ハンセン病の歴史は非常に長く、古くはキリスト教やユダヤ教の聖典である旧約聖書にもハンセン病は記載されている。もし人の皮に腫れあるいは吹出物あるいは光る所ができ、らい病の患部のようになるならば、その人を祭司のもとに、連れて行かなければならない。祭司が見て、患部の毛がもし白く変わり、かつ患部がその身の皮よりも深く見えるならば、それはらい病の患部であり、祭司は彼を汚れた者としなければならない。…(中略)…この記述がハンセン病患者に対する追放を意味することは、キリスト教徒でなくても容易に理解できるであろう。実際にはハンセン病は慢性伝染病であるわけであるから、明確な治療法が確立していなかったであろうこの時代では、終生の追放を意味していた可能性も否定できない。
らい病は汚れたものであるから、離れて住まなければならない。すまいは宿営の外でなければならない。彼は裂いた衣服をまとい、その頭を現し、その口ひげをおおって「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければならない。
では仏教ではどのようにハンセン病を見てきたのか。仏教経典の一つである法華経に次のような記述がある。山本俊一氏の著書『日本らい史』を引用する。
モシマタ、コノ経ヲ受持セン者ヲ見テ、ソノ過悪ヲ出ダサンカ、モシハ実ニモアレ、モシハ不実ニモアレ、コノ人ハ現世ニ白癩ノ病ヲ得ンこの経文は法華経を尊重することを遠回しに命じているわけだが、これを前世において法華経受持者の悪口を言った者が罰としてハンセン病に罹ったと解釈したようである。このため仏教を信仰していたハンセン病患者の多くが、前世の罪を許してもらうために仏教寺院に集まったという。後にこの誤った解釈のためにハンセン病患者に損害を与えたとの理由で、仏教教団から謝罪がなされている。(なお、謝罪内容に関しては、第5章を参照願いたい。)
II. 古代におけるハンセン病
日本人がいつ頃から、どの程度ハンセン病に対する知識を得ていたのかは、文献が乏しいためはっきりとしたことは解らない。しかし720年に成立し、日本の最初の勅撰歴史書といわれる『日本書紀 巻廿二』にはハンセン病に関する記述がなされている。
廿年春正月…(中略)…夏五月五日、薬かかりす。羽田に集いて、相連れて朝に参趣る。其の装束、めん田の獵の如し。是の歳、百濟國より化來る者有り、其の面身斑白なり。若し白癩有る者か。其の人に異ることを悪みて、海中の島に棄てんと欲す。然るに其の人の曰く、若し臣の斑を悪まば、白斑なる牛馬は、國中に畜ふべからず。亦臣、小才有り、能く山岳の形を構る。其れ臣を留めて用ゐたまはば、則ち國の爲めに利有らむ。何ぞ空しく海島に弃てむ耶。是に於いて、其の辭を聽きて棄てず、及りて須彌山の形及び呉橋を南庭に構らしむ。時の人、其の人を號けて路子工と曰ふ。亦芝耆磨呂と名づく。この巻22は推古天皇の時代を書いたもので、飛鳥時代ということになる。従って20年とは西暦では612年を意味する。この当時、政府がどの程度ハンセン病に関する知識を有していたのかは定かではないが、『海中の島に棄てん』という句、つまり離島に島流しという意味だが、これは政府の関与を示している。また、同じ句から当時の日本人がハンセン病の伝染性を認識していたことがうかがえる。このことは大宝律令の注解書である『令義解』の一文中、最後の句ではっきりする。以下は前述した『日本らい史』からの引用である。
悪疾とは白癩のことである。この病気は虫がいて、人の五臓を食べ、あるいは眉や睫毛が落ち、あるいは鼻柱が崩壊し、あるいは声が嗄れ、あるいは四肢が切断する。また、よく近傍の人に伝染するので、患者と同寝してはならない。さらにこの中で気になるのは、この文に『虫がいる』との記述がなされていることである。大辞林の虫の項にはこのようにある。
