| 南北朝動乱時の河野氏 | (2003/06/01 加筆) |
元弘の変(1331〜1333)−−建武政権成立
元弘元(1331)年に元弘の変が起きた時、伊予で幕府側に立ったのは、河野通盛とその部下の大森盛長(砥部を領有)、越智郡の府中城に拠った宇都宮貞
宗らであった。通盛は幕府の命を受け、六波羅探題の援助に赴いた。かねてから公卿方に応じていた赤松則村は六波羅を襲撃しようとしたが、通盛は武家方の諸
将と力を合せて迎え撃ち、その計画を頓挫させた。しかし、一旦西国に向かった足利尊氏が途中から公卿方に応じたので、形勢は一転し、通盛は彼らの軍と激戦
を交えたが衆寡敵せず敗北した。
多くの将兵を失った通盛は鎌倉に落ちたが(※1)、鎌倉幕府は新田義貞らの総攻撃を受け、元弘3(1333)年遂に滅亡し、建武政権が成立した。ここに
至り通盛は出家遁世の志を立て、建長寺の長老南山士雲について剃髪し、善恵と号した。通盛が俗界を離脱したことにより、河野惣家の勢力は衰えることになっ
た。
(※1:通盛は鎌倉でなく、九州に落ち延びたとする説もある。証拠もあると言う。)
建武新政の崩壊と通盛の再起
建武政権の基礎は甚だ弱く、僅か2年で早くも破綻した。それは建武2(1335)年に北条氏の残党が北条時行を奉じて信濃で兵をあげ、鎌倉を襲撃したこ
とに始る。鎌倉を守っていた足利直義は支えきれず、三河に敗走した。尊氏は弟を救援する名目で関東に下り、鎌倉を回復したが京都に戻らず、そのまま鎌倉に
留まり、自己の勢力の拡大を図った。通盛はこの形勢を見て尊氏に会い、帰順を申し出た(※2)。尊氏は新政に不満をもつ将士を糾合しようとしていた時で
あったから、喜んで彼を配下とした。やがて尊氏は義貞註伐を口実に政府に叛旗を翻し、ここに宮方(後の南朝方)と武家方(後の北朝方)に分かれて争乱を続
けることとなった。
(※2:通盛が落ち延びた先が九州であるなら、ここに記した通盛の鎌倉での行動は総て正しくないことになる。)
河野通盛の湯築城建設 Update (6/30)
ほどなく帰国した通盛は伊予における武家方の勢力樹立に努めた。彼にとって幸いだったのは、宮方の土居・得能両氏は義貞に従って京都に出征中であり、忽
那氏の一部も上洛していたことで、そのため通盛は行動が比較的容易で、伊予郡方面に転戦して土居・得能両氏の勢力の掃討をはかり、宮方が占拠していた松前
(まさき)城(伊予郡松前町)、油並城(伊予郡双海町)を陥としている。
一方尊氏は直義とともに義貞を破って西上し、翌延元元(1336)年一旦京都に入ったが、楠木正成らの宮方に挟撃されて大敗し、九州に落ち延びた(※
3)。しかし九州上陸後、宮方の菊池武敏を破って急速に勢力を回復した。この時尊氏は通盛に 所領安堵状を与え、通信時代の河野氏
最盛期の所領を安堵した。
勢力を回復した尊氏は間もなく直義が陸兵を率い尊氏は水軍を率いて東上をはかった。通盛もこれに合流し、水軍の別働隊に加わって和田岬に布陣する義貞の
前を過ぎ、生田から上陸を始めた。これで義貞は腹背に敵を受けて苦戦に陥り、湊川を渡って東に逃れることとなる。正成の軍は直義の軍を支えて良く闘った
が、尊氏の大軍が到着するに及び、一族ともに最期を遂げた。これを世に湊川の合戦と言う。後にその地に湊川神社が建てられ、正成を祀っている。なおこの時
楠木正成、正季兄弟を自刃に追い込んだのが、先に述べた砥部の大森彦七盛長であると言う。
京に入った尊氏は義貞らが篭る比叡山を攻めたが、猛烈な逆襲に遭い一時苦戦に陥った。この最中に直義は通盛に軍勢催促御教書を下している。そこで通盛は
直義の命に従って東坂本を焼き、鞍馬口に軍を進めた。その後宮方の形勢は不利となり、義貞は皇太子の恒良親王を奉じて北陸に赴いた。土居通増、得能通綱は
義貞に従って北陸に転戦し、二人とも討死することとなる。一方通盛は、尊氏の命を受けて河内国東条を攻め、その時の奮戦で武名を知られるようになった。
通盛は京都における武家方の勢力が安定して来たので翌年建武4年/延元2年(1337)に帰国したが、鎌倉時代以来の旧勢力を維持するのは容易ではな
かった。そこで直義は安芸および土佐の守護に命じて伊予に援兵を送らせ、通盛はそれらの助力を得て宮方の討伐に当った。
