03年の日記

今年の日記へ

●12月31日(水)

「ヒッキング」4日目。『キッド』の原稿書きと買い物。夜は格闘技番組3つをハシゴしてほとんどの試合を視聴。結局、プライド最後の桜庭の試合が一番よかった。よくあんな恐いことを商売とは言えやれるなあ、長らく格闘技を見てきたけど、真面目にそんなことを考えたのは初めてだった。目が疲れた。

みなさん今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします。

●12月29日(月)

「ヒッキング」生活2日目。デリダ、ドゥルーズ他、『フロイト先生のウソ』(文春文庫)という本も一部読む。同書の原題は、たぶん「心理誤謬辞典」みたいなものだと思う(原題はドイツ語なのであいまい)。知り合い他、宮崎某が、新聞で今年のベスト本としてあげていたので購入した。100ページくらい読んだが、そのいじわるな視点はさておき、基本的に共感した。

夜は古い友人と語り合い。どうも僕は最近、以前のキレがなくなったとのこと。その「キレ」自体の意味がわからない。でもなんとなく、この頃は、世の中をあまり見下さなくなってきているような気もする。それがどういう意味になるのか。

●12月27日(土)

1日中プラッツ。面談の連続。ずっと続いてきた仕事も、今日でやっと終わり。明日からは、憧れの「ヒッキング」(ひきこもることの造語)生活だ。

しかし、一昨日も昨日も今日も、夜はメンバーたちとの語り合い。これは実はプラッツ最大の仕事なのだが、それの言語化は別にするとして、こういった行動をここまで「仕事化」できていることに驚きを感じる。

だって僕は、いくつかの講演でもしゃべっていることだけど、サリンジャーの小説を高校時代に読んで以来、今のような仕事をしたいと思っていて、ここまで徹底的に「寄り添える」仕事ができると思ってはいなかった。「社会」というのは夢を破るもので、そんな夢はいつも破壊されるものだ。今の仕事内容は確かに疲れる。でも、「ライ麦畑の捕まえ人」の、100分の1くらいの役割は、今の僕はしてるんじゃないかな。そんなセンチメンタルな総括をしてしまった、2003年の仕事納めの日なのであった。

●12月24日(水)

午前中医者(高血圧)、午後から訪問、そのあと某会議。

なんかこの頃、どうも各方面に対して萎縮していたなあという気がしている。実際の僕を知っている人からは「どこが遠慮していたんだ」と言われそうだが、自分では遠慮していた。

たとえば会議でも、すべてにおいて「はぁ?」みたいな点がある。その「はあ?」の20%くらいをこれまでは表明していたのだが、それも馬鹿らしくなってきた。来年からは疑問点をすべて言うことにしよう。そうなると、たとえば今度のプラッツの2月の講演会『家族をほぐす』にしたって(詳しくはプラッツHPで)、「家族なんてどうでもいい」という僕のスタンスが明確になってしまう。

母とか父とか、育児とか家庭環境とか、僕にとってはどうでもいい。母は、母である前に社会人としての女なのだ。それをことさら、「母」を前面に出してしまう心理学あるいは精神分析かぶれの人たち(というか教育&心理学&精神医学好きのすべての人たち)は、うっとおしい。「家族」というイデオロギー(規範でもいい)は、「恋愛」とか「学校」のイデオロギー級に、僕にとっては敵だ。

●12月22日(月)

今日も「しごとふれあい広場アメリカ村」。いくつか用件をこなす。

銭湯のテレビで『テレビタックル』らしき番組がかかっており、ブラウン管の中では熱心に中年の男たちが(たぶんイラク派兵について)議論していた。その熱さと、「ふれあい広場」等での社会性のまったく欠如した会話のギャップにあらためてしみじみする。

おじさんおばさんは、自衛隊のイラク派兵に怒ったり賛成したりしている。僕が出会う多くの若い人は、もっと身近な問題を言語化することに必死になっており、自衛隊なんて遠い問題だ。

僕が残念なのは、スノッブに国際問題を議論することさえできないこと。カダフィがどうとか、シリアとイスラエルの問題とか、カストロは何してるとか、そういうのをからかい半分に話せる若い人が少ないと思うのは僕だけか。

でも、僕の若いときからそういう人たちは少なかったような気もする。じゃあ、何が主とした原因で戦争に向かっているのだろう。もしかして、若い人たちの保守性みたいなイデオロギー因子は主とした原因ではなく、もっとざっくりと、国家間の経済政策の摩擦みたいなものでいいのかも。そう考えると現在は、第2次大戦前のファシズム黎明期に似ているというよりは、第1次大戦以前の帝国主義競争期に似ているような。

●12月21日(日)

僕はこの12月は休まないことに決めたので今日も仕事。しごとふれあい広場アメリカ村。まあここはいろいろ勉強になることが多い。ちょっと前までは行くたびに脱力感に襲われていたが、この頃はそういうのを含めて楽しんでいるのかもしれない。いかにプラッツが理想的組織かっていうことも痛感する。

阿部和重の『シンセミア』、やっと上巻を読み終えた。1ヶ月もかかってしまった。そういえば、そろそろミステリーのシーズンがやってきているが、今年はどうなのかしら。『週刊文春』のそのての特集を見る限りでは、今年は国内の作品群は不調だったように感じたが。

今日も体調は悪かった。

●12月17日(水)

和歌山へ訪問のあと、もう1件訪問。

昨日は、プラッツの仕事でユニバーサルスタジオへ行き、そのあと、しごとふれあい広場の会議&忘年会。そのあと、怒濤のカラオケ。結局スタッフ宅に泊まった。顔はおっさんなのに、やってることは20年前と変わらなくなってきた。

●12月15日(月)

午後からしごとふれあい広場アメリカ村。がんばって仕事をこなし、午後7時前に早めに失礼する。

実は、今日は小島麻由美のコンサートがあった。コンサートといっても、大きめのライブハウス。「ふれあい広場」の横にビッグステップというビルがあって、その中にビッグキャットというライブハウスがある。ふれあい広場の同僚には悪いのだが(ごめんなさーい)、7時前に同所を出、速攻で隣のビルに入る。すぐに演奏は始まった。

計1時間半ほど。予想通り、やっぱり、ドラムスはアサチャンだった。フジロックで、UAのバックに同じドラマーがおり、ドラムだけでなくバンド全体の演奏に感銘したので今回も少しだけ期待していた。フジロックほどではなかったが、そこにはドゥルーズ的なコミュニケーションがあった。

ドゥルーズは『ミルプラトー』2章において、コミュニケーションを「群衆」と「群れ」の2種類に分けている(元ネタはカネッティ)。「群衆」とは、我々が通常言うところの、コミュニケーション。「僕とあたし」「あなたと私」といった、自我と自我のぶつかりを指す。『エヴァンゲリオン』のファンの人にだけわかると思うが、「ATフィールド」という庵野監督考案の概念もそれに近い(ATフィールドのAT=absolute terrorにはそれほど意味はない)。

「群れ」とは、度々ここにも書いているが、自我のぶつかりとは別のレベルにありながら、自我のぶつかりと「同時に」たぶん行われているであろう根源的なコミュニケーションを指す。ドゥルーズはこれを「差異と反復」の混じり合いといっている。具体的例としては、視線と視線の交錯、声と耳の混じり合いなどがある。たとえば、「乳児と母」の声と耳、目と目には、自我のぶつかりあい以前のコミュニケーションがある。

親しい人同士までいかなくても、仕事とか知人レベルにおいても、通常我々のコミュニケーションにはこのような自我以前のコミュニケーションは余裕で行われているように僕には思える。それを言葉で無理して表すと、「あいつ気持ち悪い」とか「あの人感じいい」などになるのだろうが、ただ知り合う過程程度で普通ここまでコミュニケーションを我々は表現しない。ああ、こんなやつもいるよなあ、程度だ。

今日の小島麻由美バンドは、フジロックのUAバンドほどではないにしろ、コミュニケーションのマジックを感じた。音楽はうらやましい。というか、音楽をきちんと演奏できる人たちが。よくある、プロ同士の微笑み合いなんかはどうでもいいが、いい年した人たちが、何回も同じ曲を演奏しながらもそれを続けていけるのは、お金だけというよりは、なんとなくドゥルーズ的なコミュニケーション・アディクションもあるのではないだろうか。

●12月12日(金)

YMCA通信制高校で面談のバイトのあと、訪問。そのあと某青年と回転寿司。

どうも、僕の持っている安物CDラジカセが調子悪く、どのCDをかけても途中で止まってしまう。これはそういえば、池田の文化住宅に事務所を借りていた頃買ったものだから、もう5年くらいになるか。電気機器の寿命としては5年は短いほうだろう。でも、僕の個人的な歴史としては、ものすごく長く感じる。そういえばトロオが死んで今日でちょうど半年になる。

●12月10日(水)

2件訪問。久しぶりに平和な1日だった。

そういうわけで、帰ってきてサッカーの韓国・日本戦を見る。相変わらずの凡戦。まあ凡戦だったので、料理したりしてリラックスできた。

あいかわらずアナウンサーは「国」を強調してしゃべるが、僕はしらけるばかり。「国」同士の試合が一番の真剣試合だったりする、いわゆる「アスリート」と呼ばれている競技たちは、まあアスリートじゃないな。やっぱ、格闘技系がもっともナショナリズムを感じさせないジャンルかも。

●12月8日(月)

しごとふれあい広場・アメリカ村。

なんと、今日は厚生労働省の副大臣という人物が視察に訪れた。しかも、「ふれあい広場」のイベントのひとつである「トーク広場」(利用者によるディスカッション)を見に訪れたのであった。

そして同イベントは僕が毎回司会をしている。テレビの取材もおまけについた。

トーク広場のテーマは「フリーター」。事前に打ち合わせをしていたものの、やはりあがった。土曜日の件もあったので自分では気合いを入れていたのだが、テレビカメラとかマイクとか強烈なライトとか大勢のスーツ姿の人たちとか緊張の面もちのトーク広場の参加者たちに囲まれると、どうしても雰囲気に飲まれてしまったのであった。文字通り、心臓が「バクバク」した。

だからいつもの司会のようにうまく頭が回らなかったが、そのせいか、逆に参加者たちが力を発揮してくれた。全体としては、有機的なコミュニケーションの場が形成されていたのかもしれない。

副大臣の人物像についてはコメントはやめておこう。とにかく今日は、僕の人生史上でもベスト5に入るほどの体験をしたと思う。血圧もかなり上がったみたいだった。血圧は、さっき計ったら151-90。下はましだが、上が高い。

●12月6日(土)

午前中プラッツ。午後から、大阪市の某青少年会館で講演。

この秋は講演がかなり多く、そのほとんどをプラッツ塾長のK君とともにこなした。今日は、その一連のシリーズの最終回だった。

でも何が原因だったのだろうか、午前中の慌ただしさは言い訳にしたくない。昼ご飯を駅のホームで摂取したことも。とにかく、講演が始まって1時間後、僕は何年かぶりに「爆沈」したのだった。

議題はいつものやつ。話は進んで、ハイライトの「コミュニケーションが自己決定より先にある」という僕の主張したいテーマににさしかかったとき。

「自己決定をいくら待っていても、コミュニケーションは深まらない。だから」ときて、「だから、自己決定を理念的に『待って』いる間は、子どもから『お兄ちゃん(僕のこと)といっしょにいてもつまらない』と言われる」と、いつものように言いたかったのだろう、僕は。

それがなぜかわからないが、どうも口がちぐはぐし始め、だんだん「あのー」が多くなり、心臓がドキドキするのを感じてしまい、「この話をするのもも何回めかだよなあ」なんてメタな気分になり、で、「これじゃあだめだ、いつもの話にもどらなくっちゃ」と思っているうちに、心臓のドキドキはどんどん早くなり、どうしようもなく頭の中が真っ白になったのであった。

ドキドキはなかなかおさまらなかった。これはうまく説明できない、と判断し、アイコンタクトでK君に話を振る。ラッキーなことに、K君はスムーズにその後を受け止めてくれたのであった(あとから聞くと、K君は今日の僕はおかしいと思って心の準備をしていたとのこと)。

話がうまくすすまず焦ってしまって頭の中が真っ白になることは時たまあるのだけど、今日ほど徹底的にストップしてしまったのは10年以上ぶりかもしれない。この、脳内空白の体験は忘れてしまいたくない。

●12月5日(金)

YMCA通信制高校で相談のバイト。そのあと訪問。

半月前くらいに買った阿部和重『シンセミア』(上巻)は、やっと200頁に達した。最近、どうしても小説が後回しになってしまう。というのも、夕食を食べながら小説を読むのが僕の趣味のひとつなのだが、このところ夕食はほとんど外食になっているから。11時過ぎには眠くなってきて、ドゥルーズを2頁も読み返さないうちに寝てしまう、というのがこのところのパターン。で、朝は6時45分に起きる。

『シンセミア』はアベカズ渾身の作品だということはよくわかるが、作品全体に漂う小粒感が悲しい。テーマは、今のところフーコーの監視社会を想像させるものとなっている。フーコーは『監獄の誕生』第3部2章で、近代の「ディシプリン(規律・訓練)」社会の特徴として、「監視」と「(軽度の)処罰の積み重ね」と「テスト・検査」の3つを挙げている。この、特に「監視」のリアルさをアベカズはリアルに描写している。

ちなみに、上の3つが混合して、個人の内面の規範化がすすめられる。規範が先にあって処罰とか監視があるのじゃなくて、監視の結果、規範が生まれそれが内面化されるというのがフーコーのおもしろいところ。「学校に行かなければ行けない」という規範なんて、その代表格だろう。

●12月2日(火)

1日中プラッツ。久しぶりにスーファミの「桃鉄」をやった。ぼろ負け。

ドゥルーズは、世界を「現実的」なものと「潜在的」なものの2層に分けている。たとえば科学は現実的な世界に属する。現実的な世界は「表象」の世界とも言われる。科学のひとつである精神医学や臨床心理学も現実的で表象の世界だ。

「差異と反復」の世界とは、潜在的な世界を指す。ここには、カテゴリー分けも「内/外」も「自己/他者」もない。もちろん差別も偏見もない。あるのは、一つひとつの生命が、ただ「ある」だけの、動いているだけの、流れているだけの在りようがあるのみ。存在する生命の、強さの度合い(強度といわれる)があるのみだ。その強度の違いが「差異」であり、すべての差異を含んだものが「反復」だ。

生命がある、その強度のみがある、そういうふうに一つひとつ(一人ひとり)の生命を捉えてみると、そのことはつまり「あるのだ」としか表現できない。その、一つひとつの生命がある、という捉え方こそを「肯定」という。

「否定」はいわば表象の世界の概念であって、強度の世界(差異と反復の世界、肯定の世界)とは別の層で生じる。たとえば、「生命がある」としか表現できない乳児には「否定」はない。もちろん猫にも否定はない。ドゥルーズが好んで挙げる例であるところの「卵(らん=受精卵)」にも否定はない。つまり、乳児や猫や卵には「肯定」しかない(猫の例は僕の捏造)。

これは美しいストーリーだ。だから僕はこれまでもっぱら「差異と反復」の世界に憧れてきた。でもドゥルーズは実は、差異と反復の世界(潜在的な世界)と、表象の世界(現実的な世界、つまりは科学の支配する世界)はものごとの裏と表みたいなものだと言っている(ように思う)。

そういうのがやっとこの頃わかってきたかも。僕の中には長らく精神医学とか心理学に対するルサンチマンがあって、それに対抗するために哲学に走った側面もあるかもしれない。両者とも僕にとっては必要であり、現に両者とも使用している。それを認めることができ始めた。

●12月1日(月)

1日中「しごとふれあい広場アメリカ村」。昨日も。土曜はプラッツメンバーと一緒に奈良でバレーボール。久しぶりに運転した。金曜は講演と司会。自分でも何がなんだかわからなくなってきた。まあ忙しいことにこしたことはない。

やっぱりストレスがたまっているのだろうか、ついに「エヴァンゲリオン」のリニューアルDVDをほぼ買いそろえてしまった。最終巻の映画編を何回目かで見、またもや考えさせられる。超失敗作なのだけど傑作なのだ。

あと、『必携・精神医学ハンドブック』(創元社)というのも購入。3500円。ボーダーラインみたいなカテゴリー分けは大嫌いなのだけど、実は「あいつはボーダーだよ」みたいなレッテル貼りは普通にまかりとおっている。かくいう僕がそうしている。この矛盾を解決するためにも、久しぶりに精神医学を知る必要がある。

●11月27日(木)

1日中プラッツ。18時終了のあとも、食事とかフォローとか電話とかで、いつのまにか10時くらいになっている。こういうのがプラッツの仕事の醍醐味で、世の中のほとんどの人には理解されにくい仕事だけど、愚痴を言いながらも実はこれが快感になってきた僕はやばいのかしら。

11月も後半になってきて、毎度のことながら徐々に鬱が去りつつある(僕は11月が鬱期)。

そういうわけで今日も『トリック』を見ることはできず。ゴールデンタイムに移行して以来、あのドラマが持っていたまったりさがどうも欠けているように感じ、ゴールデン特有のテンポの速さに侵されているような気がして、ちょっと冷めている。それでも、仲間に「巨根」と言わせてしまうのはすごいと思うけど。

●11月24日(月)

泉大津で地域興しのイベントがあり、今日はプラッツスタッフ総出で参加。僕は相談ブース担当だったが、楽しいお祭りの日に「ひきこもり」の相談に来る人がいるわけもなく、次回はもう少し中身を練らなければならない。

余った時間を利用して、再び始まる明日からの11月講演ラッシュに備えて準備。今月後半はプラッツ塾長のK君と二人で担当する会ばかりなので、それ用のものを作成。講演内容づくりにここまで力を入れたことはかつてなかった。それもこれも、今月前半の某所での失敗が出発点になっている。人前でしゃべることに対して、やっと責任感みたいなものが芽生えたということか。

●11月21日(金)

午前中から昼にかけてYMCA通信制高校でカウンセリングのバイト、午後は「しごとふれあい広場アメリカ村」のイベントで司会(「テーマは「30才」)、夜は平野区の青少年会館で先週に引き続きミニ講演。

特に、平野での2週間にわたる体験は、スランプ気味の僕にとっては一種のブレークスルーになるかもしれない。これまで僕は、人前で話すことにおいて、「理論」と「実践」をかなり区別してきた。だが今回はいろいろなことがきっかけとなって、思い切ってその2つを融合させてみた。それはかなり困難な試みだとは思うけど(その証拠に、世の思想書の名著のほとんどがその両者を合体させることに心血を注いでる)、それこそが僕にとっての臨床哲学だと遅まきながら気づいた。

何も、実践報告を恥ずかしがる必要はないし、人前での理論の検討をためらう必要はない。要はそれらの、エンタメ的提出テクニックの問題だ。

●11月20日(木)

1日中プラッツ。

この日記は「ひきこもり」の方もたくさん読んでいるらしく、そんな場所で「毎日が忙しくて疲れる」と書くということは、何かしら悪いような感じもする。また、仕事時間で言えば世の熱血サラリーマンのほうが仕事をしているだろう。だから、疲れるのはただ単に僕の体力不足と思っていたが、今日プラッツスタッフとそんなことを話していて、やっぱりそんなことはないと思った。

まだどの点がどういうわけでたいへんなのかはわからないのだけど、とにかく現在僕が行なっている仕事は、ハードだと思う。これは誰が悪いわけではない。

また同じ文脈から、最近ようやく、プラッツ初代塾長のHさんが49才で亡くなった意味がわかってきた。青年支援を考える際、現在非常に言語化しにくい「資格職としてではない支援のたいへんさ」を明確にすることが必要なのかもしれない。

自分たちの仕事のアピールという意味ではなく、この独特の疲労感が、現在の青年問題の意味と直結しているような気がするから。

●11月19日(水)

日記もずいぶん久しぶり。昨日まで実はプラッツの仕事で北海道に行って来た。その前は講座等でばたばたと。で、今日は和歌山へ訪問と、そのあともう一件訪問。

でも夜はゆったりと過ごす。久しぶりにサッカーもじっくり見た。藤田のプレイには泣けた。あと、これまた久しぶりに買った小説(この頃の読書傾向は哲学オンリーだった)の『シンセミア』(安部和重作、朝日新聞社)もぼちぼち読んでいこうと思っている。高橋源一郎の書評でも絶賛されていた同作品は、ぱらぱらと読んだ限りでは、アベカズに変化の兆しを感じる。これまでは、J文学の旗手とか何とかもてはやされて、明らかに作品の質以上の評価をされていたから。

まあこのように、「ゆとり」はこうしてがんばってつくりださなければいけない、とこの頃痛感している。

●11月13日(木)

1日中プラッツ。

夜は、プラッツメンバーともにメタリカのコンサートに行く。予想以上のバンドの一体感と、予想外のバンドのフレンドリーさに驚く。メタルっぽい客がほとんどいなかったことにも驚いた。

●11月12日(水)

2件訪問のあと、夜に神戸元町でプラッツメンバーと待ち合わせ。

どうもこの頃外食が多く、今日などは昼も夜もラーメンだった(昼は普通の豚骨、夜は飲茶セットについてた)。まともに野菜を食べていない。あと、禁酒の反動か、この頃はチョコばかり食べている。それでも体重は少しずつ減っているので、アルコールがどれだけ体重を維持していたのかがよくわかる。

●11月10日(月)

午前中訪問、午後から「しごとふれあい広場アメリカ村」。

昨日は某所で講演。夜は反省会。いっしょに講演したK君から、僕の話のできの悪さについて思いっきり怒られた。僕はここ数ヶ月、「ひきこもり」について理論的に話すことがすごくいやになっている。それが昨日はモロに出たのかもしれない。

だが、同席してもらった同業の先輩とK君から厳しいながらも暖かい励ましを受け、なんとなく「しゃべってもいいんだ」「書いてもいいんだ」という気になる。けれども、そんな気になったはいいが、新しいネタはゼロ。でもでもまた気分を新たにし、これまでしゃべってきたことを平たくまとめて言えばいいんだとも思い直す。心理学の言葉をできるだけ使わず、堂々と僕なりの哲学の言葉で、みたいな。ちょっと復活してきたかも。

●11月8日(土)

1日中プラッツ。運営委員会、保護者会、親の会、通常のプラッツ業務と続く、例の多忙日。

時間を見つけては、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』を読み返す。そういえば、斎藤環さんは新著において心理学と精神医学を批判しつつも精神分析を擁護しているそうだが、ドゥルーズたちが提起する「精神分析は問題を『父-母-子』という3角形に閉じこめた」という単純な反論にはどう対処しているのだろうか。精神分析の部分対象や幻想理論はドゥルーズも支持しているが、同理論の最大の罪ともいえるエディプス・コンプレックス理論についてはどうなんだろう。

●11月6日(木)

この頃マジで疲れている。昨日の夜は超静養。今朝は久しぶりに医者に行き、薬をもらう。お酒もずっと飲んでいない。でも、1日ぼぉーっとできるであろう日が、11月中にあと1日しかない。こうなったら、日々どれだけ時間を見つけ、その間集中して休むかがポイントになる。その意味で、今晩は「トリック」を見ながら集中して休んだ。

●11月3日(月)

1日中「しごとふれあい広場アメリカ村」。それが今日は例の、阪神の御堂筋優勝パレードの日とぶちあたり、すごい雨の中、雨以上にすごい数の人たちが心斎橋あたりをうろうろしていた。新聞によると、集まった人の数は65万人だったという。

大スポによると、伊良部に続いて下柳も阪神を出るらしい。なんか、岡田がかわいそうになってきた。僕は星野より岡田が好き。

●11月1日(土)

1日中プラッツ。この頃だいぶ疲れ気味だ。今日なんとなく気づいたのだが、いつのまにかストレスがだいぶたまっているような気もする。いまだ禁酒を続けているので、少し前までの最大の趣味だった料理にも情熱が薄くなったし、第一、ここのところ夕食もろくに作っていない。残された最大の趣味である哲学の本読みも、時間的にできない。

もうひとつ気づいたが、この日記自体も最近はつまらなくなっている。トロオが死んでから、なんとなく書く気がなくなってきたのかもしれない。

●10月30日(木)

1日中プラッツ。

昨日電車でぼぉーっと考えたことだが、若い人たちがよくいう「この世の中は行き詰まっている」とか「世界は閉塞している」とかの感慨は、近代以降生産され続けている芸術や評論作品によってつくられた価値に乗っているのではないかということだ。

思春期は思想的な言葉を持たない。それらは、たとえば「閉塞感」という難しい言葉を知っている少し年上の芸術家(ないし芸術好きの人たち)から与えられる、みたいな。

年上の芸術家は、自分が生きてきた「もやもや」を、現在進行中の年下の思春期に投影してそれをたとえば閉塞感と名付ける。当の思春期真っ最中の人は、「ああ自分のしんどさは閉塞感っていうのかあ」みたいに納得する。

でも、それを名付けた芸術家自身の思春期はもっと多様で単独的なはずだったはずだ(そうでなければ自殺していただろう)。芸術家は自らの単独的で個性的で唯一の生のあり方をどこかで自覚していてそれによって今の自分があるはずなのに、「閉塞感」みたいなひとつの切り口で済ませようとする。

その単純さは僕にもわかるからいいものの、迷惑なのは、単独的な生を疾走している(でも言葉を持たないからその生が「疾走」──どんなに泥臭いものでも──とは感じず、ナルシスティックに「閉塞」と感じてしまう)若い人自身だろう。逆に言うと、言葉を知らない者が、言葉を知っている者からわかりやすい言葉だけを切り取ってそれを自分の価値観のフレームにしてしまうということかも。Jポップが売れるのもそんな構造なんだろう。

散髪したら小沢一郎みたいな顔になっている自分に気づいた。血圧は、朝が149-99。また高い。

●10月28日(火)

