泰澄寺

泰澄寺入口 本堂
雷池

 左上:泰澄寺入口
 右上:大師堂
 中左:雷の池
 中右:産湯の池
 左下:鐘楼と文殊山

 泰澄寺は、越の大徳泰澄大師の生誕地といわれ、大宝年間(701〜3)の創建と伝えられています。

 入り口付近は、写真のとおりちょっと狭いのですが、境内は以外と広く、うっそうと木が生い茂り静寂に包まれています。
 大師堂の裏手を下っていくと魚の泳ぐ池があり、その池のほとりに「産湯の池」「雷の池」と呼ばれる湧き水があります。傍らに立つ案内板によると、産湯の池は泰澄誕生の折、産湯に使った池とされ、長く手入れもされず木の葉に埋もれていたのを、昭和28(1953)年4月祈祷のうえ掃除したところ、付近一帯に白雪が降ったとか。そのとき、池の底から古い甕が見つかったということです。いっぽう雷の池は、泰澄がこの池に雷を封じ込めたため、この辺りでは落雷がないということです。日照りでも大雨でも水量が変わらず、かつてはこの水で目を洗うと、眼病が治るといわれていました。泰澄がこの水を御膳水としていたため、今でも毎朝お供えしているとのことです。
 境内にある梵鐘は、天正年間に寺が兵火にかかった際、境内下の浅水川に投げ込まれましたが、その後引き上げられて元の場所に納められたといわれています。またこの梵鐘には、不思議な伝説があります。鐘を鋳造するとき、大勢の人が鋳釜の中に銅銭を投げ入れるのを見たある女性が、自分も財布から銅銭を出して投げ入れようとしたのですが、間違って小判を投げてしまいました。小判惜しさに女の人は泣き伏してしまったのですが、果たして鐘が鋳上がってみると女の人の執念で小判が溶けずに鐘の下部に貼り付いていたといいます。今でもその小判の跡があるというのですが……。これは「喜捨」というものは文字通り喜んでしなければならないという戒めのようです。
 鐘楼の辺りから文殊山が見えます。泰澄が開山したとされる越前五山の一つで、三つの峰からなり、それぞれに泰澄自作と伝える仏像を祀っています。

【泰澄大師】
 泰澄については、『泰澄和尚伝』という大師の生涯を記した写本が神奈川県の金沢文庫に伝えられていますが、その内容は史実の裏付けがなく神秘的な逸話に満ちているため、信憑性が疑われています。その伝記をかいつまんで紹介すると、次のようになります。

 天武天皇の時代、西暦でいうと682年6月11日、父 三神安角、母 伊野氏の間に生まれた。誕生の折には季節はずれの雪が降るという奇瑞が現れた。子どものころの遊びといえば、泥をこねて仏像をつくることで、ほかの子どもと交わることがなかった。この地を訪れた道昭和尚から神童といわれ、大切に育てられたが、14歳のとき夢告により毎夜越知山(福井県朝日町)に通い修行を始めた。厳しい修行ののち、やがて悟りを開くまでになる。その名は都まで届き、21歳のときには文武天皇より「越の大徳 鎮護国家法師」の称号を賜った。そのころ能登島(石川県)から大師の徳を慕ってきた青年が弟子になり、臥(ふせ)行者と名乗るようになる。臥行者は空飛ぶ鉢を使って托鉢をしていたが、あるとき海上を行く船に向かって鉢を飛ばした。船頭が喜捨を断ったので、臥行者は怒って、船倉に積んであった米を次々と空に飛ばし越知山に運んでしまった。船頭はその神通力に驚いて、越知山に登り、非を詫びたうえで米を返してくれるように頼んだ。米は再び空を飛んで船に戻ったが、大師の徳に打たれた船頭もまたその弟子となり、浄定(きよさだ)行者と名乗り大師に仕えたのだった。大師は36歳のとき再び夢告を受けて、2人の弟子とともに白山に登り、千日間の修行に入った。この間、白山の登山口である勝山平泉寺に十一面観音と白山大権現を祀っている。のちに元正天皇の病を白山大権現の霊験を以て治し、神融禅師と号するようになる。また聖武天皇の時代、都に流行った疱瘡を鎮めたときに、天皇から泰澄の名を賜った。晩年は越知山で過ごし、768年3月18日越知山大谷寺において座禅を組んだまま入寂、86年の生涯を終えた。そのとき大師の身から光が放たれ、山々は金色に輝き、空からは蓮華が降り注いだという。

 鉢を飛ばして托鉢をする話は『信貴山縁起』が有名ですが、私はあの絵巻を見たとき、こりゃ「托鉢」じゃなく「強奪」だなと思ったものです。いくら神通力があるとはいえ、歩いて頭を垂れて喜捨を受けなければ修行にならないでしょうが……。
 それはさておき、謎は多い人物ではあっても、泰澄大師はここ越前ではかなりの有名人であることは間違いありません。今後の研究に期待したいところです。

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