通盛が道後湯築城跡を築いたのは多分この頃と推測される。記録が無いので正確な時期は判らないが、忽那一族軍忠次第に、1342年に湯築城を攻めたこと
が記されているので、それより前に築城されたのは間違いない。しかし、戦乱のさなかに大きな工事を伴う築城が可能だったとは考え難い。当時の地勢などを考
えると、最初は本壇の丘に兵を配備する程度の前進基地、今の言葉で言うなら南朝方勢力の強い道後平野に設けた橋頭堡程度のものだったと考えるべきだろう。
中段から本壇への上り口で発見された堀切はこの段階のもので、堀切から南側の丘陵部が最初の段階の規模だったと推測する(※4)。従ってこ
の点からも、湯築城が築かれても直ちに河野氏の本城となったとは考えにくく、最初は道後平野の南朝方に対抗するための軍事拠点であり、南北朝争乱が終息
し、政情が安定した1400年前後に河野氏の本拠かつ守護所となったと推測される。詳しくは 湯築城の歴史 を併せ参照して戴きたい。
(※3:通盛が落ち延びた先が九州なら、尊氏と会ったのは尊氏が九州に来た時期と言うことになる。)、
(※4:湯築城の築城と拡張に関して推理を楽しむ (その2)参
照)
南北朝争乱と河野氏
湯築城が築かれても直ぐに河野氏の本城になったわけではなく、最初はあくまで道後平野における南朝方に対抗するための河野氏の軍事拠点であったと考えら
れる。
湯築城が河野氏の家譜・軍記類に初めて登場するのは、貞治年間(1362−1368)である。この時期には、伊豫支配を狙う細川氏(北朝方)が度々伊豫
に侵攻し、河野氏と激しい戦闘を交えている。1365(貞治3)年、河野通朝は細川勢に攻められて、府中南方の世田山城で戦死を遂げる。このとき通朝の遺
児である通堯は、「温泉郡湯月城を細川武蔵守に奪い取られ、恵良城に引き篭もった」(「予章記」上蔵院本)と言う。翌4年には通堯は一族・家人を率いて温
泉群に出張し、湯築城を囲みこれを攻めた(「予陽記河野家譜」)。このとき通堯勢は湯築城主であった細川天竺入道以下を討ち取るなどの戦果を挙げ、大空城
にも攻撃を掛けたが、間もなく細川頼之の大軍に攻められて敗退、通堯は高縄城(注※)・恵良城を経て九州に逃れる。このように争奪を繰り返した記事から見
て、湯築城は道後平野を抑える上での重要な軍事拠点であったことが窺える。
湯築城が直ちに河野氏の本城となったとは考え難いことは、次ぎの事実からも窺える。通盛が死去した1362(貞治元)年頃、通盛が住していた河野 郷土居を「上殿」と称し、子息通朝の住していた府中の「郷ノ毘沙丸」を「下殿」と号していたと言う(「「予章記」上蔵院本)。これは南北朝期の河野氏に とっても、伝統的な本貫地である河野郷が政治的拠点であり、それに次ぐのが府中の地であったと考えられ、湯築城は道後平野を抑える軍事拠点であっても、分 国支配の本拠地とは見なし難いことを示す。
さて、九州に逃れた通堯は、ここで南朝方に転じ、1368(応安元)年に帰国を果たして北朝勢力を撃退し、伊豫の平定を果たす。ところが1379 (康暦元)年、政変により幕府内で頼之が失脚すると、将軍義満は通堯に北朝方に帰参するよう勧誘する。通堯は北朝方の伊豫国守護に補任され、細川追討に当 たったが、またまた戦死を遂げる。しかし義満は引き続きその遺児通義に対して梃入れを図って行った。
こうして南北朝の末に至ると、河野氏が幕府権力を背景にして守護支配を展開する体制が確立する。1381(永徳元)年には、東予2郡(宇摩郡、新 井群)を細川氏に割譲することで、河野氏と細川氏の和議が成立し、以後、河野氏の守護としての地位は一応固定的に維持されるようになって行く。この後、次 に記すように1392(明徳3)年に南北朝が合一し、内乱が終息するが、その頃に至り、漸く湯築城が河野氏の本城となったと考えられる。それは、河野氏の 家譜類に応永年間(1394〜)になると、湯築城における河野氏当主の元服記事が見出されるようになることから推測される。
