〜第1部〜
1
トラム(路面電車)を降りれば、借りているアパートは、3ブロック先だ。
白い息を吐きながら、彼女はすっかり暗くなったレンガの街路を早足で歩く。ころん、とした顔立ちの、幼い感じを残した娘。身長150。黒い瞳に黒髪の持ち主であり、その髪の毛は肩に触れない程度にスパッとカット。少女マンガのヒロイン向きという表現が使え、どちらかというと渋谷や原宿でスカウトされそうな容姿雰囲気。しかしここは日本よりユーラシアを隔てて1万キロ。大西洋に接し“低い土地”をその名に冠した国の首都。

12月。
繁華街はイルミネーションで彩られ、このアパート建ち並ぶ街区でも、見上げる窓や玄関に飾り付けがチラホラ。聞こえ来る子ども達の声が弾んでいるように思えるのは気のせいか。
対し、足元に目を落とし、更に街路行く先に目を向けると、飾られた灯りとは対照的に、街灯があるにもかかわらず明るく感じない。おのずと、首をすくめるし早足になりがち。
自分のアパートに着く。レンガ造りの3階建て。
単身者世帯向けで、元より住人に子どもは少ない。帰宅の遅い部屋が多いせいか、灯りの点いた窓は二つ三つ。建物の古さも手伝っているだろう。周囲に比して沈んで見える。
彼女は鉄階段の下、集合ポストを覗き、いつものように何もないことを確認して階段を上がろうとし、足を止めた。
封書。
この住所を知る者は少ない。故国の家族と、その家族と付き合いのある一部の知り合いだけだ。今通っている学校にすら、ここの住所は伝えていない。
彼女は封書のあるポストに手のひらを向け、目を閉じ、そのまま数秒保ち、目を開き、ポストを開く。
流麗な筆記文字で手書きされた宛名……メディア・ボレアリス・アルフェラッツ(Media Borealis Alpheratz)確かに自分宛だ。
差出人は誰。ひっくり返すと、垂らした紅のロウに印章を押し、封印してある。
その印章。
「あ……」
思わず声が出、その場で開こうとし、慌てて中断し、彼女は急いで階段を上がる。
自室に入る。ちょうつがいの錆びかけた鉄ドアを閉め、灯りを付ける。無機な白い蛍光灯だが、それでもすっかり冷え切った部屋を甦らせるような印象を与える。
とはいえ、灯火が照らしたその部屋は、女の子の居室としては地味である。部屋割りはリビングダイニングと、そのLDに唯一ひらいたドア、バスルームだけ。リビングの調度はガラス戸の食器棚と、円い小さなテーブルと、窓際のベッドと、本棚と、クローゼット。
本棚の上には分厚い図鑑サイズで銀色に輝くオーディオ装置と、ベッドを挟むように配置されたスタンド一体のオーディオスピーカ。これでテーブルの上に小さなランの花がなければ、殺伐という方が近いかも知れぬ。
彼女は肩下げバッグをベッドに放り出し、そのついでにオーディオ装置の電源を入れた。白い吐息で手先を温め、急いで部屋の片隅へ向かい、温水ヒータの電源を入れる。
オーディオ装置が起動し、女性ヴォーカルを密やかに鳴らし始める。無垢アルミで銀色に輝く“オーラデザイン・ノート”が、深い木目のスピーカシステム“ソナスファベール・エレクタ・アマトール”に送り込むのは、トルコのポップス。
哀調を帯びたメロディを鼻歌に、彼女はダイニングに向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、シンク上ステンレスの小さなポットに僅かに注ぐ。ポットを電熱コンロに載せ、加熱。その間にバスルームでうがいと手洗い。
戻ってまず食器棚ガラス戸を開け、ガラス製のティーポットとカップのセットを取り出す。続いてしゃがみ込み、下段の木戸から陶器製の白いポットを取り出す。中から僅かにカサカサと音がする。
ポット類をシンクに置くとコンロの湯が沸いた。
彼女は湯をガラスのティーポットに移すと、再度、ミネラルウォーターを今度はカップ一杯分、ステンレスのポットで加熱。
次いでテーブルに手を伸ばし、ポストの手紙を手にする。コンロの電熱にかざしてロウの封印を少し溶かし、小指のツメでスッと切る。
招待状、とまず出てきた。グーテンベルクの時代かと思うような、凝った意匠の字体だ。2つ折りのカードであり、中に幾葉か書状が挟み込まれている。
湯が沸いてきたので、手紙をテーブルへ戻す。先にガラスのティーポットに入れておいた湯を捨てる。
空になったガラスのポットから湯気だけ昇る。ポットを温めたのである。彼女は陶器のポットの蓋を開き、ティースプーンを挿し入れ、紅茶の葉を一盛り、湯気立つガラスのポットへ。
カップ一杯分の湯が沸いた。
沸いた湯を茶葉の入ったガラスポットへ注ぐ。そのついでに食器棚からコースターを出し、テーブルへ。
ガラスのポットとカップを持ち、ポットをコースターの上に置く。中で茶葉が開き、次第に湯が褐色を帯びて行く。
彼女はテーブルに腰を落ち着けると、カードを封筒から取り出し、挟まれた書状類を取り出した。
中身はペン字で手書きの便箋。折りたたまれたリーフレット。そして硬質紙のバウチャー・チケット(引換券)。
以上三葉。まず目に付いた文字列が、バウチャーチケットのこれ。
ORIENT EXPRESS……オリエント急行。
わ、と声が出てしまう。鉄道に詳しいわけではないが、それがパリをターミナルとする世界一の列車の名だ、ということくらいは知っている。
一体何がどういう……彼女は便箋の書状を開く。
中身を要約する。コルキス(Colchis)王国主導で世界規模の救助ボランティアを立ち上げる。招聘したメンバーの顔合わせと趣旨説明を行いたいが、極秘なので専用の迎えを用意することが出来ない。その代わりというには児戯だが、この列車を用意したので乗って来て欲しい。乗車に際しての注意点は添付リーフレットに記載あるので参照のこと。
極秘任務、世界一の列車に乗れ。
まるでどこかのスパイ映画の世界。12歳の小娘相手に何事か……。
“大きな”……浮かんだのはそんな言葉。壮大な何かが、このカード類の向こうにある。この列車によって始まる。
心臓がドキドキし、鼓動に合わせて手指が震え、便箋がカサっ、カサっと音を立て始める。彼女は深呼吸し、胸を軽く叩き、とりあえず葉が開いたであろうアールグレイをカップに移した。
ガラスを染めるルビー色を一口含み、深呼吸してもう一度招待状に目を通す。コルキス王国……それはアルプス山懐の小国である。封印の紋章も同国王室の物だ。だったら、自分の本名を知っているのはある意味当然。
便箋の最後には女王名のサインがあり、“アルゴ・ムーンライト・プロジェクト(Argo Moonlight Project)”なる文字が添えられている。それが立ち上げる救助ボランティアの団体名とある。
コルキス王家のバックアップを得た団体、ということであろう。別にそこは驚くに値しない。現時点自分が所属している国際医療ボランティア“欧州自由意志医療派遣団(European Free-will Medical care Mission……EFMM)”にも、富豪や大企業などに混じり、幾つか王家の名がパトロンとしてリストされている。
対し、これはちょっと毛色が違うというか、“濃い”気配を持つ。EFMMは活動が公開され、報道機関に取り上げられたり、ウェブサイトも良く探すと自分が写っている写真もある。企業や団体が“慈善活動してますよ”というポーズのために寄付している場合もあり、その受け口団体としての意味も重々承知の上での活動・公開であると言える。そこへ極秘と来た。これ見よがしに善意を出すなとは聖書の言だが、その意を汲んだというか、人知れず現れて姿を消そうという“正義の味方”を本気でやろうというニュアンスを感じる。
それも非常な大規模で。
彼女は列車のリーフレットを手にする。表紙には“王国会議加盟300周年記念”と銘打たれ、コルキス王家名義で列車をチャーターした、とある。加盟諸国を通るので、ぜひこの機会に乗車頂き、いにしえの王侯の気分を味わって戴きたく。が主旨だそうだ。ルートマップによれば、ベルギー王国のオステンデ及びネーデルランド王国…すなわちオランダのアムステルダムからそれぞれ1本ずつ列車が発車、途中で連結されて長い1本の列車となり、ドイツのバイエルンを横切り、オーストリアのウィーン、ハンガリーのブダペストを経由して、最終目的地はトルコのイスタンブール。但し自分のチケットは、当然、ここアムステルダム発で途中に位置するコルキスまで。
招待状の文面をもう一度良く見る。迎えを出す代わりに、この列車を“用意した”……?
リーフレットのページをめくる。いかにも豪奢な室内や装飾の写真が目を奪い、説明文には“アールヌーボー”“アールデコ”といった文字が躍る。列車の歴史が書かれ、利用した王族の写真があちこちに貼ってある。飛行機出現以前、そもそも国を超えて移動するという行為は、金持ちの道楽か、国家外交などの必然からなされていたもので、どちらであれ、それなりの地位の人間が利用した。それを前提に内装はもちろん、警備・接客の配慮もなされたのがこの列車である。追って少し詳しく書くことになろうが、車輛1輛ごとに専属のスチュワードが配置されたのも、ホテルのボーイに相当する業務のみならず、“王侯貴族に安心して列車の旅行を楽しんで頂く”ためだ。日本の場合、皇族専用に“お召し列車”……今日の“特別車輛”が用意されているが、欧州ではこの列車をそのまま利用したり、荷物車だけ作って(王様の外遊であり荷物は大量)連結させ、食事を個室に運ばせるなどした。逆に言えば、そのまま王侯に供せられるグレードの内装とサービスを備えていたのがこの列車、と言って良い。
“ディナーにおいては男性はネクタイ着用、女性も盛装でお越し下さるようお願い致します”
ドレスコードのある列車レストラン。
女王様が“自分のためだけに”これほどの列車を借り切ったとは到底思えない。が、これで来てくれとした意図のようなものは見えてきた。隠密ゆえにSPや警備を用意するのは不可。しかし小娘に乗り換えの労や伴うリスクを排除し、長距離を確実に。
すなわち、隠密裡にされど自分を遇しつつ。
“マタ・ハリが良く乗っていたと言われますが真実はどうでしょうか。ジェームズ・ボンドが寝台個室で格闘した痕跡も、現在のところ公的には確認されておりません”
オリエント急行に乗って極秘任務。……突然の凄い話ではあるが、断る理由は無いであろう。そもそもこの住所を知っているということは、親も主旨を了解して住所をコルキス王室に開示したのだ。
あの服、まだ着られるかな……彼女は身体をひねって、クローゼットに目をやった。
2
アムステルダム中央駅。
トラムで降り立つ駅前広場には、まず目立つレンガ駅舎の偉容。
左右に堂々と翼を広げる、ゴシック様式3階建て。なのだが、“遊園地のお城”と言った方が、雰囲気の把握には、とりわけ日本人向けには判りやすいかも知れぬ。ちなみにひところ、東京駅丸の内口駅舎のモデルと言われたこともあった。なるほど一見そう映ってもおかしくはないであろうが、建築史の観点からは、否定的な見方が多いようだ。
列車の出発は14時。リーフレットには30分前から乗車可能とあった。現在時刻はその“30分前”に少々、余裕がある。
駅舎は右手が入口専用になっており、そちらへ回って人波に乗り、中へ入る。コンコースは豪壮な柱が並び梁が弧を描く広い空間。オープンカフェのテーブルセットが並び、出札窓口には荷物を手にした人々の列。上方には電光式の出発案内があって、国内外の行き先がズラリと並ぶ。15分後にパリ行きの超特急が出るので、人々の多くはそれであろう。プラットホームは2階。そのパリへ向かう瀟洒なワインレッドの列車は見えない。
そしてオリエント急行は電光案内にも表示がない。チャーター便を出しても仕方がないからだろうが、どのホームから出るのか判らないのは困る。プラットホームまでは特段切符の類が無くても入れるのだが、うろうろして不測の事態に遭うのは御免だ。ちなみに少し前まで、この駅の治安の悪さは世界的にも有名な程であった。
誰か訊いた方が良い。そういう経緯から警備担当が増えたはず……と見回すと、目の前でどこぞの奥様が制帽姿のポーター(小荷物運搬業)氏にチップを渡しているところ。
同氏が日焼け顔に笑みを刻み、奥様を送り出したところで声を掛ける。
「すいません、特別運転のオリエント急行の乗り場は」
「これはこれはお嬢さん。女の子で鉄道好きとは珍しい。撮影用には4番ホームが開放されてるよ」
「いえ、あの、乗る……んですが」
するとポーター氏はオーバーアクション。額に皺を寄せ、目を見開き、口を小さく“O”の字に開いて彼女を見回す。
彼女は当然普段着ではない。襟元にふわふわフェイクファーをあしらったコート。ハンドバッグにピギーバックの衣装ケース。少なくとも男性はネクタイ着用、なのだ。文字通りの“女コドモ”であるが、カジュアルな服装は出来ない。
「……ああ、でしたらご案内致します。そちらお持ちしましょう」
「いえ、軽いから大丈夫です」
「仕事は抜きですよ。リトル・プリンセス」
ポーター氏は言うと、彼女の衣装ケースを手にし、今来た入口へ後戻りを始めた。入ってくる人の流れに逆らい、そのまま入口から一旦駅舎の外へ出てしまう。向かったのは左手、路面電車が出ている広場の東隣。先導されるままついて行くと、そちらにもこぢんまりしているが、しかし車寄せを備えた出入り口がある。但し人の出入りは殆ど無い。
