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aこころの日本・こころの故郷
  

2000年12月某日

  
1.縁側

我が家に縁側のあったことを覚えていない。ということは縁側のあるような家に住んでいなかったことになる。物心ついた最初の家は日本橋瀬戸物町(昭和7年に本町に変わった)の大金自動車という一階がガレージで奥の方が助手という人達の寝室と事務所があった。事務所の向かい側、二階に上がる手前がお勝手になっていた。住まいは二階だから勿論縁側などはない。

二階東側の部屋の窓から裏の柴田(桂産業)さんの作業場が見えお茶の時間には、竹竿の先に篭をぶら下げてお茶菓子を入れて二階の窓の私に届けられる。近所に子供が少なくて可愛がられていたものであろう。当時からお菓子やキャラメルなどの甘いものが嫌いな私は、運転手さんや助手の人達に上げてしまい「久美ちゃんは大様(おおよう)だね」などと言われていたものである。
町中の二階住まいだからか窓は全部腰窓でここでは縁側は関係なかった。

昭和8年に理由は判らないが引っ越す事になる。
初めは、大森の森ヶ崎に引っ越すことに決まって母親や手伝いの人達とその家の掃除に行った。子供心にも広い家で長い縁側が庭に面してついていた。
掃除が終わって大勢で引き上げたところまでで、何故か実際に引っ越ししたのは牛込神楽坂上、赤城下町の今で言う3DKの小さな家だった。子供の私はなんの頓着もなく新しい家に親しんだが、この家は南向きの二畳の先に申し訳程度の濡れ縁が小さな庭に面してあるだけであった。

だいぶ後になって聞いた話だが、森ヶ崎の家は祖母が嫌だと言うので急に赤城下町のこの家に変更したのだそうだが理由は判らない。しかし森ヶ崎の家には大分後になって飛行機が墜落したという。結果的に我々は祖母に飛行機事故から救われた事になる。長い縁側とは縁がなかったけれど。

ここ(赤城下町)で祖母も父も亡くなり兄が兵隊に行き、禿びた濡れ縁も戦災で焼けてしまった。その後熊谷の市営住宅、雑司が谷、大泉と転居したが縁側とは縁がなく、途中大泉で濡れ縁を庭向きに取り付けたが今の所沢のマンションで遂に縁がなくなった。

2.原っぱ

昭和8年まで日本橋の我が家は三越前、昭和通りに向かってかつ節のにんべんに並んで古河銀行(現第一勧銀)があり、これについて左に曲がるとすぐ右側にあった。ここに小学校に入るまで住んでいた。

こんな都心にも当時はまだ所々に原っぱがあった。工事用の機材置き場であったのかも知れない。周りを囲んだ柵を潜って入り込み数少ない子供の遊び場にもなった。
家の右隣は黒田薬品という当時としては大きなビルであった。隅田川の川開きの晩には屋上に団扇(うちわ)を持った店員や近所の人達の花火見物の席が作られ枝豆やビールが並んでいたのを覚えている。当時は隅田川まで邪魔になる大きな建物がなかったのであろう。

このビルの隣に道を挟んで原っぱがあった。
近所にあった自転車屋の子供で一才下の男の子が唯一私の遊び友達であった。それでも近所に子供が少ないためか、大人たちが可愛がって滅多に二人だけで遊んだ記憶が少ない。「久美ちゃん、『助けてちょんまげ』して遊ぼう」腰に刀をさして遊びに来て原っぱに行き、柵の間に頭を突っ込んで抜けなくなって泣くこの子が手に負えなくて困ったことがあった。昭和通りの角に「おおくらみの原っぱ」<本当は大倉組>と呼んでいた資材置き場の原っぱもあって、偶には遊びにいった。

牛込神楽坂上の赤城下町に越してから、何時しか南側の家屋が何軒も取り壊されて広い原っぱになった。ここは子供達に好い遊び場として実に色々な思い出を残した。蜻蛉(とんぼ)もよく採れた。資材置き場であった事に変わりなく一二カ所に枕木のような角材が積んであった。この角材が崩れて近所の友達が大怪我をしたこともある。

小さな我が家の庭に接して二階家が建ち、原っぱは少し小さくなった。戦災でこの家に住む娘さんが焼け死に異臭が焼け野原に何時までも漂っていたのを思い出す。

熊谷の市営住宅は畑の真ん中。家から真っ正面に赤城山が見え冬には赤城おろしが直接吹き下ろしてくる厳しい原っぱだった。鍬形(くわがた)、蝉等の格好の猟場。

雑司が谷を経て大泉に移ると、南側の庭の向こうに白子川がコンクリートで護岸されて流れ、その向こうには大きな原っぱ。時々高校中学の息子たちとキャッチボールの遠投をした。40代後半で最後の原っぱ遊びだった。
この原っぱには今では住宅が何軒も建っている。

<・・・つづく>


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