

 わが家のあたりは、昔からの横浜の真髄があるとも言うべきところかもしれないと、探検隊は予備探検をして、しだいに確信してきたのである。
 都市景観がどう変わるか、定期的、定点観測的に写真を撮っておこう。
 ということで、ときどき、<まちもり通信>に探検記録を載せることにしましたので、まずは予告編をごらんなり、ご期待(なにを?)ください。(030504) 

 

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