著者は、現在、名古屋大学大学院教育発達科学研究科の教授で、
団塊世代(1947年生まれ)の教育心理学者である。著者は、長い間、
若者の物の見方や感じ方、行動の仕方について疑問を感じていた。
それは、他人をまったく無視したような行動である。
著者は、このような現象に対して、その背後にある心情とでもい
うべきものとして「仮想的有能感(著者の造語)」という概念で説
明している。これは、他者を軽視する行動や認知に伴って、瞬時に
本人が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的
な感覚である。
若者を理解する上でも(若者自身も自分自身を理解するする上で
も)、本書の一読を勧めます。以下、私の気になった点を列挙する。
第1章 感情が変わった
第2章 やる気が低下する若者たち
第3章 他者を軽視する人々
・国民生活センター相談部の人の話によると、エゴむき出し消費者
で、相談員の話を聞かず、思いこみで相手の非をまくしたて、自
分の非は一切認めず、すべて相手が悪いと訴える人たち、互いに
譲り合いながら解決することを嫌がり、自分の要求をすべてのん
でほしいいう勝手な人たちが、確実に増えているという。
・航空会社がつくる定期航空協会によれば、機内での客室乗務員へ
の暴言や暴力をはじめとする「迷惑行為」はこの4年間(2000年
〜2003年と考えられる)で5倍に急増しているという。迷惑行為
をする人は周囲の状況、社会の常識はまったく無視し、自分だけ
のルールで行動し、それを否定されるとすごく攻撃的になるよう
だ。
・90年代以降、国際競争力をつけるために日本人はもっと自分を主
張せよと言われ続けてきた。そのことが、「人の欠点をはっきり
言う人のほうが有能」「先に指摘したほうが勝ち」という風潮を
生み、「日本人は『あら探し』をすることがうまくなった」とま
で言われるようになったという。
・注意のアナウンスを無視した、車内での携帯電話の使用は日常茶
飯事であるが、人が行き交い混雑する駅の階段の通路で、高校生
が男女関係なく制服のまま座り込み、物を散らかして飲食してい
る姿は閉口する。彼らは通行人である「他者の存在」が目に入っ
ていないように見える。自分たちのしていることだけに集中して
いるのか、他者を無視しているのかどちらかである。
・よく言われるように、最近の若者は関心が自分だけに集中し、社
会や他人への関心はきわめて薄い。まずもって自分の欲求を充足
させることだけで頭がいっぱいで、他人が自分の行為をどう受け
とめているかに、思いを巡らすことができないのである。
・昔の若者たちは他者軽視をするといっても、前述の犯罪を犯した
若者たちのように他者を無意味な存在だとか、抹消すべきだとは
安易に考えていなかったものと思われる。気に入らない相手に対
して簡単に「死ね」などという言葉を、若者が発するようになっ
たのは、最近のことではなかろうか。
・ルーシーが日常的に上機嫌になれないのは、防御の姿勢が強いか
らであろう。劣等感に苦しんでいるのに、自分の価値の高さを誇
示したい人たちは、自分が周りの人間より優れていると思うこと
で、自尊感情を取り戻そうとする。そのため、周りの人を低く見
る必要がある。このルーシーこそ、最近の若者が抱いている他者
軽視傾向の性格を持つと言える。
・今の子どもたちは、弱者と見なされやすい「叱られる立場」にな
ることをひどく恐れているようにも見える。一度、自分の非を認
めてしまうと、その後一貫して弱者の立場に立たねばならない、
と考えているのかもしれない。謝ろうとしなくなったのは、先生
を畏れたり敬意を払ったりすることが少なくなったことにも関係
している。
・さらに「謝らない」というのは、謝るという社会的スキルが育っ
ていないために、本当は謝りたいのに社会的スキルが未熟でどう
表現してよいかわからず、逆のかたちで衝動的、攻撃的な行動に
出てしまうのではないかということも考えられる。
第4章 自己肯定感を求めて
・現代社会は選択の幅が広いために、誰もが「オンリーワン」の気
分を持ちやすい。オンリーワンというのは独自性があることで、
必ずしも選り優れていることには繋がらないはずだが、総合的に
判断する場合、比較対象がないことで好意的な主観的判断に陥り
やすく、誰もが並み以上という感覚を持ちやすい。
・現代の若者は、赤ちゃんのときの誇大自己をそのまま持続させて
いる人が多いように思われる。最近では、紙おむつの影響か、お
むつがとれる時期も遅くなったと聞くが、母親たちがしつけをす
