第三の革命
〜インターネットによって生まれる社会・UNIXを教育に〜
| 序章 | 謝辞 |
| 1章 | はじめに |
| 2章 | IT−情報技術− |
| 3章 | 第三の革命 |
| 4章 | 革命を起こすために |
| 参考 | 参考資料/引用など |
IT革命のITとは具体的に何をさすのだろうか。情報技術一般と考えられることが多いが、その中でもっとも重要な1つをあげよといわれれば、それはインターネットだろう。これについては多くの人が言及しており、「IT革命はインターネット革命と呼ぶべきだ」という意見も多い。[2]
インターネットとは1960年代後半に誕生したアーパネット(arpanet)に端を発する地球規模のコンピュータネットワークのことを指す。具体的に言うと、複数のコンピュータが互いに接続してネットワークを作り、そしてそのネットワーク同士が相互に接続することで、1つの巨大なネットワークとして機能しているものだ。
インターネットはパケット交換網というシステムを利用している。これは冷戦下において核攻撃を受けても動き続けることができるようにという要請から採用されたものであるが、これによりインターネットは分散処理システムとして構築され、数カ所が同時に破壊されたとしても残りの部分だけでネットは活動できるようになっている。このため一斉にネットワークがダウンするというような事態は起こらないのであるが、逆にこの構造故に集中管理方式には全くなじまない。
インターネットは分散処理システムを主とするがために、全体に対して規制をかけるというようなことがとても難しい。厳しく取り締まりをしてもいたちごっこになってしまう、というのが現状である。
インターネットを構成するのはパーソナルコンピュータ(PC)やワークステーション(WS)といったコンピュータ群だが、そのシステムにはいくつかの流れがある。オープンソースとクローズドコードという分類や、分散処理システムと集中管理システムという分類だ。
インターネットはこれらのシステムがいびつに絡まり合ってできている。もともとはユニックス(UNIX)ファミリーと呼ばれるオペレーションシステム(OS)などによって構成されたネットワークであった。当時は研究者などが使うネットワークであり、インターネットに参加するコンピュータ群は全てサーバーでありクライアントであるのが当たり前であった。この当時はほぼ完全な分散処理システムであったといえよう。
しかしインターネットの一般化によりこの状況は変化した。そもそも一般の人々がインターネットに接続しようとしてもネットワークアドレスの取得などの手続きを行いサーバーを運営しなければならないなど、個人で参加するのは難しい状況であった。そこにプロバイダーと呼ばれる業種が生まれる。プロバイダーはインターネットに参加するサーバーを持ち、プロバイダーに加入してインターネットに接続するPCはプロバイダーのサーバーを経由してインターネットにつながるという方法である。これによって一般の人々がインターネットに接続することは簡単になり、インターネットに接続する人間は飛躍的に増大した。しかしインターネットは、基幹部分ではUNIXによる分散処理、末端部分においてはプロバイダーを中央サーバーとする集中管理方式という、2つの管理方式が混在するものとなってしまい、現在に至っている。末端部分における参加者は、サーバーとしての働きをせずただクライアントとして働いていることが多い。そのクライアントシステムで一番メジャーなのがWindowsOSである。
さて、分散処理と言うことについて少し述べよう。これはピア・ツー・ピア(peer-to-peer)と呼ばれる思想/方式によるものだ。ピア・ツー・ピアはナップスター(Napster)という音楽交換ソフトによって広く知られるようになった言葉だが、これはもともとUNIXの基本理念としてインターネットの基幹に存在しているものだ。
ピア・ツー・ピアとは「ネットワークに接続された複数のコンピュータの任意の1対1がが対等な関係にある」という意味だが、むしろ「情報や資源を共有しよう」という考え方として用いられることが多い。つまり専用のサーバーを設けてそれに管理を集中するのではなく、ネットワークを構成する1つ1つのコンピュータが情報や資源を交換しあって管理を行う方法だ。ドメインネームシステム(DNS)に代表されるように、UNIXではこの方法が基本になっており、インターネットの基幹システムはほとんどがこの方式といってよい。
集中管理方式についてはここで説明する必要もないと思われるので省略する。
