「欧州学術」には「物理,化学,分析,植物,地理,歴史及語学」のほかに, 「統計,法制,経済,政治及外交方面に於ても,幾多の緊要なる学問は存する なり。然るにこれらの学問はわが国に全然知られおらず,生等の目的はす なわちこれら一切の学問を習得するにあり・・・右の外尚哲学と呼ばるる方面 の学問も修めんと欲す。我国法の禁断に属する宗教思想は,往時デカルト,ロッ ク,へーゲル,カント等の唱道したる所のものとは相違し居れり。これまた学 ぶにすこぶる困難なるべきも,想ふに斯学の研究はわが国文化の向上に裨益す るところ少なからざらんや。故に予は万難を排し,その一端なりとも学ばんと 欲するなり。」(有斐閣選書『日本近代哲学史』pp.16-17)
小生頃来西洋之性理之学,又経済学抔之一端を窺候処,実ニ可驚公平正大之論 ニ而,従来所学漢説とは頗端を異ニし候処も有之哉ニ相覚申候,尤彼之耶蘇教抔 は,今西洋一般之所奉ニ有之候得共,毛之生たる仏法ニ而,卑陋之極取へきこと 無之と相覚申候,只ヒロソヒ之学ニ而,性命之理を説くは程朱ニも軼き,公順自 然之道ニ本き,経済之大本を建たるは,所謂王政ニも勝り,合衆国英吉利等之制 度文物は,彼蕘舜官天下之意と,周召制典型之心ニも超へたりと相覚申候,… (有斐閣選書『日本近代哲学史』pp.18-19)
総テ箇様ナコトヲ参考シテ心理ニ徴シ,天道人道ヲ論明シテ,兼テ教ノ方法 ヲ立ツルヲヒロソヒー,訳シテ哲学ト名ケ,西洋ニテモ古クヨリ論ノアルコト デゴザル,今百教ハ一致ナリト題目ヲ設ケテ,教ノコトヲ論ズルモ種類ヲ論ジ タラバ此哲学ノ一種トモ云フベクシテ,子細ハ若シ一ツノ教門ヲ奉ゼバ其教ヲ 是トシ,他ノ教ヲ非トスルコト常ノ事ナルニ,百教ヲ概論シテ同一ノ旨ヲ論明 セントニハ余程岡目ヨリ百教ヲ見下サネバナラヌコトデゴザル(有斐閣選書 『日本近代哲学史』p.21)
私は現代の日本の開化ということが諸君によく御分かり になって居るまいと思う。御分かりになって居るまいと思うと云うと失礼ですけ れども,どうもこれが一般の日本人によく呑み込めて居ない様に思う。日本の現 代の開化を支配している波は西洋の潮流で,その波を渡る日本人は西洋人ではな いのだから,新しい波が寄せる度に自分がその中で居候をして気兼をしているよ うな気持になる。新しい波は兎に角,今しがた漸くの思いで脱却した旧い波の特 質やら真相やらも辨えるひまのないうちにもう棄てなければならなくなって仕舞っ た。食膳に向かって皿の数を味わい尽くすどころか,元来どんな御馳走が出たか はっきりと眼に映じない前にもう膳を引いて,新しいのを並べられたのと同じ事 であります。
これを一言にして云えば,現代日本の開化は皮相上滑りの開化 であるという事に帰着するのであります。
しかしそれが悪いからお止しなさいというのではない。事実已むを得ない涙 を呑んで上滑りに滑っていかなければならないというのです。
とにかく私の解剖したことが本当の所だとすれば,我々は日本の将来という ものに就いてどうしても悲観したくなるのであります。
朝永は,哲学が存在論であるとともに価値論でもあってその哲学の情意的 態度を表現する以上,それぞれの哲学が「個性」と「時代」との表現である ことを認め,民族や国家の政治的状況とその時の哲学のタイプとの間に対応 関係のあることを指摘する一方,共通の地平の上で哲学の可能なタイプの分 類を行なってそれらを相対化する努力も忘れなかった。(pp.53-54)
プラトンのイデヤと いうのは色々の意味を有っているであろう。古来考えられた如く永遠不変なる 形而上学的実在として,真の原因という如き意味を有っているであろう。また, ロッツェより西南学派の人々に渡って考えられた如く,真理の標準という如き 意味も有っているであろう。しかしソクラテスの人生問題に源を発したプラト ン哲学のイデヤは固,実践の意義を有し,それから色々の問題に触れ,色々の 意味を包み込んだと考えることができる。そして何処まで行っても,その基調 を失わなかったと考えることができる。善のイデヤに始まって,善のイデヤに 終ったという如き見方をすることもできると思う。生き延びるものの幸福を疑 い,何らの疑惑なく死に就くことのできるには,斯く為し得る所以のものがな ければならない。ダイモニオンの声を開き得たソクラテスには,ソクラテス的 イロニーの態度でよかったであろう。ダイモニオンの声を聞くことのできなかっ たプラトンには,これに代る生命の源が見出されなければならない。ダイモニ オンの声の代りに深い思索の力と芸術的直観に恵まれていたプラトンは,イデ ヤを見出したということができる。哲学的思索の根源たるエロスは神でもなけ れば人間でもない,ダイモニオンである。イデヤは永遠なる生命の内容として 見られたものでなければならない。イデヤは「有るもの」の根源として原因と も考えられるであろう。しかしそれは近世科学において考えられる如き意味に おいての原因というべきものではない。それはむしろ表現の根底としてパラデー グマという如きものである。またイデヤは判断の標準,行為の標準として規範 という如き意味を有っているであろう。しかしそれはカント哲学において考え られる如き意味において規範というべきものでもない。それはエロスの対象と して生命の源という如き意味を有っていなければならない。そこにプラトンの イデヤの長所もあれば短所もあると思う。 プラトンに比しては近代科学的というべきア リストテレスは,プラトンの行方を逆に,個物的なるものを中心として考えた, 個物的なるものを実在とした。そういう意味においてアリストテレスの『形而 上学』中の数篇のみでも彼をして千古の思索家たるに価せしめるものと思う。 彼こそは過去幾千年における真に偉大なる哲学者であった。アリストテレス は学者であった。しかしプラトンは偉大なる人であった。そして我々は彼の書 を読むにつれて今なお彼の思想の深さ大さに驚かざるを得ない。シラーはホメ ロスを詩の海といったが,プラトンは思想の海とでもいうべきであろう。その 後の哲学者の仕事は彼の饗宴の残物といえるかも知れない。(昭和六年七月)
敬神とは,また不敬神とは,殺人が問題であれその他のことが問題であれ,ど のようなものであると君は主張するのかね。それとも敬虔はあらゆる行為におい てそれ自身と同一ではないのかね。また他方,不敬虔は,いっさいの敬虔と反対 であるけれども,それ自身とは同じ性格であり,いやしくも不敬虔であるかぎり のものはすべて,その不敬虔という点において,ある単一の相 (
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) を持っているのではないか ね。