B人の体内に住む寄生虫や、ノミ・シラミ・シミなど。「−がわく」もし仮にBの意味で『虫がいる』と記したのであれば、この当時すでに日本人がハンセン病が何らかの寄生虫(実際にはハンセン病は細菌感染症である)によって引き起こされることを認識していた可能性がある。
C子供の体質が弱いために起こる病気。虫気。「疳の−」
以上を踏まえた上で、明治維新以前の日本におけるハンセン病患者援助を大まかに見てみよう。
奈良・平安時代までの援助はもっぱら仏教によって行われていた。593年聖徳太子は飛鳥に『四天王寺四箇院』を建立したが、この中にハンセン病患者の姿があったであろうことは容易に察しがつく。以下に四天王寺四箇院の内容を紹介する。
悲田院 ・ 貧者や頼るところのない幸薄い人々を住まわせた。なおこれらの施設は、一度記録が途絶えているが、1930年代以降に老人ホームおよび病院として再び活動を再開し現在に至っている。
敬田院 ・ 教化(人々に仏教に対する信仰心をおこし、悪を断ち、善を行うことを教育すること)政策を行った。
施薬院 ・ 各種の薬草を栽培し、処方した。現在の薬局。
療病院 ・ 病気の者を寄宿させた。現在の病院。
III. 法制化への動き・外国からのバッシング
大政奉還が1867年に行われ、日本が天皇を中心とした帝国主義に入ろうとしていたその時、ハンセン病患者は産まれた土地を離れ全国の数カ所に集まろうとしていた。と言っても何もすすんで集まったわけではない。地元に隠れ住んでいた患者が、移動の制限がなくなったのを機に家族から離れて住まわざるを得なくなったと言うことである。彼らハンセン病患者が多く集まっていた場所は、神社や仏閣・キリスト教会・温泉地である。熊本県本妙寺や山梨県身延山・群馬県草津温泉は有名である。
このように神社・仏閣等に集まったハンセン病患者に対し、外国からの旅行者やキリスト教宣教師らが言及をしている。それは即ち、『なぜ、ハンセン病患者への援助を行っていないのか』と言うことである。この当時は単になぜ援助しないのかという疑問であったと考えられる。この後、神山復生病院(1889)や慰廃園('94)・回春病院('95)・待労院('98)などの私設療養所がつくられることになる。
が、その後も日本政府はハンセン病患者の援助を行おうとはしなかった。そのことが今度は外国からのバッシングとなって現れてくる。前述した山本氏の『日本らい史』を再び引用すれば、1899年の第13回帝国議会衆議院議事録には米国紙ニューヨーク・トリビューン"The New York Tribune" の記事をあげた上で、政府に対する次のような批判が残されている。
最初我々が、日本人がらい患者に対してすこぶる無頓着であるという報道を得たときは、容易にこれを信じることができなかった。即ち、この報道と日本人の特性とは矛盾するからである。…(中略)…我々は、日本人のために深くこれを悲しむものである。なぜ日本人はらい患者を救助しないのか、患者を収容する施設を建てないのか、患者の生活を楽にしようとはしないのか、患者の醜さを隠してやろうとはしないのか。…(中略)…この文章自体にはさほど問題がないように見受けられる。が、そこに隠されている事実を確認してみたい。まず、4行目『なぜ日本人は…』からは日本政府がハンセン病患者に対して何らの援助も行わないことに対しての憤りが見えてくるが、『患者の醜さを…』からは時の政界人の心中にあるものが見えてくる。これは現在の身体障害者に対する『恵まれない人々』と言う言葉に通じるものがあるのではないか。
また、らい問題は必ず国会の議事に上るであろう。この問題は日本帝国の威信に関わる重大問題のひとつだからである。いやしくも文明国の仲間入りをした国は、このような病気に対して冷淡であることはできないからである。
IV. 2つの隔離方式
