「ひきこもり」とルサンチマン

(『月刊少年育成』03年10月~12月号より少し改稿)

田中俊英

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1.「ひきこもり」を否定する

 僕は最近あまりテレビを見なくなったのだが、この前NHKの教育をぼぉーっとつけ
ていたら、「ひきこもり」番組の宣伝をしていた。そういえば僕の知り合いも、NHKの
「ひきこもり」2時間特番みたいなものに出ていたし、テレビでなくても、NHKは自社
のホームページで「ひきこもり」に力を入れていると聞く。
 いずれにしろ僕はその手の番組等は見ない。その理由は以前もここで書いた気がする
が、まず一番目は、テレビで取り上げられる「ひきこもり」の内容が、僕が仕事で接し
ている「ひきこもり」からは何かが大きく欠けているということがある。テレビやメデ
ィアに「これがひきこもりです」と紹介されたとたん、その「ひきこもり」は「ひきこ
もり」そのもののマイナー性を消失してしまう。要するに、「テレビに出る」というこ
とと「ひきこもり」という状態は矛盾しているということだ。
 人前に出られないことが「ひきこもり」の第一条件であって、人前に出ることの究極
形態である「テレビ」に出てしまうと、何はともあれその人の悩みは「ひきこもり」と
いうことからずれてしまい、たとえば就労不安のようなものに移行している。問題はす
でに「ひきこもり」から別のものに移行しているのに、テーマは相変わらず「ひきこも
り」のまま。ここにこの種の番組の退屈さがある(これを言い換えると、「ひきこも
り」青年たちが直接出演するテレビ番組は永久に不可能ということになる)。
 その手の番組を見ることができない2つ目の理由は、単に、「仕事が終わってまで仕
事について考えたくないから」だ。僕は家では仕事のことを忘れてくつろぎたい。それ
なのに、何がおもしろくって、夜、自分の家で引き続き仕事について考察しなければい
けないのか。これは何も「ひきこもり」支援の仕事に限って言っているのではなく、く
つろいだ精神状態の中、自分の仕事を扱った番組を家で見ることができる人を僕はある
意味尊敬する。
 ところで「ひきこもり」はNHKだけではなく、このところ他のメディアでも時々見る
ようになった。最近感心したところでは、確か、コンサートや映画等の遊びの情報誌にお
いて、しかも占いコーナー内で、「ひきこもり」の相談があったことには驚かされた。
うる覚えなのだが、相談内容は、よくある「私は2年間家にひきこもっていて……」
云々というものだった。それに対して占い師はこれもよくある、「あなたには可能性が
ある。『ひきこもり』になったのもそうならざるをえない事情があったはず。それほど
自分を責めずにあなたの可能性を信じて……」云々といった答えをした(はずだ)。
 この相談の1つ前には普通の恋愛相談が掲載されており、恋愛相談と「ひきこもり」
相談はついに同列に扱われるようになったか! と僕を驚かせたのであった。「ひきこも
り」という状態や概念はついに一般性を得たのかもしれない。
 ただし、最近気になることがあって、それは「ひきこもり」状態は一般性を得たもの
の、そこで行なわれている議論は、上の占い師の答えと同じで、今イチ明確ではないと
いうこと、だ。「ひきこもり」を肯定しているのか、それとも、その状態は悪いことで
あるという立場にあるのかがはっきりわからない。テレビではどうなんだろうか。NHK
の広告を見る限りでは、「とりあえず今の『ひきこもり』という状態は認めたうえで、そ
うでなくなるためにはどうすればいいんでしょうかねぇ」みたいなノリだったが。
 で、自分を振り返って考えてみると、何のことはない、僕自身も「ひきこもり」に対
して立場を明確にしていないことに今さらながら気づいてしまった。もちろん僕はこれ
でも一応援助職だから、相談に来られる方はすべて肯定したいと思っている。ただしこ
れはそれらの方々一人ひとりに対してであって、それと「ひきこもり」という概念を検
討することは区別できる。一人ひとりが名前や性格や時には症状を言語として与えられ
る前のその人そのものは肯定する。しかし、その人を説明するために言葉によって遅れ
て与えられた諸概念は検討の余地はある。その諸概念のひとつに「ひきこもり」はあ
り、それが最近一般性を持つようになってきた、ただし、その一般性をもってきた「ひ
きこもり」という概念そのものの検討は、「ひきこもり」の人たちに遠慮しているから
か、ずっと控えられてきたように思う。
 僕も遠慮してきた。だがそろそろ「ひきこもり」概念そのものに僕は落とし前をつけ
たくなってきた。そういうわけでこのテーマは次号に続きます。予告しておくと、「ル
サンチマン」という点から明確に僕は「ひきこもり」を否定したいと考えている。