それでは覚えているかね。ぼくが君に要求していたのは,そんな,多くの敬虔 なことのうちのどれか一つ二つをぼくに教えてくれることではなくて,すべての 敬虔なことがそれによってこそ,いずれも敬虔であるということになる,かの相 そのもの(
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)を教えてほ しいということだったのをね。だって,たしか君は,不敬虔なことが不敬虔であ るのも,敬虔なことが敬虔であるのも,単一の相(
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)によってであると主張していたのだからね。…それならば, その相それ自体(
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)がいったい 何であるかをぼくに教えてくれたまえ。ぼくがそれに注目し,それを規準として 用いることによって,君なり他の誰かなりが行う行為のうちで,それと同様のも のは敬虔であるとし,それと同様でないものは敬虔でないと明言することができ るようにね。
さてもし誰かが私に,「ソクラテス,それらすべてのことがらにおいて,君が <速さ>と呼んでいるものは何であるというのかね」と尋ねたとすれば,「短い 時間に多くのことをしあげる能力を,私は<速さ>と呼ぶのだ──話すことでも, 走ることでも,その他何に関することでも」と彼に答えることでしょう。…それ では,ラケス,いまの流儀であなたも,<勇気>を言ってみてください。快楽苦 痛その他先に挙げたあらゆるところ(重甲戦,騎馬戦その他あらゆる種類の戦い, 海難,病い,貧乏,政治上の事件,苦痛や恐怖,欲望や快楽などが挙げられてい た。)に,同じものとしてあるそれは,そもそもどのような能力であって,それ で<勇気>と呼ばれているのですか。
ところでソクラテスは,倫理的方面の事柄についてはこれを事としたが,自 然の全体についてはなんのかえりみるところもなく,そしてこの方面の事柄に おいてはそこに普遍的なもの(
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)を問い 求め,また定義することに(
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)初め て思いをめぐらした人であるが,このことをプラトンはソクラテスから受け継 いで,だがしかし,つぎのような理由から,このことは或る別種の存在につい てなされるべきことで感覚的な存在については不可能であると認めた。その理 由というのは,感覚的事物は絶えず転化しているので,共通普遍の定義 (
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)はどのような感覚的事物に ついても不可能であるというにあった。そこでプラトンは,あの別種の存在を イデアと呼び,そして,各々の感覚的事物はそれぞれその名前のイデアに従い そのイデアとの関係においてそう名づけられるのであると言った。けだし,あ るイデアと同じ名前をもつ多くの感覚的事物は,そのイデアに与ることによっ て
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,そのように存在するという のであるから。ところでここに「与ること」と言ったこの言葉だけはかわった 点である。というのは,ピュタゴラスの徒は存在する事物がそのように存在す るゆえんをを数に「まねること」によって (
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)であると言っているが,それをプラト ンは,この言い方だけ変えて,「与ること」によってとしているのであるから。 しかしとにかく,エイドスに与るとかまねるとかいうことはいったい何のこと か,このことについては彼らはこれを共同の研究課題として我々に残した。
2つのことが正当にソクラテスに帰せられよう。すなわち帰納的な論法と普 遍的な定義をすることが。というのは,これらは両方とも認識の出発点だから である。その時には,ソクラテスはその普遍的な諸概念あるいは諸定義を,離 れて存在するものとはしなかった(
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)。しかるに,あの人々は, それらを切り離した,そしてそのように離れて存するものどもをイデアと呼ん だ。
ある人々はこれら1の様々な善いものの他 に,これらから離れて,そのもの自 体として存するある善があり,それがこれらすべての善いものが善であること の原因であると思いなしていた。(4章)実際〔すべての善いものに〕共通に述語される善,もしくは,すべての善い ものから離れてそのもの自体として存する,ある善そのものが一なるものとし て存するとしても,そのようなものは,明らかに,人間の行為によって実現さ れうる善でも,人間の行為によって獲得されうる善でもないであろう。(6章)
アリストテレスの"修正"は,いわばイデア論の過激な性格に節度を与え, またその論理的不整合を整理しなおしたが,その結果として,プラトンの「イ デア」とそのアリストテレス的翻訳である「最高善」とは,ほとんど異質な思 想となっている。そして,わたしの考えでは,イデア論のもつ重要な思想的核 心はそこで消えてしまっている。(p.158)
だがプラトンは,さらに感覚的事物とエイドスとの他に,これら両者の中間 に,数学の対象たる事物が存在すると主張し,そしてこの数学的対象をば,一 方,それらが永遠であり不変不動である点では感覚的事物と異なり,他方,エ イドスとは,数学的諸対象には多くの同類のものがあるのに,エイドスはいず れもそれぞれそれ自らは唯一単独であるという点で異なるとしている。なおま た,エイドスは他のあらゆる存在の原因であるから,それぞれのエイドスの構 成要素はまたあらゆる存在の構成要素であるとかれは考えた。すなわち,質料 としては「大と小と」が,実体としては「一」が,そうした原理であるとした。 というのは,「一」に与ることによって「大と小と」から数は存するに至るか ら,というのであった。
一方が他方よりも大きいというすべての場合において,そのものが,他より 大きいのは,他の何によってでもなく,まさに<大>によってそうあるのだ。 すなわちそれは,<大>というその原因・根拠によって,その時他より,大き なものとしてあることになるのだ。また比べられて小さなものが…
