読書夜話2002年4月前半
新しいスタートの季節なのだろうか編
2002年4月某日
4月になった。今年の1日もほとんど嘘をつくこともなく、あっという間に通り過ぎていった。新しい生活を始めたという人も多いのだろうか。未来に希望を持った人にこんな話をするのはどうかと思うが、最初に勤めた会社を辞めるときに思ったことがあった。それは、「会社員として勤めるのであれば、せめて社長の名前くらいフルネームで覚えている状態でいないな」ということだった。退職届を書くときに、僕は初めて社長のフルネームを知ったのだった。その時思ったのは、やる気のある社長と供に誠心誠意仕事をしたいなぁ、なんてことだったのだが。実は今は僕は社長のフルネームを書くことができる。あまりにも人数が少ないので、全く覚えようとする努力なんてなかった。これはこれで寂しいものだ。
最初に退職届を書いたときから、けっこうな年月が過ぎた。今はもうこういう形式的な文書はめんどうなので、書きたくないと思っている。会社を辞めたくないということでは全然違うのだけどね。
2002年4月某日
宮部みゆきの『あかんべえ』(PHP研究所)を読んだ。とても面白く読んだことは確かなのだけど、正直なところ、何か物足りない気持ちでいることも確か。宮部みゆきはこれからどこへ行くのだろうか。今一番売れているといっていい作家だからね。期待も当然大きいし。新作が出たら当然のように僕も買うし。そうそう、この本を読んで僕は『千と千尋の神隠し』を思い出してしまったのだった。
2002年4月某日
映画『ビューティフル・マインド』(http://www.uipjapan.com/beautifulmind/)を見た。平日の昼間に行ったというのに、映画館は満席。立って見ている人もいた。最初は、アメリカによくありがちなエリート社会の話かな、なんて思って見ていたのだが、次第にこの映画の世界に引き込まれていった。おおお。とっても面白い映画だった。こういうストーリーだと、もう一度じっくりと見てみたくもなるよね。本も読んでみたくなってきた。
2002年4月某日
久しぶりに最初の頃の読書日記(今は読書夜話を名前を変えてしまったが)を読み返してみた。昔は本の話題が大半を占めていたのだと我ながら関心してしまった。読書WEBの読書日記だったわけで、当然ではあるのだけど。読書日記(読書夜話)の本の話題の割合というのは、小泉政権の支持率のようだなぁと思ってしまった。すっかりと逆転してしまったからね。小泉政権が終わりを告げることになったらならば、このコーナーも終わってしまうのだろうか。
2002年4月某日
現在、ジョーダン・ホンダでF1に乗る佐藤琢磨というレーサーの第1歩は、「鈴鹿サーキットレーシングスクール フォーミュラ」という1995年に開校した日本初の本格的レーシングスクールだった。長年日本のモータースポーツには若手が出てくる環境というものがなかった。そうしたことがあり、このレーシングスクールが出来た。このスクールの校長は日本初のフルタイムF1ドライバーである中嶋悟である。こうしたこともあり、テレビなどでは佐藤琢磨は中嶋悟の愛弟子みたいな言い方をされることがある。
僕はモータースポーツファンになり、特別に好きになったのはのは中嶋悟だった。中嶋が日本のレース界で若手ナンバーワンと言われ、トップチームのヒーローズレーシングを辞め、ヨーロッパを目指すI&Iレーシングに移籍したときだった。このチームにはお金がなく、まさにF1への夢だけで走っているようなところだった。数年後、中嶋悟はこのチームと別れることになるのだが、彼のF1へのベースとなったことには間違いはないだろう。中嶋はF1に行ってからも若手を育てようとして、野田英樹、中野信治をヨーロッパで走らせる。かつて、ヨーロッパで走る日本人というのはほんの僅かだった。
僅かであるが、誰が誰が育てる(もちろんこの言葉は正確ではないかもしれないが)という関係が、現在に至っているのを強く感じたりする。
中嶋悟をF1にと夢みたI&Iレーシングの代表は生沢徹と言い、彼もかつてはヨーロッパを走っていた。もう少しでF1まで行くことはできなかったが、F3、F2といったクラスでF1に行っても全くおかしくない走りと人気があった。彼は雑誌に『なぜ俺だけしか』というエッセイを書き、僕たちにヨーロッパでのレースというものを見せてくれた。
