ドルフィンホテル
   
   
   
   
   
   
   
   
   


     

DOLPHIN HOTEL 読書夜話2005年11月

日暮れて道遠し 2005/11 #1


2005/12/6


◆ ラ・フランスだらけ

 最近、わりと「ラ・フランス」という果物がクローズアップしてきたように思うが、どうだろうか。少しばかり冷えたラ・フランス、そのやわらかな歯応えはとても美味しい。以前はあまり食べなかったが、昨年あたりから好きになった。自分の家にこの木があるわけで、とても身近になった。

 ひょっとしたら、もの凄くラ・フランスが好きだ!という人がいるかもしれない。毎日でも食べたいと。ラ・フランスに囲まれて、ラ・フランスに埋もれて眠りたい、と。

 埋もれるまでにはならなかったが、約ひと月くらいだろうか、ラ・フランスだらけの生活というのを送っていた。冷蔵庫の野菜室がこの果物で埋っていたのである。そうなのだ、自分の家でこうした食べ物が採れた場合、それなりに見た目の良いものを、人にあげたりする。しかし、あまりにも小さなものなんかは、家で食べることになる。

 このラ・フランスという食べ物、最初は硬く、食べるまでにはタイミングをはかる必要がある。やわらなくなったラ・フランスは最高に美味しい。しかし、この美味しい時期というのも短い。そんなわけで、僕は必死になって毎日毎日このラ・フランスを食べることとなった。朝食のデザート、昼食のデザート、夕食のデザートにだ。後半の時期には、やわらなくなりすぎ、けっこう腐っていたりもする。それを包丁で丁寧に切って食べる。冷蔵庫のラ・フランスが空になったときには、「ああ、よかった」とため息をついたものだった。

 さようなら、ラ・フランス。はたして、また食べたくなる日は来るのだろうか。


◆ 携帯のコマーシャル

 正直に言って、NTTドコモのCMはキライである。小さな携帯の画面で、なんだかんだと語るのが気に入らない。ひどいなぁと思うCMはいろいろあるのだが、特にビルのCM、「見えるチカラ・建築現場」篇(http://www.nttdocomo.co.jp/corporate/ad/index.html)について語ってみたい。

 高層ビルの建設現場、工事は最終段階に入っている。壁の取り付け作業、そのときこの現場に、イタリアから電話が掛かってくる。建築家からのものだ。携帯電話のテレビ電話で話をする。そして、その携帯電話でビルの西側を映し出すように言われる。
 そこで、急に、壁だったところが窓になるという設計変更が起こる。関係者は無理だよ、なんて言うけれど、深く深く頭を下げたり、携帯電話のテレビ電話で打ち合わせをして、実行に移してメデタシメデタシとなる。

 はたして、構造設計のチェックなども、携帯電話でやっているのだろうか……。

 携帯電話はどんどん進化している。このことに文句を言うつもりは全くない。しかししかし、携帯電話のCMはどれを見ても、ヘンテコなのが多いように思う。それを見るたびに、なんだか世の中は情けない方向に進んでいるように感じるのだが。


■ 五十嵐大介著『リトル・フォレスト』1.2(講談社)

 友人から借りてこの本を読んだ。マンガである。凄いなぁと思うのだが、特にストーリーのようなものはない。それぞれの話は、畑から採った、何らかのものを料理して、食べるというもの。主人公は、都会生活をしていたのが、田舎に帰ってきたような雰囲気。

 たぶん、僕はこの本の良さというものを、数年前だったならわからなかっただろう。派手な物語は必要ない。大切なのは、確かな味の感じられる美味しさだ。


◆ スターバックスと読書夜話の関係

 この文章は東京某所のスターバックスで書いている。そうなのだ、なぜ読書夜話が激減したのか。それがわかった。以前、東京に住んでいたときには、スターバックスなどのカフェで文章を書いていた。家ではくつろぎすぎて、集中して何かを書いたりなんてしない。夜話を書くのに集中する必要があるのかと問われれば返事に困るけれど、まあそれなりに一生懸命に書いているのだ。