次に、OSにはクローズドソースとオープンソースの二つの流れがある。前者の代表がWindowsOSで、後者の代表がUNIXである。この違いは何かというと文字通りなのだが、そのプログラムの設計図(ソースコード)を公開しているか否か、ということだ。
クローズドソースのプログラムは、開発者にしかそのプログラムの詳細がわからない。そのため、他者によってプログラムの一部を改ざんしたソフトが出回ったり、ソースを複製されたりということがおこりにくい。またソースコードをみることで発見できるセキュリティホールやバグなどというものもクラッカー達によって発見されにくいとされる。それと同時に、プログラムのアップデートやバグつぶしなどのソフト開発が開発者にしか行うことができず、セキュリティホールが見つかっても開発者が改善しない限りそれを防ぐ手段がない、そもそもセキュリティホールがあったことを公開されない、などといった点もある。さらには、開発者によってプログラムに悪意あるコードが挿入されたとしてもユーザーには判別することができない。よくあるのがユーザーがインターネットでどういう行動をしているのかを追跡するシステムやメールの盗聴(というのもおかしな表現だが)をするシステムの噂だ。(これに関してはRealAudio事件がある。RealAudioがそのシステムの中にユーザーが何を聞いているのか、どこを訪れているのかなどというデータを収集するコードを埋め込んだ、ということでプライバシー団体との間で争いになった事件だ)
オープンソースのプログラムは設計図が公開されているため、(技量があればだが)誰でも開発に参加することが可能だ。またバグやセキュリティホールが発見されたときも発見した人間がそれを修正することができる。悪意あるコードが挿入されたプログラムも、それに気付くことが可能だし、外すことも可能である。ただし、ソースコードが公開されていることから、セキュリティホールやバグがあった場合、それが発見されやすい。よってセキュリティホールを利用したクラッキングなども行われやすいと言える。UNIXの歴史はハッカー・クラッカーによるバグの発見と、それの修復によって築かれていると言えるほどだ。
レッシグが著書「CODE」で「オープンコードは、国の力に対するチェック機能を果たせる」と述べているように[3]、オープンソースソフトによって構成されるネットワーク対して規制をかけることは難しい。どのような規制をかけようとしているのかがソースを見れば一目瞭然であり、その規制を取り外すこともすぐにできるからだ。もちろん規制を外すことを罰することによって規制に実効性を持たせることは可能だが、いたちごっこになることは目に見えている。
逆にクローズドソースのシステムであれば政府が開発者に対して圧力をかけることで規制をすることが簡単になる。クローズドコードの代表格はWindowsOSだが、現在このソフトはクライアントを中心にかなりのシェアを持っているため、クライアントに対する規制は比較的簡単に行うことができると考えられる。
3.第三の革命
前章でITとは何か、インターネットは何か、ということについておおまかなことを述べた。では、そのインターネットの普及によって何が起ころうとしているのか。トフラーが第三の波と呼んだ変革(彼が予期したものと同じものであるかはわからない)がどのようになるのか、私なりに考察してみる。
インターネットの普及によって一般の市民が持つ力はかつて無いほどに増大することになった。今までは国家や企業、メディア等しか持っていなかった「情報を発信する力」を一般市民も手に入れることになったのだ。また、インターネットにアクセスすることで今まで得ることのできた量以上の情報を手に入れることもできるようになった。国家と対等になったとはとてもいえないが、それでも初めて市民が国家に対して比肩しうる位置に着こうとしているということくらいは言えるだろう。
特に最近では「情報を制するものが全てを制する」と言えるほどに情報が重要視されるようになった。また、今まで有体物に化体されていた情報がデータとしてインターネットの中を移動している。そしてユーザーはインターネット上にあふれている情報やデータを手に入れ、選別し、数多の判断を下すことができる。
さらに、インターネットを通じて一般市民達が情報やデータ、処理などを共有するという現象(いわゆるP2Pサービス)も起こっている。データの共有としてもっとも有名なのがNapsterとgnutellaだ。最盛期には数百数千万とも言われる人間達がこれらのソフトを通じて音楽ファイルをやりとりしていたという。現在Napsterは著作権侵害訴訟によって勢いを失ってしまったが、今でもgnutellaや他のNapsterクローンと呼ばれるNapsterと同様のシステムを持ったソフトは人気を博したままかなりの人に使用されており、最近では共有されているデータは音楽データだけでなく画像や動画などほとんどのメディアにわたっている。