1873年ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン"Armauer Hansen" 氏はレプラ菌を発見し、1897年にベルリンで開かれた第1回国際ハンセン病学会議においてレプラ菌が病因であることが学会で正式に認められた。このことは同時にハンセン病が遺伝ではなく細菌による感染症であることが認められたことを意味するのだが、日本においてはそう単純ではなかった。即ち、学会では伝染病としながら、政治関係者は皆遺伝病であるかのように考えていたのである。
しかし、学会はハンセン病を伝染病としながらも、その伝染性は恐ろしく強いものであると認識している。それはコレラやペストよりもさらに伝染力が強いとの認識であった。このことは世界的な動きであり、それを癩予防ニ関スル法律が施行された1909年にノルウェーのベルゲンで開かれた第2回国際ハンセン病学会議でも以下のような勧告がなされている。
1、 ドイツ・アイスランド・ノルウェーおよびスウェーデンにおいて得た良好な成績を考慮するとき、侵入を受けた国では、進んでらい患者の隔離を実施するよう希望する。
2、 らい患者の健全な小児は、できる限り早くらい患者である両親から遠ざけ、一定の監督のもとに置くことを切望する。らい患者と同居したことのある人は、時々専門医の検診を受けなければならない。
3、 らい患者が、らいの伝播に特に危険な職業に従事するのを避けさせるように望む。ただし、いかなる場合であっても、またどこの国に置いても、らいに罹った乞食および浮浪者を厳重に隔離する必要がある。
ここにでてくる隔離方法は明らかにハワイ方式である。以下にハンセン病患者に対する2つの隔離法を示す。
1)ノルウェー方式(在宅療養方式・外来治療方式)
ノルウェーで始まった方式。レプラ菌の伝染力が弱いことを認識した上で、ハンセン病患者を原則在宅において療養させた上で、定期的に医師の診察を受けさせる。ただし、浮浪患者や貧困で在宅での療養が困難である場合には、国立病院に救護隔離するほか、本人が求めた場合には任意隔離も行う。
2)ハワイ方式(絶対隔離方式)
ハワイ・モロカイ島カラウパパ半島で当時のハワイ政府が行っていた方式。レプラ菌の存在が知られていない時代、患者の絶対隔離を行っていた他、レプラ菌の伝染性が強いと認識した場合には絶対隔離方式を採っていた。
なお、右にカラウパパ半島の航空写真を示した。見てのようにカラウパパ半島は前面が太平洋に接し、後ろはすべて山に囲まれている。現在では道路が整備されているものの、当時は非常に細い山道しかなかったため、半島から患者が出ることは事実上不可能であった。
V. 患者収容
このような状況を経て、いよいよ法律制定への動きが活発化していく。1902年帝国議会に提出された「癩病者取締ニ関スル建議」に始まる一連の動きは伝染病予防法などの改正論議をも巻き起こし、最終的に1907年に一応の決着を見る。
1907年2月12日、第23回帝国議会に提出された「癩予防ニ関スル法律案」は3月11日に修正可決され19日に「明治40年法律第11号癩予防ニ関スル法律」(以下、単に法律第11号とする。)として公布された。
7月22日、内務省は省令第20号「道府県癩療養所設置区域」を公布した。これによれば癩療養所(現在のハンセン病療養所)を全国5カ所におくことを定めている。設置・運営は道府県の連合により行われ、国の補助金が支給される形式を採っていた。療養所は『道府県連合癩療養所』と呼ばれたようである(一般的には公立療養所と呼称された)。
| 区域名 | 設置個所 | 収 容 道 府 県 |
|---|---|---|
| 第1区域 | 東京府下 (全生病院) | 東京府(伊豆7島、小笠原島ヲ除ク)・ 神奈川県・ 新潟県・ 埼玉県・ 群馬県・ 千葉県・ 茨城県・ 栃木県・ 愛知県・ 静岡県・ 山梨県・ 長野県 |
| 第2区域 | 青森県下 (北部保養院) | 北海道・ 宮城県・ 岩手県・ 青森県・ 福島県・ 山形県・ 秋田県 |
