●プランクの量子仮説(量子論が生まれたキッカケ)
時は19世紀後半、舞台はドイツとフランスの国境、アルザス・ロレーヌ地域のことである。この地域は、普仏戦争(1870〜1871)でドイツがフランスから手に入れた土地で、石炭が多く採掘できることで知られていた。これに目をつけたドイツは、国を挙げてこの付近に製鉄業を興した。この製鉄業では、石炭と鉄鉱石を溶鉱炉にいれ、高温で溶かして鉄をつくる。この際、溶鉱炉内の温度を正確に知ることが重要なのだが、鉄が溶けるような数千度の温度を測れる温度計など存在しない。では、どうしていたのか?
モノは燃やすと、温度に応じて、さまざまな色の光を出す。そこで、技術者が炉の穴から中を、ひょいとのぞく。すると、いまは赤いから2000度ぐらい、さらに白っぽくなったから、およそ4000度(注)といったように、溶けた鉄の色の変化で温度を判断した。いわば、彼らの長年の経験とカンが頼りだったわけだ。
しかし、技術者の間では「経験やカンなどに頼らないで、溶鉱炉内の温度を正確に知る方法はないものか」という声があった。その声に答える形で多くの物理学者が、この問題に取り組みはじめた。
数多くの実験や測定が繰り返され、ある温度で熱せられモノが、どんな色の光を、どれだけ出すかが、詳しく調べられた。実験結果も大体まとまったのだが、なぜ、そのような結果になるのか、その原理が、うまく説明できなかった。それをきちんと理論づけようという試みを、物理学では「黒体放射の問題」と呼んだ。
そして、この研究が、はからずも量子論というミクロの世界の学問を生み出すキッカケになったのだ。(黒体放射について)
さて「黒体放射の問題」について、まずは、「黒体」という言葉について、ちょっと説明が必要だろう。
モノは熱すると、いろいろな色の光を出す。この時、温度と光の関係を、正しく知るためには、熱を加えると特殊な波長の光を出したり、同じ波長の光を吸収するような物質ではダメだ(色つきの物体は、その色に応じた光を発するのでダメ)。
そこで、黒いモノ(黒体)なら、いいだろうとなったわけだが、単純に炭や煤などを燃やしても、あまりうまくいかない。黒いモノの条件とは「温度に応じて、さまざまな光を出せるもの=いろいろな光を吸収するもの」である。面倒なことを省いて結論からいうと、この黒いモノの条件を満たすのは、じつは単なる鉄の箱だった。というより、この箱の内部の空間が黒体の条件にあっていたのだ(黒い物体は自分の温度に応じた波長の光を出すのでOK)。
この鉄の箱を熱すると、内部に光が充満する。すると充満した光は、温度に応じて、いろいろな光を出す。その光のスペクトルを温度ごとに調べていけば、ある温度で、どんな振動数の光が、どれだけの強さで含まれているかがわかるはずだ(鉄箱を熱すると鉄が光を放ち、箱の内部で放射・吸収を繰り返して、平衡状態になる。この光の振動数を調べるのがベスト)。
実験で測定した結果をまとめると「黒体放射の測定グラフ」が出来上がった(最も強い振動数の光の色が、人間の目に見える)。しかし、その実験結果が、なぜそうなるかという理由は一向にわからなかった。それで、当時の物理学者の多くは、この問題に頭を悩ませた。
ところで「スペクトル」という言葉について、少し説明しておこう。
スペクトルのもともとの意味は「混ざり合ったものを、それぞれ分ける」である。一般的に自然界の光は、さまざまな振動数と振幅(光の強さ)を持った光が混ざり合ってできている。こうした光を見た場合、私たちの目には「もっとも強い光の色」つまり「もっとも振幅が大きい光の振動数」が、その光全体の色として見える。強くて赤い光と、弱くて青い光が混ざり合っている場合、私たちの目には「この光は赤い」と認識されるのだ。(レイリー&ジーンズとウィーンの考え方)
物理学では、ある現象を証明するためには、必ず「物理の言葉」を見つけださなければならない。物理の言葉とは、つまり、数式のことである。黒体放射の問題も、やはり、その現象を説明する数式を探さなければならない。
イギリスのレイリーとジーンズは、当時の物理学(古典物理学)の考え方を土台にして、彼らなりの式をつくった。レイリーとジーンズの式
