修士論文(大阪大学文学研究科文化形態論専攻 臨床哲学)……03年1月提出
心的外傷と反復
ドゥルーズ、フロイト、ハーマンの外傷論について
(HPにコピーする際、フランス語が化けており、また、たくさんある注も一つひとつコピーする必要があるので後回しになっています。文中に変な数字が紛れ込んでいる箇所が、本来注があるところです。分量は、400字詰め原稿用紙で約180枚です)
田中俊英
目次
0.はじめに
1章.起源と幻想
1.フロイトの外傷論
2.ハーマンのフロイト批判と「回復」
2章.反復と外傷
1.現在と物質的反復
2.過去と精神的反復
3.究極的項としての起源
4.潜在的対象
3章.ドゥルーズと反復
1.外傷と傷
2.幻想と出来事
4.おわりに
文献
注(コピー&ペースト未)
0.はじめに
個人的な話になるが、私はここ10年ほど、不登校の子どもやいわゆる「ひきこもり」の青年達を支援する仕事をしてきた。その具体的な仕事の内容はさておき、彼らと話していて常にぶつかる問題がある。それは、彼らが抱えているらしい「いやな記憶」のことだ。その多くが学校や家庭での人間関係をめぐる事件――「いじめ」などという大雑把な言葉で表せない、各個人にしかわからない「いや」で「思い出すだけで気分が滅入る」話であり、青年達との会話の内容が深刻なものになってくると必ずといっていいほど現れてくる問題だ。
彼らのそうした状態のあり方や記憶の言語化・治療については、医学的に診断名がついたり手法化されていることだろう。たとえばそうした「いやな記憶」の中のあるものは、「心的外傷
trauma」と呼ばれ、そこから現れる症状をもとに「PTSD 心的外傷後ストレス障害 Post Traumatic Stress
Disorder」と診断されている人もいる。そして、PTSD研究に関する代表的な書物が、本論文でも取り上げるJ.L.ハーマンの『心的外傷と回復』でもある。
心的外傷が専門的に定義され組み込まれていく一方で、そこに入りきらない、つまり症状としては判断しやすい状態を示さない人たちが抱えるさまざまな「いやな記憶」も、心的外傷~トラウマとして人々の会話に日常的に現れる。それは、私が日常青年達と交わす会話の中にも普通に出現する。彼らにとって、そうした「いやな記憶」は立派に心的外傷であり、その記憶があるからこそ、現在の停滞があるものだという。その記憶こそが、現在自分の原点・起源であり、もうその記憶は消えることはないのだろうから、消えることを期待するよりはその記憶といかに共存していくかだ、といったことも会話に出る。それでもなおやっかいなのは、そのイメージが繰り返し「いやなもの」として、つまり現在の自分の停滞を拘束する作用をもって現れるということだ。
しかし、その消え去らないと我々が思っている「記憶」とは何なのだろうか。それはもしかすると、知らず知らずのうちに何か特定の様式として我々に組み込まれているものなのかもしれない。そして、その枠内でしか我々は過去を語れなくなっているのかもしれない。またそれだからこそ、いつも過去ばかりを向いてしまうのかもしれない。そんなことを徐々に考えるようになり、それと合わせて、そもそも心的外傷とは何なのか、それが現実だとすればそれはいかなる意味で現実か、その現れ方は我々にとっていかにして「反復」となるか、といったことを考えるようになった。
このように、本論文は、私自身の日常の仕事から長年抱いてきた問い、あるいは外傷議論に付随する何か「物足りなさ」が出発点になっている。だが、こうした単純な問いから本論文は始まっているものの、それを雑感レベルでとどめるのではなく、こうした問いをより理論的に追求するためにドゥルーズの差異と反復の哲学を検討することにした。具体的には主著『差異と反復』2章における精神分析論が主な対象となる。そこでドゥルーズは独自の立場から、心的外傷を起源とみなし反復を閉塞的なものとして捉える通常の思考様式を批判する。その議論を、たとえば上に書いた青年達がつぶやいたり私が長年思考してきた行き詰まりからの、転覆のアイテムとして使えないものか。
ドゥルーズの立場と比較すると、フロイトの精神分析とそれを批判するハーマンは、実は同じ場所に立っている。ハーマンは書名にもあるように、心的外傷を事実としての起源とみなし、そこからの「回復」を目指す。フロイトはその広大な射程において、起源に関しても反復に関しても論じてはいるものの、起源を特定しそれを除去し治療するという視点はハーマンと変わらない。ただフロイトが奇妙なのは、ドゥルーズの視点と重なることもある点だ。
以上、ドゥルーズはその独自の視点が重要であると思えることから、フロイトはドゥルーズが対象としていることから、ハーマンはその主著がトラウマ論を代表することから、その3人を取り上げる。だが中心はドゥルーズになる。なぜなら、その議論を示すことで、精神医学的ではない、外傷的出来事に関するひとつの見方が提示できると考えるからだ。沛ヘは主としてフロイトの外傷論と、ハーマンのフロイト批判およびその「回復」プログラムをみる。章はドゥルーズの時間論と精神分析論を検証しつつ、起源や通常の反復ではない、差異と反復の思考をみる。。章はドゥルーズの議論が結局何を提唱しているのかを検討し、心的外傷に関してまとわりつく「物足りなさ」を埋めるものとしてその哲学を捉える。
1章.起源と幻想
心的外傷論が複雑に思えてしまうのは、なにはともあれフロイトの外傷論が紆余曲折してきたからなのかもしれない。おおまかにいって、フロイトの外傷論は「事実」から「幻想」へとその寄って立つ基盤を変更したと言われる。つまり、心的外傷の原因となる出来事は事実として実際にあったことである、という見方から、それは内的な幻想を基盤とするという見方への変更だ。年代的には、1895年にブロイアーと共に出版した『ヒステリー研究』、未刊行だが同年に友人フリースだけに送った『科学的心理学草稿』(刊行はフロイト没後の1950年)が、「事実」としての心的外傷論の代表的著作だろう。その後フリースとの文通や父親の死後にすすめた自己分析を経て1900年に『夢判断』を出版する。この時期から1905年の『性理論3編』1
あたりまでが精神分析の確立期であり、それと並行するようにして1890年代の事実としての外傷論から幻想としての外傷論に変更したといわれる。フロイトは膨大な数の論文を残しているが、本章1節では、その中からここでは心的外傷に絞って、フロイトの議論の変遷を押さえる。
2節では、フロイトの幻想への傾斜に関するハーマンの批判点を述べたあと、ハーマンが具体的プログラムとして提示する「回復」を検討する。幻想を批判するハーマンの姿勢と、「自己」への統合や断片化した「記憶」を物語化させることを回復に組み込むハーマンの提案は、次章以降で検討するドゥルーズとは鮮やかな対称をなすはずだ。
1-1.フロイトの外傷論
フロイトの心的外傷を考える際、そこで何を対象として出発点にしたのかということを確認しておくと、後々の精神分析の展開も理解しやすい。それはつまり、精神分析は、ヒステリーの研究を出発点として、さまざまな重要な基本概念を導き出したということだ。ヒステリーとは多くの場合、思春期やその他人生のなかで危機的状況時に発症する神経症で、歩行困難や四肢の麻痺などの運動障害や、偏頭痛や身体の一部の感覚麻痺などの感覚障害、失声などの知覚器官障害などの身体症状として現れる。他に、健忘や偽性昏睡などの症状もある。現在の精神医学の疾病分類では、DSM。以降、この名称は消え去り、症状によって身体表現性障害・解離性障害・人格障害などに分けられている2
。
心的外傷に関しても、元々はヒステリー患者が示す症状が外傷性神経症3 患者が示す症状と似ていたことがきっかけだった。『ヒステリー研究』冒頭に収められた「予報」の中でフロイトは、「普通のヒステリーと外傷性神経症とのあいだには病原上の類似性がある」(『研究』11
頁)4と書き、両神経症を比較する。「外傷性神経症にあって、有効な病因となるのは、むろん区々たる肉体的障害ではなく、恐怖感すなわち心的外傷なのである。これと似たことだが、われわれの研究からも、ほとんどすべてとまでいかずとも、多くのヒステリー症状には、心的外傷と呼ばざるをえない誘因のあることが明らかにされている。恐怖、不安、恥辱、心的苦痛のような苦痛な情動を呼び起こすような体験はすべて、心的外傷として作用しうるのである」(『研究』11頁)
興味深いことに、それから25年後に書いた『快感原則の彼岸』においてもフロイトは、両神経症を比較する。この論文はよく知られたように「反復強迫」5
を全面的に論じたものであり、後期フロイトの中では重要文献である。『ヒステリー研究』は精神分析草創期であり、まだ幼児の性理論などは現れていない。しかし『快感原則』の時期になると、重要症例やメタ心理学の論文もこれ以前にすでに書かれ、精神分析は大きな学問的うねりとして定着していた。研究テーマにおいて『ヒステリー研究』ではヒステリーが、『快感原則』においては反復強迫が扱われている。そのように両書は位置づけが異なるが、外傷性神経症とヒステリーを比較している記述には似通ったものがある。たとえば、このようなものだ。
「外傷性神経症の状態像は、類似の運動性症状が豊富な点で、ヒステリーに近い。しかし、通常、心気症や、メランコリーの場合と同じように主観的な苦痛のいちじるしい徴候と、精神活動の広い範囲にわたる一般的な衰弱や混乱の徴候がある点で、ヒステリーをしのいでいる」(『彼岸』154頁)6
。続いてフロイトは、夢の研究も取り上げ、外傷性神経症では患者は災害等の場面の夢を繰り返し見ること、そしてヒステリーでもその病気の原因である体験に心理的に「固着」することを指摘し(「患者はいわば外傷に固着している」『彼岸』155頁)、両者の類似点を元々の「体験への固着」があることだとする7
。
『快感原則』では、外傷性神経症の体験の特色として「驚愕」がまず挙げられている。驚愕は、不安と恐怖に比べて、危険に対する関係において異なる。不安は「たとえ未知のものであっても、危険の予期とそれに対する準備のような一定の状態を示している」、恐怖には「特定の対象が必要であり、その対象に対して人が恐れをいだく」。しかし驚愕は、「人が無準備で危険におそわれたときに陥る状態を呼ぶのであって、不意打ちの要素を強調する」(『彼岸』154頁)。
『ヒステリー研究』では、そのような驚愕によって痕跡化された心的外傷がなぜいつまでも新鮮なものとして現れるのかはすでに扱われていた。通常、人は、ある回想に関して、情動の発散(たとえば泣くこと)や言語化によって深刻な反応を除去する。またその回想がより大きな連想の中に入り込み、現在の安全の意識と共に徐々にそれは消滅していく、とフロイトは忘却の機制を述べる。
そうされなかったものが心的外傷であり、それには2つの系列がある。1つは、愛する人を失ったり、患者が「忘れたいと思っていて、そのために故意に意識的思考からこれを追い出して」(『研究』16頁)しまった場合など。もう1つは、回想内容ではなく、「当の体験をした際の患者の心理状態によって規定されるもの」だ(『研究』16頁)。それらは、驚愕のような情動のもとに発生したもの、白昼夢のような朦朧状態でのものなどである。ただし、そこでの患者の体験と心理状態に触れてはいるものの、ここではまだ体験の事実性についてはフロイトは疑いを抱いてはいない。
外傷性神経症とヒステリーの比較から、2つの神経症の誘因として類似する心的外傷の特徴をフロイトは導き出した。それは一言で述べると、驚愕したことにより忘却できず、現在さまざまな症状をひきおこす、過去に現実に体験した出来事、となる。辞典というよりはフロイト精神分析の優れた研究書であるラプランシュとポンタリス著『精神分析用語辞典』では、外傷について「主体の生活中におこる事件で、それが強烈であること、主体がそれに適切に反応することができないこと、心的組織の中で長く病因となりつづけるような混乱やその他の諸効果をひきおこすこと、等によって定義づけられる」8
としており、精神分析でいう心的外傷は、強烈な驚愕体験、通常の忘却反応が不能、その後の行動への影響などを併せ持つものと位置づけてもいいだろう。
しかし、精神分析確立期においてフロイトは、主としてヒステリーを出発点として心的外傷を研究したようだ。1915年の講義録『精神分析入門』では、外傷への「固着」においてヒステリーと外傷性神経症は一致するものの、「外傷性神経症を精神分析の観点によって解釈することには成功していません」(『入門』226頁)9
と述べられる。また最晩年(1938年)の論文『精神分析概説』においてもこんな一節がある。「その後の神経症的疾患は、すべてこの幼児期の序曲を出発点としてそこから始まっているのである。おそらく、外傷性神経症といわれるもの(列車の衝突、土砂埋没のような極度の恐怖、激しい身体的衝撃によるもの)は例外であろう。外傷性神経症の幼児期の条件に対する関係はこれまで研究されていない」10
。これらからもわかるとおり、フロイトにとって外傷性神経症における外傷とは主として災害や戦争などを指し、幼児期の外傷体験(事実であれ幻想であれ)は外傷性神経症ではなく、多くの場合ヒステリーの範疇で検討されているようだ。このように、外傷性神経症は、ヒステリーにおける心的外傷を解くために導入されたように思われる。フロイトの著作で扱われる外傷は、特に精神分析確立期においては主としてヒステリーを対象とし、心的外傷の事実性を疑い、そこでの幻想性に焦点を当て始めるのも、ヒステリー研究が中心だったということだ。そこで、フロイトの外傷論を考えるために、ここではヒステリーに焦点を当てることにする。
『ヒステリー研究』(「予報」)では、心的外傷は主に2つの系列(事件の重大性、患者の心理状態)のために忘却されないとしたが、これらは通常の意識状態には存在しない。それらの回想は、催眠状態になって初めて生き生きとした記憶として蘇る。後にフロイトは催眠療法を放棄するものの、ヒステリー患者にとって、それらの外傷的回想は他の記憶と比べて自由にならないという点は基本的に変わらない。そしてこの記憶は、何年たった後でも患者に影響を及ぼす。つまり、「われわれは、心的外傷、ないしはそれへの回想というものは、異物のようなものとして作用し、この異物は侵入後なおもやむことなく作用を及ぼし続ける原動力とみなされなければならない」(『研究』12頁)
同書に収められた症例では、「カタリーナ」がその典型だろう。10代の女性カタリーナは呼吸困難等の症状を示しているが、それは2年前に見た叔父と従姉の性交場面をきっかけとしている。フロイトとの面談の中で、それよりも何年も前の記憶が2つ現れる。それはまだカタリーナが性的知識を保たなかった頃で、1つは叔父に性的に襲われた事件(1度だけではない)、もう1つは叔父と従姉が抱き合っているのを目撃した事件であった。この2つの系列の事件を元々カタリーナは体験しており、それは長らく意識化されてはいなかったが、2年前の叔父と従姉の性交場面の目撃をきっかけとしてより以前の記憶が現れ、ここで初めてそれ以前の記憶は外傷となり、それがヒステリー(身体的症状としての転換ヒステリーと、男の顔の幻覚に恐怖する不安ヒステリー)として症状化されたという11
。
ここでまずヒステリーにおける心的外傷の特徴の1つがある。それは、性的「誘惑」ということで、ヒステリーにおける外傷は主として性的なものであるという点だ
。次節で取り上げるハーマンも指摘しているが、『ヒステリー研究』や『科学的心理学草稿』には、フロイトの分析過程で明らかになったさまざまな性的「誘惑」が報告されている。
次の特徴として「事後性」がある。フロイトは、2年前の性交場面の発見とそれ以前の事件を比べて、以前の事件が「事後的に」いかに外傷として作用するかということをこのように述べる。「性的外傷にもとづくヒステリーを分析すればすぐに分かることであるが、性の支配する以前の時期に得た印象は、子どもに対しては何らの作用をあらわさないままになっているが、のちに処女または人妻として性生活を理解するに至った時、回想として、外傷的な威力をもつようになるのである」(『研究』106頁)。この、新しい事件をきっかけとして、以前の体験(それは主として思春期以前)が事後的に生々しい心的外傷となるという点が、ヒステリーの心的外傷の特徴だろう。たとえば同時期に書かれた『心理学草稿』ではこの点をこうまとめる。「ある回想が抑圧され、ずっとあとになってはじめて外傷になったという例は、いたるところに見出される。そしてこのような事態の原因は、本人の他の発達に比べて思春期(の性的成熟)が遅滞しているという点にある」12
。これらは言い換えると、回想することで外傷になるということでもある。つまり事件そのものではなく、事後的に記憶が外傷作用を起こすということだ。ここで、フロイトが記憶をどう捉えていたかということが問題になってくる。
もうひとつの特徴は、カタリーナ症例におけるフロイトの指摘にある。それは第2の場面(思春期以降に目撃した性交場面)のことで、この第2の場面は、第1の体験群(思春期以前)を呼び起こす補助的体験にとどまらず、これ自体が外傷的でもあるということだ。「この場面は『補助的』契機の性格と外傷的契機の性格とを合わせもっている」(『研究』106頁)とされる。
以上、フロイトが考えるヒステリーにおける外傷の3つの特徴を挙げてみた。それは、@性的「誘惑」、A「事後性」 、B「2番目の場面の外傷性」の3つだ。『ヒステリー研究』の時点では、これらの要素を総合して心的外傷と読みとることが当時の外傷概念に近いように思われる。重要なのは「誘惑」の第1の場面なのだが、これは事後的になって初めて外傷的動揺を患者にもたらす。つまり、記憶の回想により第1の場面は外傷となる。その事後性は、第2の場面との遭遇と症状の発現、過去へと遡及し記憶を蘇らせようとする分析の場があって可能になる。本論文では章で、この「第2の場面の起源には第1の場面があり、そこには記憶が介在する」ということについて検討することになる。
さて、『ヒステリー研究』や『心理学草稿』の時点では自明視されていた外傷の事実性が、徐々に疑われ始める。それは、フロイトの死後出版された『フリースへの手紙』13
の中にまざまざと記録されており、時期的には1897年5月頃から始まっている。たとえば5月31日の手紙に付けられた「草稿N」には、「記憶から道は分岐しているように見える。記憶の一部は空想によって遮られ、置き換えられる」(『手紙』259頁)とある。また7月7日の手紙では、「記憶に対する防衛は、より高度な心的形成物がその記憶から発生するのをさまたげない」(『手紙』264頁)とし、その心的形成物は「記憶の変造されたものと空想」(『手紙』264頁)だとある。そしてついに9月21日の手紙には、「僕は自分の神経症学をもう信用していません」(『手紙』274頁)と打ち明け、その動機として以下の4つを挙げる。1つめは、分析の終了の困難さ。2つめは、すべての症例において、子どもに対して父親の罪が背負わされているが、子どもに対する倒錯(性的虐待・誘惑のことだと思われる)がそれほど広がっているとは考えにくいこと。3つめは、無意識には「現実性の標識」がないため、真実と作り話が区別できないということ。4つめは、最も深刻な精神病においては無意識の記憶は漏れ出ることはないため、青少年時代の記憶は譫妄状態においても明るみに出ないということ。以上の4点が手紙らしく荒削りに列挙されている。
1915年の講義録『精神分析入門』23講「症状形成の諸経路」で、フロイトは第1の場面の幻想性について述べることになるのだが、同書では、上に述べた第1の場面(「誘惑」)と第2の場面が以下のように新たに図式化されて整理されたことも目を引く(『入門』298頁)。
神経症の原因=リビドー固着による素因+偶発的体験(外傷的)
性的体質(先史的体験)─┴─幼児体験
このようにフロイトは、第1の場面を「リビドー固着による素因」とし、第2の場面を「偶発的体験(外傷的)」とする。前者はさらに遺伝的な「性的体質」と「幼児体験」に分けられる。リビドー固着とは、無意識の心的エネルギーであるリビドー14