処理の共有としてはSETIプロジェクトやUDプロジェクトがあげられる。これは一般の人が使用しているコンピュータの使用していない処理能力を集めて、一つの大きなプロジェクトに使用しようというプロジェクトだ。SETIでは日々宇宙からやってくるデータを解析して宇宙人の痕跡を探し、UDでは白血病の治療のための遺伝子解析が行われている。
インターネットによってもたらされる未来は2つの方向に分かれていると私は考えている。1つはインターネットが起こす革命によってもたらされる未来、もう1つは現在の延長線上にインターネットはただツールとして存在する未来である。
まず後者について述べよう。こちらの未来は現在の既得権益を守ろうとする力と国家が管理を強めようとする力によってもたらされる。現在起きているP2Pムーブメントを止め、インターネットに強い規制をかけることによって来ることになる。国家は国民の情報を管理するためにメールなどの盗聴や個人のインターネットでの行動の追跡などを行うコードをネットワークに組み込むことになるだろう。この動きとしては48時間に限って検察側が独自に通信傍受をすることができるという法案がテロ防止の名の下にアメリカで可決[4]されているし、日本のいわゆる盗聴法も同じような働きをする形になる可能性はある。
著作物の複製やあらゆるデータの複製、情報の流出なども制限が加えられることになる。複製を防ぎデータの流通を防ぐことは不可能だという意見もあるだろう。確かに現在のインターネットの構造上それらを防ぐことは不可能に近く、できたとしても法律によって制限を加えて違反者を少々捕まえることで抑止することくらいだ。しかしレッシグが「CODE」で述べているように、インターネットは人工的なものでアーキテクチャを変更することは可能なのだ。例えばネットワークの中をきちんと著作権処理された著作物ファイルしか流通することしかできないようにすることなども原理的には可能で、コンピュータの処理能力の増大やネットワークの通信容量の拡大によって決して無理なことではなくなるだろう。情報の流出なども上で述べた盗聴・追跡のログを用いることによってすぐさま違反者をとらえることができるし、特定の情報はそもそも流通できないようにすることも可能になるかもしれない。
現在のインターネットの状況からすればとても窮屈な社会。しかしB2BやB2Cのためのツールとしては役に立つ。そういう未来がもたらされることは十分にあり得るし、現在の状況を見るとこちらの方向に向かいつつあるのではないかと思われる。この未来へと進むためにはクローズドソースで集中管理方式のOSによる管理が不可欠だ。オープンソースのネットワークのままでは、だれかが盗聴システムなどを外して管理の及ばない場所を作り出すことになりかねないからだ。クローズドソースOSであればそう簡単にコードを外すことはできない。
この社会は既得権益を持つものにとっては歓迎すべき未来であろう。また一般の人々にとっても窮屈になる、というよりはインターネットの無法な部分が大部分消え去ることで歓迎されることになるかもしれない。プライバシーをどこまで保護するか、といったことをかなり慎重に定めていけば、今の生活の延長線上にある、今よりも便利で安全で暮らしやすい社会となりうる可能性がある。
さてもう1つの未来、これこそが私の考えている「革命」なのだが、それについて述べる。
この未来は上に述べた未来とは逆に、インターネットの力とそれを利用する個人の力が増大することによってもたらされる。情報革命の具体的な動きは次章で述べるとして、ここでは情報革命によってもたらされる社会の概略について考察する。
個人の情報発信能力が今以上に増し、情報を収集、分析、理解する能力が増大していくとどのようになるか。人々は自分の情報について発信し、また他者の情報を入手し分析することで、自己と他者の関係について思いを巡らすことになるのではないだろうか。そして個人個人が自らのことを客観的に理解し、他者を理解しようとし、そうした上でそれぞれが関係を築いていく動きが生まれてくるだろう。そこにおける個人は今のような集団の中の一部である個人ではなく、個人が集まって集団を形成する、その一人、となるだろう。そうやって個人個人のつながりによって形成されるコミュニティは今ある地域のコミュニティのような地理的制約のあるものだけではなく、インターネットを介してネット上に存在する、国境というものを超えたコミュニティだということもありえる。そしてそれらのコミュニティ同士がインターネットを介して連携したり、相互に存在を認め合うことでできあがる、コミュニティ社会。私はそのような社会の誕生を想定している。