ることを放棄するようになった、手抜きをするようになったとい
うのが正確かもしれない。すべてを子どもの自由にまかせ、何ら
方向性を持った指導をしなければ、誇大自己が温存されても不思
議ではないだろう。
・現代は社会そのものに、自己否定する人を避け自己肯定する人を
受容する方向性が強まったが、現実には誰もが自己肯定できる行
動をとれるわけではない。人間の行動に失敗やしくじり、間違い
が生じるのは今も昔も変わりはない。そのような現実の中で自己
肯定感を得るのにはなんらかの自らの心理的仕掛けが必要になる。
それが自己愛やポジティブ・イリュージョンや楽天主義なのかも
しれない。
第5章 人々の心に潜む仮想的有能感
・自己肯定感の中には特に他者軽視を通じて生じる偽りのプライド
があることにも触れた。これを「仮想的有能感」と呼ぶことにす
る。
・仮想的有能感という概念を用いることで、これまで見てきた、他
者を教養のない者と見なす人とか、ホームレスを社会のゴミと見
なして攻撃した若者たち、自分以外はみんなバカだと思う現代人、
そして、自分の失敗を認めず、チャーリーのせいにするルーシー
の行動傾向が説明できるように思われる。
・彼らはすべて、外面的には横柄な態度や行動を示す。これは仮想
的有能感を有しているからに違いない。彼らに共通しているのは
他者との親密な人間関係が形成されておらず他者を軽視している
ことである。
・彼らは、勝手に他者の能力を軽視しすることで、偽りのプライド、
すなわち仮想的有能感を抱いて行動するのである。これは彼らの
中に無意識に生じる自己防衛的機制とも考えられる。それは、人
は誰も常に優れた存在でいたい、人から認められる存在でありた
いと思っているためであろう。
・他者軽視に基づく仮想的有能感が生じる背景には「希薄化する人
間関係」が存在する。簡単に言えば、人は親しい人間関係を喪失
し、孤立すればするほど、外面的には傍若無人な他者軽視的行動
をとるようになる。つまり、現代の希薄化した人間関係において
は、周りが支えてくれるという認識を欠くことになり、他者をむ
しろ脅威と見なすために、背伸びをして弱い自分を防衛しようと
するのである。
・人の自信といいうのはつまるところ、親しい人間関係にある周り
の人たちから、承認され賞賛される経験を通して形成されること
が多いからである。しかるに、そのような親密な周りの人たちが
少ない社会では、個人の自信も形成されがたいのである。
・あきれるほどに自分に自信があった自己愛者たちは、経済的不況
やさまざまな制度改革の嵐の中で、自分の感覚と現実の行動との
間の大きなズレを認識し、どこかに不安を感じはじめた。不安定
な感覚を元に戻すためには、自分以外の他者の能力を低く査定し、
自分は負け組ではなく価値組であることを、先手をうって宣言し
てしまう必要がある。
・個人主義が先鋭化することで人間関係が希薄化し、直接問題とな
っている相手の力量なり有能さなりを、相手と関わることで知ろ
うとしないためであろう。そのため、自分以外の人を多面的に見
ることができなくなっており、特に他者の優れた部分については、
あまり意識しないようになっているのではなかろうか。
・人は誰でも多かれ少なかれ、醜いこと、嫌なことを抑圧して生き
ているが、画面上ではそれが一気に吹き出すこともある。そして
インターネットは、自分の都合のよいときにアクセスし、また、
都合が悪くなれば、簡単に切ることができる。ここで述べている
他者軽視に基づく仮想的有能感も、このような状況で顔を出しや
すいのではなかろうか。
第6章 自分に満足できない人・できる人
第7章 日本人の心はどうなるか
・仮想的有能感を持つ人は、本質的に自己中心的であり、自分のこ
とにだけは関心が強いが、他人のことには関心が薄い。共感性の
なさが、仮想的有能感の高い人の特徴であり、町で見知らぬ人が
困っていたりしても「悲しみ」を共感できないので、手を差し伸
べるようなことがない。テレビのニュースで、外国での悲惨な内
戦が報じられても、遠い国の出来事として眺めるだけで、加害者
に対する怒りや被害者に対する悲しみの感情が生起するようなこ
とはないように思われる。
・仮想的有能感の高い人は、何よりも自分が弱い存在だと思われた
くない。例えば、学業成績が悪い、運動競技に負けたという現実
があっても、素直に自分の能力や努力の足りなさを認めるという
よりは、先生の指導が悪かったとか、競技場のコンディションが