 スターバックスというのは、いい意味でリラックスできて、集中できる。つまり、夜話のような文章の書ける場所、と言えるのではないか。なぜかはわからない。しかし、キーボードを叩く手が進むのだ。

 前に下北沢でオシャレなカフェ巡りというのをしたことがあった。個性的ですごく良い雰囲気のカフェ。確かにいいのだ。しかし、長くPCを開いているような雰囲気ではない。店員さんが何度も水を入れ替えに来てくれるというのは、正直言って、リラックスを阻害してしまうのだ。セルフサービスで、それなりに広さのある空間。そしてガキの少ない客層。

 さて、夜話を多く書いていくのはスターバックスのような場所が必要だということはわかった。しかし、大きな問題があった。現在、僕の住所がある県にはスターバックスが一軒もない(スターバックスのサイトの都道府県の店舗検索に県名が載っていない……)。日本でこれは珍しい。ああ、恥ずかしや。読書夜話の更新というのは、どうしても少ないままなのだろうな。


◆ 君の話が聞きたいんだ

 ときどき思い返す小説がある。正確に言うと、小説のひとつの場面だ。飲食店にひとりの女性が座っている。

 宮部みゆきの『火車』の最後の場面。僕は、どうしようもない気持ちになる。こんなにも、人の心の奥のところをつかんだ場面というのはそうそうないのではないかと思う。

 すれ違う人は多い。居酒屋では、酒を飲みながら大声で語り合う人がいる。同じことを何度も何度も。しかし、本当の話はそこにあるのだろうか。「本当」か「嘘」かなんてものも微妙なものでよくわからない。嘘を言って、美味しい焼き鳥を食べていた方がずっとシアワセなような気もする。

 だいぶ前のことになる。僕は話を聞いてもらいたいことがあった。ずっと言えなかったことを、聞いてもらえそうな気がした。深夜の2時。咽のところまで出かかって、結局のところ言えなかった。

 どうして言わなかったのか。どこかで話が抜けていくような感じがしたのだろう。

 話というもの自体、どこかにふっと吹き飛んでいくようなものでしかない。話を抱きしめることなんて、できやしない。そんなことはわかっている。

 それでも、「君の話がききたいんだ」という声は、どこかで響いている。


■ ビデオ『スウィングガールズ』矢口史靖監督http://www.swinggirls.jp/

 前から観たい観たいと思っていた映画をやっと観ることができた。テレビで放送されたのを観たのだったが。

 それなりに楽しい青春映画だった。別に文句はないし(言葉は全然違っているけど)、十分に良い映画だ。さてさて、何で観たかったかというと、映画の中味もそうだが、実際の映像というものを観たかったのだ。

 そう、この映画のロケ地は僕が普段自転車でうろうろしているようなところである。彼女たちがアルバイトしていた、サティはたまにお買い物をするところ。ここには100円ショップがある。それから、「これってジャズだべ」の交差点も、たまに通る。全くもってなんてことのない普通の交差点である。

 はっきり言って、ジャズが演奏されるような雰囲気のカケラもない街なのだが……。

 それでも、知っている映像が、映画に出てくるのは楽しいものだ。


◆ 新幹線の中で

 新幹線に乗るといろいろなことを思いつく。けっこうボーっとしていることが多いわけで、思いつき、自体にそんなに意味はないけれど。

 どうして新幹線の車内販売は、いつも変わらず、あの車内販売なのだろうか? 例えば、スターバックスが車内販売をやってくれたら、けっこう喜ばれるのではないだろうか。
 コーヒーだけでなく、いろいろな飲み物を楽しめる。食べ物だって、たまにはパンその他を楽しみたい。バナナがあったら、なおのこといい。
 そして、何かカッコいい。新幹線に乗るということが、オシャレで、とてもリラックスできる時間に代わるような気がする。

 考えてみれば、新幹線というか、列車にはかつて食堂車というものがあったのだ。車内での、食べたり飲んだりのスタイルなんて時代とともに変化する。JRよ! もっと改革して欲しい。これからますます日本は狭くなる。つまり、新幹線での移動というのが増えるのだ。この移動の時間を、よりリラックスできるものとして欲しい。まだまだ、そうした要素はあるはずなのだ。


