日本で行われた陪審裁判−新聞報道に見る評価

 

千葉地方裁判所における陪審裁判
 −新聞報道による実態調査

    林 謙二(埼玉陪審フォーラム会員)


 1 はじめに
 千葉県は、東京都の東、房総半島全域から北は坂東太郎利根川までの地域を占め、その昔は、下総、上総、安房の三国からなっていた。陪審裁判が行なわれた昭和初期の千葉県の産業としては、漁業と農業が中心で、前者は東京湾の海苔栽培や銚子漁港に代表される鰯や秋刀魚、鯵といった近海漁業、後者は温暖な気候と首都圏大消費地に隣接する地理的好条件を利用しての早場米、疎菜生産、また醤油の生産は日本一である。
 この千葉県を管轄する千葉地方裁判所において、昭和4年2月14日から昭和15年4月21日までの間に、陪審法(大正12年法律第50号)に基いて、合計22件の陪審裁判が行なわれた。本稿は、当時の新聞記事を原資料として、この22件の陪審裁判の実情を伝えることを目的とするものである。
 調査は、大正12年3月帝国議会で陪審法が成立した前後の主要新聞記事と、陪審法が5年間の実施準備を終えいよいよ施行となる昭和3年10月1日の直前から、昭和18年4月1日に「陪審法ノ停止ニ関スル法律」(昭和18年法律第88号)によって陪審裁判が終焉を迎えるまでに発行された千葉地方版の新聞記事によることとした。
 原資料としたのは、大正12年3月分の調査については、東京朝日新聞(現、朝日新聞)、東京日々新聞(現、毎日新聞)、読売新聞の三紙を、千葉県立中央図書館新聞雑誌室所蔵のマイクロフィルムにより、昭和3年から18年までの調査については、同図書館新聞雑誌室所蔵品中最も保存状態の良好な東京日々新聞千葉版のマイクロフィルムを用いた。それでも長期間の欠号や切りぬき、変色などによって判読不可能なものがあり、その分については、読売、東京朝日の千葉地方版を用いて補足した。
 陪審法制定前後の実情調査に関しては、議会通過の日が判明しているから、その前後の新聞を閲覧することで済むが、実際に行なわれた陪審裁判の調査については、陪審裁判が行なわれた期日が全く特定出来ないため、千葉地方版の新聞を、陪審法施行の準備として千葉地方裁判所で模擬陪審法廷が開かれたという昭和3年7月頃から昭和18年3月までくまなく閲覧するという最も原始的な方法を採用した。
 更に、以下の新聞記事も参考にした。
 「いはらき」新聞、昭和3年、昭和5年  (茨城県立図書館所蔵)
 「東京日々新聞、茨城版」、昭和3〜5年 (茨城県立図書館所蔵)
 「東京日々新聞、埼玉版」、昭和3年   (埼玉県立図書館所蔵)
 「名古屋新聞」、     昭和3年   (名古屋市立鶴舞図書館所蔵)
 「新愛知新聞」、     昭和3年   (名古屋市立鶴舞図書館所蔵)

 2 陪審法施行までの広報活動など
 陪審法は大正12年に制定されたが、実際に施行されるまで5年間の準備期間が置かれた。司法への参加は専門的知識を必要とするからそのような伝統のない日本国民には時期尚早であるとか、陪審制度は裁判所を拘束し、司法権の独立を侵すものだから憲法違反であるという反対意見も当時強かった。我国の歴史から見ても、「出る所に出て、裁いて貰う」という受動的裁判から百八十度転換して、「自ら裁く」という能動的裁判への司法の革命が行なわれる訳で、単に裁判所の建物を改造して陪審法廷や陪審員宿舎を準備するだけではなく、司法についての国民各層の意識改革が必要急務であった。
 大正12年の貴族院陪審法案特別委員会で、交友会の河村譲三郎議員の「一般世人に、陪審を理解せしむるに如何なる方法を採るか」という質問に対して、時の岡野司法大臣は「陪審の趣旨を徹底せしむるには、講演及び文書の配布をする予定である」と答弁し、5年間の準備期間中に準備費として臨時予算800万円、他に経常予算で413万円、合計1213万円の予算を用意した(ちなみに大正9年11月に完成した戦艦長門の最終建造費が約4390万円である)。
 新聞紙面には、陪審法制定3日後に「国民にどんな影響の法律か」との見出しで司法省刑事局長林頼三郎博士の談話が掲載されている(読売、大正12年3月25日)。また、大正12年2月26日〜3月4日には、牧野英一博士による「陪審法案の通過を予想して」(東京日々)という連載記事がある。前者は陪審法の内容をかいつまんだだけであり、後者は法律学者として陪審制度を解説したもので、共に陪審制に対する国民一般への啓蒙活動としてはもの足りない内容である。
 その後に実際に展開された広報・啓蒙活動は次のように分類できる。
 1)陪審制度についての講演会
 2)陪審裁判を主題とした映画の製作、上演
 3)陪審裁判を主題とした「陪審劇」の上演
 4)陪審制度についてのラジオ番組での紹介 それぞれについて、簡単に述べる。

 1) 講演会
