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銀河荘の下宿人 No.3

  ななさん 木原敏江作品考) 




 ななさんは大変守備範囲の広いマンガ読みでいらっしゃいます。少女漫画はいうに及ばず、少年漫画から青年漫画、その蔵書たるや想像できないほど・・・加えて映画ファンとしても現役バリバリの若い女性です。お書きのように木原ワールドにハマられたのはつい最近ですが、あれよあれよという間に殆どの作品を読破してしまわれました。HPウサ処では可愛いウサちゃんたちが増殖中。遊びに行かれて下さい。



  木原敏江作品考


 木原作品と出会ってから2年あるか無いかの未熟者だが、自分なりの木原作品への想いを、この稚拙な小文に代えさせて頂く。

 周囲の子供と比較すれば、漫画は昔から読む方だったと思うが、友達で木原作品を読む人は皆無だった。小・中では恐らく「なかよし」「りぼん」2大?少女漫画誌が幅を利かせていたと思う。といっても、木原作品について熱く語るクラスメートの記憶がないのは残念なことだが、白泉社の漫画を周りが読んでなかった筈もないだろうから(『パタリロ』は人気があった。私も読者…)、当時の私のアンテナ張り具合が漫画以外の方面に向きすぎていた感は否めない。
(漫研には入ったことがないが、今では「マンガ夜話」を観るにつけ、人生を濃くするために入るべきだった〜っ、と忸怩たる思いに苛まれる日々であります。)
 木原作品の存在自体は10年以上前に認識したのだと思う。書店に並ぶ『ダイヤモンド・ゴジラーン』の表紙を彩る可憐なリンポポや、『摩利と新吾』で青春を謳歌しまくっていそうな摩利と新吾には何度か負けそうになったことがあった…が、「他作品も芋蔓に読みたくなるに違いない、しかし木原作品はたくさんありそう→躊躇(いずれ…)」という図式で縁を作れない儘10数年が早経ったのであった。(通信で123さんに出会わなければ、恐らく木原作品を読むのは更に遅れたに違いないのでした。)
 少女漫画を吸収することに関しては心が狭くて仕方なかった私だが、2年前ようやっと木原ワールドに栄光のジャンプ(、とりっぷ、ぶくぶくぶく〜…) をすることになった。
 名作『摩利と新吾』に始まり、夢の碑シリーズ、ベル&カミーユシリーズ、そして最近文庫化された懐かしい作品の数々! 
 特に『銀河荘』(往年のファンには垂涎ものであろうカバー(感動))は容易く私の心を満たしてくれた。理由としては先ず、旧作にしろ新作にしろ、とことん暖かいのである。70年代の少女漫画絵には実は内心ひいているものがあった。今もひかせて頂く絵は少なくないかもしれない…が、自分が少女漫画絵自体が苦手な人種ではなくて良かったと心底思う、よく言われる少女漫画の文法とやらを追っかけられる能力を育てていて良かったと思うのだ。でなければ、木原作品を初めとする、多くの日本社会の生み育てた傑作に触れる機会を自ら能動的に逸し続けたであろうから。
 話を木原作品の魅力に戻そう。
 読んでいて暖かみを感じる作品は貴重である(例『はだしのゲン』…)。
 いい加減に考えてみると「柔らかい筆運び+可愛い少女漫画絵+少女漫画の王道ストーリー」は恐らく少女漫画ファンであれば(能動的にせよ)感動するに吝かでないかもしれない。けれど、やはり読者も読み歴が深ければ素人ではなく、作者が登場人物を慈しんでいるか否か位は肌で感じ取れるものである。そして、感動させてくれる話を描く人には一生ついていこうと思うものなのである(…)。木原作品とは正にそういう作品なのである(!)。作者が悪役にも愛情を惜しみなく注いでいるのが甲斐間見えてホっとするのだ…木原敏江は作者と作品が親子な絆を見事に証明し続けてくれている数少ない(?)作家の一人だろう。