◆ 飲食店が雑誌に取り上げられること

 飲食店の前を通るのは楽しい。このお店は美味しいのだろうか、などと入りもしないのに想像して、ワクワクしたりする。しかし、お店によって、ちょっとばかり、アレレと思うことがあったりする。
 雑誌に取り上げられたという写真を、これでもか! と目立つように店の前に貼っているところがある。例えば、ラーメン屋さんなんかはこのパターンが多い。まあ、東京ではメディアに取り上げられることが、味よりも大切なことなのだろう。

 雑誌の写真を見て、やや残念に思う。美味しさというものを、味覚ではなく、雑誌の写真は記事で感じてしまっているのが現状なのだろうと思う。僕にしても、何だかんだいってもそうだ。

 しかし、わからなくもないのだ。店としては、少しでもお客さんに入って欲しい。雑誌で取り上げられたということを、前面に出した方が、お客さんは多く入る。誰もが自信を持って自分の店の味をアピールしているわけではない。かりにそうだとしても、お客さんが入ることとはまた別だ。

 多くの雑誌が出て、飲食店を探すことは、容易になった。けれど、これが良かったことなのかというと、よくわからない。なんだか忙しない世の中になったんだな、とは思うけれど。


■ 村上春樹著『意味がなければスイングはない』(文藝春秋)

 書店の前を通ったときにこの本が目に入った。僕の好きな「青」の色のカバーだった。正直なところ、買おうかどうしようか迷った。しかし、パラパラとめくって中を見てみると、面白いことに、スガシカオについても書かれていたりしていた。

 てっきり、ジャズについての話だとばかり思っていたのに。
 それですぐさま僕はこの本を買い、もくもくと楽しい時間を過ごすこととなった。

 各章のタイトルをここに書いておくことにする。

・シダー・ウォルトン
  強靭な文体を持ったマイナー・ポエト
・ブライアン・ウィルソン
  南カリフォルニア神話の喪失と再生
・シューベルト「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850
  ソフトな混沌の今日性
・スタン・ゲッツの闇の時代 1953-54
・ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ
・ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト
・ウィルトン・マルサリスの音楽は
  なぜ(どのように)退屈なのか?
・スガシカオの柔らかなカオス
・日曜日の朝のフランシス・プーランク
・国民詩人としてのウディー・ガスリー

 恥ずかしながら、名前の知っているは3人くらい……。音楽の好きな人がこの本を読むのと、僕のような人間が読むのとでは、違うかもしれない。そんな感じで読み始めた。

 とても嬉しくなったのは、最初のシダー・ウォルトンについて。
 この人はあまり有名ではないようだ。しかし、この人を冒頭で取り上げるようなところが、この本の魅力なのだろう。「野球選手でいえば、パシフィック・リーグの下位チームで6番を打っている二塁手」(P9)と村上春樹は書いている。たまらなく、魅力的な例えだ。野球も音楽も、しっかりとした仕事をしている人がいて、目立つ人がいる。

 この本を読んでいて、音楽の良さというのを感じるのは、最高の音楽が良いというものでもないということだ。どこか、力が足りなかったり、ある意味で完成度が低かったものが魅力的だったり、なんてこともある。

 この本のもうひとつの魅力的な部分、それは音楽と小説というものが重ねあわせて書かれているように感じられることだ。
 ブルース・スプリングスティーンの話などは、レイモンド・カーヴァーについての話がけっこう書かれている。表現として、音楽と小説というのは、大きく異なっているけれど、その根本にあるのは、同じようなものに思えてくる。

 そして、圧巻なのは、スガシカオについて。彼に着いてというよりも、日本の音楽について書かれている。別に日本のポップ・ミュージックを聴かない、と決めているわけではないようだ。

「肝心の音楽的内容に、説得力みたいなものがうまく感じられない。月並みな表現を許していただけるなら、はっとさせられるものがないのだ。心に迫ってこないし、特に新味もない。」(P196)

 こうした文章は、ひょっとしたら音楽だけでなく、小説についても同じなのかもしれない。もちろん、スポーツでも何事でもそうだ。「はっとさせられるもの」なんて、そんなにあるわけではない。

