「やりがい」という魔法
書評――『働く過剰』(玄田有史著/NTT出版)
田中俊英
「日本労働研究雑誌」06.2〜3月号(雑誌掲載時に少し修正が入ったのですが、ここでは原文のほうを流します)
●「分析」と「当事者へのエール」
玄田有史氏の新刊『働く過剰』には、さりげなく散りばめられたあるひとつの言葉がある。その言葉――「やりがい」は、これからの氏の言論活動を読み解く上で重要な概念だと予想する。当評でそのことが示唆できれば幸いだ。
本書で氏は、専門の労働経済学をベースにした調査分析を一方で緻密に展開している。また一方では、多くのNPO支援実践者との出会いの中で培い、それに氏のシンプルな価値観を加えた形で当事者たちへエールを送る。このふたつの、「分析」と「当事者へのエール」というスタイルは氏独自のものだ。
「分析」において、氏が研究会委員長を務めた内閣府の調査をはじめ、いくつかの政府系調査を精密に読み込み、それを我々一般読者にわかりやいく提示してくれている。その結果読み手に伝わってくるのは、たとえばニート問題でいうと、「『ニートは甘え』等の一般の風説はデータを見る限り、現在においては誤っている」といった、親や若者たちへの暖かいメッセージだ。
「当事者へのエール」については(これもニート問題を例にとろう)、まず、「仕事」に対して頭でっかちになりすぎているニートの若者たちに発想の転換を提案する。たとえば、社会の「コミュニケーション・スキル」の過大評価傾向に対して、「コミュニケーションの本質とは、一件逆説的に聞こえはするが、むしろ理解しあえない、伝わらない、交われないことを自覚することであり、さらにはそのなかで『なんとかする』ことができる人物こそ、コミュニケーション能力が高いのだ」(242頁)と価値の角度転換を明確に示す。このように、日常生活での細かな価値観や行動の変更を、実直に地味にエールし続けることが玄田氏の魅力の一つであることは間違いない。
そこには安直な結論も述べられることはなく、ある意味、「社会システムに問題はあるし、個々の努力も必要だし、情報の整理提供も必要。でも、自分(玄田)にできるのはここまでで、あとは行政も含めた社会全般でやっていくしかない」的“投げだし”感も漂う。そうした憶測はさておき、現実に国の政策レベルに氏の言説は一定の影響力を与えているのは事実だろうから、ここでの、「分析」と「当事者へのエール」という2大手法は結果として力を持っている。
●「希望」ではなく「求職欲求」
「分析」と「当事者へのエール」が渾然一体となったその一連の論理展開の中で、最近の玄田氏に顕著なのが「希望」という言葉だ。氏の勤務先である東京大学社会科学研究所では「希望学」プロジェクトがスタートしている。この背景には、経済階級格差の拡大もあるといわれる。
世間一般では、普通、「希望」と仕事に関して、「希望があってこそ仕事ができる。希望を若者たちから奪っている社会には問題がある」的な意味合いで使っていることだろう(たとえば『希望格差社会』山田昌弘著/筑摩書房)。僕はてっきり、玄田氏も同じような一般的な意味で「希望」を使っていると思っていた。けれども本書を読んでみてわかったのは、「希望」に対して玄田氏はそれほど一般的意味は持たせていないということだ。
真面目に「希望」を掘り下げて考えると、そこには大きな罠がある。希望とは、ポジティブなようでいて非常にネガティブな意味も含む言葉なのだ。どういうことかというと、希望が含む一つの意味、つまり「未来へ向けて今をがんばる」的意味は、よくよく考えると、今よりは未来のほうを優位に置いている。今をがんばり辛抱すると、何かよいものが未来に到達する。その未来があるからこそ、今を奮闘することができる。ということは、未来に夢を設定している限り、今はずっとその未来を越えることはないということでもある。
皮肉なようだが、希望を強調するということは、その希望(未来=夢)に到達していない自分を、何らかのかたちで常に意識させられてしまうということである。希望を持て、と鼓舞されるたびに、いつまでたっても未来に届かない自分が小さく感じられてしまう。社会が自分たちから希望を奪っていると説明されたとしても、希望という言葉そのものには、現在への自分に対する否定感が常につきまとっている(といふうに感じられる)。よって若者たちは、あえて「希望がない、夢がない」という心理メカニズムを獲得することによって、現在の自分を何とか肯定しようとする。
しかし「希望」は、よく考えるともう一つの意味を含む。それは、「生きていること」「存在していること」の肯定のようなものだ。そこには「未来=夢(その裏返しとしての現実否定)」はない。だから現在への抑圧もないが、とりあえず自分が生きていることに対する肯定のような意味が含まれている。この意味で「希望」を捉えると、非常にポジティブな意味となる。たぶん、未来や夢への志向のずっとずっと「手前」に、この「生の肯定的」意味が希望にはあったのだろう。
普通は希望についてこんな二律背反的なややこしいとらえ方はしない。けれども僕は、ニートやひきこもりの青年への支援活動を通して(淡路プラッツは大阪でそうした支援活動を始めて15年目を迎える)、希望という言葉に対する青年たちの複雑な反応を見るにつけ、単純に、「社会システムの改善→希望の回復→雇用の拡大」という図式は描けない。
