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DOLPHIN HOTEL 読書夜話2006年3月
◆ 久しぶりの夜話について 昨日から今日と、少しばかり気分が悪い。それは、買い物に失敗したことだ。ジーンズを買った。割引になるということで、2本セットで。
さて、ジーンズについて。なんだか短かったようなのだ。厚めの靴に合わせたので、短めにしてもらった。そんなにはおかしくないのだろうけれど、やっぱりもう少し長い方がよかったと後悔しているのだ。買い物というのは苦手だ。常にこのような後悔のようなものがある。仮に、ぴったりの文句のない買い物をしたとしても、やはり何らかの「ああすればよかったかも」ということを考えてしまうのかもしれない。 夜話がなかなか更新されなかった理由についても、語らなければならないだろう。 特別な理由はあるのだろうかと探してみる。たぶん、面倒だったのだろうと思う。こうやって、だらだらとキーボードに向うことも、実際に行えば楽しい。自分の文章を書いているんだな、と感じる。僕のリズムのようなものがここにはあるのだと。 そうなのだ。少しばかり、違った角度から、この書かなかった理由というものを書いてみる。 しかし、誰にでも喜んでもらえて、誰にも不愉快にさせることのない文章というのも、ありえないものだと思う。第一、僕はプロでも何でもない。 あまり深刻になってはいけないのだ。完璧なホテルのサービスがあったとする。その完璧というものを想像して欲しい。ガチガチのビジネスライクだったなら、それは良いサービスではないのかもしれない。失敗をしたならば、ごめんなさい、と謝る。それも、そのホテルのサービスの質を示すものだ。 もう一度、人生をやり直すとしたら。そう、僕はホテルに勤めたいと思う。もちろん、このドルフィンホテルというものは、ウェブ上の存在に終るのか、何らかの別の形になるのか、それはまだ誰にもわからない。ちょっとした夢くらいは、持っていても構わないだろう。 ジーンズについて、もうひとつネガティブな話があった。僕は28インチのジーンズを履いていたのだ。当然のように、僕は28インチのジーンズを手に取り、試着室に入った。けれど……。入らなかった。ショックだった。
神田にある「大阪串揚げ・焼酎処 串の蔵」(http://r.gnavi.co.jp/g088502/)という店で飲んだ。友人が、大の焼酎好きで、その関係でこの店に入ったのだ。 驚いたのは、焼酎の数。普通でない種類の焼酎が置かれている。焼酎の好きな人には、確かにたまらないお店なのだろう。 普段、僕はこうした揚げ物はあまり食べない。しかし、やっぱり美味しい。一緒に飲む焼酎も美味しい。なかなかに良い感じのお店だった。
雑誌「文藝春秋」(4月号/3月10日発売)をファミリーマートで立ち読みした。村上春樹の書いている「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」を読みたかったからだ。 読んでいて、かなり固まってしまった。たぶん、相当覚悟して村上春樹はこの掲載に踏み切ったのだろう。ひょっとしたら、多くの村上春樹ファンの半分くらいは去っていくのではないだろうか。 別に村上春樹を非難するつもりはないけれど、あまり後味の良い文章ではない。現実、というものを深く考え込んでしまう。めずらしく、裏側の話なのだ。例えば、どこの会社でも表側には出さない、裏側の話のようなものがある。悪口と言える話がほとんどかもしれないが、表に出ない、良かったという話もある。 生原稿流出事件というものに触れるために、安原顯氏のことを書かなければならなかったのだろう。かなり客観的に書かれている。出会って良かったということも。しかし、それでも、死者に対してのことなので、すんなりと受け止められない気持ちもある。 偶然なのだが、編集者の死についての村上春樹の文章を読み、事件の前から深く考えていたことがあった。文章というのは、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(朝日新聞社)の中にある「文学全集っていったい何なのだろう」というエッセイ。吉行淳之介氏の告別式に行ったことについて書かれている。吉行淳之介氏はちょっと絡んでいるだけで、そんなには関係がない。 そうしたことについての村上春樹の気持ちというか、ものを書くということについての覚悟のようなものが書かれている。この部分については、引用しても部分的なものにしかならないので、興味のある方は、ぜひこの本を読んで欲しい。 小説を書くというのは、想像するに、血を流すことと同じことだと僕は思っている。相当な、覚悟と強さというものが必要なのだと。いわゆる、サムライみたいなものかもしれない。