1日中プラッツ。その勢いで夜はカラオケに行った。

知り合いより、この夏の「サマーソニック」でのレディオヘッドの海賊版CDを借りる。帰ってきて聞くと、驚いたことにものすごく音質がいい。

海賊版といえば、高校時代、1万円も出して通販で買ったツェッペリンのものがほとんど客の声援しか入ってなかったことを思い出す。今聴いているレディオヘッドのそれは、僕のラジカセ程度の装置では、公式盤といわれても疑わないだろう。

今夜のカラオケでは、レディヘの曲も多く歌われた。僕は、さだまさしの右翼ソング「防人の詩」を思わず歌ってしまった。なんかこの歌、好きなんだよなあ。

あと、昨夜遅く(3時頃までかかって)、『リリィ・シュシュのすべて』という邦画を見たことも報告しておこう。なかなか重かった。

●10月27日(月)

午前中訪問、昼から「しごとふれあい広場アメリカ村」。9時過ぎに帰ってきて夕食、そのあと大急ぎで銭湯に行き、この日記を書き、そのあといくつかやることがある。

ちなみに毎朝僕は6時半過ぎに起き、いくつかの日課をこなしている。こんなことは普通の社会人にとってはまさに普通のことなのかもしれないが、さぼり好きの僕にとっては、時間のない日々と感じてしまう。1日中ゆっくりと本を読んだり調べたりする日がほしい。これじゃあ、先日決死の思いでゲットした『哲学・思想辞典』(岩波書店。新品で買うと14000円だが、僕は古本屋で8400円で購入した)を味わうこともできない。

血圧は、さっき測ったら130-93だった。薬が効いているのかな。

●10月24日(金)

朝はYMCA通信制高校でカウンセリングのバイト。昼からプラッツでソフトボール(富山のはぐれ雲とフレンドスペースとの交流)、夜は大学で授業。

最近のハードスケジュールのせいか降圧剤のせいかリアップのせいかは知らないが、久しぶりに風邪を引いてしまった。風邪引いてソフトなんかしたのでなかなか治らない。明日から1泊でプラッツの研修旅行があるというのに大丈夫かなあ。

●10月22日(水)

朝から和歌山へ訪問、そのあと大阪へ戻ってきて訪問、夜は大学でデリダの研究会。さすがに時間がぎりぎりの連続だった。

『キッド』づくり、相変わらず遅れている。当初は「ひきこもりとルサンチマン」で長い原稿を書くつもりだったのだが、だんだんと「ルサンチマンを否定するのはいいが、さて、ではなぜそこまでして『肯定』しなければいけないのか」という問いが大きくなってきたため。

ルサンチマンは誰にでもある。ニーチェではないが、ルサンチマンをやめるときはそれこそ「人間」をやめるときでもあるのだ(だから「超人」)。じゃあ、適当にルサンチ君・ルサンチさんをやっていればいいじゃないか、みたいな問い。

たぶん、そうした「適当にルサンチ君をする」というのが一番身近な「肯定」なのだけど、そんな脱力的答えは既存の哲学書にはあまり見あたらない。

●10月20日(月)

朝は診療所、午後から「しごとふれあい広場・アメリカ村」。

最近は「ふれあい広場」に行っても仕事が結構あって、当初の暇で仕方がない状態はなんとか脱したみたいだ。

でも同所に協力している各NPO団体の関係者がいずれも忙しく、せっかくつくった素晴らしいシステムも完全稼働できていないのが課題だろう。それでもみんな、時間を何とかやりくりして少しずつは進んでいる。長らくフリーでやってきた僕だが、プラッツといい「ふれあい広場」といい、「組織」で仕事をするおもしろさが(と、めんどくささも)やっとわかってきた。

血圧は、朝が143-92。

●10月18日(土)

1日中プラッツ。午前中「デビューネット」(上山和樹さんを中心とした集い)、午後はプラッツの講座。なんかこの頃無性に忙しい。

何人かの知り合いから、「リアップ」使用を中止するように勧告される。たしかに、使用後、ちょっとふらふらする。だから今日からもったいないけどやめようかなあという気分になってきた。

で、リアップもつけておらず、血圧も僕にしてはそれほど異常でもないのに、夜になるとふらふらしている。これは阪神のさよなら負けが原因ではないはずだ。なんだろうなあと思いながら銭湯に行って考えてみると、単に風邪の引き始めのような気もする。

そういえばここ20日ほどずっと禁酒していて、禁酒すると、自分の健康のことを結構考えるようになっている。

●10月15日(水)

訪問とか某フリースペースのお手伝いとか。

旅行中、何回も温泉に入り、そのたびに鏡で自分の頭を見て確認したのだけど、僕の頭皮は完全にやばくなっている。知らないうちに「薄い」を通り越していたようだ。

で、無駄なあがきと知りつつ、最後の抵抗を試みることにする。それは、ジャーン、あの「リアップ」購入なのであった。1ヶ月分で5700円也。ひぇー! でも、どうせあと数年後にはスキンヘッドが待っているのだから、少しでも髪が残っているうちにこれくらいの努力はなあ、と自分に言い聞かせる。お金があってもどうせ『エヴァンゲリオン』のDVDを買ってしまうんだから。

でも、リアップは高血圧の人にはよくないらしい。高いし、2ヶ月くらいかけてちょっとずつ使おう。

●10月11日(土)

1日中プラッツ。第2土曜は、朝から運営委員会、保護者会、親の会と延々続く。先月まではこの連続がかなり身体にきつかったが、今日はなぜか普通に乗り切れた。降圧剤のおかげだろうか。

現在、四国の実家から母と弟が来ていて、明日から白浜温泉に行く予定。雨男の僕にふさわしく、案の定明日から雨だそうだ。

●10月10日(金)

修理に出していたパソコンがやっとなおったあ! ハードディスクも大丈夫だったあ! でもメールがこの間に40件くらい来ていたあ!

●10月6日(火)朝

昨夜再びパソコンをつけようとすると、やはり画面は真っ暗だった。今朝例の処置をしたあとつけたら、通常に戻った。

マックに翻弄されてきた僕の経験からすると、これは完全故障の前兆のような気がしている。それにしてもついてないなあ。

●10月6日(月)

午前中、診療所。今日は血液検査。午後から「しごとふれあい広場・アメリカ村」。

今朝パソコンをつけても相変わらず画面は暗いまま。諦めてアップルの修理係に電話すると、「コントロールとオプションとシフトとスイッチキーを同時に10秒押し、コードをすべて外して裏面にあるバッテリーを外し、3時間待って再び試してみてください。たぶんそれで直ります」とのこと。

アイブックを言われたままの状態にして仕事に行き、さっき帰ってきてバッテリーを装着してスイッチオンすると、簡単に元に戻った。もしかしてまた明日になったらダメかもしれないけど、なんでパソコン界には(というかマック界だけかもしれないが)こういくつも奥義みたいな技が存在するんだろう。わけわからん。

●10月5日(日)

な、なんと! 購入以来10ヶ月、快調そのものだった僕のアイブックが、突然調子悪くなった。症状は、起動しても画面が明るくならないというもの。3回に1回は何とか明るくなるが(起動そのものはできているみたいなのだが、画面が限りなく黒に近い)、こんなことってあるのかなあ。たぶん、純然たるハード(液晶)の問題のような気もするが……。

もしこのまま壊れてしまったとしたら、その前のアイブックといい、まったくパソコンにはついてない。誰か、この症状を知ってたら教えてー。

血圧は、夜154-103。パソコンのせいで下がらない。

●10月3日(金)

2ヶ月ぶりに、某YMCA通信制高校のカウンセリングのバイト。今日は履修登録の日らしく、お客さんはなし。フーコー『監獄の誕生』を読んだり、こっそり昼寝した。そのあと大急ぎで訪問。夜、訪問先の青年に教えてもらったアニメ『リード・オア・ダイ』をぼぉーっと見る。すごい描きこみだった。

血圧は、朝149-102、夜163-102。下は下がってきたが。

●10月1日(水)

大学院の恩師(といっても僕よりだいぶ年下の人だが)がパリに留学されるので、関空に見送りに行った。なんとなく勢いで行くことにしたのだけど、やっぱり行ってよかったと思った。その先生がパリにいる間、お金を貯めて僕も旅行してみたい。

午後は某フリースペースでお手伝い。夜はマグロのバルサミコ味ステーキ等。ここのところまた禁酒生活に入っているのだが、いろいろ作ってしまう。

血圧は、朝が153-107、夜が149-99。やや降圧剤が効いているようだ。

●9月29日(月)

ここのところ再び体調が悪く、今朝血圧を測ったら175-120だった。昨日からの予定通り、医者に行く。待ち時間が長い病院は嫌いなので、プラッツの親御さんに教えてもらった地元診療所に行く。予想通り高齢男性内科医だったが、待ち時間も少なく、ストレスなく診察を受けることができた。軽い降圧剤から始めることになった。

午後からアメリカ村の「しごとふれあい広場」で仕事。とても大入りとは言えないが、僕自身はいろいろと忙しく時間を過ごした。

●9月27日(土)

1日中プラッツ。

月日の流れは早いもの、プラッツ初代塾長の蓮井さんが亡くなって、3年と半年くらいは過ぎた。今日はなんとなく星空を見上げてしまって、こんなときはガラにもなく蓮井さんを思い出す。

僕は今ものすごく忙しいが、蓮井さんみたいに、プラッツに訪ねてくれる人のすべての「可能性」を考えて接しているだろうか。現在のプラッツの援助内容は納得できるが、あの頃の蓮井さんそのもののあり方は踏襲できていない。そんないろいろなことを思い起こしてみると、蓮井さんそのものにいまだにウェットになっている自分を思い起こすのであった。

まあたまにはこんなこと書こう。

●9月26日(金)

朝『少年育成』の原稿。「ひきこもりとルサンチマン」について。はっきりと、「青年一人ひとりの『生』は肯定し、『ひきこもり』という一般概念に取り憑いたルサンチマンは否定する」と書く。こう書く勇気を持つのにだいぶ長い時間がかかった。そろそろ『キッド』にもとりかからなければいけない。同じテーマでできれば30枚くらい書くつもりだ。

午後から訪問、夜は大学。すごく肩が凝った1日だった。

デートコースペンタゴン・ロイヤルガーデンの新譜を入手。中味は悪くはなかったが、タイトルの『構造と力』は恥ずかしい。

●9月25日(木)

朝からずっとプラッツ。

夜は、その流れでマリリン・マンソンのコンサート。予想以上にすぐれた演奏だった。フジロック以来、かっこいい演奏には、元曲を知っている必要はないという理論ができてしまったのだが、今日もそれを立証した数時間だった。

●9月22日(月)

午前中大学でフーコー研究会、午後から夜にかけて「しごとふれあい広場アメリカ村」。

やっとのことで「しごとふれあい~」がかたちになってきた。徐々に、詳しいことをみなさんに報告できるかも。大阪での「ヤングジョブスポット」(ヤングジョブは国主導で全国展開中らしいのだが、大阪の呼び名は「しごとふれあい~」)の試みは、異分野同士のNPO団体が協力体制をとる、変な組織になりつつある。

血圧は、夜が172-120。ひぇー、どうしよ。でも今から銭湯に行くつもり。

●9月21日(日)

ひきこもり=ルサンチマン打破論を書かなければいけないのに、なんとなくブルデュー『ディスタンクシオン』、サイード『オリエンタリズム』をぼぉーっと読んでしまう。

特に、前者は予想外に「笑える」本であることを発見。くそ真面目に各階級(ブルジョア・プチブル・プロレタリアート)ごとの「食事」の傾向の分析をしていて、まあそれが有名な「ハビトゥス」概念の論証なのであった。社会学を、社会学の権威自身がパロディ化しているような感じ。社会学って、僕にとってはなんとなく怪しいのだが、ブルデュー路線ならオッケー。

血圧は、朝147-107。

●9月19日(金)

「しごとふれあい広場アメリカ村」のイベントで司会、そのあと訪問、そして夜は大学でディスカッション(テーマは「騒音」で、僕が提案した)。

この頃、久しぶりに、仕事とそれに伴う人脈が広がりつつある。「ふれあい広場」などはその典型で、ひとつつながってしまうと、あとは不思議なくらいたのもしい人脈が発掘されていく感じがする。20代の頃はかなり必死になって人脈づくりをしていたのだが、この頃は無理なく知り合っていける。

20代の初期、非常に苦労していた頃、「人は力なり」を痛感した記憶が鮮やかに残っている。そのわりに、いまだに僕は人脈づくりは下手なのだが、まあ前よりは余裕ができてきた。

血圧は、朝が156-109、夜が171-105。昼間がんばりすぎたので、その後遺症が夜にまでひきずっている。

●9月18日(木)

1日中プラッツ。人々の話を聞きつつ、そんな人々が徐々に変わっていくことに喜びを感じる。「ひきこもり」なんてしょーもない概念、誰がつくったんだろ? 変わるやつは変わる。変われ、なんていうメッセージなんてそこには関係ない。

血圧は、朝が165-108、夜が137-86。夜のほうが生活スタイルはめちくちゃなのに、この数値。どういうこと?

●9月17日(水)

お金もないのに『エヴァンゲリオン』のDVDを4巻まで揃えている。昨日はレンタルで『ウルフズレイン』というアニメの最新刊を借りてきて、泣いてしまった(とにかく僕は「動物もの」に弱い)。40才を前にして、おたく第1世代が炸裂している。

血圧は、朝169-125、夜139-93。昼間、久しぶりに超ふらふらになったが、夜は電車で帰りながらあちこちの駅でチューハイを飲んでいるうちに楽になってきた。かなり歪んでいる。

●9月13日(土)

第2土曜は僕にとって最も忙しい日。プラッツで、朝から延々といろいろな会がある。

新聞の書評で見た、『危ない精神分析』(矢幡洋、亜紀書房)を3分の2ほど読む。今まで読んだところでは、同書は、タイトルに反して『心的外傷と回復』の著者J.L.ハーマンへの徹底的な反論本となっている。

興味ある方はどうぞ一読を。心理本に精通した方ならばたぶん、またもや「あの感じ」を抱くことだろう。まだ全部読んでないのでそれ以上は書かない。ハーマンの相対化には一役買っている。

血圧は、朝161-110、夜151-101。夜になっても下がらない。

●9月12日(金)

久しぶりに朝は読書、午後より訪問、夜は大学。

やっぱりまとめて本を読める時間があるのはうれしい。今朝であれば、たとえば、ニーチェの『道徳の系譜』を読んでいた。するとそのなかにスピノザの引用が出てきたので、すっと本棚に手を伸ばし『エチカ』の該当個所だけを(同書はまだ未読)調べる。で、ふとドゥルーズ『差異と反復』にも同じような箇所があったなあと思い出してそこをチェックし、ニーチェに再び戻る。

そのあとドゥルーズ『アンチオイディプス』中にフーコーの引用があれば、『狂気の歴史』に手を伸ばし……と、連鎖的に調べることができる。こういうのって、やっぱ時間がたっぷりないと無理だ。というわけで今は、夏のフジロックの余韻をやっと振り払い、お勉強モードに戻ってきた。

血圧は、朝163-105、夜164-108。高レベルを維持している。なんか恐い。

●9月9日(火)

1日中プラッツ。

今日は久しぶりに平穏だった。でも、去年に比べて午前中の勉強時間が限られている。それは仕方のないことなのだけど、僕得意の、「すべてを平行に進める」という人生方式が崩れかけている。プラッツは代表なのだからほんと仕方ないのだが。

血圧は、朝は156と105、夜は129と91。夜は下がるようだ。

●9月8日(月)

1日中「しごとふれあい広場アメリカ村」。

土曜日に最新型血圧計(テルモ製・穴に腕を通すだけでかなり精密な数値を得られる)がついに僕の家にやってきた。最初(プラッツで)計ったときは、ぬぁんと! 上が200を越えていたのだが、昨日は160ちょっとだった。どちらにしてもやばいほど高い。

今朝は、上が151で、下が97。トロオの尿量を報告することができなくなった今、自分の身を削る覚悟で血圧の数値を日々(できれば朝夜の2回分)当日記で報告することにしよう。トロオの尿以上に、なんか波紋を呼ぶような気もするが……。

●9月5日(金)

午後から訪問。

昨日から久しぶりに体調が悪化し、頭がふらふらしている。きっと高血圧なのだろうが、なんかもうどうしようもない感じ。そういえばちょっと前、訪問中に鼻血が出てしまって自分でもびっくりした。まあ自分の体調報告なんて、最近はどうでもよくなっているのだが。

ドゥルーズ『ニーチェと哲学』を読むが、どうもこの線では哲学の泥沼にはまる予感。滝本竜彦『超人計画』もほとんど読むが、前作『NHK』に比べてあまりにも普通のヒッキー(ひきこもり)ネタが続き、かなりうんざり。そのエッセイでは、滝本という生身の個人が持つ魅力を、「ヒッキー」という概念が打ち消そう打ち消そうとしており、滝本もその誘惑を振り払えない。ヒッキーなんてくだらない! って、言いたいのに言えないようだ。

彼は表面的にはそうした言葉を吐いてはいるが、それを読者に否定してほしがっいている。それこそが、現代の否定の代表「ひきこもり」の力なんだろう。

●9月3日(水)

訪問のあと、某フリースペースでお手伝い。

僕は、20代の社会人デビューは地味ながらも編集者として出発した。どんなに今の援助の仕事を続けていても、つい最近まで、昔の編集をやっていたノリが「昔」にはなぜかならず、編集と援助が微妙に同居する感覚であった。

僕の「編集」仕事なんて、もはやアマチュアにすぎない。でもそれだけ20代の想い出は鮮烈だったのかなあ。

それが最近になって、やっと自分が「援助者・支援者」であるという意識が、どん、と前面に出てきた。そんな重要なことなのに、相変わらず気づくのが圧倒的に遅い。

●9月2日(火)

午前中は久しぶりに哲学本を徹底読書。時間があるのってありがたい。

午後はフーコー研究会。『監獄の誕生』第2部。久しぶりだったので頭がふらふらになった。

そのあと、アメリカ村の「しごとふれあい広場」で会議。そのあと、その会議に出席した人たちと飲み会。

フーコーは今日で一段落。明日から思いっきりニーチェを読むつもり。この頃は、自分なりのルサンチマン論を書かずにはおれない、みたいな衝動にずっと突き動かされている。

●9月1日(月)

1日中ヤングジョブスポット(大阪では「しごとふれあ広場」)。

この頃、帰りが9時をすぎるようなときは、以前のようにがんばって自炊せずに、外食して帰ることにしている(9時以降の食事は肥満につながるようだから)。で、今日も9時を過ぎそうだったので、梅田にある馴染みの定食屋へ寄る。

そこはほぼ100パーセント、おっさんサラリーマンたちが昼間の愚痴を吐き出す場所。僕も大スポを読みながら瓶ビールを飲んでいると、いたるところから、彼らの「今日の愚痴」が聞こえてくる。それらの愚痴は決して議論にならず、たぶん昼間はお互いの共通の敵でもない人たちが敵となって標的化されている。昼間、仕事の合間にランチを食べたアメリカ村の若者たちの会話よりも、それらサラリーマンたちの愚痴を許せてしまうのは僕の年のせい?

●8月29日(金)

2件訪問。

最初の訪問は外出だった。梅田の「まんだらけ」に寄る。3階で、「やおい」(女版おたく。微妙に説明が難しいが)たちのカラオケを聞かされる。なんでも、2000円以上買った人は誰でもステージで歌うことができるんだとか。

同人誌はほとんどエロ。「顔射」表紙なども普通にある。おたくたち製作の諸漫画が、なぜここまでおたく的エロに埋没してしまうのか、これは「ひきこもり」問題と通じる何かがあると思う。まあその何かとは他者問題とルサンチマンだろうが。

●8月27日(水)

2件訪問。

昨日は「ヤングジョブスポット」(しごとふれあい広場)でミニ講演会があった。僕は司会をする。やっと、何かが始まっているという実感を持つ。

今日は、ドゥルーズ『ニーチェと哲学』を数年ぶりに再読。同書では、驚くほどドゥルーズがストレートに語っていることに驚く。ルサンチマンを、フロイトの「快原則の彼岸」と強引に接続して語るドゥルーズ節に今回初めて気づいた。フロイトもドゥルーズも、去年ちょっとだけ予備知識を培ったおかげで気づいた発見。やっぱドゥルーズはかなり強引。それは一部では定説なのだが、僕なりに自信を持って言えるようになった。

●8月25日(月)

1日中「ヤングジョブスポット」(大阪では「しごとふれあい広場」という名前)。

相変わらずの人の出入りだったが、ここにきていくつかの楽しみが出てきた。ひとつめは「行政系」のノリを堪能できること。漫画みたいなノリが、実際そこにある。いや、そこというか、全国の行政系のノリってこんな感じなんだろう。

もうひとつは、心斎橋・アメリカ村の実状がわかるということ。今日は、「ヤングジョブ」が入っているビルに出店している古着屋さんの若きオーナーと話したが、その感じの良さにびっくりした。彼にいろいろ最近のアメリカ村について教えてもらい、参考になった。たぶん、大阪の若い人たちの「顔」としてここ15年ほど栄えてきたアメリカ村が、現在、衰退期に入ろうとしている。もしかしてあっという間に衰退する可能性もある。

●8月24日(日)

午前中、プラッツのホームページの訂正と、当ホームページの構築。故トロオの新しい写真。午後から訪問。

帰り、ついに『新世紀エヴァンゲリオン』のリニューアルDVDを購入。1巻と2巻あわせて8千円弱。

実は、放映時のほとんどの同番組を録画したものを僕は持っていて、それを何回も見ている。最近も見た。それでも買ってしまったDVD。アニメDVDを自分で買ったのはこれが初めてだ。

で、ほとんど暗記しているのに帰ってからまたもや見てしまった『エヴァ』。で、どう考えてもこれは傑作なのだ。青春臭さとか自意識過剰とか適当な他者概念とかもはやどうでもいい。1話と2話だけで8千円の価値は十分ある。見れば見るほど練り混まれたつくりであることがわかる。

つくりての庵野はこのとき30才ちょっとだったと思う。インタビューとか読んでいるとつくづくオタッキーな人なんだけど、創造性というものはそんなのとは全然別のレベルで働くものなんだなあ。創造性には自己分析は邪魔ですね。

●8月22日(金)

午前中フーコー研究会(『監獄の誕生』)、午後は某フリースペースのお手伝い。

ここのところまったく読書&勉強をしておらず、今日のフー研も朝の6時に起きてやっとのことで準備を整える。仕事量の増加とともに、やはり哲学勉強のほうはかなりおろそかになっている。去年の5分の1くらいのスピードと量だ。でも、去年みたいな「哲学に溺れている」という感じではなく、哲学を利用したエンタメ・エッセイみたいなものを書きたい余裕が出てきた。そのとっかかり&おとしまえ的文章としてとらえているのが、「ひきこもり」批判文なのだ。

その準備のためにニーチェを読んだ。

●8月21日(木)

1日中プラッツ。

本格的に仕事再開。僕は今年、トロオの死を受けるようにして思いっきりお盆を休んだのだけど、お盆などはなかったかのような話をここ数日聞く。親族などへの「死」のつきあいなんかはどうでもいい。自分の子どもが「ひきこもり」であれば、そんなくだらない親戚づきあいなんかはいっさい無視してほしい。そう思う。

●8月20日(水)

2件訪問。

『キッド』の次の号が予想通り遅れている。どうしようかなあとずっと考えてきたが、ようやく内容を思いつく。それは、「ひきこもり」というあり方を僕なりに批判するものになりそうだ。「ひきこもり」状態にある人たちを批判するのではなく、「ひきこもり」状態になったことで陥ってしまう独特の精神状態を批判検討するということ。

「ひきこもり」という状態は、「ひきこもり」状態以前の一人ひとりがもっている潜在性を否定する方向に働くとこの頃思うようになった。それを、あけすけに、ざっくばらんに語ってしまおうという覚悟がやっとできた。「ひきこもり」という言葉が一般性をもちつつある今、「ひきこもり」そのものがもつ停滞性を徹底的に指摘したいと思っている。

「ひきこもり」という概念そのものは肯定されてはいけないと僕は思う。肯定されるべきはその人たちの「生」一人ひとりであって、「ひきこもり」という概念は、一人ひとりの生が肯定されるのを妨げているように感じる。

●8月17日(日)

和歌山へ訪問。

今日も哲学モードからはほど遠く、南海電車から遠く関西国際空港をぼぉーっと見ながら移動時間を過ごす。文章自体もスランプモード。偉そうなことを書くのがつくづくいやになってきた。

●8月16日(土)

仕事復帰の今日は、またもや「ヤングジョブスポット」(「しごとふれあい広場」)の仕事。イベント案を提案したりしたが、かなり淡々と過ごす。今日はどうも頭がまったく哲学しておらず、電車で大スポのプロレスコーナーをぼぉーっと読んだり。

ここ数日で食べ過ぎたせいか、1キロ太った。で、夕食は茄子の田楽だけなのだけど、逆に今から焼きめしとか作りそうで恐い。

●8月12日(火)

今日からひそかに一人盆を過ごす。1日中読書。デリダの『グラマトロジーについて』の英訳は、『ポストコロニアル理性批判』『サバルタンは語ることができるか』の著者スピヴァクが行なっている。その英訳版『グラマトロジー』のスピヴァクの序文を、英語が超苦手なくせに訳そうと思っている。

それでこの前からチャレンジしているのだけど、日本語でさえ難しいスピヴァクの文章が、英語だと当たり前だが難解を通り越している。でも、ある種の熱さ、言い換えるとロック的態度が泣かせるんだなあ、スピヴァクは。紋切り型フェミニズムを越えている。

●8月11日(月)

厚生労働省系の仕事「ヤングジョブスポット」(大阪では「しごとふれあい広場」という名前)に1日中参加。場所はアメリカ村。今日は何人かの若い人たちがやってきた。来週あたりからホームページも公開されるらしい。

