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こちらは今月のエッセイコーナー
口上
5年ほど前にやっかいな病気になり、一時は娑婆への復帰が不可能とあきらめておりましたが、なんのことはない時間の経過がある程度の解決をもたらしてくれました。というわけで、5年ぶりの復帰です。
まだ、体力が脳力が回復しないので、新しいエッセーはもうしばらく先のことになりそうですが、とりあえず復帰のご挨拶とホームページの手入れをしてみました。08年の梅雨入り前には完全復帰を目論んでおります。その節は、お目汚しをお目にかけることになりますが、まずはご一読いただければ幸いです。2008年05月14日
最近、原稿依頼が少なくなってしまっているおりがら、するとこがなくてとうとう投稿魔をやっております。その一部を掲載しております。内容は HP 設置者の愚痴です。テーマと長さは投稿先の指定によります。お暇なら読んでね、という程度ではありますがなにかのご参考になれば……。
もくじ
(タイトルをクリックしてください)
私が考える21世紀の環境問題とその対応策−人口抑制が最善の方法
「より安定した安全保障環境の構築への貢献に向けた防衛庁・自衛隊の役割」

■ 私が考える21世紀の環境問題とその対応策−人口抑制が最善の方法 (to 環境緑化新聞社)
環境汚染の原因は、科学にある。科学は人間に幸福をもたらすために発達が求められ、幸福をもたらすことが文明進化の正義性を担保しているのだが、その反面でエントロピーを撒き散らし地球環境を汚染した。地球は人間生活が発生させているエントロピーのすべてを吸収はできないが、許容範囲はあるだろう。もう一つ考えなければならないのは、太陽がいずれは消滅すること。それから逃れるためには太陽系から脱出して、他の恒星系で生きるしかない。21世紀以降の環境問題は、だから現在をよりよく生きることと、太陽系から脱出する技術とエネルギーを手に入れる方法を探ることにあろう。
太陽系脱出計画はあまりにも巨大な技術とエネルギーを必要とし、それを現実のものとできるにはあまりにも長い将来のことになるだろう。だから、21世紀は現実の人間生活と地球環境の調和をもたらす発展形態を確立することにエネルギーを集中しなければならない。しかも、人間生活を抱え込んだ地球にはあまり時間は残されていないようだ。
人間生活と地球環境の調和をつくりだすためには、現在の生活(欲望)水準を大幅に下げるわけにはいかないならば、エントロピーの発生源である欲望の主体を、時間をかけて減らしていくしか方法はない。地球環境がそこまで人間に時間を与えてくれるかどうか、そのへんは解明されていないが、人類が生き残るためにはその努力をするしかないだろう。
人類生き残りの可能性は簡単な式であらわせる。地球がもっている循環可能なキャパシティ>人口×一人あたりエントロピー排出(欲望)量
この範囲内で技術を発展させ、地球からエネルギーを引き出すことである。具体的には人口抑制をどうおこなうか、地球規模でその方法と地域別割り振りをどうしていくかが、21世紀以降の最大の課題である。南側世界と北の利害が修復不能な対立に陥る前に。
■ 公園には清潔感を (to 環境緑化新聞社)
清潔感と静けさと緑、ゆったりと時間を過ごせる空間。そして、現代では安全か。公園には最低限、それだけ欲しい。どんなに施設が整った公園でも、清潔感に欠けていてはそこで時間を過ごす気にはなれない。子どもと安全に楽しく時を過ごせても、よごれた場所では誰も利用しないだろう。市街地の喧噪が持ち込まれても、やはり利用しにくい。
ゆったりと時を過ごせるベンチ、これも必需品だ。なにもベンチとは限らないが。目的はゆったりとして、くつろいで時間を過ごせればいいのである。子どもの声、大人の声があってもいっこうにかまわない。ひとがいれば声がするのが自然である。怒声、罵声のたぐいの、不快な声でなければ、聞こえてくるのが自然であり、あまりの静けさはむしろ不自然。公園を必要とする場所は、やはり都会のなか。ならば、人声は当たり前のこと。そんななかでも、静かに感じられる雰囲気をつくりだしてくれるのが公園であろう。静けさの要素には自然的雰囲気が必要だ。機械的な構造物に取り囲まれた静けさは、むしろ不気味に感じられてしまう。廃墟となった工場のなかにひとり佇むような気分になる公園は、機能を失ったも同然だし、利用者の安全はまったくといっていいほど保障されない。
郊外の区画整理地、市街地の再開発地のなかに作られた公園には、施設が整っているところも少なくない。しかし、そんな公園にひとがいない。ただ、空間だけが無意味に提供されているだけ。利用しにくいのではなく、利用目的にそぐわないからである。公園としての構造物はあますところなく整備されていても、メンテナンスがなされていないところは、清潔感に欠けてしまうし、安全性にも疑問をもたざるを得ないからである。ようするところ、公園に求められているのは日常のメンテナンスであり、構造物・施設の整備ではない。古城の遺跡を眺めるような、往事を偲ぶよすがではなく現在の平穏が欲しい。
■ 「こころの時代」と自由競争 (to 2001年日本委員会)
「心の時代」と自由競争は決して相反することではない。21世紀の半ばまでは急激な地球環境の変化がないかぎり、自由競争と自己責任の時代として推移していくだろう。そして競争はどんな社会にも存在する。また、存在しなければならない。要は競争に参加できなかった人、競争に敗れた存在をどう扱うかである。そのどう扱うかが「こころ」の問題なのである。
社会が自律的秩序を保つことができるか、強者の論理−−つまるところは投資家=市場が支配する無政府状態になってしまうかの分岐になるわけである。
自由競争でもてはやされるのは勝者の存在である。だが、しかし、競争に参加することが物理的にむずかしい人が存在する。また、競争に参加したが努力のかいなく敗者の側にたってしまうこともある。自由競争という社会事象・現象は勝者だけを生み出す機構ではないことは自明である。
一面で、社会を原因とした、結果としての敗者と勝者双方を生み出す機構であることを自覚しなければならない。その「自覚」が「こころ」であり、人と社会の行動綱領である。また、自由競争の正当性と持続性を担保するものでもある。
だから、こころの時代のキーワードは「現在を豊かに生きる」ことだけではなく、22世紀を生きる人たち−−つまり想像可能な世代−−に思いを馳せることだと考える。いまを生きたことで、22世紀の存在を「無」にてしまうような行動を排除していくシステムをどう確立していくかが問われているのである。
この前提のもとにキーワードを考えてみよう。
社会正義、地球環境と視点のグローバル化をあげたい。
社会正義
正義とは競争にルールを持ち込むことである。一国平和主義ならぬ、ひとり勝ちの豊かさを享受することは許されない時代になっている。もちろん、現在の競争社会にルールは厳然と存在している。そのことを否定するつもりはもうとうない。しかし、ルールがはなはだ一方に偏っているのではなかろうか。
企業社会の至上命題は投資家に対する配当の極大化にある。投資家の利益は一面で公益であるが、それは社会規範としてのルールが確立されたうえでしか存在できないことを銘記すべきだ。
なお、ここでいう「公益」とは、投資家がかつてのように企業社会で利益を生み出した結果、投資資金を調達し得た人ばかりでなく、市民から各種の負担金として集めた資金を市場で運用している機構の存在、たとえば保険・年金基金の資金運用なども考慮している。また、自由主義社会の基本的ルールとして自由経済のもとで利益をえることは正義であるという点を含んでいる。
視点
視点のグローバル化とは何か。いまの日本人はアフリカ沖で水揚げされた魚を食べ、中東の石油を大量消費し、アジアの野菜を副食にして経済生活から市民の日常生活までを成立させている。その結果、世界第何位かの経済力を誇り、豊かな生活を享受している。
が、その豊かさの源泉はどこからきているのだろうか。アフリカ、アジア、中東という世界でも比較的貧しい国の資源に依存しているわけである。
こういえることは事実である。「資源は存在するだけでは、資源ではない。利用可能な状態にされてはじめて資源としての有用性、価値が生じる」と。北側の豊かな資金と技術力がなければ、南側の資源はそこに存在する無価値なモノでしかない。
また、たまたま自国内に資源が賦存していただけのことではないか、偶然に支配されたことにすぎない、という主張も可能であろう。われわれ(北の側)の資金と技術という「資源」を投下してはじめて有用な価値ある資源となったと。
だから、資源を保有している国にはそれなりの代価は支払うが、有用な、ただのモノを資源にかえた側がその利益の大部分を享受する権利があると考えるのが20世紀の常識だったし、将来もそのように推移していくのだろう。
だが、この論理には陥穽が待ち受けている。社会がつくりあげた機構が見落とされているのである。敗者は好んで敗れるのではない。社会がつくりあげた機構の中で、勝者と敗者が生まれているのだから。
敗れた側を「敗れた」という現象だけで切り捨てるのでは、人間としてのこころは必要のないものになってしまう。また、敗者の救済という一国内で求められる論理が多国間となると不要のものとされるということである。国際政治は情緒で動いているのではない、ということは正しい。グローバル化が進行していない時代であれば、通用した前述の「先進国」のわがままは、地球大でヒト、モノ、カネが相互に動く場では通用しない要求になってしまうだろう。
逆に資源をナマのままのかたちで所有している側はどう考えるか。そのことに思いを致すのが「こころの時代」ではないだろうか。経済を成長させて自国民を豊かにする。現代の国民国家に課せられた最大の課題はそこにある。だが、21世紀のグローバル化した社会でその論理が通用するだろうか。国民国家に分立している地球を考えればその通りなのだろうが、人類という立場に立ったとき、そのような「一国繁栄」主義は成立しない。
自国の繁栄、自国民を貧しさから救えという国家の至上命題は、地球上に住む人間すべてを救えという概念に置き換えられていくだろう。その概念の転換期にある現在、こころ=市民としての自己の判断・行動基準を早急に改変していく必要に迫られているのではなかろうか。
