movie
ブレードランナー

top page


 この、もはや伝説と化した、ものすごく有名なカルトSFに関するいろいろなカルトなネタは、それもまたかなり有名なものが多い。
 そのなかで最も有名な周辺の話といえば、この映画には3つのバージョンがあるということだろう。劇場版とノーカット版とディレクターズカットである。私の見た順番は、劇場版、ノーカット版、ディレクターズカットである。あえていうなら、劇場版をビデオで見る前に、テレビ版吹き替えバージョンというのが入る。
 私が日曜洋画劇場かなにかのテレビ番組でブレードランナーを見たのは、自分が映画が好きだと認識する前の年齢のころだったが、それはそれでインパクトがあった。巨大スクリーンに映される芸者の顔、雨、人ごみ、煙突から吹き出す火、デッガード・ガン、強いんだか弱いんだかわからないハリソン・フォード、変なダリル・ハンナ、変なナレーション、ワケのわからないストーリー。
 やがて、私は映画を見るのが好きになり、それなりにいろんな映画の情報を見聞きするようになって、その映画が有名なSFであることを知り、ビデオを借り、もう一度見た。これはすごい映画なのだ、という思い込みを持ってみたせいか、イマイチ客観的な感想は覚えていない。何となく、これのすごさがわからんようでは私もまだまだだ、という気負いもあったのだろうか。
 ノーカット版はただ単に長いだけで、これは正直につまらないと思った。
 そして最後にやっとディレクターズ・カットにたどり着くのである。もちろん、言うまでもないが、これが一番面白かった。強いんだか弱いんだかわかんないハリソン・フォードはそれはそれでいいような気がしたし、ナレーション無しだと、その雰囲気がより強く感じられて、ワケわかんない感じも狙い通りだと自然に思えた。ただ、ハリソン・フォードと戦うダリル・ハンナはやっぱり変だった。

 この3つのバージョンができてしまった経緯もまた有名な話である。オリジナル(ディレクターズカット)で映画会社の偉いさん向けに試写会をしたところ、
「話がよくわからんので、なんとかせい」
といちゃもんつけられて、ナレーションとハッピーエンドをくっつけさせられて、残酷シーンをカットさせられた、というものである。で、あの劇場版ができあがるわけです。リドリー・スコットはきっと怒っていたのだろう。やる気はあったかどうか判断に苦しむところである。
 確かに、日曜洋画劇場でブレードランナーを見ていたときの私が、いきなりディレクターズ・カット見せられてどう思っただろうか、というのを想像するのは非常に難しい問題であるが、だからといって、上記のエピソードをこの映画のカルト性を際立たせるためのスパイスとして聞き流すわけにはいかないだろう。
 映画は初見が一番面白いのである。商業的理由があろうがなんであろうが、こっちは知ったことではない。これだけのSFの初見が、せっかくの一番面白いディレクターズ・カットではなくて、解説付きの劇場版にされてしまったのである。この広い世界に、ディレクターズ・カットが初見だという幸運に人間が何人いるだろう。そういう意味では、この映画は通常の評価を普通に受けることを許されなかった映画とも言えるだろう。もしかすると、2001年宇宙の旅みたいに芸術扱いされていたかも知れないし、評価してくれる人が少なすぎて埋もれてしまっていたかも知れない。

 おそらく横並びに評価されるであろう、新しい近未来像としての「ブレードランナー」「AKIRA」「ニューロマンサー」だが、私の中で一番の雰囲気と迫力はやはりブレードランナーであり、それだけでもこの映画を見る価値はあると思う。というか、正直なところ、そのためにこの映画は存在しているような気もする。
 私の感受性の問題かも知れないが、私が興味を引かれるのは、強力ワカモトのCMであり、ドラゴンのネオンサインであり、ウドンの屋台であり、火を吹く煙突であり、美しく羽ばたくフクロウであり、レプリカントを見破るための問答であり、レプリカのヘビのウロコに入った品番であり、延命を計るルトガー・ハウアーと博士の問答であり、デッガード・ガンなのである。
 命の概念を持ったアンドロイドや、アンドロイドと人間の恋には、残念ながらあまり興味を抱けない、というか、そっちまで気が回らない。クライマックスのアクションシーンは、かっこいいとは言えないし。
 ストーリーは立派とは言い難いのではないか、とすら思う。だから、世の中のストーリーうんぬん、という言い回しをしてばっさり切り捨てたつもりになっている人達が、この映画に対してどのように評価するのかを、一度聞いてみたい。

(2001/07/02)


MOVIE MENU