わたしは,ケベス,若い頃には,あの「自然についての探求」とよばれる知 識を求めることに,もう熱中していたのであった。なんと,それは並外れてす ごい知識であることか,とわたしには思われたのだ。それぞれのものが,いっ たい何を原因として生じ,また何を原因として消滅し,また何を原因としてい ま存在しているのかという,そのおのおののまさに原因・根拠となるものを知 るということは! そこでわたしは最初にまず,次のような問題の検討に着手 しながら,自分の考えをなんども上へ下へと変転させ,まさにめくらむおもい をしたのであった。…ひとが,<大きくなる>というそのことは,何に原因し 根拠づけられているのか,ということだ。以前には,これはだれにも明らかな こと,つまり,飲食によってであると思っていた。すなわち,食物をとれば, 肉には肉が,骨には骨がつき,その他もまたおなじようなわけで,身体の各成 分にはそれに同種のものがつけ加わる。かくしてそのとき,小さいかさであっ たものが,大きいかさのものになってしまうのであり,で,まさにそのように して,<小さな>ひとが,<大きな>ひととなるのだ,と。こう当時は,考え たのだったが。
1に1を加えたときに<2となった>のは,加えられた方の1なのか,それとも, 加わった方の1なのか。あるいは,この,加わった1と加えられた1とが,一方 の他方への付加ということに原因して,<2となった>のか。それすらそうと は自分に納得できないからだ。なぜって,不思議ではないのか。このそれぞれ が互に離れてあったときには,そのそれぞれは確かに<1>であって,そのと きにはまだ2というものはなかったのだ。それなのに,それらが互いに近づい たとなると,おやいったい,この,集まってきたといううごきが,つまりそれ らが互いに近く置かれたというそれだけのことが,そもそも<2>が生ずる原 因となったのだろうか? つぎには,また1を分断したとすると,今度は,その 分断ということが,<2>が生じたことの原因となったのだと,わたしはもは や納得できないのだ。なぜなら,それでは<2>が生ずることの原因が,前と は反対になるからである。つまり前の場合では,互いに近くに集められ,一方 が他方に付加されたことが,原因だとすると,今度の場合は,一方が他方から 遠ざけられ,分け離されたことが,原因だということになるのだから,ね。さ らには,そもそも<1>というのが生ずることの原因は何であるのか,それを 知っていると,わたしはもはや自分を納得させえないでいるし,さらにまた一 言で言えば,他のいかなるものにしても,――そのものが生じたり消滅したり, またいま存在するというのはいったい何を原因・根拠としてあることなのか―― わたしは,もはや以上のような探求の方途によっては,自分に納得できないで いるのだ。
美そのもの,のほかにも,なにかが美しくあるとすると,それが"美しくあ る"というのは,かの<美そのもの>をまさにそれが分有しているからなので あって,けっして他のなにを原因としているのでもない。そして,そのことは 他のすべてについても同様である。
ひとがもし,このしかじかのものは,鮮明な色彩をもっているがゆえに美しい とか,あるいは形状のゆえにだとか,その他それに類するものを原因としてあ げたにしても,わたしはそのような一切のものには別れをつげる。というのも, そのようなもののうちにおいては,いつもわたしは混乱させられるからだ。で, 単純に,そしておそらくは愚直にでもあろうが,わたしは自分にこのことだけ をかたく保持しているのだ。すなわち,――このものを美しくあらしめている のは,ただかの<美>自体の,現在といおうか,もしくはそれの共有といおう か,あるいはまた,それがそこに生ずることがいったいいかなる仕方でまたい かなるふうにあるにせよ,とにかくそれ以外にはない――と。わたしはいまそ の生じ方についてまでは,なにも強く主張はしない。しかしとにかく,美しい ものは,すべて<美>によって,美しくあらしめられているのだ,とは強く主 張する。それは自分に対しても,人に対しても,もっともたしかな答え方であ ると,わたしには思われるからだ。これさえ掴まえておけば,蹉趺することは けっしてないはず,つまり,――<美>によって,美しいものは,美しい―― と,自分にも,どんな人にも答えるのがたしかであるように,思えるのだ。
目が太陽の光によってものを見る視覚を十分に働かせることができるように,魂 も「<真>と<有>が照らしているものへと向けられてそこに落ちつくときには, 知が目覚めてそのものを認識し,その魂は知性を持っているとみられる。…この ように,認識される対象には真理性を提供し,認識する主体には認識機能を提供 するものこそが,<善>の実相にほかならないのだと,確言してくれたまえ。そ れは知識と真理の原因なのであって,確かにそれ自身認識の対象となるものと考 えなければならない」が,<善>は知識や真理とは別のものであり,さらに美し いものである。つまり「太陽は,見られる事物に対して,ただその見られるとい う働きを与えるだけではなく,さらに,それらを生成させ,成長させ,養い育む ものでもある」ように,「認識の対象となるもろもろのものにとっても,ただそ の認識されるということが,<善>によって確保されるだけでなく,さらに,あ るということ・その実在性もまた,<善>によってこそ,それらのものにそなわ るようになるのだと言わなければならない──ただし,<善>は実在とそのまま 同じではなく,位においても力においても,その実在のさらにかなたに超越して あるのだが」。
<善>は<悪>と相関し対立するイデアであるが,《善》は通常の意味での 善悪の区別,価値と反価値との対立を超えて,両者をともに根拠づけている究 極の根源価値である。 「よいこと」をまさに<善>として本当に知ることが,それ自体有益でよいこ とであるのはいうまでもないが,「悪いこと」を「よいこと」と混同せずに, まさに<悪>として本当に知ることもまた,そのこと自体は有益でよいことで ある。このような事態を成立させている最終的な根拠が《善》であり,そして 《善》でしかありえない。(p.127)
世にもすぐれた人よ,君はアテナイという,知力においても,武力においても 最も評判の高い,偉大なポリスの一員でありながら,ただ金銭を,できるだけ多 く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて,恥ずかしくないの か。評判や地位のことは気にしても,思慮と真実には気を使わず,たましいを, できるだけすぐれたよいものにするように,心を用いることもしないというのは, と言い,もし諸君のうちの誰かが,これに異議をさしはさみ,自分はそれに心を 用いていると主張するならば,その者をわたしは,すぐには去らしめず,またわ たしも立ち去ることをせず,これに問いかけて,しらべたり,吟味したりするで しょう。