が、自我や外部の抵抗にあい欲望を果たせずに無意識へと逆流し、その時点に留まることを指すのだが、それは心的外傷を考える際に無意識で起こっている諸運動のレベルにある問題なので、詳しい検証は-3に譲る。ここでは過去に固着した地点にリビドーが退行する、このことをフロイトが神経症の原因の1つと呼んでいるということを押さえておく。そして、リビドーが向かう固着点こそが、まさに遺伝的なものと幼児体験であり、それに加えて後の外傷的体験をこうして明確に図式化したことに焦点を当てよう。
先の説明では、心的外傷について、第1の場面と第2の場面が事後性という複雑な要素を含みながら混合したものとした。ここでは、より以前の問題の1つとして「性的体質」という遺伝的なものを導入する。しかし、遺伝的体質を強調しはするものの、フロイトは幼児期の体験を軽視してはいけないとし、「むしろこれは特別に評価されるべきもの」と続ける。「幼児期の体験は、まだその発達が未完成な時期に起こるものであるだけに、なおのこと重大な結果をもたらします。この事情によってこそ、この種の体験は外傷的に作用するのに適しているのです」(『入門』298頁)。
幼児期の素因と後の外傷的体験は、どちらかに優先的に比重を置かれるものでのもなく、それは「相補系列」をなす。たとえば遺伝的素因が大きれば幼児期の体験そのものはそれほど重大なものでなくても十分に後に影響を残し、また、後の外傷体験が大きければ、幼児期の体験や遺伝的素因の影響が小さくても症状として大きくなる可能性がある。相補系列とはこうした関係にあるものだ。これについてフロイトはこう述べる。「この系列内では2つの要因――性的素質(さらにこれが遺伝と幼児体験に分かれる・筆者注)と体験、あるいはリビドー固着と拒否といってもよろしいでしょう――は、一方が減れば他方が増大するという関係になっています」(『入門』286頁)。
さて、このように心的外傷を位置づけしなおした後で、いよいよフロイトは、「実に意外」で「我々を戸惑わせる」ような「新事実」を提出する。それがつまりは「幻想
phantasie,fantasme」の重視だ。ここで取り上げられるのは第1の場面であり、この説明を行なう中で、フロイトが第1の場面を、『ヒステリー研究』の時期のように、容易に外傷と名づけないことがわかってくる。フロイトは「意外というのは、幼児期のある光景というものが、実は必ずしも真実ではないということです」(『入門』302頁)と断ったうえで、それらの体験には幻想が含まれていることがあるという。
ただしフロイトは、患者が話す幼児体験について、それは事実の時もあるし幻想の時もあるとし、たいていは2つが混じり合っていると指摘する。フロイトは、患者の想起からはそれが事実なのか幻想なのかは判別しがたく、むしろ臨床において重要な点は、その想起され構成された心的産物が患者にとって「心的現実」だということだ、とする。患者が幻想をつくりだしたことは、患者にとってはあくまで事実であり、これは患者にとっては重要な意味を持つ。つまり幻想は、「物的現実性とは反対に心的現実性をもっているのです。そして、神経症の世界では心的現実性が決定的なものであるということをわれわれは次第に了解するようになるでしょう」(『入門』304頁)。
フロイトは続けて、心的現実として重要な幼児体験として、大人(主として父親)あるいは同じ子どもからの性的誘惑、原光景(両親の性交場面)の目撃、大人による去勢の脅しをあげた後、幼児体験において幻想と事実の割合はいまだ明らかになっていないものの、その両者の相補系列性を再び指摘する。
しかし、その視点はやはり幻想のほうに重点が置かれている。たとえば、性的誘惑であれば、幼児期後期に年上か同年輩の子供から受けた事実としての誘惑が、幻想による変形を受けて幼児期前期に移されたとされる。ここでの幻想の役割は、幼児期前期(前性器期)にあった自体愛15
的満足を、誘惑という幻想で覆い隠したり補ったりすることにあると説明される。また去勢であれば、自体愛的な「おしゃぶり」という行為を大人から注意されたことが去勢という幻想になったとされる。いずれも少しわかりにくいが、幼児期初期の満足体験16
とそれを隠したり補う幻想(誘惑や去勢)が「固着」点となっており、それが事後的に第1の場面の外傷になっていると理解できる。
そしてフロイトは、こうした幻想の源として、「原幻想」という一種の系統発生的要因があるのではないか、と問題提起する。誘惑・原光景(を頻繁に幼児が目撃すること)・去勢は、先史時代には現実であったのであり、神経症患者はそれら古代の遺物を保存しているというのだ。
整理すると、上の図式中の幼児体験は正確には現実と幻想にさらに分かれており、両者の混合によって作り出された外傷的事件に固着することで、幼児体験が形成される。これには遺伝的な原幻想の作用が働いている。そこに第2の外傷的体験が加わる。-3と4で再び検討することになるが、ここには自体愛のような幼児性欲の概念をとりいれたことが影響している。また幻想を導入したことによって、フロイトからすると明確に外傷といえるのは第2の場面だけなのかもしれないが、心的現実としては第1の場面は事後的に外傷となるのは「事実」なのだから、その外傷的意味合いはなくならないだろう。このように、ヒステリー研究から浮かび上がった外傷の探求は、幻想の導入により、よりあいまいで拡大された意味を持つものとなった。
以上、本節では、フロイトの精神分析草創期と確立期の2つの時期に絞り込んで、その心的外傷論の変遷の概略を見た。精神分析の草創期から確立期にかけて、外傷研究の主な対象はヒステリーである。外傷を受けた時期については、草創期も確立期も外傷は2段階に分かれる。「外傷は事実か幻想か」では、草創期は事実であるとし、確立期は事実と幻想の混合であるとしてむしろ「心的現実」性に重きを置く。外傷の起源性については、草創期は第1の場面とし、確立期は幼児期の心的現実性に系統発生的要素を加える。つまりフロイトの心的外傷考察の基盤には、外傷の起源を探るという点と外傷の幻想性という点、まとめると「起源」と「幻想」の2点があるようだ。この2点が、フロイトから飛び出て、それらを問い直すドゥルーズの議論へと接続する結び目ともなる。
しかしその前に、ハーマンの外傷論とその回復プログラムにふれておくことで、ドゥルーズの問題意識がより明確になるはずだ。
1-2. ハーマンのフロイト批判と「回復」
ハーマンの主著『心的外傷と回復』は大きく2部構成をとっており、1部は心的外傷の歴史・概念・外傷別分類など、2部はPTSDに対する「回復」の一連の過程を説明している17
。膨大な臨床事例と文献に基づいた分析、症状と治療の流れをシンプルに図式化したこと、フェミニズムを背景とした明確な論旨などで同書はおそらく現代の心的外傷に関する精神医学的な書物としてはバイブル的なものだろう。
まず、フロイトとハーマンの外傷に対する分類の違いは、本論文に関係する部分で言えば、フロイトはヒステリーと外傷性神経症を別物として捉えたが、ハーマンは大きくPTSDを概念化して捉え、その中にヒステリーも外傷性神経症(戦争や災害)も含ませ、長期に渡って性虐待や家庭内暴力を受けたものを「複雑性PTSD」として独立させることを提案している。PTSDはいまだ精神障害のどこに位置づけるべきか議論されているらしく、ハーマンの複雑性PTSDは1994年のDSM-「にも採用されなかった18
。2人の違いについては、フロイトは治療と同時に無意識や欲動などの「メタ心理学」の研究に向かったが、ハーマンはあくまで被害者の援助・治療を目的にしているという点もある。性的な外傷に関して、フロイトは多くの場合「誘惑
Verf殄rung,s仕uction,seduction」という表現をとるのに対して、ハーマンは「性的暴力と家庭内暴力 sexual
and domestic violence、性的虐待 sexual abuse、児童虐待 child abuse」などのより具体的な表現を用いる。性的あるいは家庭内での外傷は外傷史において重要な位置を占めており、戦争体験による外傷だけではなく、幼児・児童期の慢性的外傷がPTSDの射程に入った時点(70年代以降)で、フロイトとハーマンの領域が重なったといえる。
しかしここでは『心的外傷と回復』を詳しくみる余裕はない。そこで、前節でフロイトの外傷論を検討する中で現れた起源と幻想の問題のうち、まずは幻想の問題をみる。この問題は「外傷は事実か幻想か」と言い換えることもできるだろう。
これは、ヒステリーに始まる100年に及ぶ心的外傷の歴史を通して常に提出されてきたとハーマンは書く。「この分野の歴史を見れば、外傷後の障害を示す患者は尊重されケアされるべきものなのか、さげすまれるべきものなのか、ほんとうに被害者であって苦しんでいるのか詐病なのか、彼女らの語るところが真実なのか真実でないのか、真実でないとしたら空想の産物なのか悪意によってでっちあげたものなのか――という論争が激しく論じられている」(TR8,6頁)19
。外傷は事実かそうではないなのか、この問題はいまだに研究者や関係者の間では基本的な問題だという。しかしハーマンはそうした事件の事実性を当然視する立場をとる。そして、外傷的事件が事実かどうかという問題を一気に飛び越え、外傷的事件はまれにしか起こらない特別なものどころか、「レイプ、殴打などの性的暴力、家庭内暴力はいたるところにあるもので、女性の人生の一部になっており、通常の経験の範囲外などというのはとんでもない話」(TR33,46頁)と断言する。
よって、フロイトに対しては対称的な2つの立場からコメントしている。1つは精神分析草創期(1890年代)に対してで、そこでのフロイトは「自分の内面の防衛を克服して耳を傾ける熱情的探求心にとりつかれた男」(TR13,13頁)として紹介され、当時の研究は現代の臨床記録にも劣らない「緻密な論理のドキュメント」(TR13,14頁)であり、「フロイトの研究は女性の人生という未知の現実に最も深く分け入ったもの」(TR18,21)と評価される。ところがフロイトは上述のごとく、患者の話の中に徐々に幻想性を見ていくことになる。ハーマンの筆は突然硬直化し、前節で取り上げたフリースへの手紙にも触れながら、フロイトの研究が事実であれば当時のウィーンのあらゆる階級において幼少児に対する「倒錯」が広がっていることになり、フロイトは当惑したと指摘する。それ以降「ヒステリー患者と探求心に燃える医者とが共同作業をした時代」(TR14,15頁)は終焉を告げることになった。ハーマンは、そうした「ヒステリーの心的外傷説が廃墟と化した中からフロイトは精神分析を創設した」(TR14,15頁)とし、「20世紀の心理学理論の主流は女性達の現実を否認した」(TR14,15頁)上に築かれたとする。続けてこうも書く。「セクシュアリティは依然問診の中心的位置にあったが、現実に性関係が持たれた搾取的な社会的コンテクストは完全に無視されるようになった。精神分析は内面における欲望と幻想の消長を研究する学問になり、体験の実態から解離されてしまった」(TR14,15頁)。もっともハーマンは、これらの批判をフロイト個人の資質を問う(フロイトがもっていたであろう家父長的価値観や学者的出世願望)だけでなく、当時の社会の限界(女性の権利向上は認めるが男女平等は認めない科学者/男性社会)も考証している。
しかしいずれにしろフロイトの変遷を「体験の実体から解離」したものと捉え、その原因を、男性としての価値観の限界とフェミニズムへの押さえつけと見ている点は、「本書はその生命を女性解放運動に負うものである」と『心的外傷と回復』の冒頭(「謝辞」)で宣言するハーマンの立場を表現しているだろう。そしてその土台にはやはり、外傷を負わされた膨大な数の「生存者
survivor」(ハーマンは外傷にあったが存命した人や患者をこう表現する)の存在があり、実際に効果のある治療を確立するために、外傷の事実性を疑ってしまっては治療の出発点にさえ立てないということなのだろう。
ハーマンの批判の意図は十分理解できるが、本論文は、フロイトの幻想性への着目をドゥルーズの議論に照らし合わせることが目的であり、ドゥルーズと、ハーマンやフロイト(対ドゥルーズという点ではこの2人の位置は重なる)の関連性を探ることも目的に含まれる。そこに至るために先へ進もう。
さて次にハーマンにおける外傷の起源の問題だが、この点はフロイトと同じで、さまざまな症状の元である外傷の起源性というものは疑わない。言い換えると、あくまで臨床家の視点に立つハーマンからすると、症状には起源があるというのが、治療したり臨床現場を研究する上での条件なのだろう。そうした起源性を考えるとき、フロイトの『快感原則の彼岸』から「患者はいわば外傷に固着している」(『彼岸』155頁)という一文をハーマンが引用しているのは興味深い。これはPTSDの症状の1つである「侵入」の説明箇所で用いられる。「まるで時間が外傷の瞬間に停止したように」(TR37,52頁)記憶の中にとどまり、誘因があろうがなかろうがそれは覚醒時にフラッシュバックとして現れたり悪夢として現れる。「外傷は、生きのびた者の人生に繰り返し侵入」(TR37,52頁)し、それは「ことばを持たない凍りついた記憶」(TR37,53頁)と呼ばれ、物語性を欠き、「それは生々しい感覚とイメージとの形で刻みつけられている」(TR38,54頁)20
。それはまた「再演」としてその後時や場所を変えて繰り返される(たとえばハーマンは、レイプ後生存者がレイプされた場所を再び訪れたいと思っていたり、近親姦生存者が高速道路で男性ドライバー相手に起こした事故の事例を挙げている)。このような、外傷体験が何度も侵入したり再演されたりすることを「反復強迫」と名づけたのはフロイトであると、ハーマンは述べる。ここでいう「反復」については次章で考察するが、いずれにしろ、停止した瞬間が記憶に刻みつけられ、あるいは固着し、そうした起源としての外傷がその後の人生を襲い続けるという視点は、両者は共通している。
以上でハーマンがフロイトの起源と幻想をどう捉えるかをみた。次に、ハーマンの「回復」プログラムについて検討する。
『心的外傷と回復』にはおびただしい数の、外傷とその回復体験の事例が引用されている。本論文ではそれらを具体的にとりあげることはしないが、それら外傷体験の中核は「無力化」と人間関係の「離断」であるとする。だから同書の第2部では、そこからの回復の原則として、被害者の「力と統御
power and control」が戻ることと、人間関係の再構築を目指す。ここでいう「力」とは、それほど厳密なものではなく、「基本的信頼を創る能力」「自己決定を行なう能力」「積極的にことを始める能力」「自己が何であるかを見定める能力」「他者との親密関係を創る能力」などをいう(TR133,205頁)。またこの「統御」は、統御力を取り戻すということであり、そこには自己による統御する力という意味合いが含まれているようだ(邦訳では「自己統御」)。
ハーマンが用いる「自己 self」は、「自分は自分である」という心理学的アイデンティティのようなもの(TR52,77頁)、「基礎的な身体統一性」というのもの(TR53,78頁)、「自分以外の人々との関係において形成され維持されている自己」という他人との「感情的紐帯」(TR51,75頁)、などを意味する。こうした自己統御という力を回復し他者との新しいつながりを構築する、というのがハーマンの基本原則だが、これらの「自己」は、フロイト的には「自我」でありドゥルーズ的には「グローバルな自我」(章参照)と思えるのだが、「メタ心理学」の視点をハーマンが持たない以上、この点は比較が難しい。ただ「自己」に関してハーマンが強調するのは、回復は治療者が主役ではなく、あくまでも患者が自己統御のもとに遂行していくというものだ。ここでの自己は、自分の身体は自分で守ることのできる人、自分のことは自分で決定できる人、いやなことは自分の責任において拒否できる人を指し、まさに強大なセルフコントロールの力により、内面のコントロールできないもの(フロイトやドゥルーズであれば無意識とよぶもの)を「自己」に含ませるということだろう。
具体的な回復の過程は、「安全 safety」「想起と服喪追悼remembrance and mourning」「再結合 reconnection」の3段階に分けられる。「安全」とは、睡眠や食事などの身体機能の制御に始まり自己破壊的行動のコントロールに至る身体的なものと、安全な生活環境や経済的安定などの環境的なものに分かれる。これらの一つひとつに細かい配慮があるが、ここでは割愛しよう。問題は次の、「想起と服喪追悼」だ。
上述したように、「外傷的記憶」はストーリーをもっていない断片的 fragmentedなものだとハーマンはいう。このような「言葉を持たず、静止的である」(TR175,273頁)外傷的記憶を、回復の第2段階の「想起と服喪追悼」では、物語化していく。ハーマンはこう書く。「回復の第2段階とは生存者が外傷のストーリーを語る段階である。それは完全に、深く、細部にわたって語られる。この再構成の作業によって外傷的記憶は実際にかたちを変え、生存者のライフストーリーの中に統合される」(TR175,273頁)。その作業は、静的でバラバラのイメージと諸感覚を、患者と治療者は共同で寄せ集め、「言語による、具体的な、有機的構造を持った、時間の前後関係と歴史的文脈との方向づけのしっかりした物語を再構成していく」(TR176,276頁)。その際、絵画を用いることもあり、また、視覚や聴覚だけではなく、身体感覚や感情状態もすべて述べてもらうのだという。
その過程で、記憶の中の行方不明だった破片 missing piecesが現れてストーリーが修正されることもある。「患者も治療者もある程度の不確定性はよいとしなければならない」(TR179,280頁)とハーマンは述べ、ストーリーの再構成の目的は「統合
integration」(TR181,283頁)にあるという。「再構成の過程で外傷ストーリーの内容は一種の変化を起こすが、それはもっと現実的、もっと現在的になるという意味以外ではない。精神療法実践の基本的前提は、真実を語ることが自然治癒力を持つと信じることである」(TR181,283)。つまり、外傷体験は事実であるにしてもそれは完全に再構成されることは難しい、むしろ再構成の目的は、語ることによる自己への「統合」、そしてそこから生じる症状の軽減だということだろう。
再構成の作業の難しさは、記憶の喪失よりもその背景にある患者の恐怖感であり、これと対決し「この体験を、人生の物語を全面的に展開する中に統合すること」(TR184,288頁)にある。ハーマンは、この作業をフロイトがジグソーパズルにたとえたことを例に挙げている(TR184,288頁)21
。また、「患者の現在の日常体験にはふつう、解離されている過去の体験を聞く手がかりがたくさんある」(TR185,289頁)とハーマンは述べ、休日などの家庭行事がきっかけだったり、写真を見ること、家系図を作成すること、幼児期を過ごした場所を再訪することなども手がかりになる。そして、フラッシュバックや悪夢も再構成の手がかりになるという。
このように外傷的体験を再構成した後、「服喪追悼」の段階に移るが、これは再構成した外傷体験に関して十分悲しむ、または外傷で失ったものを悼むということだ。ハーマンはこの段階でのいくつかの困難な問題を挙げている。それらは、加害者に対しての復讐・つぐなわせなどの願望だが、ここでは深入りしない。
