「ひきこもり」流行の裏側
(『いのちジャーナル』02.7-8月号より●この原稿の存在を最近思い出したので掲載しますが、ちょっと内容は古いかも)
ひと昔前は「ボーダーライン」、阪神大震災以後は「PTSD」、そして今は「ひきこもり」。このように、「こころ」系には流行がある。現在の「ひきこもり」の流行を決定づけたのは、たぶん精神科医の斎藤環氏だろう(「社会的引きこもり」PHP新書他、多数の著書を参照)。
さらに思い起こすと、「不登校」が社会問題化してはや10年になる。「ひきこもり」については、バスジャック事件(2000年5月、佐賀県)前後にあった偏見も、斎藤氏などの啓蒙活動により、やっと薄れてきた。
そんな今だからこそ、語りたいことがある。それは、フリースクール、カウンセリング、共同生活、親などすべてを巻き込んだ動きであり、ここを突破せずして現在行き詰まり気味の「ひきこもり」援助は先が見えない、という問題だ。
●イデオロギーとしてのフリースクール
10年ほど前はまだ「ひきこもり」という言葉はなかった。その頃は何と言っても不登校が問題の中心で、そして不登校はまだ「登校拒否」と呼ばれていた。当時、「登校拒否は病気だ」という見方が医師や専門家(有名な人では筑波大の稲村博氏)の間では普通だった。中には強制入院させられた子どももいたらしい。
それに対して「いや、登校拒否は病気ではない。だから病院で治療するのは逆効果だ」という考え方が、親や支援者から出てきた。この、親の動きが各地で生まれた「親の会」になり、支援者の動きが各地でのフリースクール創設につながっていく。
親の会ではたとえば関西では、京都や大阪に毎回数十人集まるものができた(当時僕も見学したことがあるのだが、自己紹介だけで3時間くらいかかった)。フリースクールで有名なところでは、たとえば、奥地圭子氏主催の「東京シューレ」がある(ここは「不登校新聞」という自前のメディアまで創設した)。
当時の親の会やフリースクールのスローガン的理念は、「子どもの自己決定の尊重」だった。それらフリースクールにおいては、子ども同士のミーティングを重視し、何をするにも子どもたちが中心になって決めていく。その中で「元気になった」子どもたちが現れ、彼らの声を集めた本も出版された。
「子どもの自己決定」尊重の動きは、子どもの権利条約批准推進の流れとも連動し、一気に社会に広まったように僕は感じている。というのも、それ(自己決定)は、ゆったりとした歴史の流れから自然にわき起こったものではなく、権力と闘う道具として選び取られたからだ。たとえば、多国籍企業の環境破壊に対する住民運動のよりどころとして、自己決定は権力と闘う武器のように扱われることがある。不登校の場合も、愚劣な教育政策を推進する国に対する武器として自己決定は選ばれた(不登校は病気ではなく教育政策がつくるものだから、それを改める必要があるという発想)。言い換えるとそれは、教育政策を変更するためのイデオロギーであって、社会の幅広い価値観ではなかった。
そうすると、実は、不登校の子ども自身が声高に叫ぶ「自己決定」も、「自己決定」というイデオロギー好きな大人たちによる「すり込み」ということになる。意地悪な見方をすれば、子どもをイデオロギーで洗脳しているということだ。洗脳は言い過ぎだとしても、たとえば集会などで堂々と「自己決定に基づいて」自分のことを述べる子どもたちに対して、痛々しいと感じてしまうのは僕だけだろうか。
これは元々、上に書いたように、当事者たちが自己防衛するうちに、付随して現れたあだ花的な問題でもある。だから仕方ないと言えば仕方ない。だがせめて、余裕のある大人たちサイドが、「自分たちは教育イデオロギーに基づいて権力と闘っており、子どもたちは救われる反面、ある種このイデオロギーに強制的に従わされている」というマイナス面を意識すべきだ。
●マイナーをメジャーに従わせる