2.「ひきこもり」とルサンチマン

 先月に引き続き今回も、「ひきこもり」に対して僕はどう考えているか、その
立場を明確にする論考を行なう。
 結論からいえば、僕は「ひきこもり」を完全に否定したいと考えている。誤解
のないようあわてて付け加えると、青年たち一人ひとりを僕は完全に肯定してい
る。まず初めにこの肯定がある。僕が援助者であろうがなかろうが、この「他者
の生を肯定する」は大前提にある。
 僕がここで否定したいのは、その、一人ひとりの「生」というレベルではな
く、「ひきこもり」という概念だ(先月書いたようにこの概念は最近一般性をも
つようになってきた)。より正確にいうと、「ひきこもり」という概念に含まれ
ている「ルサンチマン」を僕は否定したいと考える。
 もう10年以上も僕は「ひきこもり」系の青年たちと接してきたが、彼らの発想
方法のひとつにこの「ルサンチマン」というものがあるということに薄々気づい
ていた。だがそのことを僕はなかなか言葉で指摘できなかった。それを指摘して
しまうと、上に書いた青年たちの「生」すべてを否定してしまうのではないかと
いう恐れがあったからだ。けれども、一人ひとりの「生」のレベルと、ルサンチ
マンが宿る「ひきこもり」という一般概念のレベルを区別して考えることで、そ
れは乗りきれるのではないかと思えるようになった。ルサンチマンは否定する、
だが、一人ひとりの「生」はその前に肯定している。だから、ルサンチマンから
脱した「生」もありえるのではないか、そんな願望を僕はもっている。
 さて、では「ひきこもり」概念に取り憑いているように感じられるルサンチマ
ンとは何か。これは元々は哲学の概念で、あのニーチェが100年以上も前に鋭く
指摘したものだ。「怨恨」とか「反感」などと訳される。ニーチェの文章は難解
なので、解説書からその定義を引用すると以下のようになる。
「ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上
の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のこ
と」(『ルサンチマンの哲学』15頁、永井均著、河出書房新社)
 つまり、現実の生活では(たとえば自宅にひきこもっていて)何ら活動的では
なくとも、頭の中では、主としてその時代のメジャーな価値観(たとえば「仕事
をする」「恋愛をする」「明るく生きる」など)を攻撃する、そうした思考パタ
ーンや感情の動きのことをいう。そしてついには、その復讐感情のほうを正当化
する。僕がこのように要約してもあまり説得力がないので、「当事者」が書いた
エッセイから、より具体的な事例を引用してみよう。
「『確かに俺は24年間、一度も女の子と付き合ったことないけど、現実の女なん
てしょせんゴミだね!(略)』/そんな哀れな自己欺瞞こそがルサンチマンの発露
なのだ。/そしてこの鬱屈した感情は、しまいには世の価値基準の転覆を試み始
める。(略)『女と付き合っている男は全員ダメだ。外に出てチャラチャラして
るヤツらは全員クズだ。俺みたいに孤独な思索生活を長年続けてきた男こそが一
番格好いいんだ! だから俺に早くメールをよこせよ!(略)』……だが彼の矮小
なルサンチマンには、世界の価値基準を転倒させるだけの力などない」(『超人
計画』7-8頁、滝本竜彦著、角川書店)
 そしてこの思考・感情は、ある種ループを描く。つまり、「自分はダメな人間
だ、だから変わりたい」→「けど、こうなったのは自分を迫害してきた社会のせ
いなのだ」→「でもその『社会』もよく考えれば矛盾だらけだ」→「だから自分
はそんなくだらない社会の、くだらないルールを否定している」→「ということ
は自分の生き方のほうがすばらしいではないか」→「けれども現実の自分の生活
は変化しない」→「やはり自分はダメな人間だ」……。
 この思考回路のことを、上記エッセイの滝本氏は、「ルサンチマン打破運動そ
のものが、ルサンチマン発生源と化してしまう」と見事に自己分析しているが、
ルサンチマンという言葉を自分で表現できる滝本氏は、実は「ひきこもり」とは
全然違うレベルに立っているので、氏の例はここまでとしよう。ただ少しだけ補
足すると、「ルサンチマン」という言葉を知ってしまった滝本氏は、実は、ルサ
ンチマンの思考・感情の枠組みからすでに出てしまっている。氏は、ルサンチマ
ンの外に世界があることに気づいてしまった人間なのだ。
 ルサンチマン打破運動の出発点はたぶんここにあると僕は思うのだが、先走り
はやめる。以上のように、「ひきこもり」にはルサンチマンという思考・感情が
取り憑いており、これが青年たちの悩みをループさせている。今回はこの点をま
ず確認した。