夜は引き続き会議。いくつか発言する。このての行政系の仕事は慣れないせいか、帰ってから、めちゃくちゃ疲れている自分に気づく。同じ「ジョブ」という言葉がついても、昨日と今日とでは質的にだいぶ差異がある。逆にいうと、現在、「ジョブ」という言葉が同じだけで、まったく違う質の試みがいくつも試されようとしている。

●8月10日(日)

「ファーストステップジョブグループ」(FSJG。親たち中心の、青年たちの仕事の具体化を模索する会)の集まりで、奈良のドリームランドの近くまで、ペンキ塗りの仕事に行ってきた。青年たちも参加して、ハードだったけど、なかなかおもしろい1日だった。

やっぱ僕は、こんなふうな、予算も何もないけど、こじんまりとしながらも何にもとらわれない試みが大好きだ。

●8月9日(土)

1日中、淡路プラッツ。ずっと人の話を聞く。

人々は皆、読んだものとか聞いたものとか観たものの話をする。僕にとってはためになる。でも、僕自身の創作はどこにいったのか。論文とかエッセイは泡のようなもの。どれほどくだらなくても、創作のみが後に残る。その肝心要の創作に対して意欲が減退してしまった。

●8月7日(木)

1日中プラッツ。今日も1日中いろいろな人の話を聞いた。

ところで昨日は、東大阪にある某フリースペースでお手伝いのバイト。そのあと、夜に飲み会があり、いつもながらしたたか飲む(高血圧予防はどこにいった?)。

で、帰ってきて麦茶をつくろうと思い湯を沸かしたところ、不覚にもそのまま寝てしまった。

起きたのはその1時間後。家中に奇妙な臭気が漂っている。あわてて台所に行ったところ、先ほど仕掛けたやかんが、中味の水はからっからになったうえで、なおもガスの火で燃やされ続けていた。よく見ると、やかんの上部にあるプラスティックの取っ手が半分溶けていた。部屋中に漂っていた異常な臭気はその溶けたプラスティックの臭いだったのであった。

もう一歩で放火魔になるところだった僕だが、もしトロオが生きていたらこんなことは起こっただろうか。

●8月4日(月)

午前中、フーコー研究会。今日から『監獄の誕生』。久しぶりに学びモードに戻った。戻ったとたん、読まなければいけないものが山積していることに気づく。

午後から、アメリカ村にて「ヤングジョブスポット」のバイト。前も書いたが、国の雇用能力開発機構というところが運営している同試みは、ヤングハローワークのフリースペース版みたいなもの。現在、全国15カ所で実験的に開始されている。大阪はまだ試行錯誤の段階。

バブル期までの社民国家時代と比べて、この国の労働条件は格段にハードな資本主義状態となっており、同試みは、そのハードな経済状況を国家政策レベルで少しフォローしているものだろう。このようにして、いつの時代も国の福祉的アプローチは、根源を看過して表面をとりつくろう。で、表面をとりつくろっていることを現場も政策側も忘れてしまい、目先の細かいチェックとか権力闘争に走る。

●8月3日(日)

今日は休み。フーコー『監獄の誕生』を延々読み、その手抜きレジュメをつくる。

昨日は「サマーソニック」というロックイベントに1日中参加。レディオヘッドのみよかった。帰りの最終電車の時間が早いことについて、駅員に文句を言う。

実は先週の「遠出」とは、あの「フジロック・フェスティバル」のこと。新潟と長野県の境の山の中で、テントで4泊して、その間中ずっと音楽を聴いていた。まあそんなにロマンティックなものでもなく、雨ばかりのたいへんな日々だったのだが。フジロック的イベントと「帝国」的グローバリゼーションについて結構考えることもあったのだが、まあいいか。

とにかく、2つのロックイベントの間にプラッツのキャンプも挟んだハードな10日間が、やっと終わったのだった。

●8月1日(金)

昨日と今日とでプラッツ恒例夏のキャンプ。僕は運転担当。同キャンプは、三重県の山奥まで毎年出かける。それにしてもこの頃、宿泊系のイベントが連続している。徐々にではあるが、トロオがいた頃の生活とは変換しつつある。

デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデンの新譜を購入。結構よかった。他、読まなければいけないものがすべて滞っている。こんなんでいいのかなあ。

●7月30日(水)

2件訪問。何日か仕事を休んでいたので、いろいろ電話をする。

本は、ドゥルーズ『無人島』購入。3500円。その中に、待望の「知識人と権力」というフーコーとの対談が載っていて(フーコー全集の4巻にも所収されているのだが同全集はバカ高)、それはスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』でさんざ批判されているエッセイだ。

実際読んでみると、天才2人が、あまりにも無邪気に「マイノリティ的人々が自分の言葉で自分の問題を語ることができる」と信じていることに驚かざるをえない。僕の仕事上の実感では、自分の苦しさを言葉で表象できる人は、苦しみから若干ずれているようにも思える。苦しみを表現できない人こそが真の「当事者」であって、自分のことを「当事者」と名乗れる人は、フーコー言うところの「知-権力」のひとつの装置になってしまっている。

当然僕のような人が語る「ひきこもり文化論」も、真のマイノリティを浮かび上がらせないための、知-権力装置だと、この頃思ってきた。まあ説明不足だけど。

●7月28日(月)

無事旅行から帰ってきた。まあ何事もなく、ひとまず安心。ただ今回は理由あって4泊ともテント生活だったので身体が何となくすっきりしない。これは個人的にはトロオの供養の旅だったのだけど、そんなセンチメンタルなものはありえないって、はじめからわかりきっていたことをわかった数日だった。忘れないものは忘れない。今から向かいの銭湯に行って、疲れを落としてこよう。

●7月23日(水)

「ヤングジョブスポット」の会議。同集まり&施設は、ヤングハローワークに来る人よりももう少し就職から遠い人たちを対象とした、行政系の試み。大阪は、アメリカ村のど真ん中で行おうとしている。それを、プラッツが少し手伝っている。

オープンは今月末で、来月から本格始動。横浜などではすでに始動しているらしいが、かなり地域差がある様子。大阪はまだ試行錯誤の段階で、オープン以降も微調整を繰り返しながら徐々に落ち着くだろうと予想している。

そのあと1件訪問。

さて、明日から僕は遠出の予定。帰ってくるのは来週月曜日の28日夜です。それまでは日記はお休み。ひそかに、トロオの供養の旅と自分では位置づけている。

●7月22日(火)

1日中プラッツ。夜はプラッツの行事で甲子園。疲れ切った(詳しくはプラッツ日誌で。といっても書く元気があまりないが)。

●7月19日(土)

実は、トロオの供養を兼ねて、この夏少し遠出をしようと思っている。そのためにはなぜかテント用具一式が必要なのだ。で、田舎に住む弟に久しぶりに来てもらって、テント等を貸してもらうことにした。弟は登山が趣味なので、そのあたりの道具はすべてもっている。

夜は兄弟で居酒屋で。話題は自然と二人の共通の趣味である音楽、というか最近出たレッド・ツェッペリンのDVDとCDの話になり、すでにDVDを堪能している弟の話を聞いているうちに購買意欲が沸いてくる。弟は、今回のDVDは「はっきり言って家宝もの」とまで言い切った。その後、酔っぱらって、2人でツタ屋へ。で、案の定ツェッペリンのDVDを買ってしまった。6300円也。超貧乏なのに。

その内容は、笑ってしまうほど最高だった。家宝級というのは事実だった。

●7月16日(水)

2件訪問。

その流れで、久しぶりに日本橋の電気街、でんでんタウンに行く。数年前より確実に人の数が減少している。「エヴァンゲリオン」のリメイク版boxセットは、やはりすべての店で売り切れになっているようだ。でも、あったらあったで衝動買いしそうで困るのだが。歩きすぎたせいか、疲れた。

訪問先の知人より、豆乳が脳梗塞予防に効くと聴き、さっそく試す。無謀の、黒酢豆乳割り。

●7月15日(火)

午前中、某行政系の会議。べらべらしゃべってしまった。午後は和歌山へ訪問。

最近、ネグリの『帝国』とかスピヴァクの『ポストコロニアル理性批判』とか大澤・東の『自由を考える』とかを読んでいると、どうも我々の生きている社会がいわゆる「近代」を越えたり越えかかったりしているというのが共通認識らしい(ネグリとスピヴァクとではだいぶ見解は違うが)。で、そこで常に引き合いに出されるのがヘーゲル。ヘーゲルは「近代」を象徴する思想家なのだそうだ。

そんなわけで、昔買った長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社新書)をざっと読む。近代とは、大まかに言って「自己と他者」などの2項対立の思想が前提にあるらしく、そのへんを知りたかったから。

長谷川解説ヘーゲルは残念ながらそのあたりは強調されていなかった。まあそれは仕方ない。ただ、現在のところ、ヘーゲル的「2項対立」あるいは「否定」の発想方法と、ドゥルーズ的「差異」の発想方法の、2つの思想傾向があるのを知っておきたい。これは何も、思想界だけではなく、我々の日常いたるところにころがっている。ややこしいのは、この2つが常に混在しているということ。

ネグリとか東&大澤は、現代社会は、「否定」よりもどちらかというと「差異」が優勢を占めているという。けれども、「差異」が優勢でありながら、なぜか我々の日常は不自由になってしまったことを嘆いている。誰が何をしてもそれはただ「違う」だけにすぎないのに、はっきりしない「権力」みたいなものに縛られれているということ。

スピヴァクは、まだまだ「否定」の発想(マイナーである「他者」が抑圧されること)は衰えていないという。近代的権力(この場合の権力は、自己をマジョリティとして同定し、他者をマイノリティとして排斥する)はネグリ的「帝国」なんかには変身しておらず、近代的ニュー帝国主義としてパワーアップしているとのこと。

いずれにしろフーコーが、それら最近注目の本たちの元ネタのひとつになっている。それをたしかめるべく、『監獄の誕生』(新潮社)を購入。ここでは「規律的権力」が中心テーマ。5300円也。もうひとつは、H.アレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫)も購入。アレントは初めて買った。ここでは最近流行らしい「公共性」がテーマ。1500円也。貧乏なのに。

●7月14日(月)

某通信制高校でカウンセリングのバイト、そのあと大学でラカンの読書会。

ふと、長らく放っておいた当ホームページをちょっとは再構築しようと思い、自分の修士論文を転載した。フランス語の単語が化けたり、注をいちいちコピー&ペーストするのがめんどくさくて超中途半端だが、まあこんなものは誰も読む気しないだろうから、一応載せるだけ載せた。

しかし、あれほど情熱をかけた同論文だが、今となってみると読み返す気もしない。背伸びしているのがわかるし、テーマも追求しきれていない。もうちょっと短くていいから納得できるものを早く書きたい。それは別に論文形式でなくてもいい。

●7月13日(日)

今日は休息した。島田荘司『暗闇坂の人喰いの木』を読了したが、あまりにもなトリックに「はあ?」状態。まあ駄作ではないけど。

古い友人と久しぶりに会って近くの焼き肉チェーン店で昼食。彼は仕事の合間を縫って「メール・レディ」というバイトをしているらしい。これはつまり、出会い系サイトというのかメールというのか、僕はよく知らないが、例のネット上の出会いサービスの「女役」の仕事なのだそうだ。そうしたサービス事業が盛り上がるためのサクラですね。

1件男から返事が来るごとに15円もらえるシステムらしい。これだと、1日30件くらい返事をもらったとしても月に1万5千円にもならず、意外とハードな仕事なのだが、そこに到達するのも難しいという。最低でも「各都道府県に1人のオリジナル女性キャラ」を作成・維持する必要があるのだそうだ。自分の作った女性キャラたちにやってくる返事に創意工夫・対応しなければ、コンスタントな返事数は稼げない。僕の友人は3週間やって飽きてきたそうだ。

おもしろかったのは、「遊びたくって、即セックスOK」みたいな雰囲気の文面で対応すると男たちからの反応は悪く、「私、地味なOLで奥手ですが寂しいの」的対応だと人気が出るらしい。風貌も、茶髪よりは黒髪のほうがいいとのこと。僕は知らなかったが、男から「出会い系」に返事を書くには、1件あたり480円もかかるのだそう。なんとなく、「おた」系男たちが、他人と出会ったようで出会えないネット上を駆けめぐり、「萌える」地味系女たちとのユートピアな出会いを夢想している図を描いてしまったのだけど、これは僕の偏見ですね。

●7月11日(金)

午後から訪問。

午前中は、たまっていたアニメのDVD(知り合いの青年たちから借りている)を集中的に見る。『ロビン』『キディグレイド』『スクライド』。見ても見ても、アニメは新作が供給されてくる。見ながら、メタリカと曽我部恵一の新譜をコピー。僕はヘヴィメタは苦手だが、メタリカの新譜は意外とよかった。メタルファンにはいまいち評判悪いみたいだけど。

ラカンの『精神病』は、ラカンのわりにわかりやすい。サイードの『オリエンタリズム』とスピヴァクの『ポストコロニアル理性批判』もゆっくりとだが読み進んでいる。島田荘司『暗闇坂の人喰いの木』と東・大澤の対談『自由を考える』も併読。僕の読書は、1冊ずつ読むのではなく、TPO併読型に完全に移行した。去年より読書量が減っている。

●7月8日(火)

1日中プラッツ。結構疲れた。

で、ぬぁ、ぬぁ、ぬぁんと! 僕の家にもついにADSLがやってきた! 心配していた接続も簡単に完了し、現在もインターネットに接続しながら日記を書いているのだが、これってマジで電話代がかからないの?

 ダイヤル回線に浸透され尽くした僕の体質は、こうしてネットに接続しながら贅沢にも日記を書けてしまう環境が理解できないー。

 もしかしてもしかして、この間にも電話代ないしネット代みたいなのが引き落とされているのでは……なんて、ADSL初心者はみんな思っているのだろうか。やっぱ、パソコンのスイッチを落としたあとはADSLモデムのコンセントも抜くべきなんだろうか、なんていう素朴な悩みから脱出することができない。

●7月7日(月)

某通信制高校でカウンセリングのバイト。そのあと大学でフーコーの研究会。

この頃、またもや金欠になっているのに、昨日はラカンの『精神病・上』(岩波)を購入。3500円。フーコー研の次のテキストは『監獄の誕生』に決まったのでそれも買わなければいけない。5500円。

ただの哲学おたくだとばかり自分のことを思っていたのたが、最近になってそれらバラバラのテキスト群がひとつのラインにつながってきたような。で、すぐではないけど、もう少ししたら論文にもとりかかれそうな(この前修論を書いたばかりだし、そんな論文を書いたところで発表媒体は今のところはっきりしないのだが)。

小説はずっと書きたい書きたいと思っているけど、陳腐な発想から抜け出ることができない。だからたぶんダメだ。もしかして、僕が死ぬまでに「書けた!」って思えることがあるとしたら、哲学論文のジャンルかもしれないって、39才になってやっと思い始めた。いつもながら遅い。

●7月5日(土)

1日中プラッツ。今日もさまざまな人たちの話を聞き続ける。

なんとなく流れのままに続けている今の仕事だが、これだけ多くの人と毎日接していると、ときどき、僕でいいのかな、という気分になる。

これという理由もないのだけど、今日はそういう気になった。ちまたに溢れるカウンセリング理論は好きにはなれない。というか、カウンセリング理論が「こころ系」の人たちを創出していると思う。悩みなんか、ここ一発という時以外では言うべきではない。言ったって、しんどいだけだ。「ここ一発」以外では雑談をし、そこでふと漏らされる言葉を、聴く側が見逃さなければいいと思う。

●7月2日(水)

1件訪問のあと、東大阪にある某フリースペースに応援のバイト。

帰り、地元にできた巨大ツタ屋に寄る。そこには、ナイジェリアのフェラ・クティというミュージシャンのCDがずらっと揃っている。興味があったのだけど今まで聞いたことなかったのだが、今日試しに1枚借りてみると、予想外にかっこよかった。ちょっとフェラにはまりそうだ(シニフィアンが横滑りになっているような……)。

新しいキッドを出したあと(出す前からも)、何人かの方から励ましの連絡をいただいています。一つひとつにほとんど応対できていませんが、とにかくありがとうございます。

ここ数年の酒浸り生活ともどうやらお別れできそうで、実は現在、一人でその地味な生活変化を楽しんでおります。なんか理由ははっきりしませんが、この意味でもトロオには感謝している次第。

●7月1日(火)

1日中プラッツ。今日もいろいろあった。

そうしたなか、行政系の青年就労支援施設の立ち上げ会議にも参加する。場所は、予想していた梅田ではなく、なんと、心斎橋のアメリカ村という若者スポットのど真ん中だった。こんなところに気弱な青年たちが立ち寄れるとは思えないのだが……。

●6月30日(月)

午後から某通信制高校でカウンセリングのバイト。そのあと大学でラカンの読書会。

『自由を考える』(東浩紀・大澤真幸、NHKブックス)と、『オリエンタリズム』(E.サイード、平凡社ライブラリー)を購入。勢い余って『オリエンタリズム』の原書も買うところだったが、必死になって自制。『自由~』は雑誌代わりの読み物として、『オリエン』はスピヴァクの参考文献として読むつもり。特に『オリエン』は、ちらっと見る限り、スピヴァクの元ネタみたい。

それは主にふたつある。

1.近代的な2項対立的差別構造(同じものの集まりとしての「自己」を固めるために、まったく相容れることのない「他者」を捏造する)、つまりは「自己と他者」の発想の暴露。例、ヨーロッパ人(自己)と、オリエンタリズム(他者)。

2.「他者」は自ら語れない。「他者」は、「言葉」をもっている者によって代理される。言葉をもっている者は、多くはヨーロッパ人などの「自己」側なのだが、「他者側」(例・植民地側)出身者も含まれる。ただこの場合も、言葉をもってしまったら最後、まったくの他者ではなくなってしまう。

マイノリティ議論に接するとき、とりあえずはこのふたつを押さえていれば、それほどぶれることはないと思う。

●6月28日(土)

1日中プラッツ。今日は血圧がまた上がったみたいで、しんどかった。

なんとなく僕の日常と血圧との因果関係がみえてきた。それはずばり、プラッツに行く日ないしその翌日が体調が悪化するということだ。プラッツの日は、自分でも気づかないうちに思わず仕事に力が入っているということか。あるいは他の仕事とは違って自分ではコントロールできないことが多く発生しているからか。あるいはプラッツはマジでめちゃくちゃ忙しい現場なのか。自分ではわからん。

●6月27日(金)

知り合いに誘われ、午後から大学で『帝国』のゼミに出席。哲学とは違う、主としてポストコロニアルを扱っているらしい研究室によくわからないまま参加したのだが、同じ文献を扱っても、哲学であれば同書が元ネタにしているフーコーとかドゥルーズなどの検討に一応向かうが、今日の場合は、たとえば沖縄問題等のマイノリティ問題とダイレクトに結びつけて考ていえることに驚く。

そのぶん『帝国』の理論的骨格を失い同書を読む醍醐味は半減するものの、ばさばさと同書を切っていくその教室内の語り方にびっくりした。僕の場合、フーコーの「生-権力」を理解するのに3ヶ月以上を要している。ドゥルーズの「多様体」(マルチチュードの元ネタ)なんて、いまだにわからない。

でも、西洋の理論ではなく、身の回りの現実の「差別」等の現場と直結させる問題意識の持ち方には共感した。こんなのも大学でありなのね。

地元の駅に、巨大なツタ屋が出現。なんとなく覗いたら、なんと、キング・クリムゾンの「アースバウンド」のCDがあった。レコードではもっているがプレーヤーがない。この幻のライブ盤をおもわず借りてしまうのが元プログレファンの悲しさよ。久しぶりに聞いた同盤は、やはり高校時代の高揚感を与えてはくれなかった。

●6月25日(水)

2件訪問。

最近仕事が全体的に遅れていて、今朝、月刊の某業界誌に「連載原稿が遅れてすみません電話」を入れたところ、高血圧には「奄美の黒酢」がいいと教えてくれた。その某編集長もここ半年間飲んでいて、血圧がたいぶ下がったとのこと。

20代の頃さいろ社で病院関係の取材をやったせいか、根っからのめんどくさがり屋だからなのか、とにかく僕は病院が嫌い。病院に行かなくてすむのだったら、黒酢でもウコンでもキムチ納豆でもトマトジュースでも何でもオッケーだ(後者3つはすでに実践中)。みのもんた万歳。

そんなわけで今日から黒酢を飲むことにしたのだが、お勧めの奄美産がなく、近くだからいいかと思って鹿児島産の物を購入。それをおちょこで1杯半くらいの量をコップに注ぎ、ウーロン茶で割って飲むと……、げっ、いくら酢の物好きの僕とはいえ、これはきつい。黒酢の飲み方として「ハチミツを入れること」と説明されているのもよくわかった。明日はハチミツを買ってこよ。

●6月23日(月)

午後から某通信制高校でカウンセリングのバイト。

今日も夕食は質素(人参と万願寺唐辛子と厚揚げの煮物他)。長年の夜の過ごし方を改めるため、今日はレンタル屋で『トリック』と、スガシカオの新譜を借りてくる。『トリック』は相変わらず笑えたが、人の命が軽すぎる。スガシカオはかなりよかった。

そのあと、フーコーのレジュメとかつくる。夜もテキパキしている。トロオがいなくなってから生活を改めようとするとなんて、これもまた皮肉だ。

●6月22日(日)

午前中『キッド』、午後より友人たちとの読書会。J.バトラー『ジェンダートラブル』。いつもならそのあと宴会に突入なのだが、今日は飲まずに早々に帰ってくる。

実は昨日、プラッツの宴会で事情があって飲んだところ、予想通り今日は調子が悪かった。

魚の塩焼きと、万願寺唐辛子と茄子の炒め物。夕食も速攻で切り上げて阪神戦を観戦。これ以上の体調悪化を防ぐため、一人グルメ道をやめるべきときが来ているようだ。世間の人たちは自分一人のための夕食は作る気がしないとよく言うが、これまで僕はそれがよくわからなかった。でも、単純なこと、お酒なしでさっさと胃をいっぱいにしてしまうと、シンプルなおかずで十分だった。しばらくはこのペースでいくつもりだ。

●6月20日(金)

午前中『キッド』の編集、午後から訪問、夜はプラッツでスタッフミーティングのはずが……総勢13人が揃っての大カラオケ大会となる。

僕はあいかわらず、ふらふら状態。夜もずっとウーロン茶。そのかいあってか、少しは楽になったかも。でもまだ油断は禁物。

●6月19日(木)

1日中プラッツ。体調著しく悪く、相談時間以外はずっと横になっていた。たぶん血圧だと思う。どうやら、ここ最近の慌ただしさの反動が出たみたい。久しぶりにアルコールを抜いた。

●6月18日(水)

2件訪問。いいかげん『キッド』を作らなければいけない。

トロオのことでいろいろ連絡してもらって、みなさんありがとう。今回改めて思ったけど、「骨を拾う」という行為は非常によくできた儀式だ。父親の時も祖母の時も薄々思ったが、今回ほど痛烈に感じたことはなかった。親しい存在は、骨になることで別の親しさに転化する。

猫は音もたてずに僕が座る位置に寝そべったりするので、いまだにトロオがここにいるような気になるが、骨になったトロオは骨壺におさまりきれずに砕かれ圧縮され、共同墓地中の土中にばらまかれた。ここにはいない、どこにもいない。ただ、あの骨たちが、商業主義満載の宝塚動物霊園の土中に散らばっている。そういうのを考えると、わりと安心したりして。

●6月16日(月)

某通信制高校のカウンセリングの仕事。今日は少し忙しかった。夕方は大学でラカンの読書会。

今日は阪神の試合もなく、いつものように小説を読む気にもならなかった。このままではもしかしてトロオちゃんの幻覚が襲ってくるような気もしたので、ついついCDを購入。ここのところ迷っていたレッド・ツェッペリンの新譜ライブと、スティーリー・ダンの新譜。ツェッペリンは僕の10代を支配した音楽で、スティーリー・ダンは僕の30代をフォローした音楽。ツェッペリン(というかそのドラムス)は予想通りだったが、びっくりしたのはスティーリー・ダン。あのマジックが完全に戻ってきた。トロオ幻覚が混入する暇もなかった。

●6月14日(土)

第2土曜は、1ヶ月のなかで最も忙しい日。1日中プラッツなのだが、午前中から、運営委員会、保護者会、親の会、そして相談業務と、夕方まで延々続く。

ところで、この日記を2日休んだ訳は、みなさんも当然想像がついていると思います。そう、この12日の木曜日、早朝にトロオは往生したのです。朝(5時半頃)僕が目覚めたときには、すでにトロオの身体の半分くらいは死後硬直が始まっていました。同日、宝塚動物霊園にて見送った次第。享年13才。

上の写真の掲載も、かなり胸が痛むけど、今日のところはここまで。さようなら、トロオ。

●6月11日(水)

2件訪問。

トロオは今朝から再入院。夕方、再び帰宅。腎不全用の流動食を湯煎したあと、針のない注射器(これを動物病院では「ポンプ」と呼んでいた)で30分くらいかけて口からゆっくりと流し込む。それでも35ミリリットルどまり。あと、肝臓の薬を歯茎に塗り込み、抗生物質を小さいポンプで口から流し込む。

一時期もちなおしていたが、ここにきて、立つことも自分で食べることもできなくなった。

また、排尿作業よりも、食事介助のほうに時間をとられているのは皮肉だ。トロオは、あれほどの大食漢だったから。

●6月10日(火)

和歌山へ訪問。

今日も朝と夜、トロオに面会。朝はきちんと口から食べた。獣医に「今晩は家で過ごしてみよう」と言われたので、4日ぶりに連れて帰る。けれども、なんとなく元気がない。餌も食べない。今日の分の水分は点滴で足りているはずだから今晩は大丈夫なはずなのだけど、ずっと寝ている姿を見ていると、かなり心配だ。

