「希望の手前」に寄り添う(月刊少年育成06年1月号)
田中俊英
社会格差と「希望」
今月号の本誌の特集は「希望」に関することだという。最近、たしかに「希
望」という言葉をよく聞くようになった。ニート問題の第一人者である玄田有史
氏も講演なんかでしょっちゅう使っているし(氏の所属する東京大学社会科学研
究所では「希望学」なるプロジェクトが始まっている)、あの「パラサイト・シ
ングル」という言葉を発明したことで有名な山田昌弘氏の最近の著書は、すばり
『希望格差社会』(筑摩書房)だ。
「希望」に関して発言する代表的著名人はこの2者だろうが、ふたりに限ら
ず、なんとなく「希望」という言葉を中心に、あちこちでそれに関する議論も聞
く。たとえば、これも最近大流行の「社会格差」に関するテーマ系なんかはたぶ
ん「希望」系の議論と密接につながると感じている。最近どうも僕は淡路プラッ
ツの青年支援の仕事(ひきこもりやニートの青年が社会参加するのを手伝う仕
事)が忙しくなってあまり本を読めていないのだが、僕が読んだ範囲でも「社会
格差」系の本は以下のようなものがある。
古くは(といっても00年だが)『不平等社会日本』(佐藤俊樹/中公新書)が
あるだろう。04年には「社会格差」系の研究者・ジャーナリストがずらっと揃っ
た『封印される不平等』(橘木俊詔・苅谷剛彦・斎藤貴男・佐藤俊樹/東洋経済
新聞社)が出た。教育関係では、上書にも参加している苅谷氏の『階層化日本と
教育危機』(有信堂)がある。同書は、「インセンティブ・ディバイド(意欲格
差)」という言葉を生み出したことで有名だ。この本は、経済的社会格差の定着
の結果、青年たちに意欲の格差が生まれ、「下」の階層にいる青年たちは「意欲
を持っていないほうがよい」的少しひずんだ価値を持ち始めており、このインセ
ンティブ・ディバイドがなおさら社会格差を広げてしまう、というなかなか骨太
で「なるほどなあ」と思わずうなずいてしまう議論を展開している。
そして、一番新しいところではやはり『下流社会』(三浦展/光文社新書)が
決定打だろう。若者層を中心に、すでに「下流」という大きな社会階層が形成さ
れており、企業はこの「下流」層に向けて商品開発しなくてはいけない等のマー
ケティング畑からの提言は、これもまた「なるほどなあ」と感心させてくれるも
のだった。
いずれの本もはっきりいって僕はそんなに読み込んだわけではない。だが、一
連の流れはつかんでいるつもりだ。
それは、1.佐藤氏や橘木氏らの、詳細なデータに基づいた研究結果からどう
やら現在の日本では経済的社会格差の世代間連鎖が定着してしまっている。2.
