●ノイマン-ウィグナー理論と「ウィグナーの友人」

 前章で私たちは、観測問題の中心である測定による「波動関数の収縮」が、測定器の与える分波間の位相相関の喪失として説明されることを見た。これは一応の解決である。ここでは、この問題が今までどのように議論されてきたかを話したい。同じ言葉で「波動関数の収縮」といっても、いろいろな内容解釈があって論争が絶えなかった。その背景には、量子力学の理論体系がそのものが正しいかどうかを問う深刻な対立があったのである。いずれも、興味深い思考実験やパラドックスが絡んでいて、私たちが問題の内容理解を深化させるのに役立つ。
 観測問題についての論争は大別して二つある。一つは、正統的量子力学の原理的設定(コペンハーゲン解釈)に対する疑問に根ざす論争であり、歴史的にはアインシュタイン-ボーア論争が有名だ。もう一つは、その原理的設定は認めた上で、測定による「波動関数の収縮」が現在の理論体系の枠内で説明できるかという疑問をめぐる論争である。物理学者の中には、その設問に対して「イエス」をいう人と「ノー」と答える人がいる。二十年少し前、肯定派であるローゼンフェルト(L. Rosenfeld)グループと否定派であるウィグナー(E. Wigner)グループの間で緊張感のあふれた激しい対立・抗争があった。前章での私の説明は肯定的立場に立つものである。私はそれが正しいと信じている。アインシュタインの疑問とそれをめぐる論争については、後のページで取り上げる。ここでは主として後者の論争や別種の観測問題について語りたい。どの論争にも「波動関数の収縮」が本質的なところでかかわっている。  

 ノイマン-ウィグナー理論と「ウィグナーの友人」
 量子力学が成立して、測定による「波動関数の収縮」の論理的必然性とその解明の難しさに人々が気づいた頃、ボーアやハイゼンベルクなどはその問題を次のように考えた。量子力学を適用すべき観測対象ミクロ系と古典物理学によって記述されるマクロ系である測定器の間の相互作用はコントロール不可能であり、そのためランダムな相対位相が生まれて、その結果「波動関数の収縮」が生じるというのである。今から見れば、説明ともいえないものだが、観測問題という問題意識に火を付けたという意味では歴史的な価値があろう。
 ミクロ系とマクロ系を峻別したいという気持ちはわからなことはない。量子力学がマクロ系のあらゆる局面まで支配すれば、私たちの思考、意志決定、行動さえもが不確定性原理の意味で不確定になるだろう。これでは、人間社会の成立すら怪しくなってしまう。マクロ系とミクロ系を完全に分けておくことができれば安心である。
 そこまで突きつめなくても、前章の最後に説明したように、ある状況の下で不確定性関係の制約が無視できる場合には量子力学は力学系に古典的な決定論的行動を許すものである。不確定性原理に抵触しない程度のほどほどの粗っぽさで、私たちの社会的行動は確定しているのだ。しかし、ほどほどのところで妥協せずに、原理的議論を徹底的に押し進めるのが西欧近代科学の精神である。観測問題はまさにその原理面の追究が中心課題なのだ。その目と心でこれからの話を聞いていただきたい。
 西欧の科学者の中には、自己の哲学的視点に立脚して科学研究を推進し、その科学研究の成果の上に自己の哲学的立場を構成しようとする強い意志を持つ人たちがいる。これは観測問題の勉強をしながら、私が身にしみて感じ取った印象である。西欧科学の本当の恐ろしさはその点にあると私は思うが、読者の皆さんはどのような感想をおもちだろうか。この種の精神は観測問題に限ったことではないが、量子力学の原理的諸問題、とくに観測問題をめぐる討論の中に強く出てくるものだ。なお、日本の科学者の中にも、同様な精神をもって開拓的な研究を進めた少数の人たちがいたことも忘れられない。
 話を元に戻そう。ミクロ系とマクロ系を原理的に峻別しようという考えはやはりおかしい。すでに前章の「シュレーディンガーの猫」の項で述べたように、マクロ系も構成要素に分解すれば、ミクロ系の集団になり、量子力学の適用対象だからである。ミクロ系にもマクロ系にも区別なしに量子力学を厳密に適用すべきだとしたのは、ノイマンとウィグナーであった。
 彼らは、その立場から”観測の連鎖”の各連結点の均質性を主張し、結局、物理過程では測定による「波動関数の収縮」は出てこないと結論して、”抽象的自我”とか、”意識”を導入したのだった。物理過程が「波動関数の収縮」を与えない第一の理由は、彼らがどこまでも「重ね合わせの原理」に固執したからである。「”波動性の検証”---波の干渉」の項で説明したように、干渉縞を与える干渉項は、二つに分けた分波を”重ね合わせた”結果として出てくるものであった。
 前章では、私たち、その干渉項が独立に行われた多数の実験の重ね焼き上で消えることを見た。観測対象粒子は検出器内の物質系と相互作用するのだが、その物質系はマクロ的には同じ状態でも内部運動のために、ミクロ的には時々刻々状態が変化している。したがって、次々に測定器に送り込まれる観測対象粒子は、粒子ごとに違うミクロ的状態の物質系に遭遇して相互作用をし、違った位相のズレをもらう。個々の粒子の分波間の相対位相は粒子ごとに違うわけだった。その相違位相がランダムな分布をした場合に限って、そのような多数の観測対象粒子が(下図の)スクリーンに到達して作った輝点を重ね焼きすれば、干渉項が消えるのだった。