 裁判所の所長や書記官などの職員によって行なわれた。講演の場所としては、小学校の講堂や村落の集会場等を借りて行なわれた。未だ房総半島循環の鉄道網(現在のJR内房線、外房線)が完成していない時代であり、勿論道路も未整備で場所によっては徒歩で山越えをしたり、海沿いに船を用いて迂回するような時代であったのにも拘らず、奥地の村落までくまなく脚を運んだようである。講演会は陪審法が施行された後も続けられた。
 2) 映画
 昭和3年10月1日の陪審法施行の記念日に、名古屋博覧会会場で、東海弁護士協会主催の「陪審法実施宣伝映画公開会」と題して、東海映画製作所製作の「審判の廷」、日活特作司法省所蔵「屍は語らず」の2本が上映された記録がある。また各地でこのような映画が上映されたらしい。当時はまだ無声映画の時代で、ト−キ−になっていなかった(日本初のト−キ−映画は昭和2年6月のことで、日活は昭和4年6月が第1号)。果たして、活弁士による解説で、作意が完全に観客へ伝わったか、陪審裁判の意味が理解されたかは、今日では疑問が残る。これらのフィルムが現在どこで保管されているか、興味深いところである。
 3) 演劇
 これは映画より実践的であったようである。当時、映画館の数は現在よりやや多かった程度であったと推測されるが、千葉県で当時一番の住宅密集地であった総武線沿線でも、映画館があった駅は、市川、船橋、千葉の三ヶ所だけであった。そして、それを観に行くのは、モボ(モダンボ−イの略)モガを中心として、観客層は限定される。反面、大正末期から昭和初期においての民衆の娯楽として主流であったのは、自分達の村落にまで巡業して来る小芝居の一座であったようだ。当時、例えば市川と船橋の中間に位置した中山町(現、市川市中山)では、町に2,3ケ所あった公会堂や民営の寄席に、一月の半分以上は芝居や演芸(浪花節や義太夫の音曲物、あるいは曲芸、見世物の類)がかかったと言う。映画に比べれば木戸銭も安く、また風呂上がりの浴衣姿でも覗ける大衆性があった。芝居が映画より身近な存在であったことは間違いない。こうした県内各地の小劇場、寄席、公会堂の仮舞台を、陪審劇一座と称して巡業した一座もあった。千葉県においては、一座の座員が楽屋で暴行事件を起こしてくれた関係で、中村文勇一座の名前が残っている。
 これらの内容について名古屋地裁検事正、吉良辰次郎氏は、「陪審宣伝劇及び映画は、手続きを知るに便であって相当の興味もある。しかしその多くは、検事及び予審の取調べが物になっていない」と批判している(昭和3年10月1日、名古屋新聞)。

 4) ラジオ放送
 テレビはまだ発明されておらす、ラジオの普及も不十分な時代であった。それでもラジオ放送は娯楽の1つとして民衆の間に確実に浸透しつつあった。JOAK(NHK東京)は「家庭講座」と言う定時番組で6回陪審制度について放送している。
 当時読売新聞では地方版とラジオ番組欄が同頁であった事から、その期日と内容をこの度発見することが出来た。
 1回目:放送日時 不明  内容 不明  (記事なし)      
 2回目:昭和3年8月14日     「家庭講座」 陪審制度の話 (第二講)
     「陪審裁判に附する事件」   司法書記官   赤羽 薫 
 3回目:昭和3年8月15日     「家庭講座」 陪審制度の話 (第三講)     「陪審員になる順序」     司法書記官   大原 昇 
 4回目:昭和3年8月16日     「家庭講座」 陪審制度の話 (第四講)     「陪審裁判の手続き」     司法書記官   佐藤 竜馬 
 5回目:昭和3年8月17日     「家庭講座」 陪審制度の話 (第五講)     「陪審員の心得」       司法書記官   黒川 渉 
 6回目:昭和3年8月18日     「家庭講座」 陪審制度の話 (第六講)     「欧米諸国の陪審裁判」    司法書記官   坂野 千里
 当時の新聞のラジオ欄には、放送開始時刻は掲載されていない。掲載された番組の順序からして、所謂ゴ−ルデンタイムを外れた時間帯の放送であったように推測出来るが、第1回目の放送の際には何の紹介も無いのに、第2回目の放送分からは、ゲストの司法書記官の顔写真入りで異例の大きさで紹介している。第1回目の放送に大きな反響があったのかも知れない。

 3 千葉地方裁判所の模擬陪審裁判
 このような陪審制度についての広報活動の他に、千葉地方裁判所では、もう一つ特筆すべきことがあった。それは、新装なったばかりの陪審法廷で模擬裁判を開廷したことである。
 第1回は昭和3年7月7日午後1時から行なわれた。実際に千葉市内から17名の陪審員候補者を選抜して、裁判官には裁判所長、刑事部長、民事部長が、検事、弁護人にも実際の検事正、弁護士があたり、証人にも千葉医大の木村博士に出廷してもらって、予審書記の扮する被告人の「心変わりし家出した内縁の妻を絞殺せし容疑」につき審議を行なった。