(注※)文献に高縄城が出てくるが、高縄山に城があった形跡は全く見つかっていない。従って高縄城がどこを指すのか不明である。そのため高縄山近辺 の雄甲山城、雌甲山城等の幾つかの城の総称ではないかとの説もある。恒常的な城は無かったが、戦いになった時、高縄山に柵などを設けて守ったことはないの だろうか。それを高縄城と称したとは考えられないだろうか。高縄山の重要性は城のような攻防の拠点としての役割ではなく、河野氏の狼煙連絡網の要であった ことにある。幾つかの証拠から、ここを扇の要として、芸予諸島から湯築城まで、枝城を含む狼煙連絡網が整備されていたと推測される。因みに高縄山頂上に は、現在電波塔が設置されているが、ここからの眺望は素晴らしい。
室町幕府−守護体制の構造
南北朝以降の社会は、中央の国家権力が分裂し、その結果、地域社会の持つ個性や自立性が強まるのが特徴であり、それぞれの地域に根付いた在地勢力は、内
乱期に横行する悪党や海賊は言うまでもなく、領主層も農民達も含め、中央権力の意向通りには動かなくなって行く。こうした内乱状況を克服し、再び国家権力
の統一と地域社会の安定化をはかるという課題をたずさえて登場するのが、室町幕府三代将軍足利義満である。
1389(康応元)年3月、将軍義満は、100余艘の船を用意させて安芸の厳島神社参詣の旅に出発する。これは、中国、四国、九州の守護・国人や海賊衆
たちに対する一種の示威行動であったとされ、沿岸各地の諸大名の歓待を受ける。この時、伊豫の河野通義も周防の竈戸関(上関)へ渡り、義満に対面を遂げて
いる。次いで、義満は1392(明徳3)年、懸案であった南北朝の合一をなしとげ、内乱の終結を達成する。その結果、室町幕府ー守護体制と呼ばれる武家権
力秩序が確立する。湯築城が河野氏の本城となったのも、この政情の安定化に対応していると見るべきではなかろうか。
(未完)
| 西暦(北朝/南朝) | 事 項 | 関 連 |
| 1239(延応元年) | 一遍、寶厳寺にて誕生。 | 寶厳寺 寶厳寺の歴史 |
| 1281(弘安4年) | 弘安の役。河野通有敵艦を襲撃し、元将を捕虜にする。通有自身も負傷。叔父通時戦死。 | 承久の変における河野氏 |
| 1285(弘安8年) | 通有、筑前国弥富郷の代りに、肥前国神崎庄内小崎郷を幕府から与えらる。 | |
| 1311(応長元年) | 通有没す。 | |
| 1331(元弘元年) | 幕府、日野俊基、文観、円観を捕える。 後醍醐天皇、神器を持って笠置に入る。 幕府大軍を上洛させる。楠木正成河内赤坂で挙兵。 |
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| 1332(元弘2年) | 護良親王吉野に挙兵。正成も千早城に拠る。 | |
| 1333(元弘3年) | 赤松円心、播磨に挙兵。円心、六波羅を攻めるが失敗。 伊予においては、土居通増・得能通綱ら討幕勢力が守護宇都宮氏の拠点、喜多郡根来城を攻撃、次いで府中の守護館を襲撃し、再び根来城を攻撃する。 長門探題北条時直が伊豫を攻め、得能・土居氏に敗れる。(星ノ丘の戦い) 足利尊氏、朝廷側に転じる。 尊氏に攻められ六波羅落ちる。探題仲時以下近江で自殺。 通盛、幕府側で戦って多くの将士を失い、鎌倉に落ちる。(逃れた先は鎌倉ではなく、九州とする説もあり、断定できない) 新田義貞、鎌倉を落とし、北条高時以下一門自殺。 鎌倉幕府滅亡、建武政権成立。 赤橋重時を土居・得能氏が討つ。 |
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| 1334(元弘4年) | 得能通綱は寶厳寺に拝志郷の一部の田を寄進し、支院を含め荒廃していた のを再建。 | |
| 1335(建武2年) | 高時の遺子時行、信濃より鎌倉を攻略。直義敗走。 尊氏鎌倉を奪還。 この後、通盛、尊氏に帰順を申し出、受け入れられる。(逃れた先が九州ならこれは有り得ず、尊氏と会うのはもっと先である) 通盛、ほどなく帰国(年末ころか?)。 |
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| 1336(建武3年/延元元年) | 義貞・顕家ら入京。 尊氏摂津で敗れ、九州へ走る。途中で、中国・四国の侍大将の配置を定める。 通盛、宮方が占拠していた松前城、由並城を落とす。(通盛が九州に逃れたのなら、辻褄が合わない) 尊氏、筑前多々良浜で菊池武敏を破る。(通盛はこの時尊氏と会ったのか?) この前後に尊氏、所領安堵状を通盛に与える。(通信時代の所領回復) 尊氏、直義と共に東上を図る。 通盛、部下の水師を送って尊氏の水軍に合流させる。 尊氏・直義、兵庫湊川で義貞・正成を破る。正成戦死。 尊氏、比叡山を攻めるが苦戦。直義が通盛に勢催促御教書を下す。通盛参陣し、東坂本を焼き、鞍馬口に軍を進める。 尊氏、通盛らに命じて河内国を攻める。通盛、河内国での奮戦でその名を知られるようになる。 |
