●不可逆過程型増幅理論と「否定型測定のパラドックス」--- 測定器のマクロ的動作と「波動関数の収縮」との混同当然のことながら、ノイマン-ウィグナー理論に反発して、まったく別種の観測理論がいくつか現れた。その重要なひとつが不可逆過程型増幅理論である。
ふつう、観測対象のミクロ粒子のもっているエネルギーは、マクロ尺度で見れば極めて小量であり、マクロ系である測定器を作動させるにはとても足りない。したがって、測定器を動かすには、エネルギー供給を目的として増幅過程を組み込む必要がある。これがこの理論の大前提だ。
霧箱、泡箱、カウンターなど、よく使われているミクロ粒子の検出には、必ずといってよいくらい増幅過程が組み込まれている。ミクロ尺度の物理量をマクロ尺度にまで拡大して観測するための工夫のひとつである。その増幅過程としては、通常、熱的な不可逆過程と呼ばれている物理過程を使う。「熱的な不可逆過程」というのは、たとえば、マッチが燃えて灰になるような(逆の過程が起こらないような)現象のことをいう。端的な例としては爆発現象などがある。カウンターの中ではまさに爆発的な放電現象が起きる。このような熱的な不可逆過程では、初めに存在していた秩序ある量子力学的な位相相関は完全に破壊されてランダム化すると考えられている。その効果によって「波動関数の収縮」が起きると主張する観測理論が、この不可逆過程型増幅理論である。
この発想は極めて常識的であり、形而上学的第三者の介入を嫌う多くの人たちに受け入れられた。とくに、1958年にオーストラリアの物理学者グリーン(H. Green)が熱的不可逆過程の特徴をうまく捉えた簡単な測定器モデルを発表してからは、支持者が増えたようだ。日本でも、坂田など指導的な物理学者の多くがその理論に賛意を表した。”抽象的自我”や”意識”の助けを借りずに済んだということで、安心したのだ。その後、この方向の研究はイタリアの物理学者ダネリ(A. Daneri)、ロインゲル(A. Loinger)、プロスペリ(G. Prosperi)によって、観測過程の一般論として定式化された。当時発展しつつあった不可逆過程の動力学的統計力学の手法を持ち込んだのである。この研究に対して、ローゼンフェルト(L. Rosenfeld)は「これで観測問題の本質は解決された。後は細かいつめの研究があるだけだ」といって激賞したのである。
しかし、やはり観測問題は終わらなかった。この理論には大きな落とし穴があった。そこを鋭く突いたのが、ドイツの物理学者レニンゲル(M. Reninger)のいう否定型測定のパラドックスである。このパラドックスはなかなか面白い。もう一度、シュテルン-ゲルラッハ実験における否定型測定(下の図)の場合を思い出していただきたい。「イエス」の場合、すなわち、検出器Daが信号を出したときは、たしかにDaの中ではカウンターの放電のような熱的不可逆過程が起きているから、それによって「波動関数の収縮」が実現したと主張することができるかもしれない。しかし、「ノー」の場合、すなわち、粒子射出器が信号を出し、Daが信号を出さない場合はどうか? すでに説明したように、この場合でも、測定は終了し「波動関数の収縮」は実現しているのである。だが、検出器Daの中では熱的不可逆過程は起きていない。つまり、熱的不可逆過程に依存せずに、「波動関数の収縮」を伴う測定過程が完結したわけだ。カウンター放電のような熱的不可逆過程は、測定過程としての「波動関数の収縮」そのものではなかったのだ! まさに、否定型測定は、不可逆過程型増幅理論という観測理論に対して、深刻かつ解決不可能なパラドックスを突きつけたのである。