 県知事を初め、県高官や軍将校、近接市町村長等の名士多数がこの模擬裁判を傍聴した。台本のある模擬裁判とはいえ、午後1時開廷、閉廷は午後9時近くという大層熱のこもったものであった。(東京日々、千葉版、昭和3年7月8日)
 2回目は昭和3年9月27日である。7月の第1回は完全に陪審法や陪審制度の普及広報が目的であったが、2回目は裁判所内の準備演習が目的であったようだ。当時法曹界のみならず全国民が、我国初の陪審裁判は何処でどのように行なわれるか注目していた。諸説があるが、予審審理の状態等から千葉地方裁判所での事件がその魁けとなるのではないかとされていた。(実際には、昭和3年10月23日大分地方裁判所が全国初の陪審裁判である。千葉地方裁判所では、被告人の辞退が相次ぎ、初陪審は翌昭和4年になってから。)そのため、陪審法施行の三日前にもう一度模擬裁判を行なっている訳である。これには裁判所長以下所員全員出動で、「被告人になるもの陪審員になるもの色々」と当時の新聞(東京日々、千葉版、昭和3年9月28日)は伝えている。

 4 初期の陪審裁判
 昭和3年10月1日陪審法が施行された。その頃千葉地方裁判所で予審が終了し法定陪審(死刑又は無期懲役もしくは禁固に該当する事件)にあたる事件としては、強姦致死事件、更科村の実父殺し白骨事件、風早村の強姦致傷事件、印旛の放火未遂事件の4件があったが、いずれも被告人の陪審辞退で普通裁判に移行したため、全国に魁けての陪審裁判とはならなかった。実際千葉地方裁判所では、昭和3年11月の御大典(昭和天皇の即位の礼)前には、なるべく千葉県初の陪審公判を開廷したい意向があり、4件の被告人がいずれも陪審を辞退する場合には予審終決が間近い5、6件の事件を陪審準備公判に附すべく、予審判事を急がせたという新聞記事がある。(東京日々、千葉版、昭和3年10月26日)
 しかし、実際には千葉地方裁判所の思惑とは裏腹に、被告人が陪審を辞退する例が続出し、昭和3年には一例として陪審裁判は行なわれず、新装された陪審法廷の扉には固く鍵が掛けられたままであった。何故陪審辞退が続出したのかは判らない。ただ千葉県の県民性は、温暖な気候と豊かな自然とに恵まれていて、あくせくしないのが最大の特長である。物の考え方は比較的保守的であり、未だ他県での陪審裁判の実績が現れないうちには、新しい制度に飛び込めなかったのかも知れない。
 しかし、陪審法施行以来109日目の、昭和4年1月17日、放火事件の容疑について陪審準備公判で審理中の女性被告人が供述を翻し、予審での自白を根底から覆した結果、昭和4年2月14日に千葉県初の陪審裁判が行なわれることになった。この事件をかわきりにして、陪審法廷は一転して大盛況となる。
 1)  昭和4年2月14日〜15日  「若き女の恨みの放火事件」
 2)  昭和4年2月26日     「元の妻への暴行致傷事件」
 3)  昭和4年6月11日〜12日  「強盗?傷害事件」
 4)  昭和4年6月22日〜23日  「米沢村の殺人事件」
 5)  昭和4年8月6日〜8日   「妻殺し未遂事件」 
 6)  昭和4年9月5日〜7日   「銚子の酌婦殺し事件」 
 7)  昭和4年10月3日〜5日   「山武の助役殺し事件」
 8)  昭和4年10月14日〜18日  「有罪か無罪か謎の陪審事件」 
 9)  昭和4年11月14日〜16日  「叺詰め残虐事件」
 10)  昭和5年1月23日〜24日  「海上群の養父殺し事件」
 わずか1年間で10件の陪審裁判が行なわれた(「」の事件名は各新聞記事のみだしによった。)。昭和4年の年間9件というのは、年間件数としては全国一である。世間の関心も非常に高く、陪審裁判が開かれる度に傍聴席は満員御礼を繰り返している。世間の関心を伝える例として、上記7)の「山武の助役殺し事件」の陪審公判の時には、千葉高等女学校の4年生25名が教師に引率され3日間の公判を始終傍聴し、陪審員の答申に移るや、引率の教師は陪審員の評議時間中に25名の生徒から仮答申を募り、これを裁判長に提出した。現在の裁判所からはとても考えられないことである。しかも女性は陪審員になる権利どころか選挙権も与えられなかった時代での出来事である。
 初期の陪審裁判における特長を概観してみよう。
 総じて放火事件のような、自白が中心で客観的証拠に乏しい事件の場合においては、無罪判決が出易い。1)の「若き女の恨みの放火事件」では陪審員が「証拠はたったマッチの箱だけですか」と驚きを含めた質問を発した(東京日々、千葉版、昭和4年2月16日)。東京控訴院管内では、放火事件が陪審裁判に附せられるとことごとく無罪になってしまうという事態を生じた。昭和4年5月14日の東京朝日新聞によれば、当時全国で19件の放火事件陪審裁判が行なわれ、有罪11件、無罪8件という結果であったが、東京控訴院管内の放火事件陪審裁判合計7件(東京2件、千葉1件、水戸1件、新潟2件、静岡1件)はいずれも無罪であった(他の無罪1件は広島)。この事態に東京控訴院は頭を抱えて、管内の陪審員の判断が誤っているのか、あるいは、警察の捜査が他の地方より粗雑で無理矢理犯人づくりをしているのかと、全国から資料を集めて専心研究することとなったと伝えている。