このとき、情報というものは次々と共有されていく。それぞれが情報財を生産し、コミュニティに提供することでそれが共有され、それを元にまた新たなものが生産される。コミュニティ間でも情報財が交換され、共有されていく。提供、交換されるのは何も情報財だけではなく、今までの物質的なものも存在するだろうし、労働力というものかもしれない。それぞれが自分のできることをして、それをコミュニティに提供し交換していく。
仕事に貴賤というものはないという、が現実にはそう認識されているかどうか怪しい。しかしコミュニティ社会においては、仕事に貴賤はなくなるだろう。それぞれが自らのことを理解してそれぞれの仕事を誇りを持って行い、そのことを皆が評価し、コミュニティの中でそれぞれがそれぞれの立つ場所、いる場所を得る。よい仕事を成し遂げたものは尊敬され、賞賛される。そのような社会となっていくだろうからだ。
このとき人間に差がでるとすれば、それは自分の役割を理解せずただ共有されているものを使用している人間と、自分のことを理解してコミュニティに対して貢献を行う人間との差だろう。前者をフリーライダーと呼び、後者をクリエイターとここでは呼ぶが、これについては次章で言及したいと思う。
これこそが産業革命に次ぐ情報革命によって誕生する社会なのではないか。
私はそう思っている。
4.革命を起こすために
前章で述べたコミュニティ社会。私はそれこそが次に来るべき社会ではないかと考えている。前章で述べたように、革命を起こさないようにして現状を維持していくことは可能だ。しかしそれは法などをもって押さえつけることによって誕生する社会である。自由主義を貫く限り、今まで何度も歴史が繰り返してきたように、自由を求める心によって、いつかきっと崩壊の時を迎える。
押さえつけられた社会の反動は巨大な力となってそのときの社会を押し流し、新たな社会を生むだろう。しかしそのときに起こる混乱は、今のように軍事力が発達した社会ではとてつもない破壊を生む可能性がある。
より平和的に移行がはかれるのであればそれを行うべきだし、何よりもコミュニティ社会体制は、今よりもより望ましい社会であると私は思う。
では、どのようにすることで革命が起こっていくか、それを考察してみる。
コミュニティ社会はインターネットを自由にすることだけでは成立しない。もちろんオープンソースOSを導入するだけでも成立しない。それぞれ必要なことではあるがそれだけでは足りないし、オープンソースにそこまでこだわる必要はないかも知れない。
これはコミュニティ社会においては人間というものが大きな役割を果たすことになるからだ。少なくとも個が確立し、色々な情報を取捨選択し、取り入れることができる人間でなくてはならない。さらにはコミュニティに対して何かを提供できる人間であることが望ましい。この人間像は教育の際に目標とされているものとほぼ同一なのだが、実際に達成されているとはとても言えない。
これは日本独自の環境も原因となっている。阿部謹也氏が著書「学問と「世間」」の中で、
「わが国の個人は直接社会と対しているわけではない。まず「世間」に属しており、その絆に縛られているのである」[5]
「学校教育の中では西欧的な個人意識に基づいて、自分が正しいと思ったことはどこまでも主張し続けろと教えられながら、現実の社会においては「世間」のしがらみに巻き込まれている」[6]
と述べているように、日本においてはまず個というものが確立しにくい状況にある。突出しようとすると「世間」によって押しつぶされる。出る杭は打たれるということわざがあるが、学校教育などにおいては個を確立せよといいながら、実社会では個を確立しようとすると排除されたり隔離されたりするのである。
日本において情報革命はまずそれぞれが個を確立することから始まる。その上で情報の処理能力を得、情報などの発信能力を得なければならない。
はっきりいってこれを今までの教育でやろうと思ったら並大抵のことではできない。
そこで私が提案するのが、教育にこのためのツールとしてUNIXを導入するということである。
コンピュータ操作を教えてなぜ個が確立できるのか、と思う人も多いだろう。それはその通りだ。私が教えるべきだ、というのはUNIXというOSの操作と同時にUNIXの持つ思想なのだ。これによって、学んだ人間に個の確立と情報処理能力の拡大を同時にもたらすことができると私は考えている。
ではUNIXの思想とは何か。
これはUNIXを使用する人間達のマナーとか倫理とか言い換えてもいいかも知れない。例えば下記のようなものだ。(以下[7])