彼女は気が付く、というか思い出す。この入口は。
宮廷車寄せである。大きな英文のウェルカムボードがあり、entrance及びOrient Express Limited Specialと見える。
入り口から分けてある。しかも宮廷用。破格の扱いである。
「ありがとう」
彼女はもういい後は自分で、の意で言ったのであったが、しかし、ポーター氏はそのまま表示板のある入り口から中へ。
「こちらのお嬢さんがご乗車だそうだ」
エントランス内にはチェックインカウンターが設けられてあり、濃紺の制服を着た男女の係員がそれぞれ一名。但しオランダ鉄道の制服ではない。
ポーター氏が話しかけたのは、メガネを掛け、ブロンドを後ろで丸くまとめた女性の係員。
メガネの女性は頷き、彼女へ目を向ける。
目が合うと、ハッとしたような表情を見せ、カウンター下を覗くような動作をした。乗客名簿と照合であろう。そして同席の男性に何事か。
男性が軽く頷いた。
「判りました。確かに私どものお客様です。後は我々で」
男性係員はユーロのコインを手にポーター氏にそう告げると、進み出、氏の引く荷物に手を伸ばした。
「そうかい?じゃぁ」
ポーター氏はコインを受け取らず、衣装ケースを男性に託すと、帽子に手をして軽く一同に挨拶し、エントランスから折り返した。
「良い旅を、お嬢さん」
「ありがとう」
すれ違いざま彼女に言い、そしてポーター氏はそのまま振り返らず、トラムの広場へ。あっという間に人混みに紛れてしまう。
本当に厚意で案内してくれたようである。彼女は見えない背中に謝意を示すと、エントランスへ目を戻した。するとそこには、男女の係員が揃ってカウンターの外まで出、自分を“お迎え”よろしく待っているという状況。男性は直立不動であり、女性の方はキュロットスカートにヒールを履き、足を前後に揃えたいわゆる“モデル立ち”の姿勢。
エントランスをくぐり、二人と相対する。中は大都市の中心とは思えぬ別世界だ。この街に越して来てすぐ、レンブラントを見に行ったが、その時と同じ、タイムスリップにも似た感覚がある。梁や床材は巻き貝の化石まで含んだ本物の大理石であり、ルネサンス調の装飾が柔らかく陽光を迎え、床には奥へと誘うかのような赤いカーペット。
「Welcome」
男性が英語で。その声が少し硬質な響きを持って、ルネサンスの空間に軽く広がる。
「My name is Alpheratz.Can I check in?」
彼女が言い、帰ってきた答えは。
「お待ちしておりました、ハイネス」
バウチャーを出すまでもなく、女性係員が胸に手を当てて一礼し、厚紙で作られたレターボックス近似のドキュメントケースを彼女に示した。
ケースは紫地。金色の縁取りと、列車名と、コルキスの紋章。
係員女性が蓋を開けると指定券。さすがにコンピュータ印字であるが、自分の名前、性別、年齢があり、2号車6番個室でコルキスまで指定してある。
女性は、彼女が指定券に一通り目を通したと知るや、ドキュメントケースに戻し、
「わたくし、ご乗車までのご案内を担当いたします、プラットホーム・アテンダントのエミリー・スマイスです。よろしくお願い致します。ご乗車は既に可能ですが発車まで今暫くございます。この奥でご休憩頂くことも可能ですが、如何なさいますか?」
この奥……エミリーさんの示す背後、カーペットの先には淡い電球照明の待合いがあり、雰囲気はさながらホテルのロビー。大振りなソファテーブルが配され、年配の女性や、タキシード姿のやはり白髪の男性らが談笑している。彼らは一見して上流階級であり、応じた料金でツアーに応募した乗客達なのだろう。失敗して焦げたラザニアに噛みついてる自分は場違い。
に、加え、このエミリーさんにいつまでも子どもの世話をさせるわけにも行かぬ。
「あの、じゃぁ列車の方へ……」
「承知致しました」
物腰万事控えめで一礼を添える。明らかに自分が何者か知らされている対応である。
衣装ケースはエミリーさんの手に渡る。エミリーさんはこちら、と、ひとこと添えて歩き出し、そのロビー・スペースを横切って行く。座する上流の目線が彼女に注がれ、おや、とか、“意外”の意を多分に含んだ瞳と小声。
「まるでプリンセスね」
紫の帽子をかぶった、白髪の女性が、白いティーカップ片手に、ニッコリ笑った。
彼女は白髪女性に小さく笑みを返し、エミリーさんの後について、待合い奥の大理石階段を上がって行く。エミリーさんのヒールが大理石を叩くが、その音は硬く、無闇に響いたりしない。踊り場にはラピスラズリがキラキラ光るフェルメールの作品が飾られているのだが、彼女は気付いていないようだ。
「こちらです」
階段を登り切り、エミリーさんが手のひらを空間へ差し示す。列車の音と、人々のざわめきと、そのざわめきを反射し響かせる屋根。欧州ターミナルの屋根は天蓋を思わせるドーム状の構造を持つものが多いが、ここも湾曲したドームが3つ連なって屋根を構成する。そして加えて、どこか懐かしい匂い。
匂い。それは暖炉、いや、石炭ストーブを思わせる。今日び駅の暖房に石炭ストーブとは思えないが、実際ドームの中には薄い煙が緩やかにたなびいている。
煙の出元を追い、合点が行った。グリーンに塗られた蒸気機関車がいるのだ。そして、その後ろに、率いられ連なる青い流麗。
それはドームの下、緩くカーブしたホームに座す、4輛の青い客車列車。
ただ列車のその青は、空の青でなく、海の青でなく。
彼女の知る限り、その青は夜明け前僅かな時間、星と共に天に存在する大気と宇宙の色。
そして、車体の側面、窓下中央には、向かい合う獅子を月桂樹の枝葉で囲った丸い紋章。
オリエント急行。その列車を構成する、ワゴン・リ(Wagons-Lits)社製造の客車群。
(これは模型です)
3
美しい列車だ、それがまずは率直な感想。黄色一色のオランダ鉄道車を見慣れた反動ではない。根本的に美しく見せるようデザインされた車輛なのだ。造作そのものは両車端に出入り台があり、ドア間には窓が連続という現代に通ずる外観。しかしその個々の窓枠には金の飾りが入り、窓の上には車輛の端から端まで文字が書いてある。いや、銅の打ち抜きで貼ってある。
Compagnie Internationale des Wagons-Lits Et Des Grands Express Europeens
フランス語であり訳すと国際寝台車欧州大急行会社。車端部は屋根が流れ落ちるように丸みを帯びており、その丸みに合わせたのだろう、出入り扉には楕円の大きなガラス窓が使用されている。流れ。そうこの列車に感じるのは流れだ。風のような、川のような。そして夜明けの……。確かに列車とは、その走る姿は、流れそのもの。
列車にこんな感慨を憶えたのは初めてだ。そして、鉄道ファンではないがオリエント急行だけは、という人があるのも理解できる。
眺めてしまう。これが、夜明けへ向かって走る様は、どれだけ美しいことだろう。
「ええ、オリエント急行は本来パリをターミナルとする列車です。ハイネス」
彼女が立ち止まって沈黙したのを、“知識ゆえの違和感”と捉えたか、エミリーさんが傍らで言った。
オリエント急行。
1883年にワゴン・リ社が欧州各国の鉄道会社と契約、パリ−コンスタンティノープル間に運転開始した国際列車である。それだけの長距離・長時間(3000キロ89時間)運転される列車は前例なく、快適性を求められることから、走る高級ホテルといった様相になった。これは冒頭記したように利用者がある程度限定されるためであったが、しかしてその豪華さ、欧亜国境というパリやロンドンから見て文字通り“東方の果て”、へ向かうエキゾティシズムも手伝い、列車として他に類を見ない神話的ステータスを獲得するに至った。ちなみに当初正式な列車名はなく、“オリエント急行”という呼称は、愛好者の間で自然発生的にそう呼ばれるようになったものを、ワゴン・リ社が正式に採用したという経緯がある。押しつけの名でなく、イメージに合致した自然な名前だったらからこそ、尚一層この列車を神話化することになったかも知れない。
エピソードを書けばキリがないが、アガサ・クリスティの名作“オリエント急行殺人事件”は、この列車の名を世界中に広め、神話化を確定させた物語と言って過言ではないだろう。彼女アガサは自身、この列車の愛好者であり、この列車で考古学者である夫君と知り合い、この列車で夫君のエジプト調査に同行した。しかし、彼女の愛した列車は2次大戦で運転休止を余儀なくされ、その戦役で発展を遂げた航空機に客を奪われ、1977年にその命脈を一旦絶たれる。
エミリーさんはそこまで喋り、
「今回の特別運転は、ベルギーのオステンデをターミナルとした、オステンデ・ウィーン・オリエント急行という列車のルートを基本にしています。この列車には、アムステルダム発でケルンにて乗り継ぎ出来る連絡列車がありました。往時はそこでお乗り換え、だったのですが、今回は2本の列車を走らせ、そこで連結します」
それを再現してのチャーター運転なのだ。
エミリーさんは列車へ向かって歩き出しながら続けた。今ここに発車を待つ車輛たちは、その1977年の廃止後、オークションに出されたり、欧州のそこここで朽ち果てていたのを、買い集めて復古した物、という。
「日本を走り、日本の山の中に打ち棄てられていた車輛も含まれてるんですよ」
「日本?」
彼女は思わず立ち止まってエミリーさんに問い返した。
「ええ、香港まで走って、そこから船で。パリ発東京行きの列車が走ったのです。世界最長の記録ですよ。この列車に相応しい記録ではないでしょうか」
エミリーさんは少し自慢げにも聞こえるように言い、微笑んだ。
パリから東京……彼女はこの流麗が日本へ行った様を思う。日本、何か惹き付けられる国……それは、このユーラシアの向こうにある平和の象徴。
元々自分の家系はアジアに根幹があると聞く。確かにたまにテレビに映る“ニッポン”の人たちは、自分と見てくれに近しさを感じる。いやどころか多分、自分がハラジュクやアキハバラを歩いたところで、違和感ないのではあるまいか。
「ワゴン・リ社を創設したナゲルマケールスは、最終的にシベリア経由で日本へ走らせる腹づもりでいたようです。列車名にオリエントを冠するなら、日本こそ欧州から見た場合真のオリエントですからね。パリ万博でその旨の旅行ポスターを展示していたこともあります。日本での運転は1988年でしたが、運転開始100年余りにしてようやくその意が達せられたということです」
話しているうち、二人はホームを横切り、彼女は2号車出入り台の下に立った。
ドームの向こうから回り込んでくる陽光に、煌めくような青。
1輛はさんで向こうは緑色の蒸気機関車。このように動いている蒸気機関車に接するのは初めてである。その匂いは“窯”“炉”といった言葉を思い浮かばせ、煙と、時折聞こえるエアやメカの音は“生き物”を思わせる。
と、見ていると、近づく足音があり、傍らに男性。……付けている香水のタイプでそう判断。
「お好きですか?」
キングス・イングリッシュに振り返ると、金ボタンの制服に身を包んだアフリカ系の男性。
「2号車スチュワードのジェフと申します。列車内のご案内を仰せつかっております」
胸に白手袋の手を当て一礼。自分の身長が150そこそこというせいもあろうが、見上げるほど背が高く、筋肉も腕っ節強そうという印象。比して、顔立ちは丸っこく穏和な感じ。
「あ、いえ、こうやって動いてるのを間近に見るのは初めてで」
彼女は答えた。ジェフ氏はエミリーさんと二人並んで“控えて待機”みたいな感じ。何だか気が引ける。
さっさと列車に乗ろうか。すると。
「そうですか。でしたらもう少し近づいてみて下さい」
ジェフ氏は言って機関車へ向かって手のひらを示した。
「え……」
「体温が感じられますから」
機関車に体温。何のことかと近づくと、それは、それこそ暖炉の暖かさ。
機関車から発熱しているのだ。なぜなら。
「中で石炭を燃やし、そこに水が流れ込み、蒸気が生まれる……生きている蒸気機関車は血の巡りを持っており、暖かいのです」
「生き物なんですね」
彼女は応じた。思わず見つめてしまった理由はそれだ。やはりそうなのだ。
機関士の男性が会話する自分たちに気づき、窓から顔を出してウィンク。
彼女は微笑み返し。
「仰る通りです。だから我々は相応の“生きているサービス”を提供するように仰せつかっておるのです」
機関士がレバーか何か操作して短い汽笛。
「10分前ですね」
エミリーさんが腕時計を見て言った。
乗車の頃合い。
「ありがとうございました。そしてよろしくお願いします」
彼女は二人にそれぞれ顔を向けて言った。
機関士には手を振ってウィンクを返す。
「何と丁寧なお方だろう」
ジェフ氏が言い、彼女の荷物を手にする。
係員同士の引き継ぎがあり、ジェフ氏の先導で2号車へ。楕円窓の下で輝く真鍮のドアノブに、氏の白い手袋が添えられ、カチャリと開かれる。
ドアは木製の手動。このようにスチュワードが都度開閉。言うまでもなくホテルドアマンの役どころであり、そういう演出。「ホテル」但し「動く」。
「足元に気をつけて」
「ありがとう」
背中にそっと添えられた手のひらを感じながら、2段のステップに足をかけ、車内に入る。床にはカーペット。壁はニス塗りの木製で艶やかに輝く。