「否定型測定のパラドックス」を武器にして、不可逆過程型増幅理論に強烈な反撃を加えたのはウィグナーである。その前にも、グリーンの測定器モデルは「波動関数の収縮」を与えないというファリー(W. Furry)の指摘があったことも忘れられない。ウィグナーは(イタリアの物理学者たちの)不可逆過程型増幅理論へのローゼンフェルトの賞賛に強く反発し、ヤオホ(J. Jauch)および柳瀬睦男との連名論文で激しい批判を浴びせた。1967年のことである。彼らの反論には二つの根拠があった。そのひとつが否定型測定のパラドックスであることはいうまでもない。
もう一つは、ノイマン-ウィグナー理論の発展ともいうべきものであり、たとえ熱的不可逆過程を使っても、「波動関数の収縮」は出てこないという数学的証明である。要するに、「波動関数の収縮」を与える相対位相のランダム化は---熱的不可逆過程が介入しても---前項で説明したと同様の理由で実現しないというのだ。数学的詳細に立ち入ることは止めるが、ノイマン−ウィグナー理論では、相対位相をランダム化した前章のメカニズムは考慮されていないのだから、「波動関数の収縮」が実現しないのは当然である。しかし、そのような数学的証明によるウィグナーの批判は、前章で展開した「波動関数の収縮」の解明に対しては当てはまらない。したがって、この批判はあまり意味がないと私は考える。
しかし、「否定型測定のパラドックス」による批判は本質的に重要だ。結局、このパラドックスが致命傷になって、不可逆過程型増幅理論は死んだ。最近の観測問題に関する国際会議では、この種の理論にお目にかかることはない。
二十年少し前のことだが、ウィグナーとローゼンフェルトの論争はすさまじかった。ウィグナー派がローゼンフェルトを批判した論文には、「このような誇張した(賞賛の)文章は感じやすい読者の反発を買うだろう」と書いてある。それに対してロインゲルは激しい言葉でそれに応酬し、まったく同じ言葉を投げ返した上、最後にイタリア語の捨て台詞「Chi si contenta gode.」で締めくくっている。これはイエスの言葉「心貧しきものは幸いなり」に通じる成句だそうで、イタリア人たちは翻訳不可能だという。ぴったりしないが、「多くを望まない者は幸福だ」といっておこう。嘲笑の際に皮肉を込めて使うらしい。これは正に喧嘩だ。
個人的な回想で恐縮だが、その頃、私は客員研究員としてコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に滞在していた。ある時、ローゼンフェルトの「量子力学の認識論における最近の論争」と題する特別講義があり、それに出席する機会を得た。量子論の発展期に多く使われた歴史的記念物ともいう講義室に集まった満員の聴衆の前で、彼は不可逆過程型増幅理論を説明し、ウィグナー派との論争について語った。詳しい内容はもはや忘れたが、彼がウィグナーに対して非常に怒っていたことを思い出す。私が観測問題に興味をもったのも、彼の講義を聞いたためかも知れない。
さて、もう一度「否定型測定のパラドックス」に戻ろう。すでに指摘したように、このパラドックスは、カウンター内放電のような熱的不可逆過程が測定による「波動関数の収縮」そのものでないことを教えてくれた。測定による「波動関数の収縮」は逆過程がないという意味では不可逆過程だが、カウンター内放電など熱的不可逆過程とは本質的に違う。両者はひとまず峻別すべきものである。カウンター内放電は測定による「波動関数の収縮」の結果をマクロ尺度にまで増幅してディスプレイするために、測定器に組み込まれた二次的な物理過程である。ディスプレイという意味では、「放電」も「無放電」も同列に考えるべきものだ。測定による「波動関数の収縮」が引き金となって、その両者のどちらかひとつを確率的事象として実現させたのである。
「無放電」の場合、すなわち、否定型測定の場合でも、素朴コペンハーゲン解釈のように、検出器側の分波が消えることはない。その分波はやはり検出器物質と相互作用しており、「波動関数の収縮」をつくる。量子力学では、波動関数との相互作用が直ちに”事象”に直結しているわけではなかった。