ハーマンは以上の回復の第2段階を「無時間的」だと表現し、再構成には必要なことだとしながらも、「怖ろしい」ことであり、それは「時間が凍りついて動かない過去の体験」(TR195,306頁)に沈潜することだという。しかしこれは回復のためには不可避の過程だとする。こうして外傷体験を再構成するなかで患者にある変化が訪れる。そのことをハーマンはこう書く。「何度も繰り返しているうちに、外傷ストーリーを話してももはや強烈な感情がかきたてられなくなる瞬間が来る。それは生存者の体験の一部となったのである。それは体験の一部にすぎない。いまやそのストーリーは他の記憶と変わることのない記憶となり、他の記憶が時とともに色あせていくように色あせはじめる」(TR195,306頁)。つまり、外傷を再構成化した結果得られた「記憶」は、他の諸「記憶」と同じような重量と存在感を持つにすぎなくなり、それまでのようなコントロール不能で荒馬のようなものではなくなる。かといってハーマンは、それらの「記憶」は忘却されないし日ごとに思い出しては悲しむだろうというのだが、しかし「外傷がもはや人生の中心の座を占めなくなるときがきた」(TR195,307頁)。このように、外傷は完全に消去されないものの、「第2段階は、患者が自分の歴史を取り戻し、人生にかかわる希望とエネルギーを新しくしえたと感じる時をもって主な作業を完了する」(TR195,307頁)。
このような第2段階が回復プロセスの中心だろう。次の「再結合」では「私は私自身の持ち主だということを知っている。 I know
that I have myself」(TR202,318頁)という言葉がシンボルマークだとされ、「たたかうことを学ぶ」「自分自身と和解する」「他者と再結合する」などの見出しからもわかるように、積極的な行動や他人とのつながりなどが目的となっていく。
この段階にも深入りしないが、「I know that I have myself」の「I」や「myself」は、先の「自己」と同じような使われ方をされているということには留意したい。
さて、「想起と服喪追悼」の第2段階を中心にハーマンの回復プログラムをみたわけだが、それをまとめると、とらえどころがなくコントロールできない物語以前の体験を、再構成の作業をすることで「記憶」とする。そして「時間の前後関係と歴史的文脈」を把握し、その「記憶」をそこにはめこみ、統合していく。そのためには「自己
self」や「I」や「myself」を揺らぎないものにしなければいけない。そうした確固とした自己に基づいて、記憶を自己のコントロール下におさめていく。いわば、断片化したものを自己のもとに統合する一連の過程が、回復の重要な段階だ。
しかし、回復の過程の中には、統合ではおさまらないものもあるように思える。それはたとえば、記憶の物語化のなかで、行方不明の破片が現れて外傷ストーリーが修正され変化するということだ。ハーマンはこれについて、外傷体験は完全に再構成は難しいとし、むしろ「真実を語ることに自然治癒力があると信じること」が重要だとしているのだが、これはフロイトの「心的現実」とほぼ同じ意味なのではないだろうか。フロイトは事実の中に幻想の存在を指摘したが、ハーマンは幻想は否定し完全な事実の再現は難しいとする。このことは、回復過程においては、幻想を含んだ事実にしろ完全復元が難しい事実にしろ、まず問題となるのはその心的現実性であることを示している。回復においては、幻想か事実かということよりも、心的現実を認めるほうが先にあるということだ。そして、いずれにしろその心的現実性には、その症状のもととなった起源を探るということが含まれているように思える。
また、記憶の物語化の中で、「破片」や「断片」が常に現れ物語は修正されるとされるが、ではこの、外傷ストーリーの元となる破片とは何を示すものか。ハーマンはそれについては「時間が凍りついて動かない過去の体験」や「ことばを持たない凍りついた記憶」などと表現するにとどまる。外傷ストーリー化される前の段階に、このような破片のような静かなスナップショットがあることは、自己による記憶の統合の前に、自己にはおさまりきらないなにごとかのレベルがあると図らずも暗示しているように思える。
以上、ハーマンのフロイト批判と回復のプログラムは非常に明快である。しかし、回復のプログラムの中には、プログラムからこぼれ落ちているのではないかという表現や事柄がいくつか見受けられる。言い換えると、回復プログラムには、明文化されてはいないものが何か含まれており、そのことが「回復」に影響を与えているかもしれないということだ。
ドゥルーズは、ハーマンが前提としている概念(たとえば記憶や反復)を論じている。ハーマンとドゥルーズの直接的な比較は両者の対象や用語があまりにも異なるため難しいのだが──ハーマンは現代アメリカの精神医学を元に臨床を語り、ドゥルーズは哲学の概念を語り文学などのテクストを対象とする──、ドゥルーズを検討する作業を通して、ハーマン的な回復というものを考えることにつながらないか。
2章.反復と外傷
さて、ここからドゥルーズの議論に入るわけだが、ドゥルーズはその主著『差異と反復』の「はじめに」において、こんなふうに我々の日常を表現する。「わたしたちは、わたしたちの外で、かつわたしたちの内で、このうえなく機械的で極度にステレオタイプな諸反復に直面しつつ、それら諸反復からたえず幾ばくかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引き出している――それが、現代におけるわたしたちの生だろう」(DR2,4頁)22
。
我々は毎日、いくつもの「繰り返し」や「反復」を感じながら、それでもそれらの間にわずかな違いを見出しては生きている。わずかな違いはあるものの、我々は通常同じことを繰り返しているように感じている。その同じことというのはどこかに設定しているモデルのことだ。
心的外傷に関しても、ある特定の時期に(事実にしろ幻想にしろ)その外傷を受け、それを基点のようなものとして設定し、それ以後の人生をその基点あるいは起源が支配しているように思う。つまり日々の新しい出来事はその基点の反復でしかないと思っている。ドゥルーズはこうした、「同じもの」の反復を疑う。だから、起源を問うことはそのまま我々の生や通常抱くところの反復を問い直すことになり、それはそのまま、ドゥルーズ言うところの別の反復、より深いレベルの反復を考えることにつながる。
そこでドゥルーズに関しては、フロイトをみたときに抽出した「幻想」「起源」のうち、まず「起源」の問題から始めよう(「幻想」の検討は。-2で行なう)。しかしそのためには、ドゥルーズの議論を丁寧に追う必要がある。「つねに新たな概念を創造すること、それこそが哲学の目的である」23
と言うドゥルーズは、その独自の概念を説明なしで唐突に繰り出し、読む者に対して徐々に理解させながらも同時に混乱させるというスタイルもとる。その結果、ドゥルーズの文体自体はシンプルにもかかわらず、内容は難解なものとして受け取られる。だからその解読は、丁寧に追いながらも決してドゥルーズに飲み込まれずに、その概念を平易な言葉で定義しなおしてみることも時には必要になる。
「はじめに」で記したように、本論文では『差異と反復』の2章を取り上げる。ここでは、時間論やフロイトおよび精神分析が扱われ、ある程度具体的な事例や記述を通して反復や起源の問題が論じられている。まずは、『差異と反復』2章を説明する際のいわば土台/根拠である時間論を押さえ、そのあと再びフロイトを登場させてどの点をドゥルーズが批判し評価するのかを述べ、最後に起源批判の根拠である「潜在的対象」という概念を考える。
2-1.現在と物質的反復
『差異と反復』2章における重要概念は、「受動的総合 synth市e passive」というものだ。それと表裏をなす「能動的総合
synth市e active」という概念と併せて理解することで、ドゥルーズの立つ位置がわかる。大雑把に言って受動的総合はいわゆる無意識ないしそれに近いものと対応し、能動的総合は意識とか「表象
repr市entation」と呼ばれるものに対応する。つまりドゥルーズはいわゆる無意識を自分の言葉で捉えなおしている。ただしこうした捉え方はあくまでアウトラインであって、『差異と反復』における、意識や自我ではない無意識的なものの領域は非常に複雑だ。その複雑さに突拍子のなさとか非現実性を感じるか、それともある種のリアリティーを感じることができるか、そこにドゥルーズ読解のポイントがある。本論文では後者に立ち、無意識的で複雑なものを捉えるために、受動的総合と呼ばれるものを検討することから開始する。
意外にドゥルーズの議論はシンプルだ。まず、受動的総合と呼ばれるものは現在と過去の2つに分かれる。現在の受動的総合は「時間の第1の総合」と呼ばれ、過去の受動的総合は「時間の第2の総合」と呼ばれる。この2つを乗り越えるものとして「時間の第3の総合」が語られるのだが、第1と第2の総合の検討が「起源」を考えることに直接つながるのでまずはそちらを検討し、時間の第3の総合は。章でみることにする。
また、はじめに注意しておかなければいけないことがある。第1と第2というように受動的総合の時間を2つのレベルに分けてはいるものの、これらは共存している。第1が第2をつくるのでもないし、その反対でもない。そして、この2つは共に受動的総合であり、能動的総合ではない。受動的総合は能動的総合の「土台」や「根拠」ではあるが、この両者もまたかけ離れてはいない。受動的総合は能動的総合と表裏をなしている。
さて、その受動的総合における時間の第1の総合は、現在の分析から始まる。そこでまず「諸瞬間」が取り上げられ、この諸瞬間の羅列だけで時間は構成されないとドゥルーズは言う。「瞬間の継起は、時間をつくりあげはしない。それどころか時間を壊してしまう」(DR97,120頁)。現在を諸瞬間の羅列として考えると、ある瞬間が現れるとそれはすぐに消えるはずだが、しかし実際は消えはしない。これは、諸瞬間が想像力によって融合されるからで、この融合のことをドゥルーズは「縮約
contraction」とする。「想像力は、新しいものが現れてきても、以前のものを保持している。想像力は、諸事例や、諸要素や、もろもろの振動や、いくつもの等質な瞬間を縮約し、それらを融合して、ある種の重みを持った内的な印象をつくる」(DR97-98,120頁)。ただし、この「瞬間」を、時間軸上に固定された「点」というふうに理解してはならない。そもそも、「諸瞬間の羅列」という言い方がその諸瞬間を点とみなし、空間上に配列する考え方になっているのだが、こうした諸瞬間の羅列という考え方は、諸瞬間が融合的に縮約されて受動的総合の現在を形づくったそのあとで、その上に打ち立てられた能動的総合により事後的につくられたものだ。ここでいう諸瞬間とは点ではなく、変化、差異、方向などといった諸要素を指す。
第1の時間において、そうした諸瞬間は「内的な印象」として融合されている。だから、過去と未来もその現在に属しているとドゥルーズはいう。ドゥルーズはこう表現する。「過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持される限りにおいて現在に属し、未来は、期待がその同じ縮約の中で先取りを遂行するがゆえに現在に属している。過去と未来は、現在として前提された瞬間から区別された瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約している限りでの現在そのものに属する次元を意味する」(DR97,120頁)。つまり、縮約によって諸瞬間が連なる現在に、過去も未来も属している。こうした、過去も未来も現在に縮約される時間のあり方が時間の第1の総合だ。この時間の第1の総合においては、現在というものにすべてが属している。第1の時間は、全体としての現在だ。
ちなみに次節の第2の時間にも「過去」は登場するが、現在に直接的に把握されている第1の時間の「過去」と、「純粋過去」という過去そのもののあり方を示す第2の時間の「過去」とは、同じ過去でも違うレベルの時間に属しているという点が重要だ。単純にいって、第1の総合とは、過去も未来も諸瞬間も、縮約によってすべてが現在として成り立っている、ということだ。
では、受動的総合ではない、能動的総合とはどんなものなのか。ドゥルーズは、能動的総合の例として、「記憶」について述べる。記憶とは、ドゥルーズにしてみれば、受動的総合を条件として現れる「表象」の働き、つまり能動的総合レベルでの意識のメカニズムを指す。記憶はこう説明される。「記憶は、想像力における質的印象から出発して、記憶に固有の『時間の空間』のなかで保存しつつ、個別的な諸事例を区別されるものとして再構成するのである」(DR98,121頁)。つまり、表象としての記憶は、受動的総合として時間が把握された後に、それら個々の事例を「再構成」するものとして打ち立てられる。我々が普通いうところの「自我」は、こうした能動的総合のレベルにあり、この通常の自我は「構成された行動の主体」とか「行動する自我」とか「グローバルな自我」などと呼ばれ、それが能動的総合に基づいた表象を行なう。ドゥルーズは、『差異と反復』1章で、表象機能の代表的なものとして4つあげている。ざっと並べると、同一性、類似、類比、対立の4種類だが24
、外傷を考えるうえで重要なのは、同一性と類似だろう。同一性とは、たとえばある事件を能動的総合のレベルでひとつの過去の事例として維持しており、その事例をそれ以降の体験の中でモデル(イデア)化し、概念化するということだ。その概念としての同一性は、仮定から始まったはずなのだが、いつのまにかモデルとなり、現在はそれに似ているか似ていないかという類似機能のもとにコピーとしての事例として捉えられる。こうした表象機能については時間の第2の総合の部分で再び考えることになるが、このような同一性や類似といった基本的な表象機能を元に、「記憶」や「再生」ができあがる。
さて、こうした表象を司る能動的総合の下に、縮約のレベル、受動的総合を行なっている自我がある。ドゥルーズは常にこのレベルに着目し、そしてそこには「観照し、しかも行動と行動的主体とを可能にするいくつもの微少な自我が存在する」(DR103,127頁)という。この無数にある微少な自我は、「幼生の主体
sujets larvaires」とも言われる。受動的総合における自我は、こうした微少で幼生な諸自我であって、これらが縮約を敢行する。
以上をまとめると、@現れては壊れる諸瞬間の継起、A縮約(幼生の主体による)――受動的総合、B表象による能動的総合、の3審級があり、時間の第1の総合とは、Aの受動的総合のレベルからみたものだ。
このように、能動的総合の下で、縮約としての受動的総合がたえず作動している。これは諸瞬間を想像力で束ねていくことによって時間を形成する。この時間は、過去と未来も縮約されることで現在に属し、時間の第1の総合を形成している。だが「反復」という点からみると、縮約の過程で見逃せない事態が起こっている。それは「差異が抜き取られる」という事態だ(DR103,127頁)。そもそも諸瞬間は独立しており、ある瞬間が現れ別の瞬間が出現するとき、それらがつながっているものとしてとらえられ縮約される。その過程で、諸瞬間あるいは諸要素の差異が抜き取られていく。たとえばAがあらわれるとA'の出現を予測する、その結果AA'という反復が形成されるが、その過程でAA'間の差異が抜き取られることになる。その差異を断絶させずに想像力によって抜き取り縮約するからこそ、AとA'において「反復」がかたちづくられる。つまり、AとA'の間にある「'」が抜き取られ、AA'はAAとして縮約されるということだ。こうした、諸瞬間あるいは諸要素間の差異が抜き取られた反復のことをドゥルーズは「物質的反復」と呼ぶ。差異が抜き取られているため、ここでは諸要素が「同じもの」となっている。よって物質的反復は「同じものの反復」とも呼ばれる。これは、次節で扱う「精神的反復」と対をなす。
以上行なった検討の目的は、ひとつめは、受動的総合や時間の第1の総合を説明することでドゥルーズの基本的立場を明らかにすること、ふたつめは、幼生の主体や物質的反復を説明することでドゥルーズが通常の「自我」や「反復」から距離を置いていることを示し、次節以降のドゥルーズの外傷論への入り口に立つことにあった。これらを「土台」に第2の時間の「過去」へと移る。
2-2.過去と精神的反復
「土台 fondation」というのは単なる比喩ではない。すべてを現在に縮約し、同じものの反復を形成する第1の時間は、また「習慣」とも呼ばれる。ドゥルーズは、前節で述べた第1の受動的総合について、「習慣を、それ以外のすべての心的現象がそこから派生してくる土台とみなさなければいけない」(DR107,131頁)という。習慣は土台である。しかし要素や過去や未来が縮約されて全体としての現在となった第1の時間は、諸瞬間の継起としての時間を現在という1つの次元にまとめたものの、それだけでは「なぜ現在が過ぎ去るのか」を説明できない、とドゥルーズはいう。第1の時間は、現在にすべてが縮約されていた。そこで時間は構成される。しかしそこにはパラドックスがある。つまり、縮約によって自らを時間そのものへと構成した現在ではあるが、それだけでは、その時間そのものである現在がなぜ「過ぎ去る」のかということがわからない、ということだ。よって、「第1の時間の総合がそのなかで遂行されるようなある別の時間がなければならない」(DR108,132頁)25
。
そこで再び「記憶」について考える。ドゥルーズは、表象としての記憶は第1の受動的総合の上に打ち立てられるものの、それはそのすべてを構成するわけではない、とする。それを構成するものこそが本来的な《記憶》26
であり、この受動的総合を、「記憶の受動的総合」と呼ぶ。この記憶の受動的総合は、習慣の「土台」に対して、「根拠 fondement」であるともいわれる。「《記憶》とは、時間の根拠的な総合であって、これが過去の存在を構成するものである」(DR109,133頁)。つまりこの、記憶の受動的総合こそが現在を過ぎ去らせるというとだ。
記憶の受動的総合に支配された時間の第2の総合のレベルを知るためには、「純粋過去 pass pur」というものを把握しなければいけない。この純粋過去が、本来の《記憶》であり「根拠」なのだが、これを導くためにドゥルーズは、能動的総合における「記憶の再生」を再び考える。
能動的総合における再生の機能とは、我々がふだん「~を思い出す」といったかたちで何気なく行なっている行為だ。その際、心に浮かぶ過去に起こったらしいある事件と、今現在の自分が交互に重なったりもする。あまりに普通のことなので、そこで起きていることをふだん我々は深く考えない。そのメカニズムを、「古い現在」と「アクチュアルな現在」という「2つの現在」という捉え方でドゥルーズは明晰に描き出す。「古い現在」とはかつて現在であったところの現在を、「アクチュアルな現在」とはいま過去になっていくところの個別的な現在を示す(「アクチュアルな現在」という言葉自体は時間の第1の総合における現在を指すこともあり幅広い意味を持つが、ここでは能動的総合レベルのものに特定している)。たとえば「過去のあのときの自分」と「今の自分」のような通常の我々の思い出の把握は、多くの場合、この「古い現在」と「アクチュアルな現在」の対称として捉えられている。いずれも「現在」の、しかも能動的総合レベルで表象を行なっている大局的な自我がいる層としての現在からみた2つの現在なのである。今の(アクチュアルな)現在と、あの時の(古い)現在、こうした2つの関係の捉え方こそが表象機能だ。