でなければ、先進工業国にとっては中東の石油の供給は、自己にとっての「生命線」である。資源の供給の側にとっても石油は自国とその国民の生命線である。となると「生命線」を守るための戦いの連続になってしまう。生命線は相手側にも存在しているのである。現在優位に立っている側の生命線は、不利な側にとっては文字通り、自己の生命線を侵すものなのである。
競争
一応の豊かさを達成した先進国においては、競争原理の正義を裏打ちすることとして配分の平等化の追求があげられよう。ここでいう平等化とはすべてを同じにするということではない。競争が存在するからには、勝者と敗者が発生することは当然の帰結である。
その敗者に対しても、参加したことに対する報酬を保証するという意味での配分の平等化である。社会の中でルールに則って競争するのであるから、その敗者にもしかるべき報酬がなければ、いずれ競争そのものに参加する人はいなくなってしまうだろう。
勝てば相当な富を得られるとしても、結果敗者の側に追いやられれば、飢えが待っているというのでは、誰でもが競争に参加するというわけにはいかない。そこには当然に、競争そのものからの脱落が発生することになる。そうすると、競争を原理とする社会は成立し得なくなる。
さすがに、競争の敗者を社会としては放置するわけにはいかなくなるだろう。大部分の人が競争から脱落することを選ぶことになるから。古代社会であれば、狩猟という競争に敗れた人は飢えという負の報酬に甘んじなければならなかった。
しかし、人類の歴史はそれを否定することで発展してきている。そのために近代初頭から社会福祉という概念が登場した。そして、将来は恩恵的な福祉という概念は存在しなくなるだろう。残るのは、権利としての競争への参加の配当だ。
社会が競争を原理とするからには、競争に敗れた側にも一定の報酬を提供するのがルールである。すべての人に生きるための機会と費用を提供するのが競争社会を維持するための最低限度のルールである。そして、そのことを自国のみに止めるのではなく、地球全体にまで拡大していくことが現代の「こころのルール」ではなかろうか。
環境
自由競争で心配されるのは現在の勝利を求めるあまり、将来の環境をも食べて(浪費)しまうことにある。これが環境問題の原因といえよう。
現在を豊かにするためには、地球という環境の中に60億人という人間が存在し、しかも、全員が一定レベルの生活水準を達成しようとすれば多くのモノ=資源を消費しなければ不可能なことである。
22世紀を考えるとき、地球資源の枯渇問題をさけて通ることはできない。世界経済と技術の基盤になっている石油は数十年まえから資源の枯渇が指摘されている。その他の、鉱物資源においても同様の事情にある。
食糧にしても農耕の適地の減少が指摘されてから久しい。予測可能な将来においてすら地球が現在の人口を支えることが難しいと指摘されている。その中にあって、人類はどうやって21世紀を生き残り22世紀、そしてその先を生きていくのだろうか。
現在の大量生産・大量消費を続けていくならば、どのような楽観的な予測をもってしても資源と環境の絶対的不足が予言されているのである。方法としては、地球全体の人口抑制しか根本的解決は存在しないだろう。
かといって、現在生存している人たちを減らすことはできないのだから、一人あたりの資源・環境の消費量を減らしていくしか方法は存在しない。にもかかわらず、現在の生活水準を絶対的に維持し、さらに向上させようとする動きはとどまるところを知らない。
人間の欲望は向上にある、といってしまえばその通り、大正解であるが、問題の解決にはほど遠いことになってしまう。ここでも、自律した個人の判断基準の確立が求められることになる。
いかに地球環境がタイトになり、資源が枯渇しようとも、国家の強制、先導によって人間生活のありようをかえることは難しい。やはり、個人が自覚的にならなければならない。そのような自覚をどうやって確立していくのかが緊要な課題である。
こころ
最後になったが、「こころの時代」のココロとは何かを考えたい。
地球人口60億を考えるとき「心」という情緒的で文化的差異の大きすぎるものを問題にすることはできない。どうしても全人類が共有できるルールが必要になる。人間として、社会人としての行動綱領、コード・オブ・ビヘイビアが必要になるのである。
その目指すものは次世代以降の存在を保障することにあろう。いうまでもなく、地球環境は年々悪化の一途をたどっている。それにともない社会の環境も著しく悪化している。たとえば、雇用環境。わが国ではリストラの嵐が吹き荒れ、失業率は5パーセントに迫ろうとしている。
そのなかにあって、企業の経常利益は最大化しようとしている。リストラを免れた社員は、大きな配当を受けることができるが、された側は職を失うことで、食すらも失おうとしている現状が一方に存在している。
押し寄せる高齢化社会の中で、企業労働者として大きな組合に守られた労働者は、当然の権利として大きな年金などの保護を受けて豊かな老後を送ることが可能だが、未組織労働者は多額の年金を支払ったにもかかわらず、それを受け取れるかどうかが不安にならざるを得ない状況にある。
若い世代にいたってはさらに不安だ。年金の原資が自己の世代まで存在しているかどうかはなはだ心許ないのである。国の借金である国債発行残高は2002年度には400兆円に迫ると予測されている。1家族あたりいくらになるのか、計算するのも恐ろしい額に至ってしまっている。
そのような中で、新しい世紀が始まるときに次ぎの世紀に思いをいたせ、開発途上国に生まれた人の生活に思いを馳せよ、と主張されてもそれを実行することはできない。まず、いまを生きなければ将来は存在しないのだからということになってしまえば、社会にルールは必要がなくなってしまう。
つまりは、自由主義、自由競争社会がもっとも警戒しなければならない無政府状態はすぐ隣にあることになる。
そうならない、ではなく、そうさせないために「こころ」という社会正義のルールを確立していかなければならない。いまを豊かに生きるために、市場の支持をえるために生きるため以上の、22世紀を残すことができないような消費を控えるこころとルールを確立していくことが21世紀初頭を生きる人たちに課せられた最大で最後の課題ではなかろうか。
■ グローバル化と日本 (to ニューズウィーク日本版)
諸刃の剣という言葉が浮かぶ。グローバル化による経済関係=技術を含めた文明=の拡大は当然に、倫理観・社会観=文化=を移入させることになる。日本的文化・倫理観が国際化によって崩れてしまうという不都合が為政者の側にはある。この点が、諸刃の剣なのである。
文化に対する感覚の相違の問題である。日本では「国家の繁栄と国民の幸せ……」というようにまず、国家ありきである。元首相が「我が国は単一民族である」と演説して物議を醸したが、連邦国家、多民族国家のように共同体としての「国家」を強調しなければ国家としての求心力に不安がある国の、建前としての国家ありきではない。日本では共同社会=国家、その構成員はまず国家の成立に忠誠を尽くし、その結果国家から保護を得るのが文化であり、民族の倫理観のようだ。
ようするに、日本国民にとって国際化とは、経済とそれに伴うモノ・ヒト=文明=の移動だけではない。人生観、社会観=文化=のグローバル・スタンダードの普及が一番劇的な変化として感じられることになるはずだ。
最近新聞で見た。一部上場企業の会長、ある理由から社員数人を解雇した。この人はたたき上げて自身の会社を作り上げたらしい。その前身は知らない、知っているのは上場会社の最高権力者だということだけ。ある日、支社か、出張所か彼の支配下の場所に出向いた。当然、被支配者=社員=はひれ伏した。文字通り、ひれ伏すことを要求した人らしい。大衆から資金を集めて投資する株式会社の最高権力者がである。新聞情報だけだが、その会社では件の会長さんを見たら、大声で挨拶をし、最敬礼をしなければならないらしい。
その会長、大声で挨拶しない社員が自分自身をどう見ているかはお見通し。即座に、不快になった。挨拶のできが悪かった社員の上司も、会長の激怒の意味を理解した。社員に詫び状を要求した。ばからしさは、ここで極まったと、思ったがどうやらそうではなかったらしい。社員諸氏は「詫び状を」提出した。人格を放棄したのだ。
それでも会長さんは詫び状を受理せず解雇を指令した。だから訴訟になった。これが零細企業の社長・会長の行動なら困った感覚ではあるが、行為自体の責任を自身で背負うのだからあきれるだけですむかもしれない。しかし、上場企業であり、資金を銀行から借り入れて運用し、その利ざやを稼ぐ企業のトップが社員の人間としての権利をかんがえずに専制支配をしたのである。
この企業は投資家に対して、資金を提供してくれる銀行に対してどのように考えていたのだろう。ことは当然に公になる。投資家が知り、銀行が知ってしまうのである。にもかかわらず、企業の経営判断として社員をそのような理由で解雇した。日本の文化面で象徴的出来事だ。株式会社という資金調達手段=文明=は取り入れたが、個人の人格の自律という文化は排除してきた。ここに日本のグローバル化の難しさがある。
最近の出来事パート2、野呂田予算委員長。この人はちょっと前まで防衛庁長官を務めていた。他国との摩擦にもっとも注意深くなければならい、うかつな発言が時に戦争をも誘発するほどのポストにいた人だったことに留意してほしい。しかも、同種の発言は先輩政治家各氏により何度も繰り返されており、諸外国がどのような反応をするか、結果ご自身の立場がどうなるかはいやというほど身にしみているはずである。
にもかかわらず、の発言である。「(戦争を)やったことで(欧米列強による)アジアの植民地政策が根本から無くなった。今でも東南アジアを歩くと日本のおかげで独立できたと言う人がたくさんいる」と述べるなど、日本の戦争行為を正当化する発言をしたのだ。当然に、さっそく中国、韓国、北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)などから、激しい抗議の声があがった。当然のことであり、過去の例から見てもわかりきった反応のはずであった。
歴史認識のグローバル・スタンダードへの挑戦である。聴衆から反発が予想されるなら、こんなことは発言しなかっただろう。国民のなかにもこのような認識を歓迎する雰囲気が存在するわけである。いま問題になっている「新しい歴史教科書を作る会」の主導で検定申請された中学歴史、公民教科書について国内外から強い懸念が出ている。これも国内外から批判と抗議が噴出することは承知のうえでやっていること。やはり、その見解を支持する勢力が強固に存在し、文化のグローバル化に抵抗する国民的雰囲気が存在していることの証左といえよう。
