「自己」をほぐすために

(『月刊少年育成』連載「僕たちのドーナツトーク」2004年1月~4月号より)

この原稿は、当ホームページに掲載している「ルサンチマンとひきこもり」の続編です。

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●ルサンチマンを笑うための「遊び」

 少し前、僕は「ひきこもり」的思考を批判し、その象徴として「ルサンチマン

」という概念をとりあげた。これは、個人の内面において社会の
中心的価値をひっくり返す心理的操作のことだ(たとえば「就職や結婚をするの
が普通」という価値を内面で転覆しそれを恨む)。この思考は人間であれば多か
れ少なかれ誰でも行なうときがあるが、「ひきこもり」の青年たちには顕著にみ
られるようだ。僕はこれを、人生を逆に窮屈にさせるものだとして批判する。
 注意してほしいのは、この批判は単純な「ひきこもり」否定ではないというこ
とだ。根強い「ひきこもりは甘え」等の短絡的な議論は、「ひきこもり」青年の
すべてを否定しているように思える。この場合、「『ひきこもり』=その青年す
べて」という図式を描いているのだろうが、僕の場合は違う。
 僕の論点のポイントは、「ひきこもり」と「その青年の生」をまず区別してい
ることだ。そして、「ひきこもり」とは、ルサンチマンに代表される思考や態度
に覆われた表層的なレベルのものであり、その下には(あるいは潜在的には)そ
うした姑息な思考など関係のない別のレベルが流れている。それが「生」のレベ
ルであり、僕はこのレベルを肯定したいと願っている。「ひきこもり」という表
層的思考を批判し、「青年たち一人ひとりの生」という潜在的レベルを肯定する
という、2重の視点から考えているということだ。
 もうひとつ、ルサンチマンを批判するからといって何も社会の中心的価値(こ
こでは「結婚や就職が普通」)を称揚しているわけではない。僕は、それら結婚
や就職等の「普通」の行動を支えている思考や規範も、ルサンチマンと種類は違
うが、ルサンチマンと同じ表層的なレベルにあるものだと思う。つまり、結婚や
就職を無批判に受け入れその中で生きていくことも、ルサンチマンに覆われた
「ひきこもり」的人生と同じく、より深い潜在的な「生」のレベルを隠蔽してい
るのではないか、ということだ。
 整理すると、表層的レベルとして「普通」やルサンチマンがあり、「ひきこも
り」青年たちはこの層内で“横”の移動(「普通」を否定しルサンチマンにたど