悪かったと自分以外の要因に帰し、自己責任を回避するものと考
えられる。その限りでは悲しみは生じない。ただ怒るだけである。
・多くの若者が本物の悲しみを感じることがないのは、自己や相手
としっかり対峙することがなく、仮想的有能感によって自己を防
衛しているからではなかろうか。自分の本当の悲しみに向かい合
うことが苦痛で、あるいは恐ろしくて、仮想的有能感で先手をう
っているのかもしれない。しかし、一方で自分自身の感情細胞が
渇いていくことに本能的に危機感を抱いて、自分が傷つかないで
涙する場面を無意識的に求めているのかもしれない。
・概して「悲しみ」は、人間の弱さを象徴する感情であるのに対し
て、「怒り」は人間の強さを象徴する感情であると言える。人間
の弱さを否定する社会は、子どもが成長する過程で悲しみの経験
を最小限にしようとするにちがいない。しかし、その結果として、
自尊感情の肥大化が進み、弱い人間や傷ついた人間へのやさしさ
を喪失させていくように思われる。
・仮想的有能感の高い人が、多くの苦労をしてまで目標達成を目指
すとは思われない。彼らは障害に直面すると怒りを爆発させてし
まい。失敗を正当化して、別の目標に移行させてしまうことが多
いだろう。だとすれば、仮想的有能感は喜びの量も減少させてい
ると予想される。
・自分の情けなさや無力さ、あるいは、いたらなさを冷静に見つめ
ることによってホロリと笑ってしまう。言うなれば悲しみ型の笑
いというものもある。おそらく、仮想的有能感の高い人は、この
ような笑いを感じることがない。自分を笑うことができないので
ある。それは自分をゆっくり外側から冷静に見つめるだけの余裕
がないことを物語っており、さらに、自分が傷つくことを極度の
恐れているためである。
・企業間の対立ばかりではない。セクハラ訴訟での対立、離婚問題
での対立など個人間の対立もエスカレートしている。これらの当
事者の行動に共通に存在するのは、自分の落ち度に向かい合う前
に、相手の落ち度を鋭く指摘することである。自分の非をつかれ
る前に相手の非をつくこと、これが個人主義社会を生き抜く知恵
なのかもしれない。しかし、この知恵は罪作りな知恵である。
・今後予想される社会は、個々ばらばらの社会である。誰もが競争
に勝ち抜くために、先手をうつかたちで、周りの相手を軽蔑した
り軽視したりするのである。それは人間同士の暖かみが伝わらな
い冷え切った社会である。学校でも会社でも、人は自分の幸せだ
けに関心を持ち、みんなで支えあう農耕社会的な要素をすっかり
忘れてしまうだろう。
・現在、多くの人たちが、この厳しい世の中で自分だけが犠牲者で、
ストレスを多分に受けていると思いこんでいる。家族ですら母は
娘に、「あなたがまじめに勉強しないから、私はストレスがたま
って食事も十分にできない」と嘆く。娘は娘で「お母さんがあま
りうるさいからストレスがきつくて下痢が続き、勉強どころでな
い」と言ってキレる。上司は、いたらない部下のせいで、自分が
こんなにストレスに苦しめられていると思っており、いたらない
部下のせいで、自分がこんなにストレスに苦しめられていると思
っており、部下は、上司がもう少しましだったら、俺たちの仕事
のストレスは半減すると考えている。
・仮想的有能感が蔓延する未来社会がよいはずはない。われわれは
このような現実を把握して、足をひっぱりあうだけで協同できな
い社会がいかに効率が悪く、生産性に乏しいか、そして何よりも
いかに心理的に潤いがなく、心理的に疲労するかをよく考えるべ
きである。
・しかし、絶望することはない。人間は賢い動物である。これから
の時代、人間そのものをどう育てていくのかという知恵を出し合
って、危機を乗り越えていくだろう。私自身には妙案はないが、
子どもの教育という視点から、仮想的有能感から脱出するための
3つの提案をして、本書を締め括ることにする。
(1)本当の意味でのしつけの回復である。
(2)自尊感情を強化することである。
(3)多くの人たちに直接触れ、実際に自由にコミュニケーションで
きる場を増やすことである。
・人間は個性化も大切だが、それより前に社会化が必要であろう。
社会で共存して生きていくためには誰にも必要なことが習得され
なくては、まず人間というものの共通の概念が明確にならない。
大げさに言えば、社会化がなされなければ、生きていくために、
何がよいことで何が悪いことかの基準が形成されないことになる。
社会化が重ねられることで、社会生活をするうえでの自分を評価
するための妥当な基準も成立する。