乗り込むとフッと静かになる。木とカーペットの吸音効果だ。
これは“家”だと彼女はまず感じた。移動、ではない。居住、する空間。
普通の列車ではない。現行国際特急の1等車ですら比較の対象ではない。
なるほど一線を画する存在という実感が染みこむように沸いてくる。世界一の……それは喧伝される豪華さそのものだけを捉えて言った意味ではない。
不思議と足取りがゆっくりになる。
視界を彩る壁面の飾り窓、窓間のマーケットリ(寄せ木細工)、カーペットはトルコ絨毯。
但し、どの装飾も、パッと見のけばけばしさを追求したモノではなく、外見同様、丸み・円に基調を置いた流れの中にある。
個室6番。……車輛の真ん中で一番乗り心地がよい……と彼女が知ったのはずっと後の話。
扉は既に開かれており、マホガニーの重厚なコンパクト・ロビー≠ェそこに日射しを受けてある。ハンガーの掛かった壁を背にして配された大振りのソファ。ゴブラン織りのそれは、豪華のみならず力強さと威厳を備え、豪壮な玉座、と表現すれば近いか。窓際のテーブルにはミネラルウォーターのボトルがアイスバケットで冷えており、ほのかなピンクの花が花瓶に一輪。クリスマスローズ。
列車に生花。
「ヘレボルス・オリエンタリス(Helleborus orientalis)ですよ」
花を覗き込む彼女に、背後でジェフ氏が言い、衣装ケースをキャビン上部の荷棚へ。
オリエント急行に学名オリエンタリス……もちろん、小さな洒落。
「お荷物は必要になったらわたくしまでお申し付け下さい。それと花の姫君、ウェルカムドリンクを用意したいのですが如何致しましょう。コーヒー、紅茶、ジュース類もございますが。東洋のお茶の類も多少」
「いえ……この水で充分ですよ」
「わたくしからのサービスです。殿下の丁重なお心配りに感銘を受けました」
そこまで言われると逆に断るのも気が引ける。
「東洋のお茶にはどんなのが?」
だったらその辺。この地にいると滅多に飲めるモノではない。
問いかけに、ジェフ氏は日本茶ウーロン茶ジャスミンティ、と答えた。
ジャスミン。
この洒落た空間には一番マッチするのではないか。
「承知しました。すぐ用意して参ります。お持ちした際に、こちら部屋の設備についてご説明いたしますので、お座りになってお待ち下さい」
「はい」
ソファに腰を下ろし、窓の下にあるハンドルを回すと窓が開くらしい……と、判じたところで、長々とした汽笛が鳴った。
発車である。
軽いショックに、ボトルの中の水が揺れ、薄紅の花びらが微笑むように動く。
ぐいぐいとリズミカルな力が加えられ、列車はホームから動き出し加速する。
人々が対向ホームから手を振り、カメラを向け、列車を眺める。
ドームの下から陽光へ向け走り出す列車。
彼女はハンドルを回す。窓は下がって開き、上方から12月の風と共に、“窯”の匂いが入り込む。
窓を開けた理由……これが大きな旅立ちと感じたから。行く先の光に目を向けたいと思ったから。
「2号車の黒髪の彼女!こっちむいて!」
大きな声に彼女は目を向ける。
風になびく髪を抑え、ホーム端のカメラ群へ顔を向ける。
「行ってらっしゃい!」
見知らぬ見送りに思わず微笑む。
列車はホームから陽光の高架線路へ走り出る。
背後でノック音。
ジェフ氏だ。扉を開けるとポットとカップ。
「煙が入ってきませんか?途中ユトレヒトまでは蒸気機関車です。あ、それともお部屋が暑すぎましたか?」
「いえ……」
彼女は窓を閉め、ソファに座を戻した。
欧州人種の大人を目して設計されたソファに、黒い瞳で小柄な彼女はさながら人形のよう。
「こんな心ときめくお客様は初めてです。お茶をどうぞ。わたくしの説明が終わり次第、すぐに注いでよろしいかと」
ジェフ氏はそんな言い回しをすると、ジャスミンの香り漂う白いティーポットとカップを、窓際テーブルにそっと置いた。
まず、運転時刻の説明。コルキス着は翌日午前。
更に部屋の構造と備品について。入口ドア脇のラウンドした柱の様な部分は扉で、左右に開くと三面鏡と洗面台。洗面台は水とお湯が出、石けんも。なお、彼女が乗車したこの寝台車はLx型と呼称される。デラックス……du luxeの意だ。1人用個室を10室備えた定員10名。つまり、1輛で運ぶ乗客は10人だけ。
「こちら押して頂ければ、廊下にランプが点きまして、わたくしが参じます。ディナーは7時から。食堂車はオステンデから参ります6号車になります。時間になりましたらわたくしがお迎えに上がります」
「盛装で、ですね」
応じたら、ジェフ氏は胸を押さえてオーバーアクション。
「迎えに上がったわたくしが感激で気絶したら介抱はお願いしますよ」
どうやら彼らは万事お上手、である。
ジャスミンティーも香りがきついでなく、口当たりは至極まろやか。
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列車はユトレヒトで黄色一色の電気機関車にバトンタッチし、目に見えて高速走行を開始した。
ワゴン・リの客車群は元より時速140キロでの走行が可能な設計であるが、復古後に現代の安全基準に適合させた結果、最高速度は160キロを確保した。但し“エレガントに”走ることに主眼を置いた現代のクルーズ走行では、120キロ程度に抑えることが多い。ディナーのワインがユラユラ揺れては興ざめなのである。ちなみにオリエント“急行”と訳されるわけだが、その位置付けは現代日本における「快速以上、特急未満」といった中途半端なものではなく、機関車性能と、燃料と、車内の生活用水の限界まで速度と無停車を目指した、「超特急」と表現した方が正しい。文字通り可能な限りぶっ飛ばしたのである。
その超特急性は、保存運転とはいえ、この列車の“矜持”としているのであろう。次の停車は国境を越えてドイツのエメリッヒ。ここで機関車をドイツのものに交換し、一足飛びにケルンへ向かう。到着は夕刻。
車窓にはユトレヒト近郊の景色が流れる。この辺は時折来ており、改めて眺める風景ではない。しかし乗ってる列車が列車のためか、同じ風景なのにまるで映画。合理化簡素な快速電車でペットボトル片手……に比して、ソファでくつろぎジャスミンティー。あまりにも世界が違う。
小駅を通過する。
彼女は気付いて立ち上がり、車窓に顔を付けて手を振る。
それはホームで手を振るたくさんの子ども達。先月訪れた孤児院の子ども達。
彼女は毎週末、列車で行って帰れる範囲で、孤児院や小児病棟を訪問して“楽しんで”もらっている。追って“ホスピタルクラウン”として日本でも知られるようになる活動である。手品だけはやたらと得意なので、それを生かして、という次第。
その時の笑顔と、残像に見るホームの笑顔と一致を見、彼女は安堵の笑みを作る。みんな元気そうだ。
と、同時に、それを眺める自分の立場に後ろめたさを覚える。今いるここは、世界最高とされる列車のキャビン。
同じチャーターならみんなを招いて……。
いや、そういう問題ではない。
贅沢な部屋や、おもてなしよりも、みんなが欲しいのは。
家族。本当の父さん母さん。
すると、列車の揺れにヘレボルス・オリエンタリスがくるりと動き、その小さな花がまるでじっと自分を見つめているよう。
『そんな風に考えないで』
「えっ?」
ひとりごちる。もちろん、花が口を聞くわけがない。招待状、女王様からの文言にあったこれを思い出したからであろう。
『道中は、是非楽しんできてくださいね。あなたの知っている過酷な経験こそは、これからのわたくし達に必要となるもの』
意味深な言い回しの裏にあるのは多分、『列車に乗ったら最後、元には戻れない』。
うんそう、だから多分、自分、出発する時前だけを見た。
それに、確かに折角の最上級列車なのだ。金輪際乗れないかも知れないし、遠慮してしまうのは女王様の意に沿わないであろう。
彼女は小さく笑い、ティーポットのお茶をつぎ足し、サービスというプチケーキに銀のフォークを載せ、さて、と車窓に目を向けた。考えておこうと思って、今の今まで決め切れていないことがあった。
『当プロジェクトでは、メンバー相互をコールサインで呼び合おうと思います。スペシャルな皆さんで構成されるスペシャルなチームです。いつもと違う自分となっていただく必要があるかと思いますので』
これを字面通りに取ると、クラーク・ケントに対するスーパー・マンに相当する名を考えてきて、ということになる。
文字通り物語やアニメの世界。
「ただでさえ詐称してるからねぇ」
彼女は見つめるオリエンタリスを指先でつん、とやった。
通う学校で彼女の本名を知る者はない。
教えていないからだ。いわゆるフリースクール。基本は通信制であり、たまに顔出して無事を見せろ、というシステムなので、級友と話した回数は多くない。
孤児院ではマジックもあって“魔法使いのお姉ちゃん”で通っている。
『お名前は?』
小さな子に訊かれて、とっさに答えたのは。
「レムリア」
Lemuria。言うまでもなくプレートテクトニクス出現前の動物分布を説明するための仮説であり、その大胆さゆえに幻想の大陸として扱われるようになったものだ。今にして思えば、手品使いである自分と、その幻想性故のミステリアスなイメージと、どこにもない……本名を隠している自分の、根無し草のような認識とが、そう言わせたのか。
レムリアでいいや。彼女は決めた。従い以後彼女をレムリアと呼ぶ。彼女レムリアは12歳だが、書いたように一人暮らしであり、故国を離れてアムステルダムにいる。
そして今オリエント急行で遥かアルプスの山懐、コルキスへと向かっている。
その認識は何か、些細だが、ずっと手つかずで気になっていた仕事を一つ終えたようで、レムリアはようやく落ち着いてこのソファに身を預ける気になった。
お茶を口にし、風景を目で追い、線路際に時折見える興奮気味の子どもの姿に思わず笑みを浮かべながら、気がつくとまどろんでいたり。
欧州の冬の日暮れは早い。
陽光の消えたドイツのケルンで、オステンデ発の編成を連結したチャーター便オリエント急行は、10輛編成となった。
このヴィンテージな客車達が製造された1920〜30年代は、機関車の能力もあって5〜6輛がせいぜいだったようだが、現代の強力な機関車は10輛に連ねても平然と牽引する。個々が美しく仕上げられている車輛だけに、連ねることにより、その美しさは尚一層強調され、長大な編成をなした姿は壮大にして壮麗と言えた。連なって月明かりの線路の上を行く姿はさながら舞い踊るかの如くであり、その様をして“青きプリマドンナ”と呼ばれることもある。
斯くして、ケルンのプラットホームでは連結と給水作業中にライトアップ演出がなされ、列車は夥しい数のストロボ閃光に彩られ、尚一層青く、そして金色の装飾はブリリアントに、まさに光り輝いた。
やがて、薄い橙に下回り赤色のツートンカラーをまとった流線型電気機関車が現れて先頭に連結。ヘッドライトを点らせて汽笛一声、歓声と閃光に見送られ列車はケルンを発つ。ドイツとオリエント急行には、第1次大戦とヒトラーに関わり浅からぬ因縁があるのだが、今こうして眼差しに包まれる様は、過去は別世界と言わんばかりだ。列車はいや増す流星雨のような夥しい閃光を浴びつつ極めてジェントルにホームを離れ、線路の入り組んだ構内を長い身くねらせゆっくり横切り、月の照らす二条の鉄路へと躍り出る。それは大空に舞い上がった鳥の如くであり、目覚めたように加速を開始する。次の停車は深夜に国境を越え、オーストリアのザルツブルク。
ディナータイム。
ココン、コンというリズミカルなドアノックに、レムリアは準備できましたと応じた。
解錠してドアを開くとジェフ氏。
「ああこのまま死んでもいい」
レムリアと目を合わせた氏の開口一番がそれ。
「お手をどうぞ」
白い手袋を差し伸べる。
「はい」
彼女は応じて左手を差し出す。エスコートされて通路へ。
白熱電球で照明された通路は、赤いカーペットとマホガニーがいい色合いに照り返し、ゴージャスそのもの。
「蛍光灯だと興ざめでしょうね」
レムリアは言った。
「でも世界で最初に電球照明を採用したのはオリエント急行なんですよ。それまではガス灯や蝋燭を使っていました」
ジェフ氏は言うと、コンパートメント側の壁にある金具を指差した。
鍵穴のフタを思わせる花びらを模した板状の金具。ジェフ氏はくるりと回転させ、壁の中から小さな受け皿を引き出した。中心にはピンが立っており、似たような形状をした理科の実験道具を思い出させる。
蝋燭立て。
「当時の装備です。現代の安全基準からは、当然、ここに蝋燭を立てることは出来ません。しかし、リストアに際して、できるだけ往時の姿に、というオーナーの意志から、忠実に復元しました」
蝋燭立てを戻し、ジェフ氏の案内で再び歩き出す。
車端に椅子と机と、机の上には花瓶。
「花があちこちに」
「ええ。ここが私の待機位置ですが、花のある職場は実に和んで良いものです」
「待機……ってここに座ってらっしゃる」
その椅子は木材意匠こそ凝っているが、長時間座るには向かない。喫茶店の腰掛け≠思わせる簡素な構造。
運転中ここにずっと座って。スチュワード……ホテルボーイと同じであるからそうなのであろうが。
「お疲れになりませんか?」