りつく)をしているだけであり、“下”への移動ができていない。下、あるいは
潜在的な層には「生」のレベルとしかいいようのない、身体の躍動とか細胞のう
ごめきとか欲動の強弱があるのみだ。
 もっと単純にこれを、「生きる力」と言い換えてもいいのかもしれない。我々
はみんな、このような「生きる力」を土台としている。その上に、たとえば「普
通」とかルサンチマンが乗っており、それら表層的レベルのものたちは言語等の
強力な武器を携えているせいか、それらの土台である「生」をいつのまにか隠蔽
してしまう。そして我々は、表層的レベル内だけで議論したり悩んだり行動した
りする(ように思っている)。
 だが土台がなければ表層は安定しない。土台である「生」のレベル、「生きる
力」のレベルに気づく、いやそれらを意識せずとも、土台の力によって表層をぐ
らつかせる、その手段のひとつが僕は「遊び」だと思っている。
 遊びには、たとえば仕事と比べて、身体的要素が全面的に現れることが多い。
仕事には、金銭や数字や結果といった、身体的なものを覆い隠してしまう要素が
数多く含まれる。しかし遊びは、たとえば「食べる」「飲む」「しゃべる」「走
る」「聞く」「笑う」等、身体と直結した行動が中心にある。遊びをするために
はもちろんルールもあるが、そのルールは遊びの範囲においては通常極めてルー
ズであり、変更可能だ(逆に遊びが仕事になると、たとえばプロスポーツのよう
に変更が難しくなる)。
 ルーズなルールの中で遊びは行なわれ、そこでは身体が剥き出しになる場面が
数多く訪れる。もちろんどんなに無邪気に遊んでいるときでも表層レベルのもの
たち(ルサンチマン等)は消えてなくなっていることはないだろう。しかし、そ
れら表層レベルのものと同時に、「生」のレベル、身体レベルの躍動が稼働して
おり、時にはそうした潜在的な力が全面展開していることもあるかもしれない。
そんな場面の積み重ねによって、つまりは数限りない「土台」の出現によって、
堅牢な表層が徐々にぐらついていき、やがてはそうした表層のひとつであるルサ
ンチマンを相対化し笑えるようになることを僕は願っている。
 遊びは、生活技術を磨くための場だともよく言われるが(この意味で教育現場
やフリースペースなどに遊びはとりいれられているのだろうが)、僕は、上のよ
うな身体レベルと直結しているという意味で遊びを評価したい。だが今回は、遊
びに含まれる重要な要素──「コミュニケーション」に触れることができなかっ
た。次回はそれを踏まえてより具体的に「遊び」を考える。