魂はすべて不死なるものである。なぜならば,常に動いてやまぬものは,不 死なるものであるから。しかるに,他のものを動かしながらも,また他のもの によって動かされるところのものは,動くのをやめることがあり,ひいてはそ のとき,生きることをやめる。したがって,ただ自己自身を動かすもののみが, 自己自身を見すてることがないから,いかなるときにもけっして動くのをやめ ない。それはまた,他のおよそ動かされるものにとって,動の源泉となり,始 原となるものである。
過去全体にわたってつぎつぎに伝承されきたった記録に従えば2, 至上の天は全体においても,またそれに固有などの部分に おいても,明らかに何ら変化があったとは見えないからである。…これこそま さに古人が土・火・空気・水のほか,何か別種の第一物体が存在すると考え, その最高の場所をアイテールと名づけた所以である。
運動は中断することなく常にあるのでなくてはならないがゆえに,第一に動 かすところのある永遠なものが――一つにせよより多くにせよ――あり,この 第一の動かすものは動かされえないものでなければならない。
もし動かされるものがすべて何かによって動かされるのであり,最初の動か すものは動かされるが,他のものによって動かされるのではないとすれば,そ れはそれ自身によって動かされるのでなければならない。(アリストテレス 『自然学』第8巻5章)しかしもしその第一動者が動いているものであるとするなら,先の一般原則から この動者自体が別の動者を内部に持たなければならず,後者はさらに別の動者を 必要とする,というように無限遡及が生ずる。したがってどこかにこの原因系列 の始まりがなければならず,それは論理的に動かすものと動かされるものが区別 できないものでなければならない。したがってそれはもはや動かされ得ないもの でなければならない3。
…従って動かされないで動かすものがあり,これは永遠なものであり,実体 であり,現実態である。欲求されるものや思惟されるものがこのように動かす のである。つまり動かされることなく動かすのである。
ところで目的は不動のものの内に入るということはその目的を区分してみれ ばわかる。つまり目的には利害を受けるものと,目標とされるものとが区別さ れる5。これらのうち一方は不 動なものだが他方はそうではない。一方は愛されるもののように動かすのであ る(
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)が,他のものは動 かされて動かすのである。
この自体的な思惟はそれ自体でもっとも善なるものをその対象としており, もっともすぐれたものを対象とするのはもっともすぐれた思惟である。この知 性は思惟対象を分け持つことによって自分自身を思惟する。というのは知性は 思惟対象に触れ,思惟することによって思惟対象になり,その結果,知性と思 惟対象は同じものとなる。というのは思惟対象,つまり実体を受け入れ得るも のは知性であるが,知性は現実態としてそれを所有しているからである。従っ て,知性が神的な状態であると思われるのは受け入れ得る状態よりも所有して いる状態の方である。そしてこの観照(
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)は 最も快いもの,最も善いものである。それゆえもし神が,我々はほんの僅かし か与れぬこのような善い状態に常にあるのだとしたら驚くべきことである。も し神がよりいっそう善い状態にあるのだとしたら,さらに驚くべきことである。 しかし実際神はそのような状態にあるのだ。しかも彼には生命さえも属してい る。というのは彼の持っている知性の現実態は生命であり,彼こそ現実態だか らである。彼の自体的な現実態は最善にして永遠の生命である。かくて我々は 神こそ永遠にして最善の生命であり,従って絶えることなく永遠な生命と永劫 を持っていると主張する。というのはこれこそ神だからである。
- (a)
- 神は道徳的存在ではなく知性であるから,神に正義のような「道徳的」 卓越性を配することは不合理である。
- (b)
- 神の知性はもっぱら「観想」つまりそれ自体,自己目的的な知的直観 でなければならない。
- (c)
- 神が永遠に自己同一的であるためには,その対象は常に同一であり, それにふさわしい対象は,神自身の ほかには何ひとつとして存在しない。
古代ギリシアの哲人。アテナイにおいて活動、半生を市民の道徳意識の改革にささげ た。問答を通じて相手にその無知を自覚させ(汝自身を知れ)、このような自覚から出 発し、相携えて真の認識に到達しようと努めた。真の認識とはソクラテスにおいては、 実践的能力(徳)そのものを意味した(知行一致)。この努力はアテナイ市民に受けいれ られず、告発されて死刑に処せられた。著書はなく、その教説は弟子プラトンによっ て叙述された。(前470―前399)
(18)ソクラテスは,石工(彫刻家)ソプロニスコスと,プラトンも『テアイテ トス』(149A)のなかで述べているように,産婆パイナレテとの間に生まれた子 で,アテナイ人であり,アロペケ区に属していた。
銭を儲るとか,家事を見るとか,あるいは軍隊の指揮や民衆への呼び掛けに活 動するとか,その他にも官職につくとか,また徒党を組んで,騒動を起こすと かいう,今の国家社会に行われていることには,関心を持たなかった。
(36)初めのうちはがみがみと小言を言っていたが,のちには彼に水をぶっか けさえしたクサンティッペに対して,彼はこう応じた。「ほうら,言っていた ではないか。クサンティッペがゴロゴロと鳴り出したら,雨を降らせるぞと。クサンティッペががみがみ言い出したら我慢しておれないとアルキビアデスが 言ったのに対しては,「いや,ぼくはもうすっかり慣れっこになっているよ。 滑車がガラガラ鳴り続けているのを聞いているようなものだものね」と彼は答 えた。
(37)「そして君だって」と彼は続けた。「鵞鳥がガアガア鳴いているのを我慢 しているではないか。」そこでアルキビアデスが,「でも,鵞鳥はわたしに卵 やひよこを生んでくれます」と言うと,「ぼくにだって,クサンティッペは子 供を生んでくれるよ」とソクラテスは切り返した。
なかに入ると,今しがた縛めをとかれたばかりのソクラテスと,クサンティッ ペ――無論,あなたは知っているでしょう――が,子供さんを抱いて,かたわ らに座っているのが,目にとまった。わたしたちを見るなり,クサンティッペ は,悲しみの声をあげて,こういう場合,女の人がよく言うようなことを言う のだった。ソクラテス,あなたが仲よしのみなさんと,こうしてお話しできるのも,もう これが最後なのですね。
すると,ソクラテスはクリトンの方に目をむけて,
クリトン,誰でもいいから,これを家へつれて行ってもらいたいのだが。
と言った。そして胸をうち,泣きさけんでいるその人を,クリトンの召し使い の者が連れ去ったのだった。