知人がいま悩んでいる。アメリカ人と結婚して3人の子供がいる。そろそろ学齢期に達してきた。収入のために日本で生活しているが、精神のグローバル・スタンダードを求めて、よりましな夫の本国アメリカに帰ろうかどうかを。夫妻の心は決まっている。子供の心を歪めることはできないと。けれど、日本での収入には捨てがたい魅力もあるが。
■ 「より安定した安全保障環境の構築への貢献に向けた防衛庁・自衛隊の役割」 (to 防衛庁ディフェンスリサーチセンター)
なにから誰を守るのかの国民議論を
過去において軍隊は戦争をするための道具だった。現在は、争いを抑止するための組織であり、またそうあらなければならない。でなければ、人々に恐怖を与え、破壊と殺戮と消費だけの存在に陥ってしまう。
軍事力を発動することが可能かどうかという実用性の上で、本質的な意味の転換が生じているのである。しかしながら、そのことをわかろとうせずに軍隊を「戦争をするための軍隊」として存在させようとしているかに見える集団が存在する。
たしかに、必要最小限の軍事力を整備して、万一の事態に備えることは国家の責務である、という。当然の事だが、ここ日本で抜けているのは、万一の事態に誰を、なにを守り抜くかという議論である。そこでは、万一の場合に守られるべき国民の信頼が最重要である。国民の信頼がない軍事力など、実際には存在し得ないことは自明のことだろう。
さらにいえば、世界各国、とりわけ直接に軍事的プレゼンスを受ける周辺諸国の信頼も必要になるだろう。日本の場合、「過去の不幸な歴史」があるだけになおさら周辺国の理解を得ることが重要になる。
昨年末、著名な作家が「朝日新聞」インタビューにこたえた記事が掲載されていた。その見出しに曰く、『国家も軍隊も市民を守らぬ』という大きな活字が踊っていた。このことはなにを物語るのか。
市民を守らないという見方は、第2次世界大戦当時の国家と軍隊を指しているのではない。現在も同様の状況にあると指摘しているのである。これにたいして、「そんなことはあり得ない」と一笑に付すことも可能だろう。また、事実として旧体制下ではごく一部で指摘されるような事実は存在するが、現在の国民主権体制でそのようなことは起こり得ない。そのような、批判にこたえる必要はないと防衛当局は反論の必要性すらも認めないのではないか。
だが、事実として作家の危惧は国民のなかで少なからぬ支持を得ているようだ。それにたいして、荒唐無稽な言いがかりとして片づけるのは個人、あるいは任意の団体であれば許されるのだろうが、国民と国家の安全を担い、国権行使の実力部隊である防衛当局がその危惧を国民の間から取り除かないままに過ごすことは許されることではない。
軍隊の維持を保障する納税者の信頼を得、そして周辺国、さらに世界の信頼を得ることと、実際に発動される武力闘争の抑止力の2点が、これからの日本と、自衛隊に求められるキーワードになろう。
実戦は実力行使の権限を国民から委任された軍隊の仕事。そこで勝利するための戦略・方策をかんがえるのは専門家たる防衛庁、自衛隊の義務である。国民と国家の義務は、戦力を発動させないための国際政治上の抑止力と信頼を得るための外交、経済、政治体制を作り上げることにある。
そのためにいま必要とされていることは、国防に関する国民議論と防衛庁・自衛隊の情報公開である。とくに情報に関しては「公開」よりさらにすすめて国民と自衛隊がその情報を「共有」するほどにならなければならない。防衛庁・自衛隊の情報秘匿体質は納税者のみに向けられているのではないかと思える。なぜなら、外国は自衛隊の装備、配備などの軍事情報をほとんど完全に把握していると思われるし、事実そうであろう。
にもかかわらず、納税者にだけは軍事上秘匿しなければならないこととして、情報はほとんど与えられていない。それでは日米安保を堅持することが、わが国がよってたつ国際政治上の立場であると声高にいわれても、納税者として十分に納得することはできない。米軍の日本国内での行動の自由のための有事法制としか国民の目には映らないことになってしまう。
米国を支持しなければ、仮に日本という国家が成り立たないのであれば、その理由を経済、技術・特許、資源の流通を含めて国民の前にすべてを明らかにしなければならない。本当の事情を知らない国民はそれを支持することはできまい。日米安保論議が国民の間でいまひとつ理解を得られない理由はそこにある。知らないこと、わからないこと、隠された理由のあることを、国民・納税者は支持することはできないのではなかろうか。
一方で防衛力整備論議には、当然対象がなければならない。具体的にどのような勢力、国がどういう方法で侵略を企てる可能性があるかを国民の前に明らかにしなければならない。対象が存在しない可能性のみの侵略予備軍に対する防備は、無限に拡大せざるを得なくなってしまう。
ロシア、中国、北朝鮮などの脅威がいわれたが、冷戦がおわりそれらの国々が日本に侵攻する理由はほとんどなくなっている。北朝鮮のミサイルと艦船による軍事侵攻の可能性は、たとえ相手にその意志があっても能力が存在しないことは明白である。
侵略は具体的力を持たなければできないこと。となると、その能力を日本周辺で有しているのは同盟国アメリカだけということになってしまう。同盟条約という一片の約束は国益を守る侵略意図の前には、ほとんど無力の保証書といえよう。国民の前にわが国はどのようなかたちで侵略される可能性があるかを防衛担当当局が具体的に説明しなければ、武力侵攻の力量を持つ唯一の国アメリカを仮想敵国の第一番にあげなければならなくなってしまう。この事態を回避する方法は、国民の前に可能なすべての国防情報と国際政治情勢を開示することである。
しかし、現状は国民の前に具体的説明がなされることはない。あるの防衛費のツケの支払い請求だけである。
また、問題の中心にいる自衛隊はその存在が「既成事実の積み重ね」によって成立している事実を否定できないことが防衛に対す国民の見方を曖昧にしている。国民全体で論議をし、必要が認められ、国民全体から祝福されて生まれ育ってきた組織でないことは各種の世論調査の結果をみるまでもない。アメリカという大国の世界戦略の必要の中から作り出された軍事力である。成立の事情は国民の統合された意志とは離れたところにあったのである。
そして数十年の時が流れ、日本は経済大国といわれるほどの経済力をもつようになり、それにふさわしく、かつ経済権益を守るための軍事力の保持が国民一般のなかにも浸透している。しかし、国民の半数近くはいまも軍事力をもつことに不安を感じているのである。
その背後にある意識はなにか。
やはりなにから誰をどのように守るのかという約束がなされていないことにあるといえよう。国として国民の身体、財産を守ることは最低限の義務であり、より強くは権利である。にもかかわらず、防衛力論議を本格的に展開してこなかった。政権にとって不利益であっても、益するものはないという政権にとっての利害のみで判断され、国民統合の利害はなおざりにされているのである。
本当に必要であり、権利・義務であるならば、現在の政権にとっての利害をこえた国防論議を国民のなかに提唱していく義務が、防衛担当組織にはあるはずではないか。その議論をさけることは、諸外国にとっても日本の軍事力行使の方向に、多大な不安を抱かせている。
英公文書館はことし1月2日までに71年11月に東京・市谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で起きた三島由紀夫事件に関連して、東京の英国大使館の武官らが本国に送った一連の機密文書を公開した。英外務省、国防省にあてた文書である。そのなかで三島事件とは別に「(日本に)はびこる奇妙な混合宗教」の存在を指摘し、「予測困難な驚くべき何か」が、将来起きる恐れがあると警告し日本で軍国主義が復活する可能性を検討している。
この情勢判断は30年も前になされたことではあるが、その危惧をいまも諸外国が抱いていることは、自衛隊の装備が拡充されるごとにおきる周辺諸国の政治指導者による危惧の表明にも常にみられているのである。
インドの核保有、北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)のミサイル開発、どちらも主権国家の選択であり、行動である。当事者は「防衛上必要なのだ」といい、それにたいする干渉は主権にたいする干渉だと反発する。外国が主権にまで干渉したくなる理由は、その国の軍事力行使についての不安があるからである。
独裁国家の北朝鮮はともかく、インドは議会制民主主義の国であることはだれもが認めるところである。国民の意思がまがりなりにも議会をとおして反映されているはず。それでも不安なことは不安なのである。
日本もなんのために軍事力を保持し、それをどういう場面でのみ発動するか、世界の前に信頼できるかたちで表明し続け、それを担保する世界政治上、あるいは国内政治上の行動をとらなければならない。
国連平和維持軍が構成されるような国際政治状況になっても、日本の軍隊だけは参加を拒否される事態もかんがえられないわけではない。「現代の普通の国」とは、国民的議論がなされたうえで、国家として行動していく国をいう。国民の議論を避けて既成事実のつまみ喰いをしているのでは、最悪の国になってしまう。
■ 頑張れ「地方政府」 (to 川崎市)
地方の公共団体からの脱却を願う
人口127万人。面積144・35平方キロ。年間予算1兆1千億円。これが川崎市の規模である。
これの数字はすでに国家だ。中央政府を構成することも可能なほどの人口と財政規模をそなえているといえよう。もはや「地方公共団体」などとは呼ばせないだけの実力をそなえていてなんら不思議はない。にもかかわらず、3割自治、1割自治などといって嘆いている場合ではなかろう。被支配人口127万人の権利を擁護する行動を積極的に展開しなければ、政令指定都市という都道府県なみの「特権」はもちろん、地方自治体としての存在も放棄してもらわなければならなくなる。
ちなみに国連加盟国と比べてみると、人口では、ガボン共和国114万人、ボツワナ共和国148万人に匹敵している。年間予算はガボンの1兆8000億円(国家予算)に比肩する。
