転覆要素としての当事者
(『キッド』73号より)
去年(01年)くらいから僕は、変化の兆しを感じていた。たとえば相次ぐ「ひきこもり当事者」本の出版やメディアへの露出、特に関東地区で盛んだと聞く自助グループの動きなど、ここにきて「当事者」の人たちが、自ら語り動き始めたように薄々思い始めていたのだった。それと同時に、斉藤環さんの定義づけから始まったここ数年の「ひきこもり」をめぐる状況が変わるのではないか、いやすでに今が変化の真っ最中なのではないか、とも思い始めた。
そうした「当事者」たちの活発な動きとは別に、相変わらず僕は「ひきこもり」の人たちに訪問を続けており、そこでは「当事者」たちの外部に向かうパワーとは対称的な、外出することもままならない従来的な「ひきこもり」としての生が存在する。こうした「援助」に対応する「ひきこもり」と、上の「自助グループ」に対応する「ひきこもり」という2種類のあり方は以前から指摘されていて、これまで、この2つのうち「本当のひきこもり」は、僕が仕事で対応しているような「被援助者としてのひきこもり」だとされていた。
たとえば斉藤さんなどは、医師として当然「被援助者(患者)」に「ひきこもり」を限定するし、これは何も医師だけに限らず、僕のような末端の援助者も含めて、援助側であればそれに対応させられるのは否応なく「被援助者としてのひきこもり」となる。精神医学にしろ心理療法にしろ民間の居場所にしろ共同生活にしろメンタルフレンドにしろ、それら個々の援助スタイルの枠組みに入ってもらい、その中で関係を形成していくことでしか援助者は被援助者とは出会えない。援助者は援助者としてしか出会うことができない以上、その相手も「被援助者」になってもらわなければ両者の関係は成立しないということだ。
もちろん「ひきこもり」の人たちの中には、カウンセリングや医療を受けながら自助グループにも参加している人が大勢いる。彼ら彼女らはたいてい、自分のことを「被援助者」として捉えているだろう。しかし中には、クライエントでありながらも、自分は被援助者というよりは「ひきこもり当事者だ」と自認する人たちが出現しているように感じている。このように、クライエントや患者といった被援助者というよりは、「ひきこもり当事者」という言葉のほうに自己同一性を感じる人たちが現れてきている。
ここでいう「ひきこもり当事者」は、通常の「当事者」よりももっと強い意味で使っている。強いというよりは能動的といってもいいかもしれない。ここでいう「当事者」は、通常の与えられたり名付けられた「当事者」ではなく、もっと本人が能動的にあるいは苦闘の末につかみ取った「当事者」だ。言い換えるとこの当事者(ややこしいのでこの意味での当事者の場合、アンダーラインを引いて示す)は、その人にとって武器のような意味合いをもっている。当事者と名乗ることで、自分が体験してきたつらさや苦悩を一言で縮約でき、またそう名乗ることでその立場に追いやった社会に対して抗議している。僕は、当事者に自己同一化した人と接していると、その人が使う当事者という言葉にすごい迫力を感じるのだ。
これに対して通常の当事者という言葉が持つ意味合いは、もっと弱い。それは、当事者という意味に反して、多くの場合他人が名付ける。たとえば、僕が訪問で出会う(または居場所に来始めた頃の)人たちは、そのほとんどが自分が「ひきこもり」であるとは認めたがらない。これは不登校でも同じだったのだが、「ひきこもり」や不登校の当事者というものは、まずは親や第3者がそうであると指定し、本人は自分が「ひきこもり」や不登校当事者と名乗ることを拒否する。いや、拒否というよりは、そんな言葉を聞くだけでしんどくなってしまう。だから、通常の「当事者」はその人からは発せられることはなく、「あの人は『ひきこもり』当事者だ」というように、当人以外が当人の状態を名指すときについでに用いられることが多い。
ということは、通常の当事者は、被援助者や患者やクライエントの影に容易に隠れてしまうということだ。先の「被援助者としてのひきこもり」にも、この通常の当事者は隠れている。そして、これまでは第3者や親がまず、この通常の当事者、つまり規範や常識や医学や心理学やその他「援助」という枠組みによって名付けられる受動的な「当事者」を、当人たちに与えていた。あなたはずっと家にいるから「本当のひきこもり」当事者で、あなたはちょっと家から出ることができるようになったから徐々に当事者ではなくなっている、等。言い換えると、これまで「ひきこもり」業界の中では、本人から「自分はひきこもり当事者です」と名乗ることはなく、もっぱら他者によってその「当事者」は用いられていたということだ。