バレーボール・Vリーグ女子、パイオニア・レッドウィングスが優勝を果たした。しかし……。どうにも違和感があるのが、僕だけだろうか。 実はこの優勝のニュース、全国版のニュースと、Y県の地元版のニュースとでは全く内容が違っている。パイオニアという女子バレーのチームは、Y県においてはJリーグのモンテディオと同様に、おらが街の地元チームなのである。ところが、全国の人々でパイオニア優勝のニュースを見て、どの地元が喜んでいるかということを想像する人は、ほとんどいないのではないだろうか。サッカーや野球では、当然のように「地元」の喜びが映し出される(一部例外はあるが)。 冷静に見て、Vリーグのこうした状況というのは、損をしているとしか思えないのだ。 優勝してのファンと一緒に喜んでいる「絵」があること。それこそが、プロのスポーツなのだと思う。まあ、Vリーグがプロではないと言ってしまえば、それまでなのだが。
メイド喫茶その他が、とっても流行っているのだという。テレビなどでその映像を見ると、僕はついつい昔あった「もつ鍋」を思い出してしまう。その昔、もつ鍋の店はとってもおしゃれな存在で、めちゃくちゃ流行っていた。もつ鍋の店とメイド喫茶、その本質はあまり変わらないのでは、と思うのだが。 そんなわけで、メイド喫茶という存在は、あと2、3年だろうと見ている。そうなったら、これらの衣装はどうなってしまうのでしょうね。 しかし、どうしてこのメイドがこんなに流行るのか、よくわからない。まあ、僕だって、男である。まったくわからないわけではない。しかし、フライトアテンダント喫茶や、白衣のお姉さん喫茶、美人秘書喫茶なんかがあっても、おかしくはないと思うのが。なんでメイドなのだろうか……。 さて、ドルフィンホテルの読者には、結婚されている奥様が多かったりしている。そうした皆さんは、このメイドブームをどのように見ているのだろうか。そんなことに興味があったりする。そこで、質問です。5択からお答えください。 A.まったくバカらしく話にもならない
ドルフィンホテルのリンクについての決まりを少し変更した。個人でやっているものだし、フリーでいいと思っていたのだが、かなり不愉快なことがあったからだ。
匿名で、ただの言いたいだけの状態……。なんとも情けない。 毎日のようにインターネットという世界にいる。しかし、かなり疲れてしまったような気がする。20年も前のパソコン通信の時代から、ネットの世界を見ている。だんだん、モラルというか、そうしたものが無くなっている。以前だって、情けないようなことはいっぱいあったが、インターネットというものの理念のようなものは、存在していた。そうしたものが、無くなっているような気がする。 例えば、インターネットの情報というのは、タダだと思っている人が大半だろう。プロバイダなどにお金を支払えば良いだけで、あとの情報料というのは無料なのだと。 インターネットというのは、一方通行だけでなく、相互の情報の交換みたいなもので成り立っていると、僕は思っている。そうでない使い方が多くあったとしても、「相互」という理念が根底にあることが、重要なのだと。 掲示板などは、特にこの「相互」が大切になる。昔のニフティサーブのフォーラムなどは、この部分を重要視して、かなり明確なルールを定めていたところもあった。 インターネットは、とてもとても便利になった。しかし、情けない世界が広がっただけのようにも思えてしまう。
久しぶりに野球を見ていた。WBCである。かなり興奮していた。これでも僕は野球少年だったのである。まあ、笑ってくれ。僕子供の頃の男で、野球をやらない奴なんていないといっていい程だった。 小学校のとき、学校から帰ってきての遊びと言えば、野球だった。遊ぶ友達がいないときでも、壁にボールを投げて遊んでいた。銭湯(に行っていました)では「3」番の下駄箱を使っていた。 WBCは、クラッシックという名前がある通り、そんな子供の頃を思い出させるものだった。 いろいろあったが、何かの大会で圧倒的な強さで優勝するなんて、聞いたことがない。優勝には優勝に値する、それなりのドラマというものがある。そうしたところが良かったのだろうと思う。 何よりも、王貞治監督がカッコよかった。ちなみに今、凄く嬉しかった。