ここでは規模の大きさを問題にするつもりはない。国家を構成できるほどの人的資源と財政能力をそなえている、ということを強調したいのだ。実際には自治体は小さい方がよいとかんがえる。住民自治という言葉からかんがえられるように、自治をおこなうためには人口が多すぎては「自治」はできにくい。当然に代議員を選出して、議事を代議させなければならない。代議員一人について選挙民の数が多くなれば、選挙民の意志は代議員に届きにくくなる。そしてついには、代議員は住民意識とは別の世界の人となってしまう。
地方自治体内部ですら、中央政府と地方政府たる「地方公共団体」との関係のように、上意下達の世界、中央の決定を地方が実行するという実質的な中央集権そのものになってしまうおそれがある。残念ながら、いまのわが国は実質的に極端な中央集権国家であり、中央と地方の関係でいえば、まさに中央独裁国家なのだ。
ちなみに、「自治体」という言葉を使用したが、法治国家日本において法律用語として「地方自治体」という言葉は存在していない。あるのは、「普通地方公共団体」のみ。
「地方公共団体」という呼び名は、地方政府、セルフガバメントのイメージからはほど遠い。中央政府が上に君臨し、その下に恩恵をもって組織が認められている地方の公共団体、という構図である。これは地方自治体を地方政府として目覚めさせることを押さえ込もうとしている意図が原因しているといえよう。何故に中央政府は地方政府をして「地方公共団体」の言葉がイメージする地位に押し込めようとしているのか。
自治体が地方政府としての役割を担おうとする動きを封じ込めるためであり、それを支える住民を覚醒させないためである。地方が国政に意見を述べだしたら、収拾がつかなくなる、という中央官僚の愚民思想の反映であり、住民を含めた自治体側の無為の結果なのである。
川崎市は地方政府としての十分すぎるほどの規模を誇っている。故に、政令指定都市になっているわけだ。にもかかわらず、一般に自治体は3割自治、中央政府の出先機関の任に甘んじている現状から積極的に脱却しようとはしていないかにみえる。ただ、中央政府から与えられた権限と財政能力の少なさを慨嘆してみせるだけで、地方政府の支配下にある住民の利益を、中央政府の抑圧から守ろうとしていないのが現在の地方政府たる自治体の実態である。
しかし、中央政府の存在は地方政府の存在を前提にしていることを忘れてもらっては困る。中央の立法・司法・行政、三権の分立、チェック・アンド・バランスのように、中央政府と地方政府にはあきらかに役割の分担があり、相互に監視しあうと同時に地方と全体を高めあうという平等の関係になければならない。
国家、つまり中央政府は国民を抽象的存在として把握している。このことは、わが国の最高裁判所のいくつかの判例でも明示されている。政府にとって国民とは、一人ひとりの人格をもった人間を意味するのではなく、集合としての国民として把握すればよいことにされている。
じじつ、中央政府たる日本政府は国民を集合体としての「日本国民」として把握し、政治をおこなっている。そして、個々人たる市民を把握するのは地方政府たる自治体の役割だとしているわけだ。もちろん、それでよい。日本の場合、1億2千万以上の国民を中央政府が人格をもった個々の国民として把握することは不可能である。そうした意味からは、127万人を抱える地方政府となると、ここで本論が期待するセルフガバメントの機能は事実上果たせなくなっているかもしれない。前述のように自治体はその目的からして、小さい方が住民にとって有利である。財政規模が小さくなって、インフラの整備を含めたさまざまの施策が実施できないから、無理にでも合併して規模を拡大しようという方法は地方政府として、自己消滅の道を選択することになる。必要な投資は広域行政組合などの、近隣市町村と協力しておこなえばいいことであり、小さな地域に重複した大規模施設を設置する必要は住民にとっては、ない。
もっとも、国民の個別把握ということでは中央政府は国民総背番号制を導入し、国民個々人を税金の支払い義務者としてだけは個別に把握しようとはしているらしいが。これは、いまここで問題にすべき事柄ではないので、政府による国民個人を把握しようとすることの役割の誤りだけを指摘しておきたい。
さて、話をもとに戻そう。国家は国民を抽象として把握し、地方政府−自治体は市民を個々の人格としてとらえる。つまり、○○町××番地に住む△△さんご一家の□□さんの要望は何々だ、と把握することが可能だから「自治」体なのである。政府はそのような自治体が存在するゆえ、国民を抽象としてとらえることが許されるのである。
にもかかわらず、地方政府が市民の把握をおこたると、期待されている中央と地方の関係が切断されてしまい、国民国家そのものが存在できなくなってしまうか、すくなくとも市民生活にとって存在意義を失ってしまうことになりかねない。
3割自治を嘆いてみせるだけで、中央の統制下にあまんじて、実際は中央に従うことによるぬるま湯に浸かっていれば中央から財政支援や有形無形の庇護をうけることができる。中央政府から幹部職員を招く、首長候補に政府官僚出身者をあてるなどはこの典型であろう。中央政府の代弁者を首長に、幹部職員に招いて地方政府の役割りである市民の権利擁護が可能だろうか。
可能性としての論理では、いかようにも説明できようが、実際問題は中央政府の意向を反映することに汲々としてしまうことになるだろう。最近の選挙では、長野県や栃木県の知事選挙で多数の政党が相乗りした、オール与党体制の候補が破れている。どれも、中央政府の意向を体した現職またはその後継者とされる候補が落選している現実をご覧あれ。
マスコミは政党不信、行政不信というが、選挙民の見識は別のところにあったのではないだろうか。現状を変更したいという希望はもちろんだが、もっと積極的に脆弱な権限しかもたされず、中央からの財政援助に頼る地方公共団体、地方自治体ではなくもっと確固とした地域行政理念と実行力をもち、かつ住民に直接の責任をとる地方政府といえるような自治体行政を求めているのではなかろうか。その意志の反映が知名度は高いが、県政にはまったくの素人や、小さな自治体の首長だった候補者を知事に選出する結果としてあらわれた。少し前のことではあるが、東京、大阪というわが国最大の2都市でもそのような選択がおこなわれている。いまのところ、単発の「現象」にすぎないが、その底流は全国に強いうねりとして流れているとみるべきである。
住民は中央の意向を地方に押しつけるための自治体ではなく、地方がその地方独自の生き方をできるような「政府」を求めたのである。また、抽象としての国民をかんがえざるをえない、中央政府に対して個々の市民を把握する地方政府の役割を的確、確実に果たしてくれることを望んだのではなかろうか。
地方がその地域を統治する「政府」になって、国民にとって問題が生じるとすれば、カリスマの登場にあるだろう。地域が小さければ、住民受けする政策と手法をもちいて地域を「支配」するカリスマ的な存在が独り歩きする心配である。中央政府の統治下にある法治国家においては、問題が実際におこる可能性は事実上絶無である。
.地方公共団体と地方政府
地方公共団体と地方政府とはどう異なるのだろうか。地方公共団体には地方自治体とは別に特別地方公共団体とよばれる単一目的のものもあるが、本論ばあいは自治体である普通地方公共団体について述べる。地方公共団体と地方政府、実質的におなじ機構を指しているのだが、ことばとしては対極にある表現といえるだろう。
地方公共団体は中央政府との関係でいえば、その末端にある、地方に存在が許された「公共の団体」という存在感しかない。一方、地方政府とよべばおなじ機構ではあっても、中央政府とも対決できる能力と気迫をそなえた、住民の自発的意志にもとづいて構成された統治機構としてのイメージを強くもつ。アメリカの各州のイメージといえよう。
アメリカのばあいは、国名からして合衆国であり、州が盟約によって国を形作っていることを明言している。それだけに各州には州憲法すらもある。このことを理解するのに日本人にとっていちばんわかりやすいのは、州によって死刑制度が存在する州とない州があることだろう。東京都にあって、神奈川県に死刑制度がないとなると、日本人としてはパニックに陥ってしまうだろう。が、アメリカは州という地方自治体にそれだけの権限を認めているのである。
州という地方政府の存在意義はなへんにあるのか。ひとくちにいえば、中央政府が統治する全体としての「国」の発展は重要であるが、州にとっては州民の人権と利益を守ることが最重要課題である。
そのためには、ときには中央政府と鋭く対立することも辞さない姿勢を、地方政府である州政府と州民は保持している。
ひるがえって、日本の自治体を地方政府とはとても呼びたいくない−−。この気持ちを代弁する言葉が、最近の新聞に載っていたので紹介したい。ヤリ玉にあがっているのは、国が進めている熊本県の川辺川総合土地改良事業だ。事業の主体は「国」だが、周辺の土地区画整理事業は県営。事業の結果利益を受けるとされている関係農家の半数が反対しているそうだ。
事業そのものの差し止め請求も地元農家約2200人から提訴されており、2000年9月に熊本地裁が請求を退け、現在福岡高裁で審理がすすんでいる。その訴訟の原告団長の話として、
「利水事業は住民の意思からかけ離れている。民意を反映しない公共事業に『地方自治の貧困体質』を感じた。川辺川ダムはその縮図だ」(朝日新聞2000年11月29日朝刊)と報じている。まさに、地方政府の危機である。
反面、つぎのような動きもあった。環境庁が工場跡地などの再開発で有害物質による土壌汚染の法規制についての専門家の検討会を発足させるようだ。有害化学物質の環境基準設定のほか、処理費用をだれが負担するか、汚染情報をどのように開示するか、行政に立ち入り調査権を認めるかなどを検討するもの。
その検討会に法律、経済、健康などの専門家に加えて、地方自治体の担当者を参加させるというのである。土地はたとえ国有地であっても、自治体の中にあるもの。周辺住民の健康、利害、意向を汲み上げた自治体が決定に参加するのは当然のことといえよう。それがこれまで、どれほど住民参加ならぬ、自治体参加がおこなわれてきたのか情報をもたないが、これからは自治体住民の意向をたいした地方政府の意志が強く反映される機構にしていかなければならない。
このような動きが「国」から差しのべられた手なのか、地方政府が中央に要求して勝ち取った施策なのか。これも重要なことだ。国の免罪符のために地方政府が参加して決定した、というだけで事実上は国の意向に沿って動いていくのではむしろ事態は後退しているというべきである。地方政府としての責任の放棄にもつながってしまう。
これに関連してもうひとつの発言を引用する。