| 第3区域 | 大阪府下 (外島保養院) | 京都府・ 大阪府・ 兵庫県・ 奈良県・ 三重県・ 岐阜県・ 滋賀県・ 福井県・ 石川県・ 富山県・ 鳥取県・ 和歌山県 |
| 第4区域 | 香川県下 (大島療養所) | 島根県・ 岡山県・ 広島県・ 山口県・ 徳島県・ 香川県・ 愛媛県・ 高知県 |
| 第5区域 | 熊本県下 (九州療養所) | 長崎県・ 福岡県・ 大分県・ 佐賀県・ 熊本県・ 宮崎県・ 鹿児島県 |
なお、上に記載の表から伊豆や沖縄が除かれているのは、これらの場所においては、国立療養所の設置計画があったためである。籐楓協会発行の『創立三〇周年誌』によれば、沖縄県においては那覇市に造る予定があったが、市民の反対に遭い国立療養所の設置ができなくなっている。そのため政府は1910年になり内務省令1号を公布、『明治40年内務省令20号第1項中第5区域内ニ「沖縄県」ヲ追加ス』と定められた。
本法律の施行は予定では勅令により1年後の1908年4月1日となるはずであった。しかし、実際に施行されたのは財政難からさらに1年後に先送りとなり、1909年4月1日である。
VI. 新憲法施行と癩予防法・全患協発足
1907年に定められた法律第11号は、その後2度改正された(1度目は1916年、2度目は'31年)が、どちらも旧大日本帝国憲法下の法律であった。しかし新憲法が施行された1945年以降、ハンセン病患者の人権意識が高揚を見せ初め、1951年『全国国立らい療養所患者協議会(略称、全患協)』の発足を見ることになった。
全患協の発足式は10月に多磨全生園内で行われ、活動に際し以下の要求が掲げられた。
1、 らい予防法は保護的性格を持った予防法とする。名称を「ハンセン氏病」と改める。
2、 入所患者の生活保護金(療養慰安金)を改定する。
3、 家族の生活保障を考慮させる。
4、 懲戒検束規定を廃止する。
5、 強制収容の条項は廃止する。
6、 全快者または治療効果があり病毒伝播のおそれのない者の退園を決定する。
7、 病毒伝播のおそれのない者の一時帰省を決定する。
8、 患者の検診、入所者取扱いに関しては秘密保持を厳にする。
である。が、実際にこれらの要求全てが政府に受け入れられるのはずっと後のことになる。
3度目の改正は1951年11月8日、参議院が開いた参考人招致がきっかけになる。いわゆる「3園長証言」である。この日参考人として呼ばれたのは林芳信(多磨全生園長)、小林六造(国立予防衛生研究所長)、光田健輔(長島愛生園長)、宮崎松記(菊池恵楓園長)、久野寧(名古屋大学教授)の5名である。このうち林・光田・宮崎3園長の証言が問題になる。即ち、患者の強制収容強化・断種の励行・患者闘争の防止・逃走罪の新設など、患者の人権確保という観点から全く逆行する発言を繰り返したのである。
これに対して全患協側は、光田氏を取り上げた上で「本当の目的は、患者に連なる血統を根絶することで、ハンセン病を撲滅することにあった」と解釈し、厳しい言及を行っている。その後、3人それぞれが弁明・撤回をしている。
1年後の10月、全患協は多磨全生園内にて『らい予防法改正促進委員会』を発足させた。同じく11月10日には衆議院長谷川保議員が政府に対する質問状を提出する。この質問状は現在のハンセン病政策と照らし合わせてみても面白いと考えるため、全文を載せたい。また、同21日に内閣の出した答弁書を書き添える。(以下、Q=質問状、A=答弁書とする。)
| 1 | Q | らい予防法は憲法に抵触し患者の人権を無視した個所もあり公使できないものと思うが、いかになっているか。 |
| A | らい予防法は、憲法に抵触するとは考えない。 | |
| 2 | Q | 現行法により患者を強制収容できるか。 |