そしてこの両者は、ドゥルーズによれば「時間を、諸現在自身の入れ子として構成する」(DR110,134頁)。まず、「古い現在」は、「アクチュアルな現在」の中で表象されている。そしてその際、「アクチュアルな現在」自身も、「古い現在」の中で表象されている。ここで「アクチュアルな現在」は「コピー」と化し、「古い現在」という「モデル」との同一性に関してすりあわせる作業が行なわれる。「アクチュアルな現在が、必然的にひとつの次元を余分に含んでいて、その次元を通じて古い現在を表象し、かつその次元においておのれ自身をも表象する」(DR109,134頁)。これをドゥルーズは、「能動的総合には、対称的ではないにしても相関的な2つのアスペクトがある」(DR110,134頁)と表現し、その例のひとつとして「再生」と「反省」をあげる。前者が、「古い現在」が「アクチュアルな現在」の中で再生されるということ、後者が、それと同時に「アクチュアルな現在」が「古い現在」の中で同一性と類似において反省されるということを示す。つまり、「表象の原理を、古い現在の再生とアクチュアルな現在の反省という2重のアスペクトをもつものとして、記憶の能動的総合と呼ぶことができる」(DR110,134頁)。こうしてまとめられた記憶の能動的総合は、これ以降ドゥルーズが議論を展開していくときに常に引かれる。つまりドゥルーズは、心的外傷と普通言われるところの記憶のメカニズムを、この記憶の能動的総合にみてとっている。外傷はこの場合の、「古い現在」だ。
以上のような「2つの現在」といった捉え方は、習慣の第1の受動的総合からだけでは導かれない。なぜなら、習慣は常に現在であり、それはそれで「アクチュアルな現在」ではあるのだが、決して能動的総合には属さず、いわば全体としての現在であり、すべてを縮約している。そこに縮約されている過去も、直接的な過去として瞬間の継起としての現在に属している。こうした直接的に現在に属す過去からは、能動的総合のレベルにあるような個別的な「アクチュアルな現在」と個別的な「古い現在」といった2つの現在は表象されない。それら表象された2つの現在は、縮約された全体としての現在(第1の総合)ではなく、全体としてすべてが共存する過去を、つまり第2の総合を「根拠」として表象され、現れる。
このように、現在に縮約される直接的な過去と、2つの現在が現れる条件としての過去全体をドゥルーズは区別している。この違いは、時間の総合の仕方の違いと解釈してもかまわないだろう。つまり、縮約によりすべてが現在である第1の時間と、過去という根拠そのものの中から表象として2つの現在が現れるという第2の時間の違いだ。ドゥルーズはこういう。「そこで問題はまさに、何を条件にしているのかということになる。そのような古い現在が再生可能であり、かつアクチュアルな現在がおのれを反省するのは、一般的な意味での過去として、またアプリオリな過去としての過去の純粋なエレメントを条件にしているのである。そうした過去は、現在から、あるいは表象から派生するどころか、むしろあらゆる表象の前提となるものである。記憶の能動的総合が、習慣の(経験的な)受動的総合の上にうちたてられようと、やはり、記憶それ自身に固有なもう一つ別の(先験的な)受動的総合によってでしか打ち立てられえない」(DR110,135頁)。
この、「記憶それ自身に固有な」もう一つの受動的総合こそが第2の総合であり、そこで構成されているのが純粋過去だ。それは、現在と過去の「4つのパラドックス」としてシンプルにまとめられ、順に「同時性」「共存」「前存」「(純粋過去の)自己自身との共存」とされる27
。だがこれらは「共存 coexistence」という同じ文脈上にあるといってもいいだろう。これは、現在は過去全体と共存しており、過去全体の中でもそれぞれの水準同士で共存しているということなのだが、順にみていこう。
「同時性」とは、過ぎ去る現在を考えたとき、過去とは今まさに現在であったものであり、現在は同時に過去であるがゆえに過ぎ去っている、といえることからそういわれる。つまり「すべての現在が過ぎ去り、しかも新しい現在のために過ぎ去るのは、過去が、現在としておのれ自身と同時的だからである」(DR111,136頁)。過去と現在の「共存」については、「それぞれの過去が、かつては現在であったその現在と同時的である場合には、過去の全体は、その過去が新しい現在から見ればいまや過去になるその新しい現在と共存していることになるから」(DR111,136頁)と説明される。これでは少しわかりにくいので別の書物で同じ説明をした部分のドゥルーズの表現を引用してみよう。「過去と現在は、連続する2つの時間を示すのではなく、共存する2つの要素を示している。その2つの要素のひとつは、たえず過ぎていく現在であり、もうひとつは決して存在をやめることはないが、それによってすべての現在が過ぎて行くところの過去である。この意味においてひとつの純粋な過去、一種の《過去一般》がある」28
。もうひとつの「前存」というのは、全体としての過去は現在と同時的で共存しながらも、過ぎ去る現在に先立って存在しているということでしか示されないというパラドックス、を指す。過去は同時的でありながらも、常に過去(前にあったもの)としてでしか語れない。これは、同時性と共存の補完をなすとドゥルーズはいう(DR111,136頁)。
これらの説明はつまり、過去があってそのあとに現在が続くということではなく、過去全体あるいは純粋過去というもの(第2の受動的総合)が現在と共存しているということを示しており、普通我々が過去や現在というときの時間(「古い現在」「アクチュアルな現在」)は、こうした純粋過去を「根拠」として表象されるということだ29
。言い換えると、純粋過去全体と共存しながらも、それらのいずれかかが表象されて通常の記憶(「古い現在」)になるということでもある。
4つめのパラドックス「(純粋過去の)自己自身との共存」は、現在と過去との共存ではなく、純粋過去内のすべてが共存しているということを指す。ドゥルーズは、ベルクソンの円錐のメタファーを引いているが30
、これは記憶のモデルを逆円錐形で示したもので、純粋過去は円錐すべてを指す。円錐には無数の断面がある。それら各断面あるいは各水準が共存しているという事態が、過去全体あるいは純粋過去の「自己自身との共存」という意味だ。過去が無数の断面を形成するということは、言い換えるとそこには断面間の無数の差異が存在することであり、それらが互いに共存するというこのアイデアが、ドゥルーズの「反復」の基本になっているように思われる。ドゥルーズは、すべての水準は共存しながらも「生の全体を繰り返す」(DR113,138頁)と述べており31
、これが第2の時間を構成する。「古い現在」や「アクチュアルな現在」といった通常の時間を我々は表象しながら、受動的総合のレベルでこうした過去全体の共存がある。ドゥルーズはこういう。「要するに、我々が能動的総合の観点から異なった諸現在の継起として経験的に生きるものは、まさに、受動的総合における過去の水準の絶えず増大していく共存でもある」(DR113,138頁
)。
このようにして、ようやくドゥルーズの外傷論、言い換えると反復論を検討できる位置に立った。その最後のステップとして、あの物質的反復と、ここで精神的反復とドゥルーズが呼ぶところの2つの反復を比較しておこう。精神的反復とは、上で、各水準がすべての過去と共存しその各水準においてすべての過去を反復するとした反復を指す。
前節で、物質的反復とは、要素を縮約する際にその要素間の「差異を抜き取る」反復だとした。これは第1の受動的総合のメカニズムから導かれた。これに対して、精神的反復は第2の受動的総合から導かれる。つまりそれは「共存するさまざまな水準における、《全体の反復》」(DR114,139頁)であり、「《全体》がおのれの諸水準の間の差異を含む限りにおいて」(DR114,139頁)差異を含む。この反復は一見したとおり、上の純粋過去と各水準との関係をそのまま敷衍している。物質的反復は差異が抜き取られているが、他方の精神的反復はすべての差異を含んでいる。この2つの反復のかたちをドゥルーズは以下のように比較する。物質的反復は「裸の反復」であり、精神的反復は「着衣の反復」。物質的反復は「諸部分の反復」であり、精神的反復は「全体の反復」。物質的反復は「継起の反復」であり、精神的反復は「共存の反復」。物質的反復は「現実的な反復」であり、精神的反復は「潜在的な反復」(DR114,139頁)。ドゥルーズは一貫して後者の反復に着目している32
。
2-3.究極的項としての起源
そのようにして反復のプロセスは2つ(物質的反復と精神的反復)に分けらた。ここにおいて、心的外傷に対するドゥルーズの考え方がはっきりと述べられている。本節は、少し長くなるがその部分を引用することから始めよう。
「現実のセリーにおいて、一方の現在から他方の現在に向かって、すなわちアクチュアルな現在から古い現在に向かって遂行されるような反復を理解することができるかどうか、それが問題である。そのような反復があるとすれば、古い現在は、ある複雑な点の役割を、いわばあるべき場所にとどまって引力を発揮するような究極的なつまり根源的な項の役割を果たすだろう。その古い現在こそが、反復するべきものを提供するだろうし、またその古い現在こそが、反復の全プロセスの条件となるだろう。しかし、その古い現在はまた、反復から独立してもいるだろう。固着
fixationと退行 r使ression、さらに外傷 trauma、原光景 sc始e originelleという概念が、以上のような最初のエレメントを表現している。したがって、そうした反復のプロセスは、同じものの反復としての、物質的で、生の、裸の反復に権利上一致するだろう」(DR136,166頁)
『差異と反復』にはいくつか外傷という言葉が現れるが、この部分ほど既成の外傷概念に関してドゥルーズがあからさまに指摘している部分もない。これまで本論文でも何度か触れたように、ここにおいて、外傷
traumaと呼ばれるものは明確に「古い現在」であるとされている。古い現在とは、純粋過去という第2の受動的総合を根拠にし、習慣という第1の受動的総合を土台として打ち立てられた、能動的総合における表象機能のひとつ「記憶」に属するものであった。表象としての記憶には、古い現在ともうひとつ、アクチュアルな現在があり、アクチュアルな現在の中で古い現在は「再生」され、アクチュアルな現在が再生する古い現在の中にさらにアクチュアルな現在が入り込んで「反省」する。こうした表象について、ドゥルーズはこんな疑問も呈する。「2つの現在、2つの光景、あるいは2つの出来事(幼児期のものと成人期のもの)を、時間によって隔てられたそれぞれの実在性のなかで考察する場合、古い現在は、アクチュアルな現在に間隔をおいて作用し、そのアクチュアルな現在をつくりながら、反対にそのアクチュアルな現在からおのれの全有効性を受け取るというのは、いったいどうしたことであろうか」(DR138,167頁)。
固着も退行も原光景も、すべて精神分析の用語である。またドゥルーズはこのほかに、反復強迫や抑圧、さらには心的現実までも挙げ、そのすべてが物質的反復に基づいた思考から成り立ち、表象に従属させられているという。つまり古い現在という定点の設定、ドゥルーズの言葉でいうなら「あるべき場所にとどまって引力を発揮するような究極的なつまり根源的な項」が設定され、そこを同一性として古い現在はモデルとなり、アクチュアルな現在はそれとの類似性を確かめるコピーと化す。こうした時間の捉え方をドゥルーズは「表象の諸要請に従属させられたもの」とし、その典型を精神分析にみている。このようにドゥルーズにとって心的外傷とは、表象的思考が生み出した「究極的な項」のひとつであり、「差異を抜き取る」ところの物質的反復を提供するものである。ここで注意しなければいけないのは、外傷という事件そのものをドゥルーズは批判しているのではなく、それが事実であれ幻想であれ「心的外傷」として「古い現在」化してしまう機能、言い換えると、それが同一性や類似といった表象機能にはめ込まれてしまい、その特異的な出来事自体を捉え損ねることに対して異議申し立てをしているということだ。それには根拠がある。その根拠こそがドゥルーズにとって精神的反復であり、そこに含まれるすべての差異であり、そこに到達するための第3の受動的総合であり、「『問い』としての無意識/生」なのだが、その前に、ここで扱われた精神分析の概念がなぜ「究極的な項」なのかについて、押さえておく。それは、次節の「潜在的対象」を考えるためにも必要だ。
-1で簡単に触れた原光景と心的現実については、原光景とは幼児期に両親の性交を目撃することであり、心的現実とは、(原光景や性的誘惑や去勢を)目撃した/体験したことが事実か幻想かが問題だというよりは、患者が心的にそれが現実だと捉えていることであった。これ以上の説明をここで展開する余裕はないが、ただ、フロイト精神分析の概念についてまわるこの「原
originaire」の発想をドゥルーズは批判しているはずだ。原光景、原幻想、原抑圧(これは抑圧とともに後述する)といった用語の背景には、幼児期に遡って「究極的な項」を定立するという表象機能が作動している。また心的現実に対してはドゥルーズはこういう。「想像的なものの諸権利をまとめて現実の諸事実に対置してみても、究極的あるいは根源的なものとみなされたある心的『現実』がやはり問題になる」(DR138,167頁)。ドゥルーズは。-2でみるように幻想に着目しているのだが、しかしそれを心的現実として「究極的な項」にすることを批判する。
これも-1でも示したが、反復強迫は、『快感原則の彼岸』のメインテーマである「死の欲動」を導き出すための重要概念だ33 。先に書いたとおり同書は外傷神経症を「驚愕」という点から分析しているが、その他に有名な「fort-da」の幼児の例や、治療関係の中で現れる転移という現象、また「宿命神経症」という生き方(これは疾患ではない)も、フロイトは反復強迫の例に挙げる。反復強迫とは、主体にとって不快な行為であるにもかかわらずそれを「反復」することだ。その例としてそれぞれ以下の例が挙げられる。@外傷神経症に関しては悪夢、A「fort-da」では、自分の母親がいなくなることは不快にもかかわらず「fort(あっち/いないいない)」といって糸巻きを投げ続ける幼児の行為、B転移については、治療関係を「繰り返し」壊そうとする患者の行為、C宿命神経症については、悲劇的な出来事(たとえば3人の夫を病気で3度なくした女性の例)を「反復」してしまう人生などだ。このように、夢、幼児、転移というフロイトによれば無意識的行為、「宿命」と並べてみると、これらは意識とか統合された自我とか行動する主体ではコントロールできない行為のように見える。しかしここでドゥルーズが問題にするのは、こうした無意識の表出なのではなく、これらの行為をフロイトが反復強迫として捉えたときの「反復」の意味だ。
フロイトがこれを反復というとき、ドゥルーズいうところの物質的反復、差異が抜き取られた同じものの反復の意味で使用している。ドゥルーズは、「精神分析における反復強迫の伝統的な理論は、本質的には依然として、現実主義的
であり、唯物論的であり、また主観的あるいは個人主義的だ」(DR137,167頁)という。現実主義的というのは、すべてが諸現在の間で過ぎるからであり、唯物論的というのは、物質的反復というモデルに則っているからであり、主観的というのは、「古い現在」が「無意識」や「抑圧されるもの」として、「アクチュアルな現在」が「意識」や「抑圧するもの」として、それら2つの現在が主観の2つの表象とされているからだという。このようにドゥルーズは、「心的外傷」や「反復強迫」として起源を固定し通常の(物質的)反復の概念に押し込むその仕方(表象)を問うている。そしてこれは、何も反復強迫の限られた事例だけにとどまるものではない。ドゥルーズ自身はそれらをまとめて語っているにしろ、ヒステリーの「2つの場面」という-1でみた理論においても、第1の場面の発見は「究極的な項」の定立を示しているし、第2の場面における「外傷的契機」という捉え方は幼児期の場面の外傷性と重ね合わせて、両者の間の物質的反復という概念に当てはまると思われる。ドゥルーズのいう「2つの現在、2つの光景、あるいは2つの出来事(幼児期のものと成人期のもの)」というものは、反復強迫だけではなく明らかにヒステリーの2場面論も指しているだろう。
それに関連して、固着という概念をフロイトの議論もふまえながら再び考えてみよう。-1で『精神分析入門』中の図式を取り上げ、神経症の原因としてフロイトは、リビドー固着(これは遺伝的要因と幼児期の外傷的体験に分かれる)とその後の外傷体験をあげたとした。リビドーと呼ばれる心的エネルギーは満足を求めて無意識より移動するが、外的世界と自我(ドゥルーズ的には統合されたグローバルな自我)の抵抗にあったとき、無意識へと逆流するとフロイトはいう。自我による抵抗が、抑圧のことだ。そして逆流するリビドーは、以前にも抑圧されていたある地点に留まる。その留まっている点が固着だとされる。フロイトはこういう。「そのリビドーのほうでは拒否された対象の代わりに、それとは別の対象でもいいというのに、現実が相変わらずこの願いをいれないとすれば、リビドーは結局のところ、やむをえず退行の道をとり、すでに通り過ぎてきたはずの体制のうちのある段階に立ち戻るか、以前に放棄した対象のひとつによって満足を得ようと努めることになるでしょう。リビドーは、その発達にあたってこれらの箇所に残してきた固着にひきずられて退行の道をとるのです」(『入門』296頁)。
続けてフロイトは、そうしたリビドーは「幼児性愛の活動と体験」に固着すると説き、こういう。「ところでリビドーは、抑圧を打ち破る突破口をつくるのに必要な固着をどこに見出すのでしょうか。リビドーはそれを、幼児性愛の活動と体験とに、すなわち幼児期に捨て去られた部分欲動34と、放棄された対象に見出すのです」(『入門』298頁)。その幼児期をフロイトはさらに言い換え、神経症患者(ヒステリー患者)が固着している点というのは、「彼のリビドーの満足が得られないなどということのなかった時期、すなわち彼が幸福であった過去のある時期」(『入門』301頁)だとし、それは乳児時代にまで遡ることもあるという。ここでいわれる、かつて満足した体験とは「満足/充足体験」のことであり、無力状態にある乳児が、欲求によって高まった内的緊張を、外部の人間(多くの場合母親だとされる)の助けにより軽減させた体験を意味する。
これは症状の分析から導かれる。神経症の症状とは、満足体験の代償行為であり、症状になると、かつて満足したものは苦痛に変化するとフロイトはいう。つまり「かつては個体にとって満足であったものも、現在では、その個体の抵抗や嫌悪の念を呼び起こさずにはいられない」。そしてその例として、「むさぼるように乳房を吸ったその子どもも、その数年後には牛乳を飲むことに強い不快感を示す」(『入門』301-302頁)ことを挙げる。これに関して、人によっては、「彼のリビドーの満足が得られないなどということのなかった時期、すなわち彼が幸福であった過去のある時期」が幼児期を飛び越えて乳児期である可能性を明言していることや、そして牛乳が苦痛だと感じるこの例のすぐ後に「そこにはとにかく離乳という外傷的に働く体験が介在しています」(『入門』302頁)と続くことから、離乳を外傷体験の例だとフロイトが捉えているとしてもいいだろう。
こうしてフロイトの起源に関して考えていくと、幼児期に起こる性的誘惑・去勢・原光景を越えて、乳児期後期の離乳にまで遡る35
。ここで重要なことは、究極的な項すなわち固着という概念を追求していくとそれは乳児期にまで遡ってしまうこと、その際、ヒステリーにおいて外傷的(驚愕体験と通常の忘却の不可)に働く性的誘惑などの事件を越えて、離乳までもが外傷として捉えられてしまうということだろう。もちろん、乳児期の授乳による満足体験は、そこには具体的な授乳法や栄養物の種類の違いがあるにしろ、ほとんどの人間に共通する体験だ。そうした乳児期の誰にも共通する満足体験が続いていた時期があり、そしてやがて訪れたその時期の終結(離乳)をもって外傷的と捉えられてしまうところに、外傷概念のあいまいさがある。つまり、外傷の起源を辿る思考は、いきつく先が、すべての人間に共通する離乳のような体験に収斂してしまい、心的外傷の定義である「主体の生活中におこる事件で、それが強烈であること、主体がそれに適切に反応することができないこと、心的組織の中で長く病因となりつづけるような混乱やその他の諸効果をひきおこすこと」(『精神分析用語辞典』)という意味が限りなく拡大されてしまうということだ。