不登校から「ひきこもり」へと問題がシフトした現在も、同じような構造はある。たとえば、「ひきこもり」という現象は、歪んだ「社会」を変革するチャンスだという捉え方。僕も明らかに「ひきこもり」は社会の問題だと思う。しかし、「社会変革」として問題をくくってしまうと、明らかに一人ひとりの問題がこぼれてしまう。ここに仮に、「ひきこもりも自己決定の結果だから、彼らが自主的に変わるまで待とう」というテーゼがあったとして(実際あるのだが)、それをまた青年たちに押しつけていくつもりだろうか。
僕の関わった実感では、「ひきこもり」青年たちのほとんどは、「ひきこもり」である自分の状態をネガティブなものとして捉えている。そして、「ひきこもり」の原因も、いくつものラインでこんがらがっており、そのことをとても「自分で決定した」行為だとは言えないというのだ。まさに「気づいていたらひきこもっていた」。
だから明らかに自己決定してひきこもったというのは嘘で、たとえそうだと言い張る人がいてもそれは「元気になってから」原因を一つに絞り込んだからだ(こうした心的操作は誰にでもあることだ)。
つまり、不登校に引き続いて、「ひきこもり」問題を利用して「社会変革」へと結びつける動きが起きるだろうと僕は考えている。繰り返すが、「ひきこもり」は社会問題なのでそのこと自体に僕は異論はない。ただ、社会変革と一人ひとりの援助はダイレクトに結びつかず、そこには「社会変革という目的のために当事者を利用する」という危険性がいつもつきまとっている。そのことを、社会変革を叫ぶ側はいつも認識しておく必要がある。
これは次の「カウンセリング」の検証にも繋がるのだが、援助というものは、皮肉にも、その社会的マイナー(少数派――ここでは不登校とか「ひきこもり」)を生んだ社会を批判する方向へは向かわず、社会的マイナーをメジャー(多数派――ここでは一般社会とか国家)に従わせるように働く。要するに、社会というメジャーを変化させるよりも、マイナーをメジャーに従わせるという方向に向かうのだ。そして残念なことに、マイナーの内面も、どこかで「メジャーの側に戻って『治りたい』」という意識がある。だから、援助者が好きな言葉、「一人ひとりを大切に」すると、案外、その弱者を生んだ社会に弱者を適応させてしまう結果となる(弱者もそれを望んでいる)。
だから、「そうじゃない、悪いのは社会や体制なのだ」として、フリースクール系の人たちは、「社会変革」へと明確に目標を定める。しかし以上に書いたように、それは当事者を巻き込む運動とならざるを得ない。このことを我々は、知っておく必要がある。
●マッサージとしてのカウンセリング
さて、カウンセリングについてだが、登校拒否にまつわる差別感を払拭するために「不登校」という言葉が使われ始めた頃から(このほうが「自己決定」のニュアンスが薄くなっているのがおもしろい)、子どもや青年問題に対して、カウンセリングという援助スタイルが定着し始めた。ここにも「無理矢理登校させるより話を聞こう」という、時代の変化が現れている。
これに、震災以後の「心のケア」ブームが折り重なる。また、学校へのスクール・カウンセラーの大々的な導入といった国の政策とも重なり(ここには、臨床心理士を国家資格化したい専門家側と国の間で、微妙な駆け引きがあるという)、「何か問題がある
ときはとりあえずカウンセリング」というのは定着してしまった。
こうしていつのまにか根付いたカウンセリングだが、当然カウンセリングは万能ではない。そのことが知られていないため、失望する人も多い。「せっかく勇気を持ってカウンセリングに行ったのに、有効なアドバイスをもらえなかった」「カウンセラーがしゃべってばかりでこっちの話を聞いてくれない」などの批判はざらだ。
まず、カウンセリングは厳密な意味での「心理療法」(○○セラピーなどと呼ばれる)とは違う。それは大雑把に言って、「心理的」相談であればすべて含む。だから、資格に関係なく、日本全国どこででも、誰でも行うことができる。