でももしかして、点滴でしか生きていけない身体なのだとしたら……。人間の判断が迫られる場面なのかもしれない。

●6月9日(月)

午後より某通信制高校でカウンセリングのバイト、そのあと大学でフーコーの読書会。

トロオには朝と夜、面会に行く。昨日より若干ふっくらしてきたような気もする。朝と夜、それぞれ排尿作業をする。最初はトロオの排尿は動物病院スタッフにはやっぱり難しいから僕に任せているんだろう、みたいに考えていたが、よく考えると、僕とトロオのスキンシップの時間を与えてくれていることに気づく。あと、朝と夕、それぞれ餌(肝臓の薬混入餌)をやったが、昨日よりはよく食べた。

昨日悪かった肝臓の数値もちょっとよくなっているらしい。便も少し出たとのこと。でも、目やにの多さが気になる。

朝の排尿作業中、その動物病院の多忙さのため、補佐してくれる職員がいなかった。なりゆきで、近くにいた女子中学生がトロオを撫でてくれた。彼女に聞くと、なんでも最近の中学ではこうした社会実習授業があり、その日は1日中(午前だけかもしれないが)動物病院内で見学するのだということ。なぜか僕は、そんな中学生相手にトロオの病状を語ったりしたのであった。

トロオに関しては少し余裕のあった1日だった。明日からもこれが続くことを祈る。

●6月8日(日)

朝トロオへの面会。午後からプラッツの仕事、夕方再びトロオの面会。

朝と夜を比べると、素人目では少し回復しているように感じるが、まだまだ山場らしい。腎臓と肝臓が弱っているとのこと。獣医に頼まれ、動物病院で排尿作業をした。計ることはできなかったが、トロオの尿は、僕の指の感覚ではたぶん180グラム。夕食は少し口から食べた。

●6月7日(土)

1日中プラッツ。

トロオは朝一番で入院。点滴でなんとか生きている状態。夕方、またその動物病院に行くと、朝よりトロオはもちなおしていたが、獣医はそれほど明るいことは言わない。体重は、全盛期の半分だった。獣医はいろいろ説明してくれた。いずれにしろ、いまは相当危ない状態だ。

●6月6日(金)

午後から訪問、夜は大学に行こうと思ったがトロオのことが気になり帰宅。

最近トロオのことばかり書いて恐縮だが、マジでやばくなってきた。昨夜からろくに食べていない。今日も、トロオの好きそうな缶詰をいくつか買ってきたが、全然ダメ。もちろんカロリーエースも。これでも昨日まではいくらか茶化して書いていたが、その段階は越えたかもしれない。

でも、はっと思いついて、自分用に買ってきた鰹のたたきの、真ん中の生の部分だけを細かく切って与えると、よかった! ほぼ1日ぶりに何かをまともに食べた(2切れ食べた)。でもそれ以外は牛乳をちょっと飲んだくらい。

本当なら今晩でも獣医に行きたかったが、近くの獣医がもう営業終了のため、明日朝一番に行くことにした。プラッツのK君に電話を入れ、明日はプラッツはものすごく忙しいのだがトロオのことを説明し、わびた。点滴1本でもちなおしてくれればいいのだが。

トロオはもしかしてすごい痛みを抱えているのかもしれない。でも、それをまわりの人間がわかるのは不可能だ。調子が悪いときは部屋の隅っこで寝、食欲が落ちていく。啼かずに黙っている。往々にして調子が悪いときはしゃべりまくる生物であるところの人間の1人である僕は、なんとなくトロオに悪い気がする。

トロオの尿は、朝150グラム、夜も150グラム。

●6月5日(木)

1日中プラッツ。この頃以前にも増して忙しい。

昨日書いた「カロリーエース」もいきなり飽きたトロオ。別に買った小児猫用缶詰もいっさい興味を見せず。そんな状況の中、思っていたとおり、夜は下痢だった。カロリーエースにビオフェルミンを混ぜたのだが、焼け石に水、水っぽい食料は水っぽい便となる。同時に、トロオの食欲もさらに減退となる。では、どうすればいい? やっぱ、獣医なんだろうか。

トロオの尿は、朝は140グラム、夜は180グラム。

●6月4日(水)

午後から訪問、そのあと某フリースペースのお手伝い。

それにしてもトロオの食欲が減っているので、現在仕事上のさまざまな悩みを抱えているものの、実はトロオの激痩せ問題が僕にとっては最大問題だ。で、ちょっと思いついて、歯が悪いにしろ老化にしろ食欲が減退しているのに水分欲求のみが残っているということはつまりは水系なら摂取できるということだろう。人間でいうと、カロリーメイトみたいな食べ物があればいいことなのだ。

そう思いついて、馴染みのペットショップを訪れ、初めてトロオの状態を話すと、しかしあるものなんですねぇ、犬猫版のカロリーメイトはしっかりあった。で、帰ってきて、それを既存の餌に混ぜて与えると、今までよりは食べたみたいな気もする。でも口のまわりはカロリーメイトだらけだし、相変わらず水は飲むし、当のカロリーメイト(その餌は正確には「カロリーエース」デベヒフット株式会社産、という)も結構残すで、あまり問題解決にはなっていないみたい。

そんなトロオの尿は、朝は150グラム。あまりに尿が多いので、これからは朝夜の2回に分けて排出することにした。夜は今から。

●6月2日(月)

某通信制高校のカウンセリングのバイト、夕方は大学でラカン系の研究会。

『キッド』を作らなければいけないのだが、どうも気が乗らない。原稿をいただいた方には申し訳なく思いながらも、肝心要の僕の原稿が書けない。「ひきこもり」をあえて語る必要性を今は感じられない。日々の援助活動に全力を尽くすだけで十分。もう能書きはたくさんだ、みたいなところを出る必要はあるのだろうか。

トロオの尿は250グラム。食べても食べても痩せている。

●5月30日(金)

昨日はプラッツの帰り、塾長のK君とミーティングしながらビールを飲む。それほど量は飲んでいないのだけどなぜかしたたか酔ってしまい、家に帰ってトロオの排泄介助をしてそのままバタンキュー。

目覚めると4時半で、まだ外は暗かったがシャワーを浴び、延々本を読む。そしていつのまにか眠ってしまい、次に起きたのが朝の9時。そこから朝食を取り、洗濯したり掃除したり、そして、午後から訪問、夜は大学。貧乏ながら、ずいぶん気ままに生きている。

今日はスピヴァクは休み。代わりにラカンを読む。あと、昨日阪神が買ったのでスポーツ新聞と。

トロオに何とか1日2缶食べさせようと思い、数時間ごとに小出しに餌をやり続ける。そのかいあってか、1日1.8缶くらいは食べるようになった。あの、獰猛ともいえた食欲が懐かしい。で、その小食ぶりに反比例するようにして、水は相変わらず飲んでおり、今日の尿も270グラムもあった。

●5月28日(水)

2件訪問。

悩みに悩んだ結果、昨日書いた『ポストコロニアル理性批判』(スピヴァク、上村他訳、月曜社)を購入。5500円也! 「ネィティブ・インフォーマント」(非差別地域出身でありながらその地域の情報を語ることのできる人)の検証も鋭く指摘してしまう繊細な同書を、こうしてうれしそうに「買った」なんて報告してしまう僕って何? これこそ、スピヴァクの忌み嫌う(そして彼女自身そこに属している矛盾を暴き続けている)先進国エリアに住む知的エリートの姿なのでは、なんて考える。

トロオの痩せる速度はなんとなく止まったみたいだが、今日、とある人から聞いた話では、動物は死ぬ際、急速に痩せ細おり、あっけなく逝ってしまうのだとのこと。トロオはいま12才で、これまでさんざ飼い主を困らせてきたが、どことなく生命力の薄い猫のように感じている。だから、そんな話もあながち冗談で流せない。

そんなトロオは最近あまりに水を飲むので、今日は朝と夜、2回に分けて排尿作業をしてみた。朝は140グラム、夜は180グラムだった。冬の2倍はおしっこが貯まっているようだ。

●5月27日(火)

ラカン『フロイトの技法論』をやっと読了。まあ、この年になって精神分析(ラカンとフロイト)にここまではまるとは、自分でも驚き。当然、精神分析がもつ男根主義はどうでもいいとして、その人間関係論は(普通、対象関係論と呼ばれている)刺激的。

もうひとつ僕の興味があるジャンルはポストコロニアルやナショナリズムやマイノリティの問題で(この系列に『帝国』はある)、今目をつけているのは、スピヴァクという人の『ポストコロニアル理性批判』というださい書名の本。5500円もする。どうやら、ラカン的ちまちました人間関係論と、スピヴァクやネグリやバトラー(『ジェンダートラブル』の著者。今再読中)的ポスト近代を見据えたマイノリティ論の2つが、僕がこれから10年くらいかけて読んでいくジャンルのようだ。

この2つのジャンルを、ドゥルーズなどのポストモダンで連結する純粋理論的な論文を書くことが(来年あたりの)まずひとつの目標。そしてもうひとつの目標は、これら理論をいっさい出さずに、または僕なりの出し方を工夫しながら、エッセイ風に書くこと(これを自分の仕事に絡ませて書くのも目標だが、それはこの頃、どうも自分で気持ち悪くなっている)。そして最後に(実はこれが今年の一番近い目標なのだが)、以上とは関係ない、読み飛ばされるのを前提としたおもしろいミステリーを書くこと。だんだん、これら2つの読書対象と、3つの執筆目標がはっきりしてきた。

トロオの尿は、なんと、270グラム。だが、今日も何とか2缶食べている。このペースがあと5日続けば、現在の痩せ細り傾向に歯止めをかけることができるのでは、と期待している。

●5月26日(月)

午前中フーコー研究会、午後からは某通信制高校の相談業務。

昨夜いい気持ちで寝付いたと思ったら、鼻腔奥深くに刺激臭が。もしやと思って、目を覚ますと、トロオが枕元にいた。うとうとと、トロオを見ていたのだが、その異臭はますます強まるばかり。やばいと思って、明かりをつけると、案の定、いつも寝ている付近から延々下痢便を引きずった跡が。時計を見ると午前2時。そこから、寝ぼけながら下痢処理をしたのであった。

3~4年前、事情があってトロオはしょっちゅう下痢をしていたが、あの頃に匹敵、あるいはあれ以上に下痢状態になっている。当時は明らかに原因があったのだが(人間の都合)、現在の状態の原因はわからない。この前から書いているとおり病気ではないような気がする。あんなにたくましかったトロオが、肋骨なんてがりがりに浮きまくっている。とにかく食べさせなくてはいけない。そんなわけで、トロオの微妙なニーズに沿って(2時間おきに少しずつ食べる)餌をやって、やっと1日2缶弱食べるようになった。それでも便は少ない。

そんな、トロオの尿は240グラム。水ばかり異常に飲む。

●5月25日(日)

午前中は懸念のフーコー『性の歴史』1巻のレジュメ作成。今回はうまくいった。

午後は、「ファースト・ステップ・ジョブ・グループ」(FSJG)の集い。同会は親御さんが少人数のグループを組んで、自分の子どもとは違う子どもに、仕事を斡旋するという画期的なアイデアのもと、実験を続けている。1期を3ヶ月で区切り、現在は2期の最終月。来月より引き続き3期に突入する。僕はオブザーバー的に参加している。それは非常に地道な集まりだが、何か可能性を感じる。

「ひきこもり」業界は、そのパイの小ささに反比例するように、現在、怪しいおやじたちによる権力ゲームのターゲットとなっている。定年退職あるいはオルタネィティブな生き方を求めるおやじたちが、マスコミでもよくとりあげられる「ひきこもり」をネタに、各活動の勢力拡大を日々繰り広げている。こう書くと、この日記を読んでいる方で「ひきこもり」業界に詳しい方は、「ああ、あいつにあいつね」みたいな感じですぐに何人かの顔が思う浮かぶだろう。

それらに比べてFSJGの真面目なことよ。でも、真面目なところに限って、静かに活動し、静かに終息していったりする。けど、そこで広がった人間関係こそがそれ以降の活動の源になり、10年くらいたつとそういうところだけが残っていたりする。

トロオの尿は260グラム! めっちゃ多い。トロオはこの頃水ばかり飲んでいる。明らかに痩せてきているのだが、目やにもないし鼻先も濡れていて、見た目は健康。これが老化ということか。とにかく食べさせなきゃと思い、各種缶詰を何回にも分けて与えている。

●5月23日(金)

昨日は甲子園に阪神戦を見に行く。絵に描いたような大逆転劇で、このひねくれた僕も六甲おろしを歌ってしまった。何か、野外コンサートみたいな雰囲気だった。

今日は朝、フーコーの『性の歴史』のレジュメ。やっと終わったと思ったら、いきなりワープロソフト(いまだに僕はクラリスワークスを使っている)が終了し、それ以降その文書は開かなくなってしまった。ワープロソフトそのものは別文書では開くことができるのに、フーコーレジュメのその文書だけは永久に閉ざされたままになってしまった。このレジュメをつくるのに何時間、というか何日要したことか。泣くに泣けない。

しょぼくれた気分のまま、訪問へ。夜は大学で「環境問題」の分科会。10時くらいに帰ってきて、シューマイを食べながら本を読んでいると、やっとフーコーショックから立ち直った自分を発見した。

トロオの尿は180グラム。

●5月21日(水)

訪問2件。やっとここ数日、落ち着いた生活になってきた。でも明日はプラッツイベントで阪神戦観戦がある。今日も阪神は買ったようなのですごく楽しみなのだが、またもや深夜帰宅の予感が。トロオの便は相変わらず軟便続きなので、かなり恐い。

本は相変わらず読んでいる。最近発見したのだが、僕の読書傾向には3層あって、それらは、1層目は哲学の理論書、2層目はもう少し柔らかい歴史書とかノンフィクションとか哲学/思想解説書、3層目は酔っぱらっても読めるミステリー、の3つだ。

ここには、20代にあれだけ読んだ「純文学」は入っていない。たとえば、大江健三郎の『宙返り』は近年まれにみる傑作だと聞いても、結局買うのは綾辻行人の『霧越邸殺人事件』(わりとおもしろい)だったりする。まあそれらミステリーは、テレビを全く見なくなった僕の、テレビ代わりの娯楽ね。純文学は完全に哲学に席を奪われた。だって文学って、既存の「正常」とか「規範」に対する疑い方がかったるいんだもの。文学畑からは容易に右翼が生まれてくるし。

トロオの尿は200グラム。食欲の減退に比例するように、どんどん痩せてきている。心配。

●5月20日(火)

朝、法務局(プラッツのNPO関係)、午後からプラッツ。12時から17時半まで、延々相談活動。

帰ってきてトロオに餌を与える。その餌は、今朝の残り分。それはモンプチ缶半分くらいなのであるが、その半分でさえ、数時間かかって食べる始末。以前であれば(たった数ヶ月前だ)、きちんと1日2缶と決まっていたので、最近のだらだら食べは僕はまだ慣れることができない。

たぶん多くの猫はこんな食べ方なのだろうが。これから夏になる。そうすると、食べ残しの餌の管理とか、また難しい問題が生じる。もしかしてトロオは、排泄以外は、これまで非常に飼いやすい猫だったんじゃないだろうか。

そんなトロオの尿は210グラム。食欲に反比例するように尿の量が増えている。

●5月19日(月)

この春から始めた、某通信制高校の相談室の仕事に行く。隣が保健室で、そこには例によって生徒たちが大勢遊びに来ている。彼らの声は僕のいる部屋まで届いてくるのだが、いわゆる「不登校」っぽい静かな人たちではなくて、元気いっぱいのいまどきの若者たちの声。

もちろん、「テンションを高めて無理矢理他人と合わせている」的現代の若者像は僕も熟知しているつもりだ。でもそんな深読み的心理学的洞察もどうでもよくなっているこの頃の僕。表面的にテンション高いやつは元気なやつ、いろいろしゃべるやつは外交的なやつ、みたいなシンプルな捉え方でいいんじゃないのか。

トロオの食欲が相変わらず減っている。全盛期の3分の2くらいだ。で、ちょっと気になって歯を見てみると、唯一残されている前歯数本の根本がかなりぐらついているようにも見えた。もしかして、歯が原因なのだろうか。そんなトロオの尿は180グラム。

●5月18日(日)

中身は詰まらないのだけど毎日更新するだけがとりえのこの日記が、ふと気づけば1週間近く更新できていなかった。

というのも僕は相変わらず毎晩泥酔しており、酔っぱらって帰ってきて、トロオちゃんの排泄介助をしてそこでエネルギー切れバタンキューみたいな日々がずっと続いていたのだった。

今日も友人たちとの読書会があるので泥酔の予感がしており、日記としては反則なのだけど朝更新をとりあえずしておこうという気になった。

昨夜のトロオの尿は……酔っぱらっていて忘れてしまった。確か排泄はさせたような記憶はあるが。ゴミ箱をチェックしようっと。

●5月12日(月)

昨夜も泥酔してしまい、ふっと気づけば、駅員から「お客さん、終点ですよ」と肩をたたかれて起こされた。そこは宝塚という、僕の最寄りの駅よりだいぶ離れたところだった。そこから戻りの電車に乗り、帰ったのは1時。トロオのウンコは奇跡的に無事だった。

今日は、某通信制高校でのカウンセリングのアルバイト。今日が初出勤だった。そんなに最初から相談に訪れる生徒がいるわけもなく、持ち込んだ本が結構進んだ。やっと『塗仏の宴』も読了した。でもまあそれなりに仕事もする。

で、今日こそは早く帰り、久しぶりに夕食を作った。ウナギの白焼きを買ってきて、ウザクとか、キムチとモヤシとウナギのスープとか。トロオも平和だった。やっぱ、早く帰ってゆったり家で過ごすのが一番ね。最近の自分の生活について反省ぎみ。トロオの尿は150グラム。

●5月9日(金)

昼間2件訪問。夜は大学。

金曜6限は「臨床哲学」の授業がある。モグリ時代も含めて(といいながらこの4月から再びモグリに戻ったのだが)5年くらい僕は同授業に参加している。だいたい分科会に分かれてディスカッションしたり発表したりするのだが、5年も参加しているとそのパターンに飽きてくる。

過去4年、僕は主として「教育」をテーマとした分科会に参加してきた。けれども今年は、なんと「環境」をテーマとする分科会に参加することにした。で今日は、前回の自己紹介に引き続いて、ディスカッションをする。題材は、僕が提案した、「『環境問題ってわかんなーい、ださい、うっとおしい、あほらしい』等の声とどう対峙するか」というもの。僕は、遅刻しながらも一応司会した。

議論は意外とおもしろかった。特に、自動車問題について。「環境と自動車」という問題を考えたとき、普通「自動車」を人は選択する。その理由としては今日の議論では4つあった。それは、1「欲望」(クルマが好き)、2「経済」(クルマ関係の仕事をしている)、3「生活習慣がクルマなしでは成り立たない」、4「クルマは悪くない、悪いのはクルマが窒素を放出してしまうという現在の技術」等。

いずれにしろ、環境問題は「クルマ」などの具体的問題でないと語るのは難しい。「『環境』は……」といった語り口になったとたん、環境問題は大きな概念となってすり抜けていく。これは、「ひきこもりは……」というのと同じかもしれない。そんな大きくて抽象的な概念ではなく、もっと具体的に、「8ヶ月家にいて、鬱っぽくって、親を殴って……」みたいな具体的問題として語らないと、大きな概念だけでは悪しき哲学スノッブに陥ってしまう、いや、実際にそんな雰囲気に今なっているのかも、そんな気がした。

●5月8日(木)

ずっとプラッツ。プラッツは今、またもや新しい局面に入ってきている。このスリリングさはすごくやりがいがあるのだが、僕と塾長のK君にとっては、そう単純でもないような。でもまあ、仕事は楽しい。

トロオの尿は180グラム。

●5月6日(火)

昨日は知人宅で飲み会があり、それは昼の12時から始まったので、そのお宅を出てからも延々飲み続けたせいか、夕方以降の記憶がほとんどない。電車も、最寄りの駅を乗り過ごしてしまうという始末。そして、気づけば僕は、夜中の3時半に自分の家で横になっていたのであった。最近このパターンが多すぎるぅ!

というわけで、今朝は予想通り、トロオの下痢攻撃2連発にあった。おかげでこたつの敷布をついに交換できることになったが、僕の不規則生活とトロオの下痢は完ぺきに連動していることを久しぶりに思い出したのであった。そういえば、3年前の超不規則生活時代もこんな感じだった。

そんな、今朝の3時半におしっこを出したトロオの夜のおしっこの量は120グラム。ウンコは出ない。今晩あたり、また下痢になりそうで恐い。

●5月4日(日)

幸いにもトロオの下痢はおさまった。助かった。そんなトロオの尿は180グラム。

ラカンの『フロイトの技法論』を延々読む。へたな解説本より、ラカン自身がはっきりと、その「鏡像段階」とか「愛」についてはっきり述べている希有な本。この率直さに僕は、読みながら驚いた(普通ラカンは神秘的な言葉でごまかす)。さすが「セミネール」シリーズの1巻だけのことはある。

僕はこの頃、たとえば「ひきこもり」といった、最近になって強引に(精神医学とか心理学とかジャーナリズムなどによって)つくられたジャンルについて語ることがしんどくなってきている。たぶんこの最大の原因は、「援助者としての僕」が偉そうに、「ひきこもり」などをネタにして、文化論を語ったり若者論を語ることの嫌悪からくるものだ。こういうやつはうっとおしい。でも、そんなうっとおしいやつに僕はいつの間にかなっている。

ラカンももちろん知的でうっとおしい。でもラカンのうっとおしいながらおもしろいところは、分裂病とか神経症とかをネタに語りながらも、その実、愛とかコミュニケーションなどの汎用のきくテーマに触れてしまうこと。「援助者」として、世界の外に立つのは、僕はもう飽き飽きなのだ。

●5月3日(土)

この頃どうも朝早く目が覚める。今日は5時だった。ちょうどトロオが枕元で騒ぎ出したので餌をやり、再び寝ようとした。いつもだったら目が覚めたままなのだが、今日は珍しくそのまま寝付けた。

しかし、すぐに「ぶちゅぶちゅ」みたいな音が聞こえてきて、ふと目が覚めた。時計を見るとそれでも6時だった。いやな直感が働いて、近くのトロをを見ると、やはりこたつ布団の上で(トロオ用にまだこたつは出したまま)下痢をしていた。これで3日連続だ。少し遅れて臭くなってきた。寝起きは嗅覚が鈍るのだ。

そこからいつもの処置が始まった。発見が早かったのでトロオの身体の被害は肛門周辺のみ。しかし気を付けないと後ろ足が痙攣して肛門近くに出した便をキックしたりする。だから速効で台所のほうへつれていき(台所の床は便の処置に向いている)、紙オムツの上に寝かせて水で洗浄。今朝は、それには時間がかからなかった。

問題は、こたつ布団の上に小山盛りになった下痢便。この頃は僕も慣れたもので、トイレットペーパーでそれを慎重に取り、あとはティッシュとか雑巾で清掃する。これで便自体はきれいになるが、問題は布団に着いた臭気。これはどうしようもない。今日はよく晴れていたしこたつ布団を干したかったのだけど、僕の予感ではまだこの下痢は続くような気がしている。だから、ドライヤーで乾かすだけにした。

日中、切れていた消臭剤を買ってきて、その部位にかける。まあそれで臭いはなんとかなった。夜、トロオの尿は150グラム。朝に下痢したせいか便は出ない。うう、明日の朝がこわい。

●5月2日(金)

昨日こそは日記を更新しようと思ったのだが、プラッツの人々と飲み、帰ってくるとトロオが下痢していた。その処理をなんとかすませ、プラッツ用の日記を書き……、そこまではおぼろげに記憶があるのだが、次に意識が活動したのは今朝の6時半だった。パソコンはオンのまま。プラッツの日記も送っていなかった。徐々に数年前の荒廃生活に回帰しているような気もしていて、恐い。

シャワーを浴びて、フーコーの『性の歴史1』のレジュメづくり。なんとか区切りまで到達し、大学で読書会。楽しい。そのあと訪問。帰ってくると、またもやトロオが下痢していた。最近の寒暖の激しさになんとか持ちこたえていたトロオの腸だが、やはり限界が来た。紙オムツを何枚も犠牲にし、トロオの下半身を水でびしょびしょにして便を洗い落とす。しかし、(猫用)シャンプーを使わなかったので、ウンコが落ちてもトロオはまだくさい。

そのにおいのなか、夕食。ホタルイカ入りゴーヤーチャンプルーとか鰹のたたきとか。食べながら読書。10日以上前からトライしている京極夏彦『塗仏の宴』がなかなか進まない。ただ下巻からはいつもどおりのスピードで読めそうだ。それと、大学の先生に勧められた、ラカンの『フロイトの技法論』(絶版らしいのだがジュンクにはあった)が意外におもしろい。同書はラカンのセミネールシリーズの1巻で、まだ抽象化が厳しくないせいなのかも。

そろそろトロオの毛も乾いた頃なので今から排尿作業をしよう。

● 4月28日(月)

午後から大学で発表。その発表のために先週は、空いてる時間のほとんどを使った。題目はフロイトの「ナルシシズム入門」。まあ、少しはうまくいったかな。トロオの尿は200グラム。

●4月25日(金)

午後から訪問、夜は大学。

「見ること」と「見られること」はあまり変わらないと昨日書いたが、この頃は特にそう思う。相手が自分を見ているのは自分が相手を見たいという気持ちが反映していて、自分が相手を見ているのは相手が自分を見たいという気持ちが反映しているような。ラカン理論がそれを後押ししている。

本来、自意識過剰の「過剰」は「自分が多すぎる」みたいな意味だと思うのだが、この頃は、「自分という器だけでは足りないので、他人にも自分を預けたい」みたいな意味だとも思い始めた。で、自意識過剰というあり方のうっとおしさは、他人に預けた自分をいちいち確認したがるというところ。過剰でない人は、他人の中で生きるのは当たり前だからそんなのはどうでもいいんだけど、過剰な人は、そこをいちいちチェックしたがる。それが「僕を見て」あるいは「僕を見るな」になる。