 千葉地方裁判所では、昭和4年2月、7年7月、同年10月に、合計3件の放火事件陪審裁判が行なわれたが、3件とも無罪であった。
 更に、陪審裁判ではいわゆる「認定落ち」の判決が出る傾向を指摘することができる。例えば、殺人事件の諮問で傷害致死の答申が出されるような例が多々見られる。また6)の「銚子の酌婦殺し事件」の場合では次のような答申がなされた。
 (諮問) 主問   「殺人なりや」      (答申) 「然らず」
       補問1 「殺人教唆なりや」         「然らず」
       補問2 「自殺幇助なりや」         「然り」 
 裁判官はこの答申を採択し、執行猶予のついた温情判決を言い渡した。
 次に陪審法の最大の欠点と言われる陪審更新の問題がある。これは、自分の考えと陪審員の答申とが一致しない場合、裁判官は陪審員の答申に対して「答申不当」を理由にしてこれを覆してしまうことで(陪審法第95条)、陪審員が貴重な時間を割いて、時には陪審員宿舎に隔離されて評議した結果出された答申はこうして反古にされ、事件は改めて陪審準備法廷に戻される。
 千葉地方裁判所では昭和3年から18年迄の間に22件の陪審裁判が行なわれたが、陪審が更新された例は一度も無かった。しかし、他県では陪審の更新が行なわれ、無罪の答申から一転して有罪になった例もある。
 また、次のような事例もあった。
 3)の「強盗?傷害事件」では、被告人は当初強盗傷害の容疑で起訴されていたものであるが、検事自ら論告で「被害者は犯行のあった当夜、大金を所持していたため錯覚を起こして強盗と思ったもので、被告人の当時の挙動から見ても強盗とは見られぬから単なる傷害事件と認める」と公訴事実を変更した。ところが、裁判官は「被告人は被害者に対し強盗の意志をもって傷害を加えたるものなりや」と諮問し、これに対し陪審員は「然り」と答申したのである。
 検事が論告にあたって強盗の事実を自ら捨てて否定したにもかかわらず、裁判官により陪審員への諮問に強盗の事実が復活加えられ、それを陪審員が事実と認定してしまったのである。「これだから陪審裁判は面白い」と皮肉たっぷりに新聞は伝えている(東京日々、千葉版、昭和4年6月13日)。
 この事件で弁護人は「裁判長は原告官たる検事の論告に基づき、公正な裁量をなすべきであるのに、今回の説示はこれを無視し、強盗の所為なることを陪審員一同に暗示したが、裁判長として執るべき措置でない。こんな不公正極まることはない」と直ちに上告する考えを表明した。そしてこの上告に対し、昭和4年10月8日大審院刑事第一部は、上告は理由ありと判断して原判決を破棄し、東京地方裁判所に事件を移送して裁判のやり直しを命じた。陪審による有罪判決が破棄されたのはこれが最初である。担当する裁判所が千葉地方裁判所から東京地方裁判所に変更されたのは、陪審法第105条に基づき、原判決が破棄された場合には、原裁判所に差し戻すか、原裁判所と同等の他の裁判所に移送する事ができるからである。この事件は、昭和4年11月8日、東京地方裁判所陪審第一部で審理中のところ、被告人が陪審を辞退したので普通裁判に移行した。
 8)の「有罪か無罪か、謎の陪審事件」でも、陪審の有罪判決が破棄された。この事件は謎が多く、事実審理に多大な時間を要し、裁判の途中で実地検証をやり直したりして、当初2日間の公判予定が5日間に延びた事件である。裁判長は弁護人が要求した2人の証人喚問を「これ以上無意味」として採用しなかったため、弁護人が「被告人に有利な証拠を採用しなかった」との理由で上告したところ、昭和5年4月上旬、大審院は原判決の無期延期を言渡したうえ、同月23日、大審院中西裁判長、牧田検事係で審理され、原判決を破棄して、東京地方裁判所へ移送されることになった。

 5 成熟期の陪審裁判
 昭和5年の後半から昭和9年までの間に、千葉地方裁判所では以下の10件の陪審裁判が行なわれている。
 11)  昭和5年7月17日     「愛人斬り事件」
 12)  昭和6年11月17日     「葛飾の博徒斬り事件」
 13)  昭和7年1月23日     「白里村の痴漢事件」
 14)  昭和7年3月11日〜12日  「楢葉海岸の妻殺し事件」
 15)  昭和7年6月8日      「髪斬り?殺人未遂事件」
 16)  昭和7年7月14日〜15日  「桜湯放火事件」