まず自分という者を認識し、全てのことに当事者意識を抱くということ。UNIX使いは、そのシステムを運営していく上で誰かを当てにできるという状況にはないことが多い。そのため最初から何かをあてにする、という考えを持たずに行動するし、もちろん誰かが助けてくれるものを作ってくれたのならそれを歓迎し、賞賛する。
またUNIX使いは一人一人がコミュニティに参画する、という意識を常に持っている。コミュニティから得た知識を使って運営するかわりに、自分の知識もコミュニティに提供する。優れたツールを使わせてもらうかわりに、そのツールのヘルプファイルを作ったり、バグがあった場合にはそれを報告する。また自分が新しいツールを作った場合にはそれをネットに公開する。コミュニティから何らかのものを得るかわりに、自分も何かを提供する。そして自覚を持って積極的にコミュニティにコミットしていく。
わからないことがある時は、まず自分で調べる。どうしてもわからないときだけ、コミュニティの中に質問を投げかける。その際もただ「教えてください」ではなく「ここまで調べたのですが、これ以上の部分がわからないのです。こうこうしてみたのですが動きませんでした」というように自分が調べてわからなかったことを告げて聞く。コミュニティの中ではそういう風に学ぼうとしている姿勢がきちんと現れている人間に対してはきちんと返答が入る。誰もわからない場合も、何らかのアドバイスは入るだろう。ただわからないから人に聞こう、という「教えて君」は誰にも相手にしてもらえず、無視される。
そして何よりUNIXはオープンでフリーなOSである。このフリーは無料という意味ではなく自由であるという意味である。確かにただで入手することはできるし、利用は自由だ。しかしできれば自分がそれを使用したことで得た事をコミュニティに還元して欲しい。そういうことを繰り返し発展してきたOSだといえる。幾人もの自覚ある人々によるコミットによってUNIXは今まで育ってきた。
UNIXの初期からこのような考え方があったのかはわからない。けれど、UNIXが成長していくうちに、このような考え方が一般的になったのは事実であり、そして上のような考え方は、教育において一番必要とされているものだと私は考える。
この考え方を自らのうちに取り込むことができた者がUNIXのコミュニティに参加する資格を得る。これが全てではなく、UNIXの考え方/思想というものにはもっと素晴らしいことも色々かかれているが、それについてはここでは述べず「UNIXという考え方」や「Linuxの革命」を読んでもらいたいと思う。
UNIXは世界中のサーバー群の中核を占めるシステムだ。これを扱えると言うことは、ネットワークのサーバー管理者としての能力を得ていると言うことにほぼ等しい。またUNIXは全てのOSの根幹とも言える部分があり、UNIXが扱える者はWindowsの操作を習得するのにほんの数日しかいらないだろう。UNIXをある程度までマスターした者は情報を収集し、発信する能力を手に入れることができると言っていい。発信するべきコンテンツに関してはまた別の話となるが。
さて、以上を読めば私がUNIXを教育に、という主張をすることを理解できるのではないかと思う。UNIXに含まれたエッセンスは、現代社会が必要としているそのものであるということを。
しかしUNIXを教育に取り入れるのはかなりの困難さが予想される。能動的であれということを受動的に教えるという矛盾が発生するからだ。また、UNIXを教えることのできる人材が少ないという点もある。しかしまた、決して不可能ではない。
ここで、なぜ私がWindowsを推奨しないかを述べておこう。情報技術を高めるのなら簡単なWindowsを覚えればいいじゃないか、わざわざ難しいUNIXを使う必要がない、と思う人も多いだろうからだ。
始めに断っておくが私は別にWindowsを否定しているわけではない。Windowsは簡単にインターネットに接続してコンテンツを楽しむことができ、普通にオフィス業務をやったりするのにもUNIXよりもはるかに便利だ。私自身、クライアントOSとしてWindowsを使っている期間はかなりの長さとなる。
問題は、Windowsはユーザーを生みはするが、クリエイターを生みはしないということだ。もちろんまったくクリエイターを生まないわけではない。Windowsを使ってプログラムを行う人間はたくさんいるし、コンテンツ発信を行う人間もまた多い。けれどもユーザー全体のなかでの割合を見るとほんの少数に過ぎない。