トロオの尿は200グラム。

●4月24日(木)

プラッツで延々相談業。

昨日の続き。僕は高校時代、ずいぶん自意識過剰なやつだった。いまでこそ「自意識過剰」は日本語になっているが、20年前は日本語ではなかった。それは、一部の文学好きの人たちが、思いついたように記述していた言葉。たとえばどこからどうみても自意識過剰小説の金字塔であるサリンジャーの一連の小説に対しても、自意識過剰という言葉はあまり使われていなかったと思う。

僕は、サリンジャーに関する何かの評論でその言葉を知った。その評論はサリンジャーの「バナナィッシュにうってつけの日」という作品を取り上げていた。5~6才の女の子と、サリンジャーの創設した人物でも2番目に有名なキャラ(トップはもちろん『ライ麦』のホールデン)であるシーモア・グラス(「もっと鏡見て」という意味も含む)との交流の話。文学の名をかたった、単なるロリコン小説でもあるこの短編は(そんなこというと宮崎アニメなんか全部ロリコンものなのだが)、ラストシーン直前のエレベータ内でのエピソードが印象的だ。

シーモアは、海岸でびしょぬれになった身体を隠しつつ、エレベーターに乗る。そこに同乗したのが、いかにもな白人娘。シーモアはタオルで自分の身体を隠しながら、「自分の足を見るな」と真剣に注意する。白人娘はむっとする。

ただこれだけのエピソードなのだけれど、高校生の僕はいたく感動したのであった。「自分を見るな」という言葉。まあこれはつまり、『エヴァ』の人物たちの「私を見て」と同じ意味だと思うが、それはまた明日以降。意味不明だが、なんだか続き物になってきた。

トロオの尿は150グラム。

●4月23日(水)

午後より2件訪問。

昨日サリンジャーの小説が「気持ち悪い」と書いたが、その「気持ち悪さ」について、なかなか言葉にはしにくい。

たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』というヒットアニメの最後の場面で、アスカという少女がシンジという自意識過剰少年に対して「気持ち悪い」という台詞を吐くのだが、『エヴァ』に思い入れを込めて見ていた人はあの台詞の意味はわからかったことだろう。なぜ、あれだけ話題になった『エヴァ』の最後で、そんなお手軽で意味不明の台詞を監督は用意しなければいけなかったのか。それがなぜ「気持ち悪い」なのか。

これは、おたくだから「気持ち悪い」のではないと思う。自意識過剰の気持ち悪さは何重もの意味がある。今週はそれを順に考えていこう。

トロオの尿は140グラム。

●4月22日(火)

午後より、某市役所にて「保護司」の人たち相手に講演。結構楽しかった。

最近、村上春樹が、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』を訳したので評判になっている。僕もこの前、本屋で最初の1頁だけを読んだ。従来の野崎孝訳といちいち比べていないのでわからないが、相変わらずのクールな春樹節(カーヴァーとかフィッツジェラルドとか)のような気がした。

まあ1頁だけなのでなんとも言えない。ただ、サリンジャーの小説は実は、クールな描写の短編小説が多い(『ナインストーリーズ』など)。文庫になったものは確か(というか、『ライ麦』+文庫になったもの+『ハプワース……(正式タイトル忘れた)』の数冊しか公式にはサリンジャーは出版を許可していない)、ほとんど野崎氏が訳していたと記憶するが、『ライ麦』のようなはじけた小説はほかにない。野崎訳のサリンジャーの1人称小説は他にもあるが、多くは通常のアメリカ文学調にクールか晦渋だ。だからこそ、野崎訳『ライ麦』はすごいのだ。サリンジャーの意図を超えて実は、日本語を現代風にくずした重要な役を担ったような気もしている。

『民主と愛国』中、小田実がアメリカ留学したときに、政治をバーチャルにしか捉えていないアメリカの保守的若者の代表選手としてサリンジャーを捉え幻滅したという記述があったが、少なくとも高校生の僕にはリアリティーがあった。サリンジャーは、第2次大戦に従軍している。しかもノルマンディー作戦にも加わったはずだ(『ナインストーリーズ』の中に見事な反戦小説がある)。

サリンジャーの気持ち悪さは、大人にならないとわからない。また、子ども時代にもわからない。たぶん、10代後半にだけそれは訴えかける。それも、ブルーハーツ的感性も気持ち悪いと思ってしまうような、とても変で、しかも自分だけが特権的だと勘違いしているうっとおしい10代後半の若者にのみ訴えかける。僕は、自分の10代の頃が気持ち悪い。そんな気持ち悪い10代にしかサリンジャーはわからないと思う。

僕の記憶では、サリンジャーの誕生日は、1911年1月1日のはずだ。死んだというニュースは聞かないから、生きていれば92才になる。それも変な感じ。トロオの尿は170グラム。

●4月19日(土)

1日中プラッツ。午前中は、「ひきこもり」問題を考える集い「デビューネット」の集まり。午後からは面接や外出。

木曜の日記と重なるが、自分にとって、ドゥルーズやラカンの理論と、日々の仕事の実践がいかに重なるのか、ずっと考えてきた。それがこの頃、ちょっとだけ答えが見つかりそうな気もしている。それら諸理論は、非常に難解だ。難解だが、各思想家が言っていることはたぶん、すごく単純なことなのだ。だから、そうした諸理論を思いっきり僕の言葉で書いたって、たぶん許される。

しかし問題のひとつは、「ドゥルーズはこう言っていて……」みたいな言い方をすると、ほとんどの人は引いてしまうということ。研究者としてはドゥルーズの名前を出しながら語ることが(出典を明記することが)その誠実さを示すことになるんだけど、聞くほうからすればそれがうっとおしい。だから「もっとわかりやすく素人にでもわかる言葉で言ってほしい」ということになる。かくいう僕も、20代の編集者時代、何度もこうした言葉を専門家に突きつけた。そのたびに専門家の方たちは苦笑いをしていたが、それがなんとなくわかるようになってきた。

それ自体、僕が腐敗してきたことかもしれない。でもまあ腐敗なんて倫理的捉え方はさておき、「理論」には力があるということが何か悪いことのように一般的には思われている。これは、「理論の力」と「エリートの力」が混合されているから、かもしれない。エリートがエリート的に理論の力を語ったって、それほど説得力はないかも。たとえば、今ひっぱりだこのカン・サンジュンさんだって、在日というマイナー性が核にあるからこそ、東大の先生というエリート性が化粧として生きているようにも思う。マイナー性を看板にするのもひとつの戦略だが、理論の力だけをうまくアピールする方法は、いまだ見つけられていないような。

●4月17日(木)

1日中プラッツ。最近読書のことを書いてなかったが、主としてフーコーとかラカンとかを緻密に読んでいる。こんな読みをして何の役に立つのかと思うが、その答えはもう少しすれば言葉にできる予感がする。その、自分から出てくる答えに期待する。とにかく、“修論ショック”みたいなの(自分の書いたその論文を思い出したくもない感じ)からやっと立ち直れたのかも。

トロオは相変わらず食が細い。でも彼の顔を見ていると、餌を残しながら満足顔。ちまたの猫は餌を常に残すと聞くが、トロオも12才にしてやっとその境地になってくれたのかな。今からそいつの排尿を介助する。

●4月16日(水)

2件訪問。特に1件目は和歌山だったので、かなりハードな移動となった。和歌山からの帰りはプラス500円払って特急電車に乗り、爆睡。

どうもこの頃、トロオの食欲が減退している。下半身麻痺なので、油断すると尾の付け根あたりに膿がたまるからそれかなと思ったものの、その部位はまったくぶよぶよしていない。毛並みもいつもどおりつやつやしている。やっぱり、12才という年齢が、トロオをして1日2缶モンプチたいらげペースをついに崩し始めたのか。

でも、最近暖かくなったせいか、例年通り、排尿排便介助中に騒ぐようになってきた。そういうのを見ていると変わりはないのだが。そうはいっても若い頃のヤンキーぶりが鮮明なだけに、この頃のおとなしさ(飼いやすさ)が何となく心配だ。そんなトロオの尿は150グラム。

●4月15日(火)

ずっとプラッツ。久しぶりにソフトボールに参加した。

打撃は普通。守備のほうは、僕はいつも外野(今日はセンター)を守るのだが、1日中ソフトをしていると、自分へのフライが数級飛んでくる。それらを僕はたいては後ろへ逸らす。でも今日はきわどい打球を2球も捕ることができた。バッターが打ってから僕が捕るまで、なんとなく自分の聴覚が3倍くらいになった気がして、走ったり手を伸ばしたりなどの一連の動作が繰り広げられる瞬間が一番楽しい。

ばしっと、グローブにボールが収まった瞬間は、自分が人間でなくなった気がする。自分の呼吸が、自分の外部にあるような感じもする。外野は楽しい。トロオの尿は140グラム。

●4月13日(日)

今日は結構楽しかったので日記は休もうと思っていたのだが、なんと、というか、予想通り、東京都知事選でクソ石原慎太郎が当選したらしい。ああ、腹が立つ。まあ僕が仕事で出会う人たちのようなネオコン的人たちにとっては嬉しいのかもしれないが、ああ、それにしても腹が立つ。あんな差別主義者をなぜ都民は知事にする? トロオの尿は160グラム。

●4月12日(土)

1日中プラッツ。「1日中プラッツ」と書きながら、いつもその中身まで記さない。第2土曜は、僕のプラッツ出勤日のなかでも最も濃縮した日だ。その中身をちょっとだけ書くと……。

@10時から「運営委員会」(プラッツの全体的運営状況を特に経済的側面やNPO的側面から運営委員の人たちと語り合う)、A12時半から「保護者会」(現在プラッツに通っているメンバーたちの親御さんたちと語り合う)、B14時から「親の会」(メンバーに限らない、オープンな会。今日は3ヶ月に一度の講演会的親の会で、金城講演、田中司会だった)、C16時から通常の面接。

というわけで、夕方になると、頭の中は意味のない記号のみがぷかぷか浮いているような変な状態になっている。徹夜明けみたいな感じ。こんなときは、野球をぼぉーっと見るに限る。昨日と対称的に阪神が大勝。よかった。トロオの尿は150グラム。

●4月11日(金)

二日酔いで身体が重かったが、午前中から大学へ。フーコー研究会。テキストは『性の歴史』1巻。参加者全員がレジュメを用意していくという形式なのだが、予想以上におもしろい。また、大学院を修了した今、やっとあの研究室の一員になれたような気がしている。それだけ楽な気持ちで入っていける。そのあと訪問の仕事。

今日はいろいろ考えることがあり、油断したらぼぉーっとしてしまったが、長年訪問しているその相手は、ゆったりと受け入れてくれた。こうなると、どっちが援助者なのかわからなくなる。

帰って、阪神巨人戦をテレビ観戦。くだらないことに、9回裏、6点差を阪神は同点にされてしまった。あほらしくなって銭湯へ。湯船の中で思いっきり体操した。トロオの尿は140グラム。

●4月9日(水)

午後から2件訪問。

その移動中、某JRの駅で、人形を抱えた5才くらいの女の子を見る。女の子は、母親を見つつ、腕に抱えた人形に向かって母親のような言葉遣いで話しかけていた。

それを見て、「主体の欲望は他者の欲望」という、ラカンの難解なテーゼがわかったような気がした。我々は乳幼児時代、自分が統一した自分ではないといわれる。同時に、まわりにいる人間たちも統一した人間ではなく、乳房や眼差しや声といった、部分という対象でしか捉えることができない、とも。

そのなかの、乳房を吸うことで得た快感をもう一度再現しようとして幻想が生まれ、それが根源的欲望となる。同じように、そのなかの、周囲の眼差しの中に潜む欲望(つまり周囲の大人が自分を優しく見るその雰囲気)が、自分に満足を与え、その満足をもう一度みようとして幻想が生まれる。また、そのなかの、自分を包む声たちに入っていくことで、ばらばらで生きていた乳幼児時代を終えて言語という象徴世界に入っていく。

まあそんなことがラカン入門書には必ず書かれているが、それってわかるようでわからない。でもまあ単純化すると、ばらばらの欲動で生きていた生命体(赤ちゃん)が自己という統一感を得る際、周囲から放射される「他者の欲望」にシンクロするようにして自分の欲望/幻想を形成するということか。

たとえばセックスの際、目の前にいる他者の視線に対して何ともいえない興奮を抱くことがある。これはラカン風に言うと、自己の欲望をその眼差しに見ると同時に、決して通常の言葉では捉えきれない(言葉の世界以前で生きていた時代に感じていた)ものを、その眼差しから受け取るということなのだろうか。

うーん、ラカンはやっぱりまだちゃんと説明できない。どうしてもこんな感じでミステリアスになってしまうなあ。まあ、今日駅で見た女の子は、明らかに自分の欲望と母親の欲望がシンクロしていたということで興味深かった。トロオの尿は155グラム。

●4月8日(火)

4月からは、木曜と土曜以外にもときどきプラッツに行くことになった。こうすることで、最近面接ばかりで「フリースペース・スタッフ」らしいことが何もできていないので、それをフォローしたい。

そんなわけで、今日は久しぶりに常連メンバーとカラオケへ。泥酔せずのカラオケはやっぱり難しい。そしてそして……。

最近僕はちょびっとだけ痩せていて、それをときどき他人にも指摘されるもんだから、いい気になってダイエット道を邁進している。で、ここ数年は夏になるたびに大汗かく自分がいた。思い起こせば20代の頃はこんなに汗をかいただろうか。たぶん、それもこれも太ったせいだと思っていた。

最近少し痩せたということは(実は見た目そんなふうには見えないんだけど10キロ痩せた)、夏場の汗も少なくなるだろうと期待していたのだ。それがそれが……。

今日カラオケに行ったメンバーの中で、僕1人、歌いながら大汗かいていた。当然熱気溢れる(と感じたのは僕だけだったらしいのだが)カラオケルームには冷房を効かせていた。おまけにハンカチを忘れていったものだから、はあはあいいながら僕はシャツで顔面の汗をぬぐっていたのだが、他の人たちは涼しい顔。汗をかくということは、体重とは何も関係ないんだろうか。それともさらに10キロ痩せなければいけないのか。

やけくそになって、最後はニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ア・ティーンズスピリット」をシャウトしてやった。トロオの尿は130グラム。そういえば最近トロオもちょっと痩せた。

●4月7日(月)

『キッド』の発送作業。今年は隔月で出すつもり。ここ2年は大学のほうに意識が行っていて、すっかり『キッド』が後回しになっていた。なんとか現在進行形で問題を伝え続けていきたいが、実は僕自身が文章に関して大スランプになっているのでかなり不安。自分自身のレアな問題意識と、それを伝えるための技術がアンバランスになっている。

つまりはアカデミズム的なものが問題提出を邪魔しているのだが、レアな問題提出だけでは、まさに問題提出だけになる。問題提出だけして満足できなくなった今、新しいスタイルが求められているのだが、それはもしかして、「ひきこもり」をテーマにするのでは物足りなくなっているのかも。「差別」とか「性」とかを、どうしてもチラリチラリと意識する。

そんなわけで、フーコーの『性の歴史』を相変わらずちまちま読みつつ、網野善彦本他を図書館で借りてくる。例によって、書きたいことのさすらいが始まっているようだ。トロオの尿は150グラム。

●4月6日(日)

早朝から『キッド』づくり。午後から京都へ印刷。春の行楽シーズンなのだろう、電車がめちゃくちゃ混んでいた。

出かけるとき、家の近所で、老婆が猫を“散歩”に連れて出ていた。犬のように猫を散歩させる姿を、この頃ときどき見かける。普通、猫にはこの手の散歩は拷問になる。かわいそうと思って通り過ぎようとしたところ、その猫は、僕の家の庭にもときどきやってきてウンコをしていた雌猫だった。

だからついついその猫をじっと観察すると、左目が潰れていた。そして、妙によちよちと歩いている。猫好きのサガかもしれないが、思わず飼い主の老婆にその事情を尋ねた。

老婆が言うには、その雌猫は交通事故にあって、左目が飛び出た重傷だったという。で、見た目なんともなさそうな右目も失明状態になったらしい。そういえば僕の家の庭で、この頃ウンコを見かけなくなっていた。

トロオの下半身麻痺もたぶん交通事故。失明しようが、下半身が麻痺しようが、やつらは淡々と生きる。その失明猫はくんくんと草のにおいをかいでいた。トロオの尿は170グラム。

●4月5日(土)

プラッツの春休みも終わり、相変わらずの多忙。昨日は、友人たちとの銭湯&グルメ研究会。またもや鶴橋で渋い銭湯と本場の韓国料理を楽しむ。で、お約束のカラオケにも行き、さあ終電で帰ろうとしてJR大阪駅にたどりついたのはいいが、なんと! これはほんとに超なんと! だったのだが、帰る電車がなかった。

もちろんまっさきに思いついたのは、当日記にもかわいい顔を露出している、猫のトロオちゃんのこと。念のためお昼頃に排泄介助はしてきたのだが……。

で、財布を見ると1000円しかない。僕の家に帰るにはタクシーで7000円くらいかかる。思い返すと、確か家にも6000円くらいしかなかったはず。あまりにもみじめな39才哲学おたく。

そんなわけで、ともに取り残された友人のS社のM君の財布を頼ってみると、なんと! 彼の財布は空っぽだった。でも、彼の家には潤沢な資金が溢れているらしい。悩みに悩んだ末、ついに僕が決断したのは、M君の家に泊まることだった。早朝に帰れば、なんとかトロオのケアはできる。

M君にはタクシー代をゴチになり(サンキュー、まっちゃん)、予定通り6時半に起きて帰宅。結論を書くと、前日昼の排泄ケアが効いていて、トロオの体調にはそれほど迷惑をかけなかったようだ。それにしても、独身生活に戻って2年半、初めて外泊した1日だった。ごめんよ、トロちゃん。

●4月3日(木)

午前中『キッド』づくり、午後から訪問。

昨日の差別論の続き(昨日は近代的差別を書いたので、今日はポストモダン的差別──つまりは現代的差別)を書こうと思ったのだが、またしても銭湯で見た「ニュース・ステーション」の戦争報道に対して考えることがあったので、それをちょっとだけ。

それは、「ニュース・ステーション」のような大メディアも立派な〈帝国〉の一部だということ。何回も書くけど、〈帝国〉は、植民地主義としての帝国主義とは違って、複数の組織で構成される。それらは、アメリカ・国連も含めた国際組織・有力国民国家・多国籍企業・国際的NGOなどの協調体なのだが、当然そこにはG7国などに属する大メディアも含まれる。

前も書いたけど、今回の戦争はアメリカという一国の帝国主義戦争だ。で、それに反論をたたきつける大メディアの論調というのは要するに、〈帝国〉からの攻撃だ。なぜそうやって攻撃するかというと、〈帝国〉というグローバリゼーションに属する組織の人たちにとって、帝国主義は損をするからだ──そんなことを『帝国』という本は書いている。

で、実はここからが今日思いついたこと。

それは、こうしてイラクから遠く離れて現状を分析することに──特に『帝国』なんていう抽象的概念を用いて──何の意味があるのか、僕は自分でも自信がなかった。まあ戦争から離れても、たとえば「不登校と倫理」とか、昨日の差別論でもいいが、往々にして抽象的・概念的になってしまう自分の傾向について、うまく説明できなかった。

でも、しつこくしつこく『帝国』を読んできて、抽象的概念を対象とする「分析」という行為の意味が少しわかった気がしてきている。それはつまり、「敵」を何とかして捉えたい・つかみたいという動機が元になっている。「敵」というと大げさかもしれないので、「生きていく上での居心地の悪さの原因」と言い換えてもいいかもしれない。僕が生きていくうえで居心地が悪くなるとき、そこには具体的「敵」の同定だけではどうしても物足りない部分が残る。

その物足りなさを埋めるのが、抽象的概念としての「敵」なのではないか。たとえばその代表選手が、「規範」だろう。規範はとりあえず概念として存在する。そんなわけのわからない規範たちが、我々の生を十分居心地悪くしている。たとえば、「学校に行かなくてはいけない」という規範など。すごくわかりやすい具体的敵〈たとえば○○という名の教師〉とともに、そうした規範も一体となって、「居心地の悪さ」は差し迫ってくる。しかし具体的敵は身体をもっているのですぐに特定できるが、規範は概念なのでなかなか特定できない。また規範の場合、我々の心理的な部分に内面化されているので、そういう意味でも言葉になりにくい。

しかしどうやら、「概念も敵」のようであり、そしてその敵は、身体や名前をもった具体的敵よりももっとやっかいな敵のようなのだ。

僕がここ5~6年やってきたことは、こうした「概念としての敵」を僕なりに言葉にしようとしてきたことだったようだ。何より、敵がわからなければ次の行動がとれない。その意味で、概念を特定するための分析という行ないは、それなりに意味はある。

また書きすぎた。トロオの尿は140グラム。

●4月2日(水)

午後より某フリースペースのお手伝い。

この頃、銭湯で見るテレビを題材にして考えることが多い。今日流れていたのは老人ホームの問題だった。

僕が思ったのは、老人の社会問題ではなく、その老人たちの被写体としての捉えられようだった。それら被写体の人々は、なんというか、個々のあり方とはずいぶん遠い、概念としての「老人」として映されていた。何か物珍しいものでも見るような感じで、カメラはそれら「老人」という被写体たちをなめるように映していく。

たとえば、そのドキュメンタリーの中でインタビューを受けていたある地方自治体の町長はどう見ても70才をこえているように見えたが、その人は特異的な名前をもった○○さんとして映されている。それに比べて老人ホームの老人たちは、「老人一般」として対象化されており、某町長と比べると、明らかに「向こう側」に生息する「他者たち」として取材されているように感じた。

『帝国』という本はいろいろな読み方ができる本だけど、僕がおもしろいと思ったのは、グローバリゼーション分析ではなく、「他者」概念の整理のされ方だった。近代主権というあり方は、まず「他者」という外部を創造し、そのことで「自分たちはひとつ」という内部の「同一化」を図っていく。外部における「他者」の創造と、内部における同一化は表裏一体となっている。たとえば、黒人という絶対的他者(これはつまり「人間」ではない)を創造し、ヨーロッパ白人という同一性(ヨーロッパは同一性がそもそも存在しないのだが、こうやって同一性を強引に創造する)としてまとめられそれが「人間」となる。

こうした、「外部」の創造と排除、それと同時進行する「内部」の形成と同一化、これが近代の典型的差別構造だ。少し前までの差別構造は、だいたいこの図式があてはまる。で、『帝国』世界は新しい差別構造になっているといのがネグリたちの主張なのだが、今日はここまで。テレビのドキュメンタリーの老人たちの描かれ方は、ちょっと古い、近代的「外部」と「内部」の峻別だといえる。

日記書きすぎ。トロオの尿は150グラム。

●3月31日(月)

珍しく朝日記。

昨日は懸案の、ネグリ&ハート著『帝国』の読書会発表を無事済ませた。先週はそのレジュメづくりにかかりっきりだった。そのおかけで、『帝国』については(前半の哲学的議論だけだけど)めちゃくちゃ語れるようになったよー。なんでも僕に質問してー(しつこいけど前半だけ。『帝国』が話題なのは実は具体的話が展開される後半だったりする)。

そのあと、友人たちとボーリングに行った記憶がある。実はまたしても泥酔してしまって記憶があやふや。確か12時過ぎに帰ってきて、それからトロオの排尿介助をしたような……。そんなわけでさっきゴミ箱を漁ったら、トロオの使用済み紙オムツがあったので、泥酔状態のなかきちんと排尿作業を行なったようだ。偉い! そんな、ほとんどアル中の僕に介助されたトロオの昨日の尿は、180グラム。結構たまってた。

●3月28日(金)

1日中プラッツ。

プラッツは今、卒業シーズン真っ盛り。プラッツみたいなところにも「卒業」があるというと、たいていの人は(というか「ひきこもり」本人たちは)驚く。そう、プラッツには卒業はある。けれどもそれは、一律に「はい、終わり」みたいな感じではなく、賢明にその終わりを探求する、みたいな感じで、終わりはある。

だから終わりはある時期に突然線を引いて終わるのではなく、長大に広がる(時間的に言うと数年サイクルで)ゴールゾーンをともにつきあう、みたいにして終わりは広がっている。毎年訪れる「3月」は、このゴールゾーンに突入するためのきっかけの記号だ。終わりのための始まりのために、3月は毎年やってくる。

トロオの尿は145グラム。

●3月26日(水)

二日酔いの中、2件訪問。二日酔いのほうがいい仕事ができるのはなぜ?

