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雑種地

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“目標は「音楽のようなマンガ」をかくことと週休二日”

岡崎京子は言った。

いや言ったのか何かに書いたのかは知らない。ただ89年にでた彼女の単行本『ジオラマボーイ パノラマガール』のカバー袖の著者紹介にはそう書いてあります。

音楽のようなマンガ。
という発言からふつー連想するのは、岡崎京子がマンガに描きこんだ音楽にかんする名詞の数々なんだろーな、たぶん。

岡崎作品はポップミュージックへの言及や引用がやたら多い。岡崎作品読んでフリッパーズ・ギター聴くようになった、という人もいれば、「東京ガールズ・ブラボー」の金田サカエが描いたマンガにレジデンツが描きこまれてるのを見て喜んでしまったというひともいる(私だ。皆さんは好きですか?レジデンツ)。

ただ、私が岡崎京子のこの言葉読んで連想したのは、高野文子の作品とか佐々木マキの作品だった。

で、なんとなく、“音楽のようなマンガ”の系譜ってのがあるのかもなと思ったのだ。

そのへんのことをちょっと書いてみたいんですが。





マンガにおける音楽的なもの、てなこと考えるときは、手塚治虫作品とかから考えていくのが真っ当なやりかたなのかなあと思う。手塚治虫の特に初期の作品はミュージカル的シーンが多くある。なんせ宝塚文化とディズニーのアニメーションが根っこにあるマンガ家だし。

乱暴に言えば手塚治虫作品での「音楽」はそのまんまミュージカルで、ディズニーのアニメーションだ。彼の作品にあらわれる音楽は、そのオハナシと一体になっている。

手塚作品のオハナシは意味を伝える大事な器で、その器の輪郭をハッキリさせるために音楽が鳴らされる。
手塚治虫の作品での「音楽」は意味を伝える道具として使われているような感じだ。

手塚的な「音楽」の使い方をさらに強力に使いこなしているマンガ家というと、私は萩尾望都が思い浮かぶ。

手塚作品がクラシック音楽的だとすれば萩尾の作品、たとえば『銀の三角』の超絶技巧的語りはまるで現代音楽だ。
でも手塚作品同様、この作品でもオハナシと音楽的な要素は一体になっている。
「音楽のように」物語は進むし、「物語のように」音楽は鳴らされる(まあ『銀の三角』なんかの場合、アイディア自体がモロに音楽と物語の関係を扱っているけど)。





だけど、
先に挙げた3人のマンガ家、佐々木マキ・高野文子・岡崎京子の作品における「音楽的なもの」は手塚作品のそれとはちょっと性質が違うように感じる。

手塚や萩尾の作品に対して、先に挙げた岡崎京子を始めとするマンガ家たちの作品では、意味よりも音楽的なものが持つリズムやスピード感が重視されているような気がする。

手塚・萩尾的作品では物語の高揚を音楽的演出が支えるのだけど、佐々木・高野・岡崎的作品では、物語の流れとは別に、音楽的なノリやリズムが登場人物たちをとらえる。オハナシの進み行きとは垂直に流れ込んでくる音楽。





佐々木マキは60年代終わりにガロでデビューしたマンガ家(現在は絵本作家)で、脈絡なしにただ詩的イメージが連続するようなマンガをいくつか描いた。

彼の(その頃の)マンガはストーリーがまったくないわけではないんだけど、少なくとも手塚的な意味でのストーリーの要素はとても薄い。それでも彼の作品を読み進むことができるのは、コマの並びにリズム感があって、絵に統一されたスタイルがあるからだ。

スタイルだけあって内容がない。
と言うとつまりカッコだけってことですか?
それが、そうでもないんですね。

佐々木マキの作品は強い感情を孕んでいるんだけど、その感情をストーリーの次元で説明する、ということはしない。絵のスタイルとコマのリズムに直接感情を背負わせている。
読者に対して不親切といえば不親切。発表当時は難解ということで評価もあまりされなかったとか。
だけど、こういうやり方ではじめて伝わる種類の感情というものも多分ある。

こういうやりかたが常にうまくいくというわけではないと思う。佐々木マキ作品も出来不出来が激しい。





でも高野文子の場合は恐ろしいことに、それがほぼずっとうまくいっているように見える。

彼女の作品は佐々木マキの作品とは違って、明確な主人公と筋を持っている。物語というほど大仰なものではない、ごくささやかな物事の継起を描くのがうまいマンガ家だけど、長篇『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』のように“昔のハリウッド映画のような”物語を描くこともする。

その『ラッキー嬢ちゃん…』という作品では勇敢な少女のデパートにおける冒険、王子様付きのハッピーエンド、というオハナシがレトロな意匠で語られる。
一見正統派というか王道というかまったくもってクラシックな娯楽作品を目ざしているように見えるんだけど、読むと何かすごくヘンなんである。

実のところ『ラッキー嬢ちゃん…』のオハナシは、主人公の少女をあちこちに動かすための口実のようなものなのだと思う。オハナシそれ自体は目新しい意味を抱えているわけではない。楽しいオハナシではあるけど。

この作品で印象的なことの一つは、コマとコマの間の時間が実に自在に操作されている点だ。
作者はコマのリズムを操り、大胆なアングルで空間を切り取る。少女の緊張や高揚はコマのリズムと絵のスタイルから直接伝わってくる。