「お気遣いありがとうございます。今の一言でまるでアルプスの夜明けのような気分です。さ、遅れます。お料理も合わせて作っておりますので」
促され、車両間を移動して行く。こう通路を歩いて行くと、意識したせいもあろうが、とにかく木と花と葉が目に付く。現物のみならず、マーケットリーや飾り窓、ランプのシェードに至るまでそれは徹底されている。
そもそもアール・ヌーボーという運動はそういう方を向いた代物だと薄々認識してはいる。ただ、現物・彫刻・材質に至るまで全て統一されるとエレガントの一言だ。
ピアノの音。しかもオーディオ装置越しではなく、生演奏の鮮烈さ。
「ピアノ?」
「ええそうです。お寛ぎの一助になればとバーサロン車にて演奏しております」
ピアノの音が次第に近づく。アムステルダム発車時より後ろまで来ているから、その車輛はオステンデの方から来たのであろう。
演奏が終わったらしく拍手が聞こえる。バー車。アルコールを楽しむバーカウンターとサロンスペースを備えた車輛。日本ではなじみが薄い車種だが、欧州の長距離列車では普遍的であり、新幹線に相当する国際高速列車にも連結されている。
車間を渡る。そこは日本であれば蛇腹状の貫通幌に鉄板が渡してあるだけ。輸送機械としての素性が顔を出す部分である。
「少しお待ちいただけます?」
請われて足を止める。
この列車では、その貫通路部分もカーペット敷きであり、幌はカーテンが吊られて目隠し。客が正装なのに列車側が機能剥き出しでは興ざめというわけだ。
まるでステージ袖で出演待機している気分。
隣接バー車は照度の落とされたシックな光使いの空間。正面にはグランドピアノが見え、そのラウンド形状に合わせて通路がしつらえてあり、更にその通路を挟んで湾曲したバーカウンター。壁や天井のデザインはどこのお城から切り取ってきたのか。
バーテンダーが自分に気づいてウィンク。
「お集まりの紳士淑女の皆さん」
ジェフ氏がピアノの傍らからサロン室内に声を出した。
ソファで寛ぐ紳士淑女の目が集まる。
無粋な邪魔というよりは、イベントへの期待……そんな目線。
「往事、この列車は多くの王侯にご利用いただき、その必要の故にこのような姿となりました。その後、時と共に翼が発達、このサロンに開いた花々もことごとく空の上へと奪い去られました。しかし今夜は違います。恐らくはこの月明かりの魔法でございましょう、我々はそんな華やかな花を一輪、空から奪い返すことに成功しました。
この方を皆さんに紹介できます栄に浴したことは、私にとって終生の誇りであると共に、一晩の旅路をご一緒いただけることは、我々共通の栄誉でありましょう。
では歓迎の言葉を捧げ、皆様にご紹介いたしたいと思います。この列車は今宵貴女様をお待ち申し上げていたと言っても過言ではありますまい。中世以後魔女の国として知られたこの旅路遙か彼方、アルフェラッツ王国の姫君、メディア・ボレアリス・アルフェラッツ王女殿下」
ジェフ氏が言いながら差し伸べた白い手袋の手に、彼女は右手を載せ、左手でドレスの裾を持ち上げた。
はにかみを持ってサロン車に足を踏み入れる。
わぁ、という声が一斉に上がり、ソファの客が立ち上がり、拍手の波が広がる。
彼女の名、メディア・ボレアリス・アルフェラッツ。
意味するところ、代々女系で魔女≠フ血を継ぐとされるアルフェラッツ王国のプリンセス。称号、南天の花冠。
コルキスの女王様から直接手紙が届いた。それは至極当たり前なのである。
レムリア……この場だけは王女メディアと書こう、彼女は歓迎に会釈しながら光の中へ。
正装……クローゼットから彼女が選んできたその正体は深いブルーのイブニングドレス。
裾を持ち上げ、舞うように踊らせ、彼女はグランドピアノ脇をすり抜ける。
その青は、この列車がまとう、夜明け前の空の色と同じ青。むろん単なる好みであって、意識して故国から持ってきたわけではない。今宵の一致は偶然の悪戯。
窓越しの月光が彼女を照らし、その故か、ピアニストが一礼して鍵盤に指を立てる。
ベートーベン月光=B
旋律に合わせて彼女はカーペットの上を一歩ずつ行く。左右窓際に配されたソファセットから拍手とため息が自分を迎え、そして送る。
「まぁ……本当にプリンセスでいらしたのね」
それはアムステルダム待合いで声を掛けて下さったご婦人。
「メディアと申します」
淑女の挨拶。
「まぁ……まぁまぁ……可愛らしくてお綺麗で……何てことでしょう。ため息しか出ませんわ……」
「ありがとうございます」
婦人は涙すら浮かべて感激してくれた。文字通りのセレブレーションセレモニー。列車側の演出なのであろうが、他の皆様が喜んで頂いているならそれで良い。
「また後でいらしてね」
誘いの言葉に頷いて応じ、隣接レストランカーに導かれる。手前が厨房であり、過ぎて中央に通路があって左右にテーブル。右側は4人掛け、左側は2人掛けが6セットずつ。純白のクロスにテーブルランプ。窓際で揺れるその赤いシェードが印象的。ただ、椅子の数一杯に座ったテーブルはなく、やや余裕を持って白いプレートとグラスが並ぶ。それらテーブルに着いた人々も、隣接サロン車の拍手とざわめきは気になっていたようであり、全員の目が自分に集まる。
自然と拍手。思わず照れたら、より好感を持たれたようで更に拍手。
「プリンセスをお願いいたします」
ジェフ氏が口ひげを蓄えたレストランチーフに一礼。
「カルトを何か私のおごりで」
一言添える。
「かしこまりました。殿下、今宵は当レストランへようこそ。お席はこちらです」
チーフはレストラン車の奥を手で示し、彼女を誘った。
再度注目を受けて車内を移動して行く。食器の用意された空いたテーブルは幾つかあるが、案内されたのはそれらをパスして最も奥、一目でルネ・ラリックと判るガラスパネルで仕切られたコンパートメントスペース。なお、こうした造作は本来は贅沢な一等座席車であるプルマン車(Pullman)のものだ。一部ホテルにはサロンやラウンジにレストランから食事を運ぶサービスを行っているが、その列車版と言って良い。この列車では、プルマン車をそのままレストランカーに使用している。
「お座り下さい」
チーフ氏は椅子を引いた。
「ありがとう」
腰を下ろす。区分けされた中というのは文字通り特別扱いであって気が引けるが、列車側の都合もあろう。
「今夜のメニューになっております」
フレンチフルコース。
意図せず表情が硬くなってしまう。その日の食事にすら困窮する子ども達の顔がよぎる。
チーフは彼女の耳元に顔を寄せ。
「殿下が贅沢なお食事に抵抗をお持ちとのことは承っております。しかし私どもと致しましても、粗末な食事をお出しするわけには参りません。そこで質素にと考え、100年前、この列車の運転開始当初のメニューを用意いたしました」
彼女は思わず目を見開いた。
「お気遣いさせてしまって申し訳ありません」
「とんでもない。だからこそ私どもの腕の見せ所です。さて先ほどジェフより単品料理をお一つお好みでと密かに聞きました。どうぞカルトからお選び下さい」
プリンセスだから、と食事を奢られるのも気が引けるが、断ったらジェフ氏のこと「おお耐え難きショック」とか言って「死んでしまう」だろう。大体、密かに丸聞こえだ。
コースを承知し、ジェフ氏のおごりはサラダをチョイスした。どうしても肉が中心なので野菜が欲しい。ワインはあり得ないのでグレープの生ジュース。
以下、指紋が付かぬようテーブルナプキンを介して皿が運ばれる。
・カキの前菜。
・ポタージュスープ。
・カルトのサラダ盛り合わせ。
・魚のグリーンソース。
・若鶏のワインソース。
・牛のステーキプロヴァンス風。これに焼きたてのパンを幾つか。
・デザートは苦チョコレートケーキとコーヒー。
「これが100年前のメニューですか」
食後のコーヒーにミルクの渦を描きながら、彼女は尋ねた。まぁ確かに、フレンチに付きもののフォアグラは無かったし、ホテルレストランというよりは家庭料理の趣。しかし新鮮な素材をふんだんに使ったという点では贅沢といって差し支えないだろう。しかもフレンチというと少々味がくどいという印象があったが、これは素材の良さはそのまま、まさに味付け£度であって、至極上品だ。変な話かも知れないが、同様にシンプルなデザインの皿類までも上品に見える。白地のプレートに、車体と同じブルーのラインをあしらっただけ。但しブルーのラインはよく見るとキラキラ光り、ラピスラズリの含有を感じさせる。でも、本当によく見ないと判らないほど。
本当の贅沢とは、根本的に良い物を選ぶことと、そのために手間暇を惜しまないことであって、過剰な演出で見せかけを飾ることではない。
コーヒーカップが空になった。美味しかった。
「姫君」
レストランチーフがサロン車のチーフを伴い、テーブルの傍らに。
「tres bien」
彼女はまずレストランチーフに一言。訊かれて初めて答える……では失礼な味だろう。
そして形容詞をつけたり、個々に細かく説明しなくても、これだけで良いはず。
王女が言うのだから。
「ありがとうございます。我々一同にこの上なくありがたきお言葉賜りました。つきましては、お食事がお済みでしたらこちらサロン車よりご招待があるとか」
「はい、そうです」
サロンのチーフがまずは一礼。
「お集まりのお客様方が、殿下とのダンスを望んでおられまして」
つまり、舞踏会。
列車の中で舞踏会。
「喜んで」
彼女は笑顔で応じた。
作者註:ディナーのメニューは「オリエント急行」(教育社・1985年)に依った
5
アルフェラッツ王国はアルプス東方、欧亜境界に位置する小国である。
民族血統は東アジアの系を引くが、言語文化は欧州側に属した。
従い魔法というのは欧州サイドの捉え方マジック≠ノ由来するが、実際的には東洋的シャーマニズムに分類される。欧州は古来諸公国が乱立し、覇を競ったが、アルフェラッツはあくまで中立を守り、むしろ仲裁と安定を請け負う役を担った。平和裏に解決、そのために魔法を求められ、外貨を得て生業とした。
その特異性は畏怖の対象であったようで、攻め滅ぼし我が国の領土に、と考えた国は歴史にない。それが現代まで2度の世界大戦を越えて同国を存在せしめた。或いはそれこそ魔法の効能と評する向きもある。
ただ所詮、端境の辺境。
科学技術文明と巨大産業の発展により、小国の生業は20世紀以降おとぎ話に封じられた。
国はそのおとぎ話の故に、観光収入をようやくの糧とし、古来の貯蓄を取り崩して体面を保っている、というのが正直なところである。魔法の国のお姫様というイメージにはほど遠い。
しかし、しかし。
その夜は違った。彼女はソファが片付けられた急ごしらえのダンスフロア≠ナ多く異国の人々とステップを踏んだ。
それこそ、まさに王女の仕事であった。
列車の性格上、サロン車の人々は多国籍であった。
都度、彼女は言語を変え会話を楽しんだ。次々繰り出される異国の言葉に人々は非常な瞠目を示した。
「殿下は一体いくつの言葉を」
「12、です」
集った上流階級が大きくどよめく。大体、この列車に乗ってくるような地位の人々は、母国語以外に英語位は当然で、フランス語あたりをたしなむ¥鼾が多いだろう。12という数は、そんな人々ですら大いに驚かせた。
内訳は以下の通り。英仏独露、住んでいるオランダ、スペインにポルトガル、イタリーに、これは現世言語と異なるがラテン、後はギリシャ、アラビア、そして、日本語。
EFMMで活動する分には、英語と、医学用語に多いドイツ語が判れば充分である。しかし、彼女はその活動先で現地の、特に子どもとお喋りできればと、多くの言語を身につけた。選択の理由は、第一に多く使われていること、そして過去、植民地支配を展開した列強の言語。
EFMMのような団体を必要とする国の多くが、そうした列強支配によって搾取され、その故に経済発展が遅れたという背景があるからだ。
不安と背中合わせの子ども達と、せめて笑顔で会話できたら。……最も、それよりも外交的に役立つ方が、今のところは多いのだが。
ただ、中で日本語を選んだ理由は他と異なる。その国だけでしか使われていない。にも関わらず獲得した背景には、少し書いたが、かの国に対する憧れがある。
何より平和な国。
顔立ちが自分と似ている人々が住んでいることも、親近感を抱かせる。
のほほんとしすぎという悪口を書くメディアもある。でも、本当はそれが人としてあるべき姿のはずだ。また、それは災害や戦役の現場と逆であり、だからこそ学ぶ内容がある。そんな気がする。
しかし、EFMMの主旨からして、当然、行ったことはない。
いつか行ってみたい。溶け込んでみたい。その東京行きオリエント急行に自分が乗れれば良かったのに(作者註:当時の旅費400万円)。
ロンドが終わった。
リヒテンシュタインからという顎髭の男性が恭しく会釈して下がり、代わりの踊り手は先のご婦人。
「ああ、やっと私の番ね」
手を合わせてワルツ。
「舞踏会で……子どもの頃からの夢だったのよ……」
婦人は目元輝かせて車内を舞った。
「素敵な王子様でなくて申し訳ないんですけど」
彼女ははにかんでそう返す。
「いいえ、素敵な王子様と踊るならどんなお話にも出てくるの。お姫様と踊れるなんてお話にも無いじゃない。それはもっと、とっても素敵で凄いこと……」
そこで婦人に異変が生じたことに彼女レムリアは気付いた。
「ああ飲み過ぎてしまったかしら……」
