12.闇の在り処
白いひこうき雲。
もうとっくにまわりの青に溶けてしまった。
今、空には雲一つない。
彼女は、いつ、どこでそれを見たんだろう。
記憶のない君に、せめて・・・せめてこの空を、見せてあげられたら。
音だけの闇の世界で、ひとりぼっちでいる君に。
この明るい光は、僕一人で見るには眩しすぎる。

『ちゃんとした会話ができるようになったのは、大した進展じゃ。最初こそ、お前さんの言葉に反応したとはいえ・・・あとはずっとちぐはぐだったからな』
ギルモア博士はそう言う。
『まだ、自分の心の世界と現実が上手く結びついていないようだが・・・それも少しずつ、繋がっていくじゃろう。だんだんと、な』
―――進展か。
ジョーはため息をついた。
だからどうなんだ?
「進展」すれば、確かに何もかもはっきりしていくだろう。
だが、彼女はますます辛くなるだけだ。
明けない夜はない。そう思いたい。でも―――
ジョーは苦しげに空を見上げ、そしてゆっくりと窓辺から離れた。
ベッドに横たわるフランソワーズの上にかがみこむ。
青白い頬。血の気のない唇。額にかかる亜麻色の髪をそっとかきあげる。
―――なのに、君は必死に耐えて、懸命に思い出そうとしてる。
今のままではいけない、と必死になっている。
『・・・思い出さなければいけない?』
思い出せない自分を責めて、また混乱して。
もう、いいんだ。思い出さなくてもいい。
十分すぎるほど、辛い思いをしたはずなのに。
まだこれ以上、君は苦しまなければならないのか?
僕に何ができる?ただ黙って受け入れる?
君が一人で苦しんで、闘っているのを見ているだけなのか?
「辛すぎるよ、そんなこと・・・」
ジョーはあふれる涙をぬぐおうともせず、冷たい頬にそっと手を伸ばした。
と、小さな唇がかすかに動く。
「・・・ジョー・・・」
長い睫毛を伝って、涙が一筋零れた。
「フランソワーズ?!」
意識のないままの呟き。
胸が熱くなる。
「また・・・僕のこと・・・思い出してくれてるの?」
そっと頬を寄せる。
彼女は辛そうに、ああ、と小さく吐息を漏らした。

君の記憶のどこかに、僕がいる。
夢の中でも、悲しい思いをさせてるのか。
君の瞳に映った最後の僕。
君にあんな哀しい目をさせた僕を、完全に君の記憶から消してしまいたい。
なのに僕は―――。
それでもほっとしているんだ。
君の心のどこかに僕がいることを知って。
君がこんなに苦しんでるとわかっていながら。
ずっと、耐えられなかった。
君を失ったと思ったあの時の自分の苦しみ。
傷つけたまま失ってしまったという後悔。
それが、永遠になってしまうことに。

ただ・・・黙って受け入れる。そのままの彼女を受けとめる
何も思い出せない君も、混乱している君も、そっくりそのまま―――
そうしなければいけない、とわかっている。
でも僕は、それ以上に・・・君に受けとめてもらいたがってる。
気づいて欲しいんだ。こうやって君のそばに僕がいることに。
それが、君の苦しみを増しているかもしれないのに。
もし君なら―――
何も言わずに、僕のそばにいて支えてくれるんだろう。
どんな僕も、そのまま受け止めてくれるだろう。
あの時、そばにいてくれたのは・・・確かに君だった。
他に誰がいる?
あんなに優しく、あたたかく・・・僕を包んでくれるのは・・・君しかいないのに。
そんなことは初めからわかっていたのにね。

どんな夢を見てるの?そんなに辛そうにして・・・。
僕は君に何がしてあげられる?
本当にこうやって見ているだけしか出来ないの?
心の世界を彷徨っている君の、道標にはなれないのか?

浅い眠り。
苦しげな息づかい。
ほどけない心の糸。

大きく上下する細い肩を見つめて、ジョーは唇を噛みしめた。


                           *


―――ここはどこなの?

ようやく漆黒の帳が動き始める。
ぼんやりとした薄明かり。
暁の訪れ?
ちがう。
視界を覆うのは鈍色の空。
カツーン、カツーンと尖った足音が響く。
去って行く闇の深さを鋭く突きつけられるだけ。

ここはどこ?