 17)  昭和7年10月10日〜14日  「千倉の放火事件」
 18)  昭和8年7月13日〜14日  「千葉市の養父殺し事件」
 19)  昭和8年11月13日〜15日  「殺人鬼大川事件」
 20)  昭和9年11月26日〜27日  「八街村の異母兄殺し事件」
 この頃になると、裁判官、検察官、弁護人はいずれも陪審裁判の主人公は陪審員であることに気付き、説示や論告、弁論の言葉遣いも従来の美文調で難解な法律用語の多いものから、陪審員に理解され易い平易なものに変化してきたようである。その典型的な例は12)の「葛飾の博徒斬り事件」での論告と弁論である。
 「葛飾の博徒斬り事件」は、被告人、被害者共に博徒(現在なら暴力団員)で互いに抗争中であった。前年の野田屋斬り込みの抗争の際仲間を被害者の弟に殺害されたことを怨んでいた被告人が、たまたま銭湯で入浴中に被害者に出会い、その裸になったところを短刀で切り付けた事件である。法廷では被告人の殺意の有無(殺人未遂か傷害か)が争われた。
 検察官:「被害者が真裸の無抵抗なのに短刀で斬るとは殺意明らか。しかもその方法は昔、幡随院長兵衛を風呂場で殺した水野十郎左衛門の卑怯さである」
 弁護人:「検察側は、被告人が短刀を用意して被害者の殺害を計画していたかのように言われるが、被告人は博徒で、短刀はいつでも懐にしておるもので、ただ単なる復讐行為に過ぎない」(東京日々、千葉版、昭和6年11月18日)
 検察官は、芝居や講談などで有名な旗本水野十郎左衛門の町奴幡随院長兵衛殺しを例に挙げて被告人の殺意を強調すれば、弁護人は、博徒はその性質から短刀は常時懐にしているものであり、犯行に使用された凶器はこのために準備されたものではない、と抗弁した。このやりとりは、例えば1)の「若き女の恨みの放火事件」における検察官と弁護人の次のような言葉遣いとは大いに趣を異にする。
 検察官:「事実に勝る雄弁なく放火と推断するに議論ないと思う。而して被告人が放火したるものたる事も確信する」(読売、千葉版、昭和4年2月16日)
 弁護人:「司法の大権を誤ることこれより甚だしきはなく、今日民衆の司法機関の御趣旨において陪審法を実施せられたる本意に戻るものであるから…」(東京日々、千葉版、昭和4年2月16日)。
 一方で、昭和5年には早くも陪審を辞退する被告人が増える傾向を示してきた。昭和5年8月22日付けの東京日々、千葉版には「期待に反く陪審」の見出しで、「千葉地方裁判所では昭和4年に全国一の陪審公判を開いていたのに、昭和5年になると8月半ばの段階で17件の陪審準備法廷を開いたが、その内正式陪審公判を開いたのは僅か2件で、残りの15件は普通裁判として開廷され、その15件の内でも、被告人が犯行を一部または全部自白して陪審法の適用をうけなかった者は僅か2件で、残る13件はいずれも被告人自身が陪審公判を辞退したもので、この数字を見ても如何に被告人等が陪審公判を嫌って来たかがわかる」と記している。そして、さらに、「今後矢継ぎ早に7件の陪審準備法廷が開かれるが、殆ど被告人が正式陪審を辞退するものと見られている。千葉県は他府県に比し陪審法に適用される事件が多いので、同法の忌避は本県人は勿論司法官連も頗る苦慮している」と伝えている。
 さらに、この頃になると、捜査段階で自白を強要されたとの被告人の訴えを陪審が受け容れ、陪審裁判を通じて冤罪が証明され、晴れて無罪となる例が目立って来る。
 この時期の、典型的な無罪事件は14)の「楢葉海岸の妻殺し事件」、16)の「桜湯放火事件」、17)の「千倉の放火事件」の3件である。
 14)「楢葉海岸の妻殺し事件」は、殺人が無罪とされた例である。この事件は、昭和6年8月24日午後6時頃、東京湾に面した君津郡楢葉村奈良輪海岸に中年女性の溺死体が漂着したことに始まる。発見者が警察に届け出て、検視の結果漂着した溺死体の身元は同村の船大工Hの妻(40)である事が判明し、他殺の疑いもあるとして調べたところ、被害者の夫H(37)が、同日朝から夫婦喧嘩の末後妻である被害者に愛想をつかし、午後1時頃被害者を沖合に伝馬船(櫓漕ぎの木製小型船)で連れ出し、被害者が泳ぎが達者でない事を狙い、船から突き落としたものと警察は判断し、午後8時頃自宅に立ち寄ったHを逮捕したものである。
 取り調べで、Hは海上で被害者が勝手に入水したものと主張していたが、海上に船を出して現場検証を行ないHに実演を行なわせたところ辻褄が合わない点があった。Hは昨年春に、14歳を頭に4人の子供を残して先妻に先立たれたが、その後世話する人があって被害者と一緒になった。入籍はされていないが、これは別段の理由があって入籍していないのではなく、当時は、子供が産まれたりしてから役場に急ぎ届けるのが普通であったからである。被害者と子供たちとの仲は睦まじく平和な家庭であったが、事件のあった昭和6年の夏、被害者が氷屋を開業してから付近の若者の出入りが頻繁となって、夫婦間に溝が入るようになった。事件当日の朝も、二人は夫婦喧嘩をしており、昼過ぎには二人揃って海岸に出て仲良く酒を酌み交わしていたが、その後海苔漁用の伝馬船で沖合に出た事が判り、Hを追及したところ、8月31日になって「船中で別れ話を持ちかけられたのを憤って、女房の隙を見て、故意に船を転覆させて女房を溺死させました」と自白したので、殺人罪で送検された。しかし、その後Hは犯行を否認する。