わが国の政治のあり方というものは,隣国の法制をあわてて真似たようなも のではない。われわれは他国の模倣をするよりも,むしろわれわれが彼らの模 範となるのである。わが国の政治は,少数者の手中にあるのではなくて,多数 者の手によって行われるのであるから,民主主義と呼ばれているのであるが, しかし個人間の争いに対しては,何人にも法律は平等の権利を保障し,各人が 何らかの領域において頭角をあらわすなら,公の名誉は,そのすぐれた能力の ゆえに,かれに与えられ,かれの所属の如何を問わないのが,われわれの評価 の仕方である。
(19)ある人たちによると,彼はアナクサゴラスの弟子だったということである が,そのうえまた,アレクサンドロスが『哲学者たちの系譜』のなかで述べて いるところによると,ダモン6の弟子で もあったということである。そしてアナクサゴラスが有罪の判決を受けたのち, 彼は自然学者のアルケラオスの弟子となったのであるが,そのアルケラオスか ら想いを寄せられることにもなったとアリストクセノスは述べている。
哲学史上最大の実践家であったソクラテスは,当時の実際的なアテナイ市民 の目には,およそ非実践的な空論家にすぎないと見られていたのである。この 皮肉な食い違いこそ,プラトンが,『パイドン』(70C)『国家』(488E)『ソフィ スト』(225D)『政治家』(299B)などにおいて,繰り返し問題にしなければなら なかったことなのである。プラトンの解釈では,関係は逆になって,ソクラテ スこそ真の政治家,真の実践家だったのである。しかし実践とは,何なのか。 『クリトン』(46B)のなかで,ソクラテスはクリトンの脱獄の勧めを前にして,「愛するクリトンよ,きみの熱意は,大いに尊重しなければならない。もし何 か正しさを伴っているのならばね。しかしそうでないと,それは大きければ大 きいだけ,いっそう厄介なことになる。だから,きみの言うようなことを,な すべきか否か,ぼくたちはしらべてみなければならない」
と言いながら,さらに,
「というのは,ぼくという人間は,自分でよく考えてみて,結論として,これ が最上だということが明らかになったもの(=ロゴス)でなければ,ぼくのう ちの他のいかなるものにも従わないような人間なのであって,これは今に始まっ たことではなくて,いつもそうなのだ」
と語っている。空論家ソクラテスは,空論を空論のままにしておくのではなく て,それを行動と生活の実際においても,用いようとしたのである。否,彼自 身の生死さえ,それに賭けて,悔やむことがなかったのである。実践というの は,単なる情熱,単なる行動のことではない。むしろそれらを抑えて,ロゴス に従わせることだったのである。(pp.76-78)
アウグスチヌス【Aurelius Augustinus】初期キリスト教会最大の思想家。初めマニ教を奉じ,やがて新プラトン哲学 (特にプロティノス)に転じたが,遂にミラノで洗礼を受け,生地北アフリカ に帰りヒッポの司教に就任,同地で没。その神学の核心は,人間は神の絶対 的恩恵によってのみ救われる,教会はその救いの唯一の伝達機関である,地 上の国家は神の国たる教会の精神的嚮導を受けるべきである,の三点。著 「告白」「三位一体論」「神の国」など。聖オーガスチン。(354―430)
【摩尼教・末尼教】ペルシアのゾロアスター教を基本とし、キリスト教と仏教の要素をも加味 した宗教。三世紀中頃のペルシア人マニ(Mani)を教祖とする。善は光明、悪 は暗黒という二元的自然観を教理の根本とし、教徒は菜食主義・不淫戒・断 食・浄身祈祷をする。ゾロアスター教の圧迫でマニは磔刑に処せられ、この 宗教の活動の中心は後にサマルカンドに移り、ウイグル人の間に拡がった。 唐の則天武后の時に中国に伝わり、12世紀頃まで行われた。(『広辞苑』より)
339年頃〜397年。ガリア総督の子。アエミリア・リグリアの総督となり, ミラノに坐す。374年,信者の要望により,受洗し,叙品され,ミラノの司 教となる。死に至るまで教会と民衆の擁護のために活躍した。ギリシア語に 通じ,東方教会の神学を西方に紹介した。勝利の女神の像を元老院に回復し ようとするシュンマクスに反対して論争し,その企てを挫折させた。 (『世界の名著・アウグスティヌス』p183注(5).)
宴楽と泥酔,好色と淫乱,争いと妬みとを捨てよ。主イエス・キリストを 着よ。肉欲を満たすことに心を向けるな。
偉大なるかな,主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく,その知恵は はかりしれない。しかも人間は,小さいながらもあなたの被造物の一つの分として,あなたを讃 えようとします。それは,おのが死の性を身に負い,おのが罪のしるしと,あ なたが「たかぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを,身に負うてさまよう 人間です。
それにもかかわらず人間は,小さいながらも被造物の一つの分として,あなた を讃えようとするのです。
よろこんで,讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者,それはあなたです。 あなたは私たちを,ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心 は,あなたのうちに憩うまで,安らぎを得ることができないのです。(ア ウグスティヌス『告白』第1巻1章1節冒頭)
すべての物事は隠されてあるから,それゆえ,誰も何事をも主張したり, 断言したり,同意したりしてはならないと考えた
人は真理の発見に到達できなくとも,真理を追求するならば至福であるとい う命題は,私たちのキケロの考えなのです7。いかなるものも人間によって認知され得ない。知者に残されていることは真 理の熱烈な追求以外には何もない。というのは,知者が不確実なものに同意す るならば,たとえそれが真理であろうとも,知者は誤謬から解放されえないか らである。誤謬は知者にとって最大の咎なのである 8。
理性 君自身を知りたいと望む君は君が存在することを知っているか。(Tu qui vis te nosse, scis esse te?)わたし 知っている。(Scio.)
理性 どこから知っているか。(Unde scis?)
わたし 知らない。(Nescio.)
理性 君は君を単純なものと感じるか,それとも複雑なものと感じるか。 (Simplicem te sentis, anne multiplicem?)
わたし 知らない。(Nescio.)
理性 君は君が動かされていることを知っているか。(Moveri te scis?)
わたし 知らない。(Nescio.)