この式では、振動数の少ないところでは一致したが、振動数の多いところでは一致しなかった。要するに、彼らの考えた式では、黒体放射のスペクトルを説明できなかったわけだ。いまからすると、この結果は、古典物理学の重大な危機だったが、当時は、まだそんなふうには思わなかった。
また、ドイツのウィーンも黒体放射のスペクトルを説明する式をつくった。ウィーンの式
彼の場合は、大胆にも熱力学にもとづいて、光を粒子だと仮定した式を立てた。このウィーンの式は、まわりの人々には、不評だったらしい。なにしろ、当時、光は粒子ではなく、波だと考えられていたからだ。
しかし、ウィーンの式は、実験の結果と、よく似ていた。だが残念ながら振動数の少ないところでは、ずれが生じていた。(プランクが開いた量子論の扉)
イギリスのレイリーとジーンズの式でも、ドイツのウィーンの式でも、黒体放射のスペクトルを完全に説明することはできなかった。事態は暗礁に乗り上げてしまったかのようだったが、ここで、量子論の創始者とされる、ドイツの生まれのマックス・プランク(1858〜1947)が登場する。
長年、この「黒体放射の問題」に取り組んでいたプランクは、レイリーとジーンズの式、そして、ウィーンの式を見ながら、こう考えた。二つの式のうち、一方の式は、振動数の少ない時の実験結果に一致する。もう一方の式は、振動数の多い時の実験結果に一致している。ということは、「この二つ式の特徴を、うまくつなぐことができれば、黒体放射のスペクトルを説明できる式になるのではないか」と。しかし、実際には、どうすればいいのかわからない。
いろいろと考えをめぐらせた末、プランクが発見した方法は思いのほか簡単なものだった。下の二つの式を、よく見くらべてほしい。上がウィーンの式、下がプランクの式である。一見すると、まったく同じ式のような気がする。だが、よく目を凝らしてみると、下の式には「−1」という数字がある。![]()
このようにウィーンの式の分母から1を引いてやると、これが不思議義に黒体放射の実験結果とピッタリくることがわかった。これが、量子論の扉を開くキッカケとなった「プランクの公式」である。プランクは、さっそく、この新しい式を物理学会に発表した。まもなく、19世紀も終わろうとする、1900年12月14日のことだった。
プランクは自分の公式をさらに検討し、E=hν
(光のエネルギー)=(プランク定数)×(振動数)
※h=6.626×10-34[ジュール・秒]という式に達した。この定数hは「プランク定数」と呼ばれ、物理学における基本的な定数となった。
この式の中には、じつは革命的な考え方がひそんでいる。どんな考えかというと、振動数νである光のエネルギーは、1hν、2hν、3hν・・・というように、とびとびに変化し、0.5hνや1.25hνなどの半端な値はとれない、というものだ。つまり、「光のエネルギーは、必ず、ある決まった、とびとびの値を取る」、別の言い方をすれば「光のエネルギーは連続的ではなくて、非連続的に変化する」ということなのだ。
ある値が「とびとびの値を取る」とか「非連続的である」などという考え方は、古典物理学の中には、まったくない。古典物理学では、すべての量は切れ目なく連続的に変化できるものとされていたからだ。
このように非連続的で、とびとびの値しかとらない量について、その単位量を「量子」と呼ぶ。少し難しい言い方だが、光のエネルギーは、hνが量子である。そして、光のエネルギーは、hνを単位量とする考え方を「(エネルギー)量子仮説」という。
ただしプランク自身は古典物理学の信奉者であり「光のエネルギーがとびとびの値しか許さない」などという考え方には必ずしも納得していなかったとも言われている。(図解雑学 量子論 佐藤勝彦監修 ナツメ社より)
【注】読者から「4000度」は「現実とかけ離れた数字」であるという趣旨のご指摘を頂きました。科学的にコンテキストにおいて「摂氏4000度」という温度は高すぎますし、あり得ません。したがって、この温度の単位は摂氏ではなく華氏だと推察されます。華氏2000度は摂氏1093度に、華氏4000度は摂氏2204度に換算されます。
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