西サハラの歴史概略

                                      日本語版(2003125

中世から近世:サハラウィ*(西サハラ遊牧民)の形成

先史時代には、サハラ地方に牧畜民の存在したことが記録されているが、その後、黒人が定住、中世には北部から移住してきたベルベル人が圧倒的多数となる。ベルベル人は多くの部族と部族連合に分かれていたが、中世北アフリカの歴史発展に重要な役割を果たした。

8世紀以降、3つのベルベル部族からなるサンハジャ連合(ヴェールで顔を隠したサンハジャ)が台頭、サハラ砂漠から北へ向かい11世紀には北西アフリカにムラービト朝(11081145**)を建設した。

その後この部族連合は分裂し、一部は南部の砂漠に戻った。他の一部はイベリア半島に渡ってスペインの大半と今日のモロッコを支配、今日のモロッコにマラケシュ(又はマラケシ)などの都市を建設、文化が隆盛したが、以前の伝統や生活様式を失った。

13世紀以降イエメンからハッサン族を主とするアラブ人が北アフリカに移住、14世紀には西サハラに到達し、時とともに現地のベルベル人と混合、今日のサハラウィ(西サハラ遊牧民)が形成された。極端に降雨の少ない環境から、この地方に住んだのは遊牧民だけで、人種的にも文化的にも、周辺の定住住民とは明確に異なっている。彼らはイスラム教徒で、慣習法とコーランの教えを生活の基準とし、家畜を連れて砂漠の中を移動、気象条件が許す範囲で穀物も栽培した。彼らの生活リズムと移動コースは、季節、井戸、水溜りなどによって規定されていた。

遊牧民の常として彼らは完全な独立を求め、あらゆる外来者や侵入者と戦い、独自の生活スタイルと生活圏を守り続けた。

18世紀には西サハラのサキア・アルハムラ地方が「聖人の地」として知られるようになり、多くの学徒が集まった。

 

(注* サハラウィとはアラビア語で「サハラの民」を意味する。)

(注** ムラービトはアラビア語でイスラム教の敬虔な宗教者(あるいは隠棲者)を意味する。年代は文献により多少の違いがあり、これはレバノンの百科事典の年代を採用。)

 

近世から近代:モロッコの遠征軍

今日のモロッコ地域には、ムラービト朝とムハド朝(11631266)の後、独自のスルタン制が確立、オスマントルコの版図が最大限に達した時代にも独自性を保ち続けた。

16世紀末、モロッコのスルタン、アフメッド・アルマンスールは、トンブクツー(サハラ砂漠最南端のキャラバン都市、現在はマリ共和国にある)征服のため遠征軍を派遣した。トンブクツーは今日に至るまでサハラの岩塩の集散地として知られ、スルタンの狙いは岩塩を独占して、これを金銀と交換することであった。キャラバンのルートを辿ってトンブクツーに到達した遠征軍は現地に一定の影響を及ぼしたが、彼らの子孫は完全に原住民と同化した。トンブクツーがモロッコに貢税を払い続けたのは約1世紀間に過ぎなかった。

その後もモロッコとサハラ西南部地域の間に、宗教や文化、あるいは人的関係から一定の連絡はあったが、極めてまばらなもので、恒常的な統治権を確立するものではなく、西サハラもテリトリーとしての独自性を保ち続けた。

以上の事実を明確に示しているのは、1767年にスペイン王とモロッコのスルタンが締結したマラケシュ条約である。この条約の中でスルタンは、西サハラ地域に経済基地を設けたいというスペイン王の希望に対し、自らの権限が及ばないため安全を保障出来ないと述べ、他方サンタクルス(カナリア諸島の港で、現在のモロッコ・西サハラ国境の緯度にある)より北側の地域については、島民やスペイン人に対し独占的に漁業の権利を承認している。

この時期の西サハラでは、遊牧民の共同統治体制が取られ、各部族の代表が集まる「40人集会」によって様々な問題が協議・決定された。これは近隣地域と異なる西サハラの特色で、例えばモロッコでは長らくスルタン制が確立、またモーリタニアでは最強部族が支配権を握っていた。

 

植民地時代前期:海岸線に「閉じ込められた」スペイン軍

西サハラの各部族は、更に部族内の小部族に分かれ、夫々が大きな自治権を有したため、当時のスペイン人歴史家は西サハラの状況を「完全な無政府状態」と評している。だが部族連合は統一した外交制度を確立、代表者がアルジェリア、モロッコ、モーリタニアの部族との折衝に当たった。

スペインは以前から西サハラ植民地化の意図を持っていたが、19世紀を通じてスペインの影響力はカナリア諸島に限定され、またスペイン政府の重点もカナリア諸島の漁民保護に絞られていた。それどころか、拿捕されたスペイン人船員の身柄引取りのため、スペイン政府は時として、西サハラの部族長と交渉を余儀なくされた。