この外傷概念の拡大化には、-1でとりあげた幻想もかかわってくる。先にも書いたとおり、フロイトはヒステリー治療の中で、第2の場面を遡って思春期以前に第1の場面があることを発見した。それはやがて幼児期にまで拡大される。たとえば上記「性的誘惑」の概念は元々、多くの女性患者の記憶の中に、幼児期初期に父親から受けた性的接触の「事実」が頻繁に現れることに対して名づけられたものだ。フリースへの手紙にもあったとおり、その数の多さにフロイトは戸惑っている。この誘惑にしても、離乳ほどではないにしろ、フロイトにとって当初は、神経症患者の範囲を超えて体験される事実だったのだろう。しかしフロイトはこの性的誘惑に関して、幻想を導入する。-1でも書いたが、『精神分析入門』23講の幻想に関する議論(それは上の離乳に続いて展開される)の部分でフロイトは、幼児期初期の父親からの性的誘惑は、実際は幼児期後期に受けた年長あるいは同年の子どもからの誘惑であることが多く、そこは幻想によって変形作用を施したのだという。つまり、「幼児期の後期にあったことが、幼児期の早い頃に持ち込まれた」(『入門』306頁)ということだ。同じ部分では、フロイトが「特別な重要性をもった2、3の出来事」として挙げる去勢と原光景についても取り上げられ、現実が幻想化によって変形される(去勢は「おしゃぶり」の禁止などが、原光景は犬の交尾の目撃などが元になっているという)と説明される。このようにして、外傷に幻想性を導入することで、言い換えると現実論から心的現実論へと方向転換することで、幼児期の出来事が性的誘惑・去勢・原光景へとまとめられたのだが、これは上の離乳と同じように、乳幼児期の自体愛的な満足体験と密接につながる。つまり、第1の場面の外傷を、満足体験と関係する幻想作用の結果と位置づけることで、症状の原因の一つとしての固着を探求するということだ。
このことは、起源の一般化にも役立ったと考えられる。この、幼児期体験に幻想を加えたことは、-1の最後でふれた「原幻想」へとつながり、起源を「遺伝」へと結びつけ、さらに外傷概念は拡大される。
またこれが、-2で述べたハーマンの批判点である。ハーマンは「精神分析は内面における欲望と幻想の消長を研究する学問になり、体験の実体から解離されてしまった」と指摘した。この、「欲望と幻想の消長を研究する」ということが上に記した、満足体験へ遡及するために幻想作用を施された外傷という捉え方だろう。ハーマンにとって外傷はフロイトと同じく「古い現在」ではあるのだが、フロイトのように発達理論の中に(あるいは後述する「原抑圧」的なより広い意味に)組み込まれてはならず、それはあくまで「体験の実態
the reality of experience」として把握しなければならない。言い換えると、外傷を決して一般化せず、暴発しない記憶として「古い現在」を個人の意識の中にはめこめなければならない。
再びフロイトに戻ると、「神経症の原因になるものは複雑きわまりない」とフロイトはいい、また-1で挙げた「相補系列」の理論に則って、幼児体験(第1の場面)と後年の体験(第2の場面)は相補的に関係しているとも断っている。相補系列は、現実と幻想の間でも形成される。しかし、「起源」への思考はこのように、特定の事件が拡大されていき、それは幼児体験へと遡り、そこに幻想が加わることで、誰もが共通する体験につながってしまうことになるようだ。フロイトにおいては、幻想が、一般化するための一翼を担っている(。-2で取り上げるように、ドゥルーズはその逆になる)。
このように外傷は、第2の場面から第1の場面へと遡及し、その第1の場面が幼児期へとさらに遡り、そこに乳児期と幻想性が加わることで第2の場面よりも一般化された意味をもつ。ここには、フロイトの議論が、ヒステリーを対象とした外傷研究から幼児の性理論の研究へと移行したことが背景にある。そのようにして、第1の場面がドゥルーズのいう「究極的な項」として一般化され定立されたとき、第2の場面は誘因的に作用していることは同じだが、第1の場面が2重の意味を持ってしまうように考えられる。1つは、神経症の原因あるいは症例としての「外傷」体験。フロイトの議論においては、症例研究をする際、この視点が強い。2つめは、神経症の原因を越えた、人間の「心的システム」に関する一般論的観点だ。フロイトの議論においては、いわゆる「思弁的」とフロイト自身が語るジャンルのもの(メタ心理学とも表現される)であり、以下に述べる「原抑圧」はそのレベルにある。
1915年に発表された論文「抑圧」には、固着と、ドゥルーズが自らの「潜在的対象」と比較してふれた「原抑圧」という概念が簡潔明瞭に記されている。上で説明した固着は、自我に抑圧されたリビドーが過去の満足体験にさかのぼるとき、その満足体験として固着している点のことをいった。ここには固着としてあらかじめそうした点が過去に設定されていたのだが、その固着そのものは説明されてはいなかった。「抑圧」では、この固着、そしてそれを生み出すメカニズムをフロイトはこう表現する。「われわれには原抑圧、つまり欲動の心的(表象)代表が、意識の中に入り込むのを拒否するという、第1期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着が行なわれる。というのは、その代表はそれ以後普遍のまま存続し、これに欲動が結びつくのである」36
。最初の段階として、こうした原抑圧がある。だから、ふつう言われる抑圧は第2段階の抑圧ということになる。それは、原抑圧によって抑圧された「表象代表
Vorstellungsrepr郭entanz,repr市entant-repr市entation」の派生物に関連しており、表象代表と同じ運命をたどる。この第2段階の抑圧されるものは、意識からの抑圧とともに、原抑圧の影響も受けているとフロイトはいう。抑圧された諸派生物は、歪曲して意識に現れる。そして抑圧の最終段階である「症状」も、抑圧された派生物のひとつだ。
ここでいわれる欲動とは、「精神的なものと身体的なものとのあいだの境界概念」37 を指す。欲動は心的段階では直接抑圧されず、表象代表が「原抑圧」として抑圧される。これが固着を意味する。だから固着とは、起源そのものではなく起源のメカニズムのことであり、フロイトにおける真の起源とは、この表象代表のことを指すと思われる。このようにまず表象代表があり、それが別の表象へと移転していく。
ここで注意しなければいけないのは、フロイトの表象 Vorstellungはドゥルーズの表象 repr市entation とは違うということだ。ドゥルーズの表象については、「記憶」を例に挙げてこれまで何度かふれてきた。要するにそれは能動的総合のレベルで行なわれる同一性や類似といった意識の作用のことだったが、フロイトの表象はこれとは違う。それを一言で表すと、(それが現実であれ幻想であれ)ある対象が複合された連想系の中を次々と変化していくもの、としよう。
これは決してドゥルーズの表象のように能動的な記憶ではない。フロイトのこうした表象は受動的であり、無意識レベルでは「物表象」と呼ばれ、言葉ではない視覚的イメージとして連想系列に乗って次々と移転Verchiebung,d姿lacement38
の作用を起こす(意識段階の表象は「語表象」となるがここではふれない)。たとえば『心理学草稿』でフロイトは、幼児期後期に悪戯された少女の例において、それの表象の複合体として「悪戯、食料品店主、着物」を挙げている39
。無意識では、ある表象(たとえば悪戯のシーン)が別の表象(たとえば着物)へと移転していく。フロイトの場合、この抑圧された表象(悪戯)が分析を通じて発見され、「古い現在」として解釈される。なお、次節でみるように、ドゥルーズはこの移転を自らの理論に取り入れている。
さて問題は、それら表象の起源であるこの表象代表が何を意味するのかということだが 、「抑圧」では神経症(不安ヒステリー・転換ヒステリー・強迫神経症)の例をとって説明されている。たとえば不安ヒステリーの例(症例「狼男」)では「父に対する不安をともなった父へのリビドー的態度」が表象代表らしく、それが狼に対する不安へと移転したという。「狼男」は原光景概念を導いた症例だから、表象代表は原光景(としての外傷)だとここではいっているのかもしれない。このように表象代表は神経症の症状とともに語られながらも、フロイトは表象代表そのものをより具体的には展開しておらず、また、上の簡潔な定義にはより一般的なものを含んでいるように思われる。ラプランシュとポンタリスは『精神分析用語辞典』中「原抑圧」の項で、「固着は『発達の制止』と考えられているが、他方では、この語はもっと広い発生論的な意味を持ち、リビドー段階への固着のみならず、欲動の表象への固着と、この表象の無意識への『記載』をも指している」40
と記してより広範囲な適用を示唆している。つまり、特定の神経症の原因としてのリビドー固着とともに、人間の共通体験としての表象代表の固着(「抑圧」の固着概念)というものをこの原抑圧が表しているのではないか、ということなのだろう。この広い意味としての固着には、上でみたようにそこにはなにがしかの外傷が意味として含まれていると思われる(たとえば離乳)。つまり、フロイトにとって真の起源である表象代表には、一般論としての外傷的な意味も含まれていると考えられる41
。
そしてドゥルーズは、「反復は一般性ではない La r姿師ition n'est pas la g始屍alit氏」(DR7,19頁)という立場から出発する哲学者だ(実際に『差異と反復』の序論はこの言葉から始まる)。この反復とは、フロイト的な物質的反復ではないもうひとつの精神的反復を指す。ここでの「一般性」は、あの同一性と類似に基づいた表象機能をいう。逆にこの「反復は一般性ではない」という一節における反復は、「交換不可能な、置換不可能なある特異性
singularit獅にかかわる」(DR7,19頁)。そう考えると、ドゥルーズがフロイトの外傷概念を批判する意味がつかめてくる。ドゥルーズは、起源であり「古い現在」であり一般的な概念としての外傷ではなく、特異的な出来事としてその体験をとらえる視点をもつ。
以上、本節では、ドゥルーズのフロイトに対する「古い現在」という究極項の定立に対する明確な批判を述べ、つづけて、フロイトの幼児体験への遡及は一般化を引き起こすことを考え、その例として究極的な項としての原抑圧にふれた。
2-4.潜在的対象
幻想を導入することで、外傷的体験を幼児期の性発達の中に組み込み、フロイトは固着を原抑圧や表象代表として一般化した。ハーマンはその点を、精神分析が「欲望と幻想」へと移行し現実の体験から解離したものとする。ではドゥルーズはどうなのか。ドゥルーズは、フロイトが「欲望と幻想」を取り入れたことは批判せず、そしてフロイトにおける表象代表あるいは原抑圧という究極的な項にも近づいていく。しかし、能動的総合による記憶に基づき「古い現在」と「アクチュアルな現在」が設定されて古い現在の中に究極的な項を発見した結果、そもそもの特異的な体験が一般化されてしまう道にはドゥルーズは踏み込まない。ドゥルーズは、原抑圧と似てはいるが根本的に違う概念を提出する。それは「潜在的対象」あるいは「対象=x」、そしてあとで「暗き先触れ」と呼ばれるものだ。
潜在的対象は、第2の受動的総合を精神分析的な視点から捉えなおす過程で現れる。
第1の総合、つまり習慣の受動的総合は、一方で能動的総合へと展開し、通常我々が自我と呼ぶものになる。ドゥルーズはそれをグローバルな自我と表現する(幼生の主体はローカルな自我といわれる)。
しかし第1の総合は、能動的総合へと展開していきながらも同時に反対方向へと深化する。それはあの、第2の時間の総合、つまり記憶の受動的総合のレベルへの深化だ。その2方向への展開を、幼児の「おしゃぶり」にドゥルーズは見いだす。フロイトは、幼児の性欲を考察する中でこの「おしゃぶり」をとりあげ42
、これは、それ以前の満足体験による快(授乳による欲求の軽減)を、自分の身体へと向けていることだとした。この時期は口唇期と呼ばれ、その幼児の性は栄養摂取と未分離であり、自らの身体を対象とすることから「自体愛」的とされ、その対象は部分対象(たとえば口や肛門)でありその欲動は部分欲動である。前節でもふれたが、フロイトの性発達理論においてはここにリビドー固着を見いだすのだが、ドゥルーズはここに、潜在的対象のシンプルなひとつのあり方を示す。
まず、第1の受動的総合から2方向へ同時に展開されるところの1つ目の能動的総合のレベルにおいて、幼児は、現実の母親としての現実的な対象を定立し、そこへ向かう。だが一方で幼児は、「幼児の現実的な能動的活動の進歩を統制しその失敗を補償するようになる、潜在的な対象あるいは虚焦点」(DR132,160頁)を構成する。ここでドゥルーズは「おしゃぶり」を例に挙げる。幼児は口の中に指を入れておしゃぶりをしながら、片方の腕で潜在的対象としての母親を抱く。この「おしゃぶり」は、「受動的総合の深化において観照されるべき潜在的対象を提供するためにしかなされない」(DR132,160頁)。ここでの潜在的対象としての母の「母」は、フロイトの固着のような固定項ではなく、もちろん現実的な対象でもなく、「おしゃぶり」を通して潜在的対象が暫定的に現れているものとしての母だ。言い換えると、「能動的総合へと向かう乳児と現実的対象としての母親」という現実的な主体関係の定立を、潜在的対象が保証しているということだ。そこで潜在的対象は潜在的な「母」であり、それは「おしゃぶり」という行為で現れている。
ドゥルーズは「おしゃぶり」を離れて今度は、潜在的対象は部分対象であるということで、潜在的対象をさらに説明する。それは、「その固有な本性からして、切片であり、断片であり、剥皮である」(DR133,162頁)ともいわれる。フロイトは「おしゃぶり」を、栄養摂取行動と性欲が未分化な時期の行為、フロイトの前期の欲動論の用語を用いていうと、性欲動は自己保存欲動に依託して(「おしゃぶり」として)現れるとしたが、ドゥルーズはこれを展開させて、性欲動を潜在的対象に、自己保存欲動を現実的対象に重ね合わせる。そして性欲動は、幼児の性愛の場合、部分欲動として身体に散らばっている。こうした現実的対象と潜在的対象の関係はこう説明される。「能動的総合が受動的総合を越え出て、グローバルな統合および全体化可能な同一的な対象の定立へ向かうとき、受動的総合は、深化しながらおのれ自身を越えて全体化されることができない部分対象の観照へと向かう」(DR134,162頁)。つまり、能動的総合の機能によって、目の前にいる対象が現実的な母という対象に全体化されていく過程の一方、それと同時に、第1の受動的総合から第2の受動的総合への深化によって、口などの身体部分が断片化された部分対象として潜在的対象の定立のために観照され、もうひとつのレベルを構成する。だから、ドゥルーズは明言していないものの、先ほどの潜在的対象としての母は、母というよりは、潜在的対象としての乳房といったほうが正確だろう。
さらに、潜在的対象は自体愛的な部分対象だけを観照することで現れるだけにとどまらず、現実的対象に「体内化」されているともドゥルーズはいう。「潜在的な諸対象は、主体の身体の諸部分、もしくは自分とは別の人物の諸部分、あるいは玩具やフェティッシュといったタイプのきわめて特別な諸対象に対応する」(DR134,163頁)。このように、潜在的対象は特定の物や人物や部分対象に限定されることなく、まさに断片的で切片的なあり方をする。つまり潜在的対象は、現実的対象とはまったく別のレベルに同時的に存在し、しかもそのレベルの中で、たとえば乳房といった確定されたかたちに限定され続けずに、常に切片や断片として現れるということだ。
ここにおいてドゥルーズは、「潜在的対象は、純粋過去の切片 lambeauである」(DR135,163頁)と断言する。-2において、純粋過去の特徴として、それは現在との共存、つまり過去全体が現在と同時的に共存しているという特徴があった。こうした純粋過去の、その切片が潜在的対象なのだとドゥルーズはいう。能動的総合による現実的対象の定立と同時に、潜在的対象は口や玩具などの部分対象としてさまざまなかたちで現れるとしたが、「潜在的対象は純粋過去の切片」という表現は、時間の総合の視点から潜在的対象を言い直したものであるともいえるだろう。習慣の受動的総合は、記憶の受動的総合と同時に共存している。そこから、能動的総合の機能により統一的な現実的対象(たとえば母や、現実的な諸人物)を構成するというひとつの方向がある。けれども同時により深いところで、部分対象あるいは切片(乳房やフェティッシュ)として潜在的対象が純粋過去全体をかけめぐる。
そして肝心なのは、こうした潜在的対象が切片であり断片だということだ。切片や断片について、ドゥルーズはこういう。「潜在的対象は、自己自身の断片
fragmentとしてでしか存在しない。すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず、再発見されたものとしてでしか存在しない」(DR135,165頁)。失われたものとして見いだされる、ということを言い換えてドゥルーズは、潜在的対象はたえず移転する、つまりd姿lacementという特徴を持つという。潜在的対象は、「潜在的対象があるべき場所に存在するときに移転するものとして、過ぎ去っている」(DR135,165頁)のであり、「かつて現在であったためしのない過去にとって妥当しながらつねに移転していく断片」(DR136,165頁)43
である。
さて、このように、固定された項では決してなく常に移転する存在として位置づけられた潜在的対象には、重要な役割がある。それは、「連絡
commuication」を保証するという役割だ。何の連絡かというと、「セリー」と「セリー」の連絡を、だ。ここでいう「セリー」とは、諸主体の集合、たとえば幼児期の家族関係や、ある事件にかかわった諸主体などを指すものとしよう。潜在的対象は、ひとつのセリー内の諸差異(つまり主体同士のある関係)と、別のセリー内の諸差異(主体同士の別の関係)を連絡する。そして、そうすることで各セリー内の諸要素(つまり一人ひとりの諸主体)の役割と機能を規定する。以下に具体的にみていこう。
ドゥルーズが例として挙げる、ラカンの「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(そしてそのラカンが題材にしたポーの「盗まれた手紙」)を用いると44
、ここで潜在的対象が暫定的に具体化したものは「手紙」だ。ポーのこの小説には、「王─王妃─大臣」と「警察─大臣─デュパン」という2つのセリーがあり、「それぞれのセリーにおける諸要素と諸関係」は、つねに移転する潜在的対象である手紙に関して、それぞれの位置に応じてまたはそれぞれの位置の関数として
en fonction de規定されている、とドゥルーズはいう(DR135,164頁)。つまり、それぞれの主体の位置や関係は、潜在的対象の変化に応じて決定されるということだ。潜在的対象は、ドゥルーズによって「対象=x」と呼ばれることも合わせて考えると興味深い。というのも、潜在的対象を対象=xとい言い換えることによって、諸主体や諸関係は、対象=xという変数に応じて、つまり対象=xが移転することに応じて変化するということがよりクリアになってくるからだ。