だから僕は、ここ数年、「ひきこもり」の本人たちが「自分は『ひきこもり当事者』だ」と名乗る事態に接して、はじめは微妙な戸惑いを感じた。この戸惑いは今になって考えると、本人たちが自らのことを当事者と名乗った新鮮さがあったのだろう。なぜなら、不登校が援助の中心であったときから僕は、当人たちが自らの状態を「自分は不登校だ」と言い始めるときが援助の新局面に入ったときと直感的に思っており、援助のはじめの頃の関わりは、そのようにして自分の状態を説明できることでもあると考えていたから。そういうことから、援助とは関係のない文脈で「自分は当事者だ」と名乗る人たちの出現は、僕を少し驚かせたのだった。
もうひとつの戸惑いの原因は、当事者という言葉の持つ強さだろう。そもそも、「ひきこもり」という概念は非常に曖昧なものなので、いまだにそれをどう捉えるかで議論が分かれている。ある意味、「ひきこもり」問題は「ひきこもり」の定義の問題だといっていいほど、これは根本的な問題だ。これに関しては、たとえば斎藤さんは周知の通り精神医学寄りに定義しているのに対して、芹沢俊介さんはもっと幅広く「ひきこもり」をとらえる(ここでは説明する余裕がないので『引きこもるという情熱』〈雲母書房〉を参照してください)。引きこもるということを人間の属性のひとつだとしてポジティブに捉えるわけだ。この、「限定」と「属性」は、「ひきこもり」の定義に決定的につきまとう対立であり、何も斎藤さんと芹沢さんが個人的に喧嘩しているわけではない。そもそも、「ひきこもり」という日本語の言葉自体が限定化を許さないのだが、その生活の状態を臨床的に限定して語れないわけでもない(というかあらゆる精神的な「疾患」において、臨床家の元に家族や本人が相談に来たとき、これを臨床的に定義する必要に迫られる)。精神医学が病を作り出すというこうした構造に、当たり前だが反発する人もいる。たとえば限定され定義された者が「分裂病」であればその名付けに反発するには相当のガッツと知識力が必要になるが、「ひきこもり」は元々その言葉に日本語的曖昧さを抱えているのですぐに反論することができ、それが斎藤vs芹沢に象徴される図式へと現実化する。
このように「ひきこもり」は曖昧で、永遠の定義付け問題でもあるのだが、そうした「もういい加減にしてくれよ」的行き詰まり感を、「当事者」は打ち破るような気がする。とにかくそれは、第3者の議論で用いられる「当事者」ではなく、本人たちから沸き起こってきた主体的な名付けとしての「当事者」なのだから。
視点を変えて考えると、僕がこの当事者という言葉を聞いて戸惑ったということは、「ひきこもり」問題がついに、第3者や援助者がごちゃごちゃ議論する段階から、当事者自身で語る段階に移行したことに対して、直感的に引いてしまったということなのかもしれない。いままで「ひきこもり」議論の中心は、明らかに援助者や第3者だった。つまり、まわりの者たちの言説が、本人たちの思考形成を導いてきた。言い換えると、援助者や第3者のほうが本人たちよりも“権力”側にあったということだ(ここには、「聞く側」のほうが「告白する側」より力関係において上位にあるという某哲学的議論も背景にあるが、それには深入りしない)。しかしその図式が「当事者」の出現により、覆されつつある。僕の抱いた戸惑いは、権力者としての援助者である僕という人物が、その力関係を転覆するかもしれない当事者に対して恐れを抱いたということかもしれない。
こうして当事者は当事者として主体的になったものの、この当事者は非常に微妙な立場に立たされる。どういうことかというと、「ひきこもり当事者」として自己同一化・主体化・自己肯定できても、本人たちの悩みである経済問題は一向に解決しないからだ。要するに「自分でお金を稼げない」という最初からの問題が残っている。微妙というのはこの点のことで、つまり、当事者になり自己肯定してしまった今、そこから先はその人の力が試されるということになるからだ。その時点で「ひきこもり」という問題を離れて、もっと大きな「人生」という問題に拡大される。そして、現代の競争社会において、その人生上での楽しさや苦しさは、単なる「才能」とか「性格」に還元されることが多い。逆にいうと、当事者になってしまうと、「ひきこもり」として社会は見ず、「才能」や「性格」を厳しく判断されるという逆説が生じる。当事者になってしまったとたん、競争社会のプレッシャーがバリアー(これは「援助」と言い換えてもいい)なく押し寄せてくるということだ。