こうした事態を改善するため、スペインは1884年、カナリア諸島から西サハラのボジャドール(大西洋岸の北緯26度地点)までを保護領と宣言した。同年から翌1885年のベルリン会議では、ヨーロッパ列強によるアフリカの植民地分割が協議され、スペインの保護領宣言が承認された。

これに対し西サハラの遊牧民は激しい抵抗を続け、スペインの支配領域は海岸線の数ヶ所に設けられた保塁とその周辺に限定されていた。この状況はフランスとモロッコの軍事支援を得た1930年代まで全く変わらなかった。サンテグジュペリは1928年のレポート「リオ・デ・オロ」の中で、保塁のすぐ外で遊牧民に捕らえられたスペイン兵について報告している。

この間、アフリカ植民地の宗主国としてはフランスが支配的な地位を獲得、1886年からフランスとスペインの間で両国植民地の境界を定める交渉が始まり、1900年には両国間の秘密協定が成立、続く1904年、1912年にも追加協定が合意された。

 

植民地時代中期:マー・アルアイニンの戦い

植民地支配者に対する遊牧民の抵抗は激化し、フランスに対する抵抗も開始された。中でもマー・アルアイニンは大規模な組織的抵抗の指導者として歴史に名を残している。183035年の間に現在のモーリタニアで学者の子として生まれたモハメッド・ムスタファ・ウーラッド・シェイク・モハメッド・ファデルは既に少年時代から「マー・アルアイニン(「目の水」という意味)」というニックネームで呼ばれ、成人してからは優れた指導力によってモーリタニアから西サハラまでの部族を統率、植民地支配者に対する抵抗の指導者となった。1910年には西サハラの宗教・文化都市スマラを建設している。

植民地支配者に対する抵抗の中で1905年マー・アルアイニンはモロッコのスルタンに、侵略者に対するジーハッド(聖戦)への支援を求めた。スルタンは一応支援を約束したものの、600人の兵士を派遣、一定の武器を提供するに留め、1907年には兵士を引き揚げさせた。これは、フランスの支配下でスルタンの座を守ろうとする意図からであった。スルタンの態度に腹を立てたマー・アルアイニンはムラービト朝の偉業を再現すべくモロッコを攻め、マラケシュを占領したが、1910年フェス(モロッコの宗教都市)への途上でフランス軍に破られた。南部へ逃れたマー・アルアイニンは数ヶ月後に世を去ったが、彼の息子たちが引き続き抵抗運動を続けた。

 

植民地時代後期:フランスとモロッコの「軍事協力」

1912年モロッコのスルタンがフランスによる保護領支配を承諾、これによってフランスはモーリタニア平定に集中出来るようになった。他方、スペインは西サハラ遊牧民の抵抗を抑えられず、相変わらず海岸線に閉じ込められた状態であった。業を煮やしたフランスは、1934年スペインに対し、西サハラをもフランスが占領すると脅迫。これによってスペインも、フランスとの共同作戦を余儀なくされ、1世紀以上遊牧民の抵抗が続いた西サハラは、漸く1936年フランスの「軍事協力」により、完全にスペインの支配下に置かれた。

第二次大戦の民族独立時代、モロッコ、アルジェリア、モーリタニアのフランスに対する独立運動を支援したサハラウィは、モロッコからスペインに対する独立運動への支援を求めた。モロッコは当初これに応じて支援を開始しながら途中で裏切り、武器弾薬など物資補給をカットした。これがフランス、モロッコの「軍事協力」による1958年の「掃討作戦」であった。スペインは「協力」に対する見返りとして、それまでモロッコ国境南部にありサハラウィの住んでいたタルファヤ地方をモロッコに贈与した。

 

燐鉱脈発見から「緑の行進」まで

1947年にはスペイン支配下の西サハラ、ブーカラーで燐鉱脈が発見され、やがて経済的にも極めて有望な鉱脈であることが明らかとなった。

他方、195060年代からは世界的に植民地独立の動きが活発となり、国連でも独立すべき植民地のリストが作成された。1965年の国連総会では西サハラも、このリストに加えられた。大半の植民地同様、西サハラの場合も、リストへの採択は1960年の国連総会決議1514XV)を根拠とするものであった。この決議では、植民地とその住民の独立を保障することが宣言されている。この決議は、続く時代に国連、非同盟諸国会議、アフリカ統一機構などで採択された西サハラに関する一連の決議のベースともなっている。

サハラウィは決して受動的な態度に陥ることなく、独立への努力を続けた。「掃討作戦」の1958年以降も、スペインの植民地支配に抗議するデモが単発的に行われたが、1967年になって独立運動の組織が結成され、組織的な運動が展開されるようになった。その集約的努力は大きな成果を挙げ、とりわけ1970年には西サハラを一州としてスペインに編入する動きに対し、大規模な反対デモが展開された。スペインはこれを武力で弾圧、独立運動を抑圧しようと試みた。