ポーの小説で手紙という具体的かたちを与えられたxは、自らが媒介になることでセリー内の諸主体(王・王妃・大臣、あるいは警察/署長・大臣・デュパン)の位置や関係を規定し、また、手紙の存在が2つのセリーの間で共有されることでその2つのセリーを連絡している。たとえば大臣は、最初のセリーでは手紙を王妃から盗み優位に立つが、2つ目のセリーでは手紙を取り戻すデュパンによって窮地に立たされる。またこの手紙自体、最後までどんな文面なのかははっきりと語られないこと、場所を移動することなどが、対象=xのたえざる移転と「失われたかたちでのみ見いだされる」という特徴をよく示している。ドゥルーズはラカンを援用しながら「こうして、個人的無意識にも集団的無意識にも還元されない相互主体的無意識が定義され、この無意識に関しては、どのセリーが根源的で、どのセリーが派生的だなどと特定することはできない」(DR139,462頁)という。
諸セリー間の連絡の役割については、あの2つの現在、「古い現在」と「アクチュアルな現在」を用いて詳しく説明される。2つの現在は、表象としての記憶になると、「古い現在」がモデルになり「アクチュアルな現在」がコピーと化した。ドゥルーズのフロイト批判の中心もここにあった。しかし潜在的対象を考察することで、ドゥルーズは表象とのような「モデル-コピー」ではないレベルを以下のように考える。
「それら2つの現在が、もろもろの実在的なものからなるセリーの中で可変的な間隔をおいて継起することが真実であるとしても、むしろそうした2つの現在は、別の本性である潜在的対象に関して共存する2つの現実的なセリーを形成している。しかもその潜在的対象はそれら(2つのセリー・筆者)の中で、たえず循環し、移転する。(中略)反復はひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、潜在的対象(対象=x)の関数として
諸現在が形成している共存的な2つのセリーの間で構成される」(DR138,168頁)。
ドゥルーズはこのように、諸主体や諸関係から成り立つセリーとセリーの関係を、時間的に継起するものとしてはとらえない。諸セリーは継起するのではなく、共存している。この意味で、ドゥルーズが第2の時間の特徴を「共存」だとした理由がわかる。そして、たえず移転していく潜在的対象に関係することでその諸セリーの連絡が成り立つ。共存する諸セリーとそれらを構成する対象=xという関係があり、xはそれ自身、たえず移転しており、究極的な項にはならない。
また、上の引用の中の、諸セリー間にある反復こそが、物質的反復ではない精神的反復だということも重要だろう。-2の末尾で、こうした精神的反復のことをドゥルーズがさまざまに言い換えていると指摘しておいた。それは精神的反復以外に、「着衣の反復」「全体の反復」「共存の反復」「潜在的な反復」と呼ばれていた。以上の潜在的対象に関するドゥルーズの考察から、ドゥルーズが着目する精神的反復というレベルが、なぜ着衣であり(xの移転を表す)、全体であり(xは純粋過去の断片)、共存であり(諸セリーの共存)、潜在的(受動的総合)なのかがわかる。
潜在的対象のセリー間の「連絡」という役割についてより考えるために、ドゥルーズが挙げる、ブルーストの『失われた時を求めて』も例としてみてみよう。
この小説では、まず「主人公と母」という単一のセリー内においては、母というxによって主人公の位置が規定されている。「母なるもの
la m屍e」は対象=xとして移転し、たとえばスワンとオデットのセリー内においては、「母なるもの」はスワンにとってのオデットとなる。ドゥルーズはこういう。「親の役割を持つ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項ではなく、相互主体性に属する中間項であり、ひとつのセリーから他のセリーへ向かっての連絡と偽装の形式であって、しかもその形式は、潜在的対象の運搬によって規定されるかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである」(DR140,169頁)。ここでいう「偽装
d使uisement」とは、移転 d姿lacementによって潜在的対象が現実化したものを指す。つまり、母であり手紙だ。
このように潜在的対象(「母なるもの」)は、主人公と母というひとつのセリーを飛び越えて、「オデットとスワン」というもうひとつのセリー内の連絡役となっている。そして、「母なるもの」という潜在的対象は「主人公の母への愛」へとズレることにより、主人公が子供の頃に知っていた「オデットに対するスワンの愛」と、「主人公が大人になって抱くアルベルチーヌへの愛」という2つのセリーを連絡の状態におく。ドゥルーズは「主人公の母への愛」を「幼児期の出来事」ともいっており、これは、「私たちが子どもであったときに知った大人たちのセリー」と「私たちが大人になって他の大人たちや子どもたちと関係を持つ場合のその大人のセリー」(DR163,195頁)という2つのセリーを連絡させるとも言い換える45
。
『失われた時を求めて』はドゥルーズがよく例に挙げる小説だが、あの有名なマドレーヌのシーン46 については、ドゥルーズはこういう。「なるほど、経験の第1の次元(能動的総合のこと・筆者注)にとどまれば、2つのセリー(マドレーヌ、朝食)の類似が存在し、同一性(中略)もまた存在することがわかる。けれどもそこに秘密があるわけではない。その味は、もはや同一性によっては定義されない〈あるもの=x〉を包み込んでいるからこそ、影響力を持ちうるのである」(同192)。マドレーヌと朝食はいずれも主人公の幼少期である「古い現在」と「アクチュアルな現在」に登場するのだが、それら2つのセリーはマドレーヌの味に含まれている対象=xによって媒介される。そのxはここでは「即自的コンブレ」(コンブレは主人公が幼少期を過ごした町の名前)だとドゥルーズは指摘し、その「純粋過去の断片」は2つの現在を共存させる。
もうひとつ、潜在的対象のあり方を考えるためにドゥルーズが挙げる事例をみよう。それは注でそっとふれられているものだが(DR141、463頁)、フロイトの「症例ドラ」47
の中で、ドラの夢に出てくる「宝石箱」という対象=xだ。この症例では、ドラ自身とその両親、K氏夫妻、家庭教師が複雑に絡み合っており(父とK夫人の関係、ドラに求愛するK氏、ドラに性教育をしドラの父を愛する家庭教師、K夫人や父を愛するドラ)、いくつものセリーが形成されている。ドゥルーズは、「家が火災にあっているというのに自分の宝石箱にこだわる母と、それを叱る父、服を着て逃げるドラ自身」という夢から、「父と母」「K氏とK
夫人」という2つのセリーを抽出する。
フロイトの夢解釈においては、宝石箱を女性性器とみなし、ドラの父への愛、K氏に対する愛憎、さらには小児期の夜尿と自慰、そして両親の性行為を盗み聞きした(原光景)疑い、というように徐々に幼児期へと遡及していく。だが潜在的対象という点からこの症例を考えてみると、ドゥルーズが指摘する「父と母」「K氏とK
夫人」以外にも、宝石箱をめぐっていくつかのセリーが交錯しているといえる。たとえば、それより以前にK氏がドラへ高価な宝石箱をプレゼントしたこと、父親からドラへと贈られた宝石はK夫人の助言があったらしいこと、そしてフロイト自身がドラの夢に出てきた宝石箱に着目したことなどだ。先のポーの「盗まれた手紙」と同じく、ここでは潜在的対象はその移転作用により宝石箱や宝石へと現実化し、セリー内の各主体の機能を規定し、諸セリー間も対象=xによってつながれている。諸セリー内の主体同士の関係は、K氏のドラへの愛情、K夫人のドラの父への愛情、K夫人に対するドラの複雑な愛情などのように変換されており、それらを宝石箱や宝石が連絡する。またフロイトとドラのセリーにおいては、宝石箱を解釈するフロイトがドラによって父親へと転移され、宝石箱を通して「フロイト−ドラ」と「ドラ−父」というセリーが連絡される(この症例は「転移」の症例としても知られる)。
潜在的対象はこのように、口や乳房といった部分対象だったり、宝石箱や玩具などの物だったり、「母なるもの」やコンブレという土地であったりと、その移転作用によってさまざまなかたちをとる。繰り返すが、d姿lacementの作用ためにフロイトのような固着はそこにはない。それは諸セリーの間を連絡し、諸主体の位置を規定する。重要なのは、潜在的対象が純粋過去の断片として常に移転し続けること、そのことで諸セリー間の差異と諸主体間の差異を保証することにあるだろう。xのたえざる移動によって、諸主体の位置がその都度規定されていき、諸セリー間に差異があることが明らかになり、あらゆる場面が特異な場面として存在しうるということだろう。
反対にフロイトがしたように固着を定めてしまうとそこがモデルになってしまい、他の場面はそのコピーと化してしまう。そのために、セリーや主体が特異的なものではなくなる。ドゥルーズは、固着というモデルではなく常に移動する潜在的対象を主体間や諸セリー間の媒介役としたことにより、諸主体や諸セリーをコピーとして埋没させない。言い換えると、ドゥルーズは起源としての固着を否定し、そこに起源であることを拒否する潜在的対象を置いたことで、すべての出来事が特異的であることと、それらの共存性を保証したということだろう。
しかしドゥルーズはこの潜在的対象の定義付けに関連して、フロイトにも一定の評価を与えている。それが前節でとりあげた「原抑圧」という概念に関してのものだ。ドゥルーズはフロイトの原抑圧の概念を、潜在的対象のレベルをとらえたものとして評価している。フロイトは、自我(ドゥルーズの言葉ではグローバルな自我)による抑圧よりも前段階に「表象代表」が固着しているとし、それを原抑圧と名付けた。抑圧は、自我からも表象代表からも働く力で成立する。ドゥルーズはこの点をこう書く。「反復が、それの決定原理の特徴的な移転によって必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象に関わる帰結として産み出される」(DR138,168頁)。ドゥルーズからすれば、抑圧は表象作用の結果でしかなく、それよりも前に潜在的対象による移転がある。ここをフロイトは見抜いていたと評価するのだが、しかし「もっとも彼(フロイト・筆者注)はそのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる『原』抑圧と考えてしまった」(DR139,168頁)。固着や起源を認めないドゥルーズは、当然、「原抑圧」に含まれた起源性は否定する。しかし、表象代表による移転という概念はそのまま取り入れている。ただしドゥルーズは、起源や固着を意味する表象代表という言葉は用いず、潜在的対象や対象=xと言い直している。
このように、潜在的対象/対象=xは表象代表に近いところにある。その違いは極論すると、固着を認めるかどうか、起源を設定するかしないかの違いだけかもしれない。前節で記したように、表象代表の固着には、一般化された外傷的体験(離乳や原光景など)が大いに関連していた。ドゥルーズはしかし、たとえば「おしゃぶり」を取り上げながらも、離乳体験が潜在的対象をつくるとは書かない。潜在的対象は決して特定のものには固定されない。固着ではなく、それはズレ続ける切片として、主体の位置を決め、セリーとセリーをつなぐ連絡役なのだ。その切片としてのxがズレ続けるからこそ、諸主体間には差異があり、そして諸セリーにも差異があることを表明できる。言い換えると、すべての出来事には差異がありそれぞれが特異的なものであることが、潜在的対象によって保証される。つまりドゥルーズは、外傷的出来事を表象代表と捉え神経症の症状の原因にするのではなく、そうした捉え方の前提にある移動項xに注目する。xは諸セリーを連絡することで出来事を生じさせ、それが表象として捉えられるとトラウマになることもあるだろうが、ドゥルーズはそれよりも前またはそれよりも深いレベルを考える。
以上から、ドゥルーズは「心的外傷」と呼ばれている表象としての記憶は認めないことが確認できた。ドゥルーズは「古い現在」として捉えられてしまう「心的外傷」というものを認めない。「古い現在」ではなく、そこには移転する対象=xがある。起源はなくはじめから差異がある(そしてそこにドゥルーズ的反復をみる)というこの考え方は、「差異と反復」がひとつに混じり合っているというドゥルーズの哲学をよく表しているが、同時に「心的外傷」という発想(表象としての記憶)そのものが退けられる。言い換えると、「心的外傷」という概念そのものが、意識やグローバルな自我や能動的総合のレベルに属するものであり、受動的総合のレベルに注目するドゥルーズからすれば、外傷概念はまさに表象機能によってつくられたものでしかない、ということになる。外傷という概念にとらわれている限り、潜在的対象の次元、つまり「差異と反復」の次元に達することはできない。
この帰結は我々を幾分戸惑わせるかもしれない。というのも、外傷は表象によって設定されたモデルとしての「古い現在」であり固着点だったとしても、外傷と呼ばれているところの体験は幻想であれ事実であれ自己に刻印されていると思えるからだ。ドゥルーズはなぜ、表象としての記憶である心的外傷を用いず、それを出来事と呼ぶのか。すべてが特異的な出来事であるというならば、外傷的体験は他の体験に逆に埋没しはしないだろうか、このような問いに対して次章では考察しよう。
3章.ドゥルーズと反復
ドゥルーズは、前章でみたようにそもそも起源としての外傷や固着を否定し、その代わりに潜在的対象を発見し、出来事 思始ementの次元を提示する。以下の最終章では、ドゥルーズの第3の時間の総合を中心に、その破天荒な「生」の見方を検討する。
3-1.外傷と傷
ドゥルーズが我々に視線を向けるようにと促す潜在的なレベルには、表象としての記憶である外傷=トラウマは存在しない。トラウマは表象によりつくられた概念だ。ではトラウマがないのだとすればそこには何があるのか。そこにはまず、主体の心的な領域、主体間、またそうした諸主体で構成された諸セリーの間に、差異がある。それら諸主体と諸セリーを連絡する潜在的対象がある。それらと同時に(精神的)反復がある。いわば、これだけ、である。我々がトラウマと呼んでいるものは、そう表象化される前は「特異的な出来事」であり、そこには諸主体間の差異と諸セリーを連絡する潜在的対象がある。また、こう言い換えることもできるかもしれない。出来事は、固着のようにひとつに集約される特別なものではなく、その一つひとつが特異的なものである。その特異的な出来事すべてには差異がある。それらを連絡する潜在的対象がある。潜在的レベルにある特異的な出来事では何かが起こり、生成している。それらの中には表象としての記憶になると外傷=トラウマとして否定的な意味合いを持つものもあるが、潜在的なレベルではそれは一つひとつの特異的な出来事でしかなく、そこには出来事としての「強さ」の違いはあるだろうが、ただ「起こっていること」でしかない。
では、特異的な出来事には否定性はなく差異があるのみということになれば、たとえば幼児期の性的虐待は否定されないのだろうか。またレイプはどうなのか、あるいは殺人はどうなのか。戦争はどうなのか。誤解をおそれずにいえば、潜在的レベルではそれらはすべて「特異的な出来事」であることは確かだろう。ドゥルーズは『意味の論理学』48
中の「出来事について」という章において、こうした特異的な出来事についてこう述べる。「あらゆる出来事の中には私の不幸があるが、しかしこの不幸を恐れさせる輝きや閃きもあり、それはもし望まれれば、手術刀の最も鋭い先端で出来事を実現させる」(LS175,188頁)。これは、不幸を忘れてわずかな輝き見いだせといった意味ではなく、不幸として捉えられる以前の出来事を、閃きという差異で抽出させるということだろう。『意味の論理学』では、出来事は「傷
blessure」とも言い換えられ、こうも表現される。「出来事を望むことが、出来事の養分となる火のようにまず第1に永遠の真理を明らかにすることであれば、この望みは、戦争が戦争に反対するために行なわれ、傷がすべての傷痕のように生々しくなり、あらゆる死に対して死が故意に向けられる地点にまで到達する」(LS175,188頁)。ドゥルーズはこのように、出来事を不幸なものとして表象するのではなく、逆にそれが生々しい傷であることを感じること、そのレベルを手術刀で出現させることを望む。
つまり、ドゥルーズにとって「外傷 trauma」と「傷 blessure」は違うレベルにある。外傷は出来事を表象として捉えたものであり、あるいはまた、物語化される「ライフストーリー」の中で最初から究極的な起源として設定されたもの、といっていいのかもしれない。そこではそれぞれの体験が一般的な「不幸」や「被害」としてまとめあげられる。しかし、潜在的なレベルにおいては、それらは特異的な出来事であり、生々しい傷である。傷はもちろん、特異的な出来事に出会ったものすべてにとって、生々しく刻印される。ドゥルーズは、その生々しい傷のレベルを封印するのではなく、そこにこそ、生命や無意識といった、つまり自我や私ではない生命としての人間を認めているのではないか49
。生々しい傷としての出来事のレベル、これを不幸というかたちで否定的にとらえないこと、出来事を出来事のままにその人の生のなまなましさに直結させて捉えること、言い換えると、傷としての出来事に人は常に遭遇しており、そのあり方こそが特異的な生命なのだと捉えること、これがドゥルーズが繰り返して唱える「肯定」のひとつの意味ではないだろうか。
だからドゥルーズは、出来事に出会い、その結果たとえば神経症や精神病と精神医学でいわれる状態になった人たちに対して、無数の差異のひとつでしかない出来事に出会ったにすぎないのだからその神経症的状態はそれほど重要ではない、とは決していわない。そうではなくドゥルーズは、そうした状態こそが、潜在的レベル、言い換えると差異と反復のレベルを発見するための契機になるという。ドゥルーズはそこで、差異と反復の潜在的なレベルを「問い」のレベルとも言い換える。今までみたように、ここには究極的な答えは存在しないのだが、根源的なところにもし何かがあるとすれば、それは移転による「問い」しかない、とする。「問い」とは差異と反復のレベルを表している。そして、神経症や精神病といわれる人たちは、問うことでその差異と反復のレベル、言い換えると生命が生命としてそのまま肯定されるレベルを追い求めている。ドゥルーズはこう書く。「神経症患者や、精神病患者は、おそらくは彼らの病苦と引き換えに、一方はどのように問題を移転させるべきかと尋ねることによって、また他方ではどこで問いをたてるべきかと尋ねることによって、そうした究極的な根源的基底を探求している」(DR142,171頁)。そしてそれらに対して答えがあるとすればそれは、「彼らの病苦、彼らの受苦」(DR142,171頁)であるとする。そうした患者たちの「生
leur vie」そのものが差異と反復のレベルを示しているとする。
このようにドゥルーズの「肯定」の意味はわずかながらつかめた。しかし、ここにおいて、本論文では最後の重要な問題が現れる。それは、そうした「問い」のレベル、出来事を出来事として捉えるレベルに到達するためには、これまで検討してきた第1と第2の受動的総合では無理だということだ。そのためには、第3の時間の総合が必要であり、また「幻想」を潜在的対象として捉えなければいけない。そして、生々しい傷のレベルは「自我の断片化」とセットになっており、ドゥルーズがこう理論化したことにどんな意味があるのかを考える必要がある。
時間の第2の総合は純粋過去と呼ばれ、それは第1の総合である現在が流れるための根拠だったのだが、それが現在の根拠であるがゆえに、いまだ「時間の円環の中」(DR119,145頁)にあるとドゥルーズはいう。第2の総合は精神的反復であり潜在的対象を含むものであったが、しかし現在の根拠である以上、どうしても時間の円環からは出ることができない。その結果、第2の総合は、必然的に「古い現在」という表象としての記憶になる。これまで時間の議論を通して、起源としての「古い現在」という表象レベルを避け、潜在的対象を媒介として差異と反復のレベルへと深化しようとしてきた。だが、現在と純粋過去が混合しているために純粋過去が「古い現在」として表象されてしまう。このことをドゥルーズは「錯覚」(DR145,174頁)とも表現し、こう書く。「以上のふたつの準拠項 (現在と純粋過去・筆者注)が混じり合っているということおよび純粋過去がそれゆえに古い現在の状態に陥ることは避けえない事態なのである。たとえそうした事態が、神話的なものであり、その純粋過去によって暴かれるとみなされていた錯覚を再び構成し、起源的なものと派生的なものに関するあの錯覚を、すなわち起源には同一性があり派生的なものには類似があるという錯覚を復元させるにしても」(DR145,174頁)。