 予審でも陪審準備公判でも「船は事故で転覆したのです。故意に船を転覆させて、女房を突き落とそうとしたのではありません」と犯行を否認し、昭和7年3月11日と12日の2日間陪審裁判に附されることとなった。
 この事件の異色性としては、以下の点が挙げられる。
   事件現場は海岸から約1.7 離れた海上である。
   事件の目撃者がいない。
   事件現場には、被告人と被害者の二人しか存在しない。
   被害者の死体に、絞殺や刺殺の時に見られるような犯行を示すような傷がない。
   証拠となるものは取り調べでの自白のみで、その後被告人は犯行を否認している。
 こうして、この事件は千葉地方裁判所で14回目の陪審裁判となった。
 被告人は「海苔漁用の伝馬船で木更津海岸沖合いまで二人で漕いで遊んでいる内、櫂を流したのでそれを拾おうとした時、船体が転覆したので自分も海に落ちたが九死に一生を得て、転覆船にかじり付いて、女房の行方を捜したが見当らず、数時間後に死体となって現れた訳で、決して突き落したものではありません」と犯行を否認した。
 裁判1日目には、9名の証人が出廷し証人訊問が行なわれた。事件当日死体を解剖した加賀谷医師は、死因について「溺死であることは間違いないが、その他のことは判らない」と証言した。これは、「被害者は直前に夫と酒を飲んでおり、船が転覆し海に投げ出された時に心臓麻痺を起こして死亡したのではないか?」との質問に答えたものである。
 裁判1日目に出廷した他の証人は、主に家庭の事情を中心として、夫婦の平常の生活ぶり等を訊問されたが、「毒にも薬にもならない答えであった」と新聞は伝える(読売、千葉版、昭和7年3月11日)。
 しかし、裁判2日目、検察官は次のような要旨の論告を行なった。「被告人は、予審の供述を翻し『被害者と仲は悪くなかった。被害者が過って海中に溺死したのだ』と供述しているが、被告人は被害者に未練があり、被害者は被告人に嫌気がさして逃げ出そうとしていた。又被告人は、被害者を殴ったり出刃包丁を揮ったりで、喧嘩は絶えなかった。その事実は、被告人の親戚Sの予審の証言『逃げてしまえ、荷物は預かってやる』及び公判廷に於けるT、S二人の証人の供述で十分判断が出来る。被害者の溺死の前後の事情も、船を揺す振って転覆をさせたと見るのが妥当である。被告人は救助船を出した長谷川吉蔵等に『嚊はどうした』と尋ねられ『もう死んでしまった。行っても駄目だ』と気のない返事をしたのみだが、船が近づいたら『救けて呉れ』と頼むのが人情である」。
 これに対し弁護人は、「被告人が被害者を殺さなければならない動機原因がない。証拠は甚だ薄弱だ」と反論、また「加賀谷医師の『被害者の脇の下の傷は、何で生じたか判らない』と言う鑑定と、被告人の供述『女房を救助せんと努力した』と言う点を結びつけて考えるなら、殺意は頗る怪しくなって来る」と述べ被告人の殺意を否定した。
 そして、裁判官の説示に移り、陪審員に対して次の諮問がなされた。
 「被告人は、昭和6年8月24日午後3時頃、君津郡楢葉村字高須地先海中に於いて、内縁の妻を、故意に小舟を転覆して溺死せしめたるものなりや」
 これに対して陪審員は「然らず」と答申し、裁判長はこれを採択して無罪を宣した。この時、傍聴席から「おめでとう」の声が連発し、被告人は喜びから顔を真っ赤にして弁護人にお礼を言っていたと新聞は伝えている(東京日々、千葉版、昭和7年3月13日)。
 他の2件の無罪事件は、共に放火事件それも自宅に放火したという事件であった。
 16)の「桜湯放火事件」は次のような事件である。銭湯経営者の被告人が、負債から浴場及び同一敷地内の自宅を競売にかけられ、競落者Aとの間に競落金及び利子を毎日欠かさず売上金から入金して完済の上は自己の所有に復する約束を取り交わしていた。ところがAが建物をBに売渡したので、被告人はBに対して返済を続けていた。そしてさらにBはこの建物をCに譲渡した。そうした処Cから被告人に対して立退を迫られ、被告人は人を介してCに建物の買取を申し入れたが応諾されず、浴場の一部を焼けばCも立退き、建物引渡しに執着しないだろうと考え、2回にわたりボヤを起こしたという公訴事実である。
 17)の「千倉の放火事件」は、昭和7年2月24日南房総の千倉町で自宅と店舗、更に隣家の物置を焼いた火災について、洋食店の経営者による約1万5000円の火災保険金目当ての放火と見て追及したところ、3月9日自白したので送検した事件である。