| A | 現行法第3条第1項の規定により、患者をその意志に反して療養所に収容することは可能である。らい患者の収容については、あたうる限り、勧奨により患者の納得をまって収容するように努め、大部分はこれによって目的を達しているが、この勧奨に対しても頑迷に入所を拒否する少数の患者については、らい病毒の伝播を防止し、公共の福祉を確保するために入所命令書を交付し、入所せしめた例もある。 | |
| 3 | Q | 施設長に与えられている患者懲戒検束権は行使できるか、またどの程度行使しているか。 |
| A | 現行法第4条2の規定により、国立療養所の長が懲戒検束を行うことは可能である。らい療養所は一つの特殊な社会集団であって、この集団の中において秩序を乱すものに対しては、集団からの退去を求めることが、秩序維持のために通常とせられる処置であるが、らいおよびらい療養所の特殊性から、らい患者をらい療養所から退所させることは、公共の福祉の観点から適当でないと認められるので、国立療養所の長に療養所の秩序を維持するための懲戒検束の職権を与えることが必要である。この権限の行使については慎重を期するように特に強く指導しているが、この懲戒検束の方法については、今後とも十分に検討いたしたい。 | |
| 4 | Q | 係官により患者および患者の家族の身分等について、秘密が漏洩された事例が多いときくが、主務省はこれに対していかなる処置をなしているか。また、秘密を漏洩した係官に対し、罰則を適用した件数はいかほどあるか。 |
| A | 国立療養所係官、都道府県らい関係吏員等については、らい予防法、国家公務員法、地方公務員法等により秘密保持の規定が設けられているが、らい対策の円滑な推進を図るため特に秘密保持が必要であるので、この面については関係者に対して強力に指導している。秘密を漏洩した係官に対する処罰の事例については、目下調査中である。 | |
| 5 | Q | 患者入所後の生活貧窮家族に対する救護は、完全に行われているか。 |
| A | 患者入所後の生活貧窮家族に対しては生活保護等による保護が行われているが、更に財団法人藤楓協会等の民間団体とも協力して貧窮家族の援護に力を尽くしたい。 | |
| 6 | Q | 患者の家族が生活保護法による救護の申請をする場合、現行法では秘密保持は十分できないときくが、この点いかに取り扱っているか。 |
| A | 生活保護法の保護に関係ある公務員については、地方公務員法等により秘密保持の義務が課せられているが、秘密保持の徹底については常に強く指導している。 | |
| 7 | Q | 患者の検診をなしているときくが、これにより患者の秘密が保持されるか、また、これに類した弊害はないのか。 |
| A | 患者の検診を行う場合には夜間検診を行い、あるいは他の健康診断と同時にその機会を利用して行う等秘密保持に特に留意しているが、更に秘密保持の徹底を期したい。 | |
| 8 | Q | 患者の秘密を守って収容を行う方法として、患者を発見した医師が直接施設長に届け出て入所勧誘、収容、転送等を一切施設側にて行わしめる方法について、主務省はいかに考えるか。 |
| A | 療養所の係官について秘密保持の規定があるのと同様に、都道府県吏員等についても機密保持の義務が規定されている点、および療養所の係官が仮に入所勧誘、転送等の処置をとるにしても、結果においては患者および現地の実体を最もよく把握する都道府県の関係吏員の協力を得て行わざるを得ないと言う点から、特に設例のような方法をとる意味はないと考える。むしろ患者収容の迅速、入所後の患者援護等のことを考慮するならば、患者の実体を十分把握した都道府県がこの処置をとることが適切である。 | |
| 9 | Q | 患者の家族に生活保護をなす場合、らいの施設長に民生委員のような権限を与え、施設長と被援護者を直結して行えば、秘密の漏洩も防止でき、患者の収容も行いやすいと思うがどうか。 |
| A | 8項について述べたところと同様の趣旨により、患者および家庭の実体を十分把握している都道府県等の職員が患者家族の生活援護を行うことが適切である。 | |