平和的デモが武力で弾圧された後、サハラウィは武力抵抗を決意、1973510日にはポリサリオ戦線(Frente popular para la liberación de Saguía el Hamra y Río de Oro)が結成され、520日には武力抵抗が開始された。スペイン軍は住民に対する武力弾圧を一層強化し、多くのサハラウィが難民となってポリサリオ管理地域およびアルジェリアへと逃れた。

フランコ政権末期で国内も混乱する中、スペイン政府は1974年から西サハラにおける住民投票の準備を始めたが、同時にモロッコとモーリタニアが西サハラの領有権を主張し始めた。1975年には国連視察団が西サハラを訪問、住民の意志が独立にあることを確認、またハーグの国際司法裁判所も、西サハラが隣接諸国には属さない独自のテリトリーであることを確認している。だが同年116日、モロッコ王(故ハッサンU世)の命により、非武装のモロッコ人35万人が国境を越えて西サハラに侵入した。これが「緑の行進」である。これに前後して国連からは、繰り返し「緑の行進」停止、モロッコ人引き揚げの「勧告」が出されている。

 

「緑の行進」から停戦まで

「緑の行進」開始から僅か8日後、マドリードでスペイン、モロッコ、モーリタニアの間に西サハラ分割に関する秘密協定が調印された。同時にモロッコとモーリタニアは武力侵入を開始した。大半のサハラウィは先ず西サハラ領内でポリサリオの管理する地域へ避難したが、モロッコのナパーム弾攻撃を受け、国境を超えてアルジェリアへ逃れ、こうしてティンドーフ(アルジェリア西南部の地方都市)近郊に難民キャンプが形成された。

1976年には難民キャンプでサハラ・アラブ民主共和国独立が宣言され、続く数年間に多くの国々から独立を承認された。

ポリサリオの解放軍はモーリタニア軍の侵入を退け、逆にモーリタニアの首都ヌアクショットに迫った。このためモーリタニアは軍を引き揚げ領有権要求を撤回、西サハラの独立を承認したが、これまでモーリタニア軍が占領していた地域もモロッコが占領するようになった。

その後はモロッコとポリサリオ解放軍の間の戦闘状態が続いた。モロッコは占領地を「防衛」するため順次防壁を築き、これに沿って地雷原を敷設した。

1977年の国連総会は改めて、西サハラの民族自決権と独立を決議している。

1983年にはアフリカ統一機構が住民投票を軸とする平和プランを提出、これを基にして19914月には国連安全保障理事会で、停戦と住民投票、および住民投票実施を任務とする国連機関MINURSOMission des nations unies pour le référendum au Sahara occidental設置を内容とする国連決議690号が採択された。5月には、モロッコとポリサリオが平和プランを批准した。

 

停戦から現在まで

19919月、MINURSOの任期開始とともに停戦が実施されたが、翌年1月には早くも住民投票が延期された。その核心は住民投票有権者名簿であった。平和プランでは、スペインが1970年代に住民投票のため作成した住民名簿を基礎としているが、モロッコはこれに反対、12万人のモロッコ側名簿を加えるよう要求したのである。

その後長らく膠着状態が続き、漸く1997年、国連事務総長がジェームス・ベーカーを特別使節に任命、199812月に住民投票を実施する新たなプランが作成されたが、19986月には暗礁に乗り上げ、その後は住民投票延期、任期切れ間際でのMINURSOの任期延長(2ヶ月、4ヶ月,半年)が繰返されている。

この事態を背景に、最近は当初の平和プランを無視して、モロッコ内での自治区設定、西サハラの分割(燐鉱脈を含む北部がモロッコ領、南部が西サハラ領)、更に数年間自治制度の後モロッコ人も含めた住民投票実施などの案が出されている。

植民地時代フランス、スペインの「西サハラ平定」に協力したモロッコが西サハラの領有権を主張するようになったのは、燐鉱脈発見後のことである。その他にも西サハラには多くの地下資源が推定されており、沿岸は極めて魚類の豊富な漁場である。だが、石油や鉱脈など様々な資源を誰が管理するかも、民族自決権の最も本質的なポイントである。

 

原典A Brief History of the Territory and its People

      <http://www.arso.org/05-1.htm

日本語版は以下の文献を参照して補足

(1)Michael Brett and Elizabeth Fentress: The Berbers, Blackwell 1998

(2)Martine de Froberville: Sahara Occidental - la confiance perdue, L'Harmattan 1996

(3)Ismaïl Sayeh: Les Sahraouis, L'Harmattan 1998

(4)Mohamed-Fadel ould Ismaïl ould Es-Sweyih: La Républigue Sahraouie, L'Harmattan 1998

(5)dtv-Atlas zur Weltgeschichte, Band 1, Band 2, Deutscher Taschenbuchverlag 1991

(6)Karl Rössel: Wind, Sand und (Mercedes-) Sterne - Westsahara: Der vergessene Kampf für die Freiheit, Horlemann 1991

(7)Reinhard Tydecks: Der Magreb - Traditionelle Nomadenkultur, Geschichte der Kolonialismus, Krieg um die (8)Westsahara, Horlemann 1991

(9)Der Fischer Weltalmanach 1997