だいたいそれは、ロジャース流の「無条件の肯定・受容」を理念とするが、たとえば元校長が行なう教育相談などでは「お説教」されることもある。まあお説教は論外だとして、カウンセリングにおいては、クライエントが自分の状況を自分で受け入れていく、というのが大前提なのだ。だからいくら理不尽な体制や他者のために心的外傷を受けたとしても、その過酷な状況をカウンセリングの中で受け入れていかなければいけない。つまりそれは、今の社会を認めることでもある。
さきほども書いたように、ここでフリースクール派との齟齬が起こる。フリースクール運動は社会変革に向かう(上述のような あだ花″を伴いながら)のに対して、カウンセリングは社会を認めることから始める。まあそこまで明言しないにしても、たとえばトラブルの相手とのコーディネイトなどはしない。すべては、クライエントの「心のあり方」を変革する方向へと向かう。
このことからカウンセリングを、「ソフトな管理」などといって批判する人もいる(たとえば、「『心の専門家』はいらない」小沢牧子著/洋泉社参照)。これに加えて、カウンセリングは不自然なコミュニケーションだとか、「心のケア」のブームは心の商品化であるといった批判もあるようだ。
しかし僕が考えるには、カウンセリングを欲している人は明らかに存在する。僕も日々の仕事で「ただ聞いてもらえるだけでいい」という青年たちと接している。結果として社会をソフトに管理するのかもしれないが、まず今日のしんどさを聞いてほしい人たちがいる。この意味で、カウンセリングは効果がある。だから僕としては、カウンセリングが「ソフトな管理」であることを認識した上で、カウンセリングの効果を限定して伝えたい。それはまるで足の裏マッサージみたいなもので(僕は受けたことないが)、その日のしんどさを一時的に緩和する。だが長続きはしない。その程度のものなのだ、カウンセリングは。
ということをカウンセラー自身が知らせていく必要がある。
●保守的な共同生活
カウンセリングの隆盛と並行して、「ひきこもり」業界では、「共同生活」という手法が現れた。有名なところでは東京の「タメ塾」などがある。これらは、寮において規則正しい共同生活をし、種々の作業体験を踏まえながら自己変革を目指すもの。社会変革は唱えないが(この点でフリースクールと違う)、青年側の変化を待たず時には強引に寮に引っ張って来る(この点カウンセリングと違う)。しかし、基本的に自己決定に委ねてはいる。
料金が高いのは何しろ寮なのだから仕方ないとして(施設ごとで違うだろうが、少なくとも年間150万円は超えるだろう)、当然だが、この方法に合う人・合わない人がいる。で、僕の感じでは、この方法に一番合う人たちは、「ひきこもり」ではなく、実は「不良系」の子ではないか、ということだ。
そりゃそうだろう、そもそも不良系の子は 群れ″でいることは上手なのだ。その 群れ″が社会規範内であれば、最低その施設にいる限りは適応できる。だが「ひきこもり」の人が
群れる″のは難しい。関係者からも、「『ひきこもり』の人が寮から出ることの難しさ」を僕は聞いたことがある。
社会変革に向かわない共同生活の試みは、「働くことができればいい」というある種 正論″に立つ。しかしその 正論″が届くのは不良系であり、「ひきこもり」系はもっと屈折している(だから「ひきこもり」なのだ)。
またその 正論″は、非常に保守的なところから来ている発想でもある。そもそも原則的に考えると、「働かなくてひきこもっていること」は何ら悪いことではない。困っているのは親と、就労構造の変化が社会保障やマクロ経済の変更と結びつく「社会」なのだ。だから「ひきこもり」は社会がつくった問題だと言え、たとえば経済的に豊かな家の当事者たちばかりであれば、実は何も問題ではないと僕は思う(もちろん
正論″という規範を内面化している当事者たちも困っているが、このレベルはここでは触れない)。