このことをドゥルーズは、「根拠が規定する表象の回路の中に、当の根拠がエレメントとして戻ること」(DR145,175頁)ともいい、根拠(純粋過去)が「古い現在」化するメカニズムを一言で表す。つまり、円環としての通常の時間にいる限り、「古い現在」という錯覚から逃れることができず、出来事のレベル、言い換えると生々しい「傷」を見つめる水準にはたどり着けないということだ。出来事は「外傷=トラウマ」という表象としての記憶に陥らざるをえず、「傷」という出来事は把握できない。円環をはずさない限り、差異と反復のレベルである「問い」を発見できない。
ここからドゥルーズが提唱する第3の時間の総合はより抽象的で、なかなかつかみづらい部分があるのだが、それはまた反面、かなり形式化されて示されている。抽象的ではあるが読みようによってはマニュアルめいたものにも映る。そこに、第3の時間への移動可能性に関してドゥルーズの肯定的展望が感じられる。
また第3の時間は、第1の時間の「現在」と第2の時間の「過去」と比較して「未来」であるといわれるが、予期としての一般的な未来(これは第1の時間において、現在へと縮約された未来を指す)ではない。未来というよりは、「新しい」ということ、「その都度の新しさ」というほうが近いかもしれない。第1の時間が全体としての現在を、第2の時間が過去全体を指すものであれば、第3の時間は「新しさ全体
toute la nouveaut氏」であるともいわれる。
第3の時間は2段階に分けて説明される。最初の段階は円環のはずし方と第3の時間への突入、2段階目は第3の時間の内容だ。
まずは最初の、円環のはずし方と第3の時間への突入をみよう。円環的な時間は経験的とか継起的などと呼ばれ、そこを解体することからドゥルーズは始める。それは、継起的であるという通常の時間感覚を廃棄することであり、継起的ではなく「順序」として時間を捉えるということだ。また時間は、円環から直線になることでもあるといわれる。つまり、継起的
successifな時間が円環であり、これを順序的 ordinalな直線に変化させるをドゥルーズは提案している。だが、継起は連続とか絶え間ないなどに言い換えることができ円環としての時間をイメージしやすいが、では順序
ordreとは何か。ordreは順序の他に秩序や階層、または整理や種類までも含む幅広い意味を持つ。ドゥルーズはこの直線になった時間について、それは運動せず変化せず、静的なものだとする。また、「等しくないもの(差異があるもの)の純粋に形式的な配分
distribution」(DR120,146頁)ともいう。distributionには配置や分布という意味もあることから、ドゥルーズが示そうとするordreの意味もつかめるのではないか。配分や秩序には、連続するという意味がなく、むしろ、複数のものたちが同時に共存するというイメージがある。つまりordreということでドゥルーズは、後述する、第3の時間の特徴である「諸セリーの共存」へと我々を導こうとしているように思える。
このように直線となった時間、順序としての時間は、「前」「中間休止」「後」の3部分に分かれるとドゥルーズはいう。この3つのうち、「中間休止
c市ure」の決定が重要になる。ドゥルーズはここでヘルダーリンの「詩のリズムの中断」に言及している。(詩において)「時間は『韻を踏む』のをやめる、なぜなら、時間は、始まりと終わりがもはや一致しなくなるような『中間休止』の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するから、とヘルダーリンは語っていた」(DR120,146頁)。ドゥルーズが指摘しているヘルダーリンの著作では、中間休止についてこう書かれている。「それ(中間休止のこと・筆者注)によって、計測の連鎖とリズムは2つに分かたれる。そして分かたれたその2つが平衡状態を示すような関係になるのである」50
。このように、中間休止が設定されて初めて直線において「前」と「後」が順序づけられるのだが、ではこの中間休止とはどういうものか。
それは「行動のイマージュ」あるいは「行動=x」(対象=xとは意味が異なる)の中で決定されるという。この行動のイマージュについてドゥルーズは、具体的にどういう行動なのかという言及はしない。それは、「途方もない行動のイマージュ」と呼ばれるものの、「その途方もない行動は、経験的にはどんなものであってもかまわないし、少なくともその行動の機会は、どんな経験的状況のなかにも見いだされうる」(DR376,435頁)。つまり、第3の時間に突入するためにはある行動がきっかけとなるのだが、その行動自体はどんな些細なものであってもかまわないということだ。
この行動のイマージュの中で中間休止が決定された結果、「前」と「後」が構成され、時間が順序的なものになる。そして、時間は順序化されるだけでなく、「前」と中間休止と「後」が行動のイマージュへ寄せ集められる過程で「総体」化するとドゥルーズはいう。これらは等しくはなく、差異がある。差異があるままそれらは順序・配分されて直線の上にあるのだが、これが行動のイマージュの中に差異をもったまま寄せ集められる。その結果、そのイマージュは時間を「総体化」するとドゥルーズはいう。ここまでを整理すると、行動のイマージュの中で中間休止が決定され、それによって時間が直線となり、順序・配分化される。「前」と中間休止と「後」は等しくはなく、等しくないまま行動のイマージュへと寄せ集められる。ここで時間が総体化する。
このような時間の総体化によって、行動のイマージュは象徴のイマージュと呼ばれることになる。ドゥルーズはその象徴のイマージュの例として、「時間をその蝶番からはずす」(ハムレット)51
や「父を殺す」(オイディプスだと思われる)52 を挙げている。
以上を、オイディプスの「父を殺す」という象徴のイマージュの例で考えてみよう。尋問によって「父を殺す」という行動のイマージュがオイディプスに現れ、そこに中間休止が訪れる。すると、それまでおだやかに継起していた時間が「前」と「後」に順序化する。この行動のイマージュは大きく象徴化され、時間を総体化する。そして、象徴のイマージュとなった「父を殺す」は、順序化された時間の「前」、つまり過去に向かい、オイディプスにとっては「大きすぎるもの」として捉えられる。オイディプスの場合、すでに父王を殺害しているのだが、そのことを本人は知らず、「父を殺す」という象徴のイマージュが大きく彼を捉える。「彼ら(ハムレットやオイディプス・筆者注)は、行動のイマージュを彼らにとって大きすぎるものとして受け取っている限り、彼ら自身、過去の中で生き、過去の中に投げ返されている」(DR121,147頁)。次に、「中間」つまり現在に向かい、ここであらためて中間休止、つまり行動=xと対峙する。オイディプスであれば、尋問(大きな尋問は2度あるが、前半のテイレシアスへの尋問だと思われる)以降の彼の行動だとドゥルーズは指摘している。この中間休止においては、行動と(グローバルな)自我が等しくなる。言い換えると、「私が私である」「私が私に似る」という同一性や類似に則って行動する。だがドゥルーズは、こうしたグローバルな自我による管理を認めない。ドゥルーズはこういう。「ひとがそれに似るようにあるいは等しくなる当の行動のイマージュは、ここでもまた、明らかに概念一般の、あるいは〈私〉の同一性に対してしか有効ではない」(DR378,437頁)。この一文からも、第3の総合がどこに向かうかがわかる。それは、「私」や「自我」を壊すものなのだ53
。
「中間」における自我と行動の同一化にとどまらず、「後」つまり未来、あるいは「新しさ全体」へ向かうのは、やはり特異的な出来事が大きく関与しているように思われる。始まりは行動のイマージュであり中間休止であったとしても、行動はグローバルな自我と一体となることで限界が現れる。限界とはつまり、「出来事や行動」が自我に収まりきらないものを孕んでいるということだ。第3の時間の総合はこうして、出来事や行動に含まれるものから溢れ出してくる。ドゥルーズはこう書く。「その時間(第3の時間・筆者注)が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性une
coh屍ence secr師eを有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向け、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに目覚めさせる対象の炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、自我を無数の断片に砕いて投射するということである」(DR121,147頁)。
ここでいわれる「秘密の一貫性」というものが、上で論じてきた「特異的な出来事」や「傷」のレベルに通じるように考えられ、その意味で、自我におさまりきらないものをドゥルーズが言語化しようとする意図も理解できる。グローバルな自我では出来事とは出会えない。そのためには、自我を無数の断片にし、あるいは自我を「ひび割れた」(DR145,176頁)ものにする必要がある。その断片化した自我とは、あの幼生の主体、幼生の自我のことだ。
こうして第3の時間を整理したものの、抽象的でつかみにくいことは変わりない。そこで同じ部分を考察した論文や書物を参照し、ドゥルーズの「潜在性」と合わせて考えることで補足してみよう。大塚直子氏は、第3の時間についてこう表現する。「私たちは時間の中で生きているのでも、私たちのなかに時間があるのでもない。私たちは時間とともに生成変化する一本の直線なのである。時間とともに移りゆき、そのなかで絶えず他のものに成り変わってゆく主体。それは能動ではなく、出来事によってその都度産出される受動的で派生的なものでしかない」54
。大塚氏は、第3の時間を潜在的領域にあるものだとし、第3の時間の直線を「生成変化の直線」とも呼ぶ。たとえば「潜在的な領域での時間とは、無限の生成変化以外の何ものでもなく、それはとどまることなく次々と生まれ変わってゆく時間なのだから、それゆえに、蝶番から外れた時間は、同一化の原理とは無縁であり、一切を統括するような対象をもたず、すべては無限に生成変化し、絶えず移動し続ける」(同222頁)。
また檜垣立哉氏は、第3の時間のことをこう表現する。「空虚な形式としての時間、直線としての時間とは、ひたすら無限に延び拡がり、回帰することのない時間のことである。つぎつぎと新たなものが現れて、どこにもまとまっていくことのない、そうした生成のなまなましさをあらわす時間のことである。そこで直線や順序とは、無限を一気に見通しうること、無限の流れを一挙につかみながら、生成のなかに潜在的に入り込んでいくことの、ひとつの表現であるだろう」55
。
いずれも、第3の時間を「潜在性」や生成と連結して捉えている。そこで「潜在性」をどう捉えたらいいのか、本論文のテーマからは少しずれるが、そこを簡単におさえる。
大塚氏は別の論文でドゥルーズの潜在性についてこう説明する 。潜在的な領域というものは決して現実的なものから切り離された、フィクションではない。そこは「前個体的」で「非人称的な」諸要素で構成されており、それら諸要素が現実化していく過程としての生成変化がそこにはある。「つまり、潜在的なものとは、経験から切り離された純粋な超越的領野でありながら、同時に、経験的な現実とともに生成変化する、というよりはむしろ、生成変化することで現実世界を構成する動的な基盤なのである」56。前個体的であり生成の場、大塚氏はこれを歴史に喩え、どんな無名の人物であっても一人でも存在しなければ、全体としての現実世界は変化するとする。現実の世界を決定しているもの、それがドゥルーズの潜在性だという。潜在性とは現実世界の一部ではなくそれを支える基盤であり、「それらは、諸々の要素が複雑に、かつ緊密に絡み合い、わずかな変化や分割によっても全体が改変される」(同118頁)ものであるが、ただし、「本質的に未決定なもの」57
でもある。
ドゥルーズ自身は『差異と反復』5章でこの例として卵/胚を例に出して詳細に議論しているのだが、残念ながらここではそちらの議論に深入りはできない58
。ただし、「出来事」に関連して、檜垣氏が卵を取り上げていることは注目できる。「世界は一個の卵だ」(DR323,374頁)とドゥルーズはいっており、このような潜在性の象徴としての卵を檜垣氏は、何になるのか卵はあらかじめ決定されているのではなく、その位置、細胞分裂の時期、環境などによって徐々にかたちをなすものだとする。卵とは、「多様なかたちをとるために、それ自身はかたちをなしていない力のかたまり」59
である。そのようにして潜在的である卵が徐々にかたちをなしていく、このことを檜垣氏は「特異な出来事」だと表現する。たとえば眼の形成は、進化の段階もふまえ、形成過程の偶然性も含めたものだ。そして以下のように書いて、我々の生と接続する。「わたしたちが、この世界に投げ込まれ、見えない全体を見渡しつつ、たくさんの折り合わない事柄を同時に抱えながら、それでも前に進んでいくとき、それは進化のあり方と同様に、ひとつひとつが特異な出来事である。それは、主体的な決断からはほど遠く、不条理としかいえないパラドックスのなかをかき分けながら、いずれかの解決へと暫定的にたどり着いていく、そうした生のことである」(同71頁)。また小泉氏は、この点に関してこう書く。「出来事を胚細胞が受肉するように準備することだけが、真の倫理である。出来事を恨み続けるのではなく、傷という出来事を新たな仕方で受肉する生命体を準備するのである」60
。
以上、第3の時間を理解するために、出来事や潜在性と関連させた論考をとりあげてみた。大塚氏は「ドゥルーズ的主体」というものは、「出来事に応じてその都度生まれ変わっていく主体」だという。このように、第3の時間とは、まず、出来事の「秘密の一貫性」を通して現れる。そして、そこで「新しいもの」が産み出される。その「新しさ全体」は次々と生まれ変わっていき、その都度ごとに新しくなる。ドゥルーズはそれを、「この生み出されるもの、それ自身絶対に新しいもの」(DR121-122,148頁)とも表現する。このようなものを理解するには「生成」という言葉が近道だといえる。出来事はそうした生成を産み出す。また新しさは出来事によってその都度産み出される。このような第3の時間は、偶然的な出来事との出会いを背景にするためなかなか描くのは難しい。たとえば檜垣氏は第3の時間を以下のように描写する。「それは、ひたすらに見ること、ひたすらに感じることとしか表現できないだろう。(略)そこで真偽も内容も描けない新しさを、ただ受動的に被ること」61
。これはひとつの描写だが、出来事との受動的な出会いのなかで、その都度新しくなるその「新しさ全体」をドゥルーズは「未来」だとしている。未来とは、通常それが語られるような予期できるもの・予測できるものではなく、その都度の新しさであり、生成であり、産出だ。そして、そこでこそ出来事を肯定できるとドゥルーズはいっているようにも思える。
3-2.幻想と出来事
さて、このようにして円環がはずされ第3の時間への突入法を検討したのだが、これは何もオイディプスのような特別な場合にだけ訪れるものではないだろう。行動のイマージュは「父を殺す」のような非日常的なものでなくとも、ドゥルーズのいうように「経験的にはどんなものであってもかまわないし、少なくともその行動の機会は、どんな経験的状況のなかにも見いだされうる」からだ。そう考えると、こうした第3の時間はそれほど突飛なものでもない。言い換えると、出来事は、我々が通常「日常」と呼んでいるものの下に潜在的なかたちで「その都度の」特異的なものとして存在しているということだ。通常の時間(第1と第2の時間)にいる限り、その中のあるものはトラウマという表象としての記憶(古い現在)になるが、第3の時間はその「錯覚」を断ち切ろうとする。円環を切断し、時間を直線に変え、その都度の出来事を「新しさ全体」として捉える。そしてそのような第3の時間は、ドゥルーズが指摘するとおり、グローバルな自我の管理下にはない。出来事によって幼生の主体・幼生の自我の状態が訪れ、幼生の主体が出来事を感じることができ、そうしたプロセス全体が「新しさ全体」である、ということだ。
では、そのような第3の時間の内容はどんなものだろうか。それは、-4でみた「セリー」と「対象=x」という概念をさらに突き詰めたものだ。セリーは「差異的な諸システム」(DR165,198頁)の中に明確に位置づけられ、対象=xは「暗き先触れ」と呼ばれ、ここにおいて、「幻想」がその暗き先触れの顕示だとして肯定される。順にみていこう。
まず、この差異の諸システムは、第3の時間になることにより、継起的な時間ではなくなっている。それは継起ではなく、セリーが共存するものだということがこの第3の時間の内容の特徴だ。第2の時間、つまり過去の特徴も共存ではあったが、それは前節でみたように現在を支える根拠であり、そこから円環が形成され、「錯覚」が生み出されていくという「曖昧さ」「弱点」(DR119,145頁)をもっていた。だが第3の時間は円環をはずしたことにより、セリーの共存が徹底できることになる。
そして、「曖昧さ」のない第3の時間においては、潜在的対象/対象=xも、「暗き先触れ pr残urseur sombre」と言いなおされる。この先触れは、潜在的対象と同じように、たえず移転しながらセリーとセリーを連絡する。ドゥルーズはこう書く。「2つの異質なセリー、2つの差異のセリーが与えられるとき、先触れは、それらの差異を異化させるものとして作用する。そのようにして初めて、先触れは、おのれ自身の力によって、それらの差異を直接的な関係の状態におく」(DR157,188頁)。このように暗き先触れは、諸セリー間の差異や、セリー内差異と別のセリー内差異の「諸差異の諸差異」を連絡するものだともいわれる。
また、「先触れは、まさしく対象=xであり、おのれ自身の同一性において欠けてもいれば、『あるべき場所に欠けてもいる』ものだ」(DR157,188頁)と述べられ、それが常に移転し続けるあの対象=xであると断言する。つまり、暗き先触れとは、それ自身は移転しながらセリー間の諸差異を保証するものであり、言い換えると、出来事が特異的なものであると保証する、すべての諸差異だ。たとえばドゥルーズは、先触れが諸セリーを連絡する事態をこのように描写する。「異質な諸セリー間に連絡がうち立てられるや、そこからあらゆる種類の帰結が、システムの中に生じてくる。何事かが縁と縁の間で『過ぎていく』。まるで稲妻のように、雷光のように、出来事が炸裂し、現象が閃き出る」62
(DR155,186頁)。
このように、諸差異のシステムあるいは第3の時間の内容をなすものとして、共存する諸セリーとそれらを連絡する暗き先触れが提示された。これは、潜在的対象/対象=xを暗き先触れと言いなおすことで、第3の時間の、継起的な時間ではない、共存するセリーという特徴がより強調された、ともいえる。その共存する諸セリーを、暗き先触れが連絡する。
ここでドゥルーズが持ち出してくるのが、あの「幻想」だ。ドゥルーズは、諸差異を保証する暗き先触れの議論と幻想を重ねて論じることで、共存する諸セリーの意味を述べ、あらためてセリーの起源性を退ける。