理性 君は君が思惟することを知っているか。(Cogitare te scis?)
わたし 知っている。(Scio.)
理性 故に,君が思惟するということは真である。(Ergo verum est cogitare te.)
わたし 真である。(Verum.)
その(真理の確かさを確認する)方法はこうである。何人も,すべて自らが 疑っていることを認めるものは,(この限りにおいて,この疑っていることを 真とする点で)一つの真を認めるのであり,彼はその認めるこの一事について 確かである。すなわち,それゆえ,真なる一事について確かである。それゆえ, はたして真理があるかどうかを疑うものはすべて,彼自らの内に,ある真(な る一事)を持っていてそれについては疑わない。しかるに真(である)と言われ るいかなるものも,真理によってではなくしては,真ではない。ゆえに,いや しくも何かを疑う者は,真理について疑うことは許されない。見よ,これらの 事を見るとき,ここに人はかの(真の)光を見る。それは時間的・空間的なる いかなる広がりをも有せず,かかる広がりの影をも有しない。これらの真理は, 推理する人々が死んでも……滅びない。推理はかかる真理を作るのではなく, ただ発見するのである。故にかかる真理は,発見される以前にもそれ自らにと どまっており,そしてわれわれがこれらを発見したときには,これらはわれわ れを新たなものに変える。
自己が生き,想起し,知解し,意志し,思惟し,知り,判断することを誰 が疑おうか。たとい,疑っても生きており,疑うなら何を疑うのか記憶して おり(あるいはそれを意識しており),疑うなら自己が疑っていることを知 解し,疑うなら自己が確実であろうと欲しているのだ。疑うなら思惟してお り,疑うなら自己が知らないということを知っている。疑うなら彼は軽率に 同意してはならないと判断しているのだ。...Viuere se tamen et meminisse et intellegere et uelle et cogitare et scire et iudicare quis dubitet? Quandoquidem etiam si dubitat, uiuit; si dubitat, unde dubitet meminit; si dubitat, dubitare se intellegit; si dubitat, certus esse uult; si dubitat, cogitat; si dubitat, scit se nescire; si dubitat, iudicat non se temere consentire oportere.
わたしが欺かれているなら,わたしは存在する。なぜなら,存在しないもの は欺かれもしないからである。故に,私が欺かれるなら私は存在するのであるか ら,私が存在することについていかにして欺かれようか。私が欺かれるなら私 が存在するということは全く確かなのであるから。それゆえ,たとい私が存在 することを私が知っているということについては,疑いもなく私は欺かれては いない。このことからさらに次のように続けられるであろう。私は,自己が知っ ているということを知っていることにも欺かれないのだ。なぜなら,自己が存 在することを私が知っていると同様,自己が知っていることをも私は知ってい るからだ。(『神の国』11.26)Si enim fallor, sum. Nam qui non est, utique nec falli potest; ac per hoc sum, si fallor. Quiargo sum si fallor, quo modo esse me fallor, quando certum est me esse, si fallor? Quia igitur essem qui fallerer, etiamsi fallerer, procul dubio in eo, quod me noui esse, non fallor. Consequens est autem, ut etiam in eo, quod me noui nosse, non fallar. Sicut enim noui esse me, ita noui etiam hoc ipsum, nosse me.
たとえば,世界は一つであるかそれとも一つでないか,どちらかであるとい うことは私は確かに知っている。…カルネアデスは,この判断は虚偽と似てい ると言うであろう。同様にして,私たちの住んでいるこの世界は,形体的なも のの本性によって秩序づけられているか,あるいは何らかの摂理によって秩序 づけられているか,どちらかであるということを私は知っている。…いずれに しても,世界は以上の命題のいずれかにあてはまるのであって,このような選 言命題は真実であり,どんな人も,それが虚偽と何らかの似相を持っていると いう理由で,それらを拒否することは不可能である。
さらにあなた(カルネアデス)は尋ねるであろう。もし君が夢を見ている時 でも,君が今見ている世界は存在するのかと。わたしに現れているものが何で あれ,それを世界と呼ぶのだ,と私はすでに言った。…わたしたちがいる形体 的なものの全集積や仕組みは,わたしたちが夢みていようと狂っていようと, あるいは目覚めていようと正気でいようと,一つであるか一つでないか,どち らかであると。夢や狂気のために虚偽として現れるものがたしかに身体の感覚に属するとい うことは,今や十分明らかであるとわたしは思う。というのは,3の3倍は9で あり,それは知性的数の平方であるということは,たとえ人間という種族が鼾 をかいて眠っていても,必然的に真実でなければならないからである。
理性 …今,真理と真なるものという二つの言葉があるとする,この二つの言 葉によって二つの事柄が意味されているのか,それともただ一つの事柄が意味 されているのか,どちらときみには思われるかね。わたし 二つの事柄だと思われます。と申しますのは,たとえば純潔と純潔なも のとが異なっているからです。さらにこういう類のものは多くあります。それ で,真理と真なるものと言われるものとは別々のものだとわたしは信じます。
理性 この二つのうちどちらがすぐれているときみは考えるかね。
わたし 真理の方だと思います。純潔は純潔なものによって生ずるのではなく, 純潔なものが純潔によって生ずるからです。同様に,さらにもし何か真なるも のが存在するならば,それはまったく真なるものは真理によって存在するから です。
なぜなら,真なるものが真理によって真であるように,似ているものは類似 によって似ているのである。それゆえ,真理は真なるものの形相(forma)であ るように,類似性は類似しているものの形相である。したがって,真なるも のは存在する限りにおいて真であり,根源的な一に類似している限りにおい て,それらは存在するのである。根本原理に最も類似しているものは,存在 しているところの全てのものの形相であり,真理である。なぜなら,そこに はいかなる類似性も存しないからである。
知恵は多数ではなく一つであり,その中に,無限な,あるいは有限な知性的 諸物の宝が含まれている。そして,その一つの知恵によって造られた可視的可 変的な諸物は,この知性的諸物の中に,自己の見えざる不変的な根拠を持って いる。(『神の国』第11巻10章)一切事物の根拠(rationes)が神の精神の内に含まれており,そして,この神 の精神の内に,ただ永遠なるもの不変なるものが恒存していさえすれば――か かる事物の原理的根拠をプラトンはイデアと呼んだが――,ただにイデアは存 するのみでなく,かかるイデアは,永遠なるがゆえに真であり,不変的に止住 し,そして各事物はこれに与ることによって,そのものとしてあるのである。 (『八三の諸問題』第46問2節)