アルコールを召し上がって、踊る。
一般にアルコールを摂取すると、まずは血管が拡張し、結果血圧が下がる。
その後、ミネラル分が排出され血管が収縮するため、血圧は上がる。
運動するという行為は、多くの血液を筋肉に必要とする。このため、血圧が下がる時間帯では貧血を誘発し、上がる時間帯では更に高血圧を招く。
レムリアは踊りながら婦人の手首を握って脈を診た。
速くて浅い。貧血の兆候。つまり前者だ。
「奥様いけません……」
ダンスを止めようと思ったが少し遅かった。
スイッチが切れたように婦人が倒れてしまう。
レムリアはそのまましゃがんで婦人を抱え込む。異変にピアノが途切れ、人々が何事かと覗き込む。
婦人が嘔吐してしまう。レムリアはドレスを翻し、衆目から婦人の顔を覆い隠す。
「ごめ……ああ……」
婦人の声が言葉にならない。貧血の故に脳の活動が下がり、事態の認識、言葉の選定、発声、その全てが遅くなり、しかも不完全。
「我慢してはいけません」
サロンのチーフとバーテンダー氏がカウンターの奥から飛んできた。
「気分を悪くされたようです。タオルと、シーツと、横になれる場所を」
レムリアはチーフに言った。
「判りました」
チーフが立ち上がり、そこでジェフ氏と出くわす。二人で何事か相談し、隣接寝台車へ。
「……ドレスを」
婦人が膝の上で呟いた。
「あなたのドレスを汚し……」
「お気になさらず。私は看護師です。それよりも……」
言葉を繋ごうとしたその時、婦人が意識を失った。
バーテンダー氏曰く、婦人がサロンに来て、まずはクスリを飲む水を出したという。それは高血圧のクスリで、バーテンダー氏の母親と同じだからすぐ判ったとか。
「何か関係があるのでしょうか」
バーテンダー氏が尋ね、レムリアは大きく頷く。血圧が高くて降圧剤の処方を受けている。プラスアルコールの低血圧。
レムリアはゾッとするものを覚えて脈に触れ、婦人の胸に耳を当てた。
事態を罵る声。……知らぬ言語だがそうと判る。
この状況で言うことか……声の方向に目を向けた瞬間、手のひらから心拍がなくなった。
CA或いはCPA。すなわち心肺停止。
「すいません。この列車にお医者様は現在おられませんか?」
レムリアは心配そうなバーテンダー氏に向かって尋ねた。
バーテンダー氏が制服下、ベルトのホルダーに収まったトランシーバに手を伸ばす。
レムリアは心臓マッサージを開始する。婦人の胸元に両の手を組み合わせて乗せ、体重を掛けて押す。胸骨圧迫式心マッサージ(きょうこつあっぱくしきしんまっさーじ)である。
その動作に乗客達が事態の深刻さを理解したようである。集う人々に心配が宿り、表情を曇らせる。
「姫様、僕がやりましょう」
バーテンダー氏が代わってくれた。深酒で体調不良。応じたスキルを持っていておかしくない。
「ではお願いします。私は呼吸の方をやります。5回1回で」
彼女は頼み、婦人の口腔内に手指を入れて吐瀉物を掻きだし、更には口で吸い出して人工呼吸。マッサージ5回に対し呼吸1回。
バーテンダー氏のトランシーバが何事か。
「ああ、僕が代わります」
出るに出られぬバーテンダー氏に、舞踏会を見ていただけのタキシードの男性が挙手し、ソファを立った。
バーテンダー氏とマッサージを代わる。こういう場合の知識手段の所有率、行動へ移す実行力は、一般に欧州では大きい。
バーテンダー氏は無線機を耳に唇を噛んだ。
「姫様、残念ながらお医者様は……今列車長が参ります」
言葉から程なく、担架抱えたジェフ氏と、シーツにタオルを持ったサロンのチーフ。
「ひ、姫様一体何が!?」
列車長……他ならぬジェフ氏は、驚きながらそれでも担架をカーペットの上に据えた。
「医師の診断が必要です。どこかに列車を止めて……」
「了解いたしました。ただあの申し訳ありません。列車はローゼンハイムを通過しましたので、この次緊急事態契約を結んでいる病院は国境を越えてザルツブルクに……」
「間近の小駅で構いません。私の方で病院と緊急輸送の手配は出来ます。駅に停車の手配だけを。イン川は渡りました?」
「承知しました。川はだいぶ前に過ぎています」
「どなたか申し訳ありません。人工呼吸の心得のある方は」
サロン内に声を出すと、サロンのチーフが彼女の元へ。
「私がやりましょう」
「お願いします」
彼女は婦人を二人に託し、窓際に向かい、ナイトドレスの下、ウェストポーチから、軍用無線機に近似の機械を取り出す。
衛星携帯電話。
発呼した先はEFMMの本部。
「メディアです。列車で移動中急病人です。列車は今、ローゼンハイムからザルツブルクへ向かって走っており、イン川を通過。近場の病院に事態の照会と救急車の手配を願えますか?……はい」
レムリアは本部の回答を得、ジェフ氏に目を向ける。
「ジェフ列車長、キームゼーに止められますか?」
「あの湖の真ん中に城のある……」
「そうです」
「間に合います。了解しました」
ジェフ氏が制服の裾下からトランシーバを取り出す。
他方、レムリアはキームゼー停車可能とEFMMに伝える。
電話から了解の声が返る。病院からクルマを差し向けるとの由。
「判りました。ではその駅に臨時のオリエント急行が入りますと」
背後で激しく咳き込む声。
「姫様。ご婦人が息を吹き返された!」
「はい、今すぐ」
列車は夜の鉄路を征く速度を上げた。それは往年の超特急が蘇った如くであった。
揺れは若干増えた。しかし高速列車としての実績は安心感の内にある。
任務得ての疾走。豪奢なサロンのソファを集め、臨時のベッドとする。
「間もなく、間もなくですから」
ジェフ列車長が地図を持ってきた。
町の名はカタカナで書けばプリーン・アム・キームゼー(Prien am Chiemsee)。バイエルンの海と呼ばれるキームゼー湖畔の町だ。湖の中に島があり、未完のキームゼー城が建つ。城主はルートヴィヒ2世。有名なノイシュヴァンシュタイン城の建築で知られる。
列車はやがて減速し、汽笛一つを伴い駅構内に進入し、身をくねらせ転線し、プラットホームに滑り込む。ホーム上では駅係員と、レムリアが手配したこの地の総合病院スタッフが待機。寝台下に医療器具を満載したストレッチャー(キャスター付きベッド)が見える。
機関士が技巧を発揮し、バーサロン車出入り台を病院スタッフの前にピタリと止める。最も、オリエント急行は王侯を運んでいた列車。超一級の機関士でなければ運転が許されない。この程度は当然、であろう。
列車長ジェフ氏が車端に向かい、ドアが開かれる。人の声がし、夜気と共にスタッフが乗り込んで来る。
「Bitte kommen hier.」
「Ich gehe sofort.」
スタッフは車端からソファまでの僅かな距離をも走り、婦人に呼吸器と心電図装置を装着した。搬出は車輛出入り台が狭く担架が使えないため、シーツに婦人を乗せ、4人で抱えて移動とした。
「ごめん……ごめんなさいね……」
婦人はレムリアの手を握り、涙を流した。
「折角のあなたの旅行を……汚してしまった……」
「いいえ、ひととき姫の時間が過ごせて幸せでした。この地は温泉地でクアハウスがあります。ゆっくり養生なさって下さい。後でまたお見舞いに参ります」
本当は降りて付いて行きたいが、病院の規模からして充分であるし、
行く手に待つ物が重い。列車と、それらを、自分の都合で投げ出すわけにも行かぬ。
病院スタッフに託す。ストレッチャーに移す間にスタッフに概況を説明する。
「判りました。後は我々で」
「必ずまた来ます」
レムリアの声に、奥様は片手を上げて応え、ストレッチャーに乗って去った。
傍らでジェフ氏が奥様の物と思われる荷物を駅係員に渡している。
荷物のタグに何事か書き込み、病院スタッフを見送る。
駅の向こうへ救急車が走り去るのを確認すると、ジェフ氏はレムリアに目を向けた。
「姫、ドレスは如何致しますか?こちらでクリーニングを依頼して、後で届けさせることも可能ですが」
「いいえ、お手間を取らせるつもりはありません。持って行きます」
「判りました。ただせめて納めるビニール袋くらいは用意させて下さい。このままホームよりキャビンの方へご案内いたします」
ジェフ氏が懐中電灯を点し、足下を照らしてくれ、プラットホームを2号車まで歩く。汚れた服で動くホテルを歩くわけにも行くまい。
コンパートメントへ戻る。ベッドメイキングが完了しており、夜間用の青い電球が小さく点っている。
パジャマに着替え、据え付けのガウンを羽織ったところでドアノック。
「はい」
開くと、ジェフ氏とサロン車のチーフ。
「この度は私どもの方で対処すべき所、こともあろうに姫様にお手間を」
「看護師ですから。それよりも私がもう一瞬早く気付けば」
すると、ジェフ列車長は『信じられない』とばかりに、口を小さくアルファベットのo≠フ字に作り、胸元で両手を重ね、首を左右に振った。
「なんという責任感の強いお方でおられるのだろう。おお神よ、この姫君は、まこと天より遣わされた聖なる姫君ではありますまいか」
跪いて十字を切り、両手を組んで祈るように。
その一連の動作と言葉は、あまりにも、あまりにもなオーバーアクション。
しかし、それはジェフ氏の純粋な気持ちの表れなのだとレムリアは理解した。1回きりのスペシャルクルーズ。列車長である彼にとって、乗客の快適な旅が途切れることは任務失敗。
「殿下のおかげさまをもちまして、少々の遅れのみで済みました。わたくしからもお礼を申し上げたく」
ジェフ氏の代わりといった具合で、サロンのチーフが冷静に加えた。
そして、二人して見つめられる。
姫様としては。
ここはスマートな答礼で応じるのが王道≠ナあろう。
「確かこの列車は中から手紙が出せるんですよね」
「ええ、はい」
「ではキームゼーの病院へ送りたく思います。レターセットをお願いできますか」
ちょっと澄まして。
「かしこまりました」
「すぐお持ちします」
テーブルでオリエンタリスに見つめられながら、一筆したためて蝋を垂らし、アルフェラッツの印で封じる。これでオリエント急行発の消印が押されて病院へ届く。
「これを列車発で」
「確かにお預かりいたします」
6
夜明け前に列車はザルツブルクへと到着した。
臨時列車である故の時間調整なのだが、生かしてそのまま駅で朝を迎えようという演出である。ドイツで眠りにつき、目覚めるとモーツァルトの生まれた街というわけだ。乗客はホテルの朝よろしく街並を眺めながら車中で朝食。供されるのは街の店から列車に届いた出来たてパンだ。ここからは下車客があり、降りて観光する組と、先へ乗る組とに分かれる。ちなみに、彼女の乗る2号車は彼女のみが乗客であって、乗り降りの動きはない。但し、彼女は、Lx寝台車が1輛丸ごと彼女の占有であることを知らない。
観光組が降りた頃、ドアがノックされてジェフ氏。
「おはようございます。朝食です。レストランクルーの賄いですが、スクランブルエッグをお付けしました」
焼きたてパンに濃いコーヒー。コンチネンタル・ブレックファスト。
コンパートメントの小さなテーブルは運ばれたプレートとカップで一杯になり、ヘレボルス・オリエンタリスは洗面台へ一旦避難。
観光組に見送られて列車はザルツブルクを離れ、ドナウ川に沿ってウィーンへ向かう。朝食の片付けとベッド解体の間、サロン車に顔を出す。
ロシアンティーを頂きながら、いろんな国の人たちとお喋り。勿論、姫としてのガイコーで同じようなことはするのだが、フランクの体でも実質フォーマルなのがコッカ間のやりとり。対して。
「姫様と言うより普通の女の子」
南アフリカからという女性はこう評した。同じ列車で一夜を過ごした仲間同士≠フ気の置けない感じがこのサロンには花咲く。往事華やかなりし時代もそうだったのだろうか。
ウィーンでさらに観光組が大挙下車。乗客はケルン発車時のおよそ四分の一となり、列車は東欧圏へ進路を取る。陽が高くなり、線路沿いには見物目的であろう、カメラの類を持ち、こちらに手を振る人々がチラホラ。
そろそろ下車の準備だ。
コンパートメントに戻って最後のお茶を頂き、荷物をまとめる。
停車のアナウンス。本来的にはスチュワードが担当客の下車駅を把握しており、一斉放送は行わない。
行うのは異常かイベントであるが、聞こえてきたのは『皆様名残惜しいことですが列車の花とここでお別れです』しかも英語とドイツ語で。
大げさですってば。
カーブを曲がり、山並みの向こうに白い城壁が見えてくる。
コルキス王国。
お城と城下の街並。それだけで成り立つ極めて小さな独立国家である。国の敷地の半分が王宮、1割がコルキスの駅構内。すなわち国民≠ェ住むのは全体の4割。
カーブ途中より列車が速度を落とし始め、幾重もの転轍機で線路が左右に開いて輻輳し、大きなドームに覆われたプラットホームへ進入する。国の規模に比してアンバランスなサイズの駅だが、王宮の目の前でこぢんまりではサマになるまい。それと判らないくらい緩やかに減速し、2号車停車位置には赤絨毯が敷かれ、シルクハットの紳士が一人。
ドアノック。ジェフ氏の迎えだ。
「お世話になりました」
「ご利用ありがとうございました。この先あなた様がお見えにならないかと思うと、私の人生は永遠のトンネルのようです」
ジェフ氏はお上手を言い、彼女の荷物を手にし、主なき部屋の花瓶を引き上げる。
荷物を引き、花を片手に通路を先導。
「また、乗りに来ますから」
