
ゴダール先生に『右側に気をつけろ』という映画があった。公開時に映画館で観たんだけど、どんな映画だったかもうきれいさっぱり忘れてしまった。
ただその中に“地上に一つの場所を”という字幕が出てきて、その言葉だけ妙に憶えている。
岡崎京子の『カトゥーンズ』という単行本を読んでたら、作者があとがきに“地球に一つの場所を”なんてことを書いていた。わー同じ所が印象に残ってたんですねー、てな工合にとりあえず喜ぶのは、まあ、あれですね、ファンだから。
引用の意図云々は別にして、この言葉は岡崎京子のマンガになんとなく似つかわしいと思う。
どたばた騒ぎのあげく行き場を失った岡崎作品の登場人物はよく青空を見上げる。その時彼(彼女)らは
“地上に一つの場所を”
と考えてるんじゃないか。
…てなことを思うわけですが。なんとなく。
そう言えば『右側に気をつけろ』も青空のカットから始まる映画だったような気がする(青空というか、飛行機から撮った雲のショットだったっけ)。
“地上に一つの場所を”という言葉で思い出すマンガ家というのはもうひとりいて、大島弓子だ。『綿の国星』以降の大島弓子は特に、“地上に一つの場所を”と言いつづけているような気がする。
猫と人、男性と女性、大人と子供、親と子、死者と生きている者等が何の媒介もなく出会い、関係することのできる場所。
世間とうまく折り合えない(事が多い)大島作品の登場人物たちは、どこかでそういう場所の存在を確信しているように見える。
それは、一体どういう場所なんだろう。
大島弓子の中篇『クレイジー ガーデン』(単行本『ロストハウス』所収)を題材にとって、そのへんのことについて少し書いてみよう。
下のリンク先ファイルに『クレイジー ガーデン』のストーリーを書いた。
一応最後の部分まで書いたので、まだ読んでいない人でこれから読む予定の人は注意したほうがいいかもしれない。
(それにしても、この作者の作品って、ストーリーだけみると、どうしてこんな話が作品として成立するのか不思議だ)
(彼女の作る物語は、読者が既に知っている物語の類型にあてはまらない。とっぴょうしも無いエピソードが続く様はまるででたらめにさえ見える。だけど注意して読むと、彼女が、いわば数式を展開するように各エピソードをつなげているのが見えてくる。そのやりかたは『現実的』では全然ない。でも論理的だ)
(彼女の作品は詩的と形容されることが多いようだけど、たとえるなら詩よりむしろ数学ではないだろうか。二つは別に矛盾しないといえば確かにそうなんですけど)
『クレイジー ガーデン』の最初の方で、レンガは部屋をシーツで二つに区切る。女子高校生テルの領域と、大学生レンガの領域。
この二人の領域は、ずいぶん対照的だ。
表にするとこんな感じ。
| レンガ | テル |
| 卒業を控えた大学生の青年 | (元)高校一年生の女の子 |
| 都会育ちで標準語を話す | 田舎育ちで方言バリバリ |
| 一人でアパート暮らし | 家族と代々続いた家に暮していた |
| 他人にクールに接するのが信条 | 素朴でひとなつっこくて元気 |
| 見知らぬ80人と文通 | レンガが唯一の文通相手(多分) |
そしてテルがホームシックにかかって泣く時、そのかたわらでレンガが次のように独白するのだが、この独白には二人のいる場所の違いがはっきり現れている。
“ホームシック/こいしさの果ての病気”
“人への植物への/動物への匂いへの/光への病気”
“僕には/そういう病気のくるしみは/まったくわからない”
テルのくるしみを前に“まったくわからない”と呟くレンガは、しかし共感を欠いた冷たい人間というわけではない。テルのホームシックに同情しつつも自分はそのくるしみを知らない。だから、共感する資格に欠けている、という風に、わからない、ということばが呟かれる。
ふるさとの山林を愛し、東京のファーストフードやコンビニの光も同じように愛するテルの側には、“固有のものへの愛”とでもいうべきものがある。
具体的なものについて、それがそれ自身であることに惹きつけられる愛。
レンガの側にはどうもそういう種類の愛は薄い(ように見える)。
だけど、彼の側にはまた違った種類の愛がある
レンガは80人もの相手と文通をしている(あ、ネットワーカーだ!)。なんでそこまで文通が好きかといえば、次のようなわけだという。
“今 世の中で/一番謙虚で/非暴力的な/意思疎通は/手紙じゃないかな”
“なにも強要しない/音もたてない/ただそばに着く”
“文通相手の中には/一年も二年も/音沙汰ない人もいるよ/でもぼくは/いつまでも待つんだ/それで充分いいんだ”