それは実は70年代に芽を見せ始めていたのだが、みんなが「なるほどなあ」と何
となく実感してしまうようになったのは90年代後半だ(山田氏は98年が転機だと
断言している)。3.その格差はまずは若者層を直撃し、その結果がフリーター
の激増やニート・ひきこもりの出現となっている。そして「下流」の若者たちの
内面にはインセンティブ・ディバイドなる感覚があるようだ。
そして、だ。これら一連の社会格差の議論を受けて「希望」の議論は展開され
ていると僕なりに受け止めている。この議論の底辺には、こうした格差を格差と
して放っておいていいのか、大きな目で見るとこの社会格差は経済のグローバリ
ゼーション化が引き起こした事態だということはわかる、けれどもフリーターや
ニートになった若者の内面にあるであろう「あきらめ」や「絶望」をこのまま
放っておいていいのだろうか、いや、やはりよくないだろう、ではどうすればい
いのかという、かなり「まっとうな」(というと失礼かもしれないが)正義感・
使命感のようなものを感じる。
希望の「手前」
その正義感を僕は尊敬する。だが待てよ、と一方では思ったりもする。先ほど
さらりと書き流したが、僕は、毎日ひきこもりやニートの青年たちの話を聞いた
り、時にはいっしょに旅行に行ったり、就労実習に付き添ったり、バイトの面接
の練習を手伝ったり(僕が人事部長になって疑似面接したりする)、カラオケや
飲みに行ったり、その他、彼らが社会参加するためにいろんなことをしている。
そのなかでぼちぼちとアルバイトをしたりする青年もいるわけだが、彼らが時間
をかけながらも徐々に社会に向かっていく姿を見ていると、どうもそこに「希
望」という言葉を当てはめるのは何かがずれている気がするのだ。
「希望」といったそんな一見ポジティブそうな気持ちを抱いて、彼らは社会に
入っていくのではないように僕には感じられる。たぶん、社会に入り社会と格闘
し続けている彼らに「希望」なんていう言葉をぶつけてみると、怒り出してしま
うのではないだろうか。「希望なんてそんな気持ち、俺は一生抱くつもりはな
い。でも、仕事はいやだけど、もうひきこもりに戻りたくもない」などという言
葉が返ってきそうに思えて仕方ない(怒り出されるとその愚痴を聞くという仕事
がまたひとつ増えるので、めんどくさいからそんな質問は僕はしない)。
僕の感覚では、彼らが社会に入っていくとき内面に抱いているものは、「希
望」よりももっと「手前」にあるもののような気がしている。その「手前」にあ
るものを「価値」と言い換えてもいいし、その青年なりの「美学」と言い換えて
もいいし、もっと直球で「哲学」とさえ言ってもいいと思う。そうした「希望の
手前にあるもの」を土台とし、青年たちの中にはいわゆる希望を抱く人もいるだ
ろう。そして、社会とぶつかることでその「希望」に修正が加えられ、身の丈に
あった希望を抱きながら仕事を続けていく人もいる。けれども、「希望」をあま
り抱かないまま、極端に言うと絶望感をはっきりと意識しながらも仕事を続けて
いる若者もいる。
僕は、絶望しながらでも社会と連接できると考える。もちろん希望をもちなが
らでも社会とつながることはできる。いずれにしろ、希望や絶望よりもっと「手
前」にあり、もっと「深い」ところにあるものたちをしっかりと捉えていれば、
案外、仕事なんてものはできてしまうものだ、なんて、この頃は考えている。
美、倫理、生の肯定、他者
では、その「手前にあるもの」とはどんなものなのだろうか。それらの重要性
には別に順番はないので思いつくままに並べてみると、たとえば、その青年に
とっての「かっこよさ」とか「譲れないもの」なんかがある。これを僕は「美」
的価値と一応呼んでいる。この価値は、世間一般で言われる美しさとかかっこよ
さとは別に結びつかないし、結びついてもいい。具体的には、「絶対ブランドの
服は着ない(逆に、着る、でも別にいい)」とか「絶対ネクタイはしない(す
る、でもいい)」とか「絶対目立ちたくない(目立ちたい、でもいい)」等の、
その人にとっての「これだけはどうしても譲れない」的価値観を指す。僕の観察
する限り、こうしたそれぞれの美的価値観から外れて仕事等が選択されることは
ないように思える。一般の人から見ると過酷な仕事のように思えても、当人に
とっては、「ネクタイを締めて毎日ニコニコと接客だけはしたくない」という頑
とした美学があり、今している仕事は過酷ではあってもその美学に何となく近い