彼女はジェフ氏の背中に言った。
「え……」
それはジェフ氏に予想外だったようで、立ち止まって目をきょとん。
さもあろう。この列車は一般観光客向けに走行している他のオリエント急行≠ニ性格が異なる。乗車するには列車丸ごとチャーターする必要がある。
「必ず。王女の権限で」
レムリアは付け加えた。
するとジェフ氏が笑顔に変わる。
「……あ、はい。是非に。その際は列車長はジェフでとご指定下さい」
「ええもちろん」
車端ドア前に二人が達し、列車はブレーキを軽くきしらせ、そして、ドアが赤絨毯の前にピタリと止まる。
「ほら、列車もあなた様とのお別れを泣いて悲しんでいますよ」
ジェフ氏のお上手を聞きながら、楕円のドアガラスの向こうでシルクハットの男性が恭しく一礼。
王族を運び、送り、迎える。こういうのが保守本流オリエント急行の仕事≠ネのだろう。ジェフ氏が金ノブのドアを開き、荷物を持って先に降りる。
プラットホームのシルクハットに敬礼。
「リバイバル・オステンデ・ウィーン・オリエントエクスプレス列車長ジェフ・サマーサイドであります。メディア・ボレアリス・アルフェラッツ王女殿下にあらせられましては、午前10時43分、定刻通りコルキス王国国際駅へ到着であります。こちらが殿下のお手荷物であります」
「ご苦労様でした。これより先王宮までの案内はわたくしハロルド・シュワルツ・フライヴが承ります」
シルクハットの紳士ハロルド氏はやんわりしたキングス・イングリッシュで一礼し、荷物を引き受けた。
以下原語は英語である。
「では殿下」
「はい」
手を持たれてステップを降り、プラットホームへ。
連なる号車の窓から一夜の舞踏会を共にした皆さん。
「ありがとうございました。おかげでとても楽しい一夜でした」
レムリアは窓から見ている人々に王女の会釈。
やんやの拍手。すると。
「姫様、ハロルド様。30秒お待ちいただけますか」
ジェフ氏が言い、訊いた割には返事を待たず、Lx寝台車へとって返す。
車端ドア脇はミニキッチンであり、お茶を淹れたりケーキをスライス程度は出来る。小窓があり、ジェフ氏がそこでアレコレしているのが見える。
「このくらいしかできませんが」
戻ってきたジェフ氏の手には小さな花束。いや、一輪であるから束≠ナはないか。
ヘレボルス・オリエンタリス。純白の紙に包まれ、ピンクのリボンを巻かれた窓際の花。
「どうぞ。花はあなたが手にしてこそ相応しい」
くすぐったい。されど。
「ありがとう」
彼女は姫君の笑顔で小さな花を受け取った。
花一輪。手にして降り立つ王宮の駅。
ジェフ氏がLx寝台車乗降ステップに身を戻し、機関車に向かって手をし、機関車が短く汽笛を返して列車が流れ出す。
「さよなら〜」
「お姫様、いつかまたどこかで」
「ええ、きっと」
出会いがあれば別れがある。彼女は加速して行く列車を、人々の一人一人に目を合わせながら見送る。
ヴィンテージな客車群を率いる新鋭のパワーエレクトロニクスが唸りを上げ、登坂路へ向け力行を開始する。列車はホームを離れ、カーブを切ってそそり立つ山の方へと向かう。その姿が見えなくなるまで彼女は手を振る。
レールを伝って聞こえてきた、リズミカルな響きが去った。
壁のように周囲を囲う雪の山々と、冷涼にして峻厳な空気。標高は1200メートルほど。

気がつけば結構寒いではないか。彼女はコートの前を併せた。列車の温度がいかに外気に応じたきめ細かいコントロールがなされていたか、良く判った。
「お風邪を召されます。こちらへ」
「ありがとうございます。お世話になります」
ハロルド氏に付いてプラットホームを歩き、線路を渡って駅建屋へ向かう。建屋と言ってもホームの規模が規模であるから、応じた重厚な趣。美術館の別館か、それこそ城のインビテーションホールとしても通用しよう。
コルキス・インターナショナル・ステーション。
駅員の敬礼を受け、石畳の駅前広場へ出ると、尻尾で身体を拭う白馬が四頭。
馬車。カボチャが化けた物ではないが、白い球形をモチーフ。
そして、馬の背の向こうに広がる光景は、文字通りおとぎの国。
400年前の中世雰囲気そのものを観光資源としているのがコルキスである。下世話な言い方をすれば、国全体がテーマパークなのだ。ただ、本当の独立国家という点が遊園地と異なる。雰囲気優先であり、当然、クルマを始めエンジン付き動力車は乗り入れ禁止。緊急車両も電気自動車という徹底ぶりだ。水路と船の街ヴェニスの山間版とでも書けるか。最も、駅前町並みで生活用品の全てが揃い、住人は住んでいること≠ェ生業そのものであるから、エネルギ消費の多いパーソナル移動手段は不要ではある。
馬車の周囲は既に多数の観光客に囲まれている。おとぎの国の豪奢な馬車に、乗られるお方はどなた様?そんな所であろうか、興味津々の衆目の中へと彼女は歩み出す。
執事を伴い花咲くような少女が現れ、その姿に感嘆とどよめきが観光客から上がる。通りがかって事態に気付いた他の観光客、恐らく住人までが住居を出て集まってくる。
彼女はオリエンタリスを手元に衆目に一礼し、馬車に乗り込む。この瞬間、この花一輪の効果の程がどれだけ大輪か。ジェフ列車長、ありがとう。
「今しばらく」
ハロルド紳士は告げて馬車の戸を閉じ、荷物もろとも御者席に上がった。
ひと鞭。
駅前の通りを馬車が行く。
カメラと、指さす手と、どよめきに彼女は笑顔で手を振る。
石畳の街路は王宮までの半マイル余を真っ直ぐ伸びる。奥手は若干の勾配を持ち、山を背に広大な敷地を有するコルキス王宮へ向かい、その正面城門へ至る。
門扉の係りが二人いて、馬車の接近に合わせて扉を左右に大きく開く。
蹄鉄が石を叩くリズミカルな音を響かせ、馬車は王宮敷地へと入る。
芝生の庭園を緩やかに巡り、王宮車寄せに馬車は止まった。
ハロルド氏が馬車の扉を開き、伸べられた手に手を預け、彼女は馬車から大理石の玄関へ降り立つ。
「奥へどうぞ」
総大理石の城が彼女を迎える。玄関ホールは吹き抜けの円形であり、両側に丸みに沿って階段が設えられ、中央には遥か高みからシャンデリアが下がる。
ホール床面には奥へ向かって赤いカーペットが一直線。
先導されカーペットをゆっくり行く。
正面そのまま行けば、それこそ舞踏会など開くための大ホールが見える。傍らに説明用のプレートが立っており、普段は一般観光客がここを歩くと推定される。
しかし、今は自分以外に人の姿はなく、カーペットもホールへ向かわず、途中で左方に曲がり、エジプト王墓の偽扉に似た大理石のレリーフに至った。
ハロルド氏がレリーフの石に手をする。隠し扉の類であろう。自宅≠ノもこの手のカラクリは十指を下らない。
果たして偽扉は左右に開いた。ただし中は時空を飛び越え現代エレベータのイメージ。
「お乗り下さい」
本当にエレベータであるらしい。中は見慣れた篭のデザインだ。右手に操作ボタンと階層表示。天面近くに現在位置を表示する棒グラフ型のインジケータ。
それは豪奢な城に似合わず機能優先の意匠である。素っ気ないと言って良いほどで、乗ってきた寝台車と対極に位置する。どちらかというと研究所(ラボ)とかそんな建物を思わせる。ここが実は国の先端研究所、だったなら理解できるが。
ハロルド氏は彼女の荷物を篭の中へ運び込み。
「さて姫様。申し訳ありませんが、わたくしはこれより先に足を踏み入れる権限を有しません。殿下お一人となってしまいますが、降りた先で女王陛下がお待ちの手はずです」
「え……」
ちょっと心細くなるというか、王族として迎えられる場合、ひとりぼっちにされることは基本的に無い。
ただ、ここへ来た主旨は何だか壮大なボランティア活動である。と、彼女は思い出す。EFMMでは姫と呼ばれこそするが、現場で何に手を出すかは個々の判断であり、単独行動も当たり前。
ここで切り替えろということか。
「判りました。ありがとうございました」
彼女が答えると、ハロルド氏はボタンを押し、ケージ外へ出、恭しく頭を下げたまま、扉が閉まって見えなくなった。
エレベータが動き出す。感じるベクトルは下方である。城の地下へ向かってエレベータは加速して行く。
地下に何か設えたのだろう。大規模な救助プロジェクト。
そのための施設が地下にある。
エレベータは風切り音を立て、恐らく高速で降下し続ける。米国シアーズタワーかエンパイアステートビルディング級の長さである。日本的な書き方をすれば大深度地下と言えるか。天面近くの位置グラフが左へ左へ動いて行く。
ブレーキが掛かった。
漸次減速し、着床したらしくドア上にランプが点る。
扉が開く。
彼女は息を呑む。
7
コンクリートの大空間に船があった。
アムステルダムの駅よりも広いであろう、コンクリートで囲まれた箱の中に帆船が鎮座している。舳先を左手に、船尾を右手に。彼女は左舷側に立っている状態。
まるで中世の港へタイムスリップしたかの如くであり、王家王宮の地下空間に全く相応しくなく、驚嘆しか与えない光景であり存在である。ただ、3本マストそれぞれが抱く3枚の帆は布地ではない。白い四角四面の板であり、現代工業製品の趣。
その突拍子の無さからして、当のプロジェクト≠ノ関わりの深い存在であろう事は判った。冠しているアルゴ≠ニは、ギリシャ神話に出てくる帆船の名前だ。果たして目の前のその船は舳先の部分にargoと銘してある。この船を使ったプロジェクトであると理解できる。確かに巨大だ。
だがこの船で何をする。どこへ行く。
新大陸を探しに行くコロンブスか。
それとも現代に相応しく宇宙の大海へ乗り出すのか。
……まさか。いや、まさか。
と、船の陰から人の姿。そういえば女王陛下御自らがお出迎えと。
「お待ちしておりました。メディア・ボレアリス・アルフェラッツ王女殿下」
冴えた英語に顔を向けると、成人の姉≠ニいうイメージを抱かせる、白装束の若い女性がそこに立っていた。

それは確かこの国の正装と聞いた。アラブ系の民族衣装に起源を持ち、ギリシャ−ローマ系のtoga(とが)と混交した末の一枚布。
まるで女神。女王が纏うに相応しい。
若く静謐な面持ちの女性が自分を瞳に収め微笑んでいた。
その国籍不明のミステリアスは。
「アルゴ・ムーンライト・プロジェクトへようこそ。お願いに快諾下さり感謝の念に堪えません。わたくしは当プロジェクトにおいてコールサインをセレネ=Bあなた様のコールサインはいかが致しましょう」
……考えて来い、のこと。
「あ、では、レムリアで」
「幻の大陸ですね。ではようこそレムリア、私たちの船へ。中にあなたの部屋があります」
船の左舷、胴体部に縦方向のスリットが入った。
そこが動いて口を開くと知った。真の船であれば喫水線の下であり、すなわち、普通の水面を行く船ではない。
出入り口であるようだ。四角く切り取られ、一段奥へ引っ込み、右方へスライドして開いて行く。
同時に、開いたその口の下から、プレートが舌出すように出現し、斜めに伸びて床に接し、スロープを形成する。ご丁寧にポールが立ち上がってロープの手すりも付いた。それこそ、港から船に乗るかの如く。
常識を超越した事態が、今目の前で進行していることをレムリアは意識した。
セレネ≠フ先導を受けてスロープを上がって行き、出入り口をくぐる。入った中は外観に応じ湾曲した通路であり、船の前後へ向かって続いている。断面は六角形で床は黒。壁面と天井は純白で、天井は照明を蔵しているらしく、それ自体発光している。
似たような構造デザインを見たことがあるが、映画館のスクリーンでハリウッドのCGだ。
意匠性の故に船なのか、はたまた必然の故に船なのか。
思わず立ち止まって見回すレムリアをセレネが促す。その歩く姿は装束のせいもあろう、歩くというよりも、浮かび飛ぶようなふわふわした動きだ。そして、どうぞ、と、通路側にセットされたドアをかちゃりと開いた。
一見したイメージは病院の個室。白一色で統一された壁と天井。ベッドがあり、奥手に小テーブル。ベッドの上には荷物が置けそうな棚板がこっちの壁からあっちの壁へ渡してある。EFMMが有する機能優先の簡易病室と構成が一致し、イメージはその故である。
ただ、その簡易病室は金属とプラスティックの寝られる箱=B対しこちらには、居住空間≠ニいう雰囲気が漂う。同じものなのに違いはどこから。
「お花はデスクの上の花瓶へどうぞ。荷物を置いたら、メンバーに紹介したいので、操舵室までご案内します。奥手左側がクローゼットになっています。一番奥の扉がユニットバスです」
「あ、はい」
ピギーバックの荷を置き、コートを脱いでクローゼットにしまい込み、バスルームで花瓶に水を入れ、オリエンタリスを移す。
再び先導を受け、今度は船尾方向へ。
「ごめんなさいね狭くて。あなたが女の子と伺って慌ててスペースを割いたものですから。好きに使って下さいね」
「あ、はい……」
さっきから同じことばかり口にしている気がする。
しかし、何と返事すれば良い物やら。
SF宇宙船の通路を行く。出入りスロープの位置を越え、更に船尾へ歩く。
左手に大きな扉。2枚パネルの組み合わせ。左右に開くか観音開きか。その有様はやはり映画に出てくる、今度は大銀行の秘密金庫。
或いは、極低温の保冷倉庫の扉と言った方が良いか。
クジラすら冷やせそうな。
「わたくしです。レムリアさんをお連れしました」
セレネが扉に向かって声を出す。人語を解すロボットドア?