この上なく純粋なものとしてのこの知性には,第一の始源以外のところから は決して生じえないというのが,当然のことでなければならない。またひとた び生ずる時は,すでに自分自身とともに存在のすべてを生むのでなければなら ない。すなわち,それは美しいイデア界の全体と,知性的な神々の全部を生む のである。(プロティノス『エンネアデス』V1,7)またプラトンの三段説もこれによるのである。すなわち彼は, 「全て万物の王たるものの周囲には第一次的なものが,また第二次的なものは 第二級の事物の周囲に,また第三級の事物の周囲には第三次的なものが」 9ということを主張しているのである。 そして一切の原因となるものについても,さらにそれの父となるものがあるこ とを語っている10。この場合,彼が原因と言っているのは,知性のことなのであ る11。すなわち彼のいう知性は世界制作 者12なのであって,この者が魂をかの混合 容器13の中で作るのだと主張して いるからである。他方,この原因者――すなわち知性という存在――の父とし ては,知性をも存在をもかなたに超越するところの善が挙げられている。そし て多くの場所で彼は,この存在と知性とをイデアとして語っているのである。 したがってプラトンは,善から知性が出,知性から魂が出ていることを知って いたわけである。(プロティノス『エンネアデス』V1,8)
あなた(エヴォディウス)にとっては魂はいかなる技術をも自己の中に携え ていないのであり,それに対して,わたしにとっては,魂はすべての技術を自 己の中に携えていると考えられるわけです。その理由は,学ぶということは記 憶すること,想起すること以外の何ものでもないからです。
こうして,魂は不死なるものであり,すでにいくたびとなく生まれかわって きたものであるから,そして,この世のものたるとハデスの国のものたるとを 問わず,いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから,魂がす でに学んでしまっていないようなものは,何ひとつとしてないのである。だか ら,徳についても,その他いろいろの事柄についても,いやしくも以前にもまた 知っていたところのものである以上,魂がそれらのものを想い起こすことがで きるのは何も不思議なことではない。なぜなら,事物の本性というものは,す べて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学 んでしまっているのだから,もし人が勇気をもち,探求に倦むことがなければ, ある一つのことを想い起こしたこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼ん でいるわけだが――その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのも のを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求すると か学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することに他ならないから だ。
外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内なる人に住んでいる。そ して,あなたの本性が可変的であることを見い出すなら,あなた自身をも超え なさい。しかし,記憶しなさい,あなたが超えて行く時には理性的魂をもあな たが超えて行くことを。それゆえ,理性の光そのものが点火されるそのところ へと,向かって行きなさい。
もし君が私の言う所を認めないで,はたして(私の言うこれらの事が)真で あるか否かと疑うならば,少なくとも,これらについて疑っているそのことを 疑うか否かを考えてみよ。そして,もし君が疑っている者であることが確かで あるならば,これが何によって確かであるか(どこからこの確さが来るか)を 探求せよ。それは決して今見ているこの太陽の光によってではなく,(彼方か ら)この世に来て,すべての人を輝かす真の光によってである。
新プラトン派の流れをくむアウグスティヌス,及びその傾向のスコラ学 14,特 にフランチェスコ会15学派の主張する認識論の原理。われわれの神認識のみなら ず,自然認識も,神の光の直接の「照明」illuminatioによって可能と説く。 これによると形而下の認識も超自然的な信仰の賜物となり,いっさいの知識に 神秘的な悟りを必要とする。そのゆえにアウグスティヌスは哲学者を神を愛す るものと定義し,ボナヴェントゥーラ16は諸学が神学に帰するという。この説は 対象に対応する自然認識の根拠(感覚,能動的理性17)を認めないので,理性と 信仰あるいは哲学と神学の境界が本質的に不分明。しかし中世神秘主義に与え た影響は極めて大きい。13世紀,アリストテレス的傾向のトマス・アクィナス から反対にあった。
1 初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。2 この言葉は初めに神とともにあった。
3 すべてのものは,これによってできた。できたもののうち,一つとしてこれに よらないものはなかった。
4 この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。そして,闇はこれに勝たなかった。
6 ここに一人の人があって,神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。
7 この人はあかしのために来た。光についてあかしをし,彼によってすべての人 が信じるためである。
8 彼は光ではなく,ただ,光についてあかしをするために来たのである。
9 すべての人を照らすまことの光があって,世に来た。
10 彼は世にいた。そして,世は彼によってできたのであるが,世は彼を知ら ずにいた。
11 彼は自分のところに来たのに,自分の民は彼を受け容れなかった。
12 しかし,彼を受け容れた者,すなわち,その名を信じた人々には,彼は神 の子となる力を与えたのである。
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そこで私は,それらの書物18から自分自身 にたちかえるようにとすすめられ,あなたに導かれながら,心の内奥に入って ゆきました。それができたのは,あなたが助け主になってくださったからです。 わたしはそこに入ってゆき,何かしら魂の目のようなものによって,まさにそ の魂の目をこえたところ,すなわち精神をこえたところに,不変の光を見まし た。それはだれの肉眼によっても見られるあの普通の光ではなく,それと同類 だがもっと大きく,はるかに明るく輝き,その明るさで万物をみたすような光 でもありませんでした。私が見たのはそういう光ではなく,このようないかなる光とも全く別のもので した。それは,油が水の上にあり,天が地の上にあるような仕方で私の精神の 上にあったのではなく,私を造ったがゆえに私の上にあり,造られたがゆえに 私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り,この光を知る者は 永遠を知る。それを知る者は愛です。