もうひとつの問題は、当事者になったとしても恋愛問題の解消が追いついてこないということだ。この話も経済問題とともに、たくさんの当事者から聞く(僕が男性だから話しやすいからだろうが、特に男性から聞く)。よくよく話していくと、実はこちらのほうが大問題だったりするのだが、これに関しても、当事者という自己肯定ではすぐにはどうにもならない。恋愛に関しては、仕事ほど社会や常識はプレッシャーをかけてこないにしろ、反対に本人たちの内面での焦りが強いようだ。また、社会ははっきりとプレッシャーをかけてこないが、そこにも冷徹な「性格」や「才能」の論理は働いている。
当事者になっても、経済問題と恋愛問題は容易に解決しない。ここにおいて、当事者が捻れてくる恐れがある。精神的不調が定期的に訪れたり、自助グループなどでは、言葉は悪いが「不幸自慢」なども多いだろう。そこには従来通りの社会や家族に対する恨みも含まれているだろう。つまり、「当事者」は常に揺らぎ続ける。これまで「ひきこもり」議論において、家にひきこもっている人や援助機関に通っている人(つまり「被援助者としてのひきこもり」)のほうがしんどくて、自助グループに出ることができる人はだいぶ「回復」した人だといわれてきたが、僕はここにきてそう単純でもないと思い始めた。当事者となった人たち、つまりやや「回復」した人たちの中には、ちっとも楽でない人がいるのだ。その人たちはなかなか経済問題も解決できず、完全な被援助者に戻ることもできず、恋愛関係も築けず、苦しい「当事者」としての人生を送ることになる。精神病者という被援助者ではなく(もちろんこの生も十分しんどいのだが)、「ひきこもり当事者」となったとき、そこには独特の捻れた苦しみがある。
しかし僕は、ここからが、当事者として自己同一化した人たちがそうした当事者になった意味がある、とこの頃思うようになった。それは一言でいうと、「ひきこもり」というマイナー性を肯定的に引き受けた当事者であるがゆえに、ポジティブに行動できるということだ。
その「行動」に関して簡潔に提示するのが今回の結論となるのだが、その前に当事者の抱える問題を簡単に列挙してみよう。その際、以前本誌や『少年育成』で書いた「仕事とは何か」が参考になるかもしれない。詳しくはそちらを参照していただくにして、同稿では「仕事」には、@「『仕事をしなければいけない』といった規範や常識」、A「『おカネがなければ生活できない』という経済問題」(以前は「労働力を所有する」と表現していたが、「おカネ=生活=生命維持」という側面を強調するため、より単純化した)、B「『自分にはやりたいことや夢がない』といった実存的問題」の3つのレベルがあるとした。これらをそれぞれ、「規範/常識」「おカネ」「夢」としよう。
さらに仕事とは別の角度から、「恋愛問題」と「精神的不調」を加える。その理由は、恋愛に関しては上に書いたとおりだが、ここではより広い「対人関係/コミュニケーション」はそれなりに個々の中で折り合いがついているものとみなし、恋愛に絞り込む。もうひとつの「精神的不調」は、当事者になったあとも鬱などの症状として現れるものを指している。
このように当事者の大きな問題として、@規範/常識、Aおカネ、B夢、C恋愛、D精神的不調、の5つが考えられる。
まず、Dの精神的不調に関しては、これまで通り、医療とカウンセリング、または自助グループで補う。ここで、当事者が被援助者としての当事者に戻ったなどの定義付け問題が再び浮上するだろうが、ここでは深入りしない。ここでは自己肯定している当事者の問題を考えている。Bの夢は、かなり危うい面を持っている。というのも、「ひきこもり」の人は夢を抱かないわけではない。ただ、その夢の大きさ(夢は誰でも大きいものだ)によって逆に現在の自分を矮小化させてしまう。そして現実的な夢を描こうとするが、「ひきこもり」による停滞と規範的拘束のためにそれを考えることが現在の自分を責めることになる(「働かなくてはいけないけど、簡単なバイトさえ長続きしない」と本人が思う)。つまり実存的な問題の裏にはある種規範的な問題がちらついており、そちらの乗り越えのほうが、行動の順番としては先にある。
次に、Aのおカネに関しては、実は対処方法としてはいたってシンプルだ。これはつまり、親に全面的に依存するか一部をバイトで補うということだ。従来の「ひきこもり」問題は、ここで議論がストップしていたからこそ息詰まってしまったと僕は考える。また、この点において「親の教育」に直結させ、「こんな自分になったのは親のせいだ」としてルサンチマン的に親に出費させるのも停滞だと僕は思う。当事者になった人は負い目を感じてはならない。