『お前は仲間を・・・』
私が仲間をどうしたの?仲間って?
『そんなに自信があるってわけ?』
『君がその目と耳を・・・ちゃんと使ってくれないと』
目を使う?
『絶対に君を・・・おいて行ったりしないから』
『何も見えないのか?』
『とても興味があったわ。そう、特にお前には』
私に?どうして?
『あ・・・ひこうき雲だ』
『オマエのおかげ、でね』
『それは恋人の名前?』
恋人?
『お楽しみは・・・あとでたっぷりと、ね』
『仲間を危険に晒すわけにはいかない』
『じゃあ・・・取引だ。君を・・・』
私を?
『マ・・リア・・・』
『悪とか善とか・・・僕にはどうでもいいことだ』
『仲間?全く・・・ロマンチックな響きね』
仲間?ああ、いったい・・・
『ただの女じゃないか』
『君には・・・負けたよ』
『モルモットの分際で何を言う』
『君はサイボーグなんだ』
サイボーグ?
『シンシアの考えそうなことだ』
『君が・・・怪我しなくて良かった』
『オマエが殺した』
殺した?誰を?
『怖かったんだね・・・でも、もう大丈夫だから』
『自分のその目でよく見ればいいわ』
『ごめん・・・僕が余計なことを思いついたばっかりに』
『それでも信じてるの?全く、オメデタイわね』
『早く!早く撃つんだ!』
『他にどんな方法がある?』
『女神の薔薇色の指?』
『あれが本当の姿なのよ!よく見るがいい』
『一緒に帰ろう』
『そう、オマエが一番恐れているのは・・・』
もうやめて!!
両手で耳を覆っても聞こえてくる、嘲り笑う声。
ここは・・・どこなの?
あの氷の宮殿?
また連れ戻されたの?あの暗闇の中に?
寒くて凍え死んでしまう。
くっきりと浮かび上がる冷ややかな微笑。肩を掴む荒々しい手。
怖い・・・。
助けて!
私は今・・・どこにいるの?
ここはどこなの?

『君は大切な仲間だ』
仲間?
『お前は仲間を』
私は仲間をどうしたの?
『彼女は仲間だよ』
仲間?ここにいる人たちが仲間なの?
こうやって私の手を握ってくれている人も?
私はいったい何者なの?
私は何をしたの?仲間をどうしたの?

『気がついた?・・・ああ、よかった』
ここは・・・どこ?
『昏睡状態がずっと続いていたから。・・・さすがの僕も、自信がなくなってたんだ』
どうして声が出ないの?
『本当に何も心配しなくていいんだよ。ひどい怪我だったけど・・・』
あなたは誰?
『今はとにかく・・・もう少しお休み・・・』
私は・・・どうなるの?
ああ、ジョー!

かたん、と音がした。誰かが立ち上がる気配。
また夢を見ていた。
いつも同じ夢。凍りつきそうな、寒い夢。
見ている時には、ああ、また同じ夢だと思う。
なのに目が覚めると、どんな夢なのか思い出せない。
夢の中で、私は必死に叫んでいる。自分に言い聞かせている。
これは夢なのだ。夢であって欲しい、と。
なのに夢から覚めた途端、わからなくなる。
失くした記憶どころか、今の私は、自分が見た夢さえ思い出せない。
でも思い出さなければ、ずっと私はこのまま。
どうなってしまうんだろう。
どうすればいいの?
ここはどこなの?

近づいてくるのは誰?
肌に感じる柔らかな陽射し。
これはあたたかい春の光?
ここはどこなの?
私は、ここにいていいの?
誰かが、そっと顔を寄せる。
「気がついた?」
この人は誰?
「ここは・・・どこ?」
「ここはね、僕たちの研究所だ」
優しいこの声は・・・?
どうしてこんなに優しいのに怖いの?
私は・・・。
「・・・研究所?」
「そうだよ。2つ目のね。前のは・・・今みんなが直しに行ってる」
「みんな?・・・あなたは・・・誰?」
「僕?・・・僕は・・・」
なぜ口篭もるの?
聞いてはいけなかったの?
「・・・ジョーだよ」
「ジョー?」

ジョー?・・・どこで聞いたのだろう。
私はその名前を知っている。
唇が自然に動く。
きっと、何度も呼んだことがある名前。
でも―――
なぜ何も思い出せないんだろう。
私は何を怖れてるの?
きっと・・・私は知っているのだ。
あの闇の正体を。そこに何があるのかを。
逃れようとしても、決して逃れられないこともわかっている。
なのに、こうしてただ怯えているだけ。
思い出さない限り、闇はそこにあり続けるのに。
あなたは誰?
どうして、そこにいるの? 
ここは・・・どこなの?
私は――― 
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