検証 帝銀事件裁判 (CD BOOK版)
竹沢哲夫著(帝銀事件再審裁判元主任弁護人)
内 容 紹 介
まえがき
第一章 帝銀裁判・経過と特徴
一 戦後初期の裁判
二 無実の訴え
三 確定判決は控訴審判決
四 証拠構造と平沢自白第二章 自白の生成
一 判決と自白聴取書
二 否認から自白へ
1 自殺未遂
(一) 逮捕
(二) 東京護送
(三) 一回目の自殺未遂
2 日本堂事件の発覚
3 二度目の自殺未遂と自白のはじまり
(一) 九月二○日
(二) 九月二一日
(三) 九月二二日・二度目の自殺未遂
4 自白に向かって
(一) 九月二三日
(二) 九月二四日
5 三度目の自殺未遂−九月二五日
三 検事聴取書の問題点
1 「本当ノ事」−−自白の強制
2 警察官の取調べ関与第三章 犯人像と平沢自白
一 帝銀事件
1 相田方と共同井戸
2 相田の表札と進駐軍ジープ
3 往路と帰路
4 到着時刻と犯行時間
(一) 犯人逃走時刻
(二) 犯行時間
(三) 到着時刻
5 山口名刺か加藤名刺か
6 進駐軍の行動に関する疑惑
(一) 相田方名指しの要求
(二) 相田小太郎は発疹チブスであったか
(三) 進駐軍中尉の実在
(四) 捜査の中断と方針の転換
二 安田荏原事件
1 安田荏原事件の構成
(一) 下見分
(二) 犯行の準備
(三) 渡辺方の表札を見たか
2 松井名刺
(一)平沢の主張
(二) 同一性に関連して
1) 「鈴木八郎方」
2) 村上鑑定と検事の論告
3) 削り跡
三 三菱中井事件
1 判決の認定と特徴
2 大谷方の表札をみたか
3 落合信用組合事件
4 山口名刺に関する事実と自白
四 自白と証拠物
1 毒物・青酸加里の疑問
(一) 毒物は青酸加里か
1) 青酸加里は即効
2) 解剖所見
3) 色・味・におい
(二) 「その頃所持」
(三) 青酸加里一六瓦位
2 びん
(一) 第一薬のびん
(二) 第二薬のびん
3 スポイトかピぺットか
4 ケース
5 腕章
五 黙殺できぬ事実と疑問
1 東北大病院に現れた男
2 赤痢かチフスか
3 計画性と偶然の集積と第四章 死刑確定・再審請求
一 上告棄却・死刑確定
二 再審を求めて
まえがき
私が帝銀事件の裁判にかかわりをもつようになったのは、昭和三七年の暮れもおしつまった一二月のことである。それについては次のようないきさつがあった。
平沢に対する有罪死刑判決が確定したのは昭和三○年五月七日であるが、平沢はその後もずっと東京・小菅にある東京拘置所に収容され、死刑確定者として拘置されていた。
その平沢が昭和三七年一一月、とつぜん仙台にある宮城刑務所仙台拘置支所に移監されたのである。当時、平沢救援団体として「平沢貞通氏を救う会」があり、その事務局長の肩書をもった作家の森川哲郎が熱心な活動を展開していた。平沢の仙台移監は重大な出来事であり、緊急の対応を必要とした。その一環として、森川は自由法曹団に応援要請をし、これに応じて自由法曹団は所属している弁護士を平沢弁護団に加えることを決め、その一人として団は私を指名したのである。
平沢仙台移監の重大性というのは、少しばかり説明を要する。
一般に刑事施設というと、刑務所と拘置所がある。刑務所は有罪判決の懲役や禁錮などの刑を執行する施設であり、拘置所は判決が確定するまでの通常の裁判中の被告人や被疑者を収容する施設である。ちなみに、警察署にある留置場は主として拘置所の代用として用いられており、代用監獄、略して代監とよばれている。この代監が代用というよりは本来の施設であるかのように警察・検察や裁判所によって悪用され、正しくない捜査、ことに強制された自白を生む温床になっていることから、監獄法改正の機会にこそ廃止すべきだ、という主張や運動が広く展開されているのである。