かなり昔のことである。最近のF1ファンの人達はこの生沢徹という名前を知らないのだろうな。佐藤琢磨に代表される日本の若手ドライバーを見ていると、ついついこの生沢徹のことを思い出してしまうのである。
2002年4月某日
みずほ銀行がコンピューターシステムにトラブルが起きている。こうした事態を、実は僕はあまり他人事と見ることが出来ずにいる。そうなのだ。僕もかつては業界人であった。まあ、こういう発言をする人は僕だけでなくいっぱいいると思うけど。
僕もみずほ銀行の口座を持っているが(考えてにるとけっこうな金額を預けていた……)、自分のお金の心配よりもこの事件で思ったのは「今ごろ倒れて救急車で運ばれている人がいるだろうな」ということである。銀行の代表者は謝罪し、これからのことについて話をする。でも、その裏側でSEと呼ばれる人達が泊りがけで青い顔をして仕事をしているのではないだろうか。
実は僕も昔SEとして仕事をしていたときに、システムにトラブルが生じたときがあった。その時のことは今でもよく覚えていて、一気に血の気が引いた状態になった。対策をしても埒があかず、その日は帰ることになったのだが、何人かでちょっと飲もうということになった。僕を励まそうと気をつかってくれたりする人がいて、やさしく声を掛けビールを注いでもらった。食べようよ、と言われ、なんとか箸を持った。そのときに入ったお店というのは焼肉やさんだったのだが、この時の僕にこうした食べ物は酷だった。食べても入っていかないのである。そんなことで、僕にとって「コンピューターシステムのトラブル=焼肉」というイメージが出来上がった。今は、部屋で肉野菜炒めを食べながら、みずほ銀行のニュースを見ている。とても美味しく食べている。
2002年4月某日
夜中に突然蕎麦が食べたくなった。夜中といっても、12時くらいなのでまだまだ遅い時間とは言えないか。僕の台所の上にある棚の中には常時、蕎麦が入っているのでこんなときでも困ることはない。このときは「そば屋のそば」(という名前のやつがあるのだ)を茹でることにした。たまたまなのだが、冷蔵庫に葱もおとなしく眠っていた。やはり葱があるのとないのとでは、かなり違う。ナカタのいない日本代表みたいなもんである。
茹で上がった蕎麦をざるに入れ水で切る。皿に盛るが残念ながら、蕎麦用の「せいろ」は持っていない。次に食べるときもまでは絶対に買おうと決意する。机の上に、蕎麦と葱と、麺汁と水と、そして七味唐辛子を用意する。まずは、汁に葱を入れ蕎麦をすする。蕎麦が残り半分くらいになったところで、七味唐辛子を入れて新しい味にする。ああ美味い。しかし、このとき僕は深い深い悩みを抱くことになった。七味唐辛子の他にスーパーには一味唐辛子というものも売っている。昔一度だけだが買って使っていたことはあった。でもなぜ、一と七があって、三味唐辛子とか五味唐辛子というものはないのだろうか。ひょっとすると僕の知らないどこかで売っているのだろうか。もしスーパーの調味料売り場に並べてあったなら、絶対に買って試すだろうな。
2002年4月某日
「台拭き」ということを思い出した。就職活動をしている女子大生のウェブサイトを見ていたときだった。僕がまだ学生だった頃、将来のことなど何も考えていなかった頃。なぜか出版業界の人達と飲んだことがあった。場所は東北のとある別荘。全部でその時、7、8人くらいの人がいただろうか。当然のように僕は最年少だった。「ねぇ、君。台拭きをしてよ」と僕は言われた。声を掛けた人はかなり著名な雑誌編集長だった。「僕はね、新人には台拭きをさせるんだよ」と彼は言った。僕は将来を考えることもない大学4年生だったが、別にマスコミ業界を希望していたわけではなかった(最初から無理だと考えることもなかった)。僕はテーブルの上を、言われた通りに拭いた。下っ端だから仕方が無い、くらいの気持ちだったのだと思う。
あれからかなりの時間が過ぎた。今になって、やっと「台拭き」ということの重要性をなんとかわかるようになった。仕事で二十歳前後の人に「テーブルを拭いて」ということはある。でも、ちゃんと拭ける人を見たことはない。もちろん、人のことは言えない。僕のあの時、台拭きをするように言われた時、まったく何もわかっていなかった。ただのガキだった。仕事ができるということは、ちゃんとテーブルを拭けることなんだろう。そんなことを考えるようになってきた。
2002年4月某日
