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介護等体験(特別養護老人ホーム)

 2003年11月10日から14日にかけて、大阪府内にある特別養護老人ホームにて、介護の体験をしました。
 前半は毎日書いていたメモをそのまま原稿にしたもの、後半は体験を終えての感想を述べたものになっています。
 (※ 個人的な感想なので、読む方にとっては不快に思える部分があるおそれがあることをご了承ください。)

【 まとめ編 】

1.年をとると赤ちゃんに戻るということ。
 利用者がおむつを着用しているのを見て、年配の方に対する言い方としては大変失礼だが、「赤ちゃんと同じだ」と素直に思ってしまった。 そう考えると、歩くのがおぼつかないのも、いわゆる日常会話をするのが困難になるのも、「赤ちゃんと同じだ」ということになる。 そこにどんな人間であっても同じ道を通って生きていくのだ、というのを感じずにいられなかった。
 利用者の中にはかつて医者をなさっていた方、剣道で八段の腕前を持っていらっしゃった方もいたが、冷たく言ってしまえばそれはすべて過去の話である。 これから社会人になって、いろいろな意味でたくさんのものを「得て」いこうとする私にとって、いずれはそれを「失って」いくことになるのを知らされたとも言えるわけで、なんとも複雑な気分にもなった。
 では逆にどうせ「失う」のだから、「得る」必要はないのかと言われれば、もちろんそんなはずはないだろう。 利用者と接すると、もう患者の診察をすることはできなくても、有段者相手に一本取ることはできなくても、決してなくなることのない「自分らしさ」みたいなものがあるような気もしたからである。 いつまでも自分が自分らしくあるために、そして自分が人間としてもっと成長できるように、これからも精進していかなければいけないと考えさせられた。

2.誰かがやらなければいけないということ。
 こう書いてしまうとどうしても「面倒なことをしなければ」とか「(トランプで言うところの)ババを引かされた」とかいうネガティブな意味に解釈されてしまうが、もちろんそれを言いたいわけではない。
 私はこどもの頃、ごみ収集車に乗ってごみを運んでいくお兄ちゃんたちを見て、「あんな汚い仕事やりたくない」と母に言い、厳しく怒られたことがある。 このことは今でも私の心の中に強く残っている出来事で、「汚いかもしれへんけど、やってくれる人がいるから、うちらはこうして暮らしていけるんや」という母の言葉を忘れたことはない。 これと同じことではないだろうか。
 赤ちゃんが生まれたら、それを誰が放置しようとするだろうか。 ならばお年寄りの方が不幸にも日常生活をすることが困難になったら、それを誰が放置しようとするだろうか。 確かに「子は親の老後の世話をするものだ」という義理だけで、実際にお世話ができるとは限らないわけであるが、だからこそ自ら志願してお年寄りの方のお世話をしてくださる方がいることに感謝しなければいけないし、先に書いたように「みんな通る道だ」ということは忘れてはいけないと思う。

3.健康でいられることは宝であるということ。
 これはもう当たり前のことだから多くを語る必要はあるまい。 寝たきりの利用者は、寝たきりになりたくて寝たきりになっているのではなく、寝たきりにならざるを得ないことがあったから寝たきりになってしまったのである。 食事の介助のときにも内心は「やはり自分でごはんぐらい食べたいな」と思ったものであるが、健康でいられることに感謝して、いつまでも健康でいられるように努めなければいけないと思う。 
 余談であるが、今回の体験で訪れた施設は駅から10分強ほど山のほうへ向かって歩いたところにあり、毎日往復しながら「健康な生活しているなぁ」と思ったものである。 人間歩くのが何よりの健康法なのに、最近はどんどん歩かなくなってきている。 日ごろから歩くことを心がけたいものである。

4.人とのつながりは大切だということ。
 そして何と言っても今回の体験で最大の収穫だったのが「人との出会い」である。 人生の先輩という意味での利用者だけでなく、施設で働いている方、私と一緒に実習をした同じ京大生を含め、さまざまな人に出会い、さまざまな考えに触れることができた。 十人十色とはよく言ったもので、ひとりひとり物の見方も違うし、大切にしているものも違う。 まだまだ自分は大した人間ではないわけで、多くの価値観に触れるなかで自分をもっと成長させなければいけないんだと思った。
 また人というのは互いに支えあわなければ生きていけないわけであり、人と人が助け合うことの大切さを十分に思い知らされた。 月並みな言い方で申し訳ないが、社会的に強い立場にある人が弱い立場にある人を守らなければいけない。 なぜならば人はあるときは強い立場に立つことができるが、あるときは弱い立場に立たされることにもなるからである。
 そしてその人とのつながりの上で、どうしてもなくてはならないのはやはり「あいさつ」である。 「おはよう」の一言があるだけでどれだけ1日が充実するものか、(別に見返りを求めてやってはいないにせよ)「ありがとう」の一言があるだけでどれだけ人との距離が縮まるものか、「すみません」の一言があるだけでどれだけ緊張が解消されるものか、多くの人付き合いをしていく上で、決して忘れてはいけないことだと思う。

(番外) 京大生はすごい/すごくないということ。
 施設にパートで勤めている方とお話しすることもあり、そのたびに「京大生ってすごいねぇ」とちやほやされたものであるが、最後におまけとしてそのあたりのことを記しておくことにしよう。
 こんなことを言うと暴言にしか思われないだろうが、私は高校のとき勉強しかしていなかったので、京大に来たこともそう大きなことではなかった。 むしろ勉強「しか」しなかったことがコンプレックスに思うほどである。 ところがどうも世間からすれば、京大に行くというのはとてつもなくすごいことのようである。 勉強ができると思われるだけでなく、勉強ばかりで洗濯ものをたたんだことがないと思われるほどなのだから。 ではその京大に来た私はどうすればよいのだろうか。 「京大生は京大生であることを隠したがる」という面白い習性があるのだが、逆に「いい意味で」(ここがミソなのだが)プライドを持って、堂々としたほうがいいのかもしれないとも思った。 天性の才能をもつピアニストと比較してはそのピアニストに失礼ではあるが、どういうわけかエリートと呼ばれるような立場になることも可能なわけであるから、それならばエリートとして精進しなければいけないのだろう。 それは結局「みんなのために自分にできることをする」ことになるのだから。
 逆に京大生のすごくないところもいくつか見えてしまった。 例題・練習問題のスタイルがあまりに定着しているからか、「すぐ形から入ろうとする」というのは悪い点のひとつではないだろうか。 それは取りようによっては慎重にやっているわけだからいいかもしれないが、「まずやってみる」という姿勢のほうがずっと大切なような気がするのである。 そして「理屈っぽい」のも悪い点といえば悪い点かもしれない。 「うれしい」という気持ちに「これがこうでこうだからうれしい」という理屈なんて働かないような気がする。 うれしいものはうれしいのである。 私たちはマルかバツかで動くコンピュータではないのだから、もう少しそういう心の面を大切にして、心と心で人と触れ合うことが必要ではないだろうか。



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