父と私とは、合わない。彼も、そう言った。知性、理性、感性、世界観、社会観、価値観において父と私は対立する。ごく、ささいな日常的出来事が父と私を衝突させ、私に父への憎悪を抱かせる。私にとって価値あるものを、父は、ゴミとして捨てる。

 去年11月に退院したとき、彼の人間性を見直したのが間違いだった。彼の欺瞞を許容したのが間違いだった。何も変わってなかった。

 いま暴力的な衝動にかられている。彼を殺したい。

 彼は、私に暴言する。そして、それを撤回しない。謝罪もしない(父が他者に謝罪するのを私は見たことがない。父は謝るということを知らない人だ)。私は彼が怖い。それは、生まれた時から現在まで、そうだったように思う。

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 父も彼であり母も彼女であり、私も「彼」であるというように考えることにした。
 「彼」は、人生をしくじった。「彼」は、つまずいた。すべてなるべくしてなって、今日があると思うことにした。そしたら楽になった。  

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 73才になって、父も、ようやく変わったかと思ったが、間違いだった。相変わらずの欺瞞だらけの卑怯者だった。私は彼を父とは呼ばないことにする。「彼」と呼ぶことにする。母も「彼女」と呼ぶ。そして、私も「彼」である。神の前では、人はすべて人である。すべて三人称になることによって…父も母も自分も三人称で語れるようになって…ACの鎖がきれる。

 ACでない人が、自立すれば、彼らにとって親は「他人」になる。しかし、ACにとっては、父は父であり続け、母は母であり続ける。そして、ACは、父や母という足かせを引きずる。

 三人のゲームは終わった。いま、彼らは彼らに過ぎない。なるべくしてそうなった。すべて、なるべくしてなり、今日があると思えば楽になる。

(2003/03/15)

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