高齢化する「若者」と働くモチベーション(月刊少年育成06年5月号)
田中俊英

 日本のニートは、15〜34才までの幅広い年齢層が属する、と位置づけられてい
る。これだけ幅広いと、この年齢層の中だけで十分「若者の就労問題」を論じる
ことができると世間一般の方は思われるだろう。いや、上限の「34才」という年
齢を聞くと、まだまだ一般の方は、「34才って若者なのか」という問いを抱かれ
るのかもしれない。
 僕は経済学者でも統計学者でもないのでよくわからないが、仮にニートを巷で
いわれるように85万人として、15才から34才の層(20才分)を単純に 20で割る
と、4,25万人が毎年35才になっていくことになる。まあこの数字は、1万人だろ
うが5万人だろうが僕にとってはどうでもいい。重要なのは、万単位の人たちが
「群」として、定義的にニートではなくなってしまうということだ。そうした、
「定義づけできない就労できない人たち」のことは、今はたぶん苦し紛れに「ひ
きこもりの高齢化」と呼ばれている。
 だがことはそんなに単純ではない。当欄でたびたび触れているが、僕は、ニー
トを狭義のニートと広義のニートに分けている。そして狭義のニートを、ひきこ
もりの次の段階として(つまり友人もいて外出もでき家族とも関係はあるが、就
労できない)捉えている。それに対して、「教育も雇用もトレーニングもない人
たち」という本来の意味での広義のニートは、あまりにも射程が広すぎて、支援
の現場ではミスマッチが起きてしまう(たとえば、ひきこもりを原因とする精神
症状が当面の問題なのに、就労支援機関を紹介したりする)。
 たぶん、世間的にも、ニートの意味は、狭義のニートのほうに移ってきている
ように僕には思える。「ニートは甘え」議論などはその象徴だろう。
 さて、年齢的にニート定義から外れた「若者たち」について、何がそう単純で
はないかというと、この「若者たち」の中には、上の狭義のニートが大勢含まれ
る可能性があるということだ。当然、まったく外に出ない「純粋ひきこもり」の
人たちもいるだろうし、統合失調症などの精神障害という枠組みで捉えたほうが
よりクリアな方たちもいるだろう(今回はテーマを就労に絞っているので、こう
した方たちが抱える就労以外のさまざまな問題は割愛している)。しかし、たぶ
ん、ニート定義から外れた35才以上の「若者たち」あるいは「年齢的にニートで
なくなったポストニート」の人たちには、狭義のニートも多数含まれるのではな
いか。
 で、重要なことは、そうした高齢化した元狭義のニートにとって、「働く」と
いうことは一層遠くなる、ということだ。その人たちは、「就労」というテーマ
を10年以上に渡って考え続けている。決して「甘え」論者が言うように、享楽的
に生きている人たちばかりではない。僕が淡路プラッツという、比較的ひきこも
りの方を中心に支援する施設で働いていることも理由だろうが、個人的にはそう
した享楽的狭義のニートとは実際に会うことはほとんどない。僕が毎日会うの
は、長い間、就労という大きなテーマを背負いつつ、そこに至ることができず苦
しんでいる、幅広い年齢層の「若者たち」だ。
 その幅広い年齢層の「若者たち」の中には、当然35才以上の人たちも含まれ
る。そんな彼らから時々聞こえてくるのは、「働く」ことへの諦めのような言葉
だ。言い換えると、就労に対するモチベーションの著しい抽象化と、それに伴う
モチベーションの著しい低下だ。
 長年「働く」ということから遠ざかっていると、それはとても壁の高いものに
見えてくるらしい。これは年齢関係なく生じる現象だが、実際の労働現場を実感
していないため、マスコミとかネットから流れてくる「過酷な仕事の現場」のみ
が「働く」ということだ、というふうに極端に抽象化されてしまう。実際の労働
現場では、過酷なときもあれば息抜きの時間もある。もっといろいろな時間もあ
るだろう。けれども、「働く」ことが抽象化されてくると、ただでさえ高い壁が
どんどん高くなる。これに加齢が重なると、「そんなきつい仕事を今さらして何
の意味があるのだろうか」という思考パターンになるようなのだ。
 そして、モチベーションに多様さがないこと、つまり誰かのために働くわけで
もなく何かの借金を返すのでもなくお金持ちにも今さらなりたくない、などの理
由がこれに加わる。
 実は、「働く」ことのモチベーションにこだわること自体が、思春期というか
若いということの証明だと僕は考えるのだが、そんな話は彼らには伝わらない。
その、モチベーションにこだわることができるのは、誰か(多くは親)の労働か
ら生まれた「お金」によって支えられているからだ、という身も蓋もない議論
は、思春期というか「若者たち」には入らない。なぜかというと、それが「若
者」だからだ、という同語反復的理由しか僕には言えない。
 抽象化とモチベーションへのこだわり。これが高齢化した「若者たち」を「働
く」ということから一層遠ざけ、諦めさせる。これからは、同じ35才でも、「若
者」のままの35才と、従来の大人概念に含まれる35才の、2種類の35才が、同時
に存在していく世の中になるだろう。