もちろん問題はこんな単純ではない。だが共同生活的発想は、現状の社会を追認する方向へと向かっていることは確かだ。そのためだろうか、風の噂では、フリースクール系と共同生活系は仲が悪いらしい。
また、共同生活の主催者の中には、自分たちの行なう「援助」が営利活動であることを積極的に表明することが多い。「ひきこもり」のような新しいマイナーの動きは、社会的位置づけが常に遅れる(つまり行政支援が遅れる)。だからこそ、民間の援助組織が参入し特色ある支援を行うことができるのだが、そこには経営の維持・拡張という問題が横たわっている。これが市場的に認定されたジャンルなら何の問題もないが、「ひきこもり」は将来的に公的支援を見込めるかもしれない(可能性は低いが)ジャンルのため、安易に営利追求できない。つまりはまだ、「ひきこもり」で金儲けするのは、倫理的にコンセンサスを得られていない。
営業意欲が高い場合、普通、顧客を囲う傾向が現れる。「ひきこもり」に関する「金」の動きはこれだけではなく、一つの集会で1000人単位の集客力を誇る一部の親の会の動きもある。
同じ親がいくつもの違う集会に顔を出す、つまりはリピーターだらけの「ひきこもり」という小さなパイをめぐって、ここで書いた共同生活以外にもいろいろな人たちが営業努力をしている。
●「ひきこもり」という言葉はいらない
長々と書いてきたが、要するに僕が何を言いたいのかというと、「ひきこもり」という新しいジャンルをめぐって、現在いくつかの駆け引きが行われている。そのひとつは、「社会変革と援助」という理念的攻防をめぐって。もうひとつは、小さいパイをめぐる経済的攻防。理念と経済という2大原因により、さまざまな援助機関(なんと親の会もここに巻き込まれている)が、真のネットワーク機能を失っている。
僕は長らく「ひきこもり」を見てきて、彼らを一つの援助機関だけで支えることは困難であることを確信する。問題が「ひきこもり」というものだけに、一つの場所で躓いてしまうと、再びひきこもってしまい、次のアクションに出るまでまた長時間要してしまうのだ。
そのためには、各援助施設が当事者を囲ってしまってはいけない。各機関は、その当事者が常に複数の援助施設とつながっていることを確認する必要がある。そのためにはつまらない縄張り意識を捨てる必要がある。現在タテマエ上のネットワークはあるが、それは同じ思想や経営理念をもつもの同士で行われている偽のネットワークだ。
最後に、現在「ひきこもり」と称して多種多様な青年たちが各援助施設に流れ込んできている。それは、斎藤氏の定義(「 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、他の精神障害がその第1の原因とは考えにくいもの」)にも関わらず、やはり「ひきこもり」という言葉がかぎりなくあいまいなものだったからだと僕は思う。
「ひきこもり」的生活を送る青年たちを守るため、「ひきこもり」という言葉を定義化し、偏見の発生を防ぐことには何とか成功した。しかし今、「ひきこもり」というあいまいな概念のおかけで、各施設はその器以上のものを受け入れてしまっている。
この原稿の冒頭に並べた、精神医学で言うところの「ボーダーライン」や「PTSD」も含め、伝統的な精神病、診断のつけがたい神経症的あり方など、現在、「ひきこもり」と称してさまざまな人たちが流入してきている。これに、僕の余り好きな表現ではない「発達の遅れ」のようなあり方も含めると、それらはまさに「青年問題」としか呼びようのない多種多様さなのだ。
こうした現状に対して、「ひきこもり」とひとくくりにしてしまうのはあまりに乱暴だろう。つまり今、「ひきこもり」というあいまいな概念は邪魔になってきている。もちろん精神医学や発達理論で切り分ける危険性も僕は承知している。が、その危険さを踏まえたうえで、あえて僕は今、「ひきこもり」という言葉を消滅させるべきだとも考える。