中心からのズレによる精神障害者差別
(『キッド』74号より)
「第2次湾岸戦争」ではなく「イラク戦争」。このネーミングからもわかるとおり、今回の戦争はベトナム戦争に近い。侵略する国はアメリカであり、侵略される側の国名が戦争名として名付けられる。これは懐かしい「(植民地主義の具体的展開としての)帝国主義
imperialism」的戦争だ。対して、湾岸戦争は、アメリカ・国連等の国際組織・その他国民国家・多国籍企業・大メディア・国際的NGOがすべてが賛成した(つまり反対するもののない)戦争だった。アメリカの派兵はそれらすべてをひっくるんだ組織たちから「世界の警察」として要請されたものだった。
「侵略する/される」という前者は、その根底に、2項対立的な「内部と外部」を線引きするという思想がある。対して、「すべてをひっくるんだ」後者には「外部」がない。しいていうとそこには、グローバリゼーションの主をなす白人エリート主義らしいものが中心にある。この後者的あり方が、今話題の「〈帝国〉
Empire」だとネグリとハートはいう(『〈帝国〉』水島他訳・以文社)。帝国主義と〈帝国〉でわかりにくく、各メディアは混同して伝えているのだが、要するに帝国主義は「内と外」を2項対立的に分ける(その結果の植民地主義・イラク戦争)、〈帝国〉は「すべてが内部」あるいは「もはや外部はない」(その結果の湾岸戦争)という違いがある。この違いはそのまま、近代と脱近代(ポストモダン)の違いに対応する。『〈帝国〉』という本の基本的主張は、現在の世界が、近代からポストモダンへ移行中の世界である、というものだ。
さて『キッド』で今回書きたいのは戦争に関するエッセイではなく、『〈帝国〉』で紹介されていた、「2種類の人種差別」という議論から思いついたことに関してだ。その2つは、a生物学的差異を元にした人種差別と、b社会的文化的差異を元にした人種差別の2つを指す。ここでも、aの生物学的差別は近代の差別に、bの社会的文化的差別はポストモダンの差別に対応する(このあたりは『〈帝国〉』第2部6章を参照。紙幅上引用はしない)。
aはたとえば「黒人と白人は生物学的に本質的に異なっており、白人という種のほうが優位である」という立場。従来、人種差別といえばこれを指す。この背景には冒頭で書いた、「内部と外部」を2項対立的に区別する近代的発想が横たわる。この場合、内部は白人を、外部は黒人を指す。内部から見れば黒人は本質主義的に絶対的「他者」であり、ラインの向こう側の存在だ。まずこのように近代的発想は外部という「他者」を創造する。同時に、白人といってもさまざまな(経済的・言語的・民族的等の)差異を抱えるにも関わらず、白人という「同一性」として内部が形成される。外部/他者の創造と、内部での同一性、つまり「他者」と「同一性」が近代的人種差別の背景にある。
これに対し、bの人種差別には外部がない。すべての差異は肯定されている。黒人であろうが黄色人種であろうがそこには生物学的的本質主義はなく、それらの違いは違いとして内部におかれ続け、外部には放り出されない。要するに外部はない(他者はいない)。その代わり、それら差異間のズレが差別を生み出す。ネグリとハートが挙げる例は、アフリカ系アメリカ人とアジア系アメリカ人の間にある差異だ。適性検査において、アフリカ系アメリカ人の生徒はアジア系アメリカ人の生徒に比べて一貫して成績が低い。このことが、アジア系アメリカ人の「文化」がアフリカ系アメリカ人の「文化」より優れているとされ、後天的な文化のパフォーマンスの差異を元に差別が発生する、とされる。
そうした理論を背景として、さらに、「中心的なものからの差異/ズレ」の度合いにより、差別は実践される(外部/他者はなく、すべては内部で行なわれる)。もちろん〈帝国〉の人種差別議論において“中心”をなすのは「白人」であり、より具体的には「白人の顔」という中心的概念または規範からのズレの度合いにより差別の実践は決定されていく。このように、〈帝国〉の世界(つまりは我々の社会がそこに踏み込みつつある世界)は一見「文化多元主義」などと呼ばれてはいるが、その実、その文化に基づいた差別が発生する。内部と外部、他者と同一性はなくなっても、階層秩序は残存され拡大されている。