「国内初の臨界事故から1年余。茨城県東海村の村上達也村長。『これまで東海村民は、原子力は安全だと無条件に信頼してきたが、そこに起きたのが臨界事故だった。国や事業者に任せず、村民の意志を村がきちんとくみ取らないと、村としての責任は果たせない』」(朝日新聞、2000年10月30日「天声人語」)
「国」と「地方」の関係では小さな動きなのかもしれないが、市民はその成り行きに常に関心を払っていることを忘れてもらっては困る。
.中央政府の権力独占はどこからきたのか
GNPを増大させることを目的に、金融財政政策をテコにして戦後の「中央集権化」がはかられてきたことは周知の事実。敗戦による国内経済の混乱から脱却するためには、この方法が便利だったのだろう。開発途上国における「開発独裁」をみれば、理解の参考になるだろう。
開発途上国は、多くは植民地宗主国という全体支配者をもった経験を身近にもっていた。日本においては、天皇制と官僚支配という戦前の歴史を引きずっている。それだけに、経済復興、そして、高度経済成長期には開発独裁まがいの中央政府独裁も国民のなかには−−あいまいなことばではあるが−−一定程度まで許容してきたのだろう。
しかし、今日、日本は世界でも有数の経済力をもつ国になった。開発独裁、中央政府の命令いっか、すべての人的・知的・物的資源を単一の目的に投入しなければならない時代は終わったはずである。
この「終わる」ことを前提に中央政府に協力してきた国民(市民)は、目標が達成されたことをもって社会構造と社会の目的が次の段階に入ることを求めている。つぎの目標は人間生活の高度成長であり、自由と民主主義と、平等、つまり人権の高度成長が求められるときにきている。
たまたま、現在は経済不況のドン底にあるといわれているが、世の中に失業が蔓延している。経済のカジ取り役である中央政府にはそこからの脱却のために、「とても人権などといってはいられない」状況にあるとかんがえているフシがある。しかし、ふり返ってかんがえてみよう、どこに本来の不況があるのかを。企業の経常利益が史上最高を記録している現実とリストラの嵐はどう両立しているのだろうか。
.「個」を守るべき地方政府
地方政府の存在意義はその構成員の人権と利益を守ることにあることは、くどいほどに述べてきた。とくに、中央政府の抽象としてとらえた「国民像」から「個」としての市民を守ることにある。
究極的には自律した個人が連携して社会をきづいた結果、住民自治が生まれ、それらが連合して各レベルの自治体を形成していくのか、まず、国家ありきか、の問題に収斂されよう。国家にとって国民は抽象的な固まりとしてしか存在しない。自治体−地方政府には、ひとりの自律した個人となかば抽象化された存在としての市民が混在する。
自治体構成員=市民は訪れたことはもちろん、その存在すらもほとんど知らない地域のこと、つまり国家レベルのことは通常日常的にはかんがえない。だから、日常生活レベルの自治体が21世紀の地方政府なのではなかろうか。国防権、外交権、経済政策決定権をもたないかわりに、「個」としての市民が、「個」を主張し、それが尊重される場としての地方政府になってほしい。そうすれば、人々は集まり、よろこんで地方税を支払うことだろう。タックス・ペイヤー(納税者)としての義務と権利がイコールになる世界を、地方政府が率先してつくっていかなければならない。
自治体はアイディアで競う時代だと某新聞は書いているが、問題はその知恵とアイディアを向ける方向だ。わが国の国民は貧しいか、豊か。個々人の立場で論が分かれるところだろう。ぎゃくにかんがえると、論が分かれるほどに経済力は充実しているといえるわけだ。一時期のように、戦争からの復興、狭い国土の超有効利用に国民の大半の支持がえられる時代ではなくなりつつある。
国民の意識と利害はたいへんに多様化している。そのなかにあって、中央政府の国民を抽象としてとらえる政策とはちがった個々の住民の意識と利益を汲み上げる地方政府が求められていることを失念してはいないだろうか。
法体系が自治体に、現在そのような権限をあたえていないならば、なぜにその事実を市民に訴え世論を作り上げていこうとはしないのか。都道府県は財政問題では外形標準課税方式の導入をはじめ、さまざまな税収拡大策を打ち出して中央政府と対立することも辞さなかった。この背景には、住民の強い支持がえられるという自信の裏付けがあったのだろう。事実、国民の大半は企業人としては不快におもいながらも、住民としてはおおいに歓迎した。
要は、住民の支持が得られるようにすること、この一点にかかっていることを行政は理解しているわけだ。だから、つぎにくるものは行政が税金の使い道をすべて明らかにする情報公開、そしてその公開された情報を市民が的確に判断できる、判断基準を提示していくこと、そして住民の側がそれを受け入れる能力を短い時間のあいだに身につけることである。
とくに重要なのは、この判断基準である。どんなに情報が氾濫していても、それを判断する能力がなければ、実際には判断したことにはならない。ただ、判断を下したつもりにさせられるだけ、あるいは「判断」したことへの責任をとらされるだけで、結果は中央が提供する情報を受け入れるだけにおわらざるをえなくなってしまう。
.定住外国人への参政権の付与
ところで、11月末に国会提出が見送られた定住外国人への地方参政権付与の問題が、川崎市には大きくのしかかっている。
現在の参政権反対論を敷衍すると外国人は逆説的に治外法権存在になってしまう。外国籍定住者の排除の背景には、基本的に単独民族説(感情)があり、異質を排除する差別に他ならない。にもかかわらず差別対象から利益は享受するが、反対給付を支給しないというのでは日本国内では通用させてしまうのかもしれないが、広く世界に目を転ずればとうてい容認される論理ではなかろう。
こんな例がある。人権問題で西欧の批判に対し、中国やシンガポール、マレーシアなどの政府首脳は「アジアにはアジアの人権感覚がある」として、その批判を拒否している。それを聞いてわが市民、国民はアジア諸国は「遅れているから」と冷笑していた。あるいは、さもありなんとかんがえていたかである。
しかし、客観的にみて日本に人権があるのだろうか。首都圏にある6大都市のひとつであり、政令指定都市である川崎市は、いまなお「差別」という極めつけの人権問題で悩み、振り回されている。これはひとり川崎市だけの問題ではない。
国連人権委員会の委員のひとりが数年前、労働団体の招きで来日し、各地で講演を行ったが、そのなかで日本の人権状況を批判しており、その概要が本人の了解をえて出版されている。さらに、5年ごとにおこなわれる国連人権委員会の国別審査でも、多くの委員から日本の人権状況について批判がなされている。とくに、定住外国人の処遇についても、1項を設けて日本での人権状況改善が求められている。
その地域に定住して、各種の税金や市民的義務を果たしている外国籍人に少なくとも、地方参政権を与えないとどうなるか。
まず、国家間の相互主義が問題になってくる。ある国は、原則として定住外国人に参政権を与えていても、外国籍人に参政権を与えていない日本人に対しては相互主義の原則にもとづいて、拒否される場合が起こりうる。国際間の人的移動が激しくなっている現在、大変不自由で不公平な問題が起こることは必定だろう。
ここで、外国人に参政権を与えなくてもよいとする側は、ぎゃくのばあいが起こっても「公共の福祉」論をもち出して、その程度の不自由は公共の福祉のために忍ぶべきであるとするのだろうか。
公共の福祉論については別項で述べるので、参政権の問題についてのみ検討する。
外国籍人になぜ、参政権を与えないですまされるのか。他国に忠誠を誓う人に自国の参政権を与えることはできない、とする論なのだろうか。そうなると、企業の政治献金というかたちの「参政権」が問題になってくる。
企業も社会の構成員であり、自然人にのみ与えられた直接の参政権を与えるわけにはいかないが、政治に関与する権利は社会の構成員である以上当然であるとの論理がまかりとおっているが、これはどういうことなのだろうか。
外国籍人との対比でかんがえると、ひどく不自然に見える。企業は投資家に対して忠誠を誓う存在であり、国家・国民に忠誠を誓う存在ではない。昨今、日本国内の人件費の上昇、企業立地の都合から、生産工場を他国に移転している企業が多くなっている。国内からまったく撤退してしまっている大企業も散見される状態である。
日本に存在するのは管理部門である、本社機能だけという企業が少なくなくなってきた。役員はもちろん、最高経営責任者である社長が外国籍人である企業も少なくなくなってきている。資本と人間の交流がこれだけ多くなれば当然の結果であり、今後はさらに普遍化していくだろう。
となると、企業は本社機能を外国に移転することも、簡単ではないかもしれないが、難しいことではないはずである。国家に対する忠誠が、どこで保証されるのだろうか。そういう存在が、社会の構成員であるとの理由から国政すら左右する政治献金をすることがまだ、認められている。企業行動にかんしてディスクロージャーが強く求められているが、さらに企業会計そのものの開示が必要になってこよう。でなければ、政治献金を支払う余裕がどこからでているのかを確認することもできない。
にもかかわらず、定住外国人には参政権が与えられていない。ここに矛盾を感じないのだろうか。地方政府たる自治体は自己の意志決定機関である議会の議員を選ぶ権利を誰に与えるか、を選択するにあたって自主権を発揮する必要があろう。
法がそうなっていない、という官僚的逃げ口上は近い将来、とうてい通用しなくなるだろう。中立であるべき公共権力が国民の間で議論が分かれている問題について一方を提唱することはできない、という言い方がある。
しかし、かんがえてもらいたい。中央政府の総理府があげて広報を推進している原子力発電がある。国民の間で意見が分かれているという事実を否定することはできないだろう。が、わが総理府は政府広報の名の下に原発推進のキャンペーンを張っていることは周知の事実である。新聞や雑誌の「政府広報」でおなじみだろう。
また、男女の平等の問題。これについても国民の意見は多分に分かれているにもかかわらず、政府は平等化の推進をおこなっている。その他、さまざまな場面で中央政府も、地方政府たる自治体も国民、市民の間で意見が分かれている問題の一方に荷担していることは事実である。
なのに、市民をリードするような行動はとれないという理由はなかろう。身近な問題でかんがえればゴミ処理場問題もしかりである。
