●粒子を見るか波動を見るか
ヤング型干渉実験もう一度ヤング型干渉実験を見てみよう。ただし、今度は波動像の追求ではない。ミクロ粒子が小孔a、bのどちらを通過するかを実験によって見ようというのである。これはむしろ「粒子像」の観測だ。不可分性によれば。粒子はaを通ったとすればbを通ることはないし。bを通ったとすればaを通ることはないはずである。これを確認するため、小孔a、bの出口に通過検出器DaとDbをおいて粒子の通過路を決める実験を行う。
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図(a)
図(b)
上の図(a)の上部または図(b)の下部の結果を得た場合のように、十分に弱い強度の粒子ビームを使い、粒子一個の通過を見るのである。Daが信号を出せば、粒子が小孔aを通過したことを知る。一方、Dbが信号を出せば、粒子が小孔bを通過したことを知る。「粒子性」の検証 --- 不可分性で強調したように、一個の粒子が分割されて二つの測定器に捕捉されることはない。これはミクロ粒子の「粒子性」を示す実験である。
この実験では、Daが粒子通過の信号を出した直後は、粒子はaの出口付近だけにいてbの出口付近にはいない。したがって、通路測定による波動関数の収縮はψ→ψaとなるはずだ。一方、Dbが粒子通過の信号を出した直後は、粒子はbの出口付近にしかいないから、通路測定は波動の収縮
ψ→ψbを引き起こす。通路測定による波動関数の収縮ψ→ψaとψ→ψbは、すでに述べたように、単純な波動現象ではなく互いに排他的な非因果的確率事象である。一方が起きれば、他方は起きない。なお、波動関数は検出器を通ることによって変化するが、簡単のため前と同じ記号を用いた。「非因果的」といったのは、初めの状態ψが同じでも、結果がψaになるかψbになるかわからないからである。サイコロを振る場合と同じ確率事象だ。
通過検出をするためだけならば、検出器を二つ置く必要はない。たとえば、Dbは取り除いてもよい。Daが信号を出す場合は前と同じであって、粒子の小孔a通過を意味し、波動関数の収縮はψ→ψaである。しかし、(描いてはいないが)ヤング型干渉実験の下方にある粒子射出器が粒子射出の信号を出した後、到着予定時刻を過ぎてもDaを出さない場合はどうか? 素粒子・原子核実験でよく使われるアンチ・コインシデンスという測定法である。このとき、粒子は明らかにaを通らずbを通過したわけだ。通路測定実験はこれで終了し、私たちは粒子の通過がbであったことを知る。当然、波動関数もψ→ψbのように収縮する。Daの信号の有無を「イエス」と「ノー」に対応させ、Daが信号を出す場合をイエス型測定(または肯定型測定)、出さない場合をノー型測定(または否定型測定)ということがある。後者の場合の「波動関数の収縮」は観測問題における一つの難問である。あとで議論しよう。
さて、この場合も多数の検出器をびっしりと植え込んであるスクリーンを使い、そこへの粒子到着を観測しよう。粒子一個ごとの実験では、やはりスクリーン上には一個のスポットが現れる。それを多数集めて重ね焼きすれば、Daが信号を出した場合(イエスの場合)の分布はPaに比例し、Dbが信号を出した場合(またはノーの場合)の分布はPbに比例することになる(ヤング型干渉実験参照)。結局、通過検出器による通路決定の実験はスクリーン上にPではなく、Pa+Pbという分布を作り出す。そこには干渉縞はない。したがって、粒子通路の測定、すなわち、「粒子像」の観測は干渉模様の消失という効果を生んだのである。
もとの図(ヤング型干渉実験)の実験のように、通過検出器を設置しなければ、すなわち、通路決定よる「粒子像」の観測をしなければ、スクリーン上に干渉模様が現れて「波動性」を明示する。誤解を招きやすい言い方だが、「波動性」を見ているときには量子力学的粒子(正確には確率振幅としての波動)は二つの孔の両方を同時に通っているのである。波動であれば当然だろう。あとで最近の中性子干渉実験について語るが、そこでは一個の中性子の波がマクロ的に離れている複数の経路を分かれて通る。粒子描像に固執していたのでは絶対に理解不可能な現象であり、徹底的な波動像の追求がそこにある。
いずれにしても、この状況は「波動像」と「粒子像」の同時観測が不可能であることを教えてくれるものだ。「波動像」と「粒子像」はボーアの意味で相補的なのである。