 さて、僕はこの本をベースとして、少しずつ、音楽というものを聴いていきたいと思っている。まだまだ僕の人生は長く、これから僕の趣味が音楽になる可能性だってある。しかしな、ちょっとばかりかっこ悪さもある。ひょっとしたら、その辺のCDショップには、「意味がなければスイングはない」コーナー、なんてのがありそうな気がするのだ。



◆ 最高の贅沢

 雪の積もる前にひと仕事があった。大根採りである。まあ、雪が被っても問題はないのだが、やはり大変だということで、一気に大根を採った。昨年の大根は出来が悪かったというのがあり、今年は少し本数を少なくしたらしい。今年の方が昨年よりも、美味しいので、本数は少ないが仕方が無いだろう。と、偉そうに言っているけど、僕はほとんど何もしていない。

 大根を採るという最後のところで、手伝うこととなった。寒い中を僕は大根と格闘する。抜くときの角度を注意しないと、途中で折れてしまうのだ。やさしく気持ちを込めて、ということも大切だ。

 全部で20本ほどの大根を抜いた。あとは母親にバトンタッチ。寒い中、これを洗うのである。そして、またまた僕の方へと、手渡される。大根の葉っぱである。これを、軽く熱湯に通して、ビニールに入れて冷凍庫に保存する。冬場の緑の野菜となるわけだ。

 この菜っ葉には最高に美味いのだ。僕は大量の大根の葉は前にして、けっこう興奮していた。これだけの大根の葉は、東京の高級スーパーでも手に入らないだろう。まあ、こんなものはどこを探しても売られていないのだが……。


◆ メディアの影響

 細木数子がフジテレビの番組で行なった発言で、養鶏協会が抗議するということがあった。
http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY200511290443.html

 確かに細木数子の話はめちゃくちゃなように感じられる。テレビの発言の影響というのは大きいわけで、食品に関してのコメントというのは慎重であるべき。抗議されても仕方がないと思う。

 たぶん、ほとんどの人の意見も僕と同じようなものだろう。しかし、その上で、ちょっと違うんじゃないかな、と思ったことを書いてみたい。

 というのは、テレビ番組での食品についての発言に、多くの人は踊らされすぎているような気がするのだ。何かの食品が危険だという声があると、売上げが落ち、生産者が大きな被害を受ける。しかし、スーパーなどで食品を見ると、プラスの情報は積極的に宣伝されている。例えば前日のテレビで、「カボチャが健康にいい」と取り上げられたならば、
スーパーのカボチャ売り場では、すぐにそのテレビで取り上げられたことが表示され、売上げも伸びる。

 もちろん、こういうことを悪いというわけではない。しかし、良いことも悪いことも、テレビのちょっとした情報ですぐに左右されすぎているように感じるのだ。断りが多くなって申し訳ないが、ニュースの発言とバラエティの発言と意味の違うこともわかる。

 つまり僕がちょっとばかり疑問に思い書きたかったことは、良い情報も、悪い情報も、自らの選択で行なわなければいけないのでは、みたいなことだ。生産する側にしても、テレビによる売上げの向上というのは、マイナスに転じる可能性もあるだろうと。


◆ エンジョイ!!

 人生を楽しもうよ! どこからかそんな台詞が聞こえてきそうだ。確かに、僕もそう思っている。だからこんなタイトルで文章を書く。しかし、世の中はそんなにシアワセに満ちているわけではない。失業者は多く、自殺者は多く、離婚する人も多い。もちろん、離婚というものが、不幸せとするのは逆かもしれないけど。

 とくにかく、僕だって、明るく元気に生きていきたいものだと思っている。けれど、なんだか難しいものだな、と。

 離婚といえば、少しばかり、離婚した女性のことを思い出した。何だかわからないが、彼女から頼まれ、離婚届けの保証人の欄に僕がサインをした。このことはちょっとばかり後悔している。彼女にしてみれば、ただの紙切れで、保証人が誰だろうと良かったのだろう。しかし、誰でもいいような保証人なんて、断るべきだったのだ。

 彼女は、その後どこに行って何をやっているのか、全くわからない。「消えて」しまったのだ。どこの世界にいっても、それなりに楽しくやっているのだろう。そういう人だった。