のであれば続けることはできる。また「どうしても目立ちたくない」という美学
があれば、今している仕事が退屈であっても続けることはできる。
そして、続けていくうちにたまたま「希望」が生まれてくればそれはそれでい
いことなのだ。
「手前にあるもの」には、たとえば「仕事をしなくてはいけない」「普通の社
会人でなくてはいけない」という、「倫理」的価値もある。
これなどは僕にとっては窮屈で仕方がないもので、以前本誌の連載コーナーの
ほうでも書いたと思うのだが、この倫理的価値の束縛から青年たちは脱出するこ
とはできないのか、長年僕は悩んできた。そしてこれを青年たちにぶつけてもみ
た。しかし、結論を言うと、どうしようもなかったし、逆に青年たちを困らせて
しまった時もあった。長年の考察&実践の結果、青年たちが誰もが抱く(当然僕
自身の中にもある)「仕事をしなければいけない」という倫理的価値を問うこと
は、青年たちの社会参加にとってはプラスにはならない。これを突き崩したり考
察したりするのは専門の哲学者に任せることに僕はした。
支援者である僕は、とりあえずこの倫理を受入れ、次に、青年たちが強く“意
識しすぎている”この「仕事をしなければいけない」を、問いつめるのではなく
ゆっくりとほぐしていき、そんなに窮屈すぎる倫理ではなくて、ほどほどの倫理
になってもらうそのお手伝いをすることに決めた。そして、このほどほどの倫理
を抱きながら仕事に向かうと、ほどほどに仕事は続くようなのだ。
3つめは、「とりあえず生きてみよう」「生き続けてみよう」的価値だ。これ
をここでは「生の肯定」的価値と呼んでおく。
ちなみに、「希望」という言葉にはこの「生の肯定」が一部含まれている。だ
からややこしいのだが、「希望」には、他に「未来への展望」という意味も含ま
れている。この部分が「希望」を少しネガティブにしてしまう。
どういうことかというと、未来を展望するということは、今この瞬間の「現
在」は少なくともその未来よりはよくないという考えが前提にされている。未来
を展望し続ける限り、今のこの現在は少し否定的なものとして捉えられてしま
う。未来を見つめるということには、逆説的ではあるが、このように現在の否定
ということが含まれてしまうのだ。
だから、希望が持つもう一つの意味、「生の肯定」のみを僕は引き出す。たぶ
ん、この「生の肯定」のほうが先にあり、ここに「未来への展望」がくっついて
できた言葉が「希望」なのだと思う。希望よりずっと手前に生の肯定はあり、こ
れはつまり「生きていることにはよいも悪いもない」「生きているということ
は、希望とか絶望より遙かに手前、あるいは深いレベルだ」ということだ。
だからここをとりあえず認める。「生きている」のレベルははじめからあり、
これを否定しようにも、その前にもうすでに自分は生きていて、その「生」が、
現実に生きているということですでに肯定されてしまっているのだから、もうと
にかく「生きていくか」みたいな感じで受け入れる。まあ(というかこんなに僕
みたいにややこしく考えなくても)「とりあえず生きとくか」的心境が続いてい
れば、青年たちは仕事とか社会に向かっていく気になるようだ。
最後は、「たぶん自分は1人ではない」という感覚だ。ここでは「他者」的価
値と呼ぶ。これは上の「生の肯定」感とも密接につながっているが、もはや詳し
い説明は不要だろう。「自分は孤独ではない、他者に囲まれている」的安心感が
あれば、仕事は時には辞めたりするかもしれないが、続くことは続く。
上記の4要素をすべて意識しなくてもいい。また、4要素すべてが揃わなくて
もいいし、逆に、5番目6番目の要素もあるかもしれない。けれども、希望や絶
望を語る「手前」にあるこれらの価値を、支援者である僕は大切にしている。も
ちろん、青年たちに直接「美」だの「倫理」だの「生の肯定」だの「他者」だの
とは言わない。こんなややこしい言葉は使わないれども、青年たちの中でこの諸
価値がゆっくりと形成されていく姿を見ることが僕はとても好きだ。そして、そ
の諸価値を踏まえた上で「希望」が青年たちの中に現れるのをみるのも好きだ
し、「絶望」のまま仕事を続けていても、そうした若者たちを肯定したい。
社会格差の問題の考察とそのシステム変更の問題、「希望」を調査・研究し、
その「希望」をレベルアップしたり現実的なものに変更したりするシステムづく
りに僕も関心がある。そこに参加もしたい。関心・参加・尊敬しながらも、以上
に書いた「手前」にある諸価値も平行して見つめていきたい。