前章で述べたように、測定による「波動関数の収縮」にとっては、検出器のマクロ性が本質的に重要である。しかし、その際も注意したように、また第九章の「中性子干渉実験いろいろ」の項でよい例を見るように、マクロ系をもってくれば、必ず「波動関数の収縮」が実現するというものではない。逆は必ずしも真ならずだ。
また、測定器のマクロ的行動、たとえば、計器の針の運動を「波動関数の収縮」に直結させようと試みる観測理論が多数あった。ノイマンの最初の発想もそのようなところから出てきた。しかし、否定型測定のパラドックスが教えるところは、計器の針の運動のようなマクロ的行動もディスプレイのための二次的な過程にすぎないということである。量子力学系のマクロ的行動またはマクロ系の量子力学(マクロ量子効果など)はそれ自体面白い問題ではあるが、「波動関数の収縮」と測定器のマクロ的行動とを同一視してはいけない。これは専門家でもしばしば間違える点である。くどいようだが、繰り返し注意しておく。
ミクロとかマクロとかいっても、それが具体的に何を意味するかをはっきりさせておく必要がある。不可逆過程型増幅理論は、大前提として、観測対象ミクロ粒子のエネルギーが小さすぎるので、不可逆的にマクロ系による増幅過程を必要とするいった。そこには、ミクロ粒子のエネルギーがいつも小さいという”常識”がある。まるで、それがミクロ性の本質であるかのようだ。しかし、これは必ずしも正しくない。宇宙から地球に飛来する一次宇宙線粒子の中には一ジュールほどの(またはそれを越えるような)マクロ的大きさのエネルギーをもつものがある。そのエネルギーをうまく使う手段があれば、増幅過程などはいらないだろう。
増幅過程が測定過程にとって本質的なものかどうかについても、もう少し議論を追加しておきたい。不可逆過程型増幅理論では、ミクロ性が増幅過程を要求し、増幅過程が不可逆過程を呼び込んで「波動関数の収縮」を実現するとしたからだ。この考えの反例として、写真乾板によるミクロ粒子の飛跡の測定を取り上げよう。
原子核や素粒子などのミクロ粒子に感光するよう特殊な処理を施した写真乾板測定装置を原子核エマルジョンという。写真乾板には臭素と銀の化合物である臭化銀という物質が含まれている。このままでは直接人間の目には見えないが、現像処理すれば、銀の析出したところが黒くなって、飛跡として観測できるのである。この場合、現像処理が増幅過程であることはいうまでもない。しかし、その現像処理は任意の時間たったあとでやってもよいのだ。いつやってもよい増幅過程が本質的な測定であるはずがない。本質的な飛跡測定はミクロ粒子が飛来して銀を析出したところで終わっている。すなわち、増幅過程と測定過程を同一視する不可逆過程型増幅理論は間違いだ。
なお、現像処理の仕方によって飛跡の太さ(すなわち、増幅度)を自由に選べることは注意してよい。これは飛跡測定の精度に関係する問題だ。精度を上げるということでいえば、エマルジョンの中の臭化銀集団の粒が小さければ小さいほどよい。現在、性能のよいエマルジョン内の臭化銀集団の粒に入っている分子数は、ミクロ的には依然として非常に多いが、マクロ的にはかなり少ない。どの程度の数の粒子集団が関与すれば「波動関数の収縮」が実現するのかという設問は、観測問題本来の興味であり、物理としての測定過程を詳細に分析して答えるべき問題だ。不完全測定についての議論を思い出していただきたい。単に言葉の上だけでミクロとかマクロとかいって、観念的に区別しても仕方ない。今では、ミクロとマクロの中間ともいうべきメソスコピックという視点が現実のものになってきている。ミクロとマクロの間には明確な境界線はないのである。
また、霧箱、泡箱、原子核エマルジョンによる粒子飛跡の測定は、検出器を多数分布させておいて行う連続観測である。連続観測問題と呼ばれている面白い話題だが、この本で取り上げる必要はないだろう。(量子力学入門 並木美喜雄 岩波新書より)[前ページへ][ホームへ][目次へ][次ページへ]