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| 1337(建武4年/延元2年) | 通盛帰国し、権勢の回復に努め、直義は安芸・土佐の守護に命じて伊豫に援兵を送らせる。 宮方、土居通増、敦賀(福井県)付近にて敗死。 この頃湯築城を築いたか。 (筆者推定) |
湯築城の歴史 |
| 1338(歴応1年/延元3年) | 得能通綱、「金崎城」にて敗死。 義貞戦死。 |
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| 1339(暦応2年/延元4年) | 懐良親王、征西将軍として忽那島に渡来、忽那氏ら宮方の気勢上がる。 | |
| 1340(暦応3年/延元5年) | 通盛、肥前国神崎庄内の地頭職を子の通将に譲る。 | |
| 1342(康永1年/興国3年) | 通盛、忽那島襲撃を敢行するが、敗退。 忽那義範、逆襲に転じ、土居通世と連合して湯築城攻撃。通盛、一時湯築城を奪われる。(忽那一族軍忠次第) この後、懐良親王は忽那島から九州に向かう。 脇屋義助、伊豫に到着後間もなく国府で病死。 讃岐国から侵入した細川頼春により、川之江城、千丈原の宮方軍敗戦。宮方の伊豫国守護の大館氏明、世田山城で戦死。宮方、不振に陥る。 |
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| 1350(観応元年/正平5年) | 通盛、室町幕府から伊豫国守護職に補任さる。 | |
| 1365(康安4年/正平20年) | この頃、大内氏、山口に守護館を造る。 | |
| 1362(貞治元年/正平17年) | この頃から善応寺に寺領を寄進。 通盛死去。 |
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| 1364(貞治3年/正平19年) | 通朝、細川勢に攻められて、世田山城で戦死。 「温泉郡湯月城を細川武蔵守奪ヒ取レ、恵良城に引篭」(予章記)。 |
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| 1365(貞治4年/正平20年) | 通堯、湯築城を攻め、戦果を上げたが細川の大軍に攻められて九州に逃れ、南朝方に転じる。 | |
| 1368(応安元年/正平23年) | 通堯、帰国し、北朝勢力を撃退し、伊予の平定を達成する。 | |
| 1379(康歴元年/天授5年) | 政変により幕府内で細川頼之失脚。義満は通堯に北朝方帰参を勧誘。河野氏北朝方に戻る。 細川頼之に攻められて佐志久原で合戦。通堯討死。 |
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| 1381(永徳元年/弘和元年) | 河野氏、東予2郡を割譲することで、細川氏と和議成立。 | |
| 1382(永徳2年/弘和2年) | 伊予の国人らが河野郷土居の万松院に集まり評議。 | |
| 1,386(至徳3年) | 河野通之、元服(予章記)。 通之、将軍義満の意向により細川頼之と親子の契約。 | |
| 1389(康応元年/元中6年) | 将軍義満、百余艘の船で厳島神社参詣。通義、周防竃関(上関)へ渡り、将軍に拝謁。 | |
| 1391(明徳2年/元中8年) | 山名満幸は丹波から、氏清は和泉から入京し、内野で幕府軍に敗れる(明徳の乱)。 | |
| 1392(明徳3年/元中9年) | 南北朝合一。 | |
| 1393(永徳4年) | 山名満幸、出雲に挙兵。義満、伊予の軍を伯耆に送り、山名氏幸を救援。 | |
| 1394(応永元年) | 通義、生まれて来る子が男子なら将来その子に跡を継がせることを条件に、弟通之に家督を譲る。 | |