ところで、死刑確定者は有罪死刑の判決が確定したあと死刑執行まで、どこに収容されて、どういう処遇を受けるのか。刑法一一条二項は「死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ其ノ執行ニ至ルマデ之ヲ監獄ニ拘置ス」とし、監獄法九条は「刑事被告人ニ適用スベキ規定ハ死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ニ之ヲ準用」すると規定している。だから死刑確定者の場合は、懲役刑などの確定者が刑務所に送られ、受刑者の処遇を受けるのと異なり、刑確定後も刑務所ではなく引き続き拘置所に拘置され、受刑者の処遇を受けるのではなく、被告人に準じた取扱いを受けつつ、死刑執行を待つという仕組みになっているのである。
死刑の執行は法務大臣の命令によってなされるが、死刑は一旦執行されれば取り返しのつかない刑罰であるから、法務省に送らせた確定裁判記録を大臣が刑事局の係官に審査させるのが慣例になっているようである。そのあと、大臣が執行命令に判をつくと、命令から五日以内に死刑を執行しなければならない、と刑事訴訟法は定めている(旧刑訴法五三八〜五四○条、現行刑訴法四七五〜四七八条など)。
死刑執行の施設は、というと以上のような次第だから刑務所にではなく、拘置所に設置されるのであるが、平沢が判決確定後に拘置されていた小菅の東京拘置所(東京都葛飾区小菅)にはその当時は死刑執行の施設はなかった。あったのは巣鴨の拘置所であるが、戦後は連合国に接収され、占領軍の施設として戦犯収容などに使われた。東条英機元首相らに対する死刑の執行もここでなされたことは、よく知られているとおりである。
昭和二○年から三○年代の、東京高裁管内(関東甲信越)の死刑確定者に対する死刑執行は、したがって、ほとんどの場合、仙台拘置支所に送ってなされていたのである。島田事件の赤堀政夫は、再審で漸く無罪をかちとった(平成元年一月三一日静岡地裁)が、再審開始が確定する昭和六二年までは東京高裁管内の死刑確定者でありながら仙台に在監し、いつでも執行できる状態におかれていたし、再審請求を続けて無罪を訴えつつ平成元年一○月二七日、くも膜下出血のすえ獄死をとげた牟礼事件の佐藤誠(事件は東京・三鷹市で発生、東京地裁における死刑判決が確定)、それに当時は松山事件の斉藤幸男(昭和五九年七月一一日、仙台地裁で再審無罪の判決)が在監していた。無実を訴える死刑確定者四人が同一拘置所に収容されている例は他になかった。
仙台といえば、松川事件の二審有罪判決を言渡したのが仙台高裁であり、その二審判決に対する上告で最高裁が有罪判決を破棄し、仙台高裁に差戻した結果、松川差戻し審が争われ、結局、全員無罪の判決をかちとったのも仙台高裁であった。松川差戻し審の無罪判決は昭和三六年八月八日、平沢が東京・小菅から仙台へ移監される一年前のことである。
仙台は東北の都、裁判の面でいうと仙台高等裁判所があって、東北地方の裁判事件の主な控訴事件は、一部が秋田にある仙台高裁秋田支部にいくほか、仙台に集中することになる。私自身が弁護人として関与した事件でも、昭和二四年に福島県平市(いまのいわき市)で発生した、戦後のメーデー、大須、吹田などの騒擾事件の先輩格にあたる平事件。明治、大正、昭和の三代にわたって岩手県・小繋部落(岩手県二戸郡一戸町小繋)にくりひろげられた入会紛争をめぐって、昭和三○年に森林法違反等の刑事事件にとわれた小繋事件。昭和三五年、日米安保条約の改定をめぐって安保闘争が全国的に闘われ、同年六月四日、その一環として仙台高裁の裏庭で全司法をはじめ安保改定阻止宮城県民会議に結集した公務員労働者や学生らが統一集会を開いたのに対して、すべての争議行為を禁止している国家公務員法に違反するとして、全司法労働組合に所属する裁判所職員らが逮捕、起訴されるにいたった安保六・四事件などなど--それぞれの時代を象徴するような裁判が争われたが、それら裁判の控訴審の舞台が仙台高裁であった。
このように、仙台というと全国的にみても戦後の著名な裁判事件が集中した観があったが、死刑確定者にとっては、「仙台送り」は死刑執行の同義語として受けとられていたのである。そんな中で、東京・小菅に拘置されていた平沢が判決確定後七年余りを経て仙台へ移送された。執行が迫ったとみるほかない状況だった。その上、歴代多くの法務大臣が死刑執行命令に判をつくのを嫌い、回避するという傾向が噂されていたが、当時の中垣国男法務大臣に限ってはちゅうちょなく執行命令に判をつく、ということで知られていた。