 この二つの事件は、いずれも陪審員の答申によって無罪が言渡されたが、後者の事件では、法廷で当時の千倉警察署長O警部(裁判当時は特高課勤務)による日夜踏んだり蹴ったりした挙句、無理矢理自白を強要した横暴な拷問の有様が暴露され問題となった。大日本弁護士協会から派遣されていた3人の弁護士は、拷問事件が事実であれば黙し難たき人権蹂躙であるとして、これを法曹界の問題として、事件の顛末を弁護士協会に報告し、対策を協議することとしている。
 この時代の千葉地方裁判所の陪審裁判について付記しておきたいことは、11)の「愛人斬り事件」で大審院から原審不備の理由で再審理を命じられていたこと(読売、千葉版、昭和5年7月18日)、また、13)の「白里村の痴漢事件」で単純な暴行程度の事件としては、全国で初めて陪審裁判に附されたことである。また後者は、千葉地方裁判所で行なわれた陪審裁判の記録中唯一傍聴禁止で行なわれたものである。なお、2)の「元の妻への暴行致傷事件」では、傍聴禁止の話もあったが結局公開で審理された。

 6 軍靴の響きと陪審裁判
 昭和9年11月を境にして、新聞紙面から陪審裁判の記事が殆ど消える。その代わりに登場するのは軍国日本の記事である。千葉地方版でも、県内の連隊の出征風景や、◯◯方面で◯◯日戦闘が行なわれ、◯◯大尉以下◯◯◯の精鋭◯◯◯◯で大勝利!という記事が中心になってくる。
 陪審裁判に附されるような凶悪犯罪は減少し、代わりに物資統制で入手が困難になった釘や鎹と言った建築資材や燃料等の窃盗事件や闇取引きが横行多発するようになつた。
 陪審裁判とは直接関係ないが、東大の古畑博士の血液型鑑定が話題になったことがある。ある殺人事件で、被疑者が検挙後ただ一度犯行を自白しただけで黙秘を続けたため、あわや証拠不十分で不起訴になりそうであったが、押収した被疑者の着衣に付着していた血痕に警察が目を付けた。千葉医大に血液型の鑑定を依頼したが判然としないので、当時最先端の技術を有するとされていた東大の古畑博士に鑑定を依頼した結果、問題の血痕は被疑者のものと異なり被害者と一致する血液型であるとの鑑定結果が出た。被疑者は自白は全て警察での拷問によると主張したが、予審は検察側の主張を全面的に認めた。新聞は「科学は裁く、自白せぬ犯人」と題し伝えている(東京日々、千葉版、昭和12年1月8日)。
 この事件は双方の主張が対立しているため、陪審裁判に該当する事件であったが、被告人の辞退で陪審裁判にはならなかった。もし、被告人の辞退がなかったら、当時の陪審員は古畑博士の鑑定をどう見たであろうか。
 やがて軍国主義の台頭で、司法権自身もその尊厳が危うくなって来る。「軍国美談」と称して戦意高揚の目的で時々報道される記事の中に次のようなものがある。「千葉刑務所に収監中の窃盗犯Aに召集令状が届き、『馬鹿な事をしたばかりに、御国の大事に御奉公出来ぬとは』と嘆くので、刑務所長は、Aには未だ数か月の懲役の刑期が残っているが、特別に当局と相談し、Aを仮出所させて召集日に間に合わせてやる事にした」。また、「千葉地方裁判所で刑事事件で公判中のBには、◯◯日に判決が言渡されるところ、Bに召集令状が届いた。Bは、その旨裁判官に告げ、国の大事に国民の義務を果たしたいと申し出たところ、通常の手続きでは、判決後の検察側の上告猶予期間があるが、それを待っていると召集日に間に合わなくなるため、被告人の意を感じた検察官は、『国の大事に国民の義務を果たしたいという被告人の意に感じ、如何なる判決が出たとしても、量刑を不当として上告はしない。上告権を放棄する』と述べ、裁判官も『しっかり、国民の義務を果たすように』と説示を行い、召集日に間に合うよう執行猶予の判決を下した」という記事が残っている。明治期の戯言に、「懲役、兵役、一字の違い」とあるが、正にそのものである。
 しかし、太平洋戦争突入の直前の昭和15年、人々の記憶から消えかかっていた陪審裁判が2件連続して行なわれた。
 21) 昭和15年2月15日〜17日 「夷隅の尊属殺人事件」
 22) 昭和15年4月18日〜21日 「恋の老婆殺し事件」
 千葉地方裁判所で6年ぶりの陪審裁判ということもあって、2つの事件とも傍聴席は超満員で立錐の余地もないほどであったと新聞は伝えている。人々から陪審裁判が忘れられつつあった証拠に、新聞記事には「昭和6年以来9年ぶりの陪審裁判」と誤って伝えられ、訂正される事無く「9年ぶり」のまま記事が続いている(東京日々、千葉版、昭和15年2月16日、同25日等)。事実は、「昭和9年以来6年ぶりの陪審裁判」が正しい。