 しかし、この人のことを思うと「楽しい」というのが、良いことなのかと疑問になる。僕は何度か彼女の行動について注意したり、怒ったりしたことがあった。仕事関係なので当然だった。しかし、全く深刻に受け止めてはくれないようだった。たぶん、僕のことをうるさい奴だと思っていたのだろう。

 楽しくやっていきたい。そう思っている。けれど、楽しくない状況というのは、いたるところにある。みんな、そんな中にいるのだろうか。


■ 山本周五郎著『艶書』(新潮文庫)

 山本周五郎の「これから読む本」というのは何冊か持っていて、やっとその一冊を読み終えた。短編集なので、気の向いたときに、一話読んで、だいぶたって次の話を読んで、みたいな感じで過ごしてきた。

 ある意味で、似たような男と女の話だったり、うまく行かない人生にもちょっとした希望があったり、静かに良かったと思わせる内容で、僕はほんの少し幸せな気持ちになった。特に、「五月雨日記」「艶書」あたりは特別な良さがあった。

 ちょっとした驚きと言ったらよいのだろうか。最後の「可笑記」と「花咲かぬリラ」は時代小説では無かった。「可笑記」はやや随筆的な作品、山本周五郎という人をより身近に感じることができた。「花咲かぬリラ」は、終戦後の、婚約者との話。山本周五郎がこうした話を書いていたとは。終戦という時代が、これまでとは違った時代に感じられるようになってきた。

 ところで話が変わるがこの山本周五郎でちょっとばかり困っていることがある。僕は新潮文庫で読んでいるのだが、どこまで読んで、どこからが読んでないのか、わからなくなってしまった。まあ、もう一度読めばいいという話なのだけど。


◆ 南千住ディープ

 東京に行ったときには、とある理由で南千住という街に行く。いつも前を通る、とある居酒屋があったのだが、先日この店に入ってみた。

 店の名前は、大坪屋という。老舗の店(大正12年創業)で、煮込みとかもつ焼きとかの出てくる、いわゆる大衆居酒屋である。しかし、この店の雰囲気は、かなり独特で……、僕の文章力ではとてもじゃないが、表現できない。

 例えば、AさんというOLがいたとする。めちゃくちゃキレイで仕事もできる。まあ、こういう人っているよね。「青山や六本木とかのフレンチとかイタリアンとかも悪くはないけど、最近はもっぱら有楽町のガード下の店で、煮込みで一杯飲むのが一番落ち着けるの」なんてことを言ったりする。しかし、こんなAさんも、南千住で飲むことは決してないだろう。北千住で飲んだとしても、南千住ではありえない。このくらい強調できるくらいのディープさがこの南千住にはあるのだ。

 店の真ん中には大きなカウンターがある。店員さんは、そんなに丁寧ではない……。ちょっとだけ空いているカウンターの狭い席に座る。隣の人は、ちょいとずれる感じ。まずは、酎ハイと煮込みを注文する。ちなみに、この店の酎ハイというのは、「元祖25度」というもので、かなりこだわりが感じられる。焼酎の入れられたグラスと、別の瓶の炭酸水が出てきて、自分で混ぜるようになっている。炭酸は勢いよく蓋が抜かれたあとで、おどりおどっている状態。ちなみに、これで200円。

 それにしてもこの店は凄い。なんといってもその安さ。壁に多くのメニューが載っているのだが、その多くは200円。あと250円とか300円とか、とにかく、そうしたお値段なのだ。

 少し飲んでいたところで、僕は隣りの席のおじさんと話をすることになった。歳は68だと言う。「今日は楽しいことがあったから」と言って、陽気にいろいろな話をしてくれた。田舎から出てきたということで、こうした店の雰囲気が好きなのだという。他にも、北千住や上野あたりの、このような居酒屋で飲んでいるとのこと。面白いよ、と。田舎から出てきたような人間がけっこうひとりで飲んでいるんだよ、酒を飲むのが楽しみなんだ、それで仕事をして。

