若者ではなく「後期子ども」
田中俊英(NPO法人淡路プラッツ代表)
(『月刊少年育成』06年10月号より)
最近話題の『持続可能な福祉社会』(広井良典著/ちくま新書)を読んだ。同
書では、特に「若者基礎年金」という概念が注目されている。著者は、現在の老
齢期に支払われる年金制度を見直し、人生の前半期にも社会保障を積極的に適応
すべきだ、と唱えている。そこに「後期子ども」という言葉が登場する。
著者は、現在高齢者がおよそ75才あたりを目安として「前期高齢者」「後期高
齢者」に分かれ始めたことを例に挙げ、「子ども」も、およそ20才(あるいは15
才)頃を分水嶺にして「前期子ども」「後期子ども」に分けるべきだ、と提案す
る。そして、「後期子ども」期(30才頃まで)にある人たちに対して月額4万円
ほどの若者基礎年金を給付し、その間に経済的自立への道筋を探るという生き方
を提示する。
この議論提出には、おおむね専門家からは好評のようだ。ひとことで言いなお
してしまうと、現在日本が追従しているアメリカ型の新保守主義から、ヨーロッ
パ型の社民主義・環境重視社会への変更ということであり、どの「先進国」でも
共通の悩みであるところの若者の就労問題に関しても福祉の対象としようという
ことだ。
まあ細かい社会政策議論は専門家にお任せするとして、そのことよりも、この
本を読んで最初は気づかなかったものの、あとあとじっくりと奇妙な感じを抱き
始め、同時に、なぜはじめから疑問に思わなかったんだろう、という疑念が自分
に生じてきたことがある。
それが、「後期子ども」という言葉だった。
よく考えると、著者が提案する年金名はそもそも「若者基礎年金」なのだか
ら、「後期子ども」ではなく「若者期」でいいではないか。若者があいまいなの
であれば「若年者」でもなんでもいい。若者にしろ若年者にしろ、行政用語とし
て現在は定着しているはずだ(「若者自立塾・若年者就労支援」等)。著者とし
ては、高齢者と比較すると概念として把握しやすいから「前期子ども」「後期子
ども」と分けたのだろう。僕もはじめ、高齢者と比較されたことによって確かに
理解が容易だった。だからさらっと流してしまったのだが、あとになって、それ
だけではないような気がしてきた。
それは、現在の若者のあり方が、「若者」として表現するよりも「後期子ど
も」として表現したほうが、僕にとっては感覚的に把握しやすいものになってい
るということだ。
どういうことか。僕にとって若者と子どもの違いはいろいろあるものの、ある
一つの言葉に集約されるとも思っている。その言葉とは、「社会」である。「対
社会」と言い換えてもいいかもしれない。ここでいう「社会」とは、家族や友人
といった親密なコミュニケーションを指さない。学校・職場といったふだん行き
なれた場所ではあるがそれほど親密ではない人々が大半を占める場所でのコミュ
ニケーションへの向かい方をそれは指す。いわゆる親密ではない(言い換えると
「自己」の内側に収まりきらない)「他者」と日々どう向かい合うか、ここでの
他者が社会である。
また、行きなれた場所での教師や上司からの指示、さらには建物の構造自体から
受ける無言の圧迫(大雑把ではあるがこれを哲学用語では規律訓練型権力とい
う)や、最近はますます把握困難になってきた企業や行政の中に網の目のように
張り巡らされているさまざまな装置(サービス業における座席の配置・公的施設
でのカメラ設置等――同じくこれを監視型権力という)への感受性といった文脈で
使われる「社会」だ。ここでいう権力は必ずしも悪として位置づけているわけで
はなく、現代の市民生活を行ううえではどうしてもついてくるものであり、それ
らを何となくでもいいから感じ取り、自分もそういうものに囲まれているのだ、
と理解していること、これが「対社会」的感性を持っていることと僕は考える。
そして「若者」とは、それら他者的社会とか権力的社会に対して、言語化は苦手
であっても常に感性豊かに接する存在(その多くは反抗だろうが)、と僕は位置
づける。
対して「子ども」とは、社会よりもむしろ上記「親密なコミュニケーション」
に主とした関心を抱く(というか抱かざるをえない)存在のように僕には思え
る。もちろん子どもも学校という社会に通っている。しかし、優先順位の問題と
して、社会は後にある。その前に、社会に向かうために必要な土台としての「親
密なコミュニケーション」を優先する。そこには親子関係がまず待っているだろ
う。それに対して、乗り越えるにしろ逃げるにしろ、一定の落とし前をつけたあ
と、人は子どもから若者への扉を開こうとする。その前に、自分なりの友人関係
作づくりも重要な仕事だろう。親子と友人、これらに何らかの落とし前をつけ、
人は社会に向かう。そして人は「若者」になっていく。
というのが、僕にとっての「若者」と「子ども」像だ。こうして改めて位置づ
けてみると、今、僕はあまり「若者」に会っていないような気がする。親子関係
と友人関係の土台作りに迷い続けている(それを僕は責めてはいない)「子ど
も」たちばかりと日々会い続けている感じがする。彼ら彼女らは懸命に生きてい
る。しかし彼ら彼女らを若者というよりは、「後期子ども」と名づけたほうが
しっくりするということも僕の中にはある。
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