予想通り、昨日の大学の送別会は超泥酔状態となり、後半はほとんど記憶にない。帰宅したのが、超久しぶり、午前2時を超えていた。こうなるのを見越して、午前中にトロオの排尿作業を行なっていたのだ。

送別会は会話もろくにせず、延々カラオケ。だってそのために、前夜2時間にわたって練習していったんだもの。UAの「閃光」もシャウトしてやったぜ。たぶん(記憶にないので憶測でしか言えないのだが)、僕の数あるカラオケ修羅場のなかでも、かなり破壊度の高い一夜だったのでは。ドイツ人の前でおはこの「ジギー・スターダスト」も叫んでやったし。

●3月24日(月)

フーコーの読書会。『知への意志』第3章、「告白」の権力論。「聴く側」が支配する側で「告白する側」が服従する側であって、2者関係には必ず権力関係が含まれているという話。それは固定せず、同じ2人の間でも、支配と服従は常に入れ替わる。

そういえば2年間お世話になった大学院も明日で終了だ。事実上は4月以降も研究会等で参加するが、学生の身分とはしばらくさようなら。僕の人生史上、最も早かった2年間だったかもしれない。

明日は修了式には出席できず、夜の宴会のみ。今年は僕はきちんと働かないと経済的にやばいのだ。そういえば高校の時の卒業式も僕は出席しなかった。卒業証書だけあとからとりに行き、その証書も実家に近い川の橋の上から捨てた(その同じ橋の上で、昨日書いた小中時代の友人から、この社会にはびこる不愉快な差別構造を聞かされたのは中学の頃)。今回の修了式はちょっとだけ出席したかったけど、今年はとりあえず仕事だ。

トロオの尿は140グラム。

●3月23日(日)

次の日曜日に友人たちとの読書会で、僕が『帝国』を発表することになっており、そのレジュメを1日かけてつくったが、4分の1もすすまず。予想以上に難物。やけになって4時から1人ワイン。

朝、久しぶりに実家(四国)の母親から電話があり、なんでも、僕が小中時代に友達だった人が、なんと、「下着泥棒」で現行犯逮捕されたとのこと。地元の新聞にも載ったらしい。その人は40才で3人の子どもがいたという。僕はかなり痛快な気分になって、大笑いしてしまった。40才で、しかも噂話に支えられた超田舎での出来事で、しかもそんな父親を持った子どもたちはいじめられることがみえみえで、それでもその男はどうしても「それ」を盗まざるをえなかった。これこそが「欲望」だ。

小中時代の彼の倫理主義者ぶりと比較しても、それは痛快な出来事だった。トロオの尿は170グラム。

●3月21日(金)

1日中フーコーの『性の歴史1──知への意志』を読み、来週の読書会に向けて簡単なレジュメを作成。同書は『帝国』の著者たちのネタ本。

新聞もテレビも見ていないので、イラク・アメリカ戦争がどうなったかわからない。

ただ、昨日から局面が新しくなったことは確か。つまり、この戦争を分析するとか阻止するとかのレベルはなぜか過ぎ去り、この戦争に対して「君は反対なのかどうなのか」という問いが前面に出てきたようだ。そこにはうっとおしいかな、倫理的ニュアンスが含まれている。そしてそのニュアンスのなかには、「国連に任せればどうにかなるのに」みたいなノリが含まれる。

しつこいほど繰り返すが、こうした国連依存主義に隠れたマイナーを押しつぶす一般的人道主義こそが、「帝国」の概念なのだ。今回のアメリカ帝国主義的侵略にしろ、10年前の湾岸戦争での国連的「帝国」にしろ、どちらに立とうが、たとえばバグダッドで「ちきしょう!」ってつぶやく奴とっては敵なのだ。

トロオの尿は160グラム。

●3月20日(木)

ずっとプラッツ。

ついに、アメリカ帝国主義がイラクを攻撃。昨日も書いたけどこれは湾岸戦争的「帝国」的な攻撃ではなくて、懐かしやベトナム戦争以来のアメリカ帝国主義むき出しの戦争だ。相手が社会主義だろうがイスラム教だろうが惑わされないでおこう。

まあそれはさておき、今回の件に関して、僕は、知り合いの多くの若い人たちから「自分とは関係ない」という発言を聞く。

デモなんて、やっぱり論外(60年安保のデモはイデオロギーなんて関係なかったという事実を知ったとしても。←『民主と愛国』)。この頃僕は思うのだが、たぶん、「自分には関係ない」と考えるほうがメジャーなのだろう。逆に「何か反戦しなくっちゃ」と思うほうが変なのかも。

つまり、「関係ない」と思う人は日々の生活に余裕がなく、「関係ある」と思う人は日々の生活に余裕がある。この「余裕」は経済的なものだけではないよ。

または、「関係ある」と思う人は、道徳(倫理)主義者かもしれない。日常のカネと倫理観が、「自分に関係ない」アメリカ帝国主義の行為に対する判断を左右するのだろうか。ちなみに僕は「自分に関係ある」と思う。また論証なしで変なこと書いた。

トロオの尿は130グラム。

●3月19日(水)

午後から訪問。

今日たまたま読んだ朝日新聞にどこかの大学教授のインタビューが載っていて、その人が「帝国」について論じていたのだが、その人が言う帝国とは帝国主義 imperialismのことであって、帝国 Empireのことではなかった。

最近、どうやら帝国という言葉が流行っているらしく、いろいろな雑誌でよく見かける。しかしたぶん、今日の朝日の教授のように、帝国主義的覇権主義と間違っているのだと思う。帝国とはまずは、複合的な概念なのだ。

帝国 Empireは、マルクス・レーニン主義的帝国主義あるいは資本主義の最終段階としての覇権主義ではない。それは現在のアメリカ政権がやっていることで、非常にわかりやすい。だから昨日も書いたとおり、反戦デモみたいな動きがすぐに出てくる。戦争はいやであるにしろ、今のイラクへの宣戦布告の準備は簡単に「ダメ!」と言い切ることができるのだ(その「ダメ」に関する態度はいろいろあるにしろ)。

やっかいなのは、今回の戦争が終わった直後にやきっとやってくる。それは、国連とか、「国境なき医師団」的な道徳主義的人道主義として。そして、メディアの道徳主義として。「帝国」は、すべての差異とかマイナーを肯定するふりを見せつつ、実はそれらマイナーに含まれる野蛮さとか特異性を無視した、一般的人道主義を押しつけてくる。そしてその背景に警察的軍事力をちらつかせながら。

また意味不明のことを書いたかもしれない。しばらくはみなさん、我慢してー。トロオの尿は180グラム。

●3月18日(火)

訪問を2件。

僕の『帝国』話は意味不明という感想を聞く。たしかにあの本は難しくて僕にはなかなか理解できない。でもあの本の前半の要旨を性懲りもなくいくつか書くと……。

1.アメリカには「帝国主義」と「帝国」という2種類の現れ方があって、たとえば前世紀初頭では、セオドア・ルーズベルトの帝国主義と、ウィルソンの国際連盟主義(これが「帝国」へとつながる)という正反対のものとして現れた。

2.政治形態でいうと、前者の帝国主義はいわゆる近代国民国家。国民国家は「内」と「外」を形成し、「外」には植民地ないし「他者」をつくる。内においてはマイノリティーを抑圧し、同時にマジョリティーは「国民(ないし人民ないし市民)」を形成してそこに愛国心(ナショナリズム)が生まれる。→これは『民主と愛国』(小熊著)の論旨に沿う。

3.後者の「帝国」は国民国家を超えたもの。後者には境界はなく、すべて「内」と化す。→これは、「もはや外部は存在しない」という『ナショナリズムの克服』(カン&森巣著)等の論旨に沿う。

4.そんな「帝国」は表面上、ポストモダンだ。ポストモダンとは、脱ヒエラルキー・脱2項対立を指す。つまりは、階層社会とか、メジャー・マイナーの構造を「脱構築」するもの。言い換えると、絶対的権威を廃した「差異」の思考に立つ。高度に発達した資本主義における「マーケティング」の分野などはその際たるものとする社会学者もいる(ボードリヤールらしい)。

5.ポストモダンの脱構築的発想が有効だったのは、敵が近代国民国家だった間。現在の、マーケティング等の差異の思考が少しも珍しくない世界では、ポストモダンの思想は「帝国」を後押しする結果になっている。しかし「帝国」の世界においては、搾取とか貧富の差がより激しくなっている。だから、ポストモダンの有効性が問われている。→たとえば80年代においては『スパ』等のポストモダン的メディアは有効だったが、現在はなぜか「権力的な何か」をそれらのメディアが後押ししている感じがしていた、そんな僕のもやもやした気分を『帝国』はすっきりさせてくれた。

6.現在起こっている戦争は、実は「帝国」的なものではなく、オーソドックスな(つまりベトナムとかフィリピンとかで典型的に展開された)アメリカ帝国主義のかたちではないか。→これは僕の感想。新しい「帝国」の戦争は、いかにも国連の衣を着ながら発動したボスニアとか湾岸戦争なのではないか。だから今、わかりやすい帝国主義的アメリカの仕掛けは世界的に反発され、反戦運動が起きるのではないか。湾岸戦争時は反戦運動はあまり見られなかった。

だらだら意味不明のことをまた書いてしまった。トロオの尿は130グラム。

●3月17日(月)

和歌山へ訪問。往復5時間の電車時間はいろいろな本。

で、さっき銭湯に行ったら「ニュース・ステーション」がかかっていて、アメリカ先導の開戦ムードに警鐘を鳴らしていた。どちらかというと国連主導を(中立的立場の国々も含めた総体的意見を重視しようという立場を)同番組は望んでいるみたい。

ネグリとハートの『帝国』マニアの僕としては、その辺のメディアの視点はずれているといわざるをえない。現在の、ブッシュと名乗る人を中心とした権力構造が主導する体制は、いわゆる古典的な「帝国主義 imperialism」であって、当の国民国家(アメリカ)の利益守護を中心とし、絶対的他者(イラク)をつくることで国内の経済活性化を目指す。

これに対して「帝国 Empire」は、この前も書いたけど、アメリカ・G7諸国・国連(&その他の国際組織)・多国籍企業・G7以外の中堅国家・いわゆる「第3諸国」、そして「国境なき医師団」のようなNGO組織がすべて一体となっている。これらが、一見ポストモダン(ヒエラルキーと「中心と周縁」を廃止した差異のみの世界)を装いながらもどんどんマイノリティーを搾取していく、実にたちの悪い世界が、Empireだ(クリントン時代を──特にユーゴ空爆などを──思い出そう)。

僕は戦争は嫌いだからまあそういう理屈付けはどうでもいいが、実はブッシュみたいな理論は超古典的であって、「ニュースステーション」的国連擁護(パウエル擁護とかフランス擁護と言い換えてもいいかもしれないが──でもごめん、パウエルは帝国主義のほうへ行ってしまっのかな)は、Empire的複雑さを捨象している。といいながら、こんな短い文章では僕もうまく説明できない。

トロオの尿は140グラム。

●3月16日(日)

木金土とプラッツの仕事で超ハードだった。この間、39才にもなってしまった。

今日はそんなわけで思いっきり休むことにした。哲学関係もやめ。1日中軽い本を読む。

ひとつは『ホワイトアウト』(真甫裕一・新潮文庫)。この前テレビでやってた映画版は退屈で途中で見るのをやめたけど、小説はおもしろかった。『ダイハード』を上手にパクっている。

もうひとつは、『仕事のなかの曖昧な不安』(玄田有史・中央公論新社)。1900円。2年前の本でサントリー学芸賞もとっているらしいが僕は知らなかった。中身は難しくはなく、論旨は以下のような単純なもの。僕がまとめるよりもわかりやすい段落があったので、それをそのまま引用すると──。

「若者と中高年が、限られた仕事の奪い合いをしている。とくに、中高年がその既得権としての雇用機会を維持するため、若者から仕事の機会を奪うといった状況が強まっている。若者がフリーターとなったり、バラサイト・シングル化するのも、働く意識が弱まっているわけではない。むしろそれは、若者から働きがいを感じる就労機会が奪われた結果なのである。反面、正社員として働く若者でも、過剰に長く働く人々が増え、育成を忘れた成果主義のなか、働く意欲が失われるといった状況すら生まれている」(246頁)

まあここだけ読めば十分な本でもあるが、結構資料とかで使えるかも。

●3月12日(水)

訪問を2件。

この日記もそろそろ整理しなければいけないが、もうひとつその気になれない。まあそれは関係ないにしろ、実はこの頃僕は、自分の文章に関して深刻なスランプに陥っているように感じている。

境界はたぶん、97年か98年だった。要するに「自分は哲学を目指しているんじゃないか」と思った頃。それまで、心理学でもなく精神分析でもなく、自分のもやもやとした考えを整理してくれるものを探し求めながらそれがなく、自分の持っている言葉の範囲で必死になっていろいろ書いていた。その一つが「待つこと」を考える一連の原稿でもあった。

境界時点で、「不登校と倫理」という、自分ではわりとターニングポイントの問題群を考えてはいるが、それ以降は何となく文体が変化してきた。その変化を一言でいうと、「自分の持っている限られた言葉を駆使した思考から、既存の哲学理論をわかりやすく解説した文章へ」ということになるだろう。

この5年、僕は、我ながら感心するくらい短期間で「哲学のプロ」に近づいたと思う。しかし、書くものはどんどん「わかりやすい言葉で解説してあげます」的なものになっている。もちろんそのいやらしさに気づいているからいろいろ工夫してはいるものの、根本的には、たとえばフーコーの権力論などをエンターテイメントとして語る、みたいな手法をとっている。

こういうのは、一読者としてはおもしろくない。だって、こんなのは哲学プロパーの人たちはみんな模索しているから。論文では専門用語、エッセイでは素人向けに、なんて、20代の僕は最も軽蔑していた姿勢。かといって、ジャーナリスティックに既存の概念と規範に則って語るのは気持ち悪い。また、「待つこと」を考えた頃のように素朴な疑問を素朴なものとして提示することも難しい。だって、素朴な疑問を思いついたとたん、僕の中にあるいろいろな理論がすぐに答えを用意するんだもの。

新しい方法論を考えて現実化する時期が来た。トロオの尿は150グラム。

●3月11日(火)

午前中大学でフーコーの読書会(『性の歴史』1巻)。午後から訪問。

さっき銭湯に行ったら、ニュースでイラクとアメリカの話を延々やっていた。何しろ最近の僕はニュースに疎いのでよくわからないのだが、もうそろそろアメリカがやるようだ。日本は、中立的な諸国がアメリカに追随するよう説得しているという。

そんな説得は無駄なこと。日本という一国家の動きなんて、全然意味がない。最近またちらちら読んでいる『帝国 Empire』によると、ネグリとハートのいうEmpireとは、アメリカ・G7諸国・国連等の国際組織・多くの多国籍企業・いわゆる「第3世界」の国々・それ以外の国民国家・そしてアムネスティや国境なき医師団等のNGO組織など、これらすべてで〈帝国〉をなしている。一つひとつの国民国家は衰退期に入っており、日本によるアメリカ追従を依頼する説得工作などは、〈帝国〉の計算内の動きだ。

とはいうものの、アメリカだイラクだフセインだブッシュだというニュースキャスターのしゃべり方にはうんざり。アメリカだイラクだフセインだブッシュだといったとたん、現在アメリカやイラクと呼ばれているエリアに住んでいる1人ひとりのありかたや、フセインという特異的なあの人やブッシュという特異的なあの人がどこかにいってしまう気がする。そんなのも暴力のような。

トロオの尿は160グラム。

●3月10日(月)

奈良へ訪問。

やっと『オイディプス症候群』を読了。ペダンチックというかウンチクものというか、その手のものはそれほどきらいではないが、これは読むのに苦労した。フーコーをモデルにした人物が出てきたりして、とにかくウンチクのほとんどが哲学系のネタで、はっきりいってつまらない。

でも作者は哲学をめちゃくちゃ愛していて、けれどもその作品としてのつまらなさ加減はわかってないみたい。まるで、この日記で蕩々と哲学ネタを披露する僕みたいに。

トロオの尿は150グラム。

●3月7日(金)

ぽつんと訪れたお休み。懸念の『オイディプス症候群』を読むが、はかどらない。

最近、プラッツを含め仕事が慌ただしくなっている。そういえばつい3ヶ月前までは、「修論修論」と別世界に生きていた。こうして、数ヶ月、あるいは数年単位でいつも激しく局面が変わっていくのが僕の人生の特徴。でもなんとなくこの頃、「ピークが過ぎた」感じがしている。

高校生の時夢想していた「ピーク」はこんなもんじゃなかったけど(だって僕は今頃、第2の『ロッキングオン』の編集長になっているか、小説家になっているはずだった)、まあいいかっていう気分だ。哲学と根源的に出会えたし。

トロオの尿は150グラム。

●3月5日(水)

某フリースペースへ月1回のお手伝い。

帰りの電車で、『民主と愛国』を読む。朝一番の、僕にとって最も頭が働く時間はこの頃、哲学書にあてられている。本来なら、夕方の電車で読むものはミステリーと決まっていたのだが、今読んでいるミステリー『オイディプス症候群』があまりにミステリーとしては駄作なので、仕方なく超ヘビー級の『民主と愛国』を持ち歩いている。やっと500ページ近くまで到達した。

前も書いたが、同書では、戦争体験(これは別に従軍体験だけを指すのではなく、当時は、すべての仕事乃至生活が戦争に関してなんらかの協力をせざるをえないものだったそうだ)に対する「悔恨」が、戦後の各自の行動を決定している。そういうのが、戦後60年近くなった今、小熊英二という類い希なる才能によって少し明らかになった。

で、僕は実は、例のバブル経済とその崩壊が、我々にとっての戦争体験なのではないかと、この頃思い始めた。『民主と愛国』というタイトルは、言い換えると、「平等とナショナリズム」ということになる。戦争体験という悔恨のために、現在の価値からすると対立する「平等(つまりは徹底的な民主主義)とナショナリズム(つまりは象徴天皇制)」という価値が並立して存在することが可能になった(それは現在まで続く)。

さて、小熊は60年たって「悔恨」というキーワードを抽出しているが、今の状況を60年後に分析する人はどんなキーワードを見つけるのか。60年前と同じように、ナショナリズムは今も大きくのしかかっている(60年前と違うのは、現在のナショナリズムはかなり暗い)。トロオの尿は150グラム。

●3月4日(火)

午前中友人と打ち合わせ。午後から訪問。すごく寒かった。

移動中のバスの中、乗客の小学生女子2人が何か絵本みたいなのをいっしょに覗き込んでいた。大判のその本には、見開きごとに風景が描かれていて、その風景のあちこちにいろいろな小物(たとえば鉛筆とか靴とか本とか)が小さく描き込まれている。絵の下にはキャプションがあって、「さあ君は港を望む灯台に来た、ここには靴が3足隠されている。探してみよう」とか書かれている。

とあるバス停で女子高生が1人乗り込んできて、小学生2人の後ろに座った。しばらくして、小学生の1人がその見知らぬ女子高生を振り返り「なあお姉ちゃん、ティーバックって何?」と子どもらしく親しげに質問した。

女子高生は即答できなかった。「うーん、わからん」とか答えている。

僕は実はその女子高生の隣に座っていて、そのやりとりのあいだ、全身の細胞が活性化しているような感じがしていた。というのも、「ティーバックといえば、あの、お尻とかが全面的に見える水着というか下着に決まってるじゃないか!」と考え続けていたからだ。しかし女子高生は小学生と一緒になって「わからん」と言っている。よし、こうなったら哲学好きで本ばかり読んでいる僕が教えてあげるしかないと思った瞬間、女子高生はこう答えたのだった。

「あ、それって、紅茶のティーバッグのことだよ」

そうかぁ、と言って、小学生たちは改めて本に向かい、ティーバッグを探し始めたのだった。

しょーもないエピソードを覚えているくらい、今日は寒かった。トロオの尿は150グラム。

●3月3日(月)

今日も大学で読書会。はずかしや、テキストは僕の修論。そのあと、夕方訪問。

訪問先からの帰り、六甲山から吹き下ろしてくる風がすごく寒かった。それにも負けず、缶チューハイを飲みながら延々歩く。歩きながら考えたことは、僕はいろいろな人の相談を受ける仕事を気づけば10年も続けていることになるのだが、続けてきてよかったなあ、みたいなことだった。意外とこんなこと、これまであまり考えたことなかった。

よく考えると、親御さんの相談なんて、自分より10才から20才は年上の人たちの「悩み事」をなんだか偉そうに毎日毎日僕は聴いているのだ。彼女ら彼らは当たり前だけど僕より人生の先輩であって、そう考えると僕なんか、お金をもらいながら、人生の無数の襞とか傷を教えてもらっていることになる。

たまにこんなべたなことを考える。トロオの尿は170グラム。

●3月2日(日)

午前中は、最近『キッド』でも報告した「ファーストステップ・ジョブグループ」の集まり。今日は新たな展開があり、一人で少しだけ興奮していた。

午後は大学でドゥルーズの読書会。午前も午後も、収入にはならないのだけど、刺激的な集いだった。

夜は、夕食(鰹のたたき、小松菜とシシトウの煮浸し、焼き椎茸のポン酢漬け等)を食べながら『民主と愛国』をひたすら読む。うーん、できるだけがんばってるんだけど、なかなか進まない。やっと半分過ぎた。でもあと、本文だけで400ページもある。

●2月28日(金)

久しぶりに大学。ロールズの読書会。テキストは英語だったので、超あたふた。

帰り、レンタル屋さんではっぴぃえんどのカバーアルバムを借りる。最近カバーアルバムにはまっている。カバーは、基本的にオリジナルの楽曲がいいので、各ミュージシャンたちのいい部分のみが強調されるように思える。

一昨日書いた日記の続き。東京シューレの奥地さんの原稿を読めば読むほど、ひとつの結論に気づいた。それは、「不登校というマイナーな領域を(奥地さんが)必死になってフォローすればするほど、たとえば精神障害のような別のマイナーを差別する結果になってしまう」というもの。それは具体的には「不登校は病気ではない」という言葉になって現れる。

奥地さんは、不登校をマイナー化させないために、真面目に、必死になってその領域を守る。その真面目な姿勢が皮肉なことに、「病気」の人たちをマイナー領域に固定してしまう。もっと有り体に言うと、「社会的弱者は、別の社会的弱者を差別化することで自らを守る」ということにもなるだろうか。このメカニズムは、あらゆるマイナー諸団体同士で見受けられる(たとえば各障害者団体同士)。弱いものは、より弱いものを無意識に創出することでメジャー(つまり、より大きな差別者・あるいは「常識」)とたたかうということだ。

●2月26日(水)

確定申告を無事終了。午後から訪問。

某知人が送ってくれた、斎藤環さんと山下英三郎さんの対談と、それに対する奥地圭子さん(東京シューレ)の反論のコピー原稿を読む。

こういっても誰もその意味はわからないだろうから言い換えると、つまりは、斎藤環さん的昨今の「ひきこもり」論と、奥地さん的80年代以来この国を覆う「不登校=子どもの人権」論の対決。

説明するとこの両者の対立は長くなる。めんどくさいのでそれはやめるとして、それらは対立になるほうがおかしいと僕は思う。両者は、オーダー/層/レベル、なんと言い換えてもいいが、まったく違うところで語っているから。言うまでもなく、斎藤さんは、精神医学という権力的立場からの名付けを元に、奥地さんは、人権主義的名付けというこれまた権力的立場からの視点とともに。

どちらかというと、自分の足場を意識しているほうは斎藤さん。奥地さんは自分のイデオロギー的足場がまったくわかっていない。とにかく被害者意識が強い。でもその被害者意識は誰のため? 親として? 被害者として負けないために「自己決定」は生じたと思われるのだが、真の被害者と思われる子どもたちを「代弁」しているのは誰か?(「不登校は病気ではない」という言い方の裏に、精神障害とか知的障害への差別意識をどうしても感じる)。 それは残念ながら、奥地さん的雄弁なイデオロギーをもった左派的親たちなのであった。それは僕は批判しない。批判しないけど、最低でも、斎藤さん的クールさがほしい。

かくいう斎藤さんも自分の立場に関する自覚が弱い。医療は、奥地さん的アプローチがとどかないところに存在してもいいと彼は言うのだが、医療とは、奥地さんと同じ平面には絶対属すことはできない。斎藤さんと奥地さんがいる場所は、そもそも全然違うところなのだ。斎藤さんは精神医学であり、それは超権力的な場所にいる。奥地さんはそれへのカウンターであり、名付けによって自分の世界に引きずり込む精神医学とは初期段階から距離を置いているはずだ。

それが両者、何を思い違っているのか、同じ土俵に立っている。僕が思うに、二人とも権力的な位置に立っているのだが、その平面の次元がまったく違う。いちばん生産的な議論は、お互い「子どもや青年たちに対しては権力的な位置に立っており、自分たちの議論が彼らのあり方を決定する」ということを共有することから始まる。権力者同士内ゲバしたって何も始まらない。

トロオの尿は150グラム。

●2月25日(火)

確定申告の準備をしたあと、訪問。

毎年この季節は憂鬱。単純にいって、なんで税金というものがあるのか僕はわからない(『帝国』の著者たちは、彼らの理想とする“マルティチュード”の時代が来たとき、税をどう捉えるのだろう)。くだらなさすぎる。大学の時、税理士になりたいという人が知人に何人かいたけれど、その気持ちがまったくわからなかった。そんなのをいつも思い出す。

トロオの尿は150グラム。

●2月24日(月)

知人と昼食。金欠なのに適当な生活。

『ワークシェアリングの実像』(竹信美恵・岩波書店)、『若者が〈社会的弱者〉に転落する』(宮本みち子・洋泉社新書)を流し読みしているが、その内容は勉強になるものの、やっぱり既成の概念に乗ったいわゆる「社会学的」あるいは「ジャーナリズム的」記述に馴染めない。

ある意味仕事だから仕方なく読んでいるものの、こういうのを読むと、自分が哲学に流れた頃の気分を思い出す。たとえば「共感」とか「受容」とか、いちいち僕は、それらの当たり前とされている言葉に引っかかったのだった。そういう違和感を適当に受け流す余裕はそろそろ持てていると過信していたのだけど。

トロオの尿は150グラム。

●2月23日(日)

午前中『少年育成』の原稿。午後から確定申告の準備をしようと思っていたのだがめんどくさくなり外出。そういえば今日は日曜だった。

最近分厚い本を買いすぎたせいか、気づけば経済的に非常事態になっている。そこで、久しぶりに地元の図書館に行く。以前すんでいた茨木市では、しょっちゅう図書館に行っていたが、今の町に引っ越してきて、特にここ2年の大学院生活に突入してからはあまり行ってない。茨木と同じくらい、今の町の図書館は充実している。