●他者をすでに巻き込んでいる「遊び」

 前回は、「ひきこもり」の人たちを支配するルサンチマンの思考を批判し、そ
のようなルサンチマンは表層レベルにあるものであって、もっと「下」には、
「生きる力」としかいいようのない土台のようなレベルがあると指摘した。その
土台/潜在的なレベルでは、我々の筋肉は躍動し、細胞はうごめき、血液が流
れ、欲動(生命のエネルギーのようなもの)が拍動する。僕は、この土台のレベ
ルを肯定しており、そのレベルを隠蔽してしまうルサンチマンのような表層レベ
ルを批判している。
 で、そうした「生きる力」のレベルが無邪気に現れやすいのが「遊び」の中だ
と思われる。ここでいう「遊び」の意味はかなり広くとらえており、「食べる」
「飲む」「歩く」「走る」「飛ぶ」「笑う」「叫ぶ」など、行為そのものに社会
的意味がそれほどない、身体と直結した行為を指している。たとえルールがあっ
たとしても、そのルールの運用がかなりルーズなものだ。
 ルールのない遊びも不可能なのだが(ここでいうルールはもちろん表層レベル
に属する)、ルールから自由であればあるほど、「生きる力」のレベルは出現し
やすいのではないか。
 たとえば、またソフトでいえば、淡路プラッツでは頻繁に草ソフトの試合を行
なっている。そこで僕は外野を守ることにしている。なぜかというと、外野の守
備は単純で、飛んできたボールをただ追いかけ、飛びついて捕球すればいいだけ
だからだ。捕球できなければ転がるボールを外野の奥まで走ってとりにいき、思
い切って内野の誰かに投げるだけだ。
 外野にいると、内野での人々のやりとりはあまり聞こえてこない。ソフトをし
ながらも、僕はソフトというルールから少し自由になっている気がする。打者が
いい当たりを打ったとき、僕の身体は自動的に走り出す。このときいろいろ考え
ると、だいたいは捕れない。何も考えず走り出し、何も考えず手を伸ばしてジャ
ンプすると、時々偶然にもボールが僕のグラブに収まる。呼吸は荒くなっている
のだが、そのことさえ忘れ、ボールを持ったまま走るのをやめる。そんなとき、
ボールを捕った喜びもあるが、身体が流動している感じ、自分が躍動する感じが
確かにしている。言い換えると、「存在=肯定」のような感じだ。この例は少し
大げさかもしれないが、僕としては確実に、この瞬間は言語的表層レベルを忘れ
て土台のレベルだけで存在している気がする。
 スポーツに限らず、瞬間的に訪れるこの「存在=肯定」の感じ、ここを僕は援
助のまさに「土台」としていきたい。ルサンチマンなんかぶっ飛ばしたところに
ある、この生きる力のレベル、このレベルには「否定」は入り込む余地がない。
そしてそのレベルが出現しやすい行為こそが「遊び」だということだ。
 遊びからはまた、「他者とのコミュニケーション」を考えることができる。次
回以降に詳しく展開していくつもりだが、僕は、コミュニケーションには2種類
あると考える。その2種類とは、先ほどと同じ区別、つまり「表層的」と「土
台」の2つなのだが、通常我々がコミュニケーションと言うとき、前者の表層的
コミュニケーションを指している。これはうすっぺらなつきあいという意味では
なく、言語レベルの、「自我」確立以降の、確固とした「私」と確固とした「あ
なた」との交流という意味だ。まあそれほど難しいものではなくて、言葉を用い
た通常の人間関係のこと。
 僕は、こうした通常の人間関係「以前」に、もっと深いコミュニケーションが
あると思っている(現代フランス哲学のドゥルーズ等を参照している)。それ
を、土台/潜在的レベルとは別に、「身体レベルのコミュニケーション」と言っ
てもいいかもしれない。いやもっと単純に、目と目のコミュニケーション、筋肉
のコミュニケーション、肌のコミュニケーション、声と耳のコミュニケーション
などのほうがわかりやすいだろうか。
 通常の人間関係が生じる以前から、いつも我々は身体レベルのコミュニケーシ
ョンを交わしている。「私」を明確に意識せずとも、目と目はすでに合ってい
る。こうした身体レベルのコミュニケーションは日常的に無数に行なわれている
が、「表層レベル」がそのことを隠蔽する。「言葉」や「私」が、他者との壁を
作り上げてしまう。
 でも実は、他者は、壁ができる以前から、視線として、声として、手として、
こちらと交錯し合っている。そのことが瞬間的に現れやすいのが、遊びという行
為の合間ではないかと思うのだ。言い換えると、生きる力のレベルにおいては、
他者はすでに身体として侵入している。「コミュニケーションを難しく考える必
要はない、だって他者は身体としてすでに君と交流しているんだから」と、青年
たちにいろいろなかたちで僕は伝えていきたいのだが、詳しくは次回。