| 10 | Q | らい予防法には、行政官庁が患者を療養所に入所せしめる義務についての規定があって、自然的治癒および治癒した患者の対処についての規定がないが、いかなる理由に基づくものであるか。 |
| A | 患者が治癒した場合において退所の処置がとられるのは、当然のこことして規定されていない。 | |
| 11 | Q | らいの伝染力について種々の学説をきくが、主務省においてはいかなる見解を持っているか。 |
| A | らいの伝染力については種種の学説があるが、伝染性の疾病であることについては一致しており、特に小児に対する伝染力は相当強いものと考えられる。 | |
| 12 | Q | 新憲法制定により、らい予防法も当然改正すべきであると考えられるが、未だに改正されなかったのはいかなる理由によるものであるか。 |
| A | 現行法については、新憲法施行後においてもこれに抵触することは認められなかったので、改正も行われなかった。 | |
| 13 | Q | 政府はらい予防法を改正する用意があるか。もし用意があるとすれば、国会提案の時期はいつごろの予定か。 |
| A | 現在のところ改正案を提出する予定はないが、今後とも慎重に検討したい。 | |
| 14 | Q | もし、らい予防法を改正する場合、主務省は療養所長の意見および患者の要望を事前にきく意志があるか。 |
| A | 将来改正する必要があるかあると認めた場合には、療養所長、患者は勿論、広く一般の意見を参考と致したい。 | |
| 15 | Q | 政府はらいの科学的論拠に基づく予防知識の国民啓蒙の対策があるか。 |
| A | 地方公共団体および財団法人藤楓協会等民間団体と協力してらい予防に関する知識および救らい思想の普及を図っており、将来も更にその徹底を期したい。 |
VII. 新らい予防法制定から予防法廃止へ
1953年1月末長谷川議員はらい予防法改正案を提出すると衆議院内にて発言した。が、これは遂に提出されることはなかった。厚生省側からの要請があったためである。その後3月14日、らい予防法が法律第58号改正案として提出される。しかしこの日、当時の吉田茂内閣総理大臣の失言から衆議院は解散(いわゆるバカヤロー解散)、改正案は即日流案となってしまう。
総選挙後の6月30日、改正案は再び国会に提出される。しかし、その内容は今までの法律と全く変わらない、患者の人権を侵害することを良しとする法律であった。ここに来て患者は憤慨する。全患協は国会に2度にわたって陳情団を送り込んだ。しかし、議員側が面会には応じない姿勢を採ったため、7月3日座り込みを決定。以降、最終的に180名にも及ぶ陳情団にまで発展した(全患協闘争)。しかしそのかいもなく、4日には衆議院で改正案が可決されてしまう。
事態が変化したのは8日。陳情団と厚生委員会との話し合いが合意にいたり、陳情団は座り込みを中止し、各療養所へ引き上げた。ここでの合意では「患者を第一に考えた審議をする」ことが約束されたらしいが、結局審議に生かされることはなかった。(なお、全患協闘争については第5章を参考願う。)
法律58号改正案は8月6日、参議院でも可決されると、15日「昭和28年法律第214号らい予防法」として公布された。
その後、全患協は何度からい予防法改正要求を出している。中でも1963年には患者自身がらい予防法案作成に着手している。
1994年ハンセン病患者を取り巻く状況は急転する。大谷藤郎ハンセン病予防事業対策調査検討委員会座長の「現行法廃止」発言によって始まる一連の調査は、1995年12月の最終報告書を以て終了。'96年4月1日の「らい予防法廃止に関する法律」施行を迎える。
なお1953年の改正以来1996年の廃止まで、らい予防法は43年間、一度も改正されてはいない。