山縣有朋(1838(天保9年)〜1921(大正11))

階級:大将・元帥 最終階級:大将・元帥 出身:山口


 戦時中は、帝都(東京)に構えた大本営の参謀総長の職についた。
 満州総司令部が出来た時に自分がその司令官になる事を望んだが、その参謀長に就任した児玉源太郎が「山縣は作戦に口を出したがる」と嫌がったためである。

 日清戦争の頃には、命令を聞かずに軍を苦戦に追い込んでしまい、体よく司令官の座を追われているという事実がそう言わせたのかもしれない。
 その時当時の大本営は彼の更迭を考えたが、当時も彼は政界の中枢に居るので、一度戦況を明治天皇に奏す為に明治天皇により召還するという形を取らざるを得なかった。

 日露戦争当時も作戦に口を出したがり、第三軍を自分(大本営)の傘下に入れようとしたり、果てはただでさえ少ない兵力を切り取って「鴨緑江軍」を作ってしまった。 

 彼は政治的才能に秀でているが、自分が武人である事を本分とする事を自認するほど戦術的な才能は振るわ無かったようだ。
 2回にわたって内閣総理大臣になり、陸軍の法皇と称されるほどの力を持って栄華は博したが、望むものを全て得たというわけではないようである。

 ちなみに至るところに別荘を建てる事が好きで、晩年はほぼ10年毎に建てていたという。

 

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