ゴダールの「老い」、ひきこもりの「老い」(月刊少年育成06年6月号)
田中俊英

 当欄は映画評をする場所ではないのだが、最近、仕事で疲れて眠りにつく前、
ゴダールの映画を見ながらいつのまにか寝てしまう習慣がついてしまい、特に、
ゴダールが90年代以降撮った作品群を繰り返し見るうちに、ぼんやりとではある
が、「老い」のかたちというものを考えるようになった。それはたぶん、本誌の
主旨をそれほど外すとも思えないので、今回はいつものニート云々から少し離れ
てみる。
 ゴダールとは、フランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダールのことで、映
画ファンなら誰でも知っていると思う。60年代の『勝手にしやがれ』『軽蔑』
『気狂いピエロ』といった派手な作品群、70年代の政治的実験ビデオ、80年代の
商業映画への復帰、90年代以降も『映画史』『自画像』『フォーエバー・モー
ツァルト』、今世紀に入ってからも『愛の世紀』『アワー・ミュージック』な
ど、マニアックで非常に難解といわれるものの、非常に個性的な映画を撮り続け
ている。
 1930年生まれだから今年で76才になる。デビュー作『勝手にしやがれ』は59年
の作品だから、29才時の作品だ。いわゆる「ゴダール」といえばこの頃、つまり
60年代前半の作品群がいまだに指されることが多いだろう。僕もそのすべては見
ていないが、60年代前半のそうした「代表作」群はそんなに好きではない。い
や、好きだけど、感動できない。かっこいいショットだなあとか、なぜここで
ミュージカル? みたいな驚きは十分与えてくれる。難解な台詞が列挙される
が、それもまた「かっこいい」イメージのためのアイテム程度で受け流せば、そ
んなに気にならない。あえていうと、初期ゴダール作品は「難しい仮面をかぶっ
ているけど、かわいくてかっこいい、そして運動に溢れた躍動感のある作品」た
ちだ。
 そんなわけでゴダール作品はこれまでそれら初期の代表作しか見ていなかっ
た。でも、たまたま映画館で4年くらい前に見た『愛の世紀』によって僕のゴ
ダール観が一気に変わってしまった。難解な台詞、主役の顔が影に隠れてわから
ない、時間軸をいじっているなど、相変わらずゴダールしているこの作品ではあ
るが、僕は映画館で感動し、その後おもわずDVDを購入して何回か見ては感動
し、つい1週間前の深夜にも一人で感動してしまった。
 自分がなぜ、初期作品に対して感じたように「かっこいいなあ」とは感じず、
何か「感動」してしまった、その感動した事実の意味はまだわからない。けれど
もその後、ゴダールの作品群を(初期のものも含めて)、お金があるときに買う
ようになった。初期の作品群に比べて、90年代以降の『愛の世紀』『フォーエ
バー・モーツァルト』『自画像』は、やはり「感動」する。そして何回も見、時
には映像を流しながらそのまま眠ってしまうこともあるが、それがまた心地よい。
 いくつかの映画評を見ると、音や風景へのこだわり・接し方が商業映画復帰以
降変わってきており、90年代になっていよいよ完成度を増してきた、となってい
るのだが、僕にとってはあまり関係のない話だ。ゴタール作品はいってみればお
しゃれな作品だったはずなのに、いつのまにか不思議な感動を誘うものに変質し
ている、そしてその感動を与えてくれる作品群を創出し始めたのが、ゴダールが
60才を過ぎてからだということ、『愛の世紀』を撮ったのが71才時だったという
こと、このあたりが僕の興味をひく。
 話は強引に変わるが、ひきこもりの高齢化というテーマが重要な社会問題とな
るだろうという議論をこの頃聞く。この議論はホームレスや生活保護の問題とも
直結し、幅広い射程をもっている。本格的に議論している人はまだ少数だろう
が、いずれにしろ「暗い」論調にならざるをえない。僕も正直言ってあまり考え
たくない問題だ(正直すぎるかな)。だが、ゴダールの最近の作品群をしばしば
見ていると、そんな暗さが少しだけ吹っ飛ばされる。
 ゴダールは金もあるし名声もある。だから単純にひきこもりの人の老い方と比
べ、「こんな素晴らしい老いもあるのだから希望を持とうよ」と言いたいのでは
ない。ゴダールは『自画像』の中で、スイスの自宅にひきこもる自分の姿を自分
で撮っている。ぶつぶつぶつぶつ、哲学書を朗読したりしている。ところが突
然、画面全部に水の流れの映像が現れる。水はそこで輝いている。そこにベー
トーベンが重なる。そのとき僕は不思議な感動に襲われてしまう。ゴダールの水
の映像とそこに重なる音は、その瞬間のみ、すべてを圧倒する。
 シーンはまた、老いたゴダールの暗い部屋、独り言へと移っていく。しかしま
た、今度は空と湖が画面いっぱいに現れる。そこでまた僕は再び感動してしま
う。僕が持つ一般の「老い」のイメージ(死・孤独・経済的不安等)を、それら
水や空や湖は一瞬だけ吹き飛ばす。それをゴダールは明らかに意図して作品化し
ている。ゴダールはたぶん、僕が持つ一般的「老い」のイメージとは全然別の
「老い」を“知っている”のだ。それを僕は作品から想像するしかない。そのゴ
ダールの「老い」についての知見を僕は知りたい。そして、ひきこもり高齢化議
論に対して、抽象的でもいいのでポジティブな息吹を吹き込みたい。