希望は、時として青年を傷つける。そして同時に、青年を救う。たぶん、現在を否定される気がするという意味で希望は青年を傷つける。だが、その存在に光を当てる、つまり生を肯定してくれるという意味での希望に青年は助けられる。僕は自分の支援の仕事において、後者の意味でのみ、希望を使用している。また、未来に絶望しながらも、現在自分がとりあえず生きていることを肯定しながら仕事を続ける青年も少なからず存在する。
話はまわりくどくなったが、本書を読んで、玄田氏は「希望」をかなり限定的に用いていることがわかった。それは、本書の6章から8章にかけての詳細なニート分析であっけらかんと説明される。氏は、ニートを「非求職型無業者」と「非希望型無業者」に分ける。両者とも行動として求職活動をしていない。では何が違うのかというと、就業についての「希望」を持っていないことが「非希望型」とされる。
これは本書の白眉とも言える4章においても同じだ。同章では、成人に対しての、小6時と中3時の「職業に関する希望」を聞き、その結果を基に分析している。
このように玄田氏は、希望というものを、明確に「就業希望」「職業に関しての希望」とする。希望を一般的風説としての「未来への展望」でもなく上に書いたようなややこしい捉え方でもなく、単に「どんな職業を求めているか」「働くことを求めているのか」という意味合いで使っている。厳密に言うとこれは希望ではなく、「求職欲求」という意味だろう。求職欲求があり求職行動をしている者が従来の失業者、そしてニートには、「求職欲求があり求職行動をしていない者」と「求職欲求がなく求職行動もしていない者」の2種類がある、と言い換えるほうがわかりやすいとも思う。玄田氏は、通常の一般的意味合いにおける「未来=夢」として希望を語ってはおらず、より「求職欲求」という特化された意味で希望を使っている。これは、我々読者としては、ある意味救いである。
●「やりがい」という魔法
なぜか。先ほど4章が本書の白眉と書いた。その白眉という意味合いがより凝縮された一文がある。ここで玄田氏は、希望ではなく、別の概念を懸命に伝えようとしている。上に書いたように玄田氏は「求職欲求」という意味で希望を使っている。以下の引用文中の「希望」を「求職欲求」に変えて読むと、玄田氏が結果として何を浮き上がらせているかがよくつかめるだろう。
多くの人にとって重要なのは、希望が実現しないとわかった段階で、状況に応じて適度に希望の方向性を修正していくことだ。それができれば、仕事のやりがいに出会う機会も増えていく。(116頁)
希望=求職欲求の実現が重要なのではない。調査によれば、小さい頃求職欲求を抱いていた者は、その後ついた職業に「やりがい」を感じることができている者が多いらしい。もちろん、求職欲求がなかった者も、その後「やりがい」を見つけることができている。また、当初の求職欲求が挫折したとしても、その挫折の経験の中で別の求職欲求が生まれ、結果的に「やりがい」に出会うケースも多いそうだ。このようにして、4章では、希望=求職欲求は、その後発生する「やりがい」の一因子程度の扱いを受けている。4章のタイトルは、「仕事に希望は必要か」だ。しかし、4章を通読すると、希望=求職欲求を隠れ蓑にするようにして、「やりがい」が重要な部分で浮かび上がる。それは時として、「充実感」(114頁)とも言い換えられている。まるで、仕事を続けているうちに魔法のようにして訪れる「やりがい」と出会うための導入部分として、仕方なく希望=求職欲求が扱われているように僕には感じられる。
そうした入り口としての求職欲求を満たすために、最初に書いたコミュニケーション・スキル等に対する価値変更を氏は提案しているのではないか。氏が真に主張したいことは、上の引用部分中にもある「希望(=求職欲求)の方向性を修正していくこと」であり、その修正の中でやがて訪れる「やりがい」=充実感なのだと、本書を読んで僕は確信した。
さらにいうと、たぶん、キーワードは「他者」である。希望=求職欲求の修正にしろ、「やりがい」との遭遇にしろ、すべて「他者」が絡む。前者は、他者との葛藤の中で格闘し、修正し、妥協し、当初の希望=求職欲求が変更されていくという意味で。後者は、まさに「他者の承認」があったとき、我々はその仕事に「やりがい」を感じるという意味で。求職欲求は単なるイントロダクションであり、最重要なのは、他者に巻き込まれる中での自己の変容、そして現在における生の肯定と他者の承認なのだ、と僕は玄田氏のメッセージを受け取っている。しかし、玄田氏は哲学者ではない。「やりがい」とか「他者」の分析に進まないのが氏の倫理なのだ。氏の姿勢に敬意を表し、だから、「『やりがい』とは魔法」程度で僕も議論をストップする。
以上のように考えると、「絶望しながら『やりがい』をもつ」という言葉もあながち矛盾はしないかもしれない。未来にいくぶんかのバカバカしさを抱き、それなりに絶望している。けれども、現在の仕事には「やりがい」を感じている。ここに来るまでには他者との葛藤もありたいへんだった。でも、他者の承認を時々えることができ、時々「この仕事をやっててよかった」と思う。実は、まさに僕自身がそうだし、脱ひきこもり脱ニートになった僕の知り合いの何人かの青年も、そんな気分で仕事をしているように感じられる。★