.公共の福祉論から住民を守る砦として
経済至上主義の国家は、全体のパイの拡大を指向して政策、施策を決定する。しかし個々の地域、個々人にとは利害が対立する場面が当然に出現する。
その間の調整をどうおこなうかも、地方政府の重要な役割である。全体の守護神の立場と自治体の「個」の守護神の立場が真っ向から対立するのは、こういう場面であろう。そこをどう解決するかが自治体に求められている力量のひとつである。全体にとっての利益があるからと、直接の不利益を被る住民を切り捨て裁判所の判決のごとく住民の要請を「……とまではいえない」という判文操作でどうとでもいえる論理まがいの結論を住民に押しつけるのでは住民のための自治体とはとうていいえまい。
もっとも、土地収容などの行政の強権発動は自治体が主体になることが多い。この処理をどうするかで行政の向いている方向が判別されることになる。社会にとって必要なことは必要である。かといって、それによって不利益を被る人たちを「公共の福祉」のために忍従を迫るだけでは民主主義とはいえまい。
最後に、川崎市は1970年代初頭に「川崎市都市憲章条例」の制定を目指したことがあった。最終的には市議会の合意が得られず廃案に追い込まれてはしまったが、現在でもこの提案は高く評価されている。その趣旨は第1編の「平和・市民主権・自治」において市民の権利と義務を規定した。第2編では「人間都市川崎の創造」で、地方政府としての川崎市のまちづくりの基本構想を定めようとした。
どこのまちでもみられる「○○○の市」という倫理憲章的な市民憲章ではあったが、それを総合化し、「川崎市の最高条例であって、市長等および事業者等は、市民とともにこの憲章を尊重し擁護するという義務規定をおいていた。
つまり、地方政府としての自覚のもとに、その進むべき目標を定め、かつ政府と市民が守っていくことを要請した内容であった。「国」の意向を汲んだ議会の承認するところとならなかったが、その志がなければ自治体として市民から求められる役割を果たすことはできない。
■ IT革命とそのネック (to JMF事務局)
近い将来、電気製品のすべてがネットで結ばれることになるという。IT革命が市民の目に見えるかたちで登場するのがこのかたちになるらしい。その場に存在しなくても、電気機器を操作することができるようになるわけだ。犯罪捜査でアリバイ(不在証明)という言葉があるが、ある意味でそれが無意味になるわけだ。その場所に出向いて操作するのがこれまでの機械だった。リモートコントロール技術はあるが、その概念を一変させるほどのものになるだろう。
そういわれても、一般市民としてはにわかには信じがたいのも事実。未来学者のご託宣のように聞き流したいが、どうやらそうはいかないらしい。ソニーの会長出井伸之氏は昨年末の「グローバルIPv6サミット」の席で「ソニーは将来、ネットにつながるものしかつくらない」と言い切ったと報道されている。
元大蔵相財務官、現慶応大学教授の榊原英資氏は週刊誌「ニューズウィーク」紙上(日本版01/1/31号)で「IT革命は現実であり、劇的に世界を変えるであろうことは、認識しておくべきだ。その影響はヨーロッパや、日本を含むアジアに波及するだろう」という。
国民経済にたいして一定の責任をもつ人たちの公開の場での発言なのだから、それなりに信用しなければならない。つまるところ選択の余地がないことと認識しなければならないようである。「いや、そこまで進むとはかんがえにくい」と懐疑的に眺めている向きも、いろいろな情報を集めてみると技術はその方向に向かって進んでいることを否定することはできないところにまできているのだ。
たとえば、IT技術で日本と同様アメリカにたいして後れをとっているといわれるヨーロッパの多国籍企業シーメンスはインターネットを軸にして会社そのものの再構築を進めている(同誌)。「アメリカのハイテク主導による生産性向上の秘訣を学ぶために、あちこちでセミナーが開かれている。ヨーロッパ諸国の政府は、ニューエコノミーを夢見て、法律や教育制度の見直しを始めた」とも書かれている。
ITを取り囲む現実は市民がかんがえているよりも、より現実的な、可能性段階を過ぎて実用段階に入り、導入のための競争が生き残りのために熾烈になっている、というのが現実の企業社会である。好悪とか導入の可否を論じているときではないようだ。
となると、それほど大きな技術の導入の結果、社会がどうなるのかが気になるところではある。まずはインターネットでおなじみのセキュリティが浮かぶ。この場合、通信の秘密、改竄、取引の安全という意味もあるが、社会構造変化にたいする事前の対応と、コンピュータ機器、とくにその心臓部に当たるIC原材料調達の確保の方がより緊急の課題であろう。
ITが社会を支配し、社会がITに頼り切ったときなにが起きるのか。情報通信技術といっても、その基礎にあるものは機械である。しかも、ICはレアメタル−稀少金属−を使用しなければ作成できない種類の機械である。ニューヨーク大停電や電話網の断絶のケースを持ち出すまでもなく、社会がある技術に頼り切ったとき、その切断が文字通り致命的な混乱をもたらす。
通信はもちろん、生産や物流のすべてがストップしかねない。サイバーテロの問題もあろうが、より可能性が高いのは原材料の供給ストップという事態。OPECによる原油減産で70年代の石油ショックが発生した。世界は大恐慌をきたしたことは誰でもが覚えている。エネルギー構造転換の契機になったことは記憶に新しい。さらに、あまり知られてはいないが85年10月には南アフリカ共和国がアパルトヘイト(人種隔離)政策にたいする国際社会の制裁措置に対抗して、制裁当事国へのクロム鉱石の輸出を禁止すると脅迫したことがある。
同様の資源、とくに稀少資源を生産する国による交渉の手だてとしての禁輸ないしは生産調整という手法は今後、さらに有力な交渉の武器として使用されることになる。70年代に食糧安保が叫ばれ、わが国では食糧の自給率が問題にされた。鉱物資源はどのように努力しても新たに鉱床を作り出すことはできないものであることをもう一度考える必要があるわけだ。
ITをはじめとする先端技術は稀少金属を「生命線」にしているという事実から逃れることはできないのである。もし、レアメタルの供給が止まったとき、この技術に頼り切った社会はどういうことになるのだろうか。SF小説の世界ではおもしろくそれを眺めることができるが、現実の人間が生きている社会でそのようなことが起きたとき、社会はどう反応するのか。当然の不安が持ち上がる。「生命線」を断ち切られる恐怖から、どんなことが起きるか想像できないわけではない。1990年の湾岸戦争は極言すれば、石油を軸とするアメリカや先進国の国益、「生命線」を守るための闘争でもあったことを思い出す。
この原材料確保のための確たる政策を作り上げなければ、IT革命といわれても、現実に競争が始まっているのではあるが、それに簡単にのるわけにはいかない。夢の技術には必ずといっていいほど、反面の危険がともなっている。1965年イギリスから導入したガス冷却型の日本原子力発電(原電)東海発電所1号炉が初発電に成功したとき、「原子の火」と呼ばれ、無限のクリーンエネルギーの供給が可能になるかのようにいわれた。その後の経緯は言及するまでもないだろう。
20世紀の技術は導入後の予測が困難だったかもしれない。いろいろな公害訴訟、医療訴訟でも「その時点の技術では予測ができなかった」として、技術にたいする免責がなされている。21世紀はそれを通用させてはならない。個々の職人の技術ではない、社会全体、地球全体のあり方を左右する超巨大技術なのだから。
もう一点、ITという超巨大技術、個々の機器のスケールはナノメートル、億分の1秒の世界だが、その結果は人類の生活のあり方を一変させるほどの技術である。となれば、当然に変化したあとの社会を予測し、その構造変化にたいする対応を考えておかなければならない。
簡単にいえば、雇用の問題になるだろう。コンピュータやITとロボット技術が結びついたときなにが起こるか。というより、すでに起こっている。生産や輸送、情報伝達、将来予測でITが使われることによって、無駄なエネルギーを使用しなくてすむようになる。これは歓迎されること、というよりエネルギー過消費社会はすでにその構造の改変を迫られている。だから、歓迎される場面ではなく、なくてはならないこと。
だから、ヨーロッパ諸国の政府はハイテク主導によるニューエコノミーに対応して、法律や教育制度の見直しを始めている。経済成長を持続させるために労働市場の流動化が図られてもいる。生産にいち早くコンピュータ技術を導入したアメリカは、そのために好況を謳歌し、数百万人の新しい雇用機会を作り出した。
しかし、その一方で既存の生産構造の中からは大量の失業者が発生している。この失業はこれまでの失業と質が異なる。一時的好況・不況の循環の中で一部産業の労働力が過剰になっての失業ではない。基本的には生産にヒトの手があまり必要でなくなったことが主たる要因である。ITがなくても生産の合理化は求められることであり、絶対に必要な条件である。
ここでの問題は20世紀後半に起こったエネルギー転換による、石炭労働者の失業に象徴されるような失業の問題なのだ。社会・生産構造の転換によって、当面行き場のなくなる労働者群、しかも巨大な数の出現がふたたび繰り返されることになってはならない。そのために方法を講じておかなければならない。
もうひとつは、サイバー空間での利用者の安全保障をどう確保するかの問題がある。いかに便利でエネルギー効率がよくても、使用のための安全が保証されていなければ参加できない。市民は技術そのものをコントロールすることはもちろん、理解することもできない。巨大技術に共通する悩みでもある。そのためには、利用のための法整備とあわせて、ITを提供する企業の側でも利用者に不利益をもたらさないよう技術基準をあらゆる情報が公開された場で検討し、市民がチェックできる体制を作っておく必要がある。
20世紀に開発された巨大技術の二の舞にさせないよう、クリーン技術、省エネ技術、IT革命を利用者とともに育てていってほしい。
ITとロボット技術が結びついたとき、社会構造は当然に巨大な変化を迫られることは自明であろう。−−アメリカに住んで会社つとめをしながら、オーストラリアの農場を耕すことも現実に行われている。もっとも、この話は趣味の世界でのことだが、技術上も企業レベルで採算がとれるものらしい。−−
■ 土地収用法改正のための国民意見聴取 (to 国土交通省)
これが、政府がいう民意を反映することらしい。