ドゥルーズの本とか、恋愛規範の本とか、ワークシェアリングの本とかを借りる。あと、“哲学ミステリー”というジャンルを構築した笠井潔の小説を初めて借りた。作品名は『オイディプス症候群』。いかにも哲学っていう感じだが、内容も、ストーリーを逸脱するペダンチックな哲学おたく議論が展開されている。僕が知っている範囲でも、フーコーとかラカンが背景にあると思われる。こういうのってすごく格好悪いと思うのだが、僕もここ数年はこんな感じだったんだろう。そんな同書は850ページもある。

トロオの尿は170グラム。

●2月22日(土)

今日もずっとプラッツ。

『民主と愛国』、がんばってるのだがやっと200ページ。今日のところでよかったのは、知識人たちの、戦中の自分の行為に対する「悔恨」に対する免罪符のようなかたちで平和主義とか民主主義があらわれたということ。

その悔恨とは、積極的に戦争に協力したというのではなく、思想的には反対しながらも、ただ自分の生命に対するあたりまえの保身のために戦争遂行の一歯車になってしまったことからくる。あとになると後悔してしまうけど、その時その場では自分の生命保持に走る。または世の中に流される。

逆にいうと、フロイトのトラウマの定義「回想することによってその記憶はトラウマになる」と同じで、戦後、民主主義という概念を知ったからこそ戦中の行為が戦争協力になる、ということか。たとえばこれは僕でいうと、子ども時代の自分のまわりにはびこる差別社会に対する意識的了解以前の従属が、その後大人になって悔恨となって襲うということか。悔恨はある意味、現在の自分の何らかの動力となる。

トロオの尿は150グラム。

●2月21日(金)

プラッツ塾長のK君が今週後半休みのため、僕が留守番。今日は実に平和だった。

『屍鬼』、ついに読了。年のせいか最近5時頃に目覚めることが多く、今日もそのパターンだったため、早朝の時間を利用した。うーん、やっぱ、『模倣犯』のほうが僕は好き。『屍鬼』は、それはそれでおもしろかった。

だけど、エンタメ小説は社会規範からの逸脱を描きながらも、結局は元々の社会規範をベースにして「泣き」の物語を構築するという必殺技を用いるため、いかにその社会規範を「文学」として描ききるかという力量が問われる。その点、宮部みゆきの規範との距離の取り方は絶品(だから泣ける)。『屍鬼』の小野氏は、自分の文章の冗長なところを意識できてない。

プラッツでゲームとかしていたら、なぜか「ぱぱぼっくす」という日本のインディーバンドのCDが裸で転がっていた(変なフリースペースだ)。このバントは、スピッツのカバーアルバムにも参加していて、個人的に注目していたのであった。というわけで、誰のものか知らないけど、勝手に一晩借りてきてCDに焼いた。歌詞カードを見ると、大阪のバンドということが判明した。

トロオの尿は140グラム。

●2月19日(水)

午後から訪問。

昨日、やっとのことで『帝国』を読了した。結局1ヶ月近くかかった。一番期待した最終章は、わりと陳腐な提案だったので残念だった。

やはりこの本の白眉は2章と3章だろう。2章は、グローバリゼーション時代に生きる個々の「内面」の分析、3章はグローバリゼーションの「中心なきシステム」の複雑な分析を行なっている。うーん、あと10回は読まないと要約できない。

ところで、最近若い女の人の顔がみんな同じに見えてしまう。いつも一定の流行はあるものだけど、またこの頃、ある統一感をもったモードが襲ってきているのだろうか。この、あまりに同じな感触は、あの「ガングロ」以来なんだけど、ガングロみたいに僕にその意味を考えさせるように迫っては来ず、どことなく風景としておしゃれに侵入してくるのが不気味。思えばガングロは超わかりやすいロックだったな。

●2月17日(月)

和歌山へ訪問。

電車に乗る前に、最近僕の周辺では超話題の『民主と愛国』(小熊英二/新曜社)をついに購入。6300円プラス消費税なり。

『帝国』よりもはるかに読みやすく、もっとわけわからないドゥルーズ等の哲学理論本に比べたら、読むのが楽しいほど。和歌山への往復は5時間を要するので、100ページくらいすすんだ(全体で1000ページ近い)。

今日読んだところでは、「今起こっている状況を分析する道具としては言語に頼るしかなく、その言語による概念装置自体、現在の問題を分析するためにはすでに古くなっている」というのがおもしろかった。

たとえば「ひきこもり」に強引に関連づけていうと、もしかして去年あたりから「ひきこもり」をめぐる状況は大変化しているのかもしれないが、それを分析するためには古典的な「ひきこもり」についての言葉たちを用いるしかない。何となく旧来の「ひきこもり」では説明できないんだけど、その説明できなさは旧来の「ひきこもり」にまつわる言葉を用いるしかない、というような。

こういうのが、1945年以降の25年間で、「戦後民主主義」とか「市民」とか「国民」とか「愛国」などの概念でも起こったらしい。明日からまたひとつ楽しみが増えた。

帰り、日が長くなったので、関西空港を遠く望む海が南海電車から鮮やかに眺めることができた。トロオの尿は155グラム。

●2月16日(日)

午後から友人たちとの読書会。テクストは僕の修論。あれほど熱中した修論だったが、いまやちょっと遠い過去。説明するのがたいへんだった。

どんなに熱中しても、それはそれで過去になるんですね。次回は同じく僕担当の『帝国』になった。どんとこい、だ。トロオの尿は150グラム。

●2月15日(土)

朝から晩までプラッツ。そして延々相談業務。さすがに夕方頃になると、ぼぉーっとする。

小島麻由美の新譜をレンタル屋さんで借りてくる。最近のCD評では小島麻由美の作品の中では最高傑作といわれているが、これまできちんと聴いたことがないので判断できない。

ただ、全体で40分と少ししかない同作品は、なぜか繰り返して聴いても飽きない。そういえば昔のレコードは、45分あれば大作に位置づけられた。A面18分、B面15分(ということはトータル33分)なんて、珍しくもなかった。有名なところではセックスピストルズのファーストなんて30分ぎりぎりくらいだったのでは。ジャズでも、コルトレーンの「バラード」とか「至上の愛」などの名盤も30分くらいしかない。

今回の小島麻由美はまた、なんとなくエロいというのも本当だった。顔もエロいと思う。トロオの尿は160グラム。

●2月12日(水)

午後より2件訪問。

訪問先の人に教えてもらったのだが、世間は今、「若者3人がネットでうち合わせ自殺事件」で騒いでいるらしい。新聞もテレビも見ない生活を淡々と送っている僕はまったく知らなかった。

それは、3人も亡くなったので大きな事件だとは思う。でも、なぜその人たちを直接知らないメディアの人々があれだけ真剣に「自殺はいけない」というのかが、不謹慎だとは思うけど、僕にはわからない。倫理とか法律をもちだされれば何ら反論できないけれども。

たぶん、「自殺すべきではない」という倫理的規制よりも、「(人に)死んでほしくはない」という、他人一般に対する生を望む欲望のほうが先にあって、それが倫理的規制に覆われているような気もする。

トロオの尿は130グラム。

●2月11日(火)

午後から訪問があったが、それ以外は『帝国』と『屍鬼』(3巻突入!)、そして今日から新たに『現代倫理学の冒険』(川本隆史/創文社←軽薄なタイトルだけど名著といわれている。最近の英語圏の倫理学を分析している)を読む。

数日ぶりに『帝国』を真面目に読んだのだが、後半のアメリカ史がちょっとしんどいなあと思っていたところ、グローバリゼーション分析に移ってからは俄然おもしろくなった。最近の日本の雇用状況の不安定さを見事にグローバリゼーションと結びつけて分析していた。

また、60年代後半の資本主義諸国における「ドロップアウト」の流行を、グローバリゼーション(つまりこれが『帝国』というわけなのだが)の兆しへの反旗の象徴として捉えているのもまあこの本の特徴か。このへん著者たち(ネグリはたしか新左翼)の限界を示しているともいえるが、確か主体的にドロップアウトできた人たちはヒッピーといわれたのであった。

で、その30年後、本格的にグローバリゼーションの時代になった今、行動としてはドロップアウトしているのだけど主体的になれない人たちを「ひきこもり」、つまりはヒッキーと呼ぶ人もいる。「ヒッピーとヒッキー」っておもしろいって思ったのは軽薄な僕だけ?

トロオの尿は170グラム。

●2月10日(月)

昨日のシンポジウムは大盛況。たいへん楽しかったと同時に、やはりちょっと疲れた。

今日は大学院の最後の授業。思えばあっというまの2年間だった。2年前のことが今もありありと思い出される。それにしても、最近僕は精神的になんとなく楽しく、明らかにこれは、博士課程願書提出忘れた事件がプラスに作用しているような。

最後の授業といっても昨夜の宴会のために二日酔い状態。難しい本は読めず、家では『屍鬼』2巻を延々読む。すごくおもしろい。トロオの尿は150グラム。

●2月8日(土)

明日は淡路プラッツ主催でかなり大きなシンポジウムがある。今日は朝一で運営委員会(プラッツは親御さん中心の運営委員会ですべてが決まる)で集まって、最終チェックとか、明日用の手作り冊子づくりとか。

僕は基本的にべたな集まりは苦手だけど、プラッツの運営委員会はすごいと思う。民主的っていう言葉が死語でないとしたら、こういう決定機関のことを指すのだろう。中心はなく、コミュニケーションのなかですべてがいつのまにか決められていく、それも、いいかげんではなく、明確に決定される集まり。たぶんこういうのは瞬間の美学なのだろうが、それがいまのところ一年くらいプラッツでは続いている。

トロオの尿は、朝120グラム、夜100グラム。昨日大学の集まりで少し手抜きになってしまって、朝6時に起きてフォローした。

●2月6日(木)

ずっとプラッツ。プラッツの人たちの多くは今週はスキーに行っている。といわけで、僕はいきなりだらだらモード。きりのいいところで居残り組3人で回転寿司屋に行った。

帰って、『キッド』の発送作業。それをしながら、スピッツのカバーアルバムを久しぶりに聴く。インディーズの人たちが半分くらい占める同アルバムはかなり異色だが、聴けば聴くほどしみじみする。で、なぜか草野の曲は女性ボーカルと異常に合う。興味ある人は、その女性ボーカルのせつなさ度を一度聴いてほしい。

トロオの尿は150グラム。

●2月5日(水)

『キッド』の発送作業と、午後からは某フリースペースへお手伝い。

で、この頃の僕は青年たちとの出会いの中でどうも話題不足で、その原因を考えてみたら、そういえばテレビを1週間に5分くらいしか見ない生活を続けていたことを思いついた。

僕は10代の頃は毎日8時間くらいはテレビを見ていた。だから決してテレビは嫌いなほうではない。最近でも、ぼぉーっと、上沼恵美子の芸能番組とか見るのは好きだった。

それがここ半年くらい、新聞もやめ、テレビも何となく遠い生活を送る内に、あの小さな映像装置をずーっと見つめるのがつらくなってきた。見つめて快楽があれば見つめ続けるのだけど(だから某DVD系のものは見る)、普通のテレビ番組はしんどい。それなら本のほうがはるかに楽だ。

というわけで、朝一番の『帝国』に始まり、夕食の『屍鬼』(小野不由美/新潮文庫・予想以上に文章が上手な人だった)に至るまで、延々本を読んでいる。10代の僕はテレビが楽だったが、40才目前の僕は本のほうが圧倒的に楽だ。

トロオの尿は160グラム。

●2月4日(火)

朝、京都へ『キッド』の印刷。そのあと30分だけ時間があったので、ついつい丸善に寄る。すると! 『帝国』の原書が平積みされていた。原書は英語。英語なんて(というか日本語以外すべて)、いまだ全然わからない。でも僕は哲学おたく。邦訳の微妙な言い回しにイライラ感を募らせていた。値段を見ると3600円で、財布には5000円しかなかったけれど、迷わず購入。また部屋に飾るだけのコレクションが増えた。

午後より相談とか訪問とか。1日中、旅行鞄にいっぱいの『キッド』と『帝国』2冊(邦訳と原書。←ほんとアホだ)を抱えて、腕が疲れた。そのうえ、地元の駅に帰ってきたとき、そういえば今晩の米がなかったことに気づく。というわけで、米も買ったので両腕が変になった。

トロオの尿は150グラム。

●2月3日(月)

奈良方面へ2件訪問。奈良盆地は実に寒かった。

今日も延々電車内で『帝国』したが、帰りはエンタメ小説の小野不由美『屍鬼』を読む。文庫にして5巻もあるこのホラー大作についに手を着けてしまった。

実は今週の金曜日に修論の口頭試問があるので少し復習すべきなんだろうが、もうなんというか、そんな気分にはならないのだな。あとは突っ走るだけ、みたいな以前の気分になりつつあるこの頃。日々の愛聴盤もナンバーガールのライブになってきてるし。

トロオの尿は150グラム。軟便だったので今晩あたり、こわい。

●2月1日(土)

1日中プラッツ。

昨日の続きだが、メジャーである「日本人」という近代的国民性を常に産出し続けるために、最近では「北朝鮮」という概念(その内実はどうでもいい)を国外に設定している。で、国内のマイナーとして(国内の「北朝鮮」として)何が現代的かというと、それは、実は実は「ひきこもり」ではないかというのが最近の僕のひらめき。

トロオの尿は155グラム。

●1月31日(金)

久しぶりに『キッド』の編集。なんとか来週には発送できそう。夕方から夜は大学。

ネグリとハートの『帝国』、久しぶりに修論関係以外でちゃんと哲学本を読んでいる。超スリリング。同書第2部は、「国民」とか「人民」は、「他者」である植民地の人たちがあってこそ確固とした同一性を形成できるというのがポイント。遅れてきたヨーロッパ人であるところの近代日本人もまったくいっしょ。

通常認識される、朝鮮人とか沖縄人とかアイヌ人とか被差別部落民の差別の形成は、それまでの抑圧された歴史とはまた別に、近代化以降、資本主義の「他者」として新たに形成された。資本主義はその繁栄のために他者を欲し、内部では国民や人民を創出する。国民概念のひとつである「日本人」は、マイナーな存在を常に創出し続けなければ概念として安定しない。

最近の北朝鮮バッシングも、北朝鮮の内実云々はさておき、日本人という国民概念維持に大いに役立っている。「国民」の維持には、常にマイナーな存在が必要なのだ。いわゆる「差別」は、そうしたメカニズムのあとからくっついてくる。

●1月29日(水)

2件訪問。もう、笑ってしまうほど寒かった。バス停で延々ステップを踏んで寒さをしのぐ。

訪問と訪問の空き時間にHMVに寄る。試聴だけして帰るつもりだったが、ふと、カードのハンコがいっぱいだったことを思い出す。ということは、無料でCDが買えるのだ。

そこで日本系のアルバムを何か買おうと思い、小島麻由美かROVOの新譜かでさんざ迷った末、結局、この前解散したナンバーカールというロックバンドのラストライブを購入(というかカードと交換)。試聴したヘッドホンから流れてきた轟音ギターとグランジベースに、久しぶりに鳥肌が立ったから。

こういうのは帰って聞くとだいたいハズレなのだけど、意外とよかった。轟音で聞くと、トロオがそれに負けず劣らずなきまくっていた。

そんなかわいいトロオの尿は、130グラム。寒いのに少なかった。

●1月28日(火)

昨日買った、ネグリとハートの噂の『帝国』(マジ、哲学・思想界では待望の翻訳だった。こんなのはドゥルーズとガタリの『ミル・プラトー』以来かも)、予想以上に読みやすい。というか、僕のようなドゥルーズマニアにのみ、読みやすい。そのへん、要注意。

とりあえず国民国家は最悪のものだとされる。次いで、グローバリゼーションに「外」はないとも。すべては「内」になってしまった。

ぐちゃぐちゃした潜在的な多様性がまずあって、それがうっとおしく現実化したのがグローバリゼーション。かっこよく現実化したのが、たとえばフランスのマクドナルド焼き討ち事件とかアンチサミット集会だと著者たちは言っているよう〈まだ後半まで読んでないけどそんな気がする〉。

いずれにしろ、グローバリゼーションとは別の多様的な現れ方が可能だということ。グローバリゼーションのわかりやすい指標であるアメリカ(しかしこの国だけが「帝国」というのではない。「帝国」は実は、国境なき医師団とかアムネスティなども含んだ、大々的な動きなのだ)の宣戦布告が現実化している今(ちなみに僕は新聞もテレビも見ていないので、今日宣戦布告してたらごめん)、状況分析にちょっとは役立つ。興味ある方は、『現代思想』で特集しています。でも、『帝国』そのものにがんばって当たるほうが有意義だと思う。

トロオの尿は148グラム。

●1月27日(月)

昨日の疲れだろうか、身体がだるい。

『模倣犯』、やっと読了。すごい作品だ。宮部みゆきの作中人物たちはべたべたのべたなのに、感動した。あと、「相互主体性」というか、特定の主人公を設けず、複数の人物たちの交錯と、そうした人物たちの集合と他の人物たちの集合を円環的に描く手法はまさに力業。だから、オープニングではまったく別の集合に属していた人物たちが、いつのまにか交接し、いっしょに動き、また離れたりする。こういうのを書くのはすごく難しいと思うのだけど、それが非常に読みやすく描かれている。

読む小説がなくなったので『慟哭』(貫井徳郎/創元推理文庫)という一昔前のミステリーを買ったが、そのシンプルな構造が、『模倣犯』を読んだ今、物足りない。

本屋で最後に哲学コーナーに行ってみると、なんと、噂の『帝国』(ネグリとハート/以文社)が平積みされていた。この本は、あの森巣博も絶賛の、グローバリーゼーション分析・批判本。哲学・思想おたくとしては見過ごすわけにはいかず、ついつい購入。5800円。財布がからっぽ。

トロオの尿は150グラム。大便もたくさん出た。おなかを押しすぎたせいか、豪快に夕食のモンプチを戻した。

●1月26日(日)

東京の「ひきこもりについて考える会」に、金城君とともに1日日帰り講演出張。

同会は、参加者の人たちの意識が非常に高く、僕が知っている中では、どこのカテゴリーにも属さない、「ひきこもり」に関してはある意味未来形の集まり。

でもそれだけ剃刀のように人々の意識は鋭く、司会の僕としてはずいぶん勉強になった。また、行きも帰りも、トータル5時間、延々金城君と語る。なにをそんな、と思われるかもしれないが、延々仕事の話。いやあ、今日はディープで楽しかった。そして疲れた。

11時半頃帰ると、トロオは無事生きていた。下痢にもなってなかった。何にもなかったかのように、今、全身を掃除している。さあ排尿作業にとりかかろう。

●1月25日(土)

プラッツの新年会、&故蓮井さんの息子さんの結婚宴会。

僕は結婚宴会なんてどうでもいいんだけど、ここ10年のプラッツ関係者が「結婚」ということで、しかも蓮井さんの息子さんの結婚ということでこれだけ盛り上がるのはすごいと思った。これほど語り継がれていく関係性というものはたいしたものだと思う。

トロオの尿は150グラム。

●1月24日(金)

プラッツで3時間ばかり過ごし、そのあと大学。久しぶりの金曜日の授業。はやくも、来年の修論を控える人たちの修行が始まっていた。

僕は僕で、博士課程の願書提出を忘れていたことが逆にうまく働いて、どうもこの頃はさばさばした気分。来年受験するかどうかはさておき、今年は思いっきり(というか、大学院に入る以前を思い出して)変なことをしようと決めている。さいろ社のはじめの頃とか、ドーナツトーク社を立ち上げた頃とか、プラッツの故蓮井さんといろいろ語った頃と同じような、「あの感じ」がまたやってきたような。

トロオの尿は145グラム。

●1月22日(水)

午後から訪問。

最近訪問の仕事で大阪の市バスに乗る機会が多いのだが、乗るたびに酔う。とにかく運転が荒い。たまに親切なドライバーもいるが、ほとんどはやけくそだ。

市バスは、乗客のうち老人比率が高い。で、前から謎なのだが、老人に限って、バスがまだが走っている間に必死になって前のほうによろよろと歩いてくる。気の荒いドライバーはマイクで怒る。どうして老人たちは、バスが止まってから悠然と歩いてくることができないんだろう。なんであんなアホな運転手たちに気を使うんだろう。こういうの、適当な日本人論ですませたくない。

トロオの尿は150グラム。

●1月21日(火)

「少年育成」の原稿を書いた後、午後から訪問。

モノレール内で芹沢俊介氏の『引きこもるという情熱』(雲母書房)という本を遅まきながら半分くらい読む。

わりと古典的な価値観から書かれた本で、「ほんとうの自分」を無邪気に信じてたりするのだが、思ったよりわかりやすい本だった。

斉藤環氏のことを酷評しているが、僕が思うには2人は違うレベルにあるのでその対立は意味がない。斉藤氏は、権力者としての精神科医という立場を引き受けた「援助/被援助」という視点から「ひきこもり」を捉える(それは「分析」という言葉がアホらしくなるほどドライな記述だ)。

それに反して芹沢氏は、「たまたま社会心理学的な引きこもりの傾斜面に乗ってしまったばかりに体験せざるをえなかった人生上の物語」として、援助局面を飛び越えた幅広い捉え方をする。内的引きこもりとか外的引きこもりなど独特の言葉遣いをするのでわかりにくいが、社会規範の話などはわかりやすい。基本的に、東京シューレ系の運動団体の理論的支柱のように思ったのだが、それでいいのだろうか。

問題は、斉藤氏の対象を超えたところに芹沢氏の対象がたくさんいて、そうしたたくさんいる芹沢氏対象の「ひきこもり」の人たちが芹沢氏の議論に賛同できるかっていうこと。そうした芹沢氏対象の「ひきこもり」の人たちは、現在「当事者」ともいわれている、と思う。

トロオの尿は140グラム。

●1月20日(月)

午後から大学。ここ数日、「博士課程願書提出忘れてた事件」に関して密かに荒れていたのだが、ものは考えよう、この1年は徹底的に変な年にしたくなってきた。

宮部みゆきの『模倣犯』、やっと下巻に突入。純文学好きの人とか思想好きの人には、こうしたエンタメ系を小馬鹿にする人が多いが(僕もそうだった)、宮部みゆきはすごい。何がすごいかはまだ分析できていないが、なんというか、もしかしてドストエフスキー級のような気もしている(まあドストなんか持ち出してくるのが僕の嫌みなところね)。

トロオの尿は150グラム。

●1月18日(土)

昨日は大学の新年会、今日はプラッツ。連日のカラオケ。

で、昨日久しぶりに大学に行ってわかったのだが、僕は、博士課程を受験しないことになっていた!

実は僕は、修論を出したいきおいで、博士課程も受験しようと思っており、かなりバリバリにはりきっていたのだが、知らない間にその期間が過ぎていたようだ、ショック!