 21)の「夷隅の尊属殺人事件」は、千葉地方裁判所の陪審公判としては初めて、実父殺しが主題となった。それまで、養父の殺害〔10)、18)〕、義兄殺害〔8)〕、異母兄殺害〔20)〕があった。事件は被告人の妻(22)と実父(57)との不倫によって苦悶した被告人(33)が、実父と口論の末薪割用の大鉈で実父を死に至らしめたというものである。悲痛な事件で、被告人の妻が不倫の父と夫の間で苦悶したことを証言し、最後に夫である被告人に「立派に勤めを終わって帰って下さい」と述べるや傍聴席からもすすり泣き目頭を押さえる者多数であった(東京日々、千葉版、昭和15年2月18日)。
 陪審員は、「犯行は殺意に基づくものなりや」の主問に「然らず」、「犯行は殺意なく単なる暴行に基づくものなりや」の補問に「然り」と答申し、採択した裁判長は事件を尊属殺人事件から尊属傷害致死事件として、検事の求刑懲役12年に対して、懲役10年の判決を言渡した。
 22)の「恋の老婆殺し事件」は、千葉地方裁判所で行なわれた陪審裁判の最後を飾るにふさわしい裁判であった。
 昭和14年3月15日午前1時頃、被害者(84歳の老婆)方に侵入した被告人が、被害者に発見されたので近くにあった棍棒で被害者を撲殺したというものである。当初犯人の手掛りらしいものもなく、捜査は難行していた。しかし事件から一月後になって、警察は被害者の孫娘初枝(26)から、犯人は被告人三郎であるということを聴取した。被告人は昭和7年頃から初枝に思いを寄せ、雨戸の隙から恋文を投げ込んだり、ある時は竹割鉈で初枝を脅迫していた。昭和9年には、実際三郎が同家に侵入して家人に見つかり、親戚一同から意見された事実がある。犯行があった時、被害者が殺される寸前に「三郎!」と呼ぶのを初枝は聞いたという。更に初枝は事件を目撃して被告人の犯行であることを確認したが、三郎は親戚筋にあたるので同人一家の将来を考え示談の申し立てをしていた、と陳述したので、警察は初めて被告人を検挙し取り調べた。被告人は、取り調べの検事に対して1回だけ犯行の一部を認めたが、それを直ぐに覆し犯行を否認し続けていた。
 陪審法廷に臨んでも、被告人は徹頭徹尾否認を続け、犯行当夜の状況についても「私が殺したのでないから知りません」と答えると裁判長も苦り切り「お前のように何もかも知らぬ存ぜぬでは話にならん」と苦笑する一幕もあった。
 2日目は、証人として被害者の手当てをしたT医師、被告人の母、妻、実弟等数人が証言台に立ち、そしていよいよ注目されていた初枝の証言が始まった。初枝の証言は午後9時になっても終わらず、当初3日間の予定であった日程を1日延長して、翌日初枝の証人訊問を続行することにした。
 3日目、初枝は、隣村の栄農の倅と交際のあった点から、被告人の弟との結婚問題に関して裁判長に質問されると、それまでの女学校出のインテリらしいはきはきとした答弁から、急にシドロモドロの答弁となり、裁判長から「お前の言う事は少しも掴み所がない。予審判廷の供述と非常に相違している。嘘を言ってはいかぬ」と注意を受けた。その瞬間、顔面蒼白となった初枝は脳貧血を起こして卒倒したので、傍聴人で満員の法廷は大騒ぎとなった。初枝は休憩室に運ばれ、午前11時30分から午後2時迄休憩となった。再開後引続き初枝並びに茂原警察署長の証人訊問を続行して、証拠調べを終了し午後7時45分閉廷した。
 4日目、検事は、被告人の生い立ちから、長じて初枝に恋心を感じ再三再四付きまとったこと、犯行当夜、恋の目的を遂げようとして被害者方に侵入したが、被害者に発見され遂に殺害に至った経緯や、事件直後の被告人の態度などについて論告し、弁護人は、被告人の家庭状況、被害者の人物と初枝との日常関係、法廷に於ける態度等を述べ、証拠とする被告人の着衣に付着していた血痕について大きな疑問を投掛け、「被告人の行為であると断言する証拠がない」とし「犯人は他にありはせぬか」と疑問を投げ、特に初枝の予審調書での陳述を怪しみ、人的物的証拠がいずれも根拠なく、被告人三郎は事件とは無関係である、と力説した。
 一旦休憩の後、裁判長より陪審員に対して予審調書の内容を示した上「被害者の老婆を被告人三郎が殺害したるや否や」の諮問を出し、陪審員は協議の為別室に入る。
 やがて、午後8時半、裁判長の問書に対して陪審員から「被告人三郎は犯人に非ず」との答申があったので、裁判官はこの答申の採否について実に2時間半に亙って協議を行なった結果、午後11時、「当裁判所は陪審員の答申を採択して被告人三郎を無罪とす」と厳粛な口調で審判を下した。
 劇的な公判審理、陪審員の答申、そして裁判官の判決であった。
 この陪審裁判を最後にして、千葉地方裁判所陪審法廷の扉には固く鍵が掛けられ、やがて戦争が激しくなった昭和18年4月1日陪審法は「今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ」その効力を停止した。しかし、陪審法廷の扉は再び開かれることなく、空襲の戦火に灰燼に帰したのである。