土地収用法の改正案作成に当たって、国土交通省は1月15日、国民の意見を募る旨の新聞発表をおこなった。が、問題はその募集期間。締め切りはなんと同月31日。たった2週間ほどの意見募集期間である。その間に寄せられた意見を参考として、法案作成にどのように反映させたかを公表するというらしい。
担当のお役人にとっては、常に問題にしていたことなので、2週間もあれば簡単な市民意見は十分に集まるだろうとお考えなのだろうか。どっこい、市民はそれほど時間をもてあましてはいない。市民間で意見の交換をするにも少なからぬ時間がかかる。にもかかわらず、たった2週間で意見の聴取をうち切るという感覚はいったい国民をどう見ているのか疑問に思わざるを得ない。もっとも、当方としてはすでにどう見られているかは決定しているのだが。
こういう、政策を打ち出す政府が公聴会を開き、公平性を高めるといってもとうてい信用はできない。公共性の判断も政府が行うらしい。事業主体が申請し、その申請の公共性を判断するのがまた政府であれば、結果ははじめから見えている。子どもでもこのような判断方式にしたがうとはとても思えない。したがわざるを得ない立場に追い込まれたものだけが従うだけである。
前置きが長くなったが、今度の改正案の要項の一部を見ると、問題点がいくつかはっきり浮かび上がっている。まず、国民に不利益を与える行政行為であるにもかかわらず、「効率」が極端に前面に出ていることである。行政の効率化とは本来も、実際も内部処理の効率化にある。市民にたいして効率をもとめる筋合いのものではない。
経済発展のために、公共の福祉のために……が大儀名分のごとく振り回されるが、その背後で不利益処分の被害をうけるのも公共の福祉を享受する権利がある市民である。そのことにおもいが至らないのだろうか。
土地とは、交換は可能だが、一般的にはそこに住んで生活をしている場である。住んでいなくても生活の糧を得る場である。そこを、公共が使用するから退去するようにと命令されてもおいそれということをきくわけにはいかない事情が存在するはずである。
その事情を上回る目的と公共性−−この場合、事業主体がいう公共性ではない。不利益処分の被害を受ける側がそう考えられ、納得できる内容−−がなければ、社会に責任を負う市民とて公共の犠牲になるわけにはいかない。
そこで問題になるのが、公共性とは何か、市民の不利益を上回るほどの公共性の存在をどう証明するかである。政府の審議会の委員が決定するらしいが、市民は政府を信頼するだろうか。少なくともこれまでは、事業主体はほとんど市民に説明らしい説明を事業に関しておこなっていなかった。
今度は公聴会を開き説明義務をつけ、市民に十分情報公開をおこなうという。しかし、説明に納得できないときはどうするのか、裁判に訴えることが可能なのかどうか。この点にかんしても、収容委員会の審理において当事者が事業そのものの是非を問うことができなくなるとされている事から考えて、裁判に訴える方法すらも奪おうとしているように見える。
その裁判でさえ、行政訴訟の勝率は1パーセントに満たないといわれている。国民の側から考えると、極論すれば主権者の主張に対して国・自治体は説明責任を一方的に負わされていると考える。市民の要求と国・自治体の必要が分かれた場合、その証明責任は第一義的に国・自治体側にあると考える。しかも、その必要性、必然性、公共性の証明は刑事裁判の事実認定程度の厳格さが絶対に必要である。
もちろん、主張の根拠になる証拠の全面開示、情報の全面開示が前提になる。開示できない理由を国民に納得させられないときは、事業提案者の敗訴とするべきである。もちろん、正当な理由として納得できるものであるか、ないかの判断が問題になるが、市民としてはそれくらいが妥当だと考えているということの喩えではある。
ついでにいうなら、ナショナル・トラスト方式に対抗するために、代表者数名を選出させて交渉にあたる方式を採用したいといっている。これも、司法が考える財産権の明確な侵害ではないか。ナショナル・トラストの構成員といっても目的や事情はそれぞれに異なっているはず。
その財産の所有者と直接交渉せず、事業者の都合で代表とだけ交渉するということになれば、間違いなく憲法裁判、財産権の侵害問題が発生する。現在の裁判所が市民対行政の訴訟でどのような判決を下すかの見当はつきすぎるが、裁判所とて自ら「司法改革」の必要、あるいは改革しなければ国民の信頼を繋ぎ止められないと、動き出している時期だということを忘れては困る。
■ こんなものいらない−参審制度
司法当局は司法改革の一環として、陪審制度あるいは、参審制度の導入を研究するそうだ。実際に外国に調査官を派遣しているようだ。問題は陪審か、参審かである。結論から言うと、陪審制度は結構だが、参審をもちだすのは反対だ。
まず、わが国には陪審裁判制度というれっきとした裁判制度が存在している。もっとも、ただいま停止中なので、日本に陪審制度が現存していることすら知る人は希だろう。司法関係者以外が知らなくても、とりあえずはあまり問題は起こらない。だが、最高裁が言い出すとなると話は別のことになる。陪審裁判制度が停止されていることを知らないわけはないのだから。
停止されたまま再開されない理由の検討と、主権者である国民の意見を聞く前に、別の制度をあらためて検討するという。いささか、主権者にたいしては本末転倒ではなかろうか。
陪審裁判制度復活に対するもっとも有力な批判は、「日本人の国民性にあわない」ということらしい。つまりは、証拠に基づいて事実を検討し、事実を判断する能力に欠けるところがあると批判者たちは日本人を評価しているわけである。仮にこの批判を受け入れたとすると、参審制度はさらにこの「国民性」なるものを、助長した結果を生むことになろう。
参審員は裁判の運用に関しては素人である。専門家である裁判官と参審員がともに事実認定に携わる参審制では、結局素人である参審員が専門家である裁判官と対等に意見を闘わすことが可能だとは考えにくい。つまるところは、専門家である官僚裁判官の判断に迎合せざるを得まい。
結果として、現在の裁判所の司法判断と同様の結果がもたらされる。しかも、国民参加の司法の中で。これでは、日本に陪審裁判制度を持ち込んだ原敬の考えていた、「天皇の名による裁判」の誤判を避けるという機能しか果たせない。というより、それがねらいだとしか考えようがない。
明治憲法下では裁判は主権者天皇の名でおこなわれ、判決が下されていた。それが誤ったとき、累が天皇に及ぶ論理上の危険を避けるためもあって、陪審裁判制度が導入された経緯がある。だから、戦争が深刻になるとあっさり陪審制度は「停止」されてしまったともいえるだろう。
目的は、国民にも責任をとらせるということで、決して司法の民主化を狙ったものではなかった。参審制度についても同じことがいえるだろう。判決は司法官僚が下したのではなく、国民の代表者たる−−抽象的主権者である国民の代表が加わって裁判がおこなわれたという責任転嫁の構図だ。
でなければ、「日本人の国民性」論でいわれた様々の批判がすべてあてはまる参審制度をあえて導入しようという発想は浮かばないはずである。
もっとも、「日本人の国民性」論に小生は荷担するものではない。昨今、自虐史観批判というものがもてはやされている。これは、一言でいえば、先の侵略戦争を反省することが自虐だというらしい。事実を事実として見つめ、その反省をする。それが自虐であれば自省とはマゾヒストのおこないでしかなくなる。なのに、「日本人の国民性」は事実を冷静に判断する能力に欠けるという自虐思想を事実として受け入れようというのだろうか。日本の民主主義のあり方については、おおいに疑問をもつものではあるが、事実の判断能力に国民一般が欠けているとはとうてい思えない。いかがであろうか。
一方で、国民性論で反対し、他方でその国民性をさらに前面にださなければならない判断の態様を求める方式を導入しようとすること。これは、なんらかの意図が背後に存在しているとしか考えられない。
だから、「こんなものいらない」。いや、あってはならない。事実を判断するためには手間がかかっても、判断者の数は多いほどいい。最高裁の大法廷は15人の裁判官で構成されることが原則である。省資源・時間の節約は地球環境が悪化している現在、とくに強く要請されている。しかし、現代の豊かさはなにのために追求されてきたのか。結果、人権の拡大を社会全体に受け入れさせる機能を果たしてきた。
また、法というものを考えるとき、違法性とはなにかをはっきりさせる必要があるだろう。 ここからは、まったくの素人論議になり、政治的判断の問題になるが、少しだけいわせていただきたい。法とは社会の安全と円滑な運営のためにあるのではなかろうか。となると、違法性の判断も社会がするのが賢明なのではなかろうか。
ときの政治権力、司法権力におもねざるを得ない司法官僚の判断と主権者国民、社会の構成員である市民の判断、どちらがより偏向しない判断をできるだろうか。
こう考えるとき、やはり陪審裁判制度を研究する必要が絶対にある。いきなり導入せよとは主張するつもりはない。わたしにとっても陪審裁判制度はほとんど未知の世界である。まず、実態を研究し、国民に知ってもらうことが先決だ。この前提がなければ、司法の危機は本当に訪れてしまう。
■ 陪審制度に関して+α
陪審制度に対する批判・疑問について
陪審制度の導入についてさまざまに深刻な疑問や批判がなされている。これは当然のことだし、社会の司法制度の改変にあたって健康な論議だと考えられる。しかし、批判や疑問があるからといって、それだけで制度として成立しないものと考えるのは逆に民主主義にとっては不健康な考え方ではなかろうか。
疑問や批判をあげつらえば、人間の営為であるのだからいくらでも不安要素を提示することは可能である。しかし、ここでいえることは陪審裁判制度への疑問・批判の声がこれだけ幅広い階層の人たちからあげられ、それに応える研究や討論がなされていることこそ社会にとって健全なことではなかろうか。
わが国の現行の官僚裁判官制度は、明治以来、為政者による裁判制度であった。いま効力を有している日本国憲法が制定されたときにも、裁判制度には実質的に手がつけられなかった。つまるところ、わが国の司法制度は建国−−がいつなのかは議論があろうが−−以来、これまで一度も国民の意思を反映したことがなかった。現在の憲法下でも国会議員を選び、法律ができ、そして政府ができていることで、国民の信任を得ていることになっているだけで、実際に国民が直接にどういう司法制度を導入したらよいかという議論に加わったことがない。