『〈帝国〉』でいわれる「白人の顔」をそのまま、「社会の規範」へとスライドさせてもいいと僕は考える。たとえば不登校問題に関する「白人の顔/中心」は、もちろん、「学校に行く」あるいは「健康」であることが「正常」という規範だ。これが“中心”にある。我々の社会がいくぶんポストモダンに突入しているのならば、この中心規範からのズレがそのまま差別に直結する。たとえば僕は、一時フリースクールの人たちが多用した「不登校は病気ではない」という言葉には明確に差別が含まれていると感じるが、これは〈帝国〉的差別からみると問題がクリアになる。つまり、中心に「学校に行く」(および「健康」が正常)という規範がある。そこからのズレとして不登校が捉えられる。そこからのさらなるズレとしてたとえば精神障害がある。ここでは不登校も精神障害も本質主義的差異ではなく、社会的文化的差異として捉えられてはいる。しかしこれらの差異は差異として固定されており、加えて、“中心”が設定されており、そこからのズレの度合いが測られる。
「不登校は病気ではない」と唱える人にとって、病気(精神障害)とは生物学的で本質主義的な差異ではない。仮にそうしてしまうと、精神障害という「他者」を形成し、見えやすい近代的差別(上記aの差別)となるので、そうはできない──そしてこうした近代的差別を回避するのは何もフリースクール派だけでなく、差別が表向き全否定されているこの社会全般で共有される。こうして近代的差別は忌避されるが、残念ながら、bのポストモダン的差別へと移行してしまう。中心を「学校/正常」に設定し、そこからのズレ具合で差別が実践されていく。不登校だろうが精神障害だろうがそれはそれでそのまま差異として肯定される。しかしその差異がそのまま固定化され、“中心”からのズレの度合いによって差別が実践される。精神障害というあり方はあってもいい、けれどもその中心からのズレ方は、不登校の中心からのズレ方よりも大きくズレている。だから正確に両者の中心からのズレの距離を測るべき、といった感じだ。
これはまた、「ひきこもり」関係者の一部に、精神障害と診断されることを避けたり生活保護に抵抗を示す傾向もある、ということにも対応すると思う。この場合ももちろん、精神障害や生活保護は「外部/他者」ではない。そうした生そのものは社会の内部の中で社会的差異として肯定され位置づけられる。しかし、ここでもまた、“中心”(この場合も「仕事」や「健康」と言った数々の「正常」規範の複合)がとりあえずあり、そこからの距離を測ることによって差別が実践されていく。
このように、「外部と内部」「他者と同一性」に基づいた2項対立的な近代的差別は明確に否定されながらも、「社会的文化的差異」と「(外部のない世界における)“中心”からの距離」に基づいたポストモダン的差別が珍しくはない、というのが現代社会だと僕は思うようになった。ここでは例として、僕にとって身近な不登校と「ひきこもり」を挙げたが、この2つのジャンルに関して僕自身、ポストモダン的差別に陥っている可能性もあるかもしれない。それは自分ではわからない。たぶん他人とのコミュニケーションの中でいずれ明らかになるのだろう。または何かの出来事に遭遇した際の自分との会話の中で。いずれにしろそのとき、差別のようなわけのわからないものを発動してしまう「敵」は、自分の中に抱え込んでしまった(そんな思考回路をもつよう時代や社会や家族によって要請された)「概念」というものではないか、とこの頃僕は考えるようになった。つまり、「概念」は敵になる場合がある。だから今回のような抽象的な「概念の分析」は、敵を浮かび上がらせる作業としてそれなりに意味はある。★