ドゥルーズは、フロイトがたとえば「原光景」(両親の性交を目撃すること)には幼児の幻想が含まれているとしたことを批判しない。それよりもむしろドゥルーズは、幻想を「幼時における暗き先触れの顕示」(195頁)だととらえ、幼少期に接したり想像した大人のセリーと、実際に大人になったセリーという2つのセリーを連絡するものとする。ドゥルーズはこういう。「幻想の中ではむしろ、時間における継起の経験的条件の代わりに、2つのセリーの共存がある。それは、私たちがそれになるような大人と、私たちが今までそれで『あった』ような大人たちとの共存が成立しているということである」(DR163,195頁)。
そしてドゥルーズはここにあの「事後性」を接続し、成人になってから幼児期の光景が現れることについて、それは「古い現在」という表象としての記憶ではなく、この事後性そのものが、「『前』と『後』を共存させる時間の純粋な形式」だというのである。ドゥルーズはこういう。「幼児期の出来事が遅れてようやく作用するというのはどういうことなのかと疑う必要はない。幼児期の出来事がその遅れ
retardなのであるし、この遅れそれ自体が、『前』と『後』を共存させる時間の純粋な形式なのである」(DR163,195頁)。ここでいわれる時間の純粋な形式とは、本章で考察してきた第3の総合のことだ。
注意しなければいけないのは、幼児期の出来事が「前」ではないということだ。「前」は幼少期からみた大人のセリーであり、「後」は実際に大人になった大人のセリーであり、この2つのセリーが幼児期の出来事(たとえば「原光景」)という幻想の顕示によって第3の時間へと突入する。言い換えると、幼児期の出来事が幻想として遅れて作用することで、その幻想が時間を直線と変え、順序化して総体化する。そしてここでドゥルーズが、幻想の中で2つのセリーが共存する、としていることも肝心だろう。つまり、これ以上ドゥルーズ自身は明確化していないものの、幻想の中で諸セリーが共存することで、幼児期の出来事という幻想は、2つのセリーを連絡の状態に起いているということだ。幻想は時間を直線化させ、第3の時間の内容である「諸セリーの共存」をなす。これが、幻想が「幼時における暗き先触れの顕示」だという意味ではないかと思われる。
このように、幼児期の出来事が遅れて作用することを、つまりフロイトが「回想により外傷となる」と捉えたメカニズムを、ドゥルーズは逆に肯定的に捉え、時間の純粋な形式である第3の時間だとした。しかしフロイトは一方で、「『無意識』体系の事象には時間がない」63
といっていることも暗示的だ。ドゥルーズはこうした共存するセリーのことを「無意識のシステム」とも言い換えている(DR163,195頁)。第3の時間とは継起する円環であることをやめた、いわば「(通常の)時間のない」状態のことであり、これとフロイトの無意識の捉え方はリンクする。この意味では、起源の探求という点でドゥルーズとフロイトは対立するものの、無意識に時間がないという点に関しては、ドゥルーズはそこを共有して独自の提案をしているといえる。
またここでの「幻想」の幻想性について、ドゥルーズは「幼児期の光景は非現実的あるいは想像的だと結論してよいわけではない」(DR163,195頁)としており、それの事実性よりは「暗き先触れ」という点を強調している。ここで「幼児期の出来事」といっていることから考えて、この出来事は、第3の時間と出会うためのあの出来事であると思われる。この点からもドゥルーズが、幻想を肯定的に捉え、それを「傷」のレベルで考えていることがわかる。つまり、幼児期の出来事という幻想が、時間を直線にし、それ自体が暗き先触れとなることで諸セリーを共存させている、ここで幻想は肯定的に捉えられ、第3の時間へ到達するための出来事となっているということだ。そして、すべての出来事は特異的なものであり、その出来事とは「傷」でもある。ドゥルーズはこういう。「幻想において起源的なものは、ひとつのセリーに対する他のひとつのセリーのことではなく、むしろそれは諸セリー間の差異であって、もちろん差異といっても、諸差異のセリーを他の諸差異のセリーに関係させ、時間におけるそれらセリーの経験的な継起を捨象する差異なのである」(DR163,195頁)。
しかしこれは、たとえその先触れ性を強調しようとも、幼児期の出来事を幻想と捉えることでその「事実」性を隠蔽していると指摘されるかもしれない。また、幼児期の光景が遅れて現れることを、フロイトやハーマンのようにトラウマとして把握し回復させるのではなく、それを「新しさ全体」を発見するための単なる契機としてドゥルーズが歓迎していると指摘されるかもしれない。ドゥルーズはトラウマを抱えた人の病苦を無視していると。
だがドゥルーズはもっと潜在的なレベルから語っているために、こうした批判はその上方を通り過ぎる。つまりドゥルーズは、幼児期の出来事が幻想であることをむしろ歓迎しているということだ。なぜなら、それこそが幼児期の出来事を隠蔽しないからだ。幼児期の出来事は「傷」としてあり、それを表象として語るならばトラウマとなるのかもしれない。けれどもそれはトラウマである前に、「傷」であった。その「傷」は、その人があるセリー内にいて、別のセリーと連絡したときに起こった出来事だろう。その出来事の特異性を隠蔽せずにそれと出会うことをドゥルーズは求めている。上に論じたように、すべてのセリーには差異がある。すべてのセリーには差異があるのだが、そうした諸差異を共存させる先触れの力によってすべて捉えたときに、どれがモデルでもコピーでもなく一つひとつが特異的なセリーであること、またそこに特異的な出来事が生じていることが浮かび上がる。ドゥルーズにとって幻想とは、特異的な出来事を顕示させるものであり、それによってその幻想を抱える人を第3の時間へと誘うものである。そして、その人が抱えるすべての差異を肯定するきっかけとなるものだ。
さて以上のように、2章にわたってドゥルーズの議論をみてきた。起源のない諸セリーの共存は、-4でみた精神的反復の延長線上にあるドゥルーズ的反復を指す。ただし曖昧さのない第3の時間を検討した以上、それを精神的反復とはいわず、ただの反復と呼ぼう。こうした反復には、最初から移転し続ける先触れとして差異が含まれている。先にも述べたが、このような差異と反復のレベルは、上の幻想も含めて、きわめて日常的なものとして潜在しているように思われる。それをドゥルーズは執拗に記述しようとしている。
その狙いは、まずは本論文でも繰り返しふれた、出来事のレベルを発見しその出来事と出会った人を肯定することにあるだろう。差異と反復のレベルでは傷は傷として生々しくある。それを誰かの責任にもせず、悩んだり恨んだりもせず、また諦めたりもせず64
、差異と反復のレベルで出来事と出会うこと、というこの提示は、あまりに冷淡だろうか。それとも、あまりにも「患者」たちの現実を無視した抽象的な議論だろうか。そうではないだろう。本章冒頭でも記したように、むしろ、生々しい出来事と出会う、その差異と反復のレベルと出会うことが、その人の幼生の主体としての、あるいは無意識としての、そして生命としてのその人の、諸差異を含むすべてを肯定することになるからだ。「傷」はなまなましい。だがそのなまなましさこそが「生」だということであり、それがドゥルーズのいう「問い」のレベルだということだ。
もうひとつ、ドゥルーズは第3の時間において、自我の断片化と「新しさ全体」に向かうことを提唱している。そして第3の時間を「発狂した時間」とも記述する。第3の時間へのプロセスの「中間休止」において、「私」や「自我」の同一性は出来事の秘密の一貫性によって崩壊へと向かい、幼生の主体、幼生の自我が現れる。これは上のような出来事を論じるものとして考えることもできるし、また文字通り、自我の崩壊をドゥルーズが提唱しているようにも読みとれる。これをどう捉えるか。
ここがドゥルーズの議論を考えるときの難しい点だと思われるが、この「自我の崩壊」について、文字通り自我が崩壊することをドゥルーズは肯定していると読みとってもいいのではないだろうか。それは、第3の時間が「新しさ全体」と「未来」の時間だったことと関係すると思われる。その時間では、時間は継起的な時間でなくなり、セリーとしてすべてが並列している。これは、グローバルな自我では感じることができず、幼生の自我と呼ばれているような、無意識的な状態でのみ接することができる。時間がセリーと化し、自我が崩壊する。ドゥルーズはこういう状態について、具体的な臨床像と比較して語りはしないので安易な比較は慎まなければいけないが、ドゥルーズが自我の崩壊を推奨していることは確かだ。しかしドゥルーズは、「私」が「私」でなくなり自我が崩壊することと、「未来」あるいは「新しさ」を結びつける。そして、諸セリーの共存とその連絡もまた未来や新しさと結びついている。
これを言い換えると、その都度の新しさと出会っていくためには、継起する時間やグローバルな自我は邪魔だということだろう。新しさは、いちいち「古い現在」を振り返ることなく、受動的なものとして、身体に散らばる微少な自我たちによって受け止められるしかない。
たとえばトラウマ/心的外傷は、表象としての記憶であり、それは継起する時間の中で「古い現在」として、過去に固着したものであった。だからトラウマという発想をしている限りは、ずっとその古い現在に縛られたままとなる。そのため、フラッシュバックとしていつ襲ってくるかもしれない「時間が凍りついて動かない過去の体験」(-2参照)をいかに「自己」に統合するか、綿密なプログラムが必要になる。これにより実際、多くの人たちが「回復」している。しかし、こうした破片のようだといわれる記憶群は、それらが物語化のために寄せ集められ表象としての記憶つまりトラウマと位置づけられる前に、まずは「破片」である。ただし、この「破片」をドゥルーズの議論に直接はめこむのは、ここまでみてきたようにドゥルーズとハーマンが寄ってたつ場所があまりにも違うのでやめておこう(対象=xやセリーとして論じたい誘惑は退けよう)。「破片」は、ハーマンの回復プログラムにおいてネガティブに扱われているものの、それの存在自体は回復過程に大きな影響を及ぼしてはいる。だがいずれにしろ、トラウマとして捉えられる限り、自我を極端に混乱させるこうした破片群も、継起する時間の過去に位置づけられてはいる。
自我の崩壊とか自我の断片化といわれるものについて、それをたとえば錯乱であったり解離であったり分裂であったりといろいろな表現の仕方はあるし、精神医学ではその症状によってさまざまに診断することができるだろう。が、ドゥルーズがいう自我の崩壊は、そうした一般的な表現とか診断以前の、まさにその個人に特異的な「崩壊」を指していると思われる。崩壊のかたちはどういうものでもいいし、日常的に訪れるものかもしれないし、それをどう名付けようがかまわない。ただし、崩壊するときは、未来を向いていること、「新しさ全体」になっていることをドゥルーズは求めている。破片であろうがトラウマであろうが過去は必要ない。
そうした、個人に特異的な自我の崩壊さえ「新しさ」と結びつくことで肯定されていること、それが、広大な射程と独自の概念群(本論文ではその一部しか扱えなかったが)とともに言及される差異と反復という潜在的レベルで裏付けられていること、ここにドゥルーズ哲学の強さと優しさがあると思われる。もちろん、たとえば臨床現場で「患者」に接する臨床家たちも、患者たちがその一人ひとりの特異性の中で自我が崩壊していることは否定しはしないだろう。なぜなら、まずは否定しないからこそ、そうした「自我の崩壊」をはじめに肯定するからこそ、「回復」プロセスを描けるからだ。しかし、「回復」は、その過程に患者や臨床家が乗ったとたん、自我の崩壊を受け入れた最初の状態を忘却させるのかもしれない。ドゥルーズは、差異と反復のレベルから発せられる「問い」の力というものは、「どんな差異があるの」「ちょっと反復してごらん
r姿師e un peu」といった何気ないかたちで表現されるという(DR142,172頁)。こういう優しい表現を、たとえば、「ちょっと自我が崩壊したってかまわないんだよ」と言い換えてもドゥルーズは許してくれるのではないだろうか65
。こうした表現は、臨床が「回復」プロセスに乗る前段階で肯定と沈黙のうちに発せられるべき優しい言葉、我々の日常を潜在的レベルで支える倫理的な言葉になりうる。最も根源的レベルにあるといわれる差異と反復は、苦しむ人たちを肯定し、「新しさ全体」へと同時に導く。
4.おわりに
以上、フロイトに関してはそのヒステリー考察に絞り込み、そこから起源と幻想の問題を抽出した。ハーマンに関してはフロイトのとった幻想への批判と、その回復プログラムを簡単にみた。ドゥルーズに関しては、『差異と反復』の2章を中心に、できるだけドゥルーズの魅惑的な文章に飲み込まれないためにもその議論をかなり細かく追ってみた。特に、従来のドゥルーズ論においては見逃されがちの「潜在的対象/暗き先触れ」の概念をてこに、特異的な出来事の議論に焦点を当てた。
初期フロイトとハーマンは、トラウマ/心的外傷は「表象としての記憶」であると前提しており、中期以降のフロイトは、そうした個々のトラウマも人間の発達段階に組み入れることで、幼児期体験をより一般化して示した。いずれにしろそこにはトラウマを「起源」とする発想がある。表象についてはドゥルーズの受動的総合や反復などの議論を、起源や一般化についてはドゥルーズの出来事や先触れなどの概念を参照することで、トラウマや幼児期体験の議論が持つ「物足りなさ」をいくぶんかは払拭できると思われる。
またドゥルーズは、ハーマンが「体験の実態から解離した」と批判したフロイトの幻想への傾斜をまったく違う点から捉え、逆に、幻想が一人ひとりの特異的な体験に出会うものだとした。ここには第3の時間というなかなか捉えがたい概念が前提とされているため、本論文でどれだけこのドゥルーズの第3の時間を論じることができたのか、心許ない。だが幻想を、病の原因や症状といったネガティブな捉え方ではなく、諸差異を連絡するものとし、出来事に結びつけることにドゥルーズの特徴がある。
最後に、臨床としての精神分析やハーマンの「回復」プログラムによって、諸症状が軽減され、そのことが「治った」こととして把握されることには依存はない。しかし、たとえばフロイトの患者たちの後日談のなかには、フロイトの分析以降もその症状に生涯悩まされたという患者はいるし(たとえば「狼男」)、ハーマンの「回復」プログラムにおいても、人生の節目節目にPTSDの症状は現れるという。そうしたとき、「また症状を繰り返した」と否定的に捉えるか、そこに新しい出来事を感じそれ自体が生きることであると肯定できるのか。後者のドゥルーズの議論には、出来事にともなう加害/被害を曖昧にし、「回復」プログラムを無意味なものにしてしまうと懸念されるかもしれない。けれども、加害/被害の認識や、出来事をトラウマとして位置づけとりあえず日常生活を送りやすいものにすることは、少しだけ「後に」なってからの(ないし「表面」での)ことなのだ。まずはじめに我々は、心的外傷の刻印以降その人の生そのものが否定的な生となる事態を避けなければいけない。刻印される前に(ないし刻印とは違う深い部分で)我々は出来事に受動的にさらされ、それがそもそも生ということであり、そのレベルには否定的なものが届きようがない、そこでの肯定を考えるためにはドゥルーズ哲学を参照することがよいと考え、本論文は書かれた。そして「回復」がより円滑に進むためにも、ドゥルーズ的な差異と反復のレベルが潜在的にあることを明らかにすることは有意義だと思われる。「症状の、同じものとしての/物質的な反復」とは違う、潜在的な差異と反復のレベルにおいて「生」そのものが肯定されているということを。
なお第3の時間について、『差異と反復』ではニーチェの永遠回帰の概念と合わせて説明されているが、本論文ではその角度からの検討は見合わせた。それは、心的外傷という具体的なテーマが、永遠回帰という魅力的だが神秘的でもある概念に接続されることで、極端に抽象化されることを恐れたためだ。他に『差異と反復』では「理念」「個体化」「差異化/分化」「強度」「存在の一義性」など重要な概念が論じられているが、本論文では扱えなかった。これらを扱うにはドゥルーズ論として独立させたほうがよいと判断したためだが、何より私の力量不足が大きい(永遠回帰も含め)。また、フロイト、ハーマンについても、本論文で取り上げた点以外にもさまざまな角度から論じることができるであろう。それらを含め、今後の課題としたい。
●文献
引用したものや参照したものはすべて各注に記しているので、ここでは主要文献にとどめた。ドゥルーズとハーマンの著作は基本的に邦訳を参考にしたが、一部訳語を変更した箇所もある。両者の著作の引用には原著と邦訳の頁数を記した。なおフロイトは邦訳のみを参考にした。
《ドゥルーズの著作》
Gilles Deleuze:Diff屍ence et r姿師ition,PUF,1968,(G.ドゥルーズ、『差異と反復』財津埋訳、河出書房新社、1992年)。DRと略。
────:Logiques du sens,Minuit,1969.(G.ドゥルーズ、『意味の論理学』岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987年)。LSと略。
────:,Le Belgsonisme,PUF,1966.(G.ドゥルーズ、『ベルクソンの哲学』宇波彰訳、法政大学出版局、1974年)。Bと略。
《ハーマンの著作》
Judith Herman:Trauma and Recovery, Basic Books,1992.(J.L.ハーマン『心的外傷と回復』、中井久夫訳、みすず書房、1996年)。TRと略。
《フロイトの著作》
S.フロイト:『精神分析入門』、『フロイト著作集』1巻、人文書院、1971年。『入門』と略。
────:「あるヒステリー患者の分析の断片」、『フロイト著作集』5巻、1969年。
────:『性欲論3編』、『フロイト著作集』5巻。論文では『性理論3編』に変更。
────:『快感原則の彼岸』、『フロイト著作集』6巻、1970年。『彼岸』と略。
────:「抑圧」、『フロイト著作集』6巻
────:『ヒステリー研究』、『フロイト著作集』7巻、1974年。『研究』と略。
────:『科学的心理学草稿』、『フロイト著作集』7巻。『心理学草稿』と略。
────:「ある幼児期神経症の病歴より」『フロイト著作集』9巻、1983年
────:『フロイト フリースへの手紙1887-1904』河田晃訳、誠信書房、2001年、『手紙』と略。
────:『自我論集』中山元訳、ちくま学芸文庫、1996年。
────:『エロス論集』中山元訳、ちくま学芸文庫、1997年。『自我論集』と『エロス論集』は全集訳との比較で使用。
《上記3人以外の著作》
H.ベルクソン:『物質と記憶』田島節夫訳、白水社、1999年
檜垣立哉:『ドゥルーズ』NHK出版、2002年
────:『ベルクソンの哲学』勁草書房、2000年
小泉義之:『ドゥルーズの哲学』講談社新書、2000年
J.ラカン:「『盗まれた手紙』についてのセミネール」『エクリ』氈A佐々木孝史訳、弘文堂、1981年
ラプランシュ、ポンタリス:『精神分析用語辞典』村上仁監訳、みすず書房、1977年
大塚直子:「ドゥルーズ的主体とは何か」『現代思想』、青土社、2002年8月号
────:「エリック・アリエズ」『大航海』、新書館、2000年6月号
《本文では扱っていないが参考にした文献》
E.アリエズ:「ドゥルーズ、潜在の哲学」『現代思想』、長友文史訳、青土社、2002年8月号
A.バディウ:『ドゥルーズ』鈴木創士訳、河出書房新社、1998年
M.フーコー:「劇場としての哲学」『ミシェル・フーコー思考集成。』蓮見重彦訳、筑摩書房、1999年
石澤誠一:『翻訳としての人間』平凡社、1996年
J.ラカン:『精神分析の4基本概念』小出他訳、岩波書店、2000年
●注