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フェイク

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 ノンフィクションというのは、事実に忠実であろうとすればするほど派手な部分が消えていく。それと引き換えに観ている人との距離感がなくなってきて、それが生身のような迫力を持つ、と言うものだと思う。まあ、分かりやすく言うとプロレスとK1みたいなものだ。よけい分かりにくいか。
 だから、予備知識の全くない世界の話を事実に忠実なノンフィクションにされても、スクリーンとこっちの距離感がいまいち埋まらなくて、要するに同調しにくい。いうなれば、カバディ世界選手権を観るようなものである。
 確かにアル・パチーノがジャージ姿で自慢の料理を作るギャングを演じているのをみると、
「実際のギャングもきっとこんななのに違いない」
と思うし、おとり捜査ってのは常に正体のバレる危険と隣り合わせなのかと思っていたが、相手に信頼されるまでのプロセスの方が大切なのだろう、と思うし(実際、この映画はおとり捜査の映画ではなくて男の友情映画だった)、他にも事実の匂いがするシーンはいくつもあった。
 しかし、アル・パチーノの最後の一言、
「お前だから、許せる」
という台詞(おそらくこの映画はこの一言のために作られたと思うが)と、おとり捜査官とギャングの男の友情物語を単なる見せ物にした原作者が実際に最近まで現役のおとり捜査官で、この話を小説にするにあたり身の危険をおかしてまで過去のおとり捜査の実情を暴露した、というバックグラウンドが、いかにもプロレス的なのである。リアルであるなら、アル・パチーノはアレほど決まる場面であんなに決まる台詞を言わないだろうし、原作者の元おとり捜査官は友情を感じた事があるなら、それを見せ物にして金を稼ごうとしてはいけない。ノンフィクションという断わり書きがよけいにシラけるのである。これは、映画というプロレス的な土台の上にこの話が乗っているからそう見えるのかも知れない。
 もちろん、事実は時にプロレス的である。体重が軽いせいかなかなか一発KOの出ないストロー級のボクシングでも、たまには、右フックがこれ以上はないという角度でアゴに入って前のめりに倒れる挑戦者、という、ウエスタンラリアート食らって吹っ飛ぶ川田利明のようなこともある。
 しかし、そうであってもそうでないにしても、試合後にセコンドに軽々と抱え上げられてガッツポーズする勝者のすぐ後ろには、リングで大の字になったままセコンドに介抱されつつ涙を流す敗者がいる。この映画の一番いけないところは、ノンフィクションでありながら、敗者の姿が見えないところだ。エンディングの前に、ただ一文でいいから、アル・パチーノの「その後」を伝えるべきである。

(2001/07/02)


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