なぜなら、「おうさだはる」と入力して「王貞治」と変換してくれたからであす。やっぱり監督(指導者)というのは、カッコよくなければならない、とこの大会では特に感じたことだ。 インタビューでの受け答え。そうしたものを選手も見ているだろう。自分の指揮官をカッコいいと思えるかどうか、実は大切なことだろう。特に、王監督のインタビューでは、外国の記者から、国籍に関するものもあった。これについての王監督の受け答えは、凄いものだった。最近の日本と韓国との問題とか、そうした全てを凌駕するものではなかったかと思う。 決勝が終って、優勝トロフィーを持つ姿も「絵」になった。これが、野村克也監督だったら……。野村監督と言えば、彼はなんであんなにデンとしているのだろうか。昨年の田尾監督の成績と比較するならば、明らかに劣っている。なのに、なんだか偉そうなんだよね。まあ、世の中にはわからないことが多い。 WBCを見て、「ああ、やっぱり野球って面白いよな」と思った多くの中のひとりが僕である。しかし、NPB、日本のプロ野球を見て、しらけてしまった。何で、野球を見るときに、「オリックス」「楽天」「ソフトバンク」「ロッテ」なんて、企業名を言わなければならないのだろうか。
なかなか面白かった。最初はどういう映画か分からなかったのだけど、途中からしだいに盛り上がってくる。 ギスギスとした人たちが、彼女の歌で明るくなる感じが、またいい。
こつこつと、amazon.co.jpで本を売り続けている。一ヶ月の平均とすれば、15から20冊くらいだろうか。なかなか売上げを出すというのは難しいものだ。多くの古書店も、このアマゾンで本を出品しているが、やはりその数が桁違いなのだと思う。 さて、僕のアマゾンでの現在の評価。 購入してもらった数はもっともっとあるのだが、全ての人が評価を出すわけでもないので、こうした数字となる。5から1の5段階評価なのだが、「3」のときが一度だけあった。それが、大きく響いている。ではこのときに何か問題があったか。何もなくいたって普通なのである……。 全く同じことを行っても、「5」と評価を出す人もいれば、「3」と評価を出す人もいる。売買というのは、気持ちよく行いたいものだと思っている。そのひとつの目安が、良い評価を受けることでもある。だから良い評価を目指す。「3」の評価を受ければ、当然がっかりする。問題があったのならば、もっと良いサービスをしよう、と思う。しかし、コメントを見ても、問題があったわけではない。となると、世の中こんなものだ、と割り切るしかなかったりする。 人から評価を受けるということを経験すると、ちょっとは人間というものが成長するのではないかと思っている。例えば、飲食店で食事をしたとする。美味しく、なおかつ店員の人の笑顔がよかったりすれば、「とても美味しかったです」なんてことを言ったりする。自動販売機には、そんなことは言わないけれど。
『功名が辻』を毎回楽しく見ている。しかし、微妙な違和感というか、つまらなさ、みたいなものがある。とうのは、登場人物が重なってしまっているというか、変な違和感があるのだ。例えば、この戦国時代というのは何度も大河ドラマになっている。当然のように、織田信長は何度も出ている。それぞれが違った信長なのは当然なのがけれど、ついつい同じ大河ドラマということで、比較というか、イメージがダブってしまうのである。 織田信長であれば、『利家とまつ』のときの「反町隆史」、『信長 KING OF ZIPANGU』のときの「緒方直人」、そして何といっても『国盗り物語』の「高橋英樹」が強烈だった。どうしても「舘ひろし」を見ていても、背後霊のように他の信長が出てきてしまうのである。 それから、武田鉄也、中井貴一、香川照之、西田敏行など、何度か大河ドラマに登場している人がいるが、これも他のキャラクターが重なってしまう。 そういえば、昨年の『義経』のときは凄かった。なにしろ、マツケンサンバとか、電車男とかが、義経の家来になっているのだ……。 一年間掛けてドラマを見るというのは大きなことだ。それだけに、その印象はどうしても残ってしまう。そうしたことをもう少し考慮して、題材を考えたり、役者を決めたりして欲しいと思うのだけど。 来年は『風林火山』とのこと。まあ、悪くはないのだろうけど、戦国時代であることに変わりは無い。もう少し別の時代にして欲しかったような気がする。 それにしても。どうしてNHK以外の民放は、こうした大河ドラマのようなものを作らないのだろうか。スポンサーが付かないのかもしれないが、ちゃちな新しいドラマを年に3回も登場させるより、1年間通して見応えのあるドラマの方が、よりスポンサーに対してのリスペクトが出てくると思うが。