なぜかといえば、当事者には働くことよりも大事なことがあるからだ。働くことをもちろん軽視してはいないが、それよりも前に、当事者になったはいいが苦しみの原因のひとつである、「規範/常識」の転覆のほうが先にあると思う。「ひきこもり」の苦しさには、精神的な諸症状の前に、この「規範/常識」から来る圧迫感・劣等感・取り残され感などが大きく働いている。それを当事者だけが転覆させることができる。被援助者としての当事者ではなく、主体的な当事者だけがこれを行なえる。なぜなら、当事者はマイナーな存在でありながら、そのマイナー性そのものが現在の規範や常識を揺さぶるものだからだ。「ひきこもり」を社会問題化させる諸常識や規範、つまり仕事や家族に関する常識(働いて一人前、男が家族を養う、年をとるにつれて生活が豊かになる等の、数多いべたな諸常識や規範)は、その諸常識があるがゆえにマイナーな存在へと追いやられた人たちにしか問うことはできない。そしてその典型的問題が「ひきこもり」であり、それができるのは、主体的な当事者だけなのだ。援助者としての僕ではまったくダメで、被援助者としての当事者にはそこまでの力がまだない。
かといって芹沢さんのように「規範からもひきこもれ」というのは理論的すぎるだろう(前掲書参照)。僕が思うに、まずは当事者の行動すべてが規範の転覆要素となる。だからルサンチマン的言説でも言わないよりはましだ。しかしこの点にとどまらず(多くの当事者発言はここでストップする)、「転覆要素としての当事者」をより意識した行動をとる。たとえば、自助グループ内において、心理的フォローではない、現在の常識や規範を議論する会を開く。「恋愛ができない」のであればそれをテーマにした会を開いたり、ネット上で議論する(個々の性に関するバイアスに気づくだろうが、同時に恋愛に関する規範の問い直しができる)。また、バイトを意識的に短期間でやめ、バイト先で出会った人々の規範的な意識とか、バイト先の諸ルールについて検証する。挙げていけばきりがないが、自分の考えを文字として言語化するのも非常に有効だ。その際、『NHKへようこそ』(滝本竜彦作、角川書店)のようなユーモアを交えたもののほうが戦略的には有効だと思えるが、センチメンタルなものでも攻撃的なものでもかまわない。
とにかく「ひきこもり」を圧迫する諸規範は社会の中に網の目のようなかたちで無数に存在する。それらに当事者としていかに反応するか。「ひきこもり」を追い込む社会に対してデモなんかしても現在ではそれほど意味はない。有意義なのは、個々が「転覆要素としての当事者」であることを自覚し、行動することだ。その行動は、上記のような派手なものでなくても、何でもよい。一人で行なう日常の行動の中に、その転覆・攪乱のチャンスはいくらでも転がっている。重要なのは当事者として規範の網の目を切断すること、ないし揺さぶることだ。
しかし、実は以上のような行動の多くはすでに行なわれている。そしてそれらの行動は、ほとんどが当人たちによって必死の思いで繰り広げられてきた。だがその必死さにもかかわらず、それらの行動は諸規範の転覆にはなかなかつながらず、どちらかというと、親子関係に焦点が絞られたり当人たちの内面の問題に集約されたりした。というのも、そこには諸規範を疑うという視点に確固としたものがなかったからだ。そしてまた、「ひきこもり」の人はひきこもりであるがゆえに、そうした能動的行為は難しいと本人もまわりも思ってきたからだ。
それらの難関を乗り越えるために当事者が出現した、と僕は思う。もちろん当事者といったって、日々揺れる。精神的不調もある。しかし、当事者の苦しみは、当事者になってしまうと、当事者にしか解決できないのではないか。もしもこうした行動が無理であれば、道は2つ、被援助者としての当事者に戻るか、当事者であることを(または当事者をひきうけることを)やめて、規範側の人間になるかだろう。いずれも当事者次第だが、まずは、今回のような原稿をついに書けるようになったことが僕は素直に嬉しい。「ひきこもり」の第2段階の問題ともいえる当事者たちの悩みは、これまでのように援助者や第3者の言説が中心ではなく当事者自身の行動が鍵を握っているのだと、僕は言うことができた。僕が書けるのはこうした提案までで、このテーマに関しては当事者からの応答が必要になってくるだろう。
残念ながら、恋愛に関してはここでは詳しくとりあげることがてきなかった。僕としては、行動とともに恋愛のチャンスは生じると楽観視しているのだが、この恋愛というテーマこそが、ルサンチマンを払拭しなければ結実化しない典型的テーマだとも思う。★