そうではなかった。ドアパネル自体がインターホンの役割を持っているのだ。
了解の旨英語が返る。相手は男性で、声音からして自分の父親くらいの歳か、若干イタリア訛り。
程なく、大きな金属同士が接触するガチャーンという音がし、伴い、遠くの雷のような、ドーンという余韻を引いた。
唸る音がし、ドアが開きだし、接触音の正体は原動機出力軸が開閉システムに接続される音だと知れた。揚水ポンプとか、発電機とか、EFMM活動現場でも似たような音は聞く。それに比して要したパワーは桁外れに大きい。
巨大なエネルギーをこの船は蔵する。レムリアは直感した。
動き出したドアパネルの合わせ目にスリットが入る。
左右にスライドし、ドアが開いて行く。中は、金庫ではなく、冷凍庫ではなく、青白い高輝度ランプの照らす空間。
まず目に付くのは、左手にそびえる大きなスクリーン。その印象は映画館。
ただ、劇場と違うのは、スクリーン前には客席が並ぶのではなく、スクリーンの横幅いっぱいに広がる長いコンソール(操作卓)。その卓上にはボタンにレバーに、埋め込まれた小さな画面たち。並ぶイスには安全ベルトと、背もたれには酸素マスクが掛けられている。それらはむしろ映画の中=B
これは、本当に、宇宙船なのではあるまいか。
「初めまして、魔女さん」
重心の低い男の声があった。
「本船へようこそ」
声の方へ顔を向ける。大きなガラスのテーブル……画面が上に向いた液晶テレビ……があり、男が4名、ずらっと並んで立っている。出自国籍は自分同様に招聘を受けたようで様々。ただ、北欧系と思われる金髪碧眼の2人は、どうやら双子のようだ。
「私が船長のコールサインアルフォンスス=Bレムリア殿」
アフリカ系で彫りの深い顔立ちの男が言った。自分の倍はあるのでは?と思うような、極めて大柄な男であり、ワイシャツネクタイに迷彩服。格付きの軍人と見える。但し衣服の下には筋骨の鎧の存在を感じさせ、デスクワークよりは現場側の叩き上げという印象を受ける。
「この殿方は、あなたと同じく、私どものお願いに応じて下さった超絶の人々≠ナす」
耳の後ろでセレネが言った。
「オレは、違うがな」
笑ったのはアルフォンスス≠フ向かって左側、小柄で浅黒い肌の持ち主。少々脱毛が進んでおり、広くなった額に深いシワ数本。口ひげを蓄え、陽気な雰囲気。言葉にはイタリア訛り。インターホン越しの男性と判じた。
「奇蹟の天使の手助けをするために、私たちはここへ集いました」
セレネは張りのある声で宣誓≠キるように言い、レムリアの背後からするりと歩み出、男達の中に加わった。
「あなたの、超絶の力を貸して下さい。レムリアさん」
気付く。船長なる男性は自分のことを魔女と呼んだ。
超絶の人々。奇蹟の天使の手助け。
看護師、としてではなく?
「両方です」
セレネは言った。レムリアは思いを意識に浮かべただけだが、思いの答えは言葉で来た。
レムリアが、そのことに気付くのは、今少し後。
「私たちの目的は、奇蹟を起こすこと。奇蹟を要するような緊急事態において、奇蹟の天使の負担を減らすこと。人が出来ることは人がするべき。常識を覆す能力を結集し、世界のどこでも瞬時に駆けつけ、奇蹟を起こして救い出すこと」
セレネは言った。つまり。
「奇蹟を待つのではなく、自ら起こして人を助ける」
レムリアは認識を口にした。
「その通りです」
常軌を逸した発想。一般的な回答はそうなるだろう。だが、自分を自分の能力の故に呼んだのであれば、話は別だ。
アルフェラッツ・ムーンライト・マジック・ドライブ。魔法の血脈を知り、その故に自分を呼んだのであれば。
そう、彼女レムリアは事実魔法使い。21世紀現代に受け継がれた術の担い手。
最高の秘密。と同時に、最も信じてもらえないこと。しかし、この船に集った人々はそれを知り、信じ、どころか、この能力を人命救助に活かせ。
月光≠ニいう呼び名の一致は何かの縁か。
ただ。
「でも私の能力は人命を救うレベルにありません」
レムリアは思わず唇を噛み、うつむき、拳をギュッと握る。魔法、人命救助で使えればEFMMで惜しげ無く使っている。そうしないのは能力の内容、及び起動に手順と時間を要するから。更にはムーンライト≠フ呼称にあるように、月の満ち欠けと明確に連動する。新月近辺では手品レベルにしかならない。
速効性に欠け、能力自体も不足。今まさに必要な状況で長々呪文を唱えるわけには行かない。
しかも失敗の不安は常につきまとう。実は、加えて書けば、憎悪や怒り、恐れなどの負の感情を伴うとレベルが下がる。不安定でもあるのだ。掟に曰く、月と同様常に顔を向け、全てを受け入れ、全てを与える$S理でなければ全力を発揮しない。それは半人前の証拠、と。
「私たちに必要なのは、あなたの全て。そして、私たちの全ては、あなたのために」
セレネは言い、文字通り、超絶の方法で、レムリアにプロジェクトの概要を伝えた。
アルゴ・ムーンライト・プロジェクト。
水中・空中・宇宙空間。地球を取り巻く環境の全てを超高速で航行する飛行帆船アルゴ号≠ニ、乗り組むメンバーとで、地球全体を対象に活動を展開する救助ボランティア。
メンバーは船の設計者であり舵を預かる工学博士、コールサインシュレーター≠除き、いわゆる超能力の持ち主。
【船長】アルフォンスス
電磁波過敏症≠ノ代表されるように、電磁波を心身で直接感知する能力を持つ人はあるが、彼は感じることはもちろん、更に自ら電磁波を発する能力を有する。本職は傭兵で特殊部隊に所属し、人間レーダ≠フ役割を担うと共に、主として電気機械に電磁波で干渉し、その動作を異常に陥らせる。アフリカ系ギリシャ人。身長2メートル。
【副長】セレネ
プロジェクトリーダー。超常感覚的知覚能力の持ち主。助けを求める心の声をテレパシーで検出し、救助活動のトリガとなる。血筋はシルクロードの失われた王国パルミラに連なる。身長173。
【操舵手】シュレーター
船の開発設計を担当し、操舵を司る。超能力は持たないが、船の全てが彼の能力とも書けるか。イタリア出身。身長168。小柄≠ノ見えるのは他の男達の身長による。
【活動員】アリスタルコス
天才的な銃の使い手。救助活動に伴い必要となる障害除去、攻撃掃討の器具は彼の発案で銃器の形状。但し対人ロックオン防止機構を有しており殺傷機器ではない。次のラングレヌスとは双子の兄弟。北欧出身。身長195。
【活動員】ラングレヌス
不死身。撃たれても弾丸は弾かれ、切られても刃は刺さらない。爆破されても吹っ飛ぶ≠セけ。アリスタルコスとはコンビでフリーの賞金稼ぎ。
……そしてここに、看護師で魔法使い、レムリアが加わる。
以上の概念を、セレネはレムリアの意識に直接送り込んだ。
すなわちテレパシーで一気に伝えた。もちろん、魔女であるレムリアもある程度の超感覚を有する。郵便物もポスト開ける前に手かざしで内容を確認できる。そんな能力者が街中に意外といることも気付いている。
ただ、ここまでクリアな伝達能力を有し、能動的に発揮する使い手に会ったのは初めてだ。
「この船は言わば現代の魔女が空飛ぶ道具です。だからごめんなさい。お送りした書状にそこまで書くわけには行きませんでした。他人様の目に触れる可能性が万が一にもありましたので」
言葉と共に、今度はイメージが織りなされる。
想定救出パターン。まずこの船が宙を舞い、超高速で現場に降り立ち、
例えば難民キャンプを襲うゲリラを男達が掃討し、けが人や置き去りの子ども達を彼女レムリアが多言語を駆使して担当する。
例えば崖から転落したクルマで意識朦朧の人を、レムリアが幻影を与えて勇気づけ、その間に男達が万難を排して救い出す。
但し自分たちの役目はそこまで。奇蹟≠ェ必要な段階を乗り越えるまで。そこまで済めば、古来奇蹟≠フ顕現に倣い、誰かに特殊性を察知される前に姿を消す。
超高速飛行帆船と、超絶の能力を持つ人間達で、神や天使の領域だった奇蹟≠、人間自身の手で起こし、命を救う国際救助ボランティア。
奇蹟を待たず、自ら起こす。それにより命を救う。
それは多分、この伝承の力を発揮する方向、目指すレベルとして、最適、最高と言って良い。
死なないように呪文を唱えろ、であれば難しいだろう。だが、その程度であれば。
失われたものを元に戻すことはできない。しかしその前に、被災者が意識あるうちに、セレネが卓越したテレパシー能力で検出し、駆け付けるというのだ。
どのくらいの速度?地球の裏側まで6秒で。
……6秒!?