昔、文章を読む、という仕事をしていたことがある。多数の人の文章を読み、添削のようなことを行っていた。正直なところ、かなり大変だった。しかし、それを行うことで、少しは文章というものに対して、人というものに対して、得るものがあったと感じている。
文章の短所というものであれば、読めばすぐに見つけられる。僕なんかの場合、粗探しは得意なのである。しかし、長所を見つけるは難しい。その長所を探すために、何度も何度もその文章を読み返す。作者は何を書きたかったのだろうか、そんなことを思い描く。 長所と短所を明確に提示したならば、その文章は、確実に次へのステップに進んでいく。短所を消せば、文章が上手くなるというものではないと思う。 インターネットには、膨大な量の文章がある。最近はブログなどもあり、本や映画の評論も星の数ほどに多い。良いことでもあるのだろう。 しかし、そのほとんどについて、読むに気にならないというのが本音である。単純に、外側から短所を貶したような文章が多すぎると思うのだ。長所だけを褒め称えているのも、なんだか物足りない。文章というものは、単なる文字情報ではないはずだ。その文章を通して、考えたりするとことに面白さがある。
僕の寝室には、文庫本用の小さな本棚がある。そこには、昔読んだ本を詰め込んでいる。長い間、触れることのない本たち。埃をかぶっている。少しばかり、寂しい表情をしている。 ある日、この中にあった『限りなく透明に近いブルー』を取り出した。講談社文庫。昔のカバーだ。 何が凄いか。センテンスが長いのだ。句読点も限りなく少ない。無い、といってもいいほど。 最近出ている小説で、このような文章を書ける人はいるのだろうか。わかりやすい文章を書くには、短いセンテンスにすればいい。句読点を適度に入れれば、読みやすい。誰にでも読みやすい文章、それはそれで良い。しかし……、何と言ったらいいのだろうか。軽いのだ。個性がないとも言えるかもしれない。何度も読みたくなる文章、お金を払うに値する文章、そんなものが「文学」というものかも、なんてことを思ったりする。 センテンスと句読点と言えば、吉行淳之介の文章を思い出す。当たり前のような文章だけれど、よく読むと、深い技量が窺える。こういうのが、究極と言える文章なのかも、と漠然と思ったりする。 しかし、文学というのは、読者あってのものだったりする。本が売れなければ、小説家というのは食べていけない。どこかに書いてあったのだが、現在、純文学の作家というのは食べていけないのだと言う。 読み手に、どのような優しい文章であるか、それも重要なことなのだろう。 さて、この文章のタイトルは「村上龍と村上春樹」である。2人は、同じ時代の作家であり、同じ苗字ということで、それなりに並べられることが多い。どのように読者を意識しているかという点でも興味深かったりする。インターネットを使った小説家という点でも2人は飛びぬけた存在である。2人とも、違ったアプローチでインターネットを使っているところも、また凄い。 話は、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に戻る。100年度に、村上龍と村上春樹の代表作として記されるものは何か。たぶん、村上龍はこの『限りなく透明に近いブルー』だと思うのだ。若いときに、才能の全てを発揮する存在というのはある。僕は、「才能」という言葉を使うのは嫌いなのだが、この小説は、確かに才能というものを感じるものだ。 村上龍に対し、村上春樹の代表作は何か。たぶん、最終作品なのではないだろうか。それは未完の作品かもしれない。それでも、最高傑作と呼ばれるような気がする。僕が思うに、村上春樹は努力型の作家である。マラソンを走るように、一歩一歩、自分の書きたい世界と、読者というものを意識して、ゴールに向っているように。
