「川物語」
臼田 甚五郎 著 (永田書房)
昭和47年 1月 発行

第十一章  道志川
 道志川は山梨県南都留郡道志村から津久井郡津久井町にかけて西南から東北に向けて流れ来つて、相模川に合する。支流とは言へ貫禄十分な川である。
 昭和四十六年八月白井平の三光荘に二泊して、道志川沿ひを踏査した。
 富士急行の都留駅からバスで一時間半、千メートルの道坂峠を越えるのにハラハラし通しで、道志村の唐沢につく。樹々の茂みの下から、道志川の瀬音が聞えて来る。
 ふらふらしながら長又行きのバスに乗りかえる。一体峠越えに幾曲りしたのであらうか。つづら折りなどいふけれども、それ以上のやうな気がする。旧道では三十三曲りと言ったさうだが、まことに大変な道程である。
 唐沢から道志谷を上ると、終点長又の一つ手前が白井平である。道路沿ひにくつつきあつた家々の構へは養蚕地なので大きな二階家である。二階の上にも上ニ階があるのだ。蚕を飼った二階を改めて、民宿を営んでいる農家が相当に多い.
 バス道より上手に残った旧道を歩いてみると、旧道は屋敷の庭内を通って続いていた。この辺で地類と呼ぶ結合団体が生じている社会構造も自然だと分った。子供が生まれると、地類は即時召集されるほどだ。
 道志村は一枚の長めの葉をなし、村の中心を流れる道志川が葉柄にあたり、百ほどの沢が葉脈にあたる。葉の尖に御坂山塊が寄せて山伏峠をなし、道志村から富士吉田町に通じている。峠下の斜面から峠ノ沢とスンガ沢とがあって道志川の水源となっている。
 道志村の北側には御正体山(一六八一メートル)を主峰とする道志山塊が走り、南側には大室山(一五八九メートル)等を擁する丹沢山塊が平行している。その間にV字型の谷が西南から東北に走って、道志川の清流が貫き、流程八里九町におよんでいる。道志七里と称される左岸の道程には、長又に始って月夜野に終る三十部落が点在している。
 道志村は唐沢を中心にして、上と下とに分れる。おもしろいことに、上の方の部落は山懐が広がっているので、多少の水田もあり、明るく見える。下の方は山稜が狭まつている。従ってバス道路も窮屈である。人情は上がおほらかで、下が細かいといふ俗説は地勢によるところが大きいのであらう。

左は「川物語」巻頭にあった道志川・長又の写真。電柱に長又の表示が伺える。
写真の橋は現在の長又キャンプ場へ渡る橋と思われる。(右画像)

 水越姓は上に多い。この姓は頼朝から貰ったのだといふ。頼朝が御正体山の頂に一夜仮の宿をとった時、水が無くて困った。それと知った白井平の人が即刻道志川の清らかな水を運び上げて、頼朝に献上した。頼朝は非常に喜んで、その賞として水越の姓を授け、茶釜と掛軸を与へた由である。
 道志谷に現れた頼朝像は強剛な英雄である。長又のある老婆が前方のヤノウ(矢頭とも、矢納とも)山を指して、頼朝があそこの山から矢を射たところ、一里ほどの先に落ちて、それで矢崎といふのだと話した。また前の沢を二十分くらい上った所に、大岩が二つに割れているのが、それは頼朝がためし斬りした跡だといふ。
下の方にも頼朝伝説は存する。(以下伊藤堅吉氏「道志七里」によってしるす。
富士の巻狩の際、頼朝は道志で武を練った。的場部落に高櫓を設け、豪弓を携えて上り、室久保奥沢床にある標的にむかって矢を放とうとした。射程一里余である。その間、桧・椹・椿・樫が茂り合って、標的を見通せない。頼朝は<暗からうぞ>と睨みつけた。葉はしなび、枝は折れ、幹は傾き、悉く枯れた。そこで頼朝は矢を射た。今でも室久保沢筋には、前述の木々が見られない。またこの谷川に高さ二丈、幅七尺の滝があり、その上の河床の一枚岩に、的に見まがう三重の同心円紋をなす部分が存しているのも不思議だ。
 頼朝の沓型か足型の印せられた岩も存している。竹之本の川辺にある馬乗石は、頼朝が馬に乗ろうとして、この石に上がった時、その沓先が石にかかって凹み、沓型が残った。また、大室指にある足型石は、頼朝が滝山から大室指まで馳せ下り、草鞋の紐がゆるんだので、岩に爪先をかけて紐を締めた。この時の踵跡が刻まれて残った。足型石の前の大樫にも頼朝が登った足跡が印されている。爪先ではなく踵の跡ではをかしい、頼朝が何故木に登ったなどと言ふなかれ!頼朝に結びつけずにをられない里人の頼朝崇拝を察してやるべきだ。

以上、”「川物語」第十一章 道志川”より抜粋

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