前野明郎著『脳はなぜ「心」を作ったのか』筑摩書房、2004.11.15、1900円、
<「心とは何か」という疑問の答えに挑んだ仮説>
【お勧め度】  ★★★★☆


 「心の謎がついに解けた!!」という本の帯に惹かれて読んでみた。心が実に単
純なメカニズムでできていて、作ることすら簡単にできるという「受動意識仮説」
の本である。
 
 これまで心の謎だと言われていたことに対してもメカニズムを示している。私に
とっては納得できるものである。読みやすい本ですので、一読を勧めます。以下、
私の気になった点を列挙します。

プロローグ 死んだら心はどうなるんだろう

・私は、人類が最も知りたいのに解明されていない究極の謎が、二つあると思う。
一つは、なぜ、どのようにこの宇宙ができたのか、ということ。もう一つは、な
ぜ、どのように自分の心は成り立っているのかということだ。

・私は、生物の脳が、なぜ、なんのために心を作ったのか、そして、心はどんなふ
うに運営されているのか、という心の原理を理解したつもりだ。

・人の心は実にたわいのないちっぽけなものだが、そうだからこそ、死も何も怖く
ないし、ささやかなこの人生は楽しいという、子供の頃の私自身への答えを、この
本を読んだ方に共有していただけたら幸いに思う。

第1章 「心」――もうわかっていることと、まだわからないこと

・「心」とは何なのか、改めて考えてみると、何だか漠然としている。辞書を引く
と、人間の精神作用を総合的に捉えた呼び方、とある。考えたり、悩んだり、嬉し
かったり、感覚を感じたりする作用だ。脳科学者の松本元によれば、心は、「知」
「情」「意」「記憶と学習」「意識」の5つからなるという。

・「意識」とは脳のどんな情報処理の結果で、どんなふうに説明できるか、という
ことが最大の謎であり、これが明確に説明できたならば一元論者の勝ち、つまり、
私たち人間は心のことがわかったといえる。逆に、少しでも謎が残されていたな
ら、まだ、二元論者(「意識」と「脳」は別もの)に付け入る隙を与える余地があ
る、ということになる。

・「意識」や「脳」、「身体」のような概念を、哲学者たちは「自分」「私」
〈私〉のような言葉で表現する。ここでいう「自分」とは、自分のからだと脳を含
めた、個体としての、あるいは、ハードウエアとしての自分のことだ。一方、
「私」とは、「意識」のことだ。そして〈私〉とは、そのなかから、ものやことに
注意を向ける働きの部分を除いた、自己意識について感じる部分のことだ。つま
り、生まれてからこれまで、そして死ぬまで、自分がイキイキと自分の意識のこと
を振り返って、ああ、これが自分の意識だ、と実感し続けることのできる、個人的
な主体そのものである。

・MITのミンスキー教授は、著書『心の社会』(産業図書)の中で、脳の無意識の
自律分散処理のことを、心はたくさんのエージェントから成る社会だという比喩を
使って説明した。脳の中にたくさんの小びとがいて、それぞれ自分の仕事をせっせ
とこなしている様子をイメージしてもらえばよい。

・脳には、たとえば、赤いリンゴを見たとき、色を識別する小びとがいる(ニュー
ラルネットワークのモジュールがある)。また、丸い形の物体だということを識別
する小びともいる。これらの結果を受けて、「赤くて丸いこの物体はリンゴだ」、
という答えを出す小びとがいる。

・脳のバインディング問題:クリックとコッホがいうように、「意識」とは脳全体
の神経回路の連成振動(共鳴現象)だと考えると、では、その振動の「観察者」は
どこにいるのか、ということがわからない。やっぱり、「意識」全体の働きをトッ
プダウンに把握できる何かがなければならないことになる。そしてその何かは、や
はりたくさんの小びとたちすべてが何をやっているのかを把握している巨大なシス
テムでなければならない、ということになってしまう。

・五感から入ってきた情報と、自己意識のように心の内部から湧き出てきた情報
を、ありありと感じる質感がクオリアだ。明らかに、人の心はこのような質感を作
り出している。脳の巨大なニューラルネットワークは、何らかの計算によって
「私」の中にクオリアを作り出しているのだ。

・茂木に言わせれば、物体である脳からどのようにしてクオリアが生まれるのか
は、世界中でまだ誰も理解していない、という。クオリアの問題は、手がかりさえ
もつかめない「意識」最大の謎なのだそうだ。茂木はさらに続ける。クオリアの謎
を解明するには、天動説から地動説への考え方を180度変えるような、コペルニク
ス的転回が必要なのではないか。