いやむしろ,彼の内には何一つなかったからこそ,彼からすべてのものが 生まれたのであり,有るものがありうるために,まさにそのために彼自身は 有るものではなくて,それの産出者なのである。そしてこれが,第一番目の 言わば産出なのである。というのは,かのものは何ものをも求めず,また持 たず,必要としない状態にあるので,まさに完全なものであるから,いわば 溢れ出たのであり,かのもののこの充溢が他者を作り出したわけである。ところで,この生まれたものは,かのものの方へ向き直って,満たされて, かのものを見ているものとなった。そしてこれがヌースなのである。またか のものの方を向いてのそれの立ち止まりが,有るものを,またかのものへ目 をやることが,ヌースを作り出したのである。だがそのものは,かのものの 方を見るために立ち止まったのだから,同時にヌースと有るものとになった わけである。
さて,そこで,このものもかのものに似たものであるので,かのものと同じ ようなことを行うのであって,多大の力を注ぎ出す。このものは,かのもの の似姿であるので,ちょうどまたそれの前のものが注ぎ出したのと同じよう にするわけである。そして実有から発するこの働きが,魂という働きなので ある。これは,前者が静止していて生まれるのである。なぜなら,ヌースも, それの前のものが静止していて生まれたのだから。
他方,魂は,静止したままで作り出すのではなく,動きながら映像を産み出 すのである。つまり魂は,自分がそこから生まれでたものを眺めて,満たさ れるのだが,別の反対方向への運動によって進出し,自己の映像である感覚 能力と植物内の自然とを産み出すのである。
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観られなければならない当のものは,自分以外のいっさいのものから自分 自身を引き払って,どこかほかのところに存在するというのではないからで ある。むしろこれに触れることのできる者のためには,それは現にそこにあ るというかたちで存在しているのであるが,しかしそのような接触の能力を 持たないものに対しては現在しないのである。…素材については,それがあ らゆる事物の印影を受容すべきものだとすると,またあらゆる事物の性質を 欠いていなければならないということが言われているが,ちょうどそのよう に,というよりはむしろなおさら,魂は,いやしくもそれが一者によって充 実され,照明されるためには,それの妨げをするようなものが一つでもそこ に潜んでいてはならぬとすると,いかなる形相も有することのないものとな らなければならない。そうすると,あらゆる外物から身を引いて,内部への 全面的転向を必要とすることになる。
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(先生)…というのは,われわれは黙っていてもわれわれ自身の内で,音 声によっても実現されるような,時間の滞りでもってあるリズムを思考に よって実現することができるからだ。このリズムが魂のある種の働きにお いて存するということは明白である。そしてこの働きは,どんな音をも発 せずまた耳に何らの影響をも及ぼさないので,この類が前述の二つの類, すなわち一方の「音において存する類」ともう一方の「音が聴かれるとき に,聴く人において存する類」なしに存しうる,ということを示してい る。…(弟子)わたしはそのリズムがその他の類のリズムなしに存することを疑 いません。しかしながら,そのリズムは一旦聴かれたか頭で考えられたの でないなら,記憶には委ねられないはずです。またそれだから,このリズ ムは他の三つの類のリズムが終わっても存続するにも関わらず,それら三 つの類のリズムが先行するからこそ刻印されるのです。(『音楽論』第6 巻3章4節)
(弟子)…(1)「鳴り響くこと」,これは物体に割り当てられます。(2)「聴 くこと」,これは魂が身体において音のために蒙ることです。(3)「あるい はより遅くあるいはより速くリズムを生み出すこと」。(4)「それら[(2)と (3)]を記憶していること」。(5)「以上のすべてに関していわばある種の 本性的な権利により是認したり拒絶したりすることによって判断を下すこ と」。(『音楽論』第6巻4章5節)
(先生)要するに,魂は身体において感覚するとき身体によって何かを蒙る のではなくて,身体の諸々の受容態に関して注意深く作用し,そしてこれら の作用はあるいはそのふさわしさのゆえに容易なものとして,あるいはその ふさわしくなさのゆえに困難なものとして魂に意識されると私には思われる。 そしてこの全体こそ「感覚する」と言われるところのものである。
(先生)確かに自らの意志に従ってではなく,身体の受容態に応じて生み出 されるあの「対処するリズム」24もまた,記憶が このリズムの隔たりを保持することができる限りにおいて,判断されるべき ものとしてこの「判断するリズム」に提出されそして判断される。なぜなら, 時間の隔たりによって構成されるリズムは,われわれがそのリズムにおいて 記憶の助けを借りるのでないなら,どんな仕方においてもわれわれによって 判断され得ないからである。実際,どんなに短い音節であってもその音節は 始まりそして終わるので,ある時点にそれの始めが,そして別のある時点に それの終りが鳴り響く。それ故,またその音節それ自体は,どんなに短いに せよ時間の隔たりにおいて展開され,自らの始めから自らの真ん中を通って 終りへと拡がる。したがって,理性は時間的な拡がりと同様に場所的な拡が りは無限の分割を受け容れるということを発見する。まただからこそ,どん な音節の終りもその始めと同時に聴かれることはないのである。それ故,非 常に短い音節を聴く際にすら,もはやその音節の始めではなく終りが鳴り響 く瞬間に,始まりそれ自体が鳴り響いたときに生じたあの運動が心において 存続しているよう記憶がわれわれを助けるのでないなら,われわれは何もの かを聴いたと言うことができない。(『音楽論』第6巻8章21節)
われわれが認識するすべてのものは,身体の感覚によって認識するか,精 神によって認識するかのいずれかなのである。…前者について問われるとす れば,「もしわれわれが感覚的に認識するところのものが眼前にあるならば」 とわれわれは答えるだろう。たとえば,われわれが新月を眺めている間に, 「それはどんなものですか,どこにあるのですか」と尋ねられるときのよう に。この場合,尋ねる人が月を見ていないとすれば,彼は言葉を信じるので あるが,時折信じないこともある。しかし,彼が語られているものを見ない 限り,彼は何ものも学ぶことはない。見た場合は,音声として発せられた言 葉によって学ぶのではなく,ものそのものと彼の感覚とによって学ぶのです。 なぜならば,無論,見ていない人に響くのと全く同じ言葉が,見ている人に も響くのだから。
われわれが精神(mens)によって認識する対象,すなわち,知性 (intellectus)や理性(ratio)によって認識する対象に関して論議するときは, われわれは,いわゆる「内なる人」(homo interior)が照らされ (illuminatio)享受する(fruitio)真理のあの内的な光(lux interior)のなか でわれわれが直接に見ている対象について語るのである。しかし,その時,私の言葉の聴き手もまた彼の内奥の澄みきった目をもってそ れらを見るとすれば,彼は私が語ったことを彼自身の観想によって知ったので あって,私の言葉によって知ったのではないのである。