3.ルサンチマン以前の「生」

 前回は、「ひきこもり」のあり方には「ルサンチマン」という発想法が宿って
おり、それが「ひきこもり」独特のネガティブで自己否定的な運動を生み出す、
と指摘した。そして、「ひきこもり」青年たち一人ひとりの「生」を僕は肯定す
るが、「ひきこもり」という一般概念は否定する、とした。各自の「生」はそれ
だけでかけがえのないものだが、その「生」にルサンチマンという概念が宿って
いることが「生」そのものを歪めてしまう、ということだ。
 あらためてルサンチマンを一言で説明すると、「社会に占める中心的価値を、
思考の中で恨み、その価値を内面でのみひっくり返すこと」となるだろう。「ひ
きこもり」の場合、そうした中心的価値とは、「恋愛をする」「仕事をする」な
どになる。もっと大ざっぱに言うと、「普通」全般を否定する。
 しかし、ここがポイントなのだが、「普通」を否定し、その否定が次の肯定に
つながれば何の問題もないのだ。つまり、「普通はくだらない。今あるおれとい
う存在は(わたしは)世界でただ一人のおれなのだ(わたしだ)」と、その現在
の自分を全肯定するための否定であればなんら問題はないと僕は思う。むしろ、
このように「普通」の価値観やそれを恨む自分のルサンチマンすべてを覆し、そ
れらが宿る以前の自分を肯定した場所からすべては始まるのではないか、と僕は
考えている。その自分を肯定する視点こそが、一人ひとりの「生」のレベルなの
だろう。
 そもそも、「生きる」ということに関しては、ルサンチマンなどといった否定
的思考パターンは存在していない。たとえばどんな障害を持っていようが、「生
きる」ということに関しては、ただただ肯定があるのみなのだ。その「生」のレ
ベルでは、ただ「生きている」という動き、身体中の細胞や生命が脈動している
という動きや流れがあるのみで、そこには否定的思考など混入する暇もない。
 ルサンチマンに代表される否定的思考は、そうした「生」の少し後になって侵
入してくる。だから、その後から侵入してきたルサンチマンを消滅させるための
否定的運動は、元々の「生」のレベルを露わにさせるための運動だ。
 しかし、「ひきこもり」青年たちの思考方法のパターンはこれとは似ているよ
うで全然違う。内面で「普通」を恨みそうした普通的価値観を覆そうとするのだ
が、その地点でどうしても現在の自分を肯定できない。「普通」を恨む作業が、
現在の自分が抱えるルサンチマン自体を直視し元々の「生」のレベルを肯定する
動きには向かわず、逆に、それぞれの特異的で単独的な「生」を隠蔽してしま
う。ルサンチマンは、「生」の肯定のためにはただ邪魔なだけのものなのだ。
 少し整理すると、ここでは「否定」は2つある。1つは、「生」のレベルを隠
蔽してしまうルサンチマンとしての否定。もう1つは、ルサンチマンが宿る以前
の「現在のおれ/わたし」という「生」のレベルを再び露わにさせるために、そ
うした邪魔なルサンチマン的思考を駆逐する動きとしての否定。僕は、一人ひと
りの「生」を肯定するために前者の否定のみを攻撃している。青年一人ひとりを
肯定しながらルサンチマンに裏付けられた「ひきこもり」を否定するとは、こう
いった考えが背景にある。
 ただし、こうしたことを言葉で青年たちに伝えるのは非常に難しい。問題が哲
学的でややこしいという面もあるが、それは噛み砕いて伝える努力をすれば何と
かなるかもしれない。伝えることが難しいというのは、いくら言葉で説明したと
しても、ルサンチマンに取り憑かれた思考パターンはなかなか脱却できない、と
いうことだ。「生」を隠蔽してしまうルサンチマンの否定的力はそれほど強力な
んだなあと最近の僕は感じている。
 言い換えると、内面で「普通」を恨み覆すことは、かなりの快感を得られるこ
となのかもしれないとも思う。その快感はあくまで否定的快感であり、快を感じ
れば感じるほど「生」のレベルを覆い隠してしまう快感である。つまりは、恋愛
を楽しむ人たちを内面で恨みバカにすることは快感ではあるのだが、そのルサン
チマン的思考を続けている限りは、肯定的存在としての生きている自分(そもそ
も「生」のレベルには否定はない)というレベルが出現できない。
 そうした肯定=「生」のレベルはどうすれば伝わるのだろうか。言葉での説明
を支えにしながらも、大切なことは、お互いが「生」のレベルで交流することだ
と思う。ここでいう「生」とは、理論や科学以前の、ともに遊ぶことであり、と
もに食べることであり、ともに笑ったりするという単純なことだ。そうした交流
の持続の中で、固いルサンチマンの層が割れるのではないかと今の僕は期待して
いる(結論部分はタイトルを変えて続く)。★