フロント
   
   
   
   
   
   
   
   
   


     
ドルフィンホテル あるホテルの物語


 「ドルフィンホテル」はどこにあるのですか?

 ときどき聞かれます。けれど、ほとんど知られていません。雑誌などに広告を出したりしていようなのですが、それはほんとうに小さな目立たないものです。
 たいてい来てくれるお客さんは、ちょっと寂しい思いをした時に、「ドルフィンホテル」のことを知って、その日のうちに鞄に必要なものを入れて出かけます。

 列車へ乗る前に会社へ電話をします。「ゲホゲホ、すみません。ちょっと風邪を引いたみたいで、ゲホゲホ、2、3日休ませてください……」

 まだ早い時間なのですが、駅の中の小さな本屋さんが開いていました。文庫本を数冊買います。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」と、池波正太郎の「剣客商売」にします。何を買おうか少し迷ったのですが、最近出た本を買う気にもなれず、以前読んだことのある本をにしました。キオスクでお弁当とビールを買い、列車に乗ります。
 いつもの通勤電車からの景色とは当然のことながら、全く違った景色です。

 駅に着いてから今度はバスへ乗り換えます。しかし、発車時間まで1時間もあるとのこと。少し街を歩きます。ほんの10分も歩くともう街の外れのようです。小さな川があって、そこには今時めずらしい木の橋がかかっています。河原では子供が遊んでいます。
 土手にちょっと横になって時間を潰します。文庫本を取り出すのですが、子供の声がなんとなく気になってなかなか本を読むことができません。

 バスには彼の他5、6人くらいの乗客しかいません。おばあさんも乗っています。
 途中のバス停で高校生が降りたのですが、その周りには家は見あたりません。そんな寂しい山の道をバスはゆっくりと走っていきます。時々バスは止まったりもします。道が狭いため、擦れ違いができなかったりするのです。


 バスを降りてから10分ほど歩いたところにホテルがありました。

 フロントは元気のいいお兄さんです。この仕事を始めたばかりなのか、ちょっと慣れない感じ。でも何でも答えてくれてとてもいい感じです。
 部屋には、テレビも冷蔵庫もありません。あとからふと気がついたのですが、このホテルには館内放送もありませんでした。ほんとうに何もないホテルです。
 でも、他のホテルにはないものがここにはあります。とても広いスペースの図書館です。このホテルに来る人が少しずつ本を持ってきて、こんな数になったとのこと。来る時に読んだ文庫本をこの図書館に提供することにしました。同じ本が数冊に増えてしまったみたいでしたが……。

 うろうろしているホテルの人がいます。どうやらこのホテルの営業のようです。こんな小さなホテルでも営業がいるようです。あとで話しをしてわかったのですが、ほとんどこのホテルにはいなくて、あちこちと飛び回っているようです。最近秘かに婚約したとの話もあり、なにかとても急がしそうです。

 本をかりて散歩にでます。横になり、鳥の声をBGMにして読む本はいつもとはやはり違った感じです。
 こんな風に時間を過ごしている人は多いようです。少し先の方に寝ている人を見かけましたが、なんとこの人はこのホテルの支配人なのだそうです。

 温泉に入った後は、食事です。フランス料理ですが、ちょっと変わっています。食器はすべて和風です。なんでもこのホテルのマネージャーが自分で焼いたものだということです。
 夜はホテルの中のバーに行きました。名前は遠い南の海を連想させてくれる名前の小さな店です。
 カウンターで座るとバーテンダーがニッコリと笑顔で迎えてくれます。ここは珍しく女性のバーテンダーです。他にあまり客がいなかったこともあり、このホテルのことなどいろいろと話をしました。「支配人はこのところ全然仕事をしていなくて」とぼやいていました。でもあとから他のホテル関係者から聞いたのですが、このバーテンダーも時々旅に出たりしていなくなるそうです。
 店の隅に少し汚れたノートを見つけました。このホテルに来た人のちょっとした感想などが書かれたりしています。なんか懐かしい感じです。一番初めの方のページには、このホテルの設立について書かれていました。ちょっとしたメモのようなものですが、の名前の由来とか、設立に関して色々なことが書かれていました……。


 ノートはけっこう汚れています。

 多分多くの人がこのノートを見たのかもしれません。

 最初の日付は1992年10月25日となっています。村上春樹の「国境の南、太陽の西」や沢木耕太郎の「深夜特急 第三便」がでた頃です。
 支配人と、広報営業担当副支配人とで、このホテルは突然に開店しました。名前はあまり意味もなく決まったみたいです。そう言えばこのホテルの図書館には、村上春樹の本が他よりも多く並んでいました。「羊をめぐる冒険」、「ダンス・ダンス・ダンス」といった小説の中に、確かここのホテルと同じような名前があったような気がします。
 どこにあるのかよくわからない、という点では共通しているみたいです。

 それから、ホテル設立の二人に、もう一人関係のある女性がいました。
 名前は、三冬といいました。
 支配人が知り合った当時、彼女はまだ独身でした……(シクシク)。とても男っぽい感じなのですが、キラリと女性らしい面もあり、魅力的な人のようです。
 彼女は秋山大治郎という人のもとに嫁いだそうです。ちなみにその人の仕事は、剣客商売とのこと。
 ノートには、池波正太郎という名前と、「鬼平犯科帳」といった名もよく見られます。

 多分、小説家の名前なのでしょう。他にもいくつもの名前がでてきます。
 椎名誠、宮部みゆき、藤沢周平、隆慶一郎……。

 以前は、このバーにも色々な人が集まって飲んだりしていたようです。
 伊豆の民宿で夜中まで話をしていて、宿の人に怒られた、なんてことも書かれています。
 騒がしかったり、静かになったりと、このホテルでは様々なことがあったようです。

 あちこちの場所からこのホテルに来て、こうやってこのバーでお酒を飲んでいます。自然に話をしたりします。
 本当にいろいろな人がいます。ある人は松本侑子という作家と同じテーブルでご飯を食べたことがあるそうです。
 それからホテルに関しての面白い話を聞いたりもしました。
 このホテルの館内放送は、本当はあるらしいのですが、支配人が「うるさい!」といってスイッチを切ってしまったらしいです。

 そろそろ眠ろうと思い、バーから部屋に戻ります。窓から見える星が眼に入ります。なにか懐かしい気持ちになり、しばらく見上げていました。
 少しして、ベッドに入り眠りにつきました。

 おやすみなさい。

1996.4.8




DOLPHIN HOTEL