そんなことを今日プラッツで話してたら、プラッツ塾長の金城君に「ロックやなあ」とか言われて、なんとなくそれでもよかったのかなあという気分にもなった。まあ間に合わなかったのは仕方ないし、まあ大学なんて所詮娯楽なんだし、「ロック」ということで。

でも、大学のたがが外れた今年の自分が怖い。でも、そんな今年の自分が楽しみでもある。ほんと、毎年毎年いろいろあるなあ。

●1月15日(水)

訪問と、月1回の某フリースペースの助っ人。

この前、「告白される人(聞く側)は権力側」と書いたけど、ここでの権力というのは、我々になじみ深いあの(たとえば国家)権力等の大きいものではない。その手の大きな権力というのは権力の最終形なんだって。

告白場面で起こっている権力/非権力は、そうした大きな権力よりもずっと「前に」生じるもの。で、そこでのポイントは、その権力/非権力関係は決して固定されないということ。

これってでも、普通の人間関係でも日常的に起こっていること。たとえば、ある2人がいたとして、「聞く側」は普通固定されていない。2人の間の関係性とか、そこで起こっている問題に応じて、告白する側/聞く側(つまり非権力側/権力側)はしょっちゅう入れ替わる。

比較的入れ替わりにくいのが、たとえば「教師/生徒」「親/子」「医者/患者」、そして「カウンセラー/クライアント」など。恋人関係などはその反対に、常に権力(力関係)が入れ替わる(しかし結婚すると多くの場合固定される)。

最近「ひきこもり」問題に関連して出てきた「当事者」という言葉は、上のフーコー的権力問題の観点からすると、固定された専門家的権力関係を転覆させるための概念だとも言える。

また変なこと書いた。トロオの尿は150グラム。

●1月14日(火)

さっき銭湯に行ったら、見知らぬ兄ちゃんから「すんません、石鹸貸してください」と頼まれた。僕は考え事をしていたのでひどくびっくりしたものの、「はあ、いいですよ」と言って貸した。銭湯生活も長いが、こんなの初めて。

『レディ・ジョーカー』を読了したので、ついに宮部みゆきの『模倣犯』にとりかかっている。まあその内容はさておき、この頃僕が思うのは、人間はすべて精神的には危うく生きているということ。それに対して何らかの診断名をもらった人は、その診断名が良い悪いというのはまったく関係なく、診断名を与えられることでとりあえず一服できる。その診断名は分裂病でも鬱でもなんでもいい。

どう考えても診断名はどうでもいい。それは、社会保障的に、あるいは他者をまきこみながら日常生活を安定して過ごすためにとりあえず与えられるもの。診断名を与えられなくても精神的に危機な人はたくさんいるし、診断名云々の前に死んでしまう人もいるだろう。また診断名があろうがなかろうが死ぬ人もいる。

診断名=当事者性を受け入れることは、だから何となくポジティブなものなはずだ。けど。

要するに僕はいま「当事者」ということについて考えているんですね。ちょっとまだ整理できてないので変な日記になった。トロオの尿は140グラム。

●1月13日(月)

昨日も仕事だったが、今日も和歌山へ訪問。

今年は僕、マジでミステリー小説を書こうと思っているのだけど、修論が終わって中心的に読んでいるのが、やっぱり、哲学系のフーコーの『性の歴史』1巻。

以前からそこに出てくる「告白」の権力性というのが気になっていて、最近また読み返しているのだ。

ざっくりいってしまうと、人の告白(「実は私は○○です」みたいなよくある話)を聞く人は権力者で、その権力関係を通じて規範が形成され、また「私は○○ということを告白したのだから○○なのだ」といういわゆるアイデンティティが形成される。

僕みたいにわかりやすい職業の人はもろ権力側だけど、こういう構図はあらゆる人間関係で発生している(親子とか友人とか恋愛とか)。だから、あのうっとおしい諸規範は、普通の人間関係の中に潜在している権力関係=告白のメカニズムによって形成される、というのをフーコーは晦渋な文章で語っているみたい。

トロオの尿は150グラム。

●1月11日(土)

1日中プラッツ。10時から20時まで、プラッツ。でも、論文よりはるかに楽しい。

ユーミンのカバーアルバムにはまったついでに、スピッツのカバーアルバムをチェック。その結果思ったのが、「ユーミンは楽曲、草野は声」ということだった。

つまり、アルバムとしてははるかにユーミンカバーのほうがすごい。というのも、ユーミンの曲はやっぱりいいから。でも僕にとって意外だったのは、あれだけすばらしいと思っていたスピッツの楽曲は、他の人がやるとそこそこに聞こえるということ。それらカバーはかなり工夫しているのだけど、原曲のほうがいいと感じてしまう。

ということは、スピッツの曲は、メロディ・メイカー草野の作曲力の魅力では実はなくて、スピッツ的思春期曲であれば、どんな曲であっても草野の声があればいいということ。あの、枯れそうで甘酸っぱくて、そして恋愛度数充満のスピッツ的意味は、実は草野の分析が難しい声だったというのは僕にとって発見だった。

トロオの尿は、寒いのに130グラムだった。

●1月9日(木)

僕にとっては今日が元旦。プラッツ関係者たちには悪いけど、今日は休みました。

それで何をやったかというと、買い物。だって、お正月は買い物だもの。

まず、ヨドバシカメラのポイントカードを利用してMOディスクドライブ。遅まきにがらこれに修論を記録。

あとは、傑作2本に出会った。ひとつは、中国映画の『鬼が来た』。これは、アメリカ映画の『ドゥ・ザ・ライト・シング』をはるかに上回る傑作。2000年のカンヌ大賞らしいが、そんなのはおいといて映画ファンの方はとりあえず見てみよう。絶対(僕が「絶対」というのは珍しいから)損はしない。

どう考えてもこれは『戦場にかける橋』より『ディアハンター』より『地獄の黙示録』より遙かに傑作なのに、なんでこんな地味な扱いなのだろう。

あと、30歳以上でユーミンにちょっとでもはまった人ならば、最近出た『クィーンズ・フェローズ』というカバーアルバムを聴いてみよう。このアルバムは絶対損はしない。僕は、アイブックのCDバーナーの実験用に借りたのだか、これほどすごい内容だとは思わなかった。特に、小野リサの「あの日に帰りたい」とかアイコの「セシルの週末」とか槇原敬之の「春よ、来い」を聞いてみよう。だまされたと思って。

トロオの尿は150グラム。

●1月8日(水)

やっと論文が終わった。

午後一番に無事提出、そこから妙な気分になり、誰かと語らいたかったのだが、仕事とか大学関係の人はなんとなくいやで、そうなると誰もいなかった。で、電話したのがS社のM君。というかさいろ社の松本君。

で、仕事中の松本君の事務所に押し掛け、一人でワインを飲みながら(松本君も一杯だけつきあってくたが)勝手にべらべらしゃべって帰ってきたのだった。しゃべりながら思ったのだけど、僕にとってこの2年間はほんとに短く、何か2ヶ月くらいに感じているのだった。

松本君は夕方子どもの迎えがあるとかでそこで別れ、帰ってきていつも通りの夕食。でも食べ終わった後うたた寝したらしく、今(11時半)起きた。内容は結局エッセイみたいな論文になったが、とにかく提出できてよかった。

トロオの尿は150グラム。

●1月7日(火)

今日も論文。といっても、今日は校正に費やした。読むだけで5時間もかかった。はっきりいってもう飽きたよ。ナルシストの僕だが、こう毎日毎日自分の文章のチェックはしんどい。明日提出の予定。

夕方、久しぶりに電車に乗って梅田へ。といっても、気になる文献を買いにいっただけ。速攻で折り返して帰ってくる。所要時間1時間。

文献といったって、それはシェイクスピアの『ハムレット』なんだ! 「The time is out of joint! 時間はその蝶番が外れてしまった!」というハムレットの名台詞があって、それをドゥルーズが引用しているから確認したかっただけ。ドゥルーズはそれを自我の崩壊の肯定に結びつけている。

また変なこと書いた。トロオの尿は150グラム。

●1月6日(月)

今日もすべて論文。論文はまあなんとかなりそう、というかなんとかする。しかしこの日記もこれだけ変化ないとつらいなあ。

だってこの10日間、知り合いの誰とも会ってないし、そのあいだは3日に1回くらい電話でしゃべっただけだもの。

そういえば今日から向かいの銭湯が営業再開(なんてのんびりした風呂屋だ)。冬、家の風呂は寒くてのんびりできない。今から伸ばし放題の髭を剃ってこよう。

トロオの尿は150グラム。

●1月5日(日)

今日も延々論文。あと2日!

夜は今日も『レディ・ジョーカー』。下巻の半ばにもなるとさすがにおもしろい。

ひきこもり系の本で『ようこそNHKへ』(『NHKへようこそ』だったかな)という傑作小説があり、その作者はたしか滝本某という人だったはずだけど、その滝本氏は「脳内恋人」というステディがいるらしい。

で、『レディ・ジョーカー』を読んでいて、そこに出てくる合田刑事はめちゃくちゃ(枯れていて)かっこよく、これこそ作者・高村氏の脳内恋人と思ったのであった。脳内恋人にここまで入れ込み、ここまで造形できるのはすばらしい。

という、ちょっとみなさんが引くかもしれない感想を抱くほど世間離れしている僕でした。トロオの尿は150グラム。

●1月4日(土)

朝から夕方まで論文。6時半になって頭が麻痺したので買い物。豚しゃぶ。で、それを食べながらまた『レディ・ジョーカー』という数年前のミステリーを読む。よく考えたら起きてる間中、本を読んでる。猪木祭を見るとかいいながら、実はここ最近はずっとこんな生活。映画がかったるくなったのは年のせい?

トロオの尿は150グラム。この仙人生活もあと3日だ!

●1月2日(木)

午前中はいつも通りだったが、午後からは何となくやる気出ず。これは予想通りの停滞がきたなと諦め、買い物に。案の定、町はいつも通り機能しており、ふらふらとCD屋へ。正月なので、当たり前だが年末と品揃えは変化なし。で、ふらふらとASA-CHANG&巡礼というグループというかソロというか、それのアルバムを購入した。パーカッション・アルバムと期待したが、ポエムリーディングみたいなのが多く、いまいち乗れなかった。

そういえばこの前、ジョン・コルトレーンの『至上の愛』特別2枚組バージョン(2枚目はライブ盤)も購入していて、それはヒットだった。初めてコルトレーンがかっこいいと思った。

トロオの尿は155グラム。超停滞の1日だった。停滞ついでに、中居の『白い影』でも見ようかな。

●03年1月1日(水)

みなさんどうも、あけましておめでとう。気分的には全然おめでたくないが、やっぱ正月くらいと、昨日買ったカブと餅の雑煮を作る。お酒も飲もうかなと思ったが、何か不吉な予感がしてメールを覗く。すると、数日前に送った論文に対しての、大学の先生からの優しくも厳しいチェックメールが!

で、気づけば夕方までいつもの作業に費やしたのであった。で、いまは頭がぼんやりしてしまって、やけになって「筋肉番付」を見ているのだけどまったくおもしろくなく、跳び箱のクォリティーも例年より低く、トロオの尿を出したのであった。165グラムだった。

メールをいただいたみなさん、返事を書く余裕がありませんが、ありがとう。それにしてもきちんと論文を書けば書くほど(まあそんなたいしたことない内容だが)これを読む人の数が制限され、また「ゆるく」書いてしまうと論文にならないので、何か一人板挟み状態だ。

●12月31日(火)

今日も論文で終始。夕方、なじみのスーパーに行くと超激混みで、値段もいつも以上に高かった。ブリなんて、2切れで800円もした。僕は、安物のカレイと鯨肉を購入。カレイと大根の煮付け、鯨肉を徹底的に洗って刺身、あとはカブの甘酢漬けと、小松菜の煮浸しと納豆。今日は食べ過ぎた。

さあ、トロオの尿を出して、銭湯に行って、猪木祭りを見て、中島みゆきを見よう。今年もみなさんありがとう。

そういえばさっきスーパーで話した会話が4日ぶりの人との会話だった。「この餅、何日もつ?」みたいな会話。まあでも、多くの人は年末実家に帰ったりして、ホームページなんか見ないんだよな。僕は一昨年・昨年以上の変な年末。

●12月30日(月)

やっと、論文の結論にまで到達した。延々170枚書いて、まあこんな単純なことをいうために夏から延々がんばってきたのか、とやっと気づいた。

でも、最後の数行は、自分でもびっくりするほど、「ああ俺はこれがいいたかったんだ、こんな単純なことが」と、ひとりつぶやいたのであった。

そのいいたかったこととは、「君は発狂してもいいんだよ」ということだった。

トロオの尿は150グラム。

●12月29日(日)

今日も5時まで論文書き、そのあとだらだら買い物に。

買い物から帰り、妙な動きをする猫が1匹いた。僕はどきどきしてその横を通り過ぎた。

そしてすぐにその猫のことを、たとえば「おなかが大きかったから妊娠していたのか」、それとも「ちょっと後ろ足が不自由なようだったからトロオと同じで事故にでも遭ったのか」などとと考えた。

で、気がつけば重い気分になっている。

この重い気分が、当事者や「専門家」たちによってだんだん整理されてくると、それがトラウマになるのだろう。

でもそんなのになる前は、単なるどきどきした(この「どきどき」というのも今思いついた副詞だが)精神的流れだった。この、「そのときの気分」はなかなか言葉にはならない。ドゥルーズはそれを「傷」とか「出来事」といっていて、僕はそれを言葉にしようとがんばっているのだけど……。

日記にまでこんなのを書くなんて、ね。さあトロオの排尿作業をしよう。

●12月28日(土)

さあ、論文だけの10日間となった初日、夕方5時までがんばったが、結局、新しい箇所は3行しか書けなかった。その他はこれまでの修正に費やした。

ここにきて思うのだけど、ドゥルーズって、超いいかげん。68年の『差異と反復』『意味の論理学』の頃はアルコール依存症生活だったというのが定説だが、それもわかる。同じことの繰り返しばかりだし、ここっていうところでは、はぐらかされるし。システム論にしろラカン論にしろ、いずれも中途半端な印象。

これは、ただの酔っぱらいだったのではないだろうか。だから今日も僕は、ちゃんとしたコメントを求めて上の2書を漁り読んだのであった。ポストモダンなんて、もう流行らないのに。今は、カルチュラル・スタディーズとか、ポスト・コロニアルさえ古くなっているらしい。でもそのふたつは何か安直で、やっぱ僕はポストモダンがかっこいいと思う。

自分の文章をを読み返してみて思ったが、僕自身同じことばかり書いてて、超陳腐な論文になっている。でもこれが今の実力。変な生活。

トロオの尿は150グラム。

●12月27日(金)

今日で今年の仕事納め。明日からは、恐怖の論文ひとり地獄が待っている。誰とも会わない、実家にも帰らない、何の約束もない10日間を僕は設定した。

で、この頃やっぱり僕は自分のことをじっくり認識したのだけど、僕って寂しがり屋というのは事実だった! こんなこと、38のおっさんが書くのはあまりにもあれなのだが、まあこの際書いておこう。

でも不思議と、寂しがり屋でありながらそれほど落ち込んだりしない。ポジティブな寂しがり屋みたいな。

トロオの尿は160グラム。

●12月26日(木)

さっきプラッツの日記にも書いたのだけど、今日は、プラッツのメンバーの誘いで高校生のダンス大会みたいなものに行って来た。

場所は高槻。1000人くらいのホールが満員だった。

曲はほとんどがヒップホップで、参加者はほとんどが女生徒。最初はずいぶん引いてしまったのだが、ずっと見ているうちに引き込まれてしまい、演技が終わるたびに拍手する自分がいた。

その、完成度からははるかに離れた演技性と、過激なヒップホップ音楽と、身体でのみアピールするそのジャンル性に圧倒されたのであった。へたな、プロのロック音楽よりはるかによかった。声より身体のほうが迫力あると、初めて思った。

トロオの尿は140グラム。

●12月24日(火)

午前中、京都の洋書屋へ。ドゥルーズの『意味の論理学』と『ベルクソニズム』の原書を買った。この洋書屋は知る人ぞ知る、仏語と独語の人文専門店だが、日曜祝日は休みだし、平日も5時で終わる。

午後から訪問。某青年とワイン&ハム。僕はここ数年、クリスマスイブはこの訪問先の青年と、1年に1度だけのお酒を飲む。で、しみじみ語る。しかし、クリスマスイブはどんどん地味になっている。90年前後に比べたら、「性夜」が「静夜」に変化した感じ。

トロオの尿は150グラム。

●12月23日(月)

昨日この日記を書いたのは夜8時過ぎだったのだが、それからなんと、トロオが数年ぶりの超大下痢になってしまい、掃除してきれいにして洗って消臭剤をかけて、掃除してきれいにして洗って消臭剤をかけて、掃除してきれいにして洗って消臭剤をかけて、やっとおさまったのだった。あれは何だったのだろうか。夜におやつで与えた天然ハマチの刺身がちょっと冷たかったくらいしか原因は考えられない。そんなハマチなんか与えるのがだめなのかしら。

今日は1日中論文。ほんと、朝の9時から夕方の6時まで、延々論文に向かった。それでも400字詰めで6枚くらい書いただけ。けど、かなり燃えた。トロオの尿は150グラム。便は、昨日の下痢がたたってか、出なかった。明日が怖い。

●12月22日(日)

昨日は「デビューネット」という、月に1回のひきこもりを考える集まりがプラッツであり、昼間、軽い忘年会を開いた。ところが、それから僕は延々飲み続けてしまい、夜は回転寿司、十三のホームでチューハイ、帰っても焼酎のお湯割りと、延々12時間も飲んだのであった。トロオの排尿作業は夜中の1時過ぎに行なった。何グラムだったのかも忘れてしまった。

で、今日はすさまじい二日酔いになった。また、いろいろ考え込んでしまった。こういう時は、NHK教育の将棋番組をぼぉーっと見る習慣がついている。解説は加藤9段で、彼の熱い解説を見ているうちにポジティブになった。

●12月20日〈金〉

午後より大学、夜は大学の研究室で忘年会。

修論は、もう20日もすれば終わりになる。最近、この時間が終わるのがすごく寂しく思ってきた。僕は今38才で、わりとここ15年、仕事のことばかり考えてきた。でもここ半年は修論のおかげでそういうのから解放されていて、それがもう20日で終わる。

こんなのがこの先5ヶ月あればそれはいやだけど、あと20日は寂しい。トロオの尿は160グラム。

●12月18日(水)

今日も朝論文、午後より訪問。

論文はやっとブレークスルーしたっていう感じが来てて、でもこんなふうに何ヶ月も考えてきたことに対して光が射したとき、そのときは鳥肌がたつほど一人で感動してるんだけど(ちょっと変)、夜になるとなんとなく重い気分になる。

明日から書くぞーって思うと元気は出るけど、なんとなく重い。20年前のことなんか思い出したり。

トロオの尿は160グラム。さっき、11時過ぎなのに吐いた。せっかく「関のイサキ」の刺身をサービスしたのに。この頃トロオはいいもの食べ過ぎ。というか僕が与えすぎ。

●12月17日(火)

午前中論文、午後より訪問。

さっき風呂屋でニュースが流れていて、若者6人に息子を殺された母親のインタビューが映っていた。母親は、「(加害者が直接)謝罪してくれなければ傷は癒えない」と泣きながら語っていた。それはそうだと思う。

だがこの頃考えるのは、「心の傷(つまりトラウマ)」と「被害」は違うのではないかということ。心の傷を受けた/与えたことと、被害を受けた/与えたことはまったく違うレベルのような気がしている。

「被害」のレベルでは、明らかに法的あるいは社会的に取り組むべきだと思うが、「傷」のレベルでは、まさに相互主観的で、ある事件があったとして「傷」を受けていないと思う人はいないのではないか。たとえば家庭内暴力の場合、「被害」のレベルでいうと、加害者と被害者ははっきりと区別できるが、「傷」のレベルではどちらも傷ついている。ひんしゅくをかうかもしれないが、これは殺人事件にもあてはまるような気がしている。

だから、「被害」のレベルではきちんと加害者を糾弾し、「傷」のレベルでは、被害者だろうが加害者だろうが傍観者だろうがその傷を負った体験とその人自身を尊重しなければいけないと僕は思うようになった。ずいぶん抽象的だけど。

トロオの尿は140グラム。

●12月16日(月)

午前中論文、午後からは延々『心的外傷と回復』(ハーマン)を再読。気づけば夕方。

田舎の母親がハム等を送ってくれたので電話する。なんか知らないけど、この頃僕は、自分がすごく楽になっていて、母親に対して友人と話すように電話できるようになった。思い起こせばこういうことはなかった。自分の昔のこと(たとえば中学とか高校)なんて、母親とともに振り返ったことさえなかった。38才にして本格的なマザコン?(父は3年前に死んだ) 変な感じだ。

トロオの尿は160グラム。トロオはこの頃、朝食がついに、10年かけて、深夜12時台にまで遡った。だから朝8時頃に鰹節とごはんのおやつ(おやつというかこれが正規の朝食か)を食べる癖がついている。その結果、午後2時くらいにウンコした。よく考えたら、1日中トロオといっしょにいる。

●12月15日(日)

1日中論文。書いても書いてももどかしく、こうやって、論証できる文献を求めて延々さまようよりは、びしっとエッセイで暴言を吐きたい。または、べたーな小説(これは趣味だけど)を早く書きたいよー。

夕方、ぼぉーっとした頭で本屋へ。そういえば来年の手帳がなくてそろそろ不自由していたことを思い出し、いつもの「2週間予定手帳」を探したが、今年はいいのがない。で、端っこのほうにあった「新・『超』整理手帳/by 野口悠紀男」をついつい手に取ってしまい、新しいもの好きの癖が出て、ついつい購入。

この手帳、8週間分の項目がA4にまとめられており、それか裏表あるから、要するにA4の紙が6枚(再来年の春まである)挟まれているだけの代物。それで値段が1300円以上した。で、驚いたのは、野口マニアたちによるメール等の批評を参考にして、毎年バージョンアップされていること。

手帳よりも、それに添付されている解説書が格段におもしろい。余裕ある人は手帳コーナーで是非手にとってみよう。ただ、ビニールパックされているので中身がわからないのだが(それで僕は買ってしまった……)。アホらしい。

トロオの尿は150グラム。

●12月14日(土)

1日中プラッツ。今日は親の会もあった。そこで非常に深い話ができた。

トロオの最新写真をアップ。間抜け顔。そろそろ年賀状のシーズンで、年賀状といえば子どもの写真を臆面もなくプリントしたものが毎年いくつもやってくるが、まあ僕にとっての、このトロオ写真を見てニタニタしてるのと同じなんだろうな。

しかし、猫はかわいいけど、赤ちゃんは僕にとって全然かわいくない。赤ちゃんは、生後すぐに我々人間界の掟(それは主に言語で囲い込まれる)に組み込まれ、親という他者を真似ることで自己を形成する。他者との出会いが自己形成の出発であり、そこからそもそも他者と自己のズレが始まる(乳をほしいときに乳は与えられず、乳の知覚的満足と乳いうイメージがズレることで「欲望」というものが生まれる)、なんて、ラカンのパクリ。

猫はそんなややこしいメカニズムはないもんね。トロオの尿は150グラム。

●12月13日(金)

大学で修論の発表。レジュメをつくる時間がなく、だらだらと100枚以上書いたのをそのままコピーして配った。3人の先生も揃い踏みで、かなり緊張。

トラウマがテーマとはいえ、理論的な内容なので、つまらなそうな人も。なんか、自分の趣味を100%開示してこうして1時間以上も時間をいただくのが申し訳ない。でもまあそんなものなのかも。

帰り、珍しく異常に疲れている自分に気づいた。トロオの尿は160グラム。

●12月12日(木)

1日中プラッツ。

プラッツの流れで、ナンバのタワーレコードに行く。大友良英という人のジャズアルバムを購入。僕も最近知ったのだが、日本のミュージシャンの、いわゆるジャズ系がいちばんおもしろい。たとえていうなら、キング・クリムゾンの、3期直前の「アースバウンド」期みたいな、破滅寸前のノリがある。

トロオの尿は150グラム。

●12月11日(水)

今日も、朝は論文、午後より訪問。

僕は四国出身なので30才前まで知らなかったのだけど、関西弁に「いきり」というのがある。かっこつけすぎでつっぱってるやつ、みたいな意味だけど、もうちょっと微妙なニュアンスがあるみたい。

で、いつのまにか僕自身が「いきり」になってたような気もしていて、最近かなり反省気味。元ジャックスの早川義夫のアルバムに、「かっこいいことは、なんてかっこわるいんだろう」というのがあって、僕は高校時代からそういうのにだけはならないように注意していたのだが、いつのまにかこんなことに。

でも、早川のアルバムを実は僕はまだ聴いたことがなくて、こんなのが「いきり」なんだろうな。

●12月10日(火)

朝論文、午後より訪問。訪問は久しぶりだったので、いまいち自分の調子が出なかった。人と濃密に出会う仕事は、あまり間隔をあけてはいけないのかもしれない。

知り合いの青年から以前より推薦されていた『リアル』(井上雄彦作/集英社)という漫画を読む。車椅子バスケットもの。最近の障害者ドラマ(たとえば『ビューティフルライフ』)の流れに沿ったもので、この漫画も、差別構造をいわゆる脱構築していた。

たとえば、ボールを取りに行こうと思って車椅子で突進すると、車椅子に乗ってない人(まあ健常者)はそれがかなり怖く感じるらしい。だからその健常者の人が「車椅子は反則だ」と注意する。すると、「シャキール・オニールの鋼鉄のような身体と、この鋼鉄のような足(車椅子のこと)とどこに違いがある?」と主人公が反論する。すると一瞬、人物たちの価値観が宙づりりなる。

といって名作ではないと思う。どうせなら、もっと本気で連載しなくっちゃ。それこそ車椅子ものだから中途半端な連載なんだって、僕は思ってしまうな。はやく『バカボンド』をやめよう。あんなのはNHKの大河ドラマにまかせよう。

トロオの尿は155グラム。

●12月9日〈月〉

あまりに惨めなホームページだという感想を受け、デジカメでトロオを写してせめて写真くらい、と思ったのだけど、デジカメの電池が切れていた。僕のデジカメの電池は、30分くらいで切れる。最近のはもっと長持ちするのだろうか。

午後から大学。仏語演習。ドゥルーズの『差異と反復』。僕に当たっていた。ちょうど自分の修論と同じテーマの部分だったので、それほど苦ではなかった。授業の後、しみじみと社会人院生同士で語った。

夜は『機動戦艦ナデシコ』のDVDを見る。知り合いの青年が貸してくれた。完璧なオタッキーアニメだが、それを見て夜中の1時にげらげら笑っているのは僕です。トロオの尿は170グラム。

●12月7日(土)

 昨日に引き続き、プラッツのK塾長とともに1日中講演。今日はIスタッフも合わせて、ロールプレイなども。だんだん我々3人のトリオは、絶妙のコンビネーションを発揮し始めた。

 今日は時間がなかったので調べなかったのだが、なんとなく、このホームページのカウンターを表示するのもどうでもよくなってきた。カウンターなんて、主催者以外は誰も見ていない。1日何十人も見ていただけるのはそれはうれしいけど。この頃、いままでずっとこだわってきたいろいろなことがどうでもよくなっている。ただでさえ、いろいろなことがどうでもいいのに。

 トロオの尿は130グラム。

●同じ日の夜(金)

 プラッツのK君と僕とで某所で講演。無難にこなす。

 いやあ、それにしてもこうして日記を書くと落ち着くなあ。日記っていったって、ほんとの日記とネットの日記はまるっきり違う。ネット日記は従来の日記とは全然意味が違うので、日記という名称自体、嘘なのだが、僕の場合自分だけに語る文章というのは苦手みたいだ。だいたい文章なんて、自分だけに語ることのほうが間違ってる。

 おまたせしました、トロオの尿の量も報告できる日が再びやってきた。今日は寒かったので180グラム。写真はもうちょっと待って。

 論文も全然すすまなかった。でもパソコンが一度壊れてしまったら、論文もどうでもよくなってきた。

●12月6日(金)朝

3日前、無惨にもアイマックがクラッシュし(モニターがいかれた)、ごらんのようにホームページもまたはじめからやりなおしとなった。

で、この日記の愛読者のみなさんならご存じの通り、僕は今修士論文の追い込み中なのだ。締め切りは1月9日なのだ。

だから、パソコンなしではどうしようもない(手書きでやったら? というアドバイスも何人かにいただいたが、コピー&ペーストの快楽を知った今、そんなことはできん)ので、買いましたよ僕は、ノートパソコンを。

しかもこりずにまたもやアップルを! そう、ついに僕もアイブックを手に入れたのだ! レベルがひとつ上がった!

しかし、この日記の空白が気になって気になって、論文にはどうしても手がつけられない。だからさっきからやり直しているのだが、どうしてもカウンターとリンクできないーっ!

せっかく4年かかって25000件くらいになってたのに(正確な数忘れた)。

ニフティからもらってるカウンターアドレスとリンクするだけじゃダメだったのかしら。誰かヒントを教えてください。