第2章 「私」は受動的――新しいパラダイム
・胃の中の食べ物は自分だろうか? 物体として考えると、消化されている最中は
「自分」ではなく、消化されて吸収される瞬間に「自分」になるのかもしれない。
しかし、現象として考えると、消化は不連続な変化ではない。つまり、胃の中のも
のは少しずつ消化されていくから、食べ物は徐々に「自分」になっていく、という
ことになる。ここでも、「自分」と外の境界は、現象として考えるとあいまいであ
ることがわかる。「自分」の「身体」は「物体」だが、「自分」の「生命」は「現
象」なのだ。

・知情意をつかさどる脳内の小びとたちの営み、という現象として見ると、脳内に
ある身体・外界の順モデルも、身体も、外界も、そこから何か情報を得て、そこへ
と何か情報を送り出す対象である、という点では一致している。順モデルを使って
運動をイメージすることと、実際に運動することは、小びとたちから見ると同じよ
うな体験でしかない。自己と他者、中と外、という分け方は生命現象としてはそも
そもナンセンスなのだ。自己も他者も、知情意に対して流れ込んできて流れ去って
いく対象であるという点では同じようなものなのだということができる。

・主体的だと思っている私たちの「知」「情」「意」「意識」といったものは、実
はことのほか受動的で他力本願なものなのに、人間は、それらをなんとなく主体的
なものであるかのように錯覚するようにできている。

・スイスの山の仮想画像を見て、自分がスイスに行った気分になる際に、自分自身
が景色の中に入っていたら、なんだか不自然に感じるだろう。しかし、実は、自分
が画像の中に描かれていると、仮想世界への没入感が増して、仮想操作や遠隔操作
をより自然に行えるのだそうだ。

・私たちが、「赤いリンゴを見た」ことを「意識」するとき、実は、私たちは、素
の画像だけを見ているのではなく、脳で加工された結果作り出され、画像にあわせ
て表示された、生き生きとした「赤いリンゴ」のクオリアを同時に感じているわけ
だ。私たちは、「赤いリンゴ」を目で見ているわけではない。視覚受容器が検出し
ているのは、何の意味も持たない画像。「赤いリンゴ」は、脳で作り出された情報
なのだ。「私」は、目で見るのではなく、脳を見ている、というべきなのだ。

・私たちは指先で何かに触ったとき、熱いか冷たいか、つるつるかざらざらかを、
瞬時に、しかも指先で感じるような気がする。しかし、皮膚にはマイスナー小体や
メルケル小体といった触覚のセンサがあるだけで、脳はない。だから、当然、熱い
か冷たいかとかつるつるかざらざらかといった情報を皮膚で計算することは決して
できない。なのに、どうして触覚のクオリアを指先で感じるのだろうか。それは、
触っているという生の行為に、触った結果としての感覚のクオリアを重ね合わせて
「私」に対して表示しているからに他ならない。

・「私」たちが主体的に行っていると思っている「思考」という行為は、実は無意
識下の小びとたちが行っている自律分散計算だと考えられるということだ。三角形
の問題の答えは、意識の上で「考えた」というよりも、自動的に「ひらめいた」よ
うに感じられる。これは、「考えた」のは実は自分の「無意識」の小びとたちであ
り、「私」はそれを「ひらめいた」かのように錯覚しているに過ぎないということ
を表している。

・感情というものはそもそも受動的なのだ。怒りたいと思って怒ったり、笑いたい
と思って笑ったりすることは、ないとはいえないが、普通ではない。普通は、いろ
いろな状況が重なり合った結果、意図するか否かに関わらす、怒りがこみ上げてき
たり、喜びがこみ上げてきたりする。「私」にはなすすべがない。そう。「情」
も、小びとたちの連想ゲームの結果であり、「私」から見ると受動的なものなの
だ。

・笑った顔をすると、そのときの筋肉の状態が感覚受容器から脳にフィードバック
され、こんな顔をしているときはうれしいはずだ、といううれしさの内部モデルが
働く。その結果、「情」は、“「私」はいまうれしい”という心の状態を作り指す
のだ。

・「知」も「情」も、「注意を向ける」といったような「意識」の積極的な働きか
けの結果なのではなく、「無意識」にいる小びとたちがせっせと処理した結果をた
だ「意識」が受動的に見ているだけと考えた方が、脳のしくみから考えてつじつま
があうのだった。

・リベット博士の実験結果は、心が「動かそう!」という「意図」を「意識」する
より前に、「無意識」にスイッチが入り、脳内の活動が始まっているというのだ。
心が「動かそう!」と思うのがすべての始まりなのではなく、それよりも前に、無
意識下の脳で、指を動かすための準備が始められているというのだ。そんなばか
な。

・リベット博士の実験結果を信じるならば、人が「意識」下でなにか行動を「意
図」するとき、それはすべてのはじまりではない。「私」が「意識」するよりも少
し前に、小びとたちは既に活動を開始しているのだ。言い換えれば、「意図」して
いると「意識」することを人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びとたちの活動結
果を受け取って、自分が始めに「意識」したと錯覚していると考えるしかない。