実は、岡崎京子の言った「音楽のようなマンガ」の一つの理想は、高野文子の作品なんじゃないか、という気がしている。
例えば岡崎の初期の短編で『ドッペルゲンガー』(『ボーイフレンドISベター』所収)ってのがある。これと高野の短編『AM10:00の家鴨』(『絶対安全剃刀』所収)をみくらべてみよう。この二つの短編はどちらも大きなストーリーはとりたててない、女の子(たち)の日常が描かれる。起伏の無いオハナシに感情はのっからない。
ただコマのリズムと絵のスタイルが、何かいわくいいがたい感情をはらんでいる。
私は、二つの短編は同じところを目ざしているよーな気がするのだ。もちろん、ひどくおおざっぱな見方ではあるけど。

二つの短編をくらべると、高野文子のスタイルは岡崎京子よりはるかに洗練されている。ただ、その分単純な感じもするが。
実際、高野文子の作品はデビュー当初から恐ろしいような完成度を持っている。彼女の作品を読む度に天才ってのはいるもんだなあと思う。





もっとも岡崎京子の作品を読んでも天才ってのはいるもんだと思うけれど。
岡崎京子は、あまり完成度ということは気にしてないように見える。むしろ作品を大量にかきつづけること、利用できる資源を全部使い尽くすこと、勢いを保って先に進みつづけること、が彼女の望む事なんじゃないだろうか。そして進みつづけたあげく、彼女は『リバーズ・エッジ』においてほとんど前人未到の場所まで来てしまった。





オハナシの構築に熱心なのが手塚的マンガだとしたら、佐々木マキや高野文子や岡崎京子のマンガはそのことについてはそれほど熱心じゃない。 佐々木マキはオハナシの構築をわざと放棄した。
高野文子はコマの操作と絵の技術が天才的に際立っていたので、オハナシがあんまり重要なものではなくなった。

岡崎京子はマンガを読み音楽を聴き、そして「音楽のようなマンガ」を描きたいと言った。

彼女は貪欲だ。利用できる資源は全部利用しようというように、彼女の作品は他のマンガや音楽や映画や文学の引用で溢れかえっている。

驚くのはあちこちから引っ張ってきた断片的要素が、作品の中で力を失っていないこと。

だから彼女の作品中で引用される様々なものの断片に再会するのは楽しい。それは、ああそうだこれこれこれ、あれは確かにこんな感じだった!という“感じ”に再び出会うことだから。

いうなれば「耳」がいいんだよなあ、と思う。映画や音楽、マンガの中に現れる魅力的なリズムと音色を彼女はすばやく捕まえて自分の作品に放り込む。スタイル、リズム、音色、全体の文脈と関係ないところで直接感情を揺さぶるもの、そういうものに対する感覚がものすごく鋭く的確なひとだ。魅力的な断片をさっとつかまえてきて、自分の作品の中でそれをうまく放つのだ。





多分私が今ぼんやり考えている「音楽のようなマンガ」の系譜ってのは、結局は岡崎京子のような「耳」の系譜なんだろう。オハナシで意味を伝える、ということが難しい時代でも、リズムとスタイルは確実に何かを伝えることができるのだと思う。

まとめてみます。 マンガには「内容」が無い、だからオトナがまともに相手するものではない、というのが常識だった頃、手塚治虫は「内容」のあるマンガを描いた。「内容」や「意味」といわれるものをストーリーの器でうまくパッケージする方法を、彼はつくりあげた。

手塚の作った方法を様々な人々が鍛え上げた後に、岡崎京子たちがあらわれる。
現在、手塚的作品がもはや無意味になった、というわけじゃない。だけど、もうそれじゃ足りないくなってきたのだ。
オハナシという容量の決まった器から溢れ出す何か、もはや意味づけが追い付かない感情を彼女らの作品は捕らえる。

彼女らの作品では、手塚作品みたいにラストで「ついに世界の謎が解きあかされ」たりはしない。 でも別の種類の高揚が彼女らの作品にはある。ウォークマンで音楽聴きながら歩いている時に不意に感じるような。





ウォークマンといえば、今年で発売20周年だそうな。
で、今私は九州のナンモナイ田舎で働いているんですが、最近ウォークマンを買った。

ウォークマン聴きながら駅前を(田圃の横を、職場までの道を)歩く。あるいは自転車で走る。
かわりばえのしない毎日ながらどうも先が見えなくて、どうしようもねえなあ(何が)とかダメだなあ(自分が?)とか漠然と思いながら移動する、角をまがる、坂道を下る。

自転車で坂道を下りてるときにテープが裏返っていきなりXTCがバカ明るい演奏はじめたりして、上を見て青空に気付く。頭上の電線がするする後ろに走っていくのが見えたりして。
状況はあいかわらずダメなまんまでも、気分はどんどん高揚して果てがない。
なんだか簡単にできてるなァ自分、てなことを思うわけですたい。そんな時。

今の私を動かしてるのはたぶん、手塚的な大掛かりなオハナシではなくて、ウォークマンから聴こえてくる音楽のような、切れ端めいた感情だ。それがいいことなのか悪いことなのかわからない。情けないと泣くひともいるかもしれない。泣かないか別に。
ともかく岡崎の言う「音楽のようなマンガ」ってのはその手の感情をすくいあげてるような気がするんですよ。私は。

いや、本人がどういうつもりで「音楽のような」と言ったのか、結局わかんないですけど。(7 29, 1999)

参考
「ジオラマボーイ パノラマガール」岡崎京子、マガジンハウス刊
「銀の三角」萩尾望都、小学館
「ピクルス街異聞」佐々木マキ、青林堂刊
「絶対安全剃刀」高野文子、白泉社刊
「ボーイフレンドISベター」岡崎京子、白泉社刊


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