笏谷石(しゃくだにいし)は、福井市足羽山付近で採取される火山れき凝灰岩です。その色味から、「越前青石」とも言われ、三国湊から北前船に積まれて遠くは蝦夷地まで運ばれました。きめ細やかでやや青みを帯びた色合いの良さに加え、軟らかく細工がしやすいので、墓石や石仏の材料として用いられたり、また敷石や塀などにも広く利用されました。福井に残る古い石造物の多くは、この笏谷石で作られています。笏谷石については、それだけでホームページ一つができてしまうほどの奥深いテーマです。ここでは、道ばたで目を引いた笏谷石の石造物をほんの少しだけ紹介します。
● 観音堂前に置かれた石(福井市花堂北2丁目)
小さな慈母観音堂の前に置かれていた石です。お堂に上がるための踏み石でしょうか。踏み石にしては龍が怖いので、逆にいたずらにお堂に立ち入らせないための魔除けの意味もあるかもしれません。
● 発掘された城の石垣(福井市中央1丁目)
駅前電車通り北陸銀行の前に展示してある福井城の石垣に使われていた笏谷石です。銀行建築の際に地下から出たもので、これが柴田勝家の築いた北庄城のものか、結城秀康の築いた福井城のものかは定かではありません。
天正9(1581)年、北ノ庄を訪れた宣教師ルイス・フロイスはその書簡の中で、城とその周囲の家の屋根が美しい色の石で葺かれていると記しています。勝家の時代には石垣だけでなく、屋根にも笏谷石が使われていたのでしょうか。ちなみに、福井市に隣接する丸岡市には、勝家の甥柴田勝豊の築いた丸岡城がありますが、こちらの天守閣は今でも笏谷石の石瓦で葺かれています。
● 福井城の石垣(福井市大手3丁目)
今に残る福井城の石垣です。中央の橋は御廊下橋といい、かつては本丸の西にかかる屋根のついた橋でした。橋の向こうに見える石垣が天守台で、築城当初は4層の天守閣がそびえ立っていましたが、寛文9(1669)年の大火で焼失してしまいました。
関ヶ原合戦後、この地に入国した結城秀康はただちに城の建設に着手し、慶長11(1606)年にほぼ完成を見ました。本丸の石垣は笏谷石のみで堅牢に築かれました。かつては広大な平城だった福井城も、明治維新後は規模を縮小されて、現在は本丸の石垣のみが残っています。
この写真を撮影した日は雨上がりの午後で、水を含んだ笏谷石がひときわ青く目に映りました。
● 継体天皇像(福井市足羽山)
足羽山山頂に建つ継体天皇像です。伝説によると、継体天皇は即位する前この地にあって、福井平野の治水や笏谷石の採掘を押し進めたと言われています。
この像は、そうした継体天皇の偉業をたたえ、明治16(1883)年、福井の石工らによって建てられました。笏谷石製のかなり大きなもので、見上げるとかなりの威圧感を感じます。
継体天皇像の建つ山頂の丘は4世紀後半から5世紀前半につくられた円墳で、石像の下から笏谷石製の舟形石棺が発掘されています。足羽山の尾根上には直径30メートル以上の噴丘が並び、足羽山古墳群を形成しています。これらの古墳からは笏谷石製の石棺が多く出土しています。すでに古墳時代から笏谷石の利用は始まっていたのです。
長年にわたった笏谷石の採掘は、平成11年をもって幕を閉じました。笏谷石は、歴史そのものを刻み、今に伝えてきたとも言えます。これからも道ばたで変わった笏谷石を見つけたら、ご紹介していきたいと思います。