●ホィーラーの遅延選択実験十年ほど前ホィーラー(J. Wheeler)によって提案された遅延選択実験は、まさにその点を突いたものだった。名目の由来はこれからの説明でわかると思う。下の図を見ていただきたい。
左上方から光のパルスを一個ずつ投入する。一個のパルスには平均で一個以下の光子しか含まないような極めて弱い強度の光を使う。丸印をつけた斜線M1とM2は半透明鏡、丸印のない斜線は完全反射鏡である。半透明鏡と完全反射鏡の間の距離は光パルスの長さに比べて十分大きくとってあるので、一個の光パルスは半透明鏡M1で二つに分けられた後、自分よりはるかに長い通路A、Bの中を旅行するのである。
実験(a)では、M1によって二つに分けられた光パルスが通路AとBを通って別々に検出器DAとDBに導かれる。平均光子数一個(以下)のパルスごとの実験だから、DAが光子を検出すればを検出すればDBが光子を光子を捕捉することはない。逆のこともある。これ第五章で強調した不可分性(すなわち、一個の粒子が二個以上の検出器に分割されて捕まることはないという性質)の結果である。実験(a)はまさに「粒子性」の観測だ。
実験(b)では、通路AとBを通った二つの分波を第二の半透明鏡M2に当てて再び重ね合わせ、検出器DAとDBとに導く。半透明鏡は反射光の位相を90度ずらすが、透過光の位相は変えない。完全反射鏡は反射光の位相は変えない。したがって、DAに入る光はAを通ってくる位相変化のない波とBを通ってくる位相が180度(=90度+90度)の波、すなわち、符号が逆転した逆位相の波の合成波であり、両者は完全に消し合う。すなわち、DAは信号を出すことがない。一方、DBに入る波は両方とも位相が90度ずれていて完全に同位相だから、DBは100%の確率で信号を出す(光子検出器の検出効率が100%であると想定した --- 実際はもっと低い)。実験(b)は明らかに「波動性」の観測である。この二つの実験は確かに「波動・粒子の二重性」の鮮やかな証明だ。
しかし、ホィーラーの本当の狙いは「波動・粒子の二重性」の証明にあるのではなく別のところにある。光のパルスがM1を通過したあとで、検出器の前に第二の半透明鏡M2を入れるかどうかを観測者である人間が選択せよというのである。「入れない」と選択すれば「粒子像」が現れ、「入れる」と選択すれば「波動像」が現れる。だが、光子はM1を通過したばかりのところでは、自分があとで粒子として現象するか、波動として現象するか知らない。すべては人間様の意志次第というわけである。しかも、検出器が検出するまでは、「粒子」か「波動」か現象自身が決まらない。光パルスがM1を通過した後でM2の挿入・不挿入を選ぶということで、この実験を遅延選択実験と呼ぶのである。
ホイーラーは大きな話が好きな人だ。上の(a)(b)は実験室実験だが、彼は(c)ように宇宙規模の大きさで問題を提起する。左の点は地球からはるか離れた天体であり、そこからでた光パルスが二つの分波ψaとψbに分かれて中央の非常に重い天体をまわって、右側の地球に到達する状況を想定するのだ。アインシュタインの一般相対性理論によれば、重い天体の重力は極めて強く光の進路を曲げる。重力レンズだ。中央の天体をまわる二つの経路がAとBである。地球上では、観測者が自分の意志で「粒子像」または「波動像」を見るための装置を用意して持っている。しかし、光が左の天体を出たのは、人類発生以前の遠い遠い昔だろう。まさに壮大な規模での遅延選択実験である --- 実際はどうやって実行したらよいかわからないが。実験室実験の方は1986年頃アメリカとドイツで実行され、ホィーラーの予想通りの結果が出た。そこで彼は強調する。「”記録”されるまでは”現象”はない」と。”現象”を「粒子」と「波動」に局限するかぎり、おそらくは彼は正しいだろう。だが、「現象」という言葉を最大限に拡張解釈し、何段階か飛躍してこの言明を言い換えればどうなるか? あるいは「宇宙は人間の登場と人間による認知を待っていた」という断言すら生まれるかも知れない。なぜならば、宇宙という「現象」は人間が観測して≪記録≫するまでは存在しないのだから! この断言を許すと、人間は森羅万象を決定する最高位の存在になってしまう。話としては大層面白い。決定論的な古典的自然観とはあまりにも違う。宇宙は人間に合わせて、または人間のためにできているという考えを「人間原理」ということにすれば、これは「人間原理」の極端な姿だ。読者の皆さんはどのように受け取られるだろうか?
これに似た話は以前からあった。すでに不確定性関係ΔxΔp=hをめぐる議論のところで、位置を精密に決めようと思えば(Δx→0)運動量が不確定になり(Δp→無限大)、運動量を精密に決めようと思えば(Δp→0)位置が不確定になる(Δx→無限大)といった。わざと「思えば」という言葉を使ったが、この表現は観測者である人間の主観的かつ恣意的な意志と行動を示すものだ。人間主観が量子世界の「現象」を支配するという発想もそこから生まれた。
不確定性関係は古典力学にはなかった量子力学の特質である。古典粒子は、いついかなるときでも、私たちが観測するとしないとにかかわらず、確定した位置と運動量をもっていた。その意味では古典的世界は観測者から独立した客観的存在であった。しかし、量子世界はまったく違う。遅延的選択実験もまたその相違点を突いていた。確固とした存在であった自然界が量子力学の出現でゆらぎ始めたかのようだ。
だが、本当にそうだろうか? 量子力的粒子は「粒子性」と「波動性」を本質的両側面としてもつ一つの「物理的実在」なのではないか。この視点からすれば、干渉実験における通過検出器の設置および遅延的選択実験における第二の半透明鏡の挿入・不挿入という選択は、両側面の一つを取り出してみる技術に他ならない。人間存在に特別の意味をもたせようとする右の議論は、「粒子」や「波動」という現象が、それぞれ独立(かつ排他的)に客観的実在に直結していた古典世界の視点が混入した結果生まれたもののようだ。波動・粒子の二重性やそれから生まれた不確定性関係は古典世界にはない量子世界の言葉(モデル)にとらわれて議論するものではなかろう。
まして、ミクロ粒子の粒子像や波動像というレベルの現象を一足飛びに宇宙にまで拡大するのは明らかに行き過ぎだ。宇宙現象との距離は極めて大きく、その間には数多くのステップがある。一挙に「宇宙は人間の登場と認知を待っていた」などという結論はでてこないと思う。不確定性関係の議論に戻れば、量子力学的粒子は、位置と運動量の分布が不確定性関係によって制限されるような一つの「物理的実在」と考えるべきものだ。位置と運動量の値の指定によって「現象」が確定するという考えはやはり古典的視点に属している。
とはいえ、量子力学的な「物理的実在」の内容は、確かに古典世界の場合ほどはっきりしていない。すでに述べたように、測定過程そのものは測定器の関与を取り入れなければ記述することはできなかった。これに対して、古典世界の観測では、測定器や観測者の存在を原理的には表面から消すことができ、「物理的実在」を素朴な形で容認することができたのである。古典世界で生きていた素朴実在論は、そのままでは量子世界では成立しない。したがって、量子世界の観測において、観測者はどのような役割を果たすのか、そして「物理的実在」と呼べるものが客観的に存在するのか、という疑問が付いてまわる。これは後述のアインシュタインの疑問にも通じるものだ(非局所的長距離相関)。量子世界の認識論はまだ確立しているとはいえない。(量子力学入門 並木美喜雄 岩波新書より)[前ページへ][ホームへ][目次へ][次ページへ]