司法は常に裁判官のもの、否、最高裁の専権事項だった。
官僚裁判官はいう。「素人がなにもわからないのに」と。あらゆる批判を受け付けようとしない。何代も前の最高裁長官はのちに全員無罪になったあの松川事件の死刑判決にたいする国民の疑問に対してすら、「外部の雑音に耳をかすな」とその統制下にある、独立して職権を行使するはずの裁判官に訓示したと伝えられた。
現代社会は批判を真摯に受け入れ、正当な論と研究、考査がおこなわれてはじめて機構は民主的に運営されるものと考えているはずである。
この文の書き手は陪審制度は現代日本の法体系の付属物であると考える立場にあるが、そういう立場の人たちでなくとも問題はどこにあるのかはっきりしていることは認めていただけるだろう。
批判と危惧を受け入れ、研究・討論し、それを修正していく意志と体制が存在するかどうかの問題である。いま、司法改革審議会に求められているのは、国民からの批判をどのように受け入れ、どのように改革していくかを審議することにあり、現体制をいかにそのままのかたちで存続させていくかではなかろう。
その意味で、陪審裁判制度を論議することはたいへん重要なことである。実際にどのような制度なのかが周知されないまま、賛成論・反対論をたたかわせることに意味はない。まず、どのようなことなのかを知ることが先決だ。
ついでに、もう一つの司法改革の方向として参審員制度もとりざたされているが、これは論の外。直接的には最高裁、間接的には政府によって統制可能な官僚裁判官に加えて、専門家を裁判官席に参席させようという制度で、ヨーロッパ諸国で実際に実施されているが、わが国での陪審批判をご覧になればすぐにおわかりになろう。専門家に対立できる国民性は「ない」というのが、陪審反対論の大きな主張のひとつである。
■ 陪審制度は政治制度
導入したい動機
陪審の導入は政治問題であり、裁判の運用は司法技術の問題だとはっきり分けて考えております。
つまり、陪審を導入するかどうかは、体制選択の問題だと考えているわけです。現在の、アメリカ型に近い「民主主義制度」のもとでは、陪審が司法制度の前提になっていると考えているわけです。国民主権主義を標榜する以上、議会・行政・司法に国民の意思が直接に反映されなければならないのではないでしょうか。
議会は選挙で、行政には住民投票、行政訴訟、また選挙で議会の構成をかえて間接的に民意を反映する方法があります。しかし、司法には民意を直接に反映する方法が見あたりません。時代と共に罰せられるべき行為の基準も、証明されたとする基準も変遷するのではないでしょうか。
法哲学とでもいうのでしょうか。罰せられるべき行為、証明されたということ、これを官僚の判断にすべてを委ねるという恐ろしいことはしたくないと考えています。法律の条文に書かれたことを、市民の判断で勝手に解釈するというのではなく、現在はなにが求められているのか、なにが基準になっているのかは市民が判断すべきだと考えています。
どうも、論理が整理できていないので、結局わかりにくくなっていますが、要するところ現在の社会制度と陪審は一体のものではないか、ということです。社会規範がありそれを破った人を裁く制度は、やはりその社会規範が前提とするものでなければならないでしょう。
でなければ、社会制度そのものが市民を裏切っているといえましょう。
裁判技術について
先の模擬陪審の感想でも、「判断が難しい」というものがありました。
だから、陪審制導入には躊躇するということなのでしょう。でも、これは単に技術上の問題ではないでしょうか。だから、ノウハウの蓄積が必要だという理由です。
日本人には向かないとか。時期尚早だとか。向かないとか、時期だとか、とても法律家らしくない曖昧模糊とした、論理性に欠ける印象のみが反対論のなかにうごめいているような気がします。はっきりしていることは、陪審制度を導入しようとしているのは日本国が世界で最初の国ではないということです。
まったく、経験のないことであれば、上記のような不安や批判は理解できないわけではありません。社会生活の根幹にかかわる制度を変更しようというのですから。しかしながら、陪審制度は世界の多数の国で数百年にわたって実施され、社会に定着しております。ということは、決定的欠陥があったとは考えにくいのです。
逆にいえば官僚裁判官制度も、さらに長い歴史と広がりを持っております。ですが、これについてもさまざまな批判がなされております。というよりも、日本においては市民の側から言わせていただくと、絶望的な状態にあるようです。だから、最高裁ですらなんらかの改変を検討しだしたのでしょう。このままでは国民の支持を得続けられないと。
結論を急ぎます。判断が難しいというのは、陪審員に判断できるような情報を証拠・証言のかたちで提供できなかった裁判技術の問題ではないかと考えているわけです。技術的に難しいから、政治制度として必要なものを排除するのは本末転倒です。
現在の日本人の生活習慣、思考の習慣・方法、判断基準、それらのものが陪審裁判をおこなうのに不適だとはとても考えられません。日本は世界最高水準の教育、世界第何位かのの経済力を持っております、こんな小さな島国でです。ということは、世界を相手に貿易を、経済戦争を戦って勝ち抜いてきた結果に違いありません。
経済行為の結果多くの利益を生む、きわめて論理的な判断と行動の結果でしょう。これが現在の国民の能力です。「日本特殊性論」という考察があり、一部で肯定せざるを得ない面があります。しかし、日本人一般が事実を判断する能力に欠け、先入観に支配され、情義で正邪を判断するという論にはとても賛成できません。
いささか古くなりましたが、経済のジャパン・アズ・ナンバーワンは、どこえいったのでしょう。現代の経済行為は論理であり、冷徹な判断能力、事実認識能力、さらに将来の推理能力などきわめて高い総合力を必要とします。それができる国民に、「向かない」というレッテルを貼るのはなんらかの必要から出発した言いがかりではないでしょうか。
判断が難しいというのは、無罪推定原則が徹底していないから。陪審員が判断できなければ、当然無罪。判断できないような情報しか与えられなかった、立証できなかった検察側が悪い。これが当事者主義ではなかろうか。技術上の拙劣さを隠蔽しながら、陪審反対論は論理としては意味が通らない。都合のいい部分だけのつまみ食いはやめてほしい。
判断が難しいような裁判にしなければよいのです。その点を明らかにしていかなければ、陪審制度の導入は不可能でしょう。
政治的選択と技術問題をごっちゃにしていては、現在の制度をなるべく変えたくないという勢力を利するだけです。
言いたい放題
官僚裁判官なら数に限りがある。だから、統制が簡単。陪審員という市民=主権者では強者の意向を完全に反映させることは難しい。もっとも、教育や包括的利益誘導、嫌がらせ、マスコミによる雰囲気づくりなどで可能ではあるが、手間と金がかかる。財界が陪審に反対なのは当然。PL法によらなくても、企業対消費者の争いになったとき、あるいは行政訴訟の場面で最高裁の模範解答が機能しなくなる。
■ 陪審制度の淵源は自治制度
陪審制の根幹は自治制度にある、陪審は社会機構の監査役ではないだろうか。
統治者に任せた方が合理的なことは多いが、市民はすべてを託したわけではない。自身が保持すべき監査責任を保留しているのである。為政者に市民が付託した権限と機構を守らせるため、司法に陪審制度という留保をつけたのである。
アメリカの制度のほかは知らないが、公安委員会、地検トップの公選制もまた同じ発想からなのではなかろうか。法をつくっても日本のように争いになったとき、裁判所が認めなければ市民の権利にはならない。国連の規約人権委員会に対する政府の人権状況の報告でも、「なになにの法があります」という答弁がおこなわれている。
実際に、それがどのように運用されているか、ということは日本政府は問題にしていない。追及されると、やはり「法が存在している」とのみ答える。監査役が存在しない社会の悲しさである。
テンポを変えてみます。
だから、監査役を設置しましょう。
民間(NGO)からカウンターリポートが提出されているが、これは監査役の役目を果たせるかというといささか心許ない。強制権がない。立証責任を負っていないためでもあるが。
司法改革は専門家には任せられない。
なぜなら、専門家が作った制度に市民が不信の声をあげているのだから。
専門家に任せていては、技術論に終始し、上記のような市民の側の論理が「素人がなにをいう」の一言のもとに葬り去られてしまうから。現在の司法制度審議会でしたっけ、司法改革○○審議会でしたっけ、審議の公開・非公開問題がそれを示していませんか。裁かれるのは、おおむね市民の側。どう裁かれるべきか、同胞としての市民をどう裁くかを決めるのは市民固有の権利だと考えるのですが、いかがなものでしょうか。
法を法として機能させるのは市民社会そのものであり、司法ギルド(ごめんなさい)が決定することであってはならないと考えております。法曹の論理ではなく、市民の論理で方向が決定され、法曹は専門家としてそれを実現していく道を探る、これが現代の民主主義であり、専門家のあり方なのでは。
専門家の意向があり、それで市民を説得することも必要な場合もありますが、こと主権のありようと人権にかかわることでは、技術上の必要を先行させてはならないはずです。まず、市民がその社会のあり方を合意しなければなりません。
国民のコンセンサスづりくのために、専門家が介在することは必要です。しかし、民主主義の根幹にかかわる問題で、専門家がリードするのではエリート支配にしかなりません。専門家の合理性は、機構の合理性ではありましょうが、市民、人間の合理性とはかけ離れたことになってしまうのではないかと危惧しているわけです。
専門家にご指導いただかなくても、いいかえますと「善導」していただかなくても、市民社会は自己決定の能力があります。その証明のひとつが陪審制度を導入している国々で示されているのではないでしょうか。
参審制度の導入が検討されているようですが、これは最悪のものです。陪審批判者の論理がさらに増幅されたかたちで、参審員にあてはまるでしょう。複数の人間の判断ではなく、たった一人の市民の判断が裁判に反映されることで司法の民主化が可能でしょうか。たとえば12人の市民社会がいろんな軋轢に影響される可能性と、ひとりの人間が影響される可能性を考えれば自明のことと思われます。
参審では監査の役目は果たせないでしょう。
なし かずふみ