「自分に合わないような店だってありますよね?」と聞いてみると、6戦2勝くらかな、という返事。なんでこの数字になるのかは不明だったが、まあ高い確率なのだろう。とくにかく、こんな雰囲気で話は弾み、僕はこのおじさんから、2杯も酎ハイをご馳走してもらうこととなる。ちなみに、そのときには、店の人に「勘定はこっちにして」みたいな感じで言う、そうすると、炭酸水の置かれている場所がおじさんの席に移動することになる。とてもシンプルな計算方法。

 何せ、田舎を出てからずっとこの近くで仕事をしてきたとの話、東京スタジアムの話を聞いたあたりから、かなりハイテンションになってきた。
 何度も、「説教みたいになってゴメンね」と言いながら、僕にいろいろな話をしてくれた。

「うまく行かないことがあっていいじゃない。何でもうまく行ったらつまんない人生だよ。」
「とにかく、真面目に仕事をすることなんだよ。」
「お兄さんは若いよね。若さはいいよ、可能性があってまだまだこれからなんだから。」

 ちなみに、僕の年齢というのは、この店ではかなり下の方であった。
 終盤の方で、おじさんは鳥の唐揚を二人前注文した。僕にご馳走したかったようなのだ。しかし、30分かかるということで、キャンセルすることに。もうかなり飲んでいたので、店の人も無理じゃないの、と言っていたのである。そんなに時間がかかるのか、とおじさんが声を出すと、店の主人は、「うちの店ではすぐ出せるようなものは、出してないんだ」と言ってきた。江戸っ子の会話だった。

 68歳のおじさんの話はまだまだ続く。

「苦労を知らない奴なんて大した奴じゃない。」
「田舎に帰りたいんだよ……。」

 そして、「人を信用しちゃいけないよ」と言っていた。キッパリと。

 人生というものを語るには、ときには、少しばかり古ぼけた居酒屋という場所と酒が必要なのかもしれない。
 何度も、自分の人生は、そろそろ終盤なんだという話を繰り返していた。田舎に帰りたいと。そして、僕に対して、若くて可能性があってまだまだこれからなんだと。

 とてもいい感じの人で、全然説教じみた感じはしないし、ほんとうに美味しい酒を僕は飲んだ。会計は、僕が1250円で、このおじさんは2250円だった。たぶん、いくらがんばって飲んで食べても、ひとりで3000円を越えるのは難しいだろう。

 このおじさんとは、もう会うことはない。こういう酒の飲み方があるのだと、僕は少しばかり嬉しかった。この日はちょっとばかり(というか、かなり)考え込んでしまうことがあっただけに、特別な意味を持った酒でもあった。

 最後に店の前で何度目かの握手を交わして、別れた。ほんの数秒、僕はその後姿を見てから、歩き出した。


◆ ずっと傍に置いておきたい本達

 最近(この1、2年)、本を減らそうとしている。まあ、いっぱい抱えていても死んでしまったら仕方が無いわけで、できるだけ身軽にしたいと思ったわけだ。アマゾンとかで売ったりはしているのだが、簡単には減ってくれない。お金にならないような本は、ブックオフに持っていこうとしていたのだが、うろうろしていたら雪が降ってきてしまった。

 手放すのは勿体ないな、と思ったりはする。しかし、読み返すことがあるかというと、そのほとんどは無い。そうやって考えると、別れるべき運命なのだと思う。本との出会いと別れも、男と女も、大して違いはないのかもしれない。一度の出会いで、サヨナラか……。

 さて、そんな中でも手放したくはないと思える本がある。藤沢周平、池波正太郎、山本周五郎という時代小説である。特にこれらは文庫で持っているので、キレイに本棚に収まってくれているところも良いのだと思う。無理なく、一緒にいられる感じなのだ。

 例えば、インパクトのあるものについつい惹かれてしまう。しかし、一時期に良かったとしても、飽きてしまう。自然に一緒にいられるような存在の方が、自分には必要だと思えるようになってきた。数は多くなくてもいい。少なくても、ゆっくりと語らえるような、そんな本を本棚に並べていきたいものだと思っている。

 しかし、ちょっとばかり将来についての不安はある。文庫本は気軽でコンパクトで良いのだけど、その活字が見難くなっていくのだろうか。トホホ。




 DOLPHIN HOTEL