この事件の関係者が逮捕された。新聞などに載る関係者のコメントというのは、全く知らない、関係ない、というもの。あまりにも情けないと思っているのは、僕だけではないだろう。 ちなみに僕はむかしむかし、メーカーで仕事をしていたことがあった。カッコよく言えば、メーカーだが、わかりやすく言えば、下請け企業だ。何だかんだ言っても、多くの企業というのは、下請けというのが、現状ではないか。では、下請け企業はどこに製品を出すのか。主に、自動車会社と電気関係である。 自動車にトラブルがあったならば、テレビやクーラーなどにトラブルがあったならば、当然のように、リコールがあり製品は回収され、無償で修理が行われる。最近のナショナルの石油温風器の問題などは、かなり大変だったのではないかと思う。何しろ無償で修理だけでなく、 1台当り5万円とかを支払ったりしていたのだから。 ものづくりというのは、どうやっても不良品が出てしまう。納期まで不良品を出さないで、その部品なりを出荷するというのは、かなり大変なことなのだ。単価は安く、そこから儲けを出さなければならない。 最終的な生産ラインで不良が見つかったならば、それはまだいいほうだ。行って回収すればいい(もちろんそれだって大変なことがだが)。しかし、製品として出てしまってからのトラブルであれば、リコールがある。僕がむかし会社にいたときは、自動車のエアバックシステムの導入前だった。エアバックに使う新しい部品のために、新しい建物の新しいラインを作っていた。かなりピリピリとしていた。仮にエアバックが稼動しなかったならば、人身事故に繋がる。単にお金の問題ではなく、大きなイメージダウンにもなる。 仕事というのは、当然「言った、言わない」という伝達の問題は出てくる。しかし、問題というのは起こってはいけないもの。よって、しっかりと受け取ってもらえなかったならば、「伝える方」に問題がある、という認識になってしまう。 「安く設計しろ」と言ったならば、その安全性までも、把握するのが、「伝える側」の責任になるはずなのだ。 建設業にリコールというものは存在しないのだろうか。素朴な疑問である。
今年のF1シリーズ初戦であるバーレーンGPで、スーパーアグリF1に乗る佐藤琢磨は完走をはたした。そのことを賞賛する文章を書こうと思っていたのだが、時は流れ、第4戦のサンマリノGPも終ってしまった。やれやれ。 今のスーパーアグリにとって、完走すること、は大きい。それはマシンの性能を向上させるとかそうしたことではなく、もっと現実的な話においてである。 スポンサーの問題だ。現在のチームには、メインとなるスポンサーがついていない。ホンダがかなりバックアップしているという噂はあるが、このままノースポンサーであれば、このチームに来年はないかもしれない。 優勝できるチームでないことはわかっている。毎回予選でのビリも仕方が無い。しかし、最後まで走るというのは、その映像が世界に流れる時間が増えるということだ。 フジテレビもがんばって「日本代表」をアピールしている。広告代理店がシナリオを書いて渡しているのではと思ってしまう。まあ、それでも、スポンサーが付かなければ話にならないのが、F1という世界だ。 鈴木亜久里代表は、「ファンの皆さん、応援してください」とやさしい表情を見せる。でも、本音としては、「日本の企業の皆さん、ぜひスポンサーになってください」というのがあるだろう。応援というのが一体何なのか……。 ということで、皆さん、スーパーアグリF1を応援しましょう!!
素朴な疑問がある。女性(特に「キレイな」と付け加えよう)の酒が好きだと言う人とに何の酒がいいの、と聞くとだいたいこの焼酎ということになる。 どうして女性は焼酎が好きなのか? ぜひ、聞いてみたい。ひと昔前だったなら、ワインだったような気もするけれど……。もちろん、時代のブームに乗っていて構わないのだ。全く構わない。けれど、焼酎というものについて、僕のイメージは固まってしまっているものがある。その焼酎のイメージと、キレイな女性が語る焼酎のイメージとは違うのだ。 この夜話を読んでくれている人ならば、この1年ほど僕が東京の下町の大衆居酒屋でひとり酒をやっていたのは知ってもらえると思う。南千住とかのデープな店が面白かったりしているわけだ。 こうした店では、若い女性はいない。年季の入ったおじさん達である。もつ焼きとかで、楽しそうに酒を飲んでいる。飲む酒とは何か。圧倒的に焼酎系なわけだ。贅沢な人であれば、最初はビール。中には日本酒を飲んでいる人もいる。かなり安いものでもあるが。 つまり僕にとっての焼酎のイメージというのは、「おやじ」「安い」「もつ焼き」「酔えればいい」「大衆」「少ない小遣い」とか、そんなものなのである。 ところが、キレイな女性は「私は焼酎が好き」という。まあ、わからなくはないけれど、一瞬僕の中の焼酎のイメージが、ぐしゃぐしゃと捻じ曲がってしまう。 「ワタシ焼酎が好きです。特に宝っこが好きで、4Lペットボトルを抱いて寝ています。」なんて話は聞かないもんな。 DOLPHIN HOTEL |