「救う会」が重大と受けとめ、緊急の対応策に奔走したについては、そんな状況と経過があったのである。弁護人となって、とにもかくにも本人に面会を、と仙台拘置支所に赴いたのが、翌三八年一月、その当時は、平沢の帝銀事件に関する再審請求はすでに第六次までが棄却され、第七次の請求が東京高等裁判所第六刑事部に係属していた。
それから四半世紀近く、私の平沢との、そして帝銀再審事件とのかかわりは続いたことになる。東北に所用の多かった私は、機会をみては面会を求めて彼を訪れた。数ある面会の中でも、いまでも記憶に残るいくつかの場面があるが、そのことはまた機会をあらためなければならない。
帝銀事件平沢の再審弁護人となったときの私に、平沢は無実であるという固い心証が当初からあったわけではなかった。その意味で私の弁護人受任は、緊迫した状況下での救う会や弁護団の熱意に動かされた、いわば受動的なものであったことは否めない。平沢の再審請求は、判決確定の昭和三○年五月七日の後、間もなくからくり返されていたが、その弁護には磯部常治を中心に鈴木勇、柳瀬存の三名の弁護士が主として当たり、救う会と連係しながら弁護活動をすすめていた。その三名の弁護士はいずれも当時七○歳前後の高齢であったから、私などはそれに比べるとごく若手の一員として弁護団に加わったということになる。右の三弁護士はいずれも今は故人である。再審事件の弁護人となる弁護士に求められる仕事は、まず当の再審請求人に対する有罪判決と確定裁判記録や新証拠を含む証拠の検討である。さらに、死刑再審事件の場合は、前にもふれたように「死刑執行」を止めるための措置を考え、とらなければならない。帝銀事件の場合、再審請求のほかに、中央更正保護審査会へ恩赦出願をしたり、また、東京地方裁判所に対して民事訴訟まで提起したりしたのも、死刑執行を阻止するのに役立てたいとする念願からでもあった。
これらの仕事にかかわりながら、やがて昭和四○年三月一一日の、再審請求棄却決定の日を迎える。その直後に、救う会の幹部らが再審請求に対する事実調べの過程で共謀して偽証した、という疑いで逮捕・起訴されるという新たな事件の発生をみる。磯部、鈴木弁護士などまで偽証教唆の嫌疑で、自宅や法律事務所の家宅捜索をうける、という帝銀偽証事件の発生である。
その頃には、私は弁護人の一人として、確定判決や裁判記録の検討を終わっていたこと、当然である。
右の帝銀偽証事件のきっかけとなった再審請求棄却決定に対しては最高裁判所に対して、その取消しを求めて特別抗告を申立てたのであるが、弁護団の主力が偽証教唆などの嫌疑をうけ、東京地検の取調べをうけるという状況のもとでは、特別抗告の申立などの手続きや書面づくりは、結局、若手(当時の)によるほかはなかった。
最高裁に対して特別抗告を申立てたあと、その理由書を書いた。そのとき序論として書いたことは、帝銀事件についての、というよりは平沢を有罪死刑の判決に追いこんだ帝銀裁判に対する当時の私の気持ちを示したものである。
その特別抗告理由書の序論で書いたことというのは次の通りである。
「平沢貞通氏に対する有罪死刑の判決が確定してすでに久しく、いままた再審請求が棄却され、特別抗告を残すのみとなっている現在、平沢の生命をつなぐものは蜘蛛の糸より細い。
しかし、手続の糸が細いからといってわれわれが尽すべきを尽さぬとなれば、それはとりもなおさず、誤った裁判によって殺されていく一国民をそれと知りつつ見殺しにすることになる。
われわれはこゝに特別抗告理由を開陳するとともに全法曹、全国民の良心に訴えたいと思うものである。
あるいは大げさに聞こえるかも知れないが、われわれは帝銀事件死刑囚となっている平沢貞通氏をこのまゝ死においやることは日本の裁判全体にかかわるものであり、国民全体の人権に関するものだと考えるのである。」
相当に思いこみがはげしいのではないか、と思われる向きもあろうが、表現の巧拙は別として、ここに書いた私の気持はいまも変らない。無念の獄死をとげて、平沢はいまはない。
(なお、本文中ではすべて敬称を略させて頂いた)