| 1399(応永6年) | 大内義弘挙兵。幕府軍堺城を落とす。義弘戦死。河野氏も和泉へ参陣。(応永の乱) | |
| 1406(応永13年) | 通久、湯築城で元服。ここ頃から湯築城における河野氏当主の元服記事が見られるようになる(河野氏家譜類など)。 | |
| 1409(応永16年) | 通久、通義の遺命通り通之より家督を譲られる。 | |
| 1430(永享2年) | 「国内錯乱」の記事。 | |
| 1435(永享7年) | 通久、大内氏救援のため豊後に出兵し討死。 | |
| 1438(永享10年) | 幕府、足利持氏追討の軍を発す(永享の乱)。河野氏参陣。 | |
| 1439(永享11年) | 幕府、大和の越智維通を捕えて殺す。河野氏参陣。 | |
| 1441(嘉吉元年) | 赤松満祐、将軍義教を誘殺し、播磨に下る(嘉吉の乱)。河野氏参陣。 | |
| 1457(長禄元年) | 河野教通の病により氏族が湯築城に参会する(予陽河野家譜)。 | |
| 1463(寛正4年) | 河野氏家臣、重見、森山、南、得能、和田氏らが一揆を企て、細川軍を引き入れようとする。通春および教通の弟通生は大内氏に救援を依 頼し、共同して細川軍に対抗。 | |
| 1465(寛正6年) | 大内政弘、「井付合戦」における内藤彌七の戦功を賞す(萩藩閥閲録)。 | |
| 1467(応仁元年) | 応仁の乱起こる。 | |
| 1475(文明7年) | 檀那河野通直(教通)、願主弥阿弥陀仏によって木像一遍上人立像(国指定重要文化財)造立。 | 一遍上人と寶厳寺の歴 史 |
| 1481(文明13年) | 河野通直(教通)、石手寺の山門・本堂などを再興する。 | |
| 1482(文明14年) | 河野通春、湊山城で死去する。 | |
| 1500(明応9年) | 河野通直(教通)、湯築城にて死去(予陽河野家譜)。 | |
| 1519(永正16年) |
河野通宣死去。 |
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| 1523(大永3年) | 府中鷹取山城主正岡経貞、河野通直に対して反乱を起こす。 | |
| 1530(享禄3年) | 府中石井山城主重見通種、河野通直に対して反乱を起こす。 | |
| 1531(享禄4年) | 河野通直、米湊より乗船して上洛する。 | |
| 1535(天文4年) | 「温付堀」の普請が行われる(国分寺文書・仙遊寺文書)。 これは弾正少弼通直による湯築城拡張工事を示す記述と考えられる。 |
湯築城の築城と拡張に関して推理を 楽しむ |
| この頃 | 河野氏の家臣団が河野通直と来島通康に反発して湯築城を攻撃する(予陽河野家譜)。(来島騒動) | |
| 1568(永禄11年) | 河野氏、毛利氏の援助をうけて宇都宮豊綱・一条康政の軍勢と戦う。(鳥坂山合戦) | |
| 1573(天正元年) | 室町幕府滅亡。 | |
| 1585(天正13年) | 小早川隆景、豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。河野通直、湯築城を開いて降伏する(予陽河野家譜)。 | |
| 1587(天正15年) | 福島正則が伊予を拝領し、湯築城は廃城となる(予陽河野家譜)。河野通直、伊予を離れて安芸の竹原で死去。 | |
| 1595(文禄4年) | 加藤嘉明、正木(松前)城主として伊予に入部。 | |
| 1602(慶長7年) | 加藤嘉明、松山城の建設をはじめる。 |
通清─通信┬通俊─通秀─通純─通村─通綱【得能氏】
├通政
├通広─一遍上人
├通末
├通久─通継┬通有┬通忠
├通継 │ └通茂─通盛─通朝─通堯┬通義…(通之)…通久─教通(通直)─通宣─通直(弾正少弼)
└通宗 ├─通泰 └通之─────通元─通春【予州河野家】
└─通成─通胤─通増【土居氏】
| 書 名 | 著者/編者 | 発 行 |
| [増補]河野氏の歴史と道後湯築城 | 川岡 勉 | 青葉図書 |
| 河野氏の研究 | 景浦 勉 | 伊予資料集成刊行会 |
| 日本史年表 | 歴史学研究会 | 岩波書店 |