ヤング型干渉実験の概念図
 

ノイマン-ウィグナーの理論では、観測対象粒子が遭遇する検出器内の物質系の状態はミクロ的にもまったく同じだと考えていたのである。したがって、検出器を通過する粒子はすべて同じ位相のズレをもつから、重ね焼きしても干渉項が消えるはずがない。それでは、物理的過程としての「波動関数の収縮」は実現しない。彼らは「波動関数の収縮」を生む主役が物理過程ではなく”抽象的自我”や”意識”だと考えたのである。ウィグナーはとくに”抽象的自我”や”意識”の役割に力点をおいて観測問題を考えてきた。
 したがって、ノイマン-ウィグナー理論では、形而上学的第三者ともいうべき”抽象的自我”や”意識”の助けを借りなければ観測・測定過程が完結しないことになった。その意味で、理論体系は自己完結的でなく、現在の量子力学は不完全だとウィグナーは主張するのである。
 量子力学的観測・測定問題を認識論的立場から検討することは、もちろん重要である。しかし”抽象的自我”や”意識”を持ち込む前に、前章で議論したように、物理的過程として考究しなければならない問題はたくさんあるのだ。結局、ノイマン-ウィグナー理論は間違った方法の迷路に踏み込んでしまった私は考える。
 シュレーディンガーは「猫のパラドクス」によって、彼らの理論を厳しく批判したのだった。このパラドクスの変形として、ウィグナーの友人というパラドクスがあるが、これは一段と面白い。猫の代わりに「ウィグナーの友人」を箱の中に入れるのだ。「友人」を殺してはまずいから、毒ガスの放出装置の代わりにランプをおく。放射性同位元素が励起状態にあって放射線が出なければ、検出器の信号電流はなくランプは点灯しない。基底状態に遷移して、信号が出ればランプは点灯する。すなわち、ランプの点灯と非点灯は、基底状態と励起状態に対応しているわけだ。「友人」はランプを凝視して記憶または記録する。たしかに、これも立派な放射性同位元素の状態測定である。ただし、箱は密室であり、ウィグナー先生は外にいるので、ランプの点灯状況を知るには、電話をかけてその友人に聞く必要がある。ただし、その友人は物理学者ではないので、ランプの点灯の意味を知らない。
 この装置による測定をノイマン-ウィグナー理論によって考えてみよう。その場合、測定による「波動関数の収縮」いつ起こるのか、という問題を考えるのだ。ウィグナー先生が「友人」に電話してランプの点灯状況を知ったときか、それとも「友人」がランプを見て記憶に留めたときか? 前者だとすれば、「友人」とランプが「シュレーディンガーの猫」の代替物だから、ランプの点灯と非点灯はウィグナー先生が電話するまでは決まらないことになる。そんなバカなことがあるだろうか! 後者だとすれば、”観測の連鎖”は「友人」のところでうち切られてしまう。その次の段階、すなわち、ウィグナーの先生が電話をかけるという操作は、放射性同位元素の状態測定に何の影響も与えない。したがって、この操作はその放射性同位元素の状態測定に関する(ノイマン-ウィグナー理論の意味での)量子力学的測定とはいえない。少なくとも、”観測の連鎖”の連結点の均質性が損なわれたことだけは明らかだ。
 これが「ウィグナーの友人」というパラドックスである。この場合、「友人」は「猫」と同様、記録装置として働いている。「友人」を自動記録器機に取り替えても同じことだ。結局、このパラドックスはノイマン-ウィグナー理論の破綻を意味していると、私は思う。だが、ウィグナーには、そこでも人間存在に単なる自然現象を越えるような意義を与えたいという思いがあるようだ。ウィグナーは自分の理論をあえて”正統的理論”という。
 ノイマン-ウィグナー理論はその結論の奇矯さにもかかわらず --- いや「そのために」というべきかもしれないが --- かなり多くの物理学者や哲学者を魅了した。また、逆に激しい反発を買った。そこには明らかな哲学的立場の反映がある。しかし、その理論に与(くみ)する人も反対する人も、ノイマン-ウィグナー理論を観測問題の議論の出発点に据える場合が多い。六十年にもわたる観測問題をめぐる論争は彼らの理論から始まったのである。それほどこの理論の影響力は大きかった。(量子力学入門 並木美喜雄 岩波新書より)  

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