 話が又脱線するが、涙腺が弱い状態というのが昔は分からなかった自分が、最近は加齢が遠因か、人情溢れるストーリーに非道く脆くなった。そんな折りに木原作品を読めば、ハンカチ一枚では足りない訳だ。これは無論(は失礼だが)、実際の有り様ではなく内心の正直な気持ちをイメージ的に述べているつもりだが、作品に愛情が籠もって無ければ、読者の心だって反応などしないよーん、と申してみたい。
 次なる木原作品の凄い所だが、一見どろどろした話ですら清涼感が溢れている点である。この点が正に木原作品の真骨頂ではないかと思うのだが、どの作品にも濁りがない全き清澄さを感じるである。変な言い方で恐縮だが、処女性に溢れている、とでもいうのだろうか、汚れを受け付けない気がするのだ。無理矢理な例えを想像すると、木原作品を読み進めることは清流で禊ぎをする過程を辿ることに似ているかもしれない(心の洗濯ですね!感動ですね!(蹴り) )。
 ゴタクはさておき、木原作品の清々しさは絵柄に因るもの大なのかもしれないが、恐らく作者が実際に「綺麗」な人物なのではないだろうか。持ち上げているのではなく、澱んだ話ですら清く描いてしまえる人なのではないだろうか、ということである。
 (漫画という手段は表現者の内包世界を如実に反映していると思う。「絵画」より端的に、だ。絵画は意味不明も多いから、余程イメージ翻訳[客観的意味の判断]能力が高い(精度が抜群な)者でないと、描いた当人が意図して塗り込めた情報も、「曖昧だ・掴み所がない・わけわかめ」などと一蹴され、鑑賞者には決して伝わらない閉鎖性があるだろう。しかし、漫画は共通言語がそれなりに整備されている、大衆に開かれた文化なのだ。
ために大衆に対して視覚で自己表現するには絵画よりは遙かに有効な手段である、使わないと損である、だから学校の美術の時間では大いに漫画の描き方を教えるべきだ、と発想は飛び火するのでした(意味不明))。
 「清澄」の話だが(汗)、これは宝塚にもある意味通じるのだと思える。女性のみで構成される宝塚ワールドは、「異」性が介入しない(混濁していない)ことから生じる統一された感触を、清々しさを感じるのだ。
 その「清澄さ」という要素は、木原敏江という存在の原資質の発露であり、現在連載中の森山夫妻シリーズを読むにつけても清澄キャラの感触は濃厚である。シリーズの中では、森山の細君の結衣がその代表選手だろう。結衣は大正当時にしては珍しく能動的なキャラクターだ。彼女は自分でものを考えるしっかりした(且つよく気の付く)芯の強い女性だが、その反面かなり繊細な面も併せ持つと捉えることが出来そうだ。その性質は、実際の人としては好ましい資質だと思う。しかし思い切って告白してしまえば、最初は鼻につくこともあったのだ(許給×100)。理由は自問すれば即判明するちゃちぃ感情である。読めば分かるから説明しないが(出来ないが…)、結衣は実に心の美しい女性(人間)なのである。そこに羨望を感じたに相違ない。初めは「できすぎかな〜(ひき気味)」と来たものだ(もう一人の結衣ことベルには感じなかったのだが、これは一体…(笑) )。そんな反感にも似た感情も、シリーズを読み進める内に好感に変わる。こういう所にこそ作者の力量が顕れるのだろう(とゴウインに持っていくのだった…)。
 長くなったが、纏めにもならない「結」でも残しておきたい(冷汗)。
 木原敏江を初めとする少女漫画を描く漫画家の方々のドリーム持続力には畏敬の念を禁じ得ない。彼女(彼)達の、(私たち)ドリームお抱え軍団への影響力は計り知れない。今後も大いに予備軍を育てて一人前にして欲しいと思う。つまりは、彼女達の「夢」の具象化に益々拍車がかからんことを説に願う。あと100年は漫画文化が廃れませんように(無責任発言)。(了)
                               (敬称略)

 
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