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羽根兎(天野章生)さん
【琴線のアンビバレンツ ―そして美しい異形―】(私的・木原敏江論)
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天野さんというより羽根兎さんといった方がしっくりきますが、ニフティでは三原順会議室、萩尾望都会議室ほか多くの会議室で活躍されています。またWeb上では図書の家やご自分のサイト居酒屋はねうさぎでその活躍を拝見することができます。
以前から憧れている天野章生として何か書いて下さいとお願いしましたら、お忙しい中速攻でこの原稿を送って下さいました。一読後、「なるほど!さすがは天野さん」と膝を叩いてしまいました。この続きは某所に掲載予定の、美しき異形たちに期待することに致しましょう。羽根兎さん、ありがとうございました。
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はじめに
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以前知人達とのやりとりの中で、好きな作品やキャラクターのツボは何か(どういう点に特に心惹かれるかを一口に言うと)というやりとりをしていて、私はしばし考えて、自分にとってのツボは「アンビバレンツ(二律背反)」だと答えたことがあった。
矛盾を一つに内包する時、両極に引き裂かれながらの苦しさやるせなさに色気を感じ、琴線が思いっきり触れるらしい。
そして木原さんの世界は私にとって、このツボに溢れている。
大変に私的ではあるが、大好きな木原さんの作品についてこの視点からまとめてみたい。
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『摩利と新吾』<恍惚と絶望>
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木原さんの代表作の一つであるこの作品は、摩利と新吾を中心にした青年達の成長物語であり、ピュアな愛の成就ともいうべき一大巨編だ。
新吾への恋を自覚してからの摩利の葛藤、登場当初は被庇護者に見えた新吾の人間としての大きな成長を通して、二人は誰にも代え難い魂の結びつきを果たす。
肉欲をも意識した摩利にとって、ピュアであり続ける永遠の結びつきは甘やかな陶酔を得ると同時に、絶対に手に入らない恋に対する絶望にも堕ちるものだ。
最高のモノを手に入れているのに、それ以上望むべくもないのに、やはり欲しいそのひとつは決して手に入らない。誰もが賞賛する美しい容姿も明晰な頭脳も恵まれた才能も、その前にあって本人にとっては価値がないも同然。
なんでもあるのに欲しいモノだけは手に入らない、これは摩利が自分に似ていると感じた篝(かがり)の絶望でもあった。
健康な二人は決して同性愛を否定していないし嫌悪もしていない、しかし二人の愛は同性愛を超えたところにある至上のモノだった。凡人には望むべくもないそんな高みに二人はついに届く。
同性だから得られない恋、そして同性だから達し得た愛。
対等で前向きで純粋で永遠の・・・・その恍惚と絶望の二律背反こそが、この眩しいばかりの青春群像の大きな魅力だった。しかもけだるい耽美には流れない、その清しさ!
摩利と新吾、二人の強烈な個性が生き生きと描かれたことで結晶化した宝石のような・・。
私は二人のキャラクターのどちらにも(そして誰もが主役のように鮮やかだった寮生の一人一人にも)惹かれるが、それよりも何よりも、摩利の中で苦しくも煌めくこのジレンマに、胸が震える。たまらなく愛しくて切なくて、思わず涙してしまうのだ。
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『夢の碑シリーズ』<生と死/光と闇-そして美しい異形->
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「夢の碑」シリーズ第一話にはガツンと殴られたような思いがした。
狂おしい桜の中で、恋しい男を待ち続けた女が焦がれた再会の瞬間に果たす復讐シーン。
愛してるのに憎い、愛してるから憎い。憎いけど愛してる・・・・そして忍(おに)になった女の心の闇。自らの咽に刃を当てるシーンのその迫力たるや。
まるで近松や西鶴の見事な後継者を見るような。
木原さんの作品を読むと「死は生の一部」という山岸凉子さんの言葉を思い出す。
”よく生きること”の延長に死があって、終わりではないむしろ始まりという気がする。
例えば「鵺(ぬえ)」では、人を愛せず鬼に堕ちた秋篠の生まれ変わりと暗示される篠夫が最愛の主理と最期を遂げる。ようやく魂の相手と結ばれるラストで迎えた死ではあったが、まるでハッピーエンドのような晴れ晴れとした哀しさに満ちていた。
彼らは精一杯生きようとしてその先に逃れられない死があっただけ。