・脳は、空間だけでなく、時間についても、錯覚によるつじつま合わせをしている
ということだ。しかも、これは、単に「知」がだまされているだけではない。時間
とともにあるように思える「意識」がだまされているといういことなのだ。

・私たちは、「意識」のタイミングは絶対的なものであるように感じる。私は今、
考えている。私は今、指を動かそうと「意図」している、私は今、「触覚」を感じ
ている・・・・・・。この「今」が本当は少しずれているなんて、考えてみたこともなか
ったかもしれない。今というタイミングが、実は今だと思っている瞬間よりも、本
当は少し遅いのに、それがごまかされているなんて、ありえないと思われるかもし
れない。しかし、それは十二分にありえる。なにしろ、人は、錯覚しやすい生き物
なのだ。

・視覚と聴覚のタイミングが合わされていたように、今だと感じる瞬間がしっくり
来るように調整してあった方が都合がいい。そうでないと混乱する。だから、人は
そう感じるように作られているのだ。人は、都合のいいように錯覚するように作ら
れているのだ。自分自身の充実感や、今の存在感は、自分の脳が自分をだましてい
る結果に過ぎないのだ。

・「私」と〈私〉は、外の世界とつながってさえいない。小びとたちが教えてくれ
たことを通して外の世界のことを知る監獄の中の囚人であって、世界のほんの脇役
に過ぎない。もちろん、世界の中心になどいない。地球が、宇宙に広がる無数の惑
星たちのうちの一つに過ぎないのと同じように、これが心の地動説(受動意識仮
説)だ。

・「私」は、川の下流で、流れ込んできた情報を見ている。そして、注目すべき特
徴的な流れ(声の大きい小びとの言動)に注目し、そのすべてを自分がやったこと
であるかのように錯覚している、というわけだ。川の途中がどうなっているのか、
細かいことは知らないが、何が原因で何が起こったのか、という大雑把な物語の内
容は把握している。細かいことはよきにはからえ、だ。

第3章 人の心のたねあかし――意識の三つの謎を解く
・エントロピーの増大する物理世界と、減少する生命情報世界は、もともと構成原
理があべこべだ。だから、脳の中の法則が物理法則と似ている必然性はない。無意
識下のできごとを単純化して、錯覚し、わかったような気になっている井の中の
「私」というのが、生命の真実なのだ。

・脳の中では、あらゆる錯覚によって、時間も空間も因果関係もゆがんでいる。実
に、ゆがんでいる。それなのに、私たちはあたかも時空間がゆがんでいないように
感じるようにできている。心は、巧みで繊細で美しい、バーチャルワールドなの
だ。

・「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換する
ために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするた
めにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソード記憶することの必然性から、進
化的に生じたのだ。

・前野隆司の〈私〉も、隣の住人の〈私〉も、ほぼ同じ、脳に書き込まれた単純な
錯覚の定義に従って生み出されたクオリアだ。一人の人間に、一つの〈私〉の定義
があり、みんな同じように〈私〉という自己意識のクオリアを感じるように作られ
ている、というだけの話なのだ。古今東西、何十億年という歳月と何十億人という
世界の広がりの中で、あらゆる人の〈私〉は、すべて同じような、無個性な錯覚の
定義の結果に過ぎないのだ。

・クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるための
ものなのだ。

・視覚や触覚で認識した外界の情報に、風が気持ちがいいなあ、とか、子供はかわ
いいなあ、とか、幸せだなあ、といった、心から湧き出てきた情報もオーグメント
ッドリアリティのように加えられている。そして、この多次元的な断面が時間とと
もに展開していくのが、時空間に多元的に広がるクオリアなのだ。

・クオリアの表現方法が不思議なのではない。クオリアは言語と違って空間的に分
布したパターンを持つから、まだ言語のように普遍化されていないというだけであ
って、表現のしかたそのものが謎ではない。

・大脳内に、「生き生きとした感覚情報のクオリアも、〈私〉という自己意識のク
オリアも、「意識」で感じるものとする」という錯覚の決まりが定義されているた
めに、人は、意識下に感覚や自己意識の質感があるかのような幻想に浸っているに
過ぎない。そう考えられるのだ。

・深遠に思える〈私〉というクオリアの問題は、「クオリアは錯覚である」と考え
る以外に答えはない。私たちがふつうあまり気にも留めない、「触覚感をなぜ指先
で感じるか」というたわいのない問いと同じように。

第4章 心の過去と未来――昆虫からロボットまで
第5章 補遺――「小びと」たちのしくみ
エピローグ 〈私〉は死なないんだ