普通、手紙というのは意思疎通のための積極的なアクションだ。しかしここでレンガが“手紙”を賛美する理由は少し違う。彼は相手からリアクションが無くてもかまわないという。
レンガは、多分、相手に届けるメッセージの内実より、“文通という空間”を愛している。そこは“なにも強要しない/音もたてない/ただそばに”いることができるような空間だ。
テルへの手紙に、レンガは次のように書く。
“文通だけで/くらしてゆきたい”
“そんなことができたら/どんなにか/いいでしょう”
彼は、“文通空間”の住人になりたいのだと思う。
テルがふるさとの山林に恋いこがれるように、レンガ青年は“文通空間”に恋いこがれている。
テルはふるさとの山林を自分の手元に置きたいと願う。レンガは抽象的な文通空間に住み込みたいと願う。
二人の願いは反対方向に向いている。一方の願いは具体的で固有な場所に向い、他方は抽象的で普遍的な場所に向う。
共通しているのは、どちらの願いもこの世界では実現が困難だということ。
地上では多分いつまでもナンギなままの二つの領域。『クレイジー ガーデン』という中編では、この二つの領域の間で、手紙が交わされる。
テルとレンガの領域の間で交わされる“手紙”が、物語の進行に沿ってさまざまにありかたを変えてゆく。“手紙”は文字どおりの手紙であったり、声であったり、映像であったりする。それぞれの“文通”の場面が『クレイジー ガーデン』の物語を形作る。
…という読み方はたぶん一般的なものではないけれど、それほど無理な読み方でもないだろう(たぶん)。
文通の物語としての『クレイジー ガーデン』。
このようにテルとレンガの間は常に区切られ、その二つの区切られた領域の間で言葉や声や身ぶりが交わされる。二人の間にある“文通の場”がドラマを生み出していく。
そして終盤、テルとレンガが路上で古道具を売るくだりにおいて、この“文通の場”それ自体が大きな展開を迎える。
兄の結婚式から帰ってきたテルは故郷の家にあった古道具を抱えてレンガの前に現れる。レンガとテルは路上に古道具を並べ、道行く人々に売り払う。
テルが“固有のもの”へ愛を抱くキャラクターだということを先に書いた。
で、古道具というのはまさに固有性の塊のようなものだ。それぞれが独自の歴史を持っている。どの一つも取り替えはきかない。
その古道具を東京の路上に並べる。
特定されない多くの人々が行き交う東京の路上。レンガの“80人との文通”が形作る空間というのは、ある面でこの路上に似ているかもしれない。路上が“非暴力的”だとは思わないけど、多数の人がお互いに何も強要せずにただ行き交うという面では似ている。
テルの領域の一番奥から運び出された固有性のエッセンスが、レンガの領域に近しい路上で取り引きされ、彼らの手許を去ってゆく。この場面で描かれるのは、いってみればそういう光景だ。
ふるさとの山林を失った(というか、兄の新しい家族に受け渡した)痛みを再確認するための儀式のように、テルはふるさとの古道具を、見知らぬ人々に売る。
この時二人の領域は痛みの感覚とともに重なりあっている。その重なりあった場所に、テルとレンガはともに立つ。
二人のいる場所にあるのは、痛みだけではない。古道具を売り払った後、二人は次のような会話を交わす。
“売った金は/山を買う/たしにしよう”
“うん”
“まだ かなり/のき下に/ほったらかされてる/道具があるす/それも売るす”
“おれもやるよ/ものを買ってもらう/瞬間が こんなに/おもしろいもんだとは/思わなかった”
これをきっかけに、やがてレンガは古道具屋をはじめる事を思い立つ。
テルとレンガの“文通の場”は、このようにして路上に新しい場所を産み落す。
『クレイジー ガーデン』は、だから、部屋のまん中に張られたシーツが路上にシートとして広げられるまでの物語だ、という言い方も多分できると思う(いや、もちろんレンガの部屋のシーツそのものをシートとして路上に広げるわけじゃないですけど。象徴的な言い方というやつですね。為念)。レンガとテルの間にあった“文通の場”が、不意にまったく新しい意味を持って、世界に向けて開かれるまでの物語。
ではその「クレイジーガーデン」という場所は、いったいどのような新しい意味を持つのだろう。テルとレンガの領域は、重なりあうことで何を生み出したのだろうか。
とりあえずレンガの「クレイジーガーデン」は、古道具屋、なのだった。
そしてその店が最初に商ったのは、レンガが全国の文通相手80人から送ってもらった数々の古道具なのだった。