池袋のジュンク堂書店のすぐ隣にあるスターバックスに入った。もう何百回とその前は通っていたのだが、実際中に入ったのは初めてだった。そもそも、スターバックスというお店に入ること自体がこの時で3回目くらいだったのだが。正直なところ、1階はごちゃごちゃした雰囲気であまり良い印象は持っていなかった。しかし、2階に上がってちょっとびっくり。とてもきれいで広いではないか。ソファーのところもあり、壁側の椅子は柔らかな素材のものになっている。木の椅子だとやはり疲れてしまうので、これはありがたい。窓の向こうは世界のジュンク堂書店なのである。平日の午前中だったので土日の雰囲気はわからないのだが、このときはとてもよかった。客層がとても大人で静かにコーヒーを楽しむという感じなのだ。中には勉強している人もいる。何かの打ち合わせをしている人もいた。しかし、ギャーギャーと喚き声を立てている人は皆無だった。ジュンク堂で本を買い、この店でのんびりとするのもいいかもしれない。
そうそう、ささやかな僕の希望があった。できれば食べ物はパンとかでなくて、おにぎりが欲しいよね。炊きたてのごはんで、注文してから握ってくれる、なんていいよね。お茶は、静岡の極上やぶきた茶とか、あと作った人の名前が表示してあったり。いろいろな日本茶が楽しめたらいいのにね。まあ、スターバックスに多くを望むのは無理か。
2002年4月某日
あちこちとネットサーフィンをしていると、「ウェブサイトを辞めます」というところがあった。デザインもとてもよいし、文章もしっかりしている。掲示板での応対もちゃんとしている。「疲れてしまって……」という理由が書かれてあった。
確かに、気持ちはわからなくもない。正直なところ、僕でさえひと月に1度か2度は本気で辞めようかと思ったりしている。掲示板の返事をすることもなく、しばしば長期の休みを取っていても。
実はこの数日、サイトの更新をしたり、インターネットに関わる時間がかなり長くなっていた。メールを書き、考え、悩み。そんなとき突然、頭の中がショートしたような感覚に陥った。なんで自分はこんなことをやっているのだろう。僕が何かを言ったとしても、何かが変わるわけではない。ただの自己満足……。
そしてネットには何も書けなくなる。
そしてそして、僕はアルコールを飲み。ふらふらとし、ただ無為の時間を過ごす。
2002年4月某日
帰り道、電車の中でのことだ。元気な声が聞こえている。大学生だろう、男4人に女が1人。楽しそうに話をしていた。僕が仕事をしている駅周辺には大学があり、途中の駅にもいくつかの大学がある。よってそんなに珍しくはない。
でも、このときに聞こえてくる会話は新鮮で懐かしいような響きを持っていた。考えてみると4月なのであった。彼らは、この日初めて会って飲んだ帰りのようだった。北海道の出身の者もいれば、九州の者もいるようだった。「田舎者だんだけど」と断りをつけて話をする。ただ1人の女性に、他の男性は気を引くように話をしていた。確かに可愛らしい雰囲気だった。電車の中は特別に混んでいるわけでも空いているわけでもなかった。たぶん、この車両の端の方まで彼らの会話は聞こえていたかもしれない。地元の話、食べ物の話、話題は尽きることはない。
正直なところ、耳に入ってくる会話はとっても恥ずかしかった。でもまあなんというか、青春してるんだろうなぁ。
2002年4月某日
川上弘美の本を連続して読んだ。『おめでとう』(新潮社)と『神様』(中央公論社)の2冊。どちらも短編で読みやすかった。僕の好みでは『おめでとう』の方かな。けっこう気持ちの沈んでいるときには、彼女の短編はとても優しく包んでくれる(ちょっと書いていて恥ずかしいけど)。物語の中に、さりげなく抱きしめたりしている場面があったりする。やさしく、自然で、空気のようで、どうしようもなく良いのだ。
2002年4月某日
映画『たそがれ清兵衛』のウェブサイト(http://www.shochiku.co.jp/seibei/)を見ていたら、「2300万部」という数字が目に入った。「藤沢周平文庫本のトータル発行部数は2300万部に上る」ということだ。本というのは100万部売れただけで大ベストセラーと言える。この2300万部という数字が他と比べてどのくらいのものなのか、正直なところよくわからない。この数字に単行本を併せれば、かなりの数字になるのだろう。10年も経てば書店から消えてしまう本も数多くある。でも、藤沢周平の本というのはこの先、何十年も、何百年も、書店に並んでいるように思える。2300万部はただの一時的な数字ではなく、ほんの通過点に過ぎないはずだ。