●「土台」のコミュニケーション

 前回、コミュニケーションには2種類あるのではないかとし、それを、「表
層」と「土台」と名付けた。
 「表層」のコミュニケーションとは、通常我々が「コミュニケーション」だと
信じて行なっているもので、何よりもそれは言語的コミュニケーションを指す。
言葉と言葉のやりとりであり、他者に対して言いたいことを考え、それが明確化
されていようがされていまいがとりあえず言葉にして発声し、その情報を伝達す
る。受けてはその情報を自分なりに理解し、別の情報に変換して伝達し返す。そ
うした、言語による「情報→伝達→理解」の繰り返しを、普通我々はコミュニケ
ーションと呼んでいると思う。
 ここでは何より、情報の「意味」が重要であり、たとえ言語として発声されな
くとも、たとえば表情だけの伝達だとしても、そこに「意味」を読みとることが
肝心になる。笑い顔であればそこに承認的意味を見いだしたり、怒った顔であれ
ば否定的意味を見いだす。受けてとしての他者は、その表情から読みとった意味
を元に、別の情報を組み立て、相手に伝達し返す。この、情報と意味の数限りな
い伝達を毎日我々は行なっており、この伝達においてできるだけ正確さを求めよ
うとする。それが時には失敗してトラブルが生じたり、また逆に、正確に意味が
伝わったとお互いが納得したとき何か肯定的な関係が生まれたと感じる。この行
為は非常に目立ちやすく、かつ非常に労力を要する。
 しかし、この通常の意味でのコミュニケーションよりもっと深い部分には別の
コミュニケーションが存在するのではないか、というのが僕が考えていることだ
(前回も書いたが現代フランス哲学のドゥルーズ等を参照している)。これをこ
こでは「土台」としてのコミュニケーションと名付けている。「表層」と比較し
て言うと、ここには「意味」はない。もちろん言語もない。いや正確に書くと、
言語はあるのだがその言語の意味内容はあまり関係ない。それよりも重要なのは
その「声」の質にある。太い声、高い声、だみ声、ささやくような声といった質
に加え、強い声、弱い声、といった強度が加わる。その声は当たり前だが「口」
から発せられる。するとその口の、唇の動きがこちらの視覚に入ってくる。さら
に、声を発するとき、顔の表情も同時にいろいろ変化している。その表情の中に
は、当然「目」のかたちが細くなった見開かれたりし、「鼻」の穴が膨らんだり
閉じたりしている。また、頬の色も微妙に変化しているだろう。そうした顔の諸
部分が微細に変化する中で、「声」は強度をもって発せられる。その声は、相手
の「耳」へと到達し、強い声であれば耳だけでなく皮膚全体でその声を受け止め
ることもあるだろう。
 このように、「土台」のコミュニケーションとは、言語的意味を理解する以前
に(というか、同時に、といったほうが正確だろう)、その意味を捉えて考察し
伝達し返すといった行為の「下」で常に行われているものだ。これは何も「声・
口・顔・耳」という系列だけではなく、いくつもの系列が挙げられるだろう。た
とえば、「見る」という行為ひとつとっても、相手の顔を見る以外にも、(ここ
では各障害がない場合を例にとっているが、現実にはどんな障害があろうが「土
台」のコミュニケーションは存在している)、人は日夜たくさんのものを見て過
ごしている。それらを見て、「表層」では意味を読みとっているのだろうが、
「土台」では、ただ、視覚に入ってくるものの強度を感じるているだけ、という
レベルが存在するはずだ。
 そのレベルでは、見るものと見られるものが何か交流している。たとえば僕
が、「ひきこもり」の青年を初めて訪問する際、「こんにちは、僕は淡路プラッ
ツの田中です」と自己紹介し淡路プラッツの説明をしている行為の「下」で、
「土台」のコミュニケーションはすでに起動している。そこでは、僕の声の強度
が青年の耳や皮膚に伝わっていたり、微妙に変化するお互いの表情をお互いが
(そこに意味を読みとるのではなく)見ている。その青年と僕、言い換えると
「自己」や「他者」という区別の前に、すでに「土台」のコミュニケーションは
発動し、目や耳で交流はなされている。
 僕は、コミュニケーションにはこのレベルがあるということを何よりも青年た
ちに知ってもらいたい。「自己」と「他者」の区別、その区別を前提とした人と
のかかわり、そのかかわりから生まれる対人恐怖、この一連の流れの前に、我々
はすでに「土台」では交流しており、そこには「意味」が入りこまないというこ
とから、つまりそこには「否定」はない、ということを。他者が怖ろしくなる以
前に、我々の存在そのものがすでにコミュニケーションであるということ、ここ
を僕は重視する故に、「意味」のあまり入り込まない行為、すなわち「遊び」や
「雑談」に重点を置いている。