死が二人の生をまっとうさせたような”よく生きようとしてよく死ぬ”という形容矛盾ではあるが、生のための死。これもまた見事に結実した二律背反。
逆に妄執に生きたモノは妄執の死を行き、己を知らず驕ったモノ、欲に堕ちたモノ・・はそれぞれの闇を生き死にする。
木原作品はまるで太陽のように眩しい。
が、明るく楽しいばかりではない、陽が眩しければ眩しい程、闇も濃くなるように、人の世や心に潜む昏さも木原さんはまっすぐに見つめ目を逸らさない。
他人を羨み嫉み嫉む心、欲に醜く歪む心、理不尽なことがまかり通る世・・。
木原さんは暖かくも情に満ちた心でその深い闇をも受け止めて描く、それは強くバランスのとれた作者の人間性をいつも読者に感じさせる。だからセリフの一つ一つが生きて心に届くのだろう。表面的で都合のいい言葉ではない、真剣勝負のような。
そんな木原さんが全作品を通してよく描かれるのが美しい異形だ。
誰の目も引き寄せる程の美しい容貌を持ちながら、人の恐れる異世界のモノでもあるという存在-鬼-。美しいのに醜い、惹きつけるのに忌み嫌われる異形は愛に飢え、救いを求めている。選ばれたモノの持つ超常的な力と、背中合わせにある疎外感。これらは例えば萩尾望都さんの『ポーの一族』におけるエドガーや、山岸凉子さんの『日出処の天子』の厩戸皇子の孤独とも相通ずる。人にあらずという暗闇に生き、恐れられながら眩しい美しさであらゆる人を魅了する、存在自体が内包するアンビバレンツ。
感受性の強い思春期を過ごした身にとっては”自分は他人とは違う”という孤独感と裏腹な”選ばれし者”に対する憧れに覚えがないだろうか?
そして、いわゆる24年組と呼ばれる創作者達が、こうした存在をくり返し描かれたのはなぜだろう?
思春期を過ぎいつしか憧れを諦めに変え、普通であることに安住を見出す多くと違い、類い希なる創作者として生きる作家たちの心情に、共通して流れる「選ばれし者の不安と孤独」のイメージが具現したもの、なのかもしれない。
山岸さんは「翼あるもの」とも呼んだ、選ばれたモノたち。
・・・翼があるものは現実の両腕をもたない、とも。
だからこそ描かずにはいられないのが、ジレンマを抱えた異形たちの物語なのではないか。
彼らが異世界と現実のはざまに生きているというのも然り、である。
一方で現実の両腕で生きる我々は作品の中でだけ、かつて憧れ、しかし手に入ることのない翼を共有するのだろう。
その時、彼らの抱える苦しくも甘美な二律背反は私達のモノであり、陶酔と切なさの中で心をいつも震わせずにはおれないのだ。
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〜終わりに〜
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123さんと知り合ったのは3年前くらい?のニフティ会議室だった。
聡明な大人で、パワフルで、情に篤くて、お会いしたことはないのに古くからの友人のような信頼感を感じている。探している本や情報などでもたくさんお世話になってきた。
総じて、木原ファンは木原さんの作家性と同じように、強さとしなやかさと情をお持ちの方が多いような気がする。人と人との触れあいがとても暖かい。
そんな123さんが開設されている素敵なサイトに、木原作品について何か文章を寄せて欲しいというとても嬉しいお申し出を頂いて、不眠不休で(ウソ)前からこの視点で書いてみたいな、と思っていた切り口で作品を再読し、一気呵成に書き上げてみた。
この文章は簡単に言うと「だから木原さん愛してます、尊敬してます!」というだけなのだけれど、それだと1行なので、小賢しいと思われるかもしれないが、感じるままにまとめさせていただいた。こんな拙文に一文でも共感して頂ける箇所があれば幸いと願う。
蛇足ではあるが
「風恋記」のラストは山岸さんの『日出処の天子』のラストと見事な好対照を成している。
超常力を持つ融明と露近の二人が、二人だけの結びつきをまっとうしながら運命を受け入れる、前向きな諦めとでも言うべき木原さんのラスト。
それに対して、同じように超常力を持つ二人の結びつきを、たった一つの愛を飢える皇子の断ち切れない未練の中で引き裂いた山岸さんの生々しいラスト。
また、萩尾さんの『ポーの一族』のエドガーのラストとも好対照だろう。
一人再び孤独のなかで時をさまようことになったかもしれないエドガー。
死も彷徨もたった一人で進まねばならない、切なくも淡々としたラスト。
同じように「選ばれたモノの孤独」ではありながらのこうした対照は、そのまま作家性の違いでもあり、共通項の中で比較していくのは興味深い作業かもしれない。
作家性における、それぞれの美しい異形たちの在り方についての比較と分析。
いつか某所で楽しんで作業してまとめることが出来れば、と思っている。
この文章の著作権は羽根兎さんにあります。禁無断転載。
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