この映画がどのようなものになるのかはわからない。でも、関係者の人たちは藤沢周平という名前に誇りを持ち、大きなプレッシャーの中、よいものを創ろうと頑張っているのではないかと思うのだ。
2002年4月某日
『アリー・myラブ4』が終わってしまった。最終回の前のときに、ほとんど見逃してしまったので、アリーとラリーとの関係にどのように亀裂が入ったのかはよくわからない。しかし、わからなくはないというか、まあ、他人のことだからわからないのだけど。
別れるだろうという予想はあった。別れることなく結婚して幸せになる、なんて結末はどう考えてもこのドラマには似合わないし、そうなったら視聴率は急激に落ちてしまうだろう。アリー・マクビールという人は適度に不幸になってもらわなければ、見ている同年代の女性が納得しないかもしれない、と言ったら凄く怒られるだろうな(笑)。でも、この別れを見て、ああ自分のことのようだ、と思っている人はけっこう多いのでは。
最後の方のセリフが印象的だった。
「誰かを愛する日も、誰かに愛される日もまたくる」
長くつき合ってきたアリー・マクビール以外が言ったとするならば、陳腐なのだけどそれなりに余韻の残るものとなった。でも、本当にこういう日は来るのだろうか……、なんて。
でもさ、どう考えてもラリーとはまた縁りを戻すと思うのだけど。こう考えているのは僕だけなのか。
2002年4月某日
Webマガジン幻冬舎(http://webmagazine.gentosha.co.jp/)を見ていて、ついつい田口ランディのところをクリックしてしまった。ここには『「アンテナ」「モザイク」改稿にあたって』の彼女自身の文章が載っていた。2つの作品がトラブっていることは知っていたが詳しい内容は知らなかった。経緯と謝罪が書かれている。
この文章から、著作権の問題というものを考えさせられた。それと同時に、今という時代はインターネットという世界の中にいるんだということも。
2002年4月某日
このところ、自炊するということが少なくなってきた。部屋に帰る時間は遅く、当然この時間から何かを作るのはめんどくさい。そんなわけで、先日は帰りに「若菜」(お弁当とお惣菜のお店)で、しょうが焼きと唐揚げの入ったお弁当を買って帰った。コンビニのレンジでチンしての弁当は苦手なので、このお弁当はとってもよかった。
食べ終えて、ちょっとため息をつく。なんだかさ、このところゴミの量がどんどん増えていっているようで。
空のお弁当箱を持って行って、そこにお弁当を詰めてくれるお弁当やさんが出来たら、絶対に行きたいと思うのだけど。僕はそんなに環境問題に関心があるほうではないけど、ゴミが溜まって捨てるのが面倒なんだよね。
2002年4月某日
僕は「ベローチェ」でレモンティーを飲んでいた。コーヒーは苦手なので、こうしたお店では紅茶を飲むことの方が多い。飲んだところで思ったことがあった。「お店でお湯はもらえないのだろうか」と。世間の皆さんは、家で1人で紅茶を飲むときに、ティーパックを一度しか使わないのだろうか? 僕は2、3回は使うのだけどな。貧乏学生の話で、使ったティーバックを干してまた使うという話を聞いたこともあったな。そこまでしないにしても、お店のティーバックはもう一杯くらいは美味しく飲めそうだけど。違うのかな。こんなことを考えているのは僕だけなのだろうか。
2002年4月某日
高校に入学した可愛い姪っ子(ほんとうに可愛い)からメールが来た。新しい学校生活は嵐のように大変だと。その中でも一番は「応援練習」とのこと。そう言えば僕も高校に入ったときに、この応援練習にはびびった。わからない人にはわからないかもしれないけど、もの凄いものだった(笑)。
少しばかりこの頃のことを思い出した。高校最初の1週間は本当に色々なことがあった。新しい教室の雰囲気に僕は全く馴染めなかった。かなり衝撃的な事件もあった。冴えない3年間を過ごすことになったけど、けっこう色々なことを考えていた。振り返ってもそれは漠然としたものでしかないのだけど。それでも、真剣にこの世の中を見ていたように思う。
(2002.4.19)
DOLPHIN
HOTEL
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