●「自己」をほぐすために

 前回は、通常の(主として言語による意味伝達という意味での)コミュニケー
ションとは別に、「土台のコミュニケーション」というものが我々の日常では同
時進行している、ということをわりと細かく書いた。といっても「土台のコミュ
ニケーション」はそれほど難しいものではなく、ほんとに日々我々がすでに「し
てしまっている」ことなのだ。それは、「自分」「私」「僕」等の主体的なもの
を意識する少し手前にすでに起動しているコミュニケーションであり、「目と
目」「声(言葉の意味内容ではなく“音”としての声)と耳」「声(つまり“
音”)と肌」「肌と肌」等、身体のあちこちをフル稼働させて日夜行なっている
コミュニケーションだ。
 ここで重要なことは「主体的なものを意識する前」という点だ。そうした、
「自分」というものが成立する少し前に(正確にいうと、別レベルで同時進行し
つつ)、すでに人はコミュニケーションしてしまっている、ということを僕は仕
事で出会う青年たちに知ってほしい。前も書いたが、この議論は現代フランス哲
学のドゥルーズを下敷きにしており、周知のようにドゥルーズの哲学は難解なも
のだから、僕もきちんと理解しているとは言い難い(ここで参照している主なテ
キストは『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『ミル・プラトー』等)。正
直言ってこれを一般にわかりやすく伝えることができるのかどうか不安でもあ
る。だがこの哲学は僕の仕事に「使える」気がするのは確かなのだ。
 というのも、僕が仕事で出会う青年たち、つまり「ひきこもり」の人たちは、
多くが対人恐怖的な悩みを抱えている。彼らと語っていてもうひとつ気づくの
は、その対人恐怖的なものの裏には、肥大化してしまった自己、大きくなりすぎ
て自分一人では処理しきれなくなった「自分」というものに悩んでいるのだな
あ、ということだ。そしてそれと同時に、その肥大化してしまった自己の向こう
側には、これまた大きな壁のように立ちはだかる「他者」という問題がある。中
身を処理しきれないがとにかく巨大化してしまい軽やかさのなくなった「自
己」、そしてそれに対立するようにして高くそびえる「他者」という構図。この
「自己」と「他者」が厳しく対立する図式を、僕が仕事で接する青年たちはどう
しようもなく抱えてしまっていると感じる。
 これは実は僕自身も非常によくわかる悩みで、10代の頃、いや、もしかすると
つい最近まで抱えていた重要な関心事だったのだ。10代の頃はそのことを言語化
できていなかったため、かなり苦しんだ。とにかく、悩みの始まりは「自分」に
ある。その悩みそのものをうまく語れないのだが、とにもかくにも「自分」から
出発し、その「自分」がわからず、でもそのわからない「自分」を抱えて日夜煩
悶している。そして向こう側には憎き「他者」がいる(「他者」に対する愛はな
かった)。その他者は具体的には誰でもかまわない。家族でもクラスメートでも
教師でも誰でもいい。「社会」と言い換えてもよかったかもしれない。とにかく
その「他者」と「自分」は鋭く対立しており、たとえばそこに、当時覚えたかっ
こいい言葉「ディスコミュニケーション」などをあてはめ、さらに苦悩を深めて
いく。
 まさに他人から見れば独り相撲の出口のない苦悩なのだが、こうした、「肥大
化した自己とそれに対立する他者」という問題は、思春期のひとつの特徴なのだ
ろう(たとえば文学においても『ライ麦畑で捕まえて』等に普遍的に見られ
る)。だから、精神科医の斎藤環氏的に言うと「延長した思春期」である「ひき
こもり」の人の多くにこの傾向があるのも不思議ではない。たぶん僕もそうした
傾向を持つ人間なのだろう。
 しかし、そんな「自己と他者」の悩みとは違う次元ですでに「土台のコミュニ
ケーション」が起動しており、「自己」や「他者」が成立しそれを意識する前に
すでに「声」や「目」で我々は交流してしまっている。そのレベルにおいては、
「自分」などという存在は、重くて融通の効かない非常にかったるいものにすぎ
ない。それを知ってもらう(というか「感じる」)ことで、肥大化した自己とい
うものを何とか相対化できないか、これが僕が青年支援の仕事をするうえでの最
大の動機であり、意義なのだ。
 まあ現実にはそんなに大げさなものではなく、そうした理論的背景を意識しな
がらも、援助の具体的場面では、雑談を中心としながら冗談をそこにまぶせ、時
には上のような哲学的談義も交えてだらだら時間は過ぎていく。できるだけ、青
年の「自己」をほぐすように、そして僕という「他者」を彼らが意識する前に、
我々は「声」や「目」のレベルでコミュニケーションしてしまっていることを
(まさに無意識的に)気づいて、感じてもらうように。★