Windowsは受け身なOSだ。ユーザーには最初から選択肢が提供され、最初から入っているものを使う。なにか必要なアプリケーションがあったら購入する。全てがマウスで操作でき、キーボードを使うのはデータの打ち込みやメールを書く時くらい。メールとネットサーフィンしかしませんという人間がどれだけいることだろうか。
翻ってUNIXのユーザーには割合的にクリエイターが圧倒的に多い。もともとのUNIXの思想自体がクリエイターであることを求めていることもあるが、UNIXの操作自体がクリエイターになるための訓練にもなるということがあるだろう。基本的にUNIXを操作するためにはキーボードをたたくのが必要で、面倒な操作に関してはシェルスクリプトを書く、などということを日常的に行うようになる。また、サーバーの運営と言うこと自体、コミュニティに対する貢献になることもあるだろう。
つまりは、どちらが教育に向くか、という視点だ。Windowsを教育の時点から教えると、確かにインターネットに接続するユーザーは生まれるだろう。しかしクリエイターは生まれにくい。そして、Windowsに最初に触れると、UNIXなどの”面倒な”OSを使用するようになることは仕事で強制でもされない限り、ほとんど無い。逆に、UNIXに触れてその思想を学んだ後にWindowsに移行するのは、別にかまわないだろう。その人間はWindowsを使うようになった後も、コミュニティに何かをコミットする、という考えをきちんと持っているはずだからだ。コミュニティに対してコミットできるのであれば、別に使用OSが何であろうとかまわない。
さて、このようにしてコミュニティ社会が生まれていくとすると、問題となるのが前章であげたフリーライダーだ。彼らは自分では何も生産せず、コミュニティで提供されているものを手に入れ、それを使用することで生活する。つまりは自覚を持たず、ただ消費するだけで暮らす人間だ。フリーライダーが少々いるだけであればコミュニティは維持することができるが、数が増えるとコミュニティはそれを維持できなくなる。そのためコミュニティはフリーライダーをできる限り排除しようとすることになる。これは実際に今でも考えられていることだ。
フリーライダーをできる限り誕生させないようにしてコミュニティを維持するために、彼らに仕事を与えたり、コンテンツ発信のための訓練をしたり、ということを行うことになる。しかしそれだけでは実際にフリーライダーが減るかどうかわからない。特に日本人は現状でもフリーライダーがかなり多いと言われている。インターネットにおいて日本人はコンテンツをダウンロードするだけで、アップロードすることがないと嫌われている状況にもそれが見える。その状況を変えるのは、個を確立したり情報処理能力を上げたりする以上に難しいかも知れない。このことに関しては検討が必要だろう。
UNIXを教育に取り入れることによって、子供達が当事者意識を持ち、自分たちが財を生産しコミットしていくことで社会に貢献していくという自覚を得たのであれば、世界は変わるだろう。
そうやって生まれる社会。私はそれがコミュニティ型社会だと信じているが、別の形態の社会となることもあり得るだろう。そうだとしても、その社会はきっと今よりもより時代にあった、よりよいものへとなるはずだ。そのことを確信し、私は革命が起きるように動きたいと思う。
5.参考資料など
・引用
用語の意味について、三省堂デイリー新語辞典・アスキーデジタル用語辞典
[1] 「第三の波」 18頁 [↑]
[2] 「情報通信アウトルック2001」株式会社情報通信総合研究所編/NTT出版 47頁 [↑]
「三菱総研これからの『IT革命』」牧野昇監修 三菱総合研究所情報技術研究会著/学生社 34頁など
[3] 「CODE」 179頁 [↑]
[4] 「米上院ネット監視を強化する新テロ対策法を採択」 [↑]
[5] 「大学と「世間」」 15頁 [↑]
[6] 同 17頁 [↑]
[7] 「グリゴリ メーリングリスト」 [↑]
・参考文献・資料
「第三の波」アルビン・トフラー著 徳山二郎監修 鈴木健次・桜井元雄他訳/日本放送出版協会
「CODE」ローレンス・レッシグ著 山形浩生・柏木亮二訳/翔泳社
「情報通信アウトルック2001」株式会社情報通信総合研究所編/NTT出版
「三菱総研これからの『IT革命』」牧野昇監修 三菱総合研究所情報技術研究会著/学生社
「大学と「世間」」阿部謹也著/岩波新書
「リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神」ペッカ・ヒマネン著 安原和見・山形浩生訳/河出書房新社
「第三の道」アンソニー・ギデンズ著 佐和貴光訳/日本経済新聞社
「UNIXという考え方」Mike Gancarz著 芳尾桂 監訳/オーム社
「グリゴリ メーリングリスト」