かつて、アインシュタインは、一方の小孔(例えば、a)の付近に小物体を置いて通過粒子と衝突させるような装置を工夫し、衝突によるその物体の反跳を測れば、干渉縞をそれほど損なうことなく通過経路が決定できるのではないか、という疑問を提出した。この疑問はもっともだ。なぜならば、他方の孔(b)が開いたままだから波動の一部はそこを通り、二つの孔を通った波が衝立上方で重ね合わされ干渉するかも知れないからである。このように、実行できるかどうかわからなくても、理想的な状況を設定して、結果を予測することを思考実験という。観測問題では、いろいろな思考実験が登場する。これに対してボーアは不確定性関係による定性的な考察でこれに反論した。この反論はそれほど面倒な話ではないので、紹介しておこう。小物体との衝突によって粒子がaを通ったと明言できるためには、小物体がb付近ではなく確かにa付近に存在していたといえなければならない。そのためには、小物体の衝立面に沿う方向(入射ビーム方向から見て横の方向)の位置の不確定性ΔxはD/2を越えてはいけない(Dは小孔間距離)。不確定性関係によれば、その位置の不確定性は(その方向の)小物体の運動量に2h/D以上の不確定性Δpを与える。衝突に際しては運動保存則が成り立つから、通過粒子はこれに等しい運動量不確定性をもらってしまう。したがって、粒子が衝立を出るときの角度は横の方向にΔp/pだけ不確定になり、スクリーンに到達したとき、横方向(スクリーン上の方向)に(Δp/p)R=(2λR/D)を越える位置の不確定性をもたらす(Rは衝立とスクリーンとの距離であり、ド・ブロイ波長の公式λ=h/pを使った)。この不確定性は干渉縞の山(または谷)の距離Rλ/Dを越えてしまい、明らかに干渉縞を破壊する。干渉縞が破壊されないためには、ΔxΔpがプランク定数hに比べてずっと小さくなければならないが、これは不確定性関係に矛盾するわけだ。要するに、「波動像」は通路決定の実験をしない場合に限ってみられるものだ。不確定性関係が「波動像」と「粒子像」の同時観測を妨害しているのである。
この定性的議論自身は、もちろん、決して間違いではない。長い間多くの物理学者はこの話を信じてきた。中にはこの話を基にして教科書を書いた人もいたほどである。ところが、最近(といっても十年ほど前)この定性的議論を量子力学による定量的計算によって確かめようとした若者が現れた。ズレク(W. Zurek)とウータース(W. Wootters)である。彼らは衝立下方の中心線から左側(小孔aの方)に一個の原子を置き、それと観測対象の粒子との衝突を量子力学の散乱理論によって丁寧に計算し、小孔a、bを通る確率とスクリーン上の確率分析を数値的に求めたのである。図からも大体の様子が想像できるように、結果は有意の確率の差をもって粒子がaを通るということだった。しかし、スクリーン上の干渉縞も消滅しなかったのである。ボーアの結論に反し、アインシュタインの疑問に与(くみ)するかのようだ。しかし、その結論も早すぎる。
ズレクとウータースは”一原子”測定器によって粒子の通路を見ることができるかどうかということだけを調べたのである。私の意見では、彼らの分析は”一原子”測定器では粒子の通路測定はできないと解釈すべきものだ。あとで詳しく議論するように、完全な通路測定を与える測定器は巨大な数の構成要素を含むマクロ系でなければならない。その意味では、”一原子”測定器によるズレク-ウータースの測定過程は不完全測定である。
なお、マクロ系が必ず完全測定を与えるというわけではない。中性子干渉実験における位相器など、測定器としては役に立たないマクロ系の例は数多くある。あとで論議するように、一つの装置が測定器として機能するかどうかを判定することは、観測理論の今日的な責務である。その視点からすれば、不完全測定の存在も観測問題の現実的な議論にとって重要であるというべきだろう。彼らの分析もその意味では面白い。ズレクはこの分析を足場にして独特の観測理論である環境理論にかかわっていった。
さて、先ほどの実験では、通過検出器の有り無しがそれぞれ「粒子像」と「波動像」の出現を決めていた。検出器の設置は観測者である人間の意志によるわけだから、人間の自由意志が「粒子像」とか「波動像」とかの「自然現象」の出現を決めているかのように見える。本当にそうか? もしそうだとすれば、これは「自然現象」の客観性に対する疑問を生む。また、量子論以前の自然界の中における人間存在に特別な優位性を与えたいという願望を生む。これは量子論以前の力学的自然観がもっていた決定論的宿命観の対極である。巨大で動かしようがなかった自然に対する人間存在の復権であるかのようだ。量子論をめぐる思想的流れの中で眺めていただきたい。(量子力学入門 並木美喜雄 岩波新書より)[前ページへ][ホームへ][目次へ][次ページへ]