レンガの「80人の文通相手」について、『クレイジー ガーデン』では最初の部分と最後の部分の2回だけ触れられる。最初は「80人の文通相手」はレンガの文通マニアぶりを示すデータでしかない彼等だが、ラストで揃って古道具を送ってきて、レンガの開業を助ける。
レンガは多分、一種抽象的な空間としての“文通空間”を愛しているのだろう、と先に書いた。
しかし最後の最後になって、それまで普遍的で抽象的な空間だと思われていた場所から古道具の山が送られてくる。それぞれが具体的な姿と固有の歴史を持つ古道具の山。
“文通空間”の向こうにある具体的で多様な世界が不意に姿をあらわす。
これはなんというか、大逆転だ。そしてこの逆転は、レンガ自身の意志に基づく。彼の手紙での頼みに応じて、80人の文通相手達は古道具を送ってきたのだ。
古道具屋をやろう、と決意するという事はつまり、具体的で多様なものたちの姿が現れる地点・瞬間に立ち続けようとすることなのだと思う。
それは多分、レンガとテルの領域が重なりあった夜の路上に立ち続けようと決意することでもある。
テルが持つ固有性への愛と、レンガが持つ普遍性への愛が重なりあう場所。
それがそれ自身であること、私が私自身であること、彼が彼自身であることが、路上をランダムに行き交う人々との出合いにむけて開かれ続ける場所。
そんな“場所”がどこかにありうるなんて考えるのはたぶん、まったく常軌を逸している。ましてその“場所”が、どうしようもなく壮大な夢、つまり“いつかどこかで売られゆく山々を買い戻すための資金を稼ぐ”なんて夢をはらんでるとなると…そんなのは、気違いじみている、としか言いようがない。
だから、なのかはどうかしりませんが、レンガは自分の店に「クレイジーガーデン」という名前を付けたのでした。
岡崎京子の短編『ロシアの山』(単行本『UNTITLED』所収)のとあるコマで、主人公の少女が本を手にして独白する。
“今日は明日の前日だから こわいんです”
この台詞は大島弓子の『バナナブレッドのプディング』の冒頭の台詞(“きょうはあしたの前日だから… だからこわくてしかたがないんですわ”)を下敷きにしている(注)。
この台詞とともに「ロシアの山」の少女は、手にした本から目をあげ、宙をみあげる。
このポーズは、ゴダール『アルファビル』のアンナ・カリーナを下敷きにしている。
『アルファビル』のスチル写真(例えば芳賀書店刊『ゴダールの全映画』に載ってる)を見てみよう。本を手に立つアンナ・カリーナが、少女と同じポーズで、窓の外を見上げている。
映画のスクリーンの前に観客たちが集まる。観客たちはお互いの事を知らない。隣にいるのが誰なのか知ろうとはしないまま、それぞれの領域に留まっている。
すると、スクリーンの上の女優が、不意に視線を外に投げる。
書物から目を上げ、窓の外側、物語の外側、フレームの外側、フィルムのコマの外側に視線を投げる。観客はその女優の顔をじっと見つめる。その瞬間、観客は自分の領域の“外側”に気付く。そしてその“外側”の向こうにある、他者の領域に気付く。
視線を“外側”へ向けること。それぞれが別の領域に有る私達の意識を、つかの間“外側”にむけて開くこと。来るべき他者との出合いを予感させること。
映画や小説の重要な機能の一つはそういうことではないかと思う。
レンガの店「クレイジーガーデン」はそのような、“外側”に目を向けるための足場だ。「クレイジーガーデン」はテルとレンガの夢を背負っている。“売られていく山や林をいつの日か買う”というレンガとテルのその夢は、来るべき他者を迎え入れようとする夢であり、“外側”へ向けての呼び掛けだ。
『クレイジー ガーデン』は、
“山のあなたの/空遠く/クレイジーガーデン”
という言葉で締めくくられる。
山のあなたに拡がるのが青空なのか曇り空なのかは知らないけれど。
ともかく、私があなた(誰だかわからないけれど)と出会う為には、空を見上げる場所が必要なのだ。世界の外側を見るための場所なんてのは条理から外れたデタラメな場所なのかもしれない。それでも、その場所は確保されなければならない。
というわけで、地上にひとつの場所を。
(9 9, 1999)
注>…というのは、Tachさんのサイトで知りました。ここの岡崎京子による引用・言及事例集は日々成長中。私の投稿したネタも。
参考
「カトゥーンズ」岡崎京子、角川書店刊
「UNTITLED」岡崎京子、角川書店刊
「ゴダールの全映画」芳賀書店刊
「ロストハウス」大島弓子、角川書店刊
「バナナブレッドのプディング」大島弓子、白泉社刊