地球一回り確か4万キロ。
「もちろん、私の能力には限界がありますし、同時に起こっている全部を担うことはできません。でも、出来る限りの全てを用いるのが、人間としてあるべき姿のはずです」
プロジェクトは、後は、自分が加わるだけ。
既に出来上がっている。ただそれは、大人が良くやる外堀埋めての籠絡とは捉えたくない。なぜなら少なくとも、彼らは今、自分を12歳の小娘ではなく、触れることさえ出来ぬ姫君でもなく、単なるメンバー候補の一員として遇してくれている。彼らにとって自分は、看護師で魔女。船長は傭兵で人間レーダー。双子は銃器使いと不死身のコンビで賞金稼ぎ。
それらと同じ。と、思い至って気付く。個々をコールサインで呼ぶのは、恐らく。
それさえ判っていればいいじゃないか。
EFMMでも姫は姫である。スタッフが自分を気にする、かばうような言動もままある。
対して、それならば。
「私に出来る全てを」
レムリアは言った。
すると。
「ありがとう」
船長アルフォンススがまず答えた。そしてその大きな手のひらで拍手をした。
男達が追従する。笑顔が囲み、拍手が室内に反響して広がる。
「軍人は嫌いかとドキドキしたよ」
アルフォンススはくだけた調子で言った。
「それを言ったら銃の使い手は人殺しと思われてるかと」
アリスタルコス。
「若いだけマシだろお前たちは」
シュレーターが言い、男達が笑い合う。
不思議な気持ち。それは、映画に見るこの手のチームで描かれる上下関係と、大きく異なる違和感か。
いや、それは正しくない。この人たちに人間味、仲間感覚、温かさを感じるからだとレムリアは知った。接していて、居心地がよいのである。
最も、薄情な人が救助ボランティアなんかしないわけだが。
「さぁ、細かい話はランチと共に……お腹すいていませんか?」
国際旅行をすると、時間の感覚がどうしてもずれてくる。
昼の1時を過ぎている。
8
巨大液晶テレビの上に紙皿を並べてサンドウィッチ。
後はめいめいコーヒーなり紅茶なりチョイス。船内食≠ヘ基本的にこのレベルになるとか。全く異存はない。どころかちゃんと食事に見える食事≠ェ用意できるだけ大したもの。
船自体はやはり本来は宇宙船なのだとか。確かに、スクリーン方を向いている限り、映画の中の宇宙船そのものである。ただ、スクリーンに背を向けて立つと景色が異なる。
この空間は操舵室と呼ばれる。後方は大学の講堂よろしくひな壇状に数段、コンソールが配置され、大人数の収納が可能な構造である。ただ、コンソールに機器はなく椅子もない。唯一、最上段中央にのみ、黒革張りの大きな椅子がある。
「私の居場所だ。目障りだから隅っこから見てろということさ」
言ったのはアルフォンスス。つまり船長席。
「全情報がそこに集中し、あらゆる指揮管制が可能だ。操舵権を持つことも出来る」
船長席後ろの壁にドアがあり、現在そこが開いている。その中に食料庫があるという。
不思議なのはひな壇中腹である。右舷寄りにオフセットされたスペースがあり、パソコンデスクと、ベッドと、観葉植物の鉢植え。日本的な表現をすれば学校の保健室。
「副長席です。テレパスはベッドで寝てなさい」
確かに、目を閉じて静かにしている方が、超感覚は鋭敏になる。
セレネはここに横たわり、センサーを頭部に装着して、電気的に船のコンピュータと通信するのだという。そして危機にある命の悲鳴をキャッチすると、船がセレネの意識から悲鳴の座標を読み出し、船をそこへ振り向ける。つまり、電気的なテレパシー。称して
Psychology-direct-reflection Synchronization Control-unit.
心理同期制御とでも訳すか。略称PSC。
尚、船は基本的に高高度(こう こう ど)を巡航し、地球を1周約12分のペースで周回する。この周回パトロール航行、発見後の急行はPSCによる自動制御。現場に近づいた後は全員で対象者を探索し、シュレーターの舵に委ねる。
「それこそ神話のアルゴみたいに、でかい舵輪でも付けといた方が格好良かったかい?3次元コントロールだからゲーム機のレバーみたいにしたが」
シュレーターがにやりと笑う。コンソールの中央に、それこそゲーム機のジョイスティックを思わせるスティックレバー。舵である。舵の左右には、飛行機のエンジンスロットルを思わせるバーハンドルが1本ずつ。スティックで上下左右を指示し、バーハンドルで速度を変える。ハンドルは左右どちらでも速度制御が可能。同時に使うとアクロバット的な飛翔が出来るとか。
「まぁ、お前さんが舵を取ることはないと思うがね。知っておいて損はあるまい。さて私にお鉢が回ってきたところでついでだ。この船に乗り組む以上、巡航パトロール中は乗組員としての任務を持ってもらう。種類は大きく二つ。船自体の管理と監視、船の周りの管理と監視だ。対消滅光子ロケット(ついしょうめつ こうし ろけっと)と言って意味が判るか?」
ロケット、は判った。その前は意味不明。
「いえ、ちょっと……」
ここは教えを請うべきなのか。それとも……
「了解。では監視員を依頼しよう……」
シュレーターはあっさり言った。自分に説明するのは困難な極めて難しい技術のようだ。
任務の説明に移る。監視といっても主たる目的である遭難者の発見はセレネであるが。
「高高度とはいえ空中を飛ぶ。このため他の飛行物体との遭遇、それから変な話だが宇宙から何かが飛んでくるような場合もあるかも知れない。意思あるものは副長が見つけるが、意思なきものを見つけるのは意思持つ人の目しかない。向こうからこちらは見えないしな。それを我々が分担して行うわけだ」
サンドイッチを一通り食べ終わると、舵手席左方の椅子に案内された。
そこは正面と右手に画面が一つずつ、卓内に埋め込まれ横になっている。画面に手で触れると電源が入り、寝ていた画面が立ち上がってシステム起動。
卓内にはコロコロ動くリンゴサイズのボールが埋め込まれ、ボールの傍らにタッチペン。
画面はとりあえず真っ黒で、パソコンと同じくカーソル矢印一つ。
「見ただけじゃ判らんわなぁ」
「はい判りません」
レムリアは今度はきっぱり、そして少しにっこりして答えた。
答えて気付く。いい意味での軽み≠ェこのクルーにはある。軽妙というヤツだ。軍隊的なしゃちほこばった感じは皆無。
レムリアの微笑に応じてか、シュレーターは笑みを見せて。
「パソコンはいじるか?」
「ある程度なら」
「このボールはマウスの裏側のアレのでっかいのだ。手のひらサイズで埋め込んだだけだ。これをゴロゴロ回すと画面のカーソルが動く」
それはトラックボールと呼ばれる。このコンソールでのレムリアの仕事は、要するにレーダに映った気になる物≠フ発見だという。画面に表示された反応物を追跡するのにトラックボールを使うのである。もちろん、それのみならず、例えば危急を捉えて駆け付けたものの、遭難者の意識が喪失して発見できない。そんな場合には人の目で探す。その場合にもこのコンソールを用い、船外カメラの向きを変える。
画面表示の説明。使用するレーダやカメラの選択方法。敵味方識別装置の呼び出しと照合方法。
シュレーターは一気に喋ったが、レムリアはほぼ掌握した。この手の暗記は日常茶飯事。なぜなら野戦病院のシステムなど同じ内容は二つと無く、都度概要から憶え直すからだ。
教えられた内容を要約して復唱し、画面に触れてみせる。
「大したもんだ。それともこの程度操るのに1ヶ月も掛かった我々の頭が固いのか?」
シュレーターは額の皺をよじらせて笑った。そのセリフはすなわち、メンバーが準備として過去1ヶ月既に乗り組んでいることを意味した。
……自分、安請け合いしたはいいが、スキル追いつけるか。
「終わりましたか?」
セレネが問いかける。
「はい。何とかなりそうです」
言って、無言で、この位なら。しかしセレネには胸の内に隠す≠ニいうことが出来ないと気づくまで数秒。
セレネは笑って。
「一度聞いただけですごいと思いますよ。で、そこに新たに、で申し訳ないのですが、これは特にあなたに紹介しておきたいシステムがあるのですが……ちょっとよろしいですか?」
セレネはレムリアを連れて操舵室を出た。
通路を船首方へ向かい、先ほどの個室を行き過ぎ、二股の通路を右に折れ、階段を降り、操舵室の1フロア下。
「この船は本来、太陽系外宇宙観測船として開発されました。この船倉部分は観測機器が収まるスペースなのですが」
扉を開けて中に入ると、まるで集中治療室。
生命保持ユニット、とセレネは言った。いわゆるバイタルサインのセンサ表示類は当然として、除細動装置、人工心肺装置、輸液、輸血。MRI(核磁気共鳴断層撮影)を使った3次元体内解析装置。細菌・ウィルス解析システム。BSL(バイオセイフティレベル)3クラス緊急隔離機構。緊急冷却及び炭酸ガス瞬時充満装置まで備える。
「展開するとこうなります」
ボタンを押すと、船外への扉が大きく開き、部屋全体が外へせり出し、妙なたとえだが、ドールハウスのように左右に展開。
幕屋が付いて高機能野戦病院である。日本におけるドクターカーやドクターヘリにMRIを付加したグレードになろうか。
最も、レムリアは看護師であり、権限上全て扱えるわけではない。止血して輸液して心臓マッサージ……応急処置がメインとなる。それでも、全部人力とこの手のシステムがサポートするのでは格段に違う。
「私の国立病院とリンクするシステムを構築中です。まさか空からこの船で近場の病院へ乗り付けるわけには行きませんので」
奇蹟を人の手で、とセレネは言ったが、万能かどうかはさておき、とりあえず史上最強の人命救助ボランティアであることは確かであろう。
自分を選んでくれたのは、光栄だ。
「ありがとう。ただ、一つだけ、欠点があるのです」
その説明はシュレーターから、ということで、2人は操舵室に戻った。
「ドクターシュレーター。レムリアに欠点の件を」
シュレーターの額で皺が歪んだ。
「燃料が反水素(はんすいそ)と言って極めて特殊でな。1回あたりの連続航行は12時間が限界。しかも、それだけの燃料を再度蓄積するのに25日ほど要する。まぁ、改善は要求しているがな」
セレネが繋いで。
「ですので、現状では当プロジェクトの活動は月に一度が限度です。そこであなたに異存がなければ、活動日を毎度の満月に設定しようと思うのですが如何でしょうか」
「え……」
それは言うまでもなく、自分の魔法のサイクルに合わせた設定。
「もちろん、あなたにとって大切な日で、何か……」
「いえ、そうしていただけるのであれば喜んで」
レムリアは答えた。手品以外に使い道の無かったこの力。
最良の条件下で、フルに使って、人命救助、ということであれば。
セレネは頷き、
「了解しました」
そう答え、メンバー男達の方を振り返る。
「皆さんもよろしいですね」
「もちろんだ」
アルフォンススが答える。
不思議な充足感がレムリアを捉える。パズルの最後の1ピース。チェスで陣形が整った瞬間。
「では、飛びますか?」
セレネが微笑んだ。
「飛ぶ……」
飛行機で飛ぶ。ヘリコプターで飛ぶ。EFMMでは日常茶飯事。
同じ、飛ぶという行為。ただ、ニュアンスは違うであろう。
一つ判るのは、管制官とのやりとり≠ェこちらには多分無い。
「満月まではまだありますが、燃料のチャージが充分なので、少しはあなたの希望通りに。もちろん、宇宙でも……」
月齢12。セレネの言う飛ぶ≠ヘ周遊飛行みたいな意図であろう。だが、そんな貴重な燃料なら、誰かを助ける以外の用途に使うべきではないと思うのだ。
周遊≠ヘオリエント急行で充分堪能させてもらった。
自分の服装を確認する。シャツブラウスに長めのスカート。お出かけ用、だが。
ジェームズ・ボンドだってタキシードでスパイ・アクションをする。
ウェストポーチもいつも通り腰に巻いている。
「いえ、でしたら、その、出来る範囲で……やってみたいんですけど。無理ですか?今からは」
レムリアは提案した。プロジェクト活動の具体的なイメージはさっきテレパシーでもらった。が、実際動いてみるとまた違うと思うし。
この船を試してみたいという気持ちも率直にある。
「もちろん可能だ。異論あるかね?諸君」
アルフォンススが言った。
男達は何も言わない。代わりに、めいめいコンソールの自席に向かう。
「これがみんなの答えだ。レムリア」
船長アルフォンススは言った。
「はい」
「よろしい。総員、ミッション実行準備」
「了解」
レムリアは先ほど案内されたコンソールに腰を下ろした。
「これを耳に」
渡されたのはイヤホンマイク。ワイヤレスで通信機能内蔵。耳に掛け、マイクは頬に触れるか触れないか。
各自コンソールの機材手近のトラックボールを手で回す。電源が入り画面が立ち上がる。よらず機材どれかに触れれば起動する。
そして。
「これより本船はミッション実行準備を行う。各員担当システム状態について喚呼報告せよ。シュレーター。電源確認」(※喚呼:かんこ……声に出して確認しながら操作を実施すること)
「制御電源安定。主電源準備ヨシ」
「ラングレヌス。機関状態」
「ギフォード・マクマホン・サイクル動作正常。液体窒素温度70ケルビン。INS(いんす)予冷装置7ピコケルビン、ゼロ点振動。燃料反水素容量10パーセントチャージ。残容量100パーセント読替設定」
「アリスタルコス。防御システム」
「光圧シールド甲板部動作。作動良好」
「よろしい。透過シールド準備。副長PSC状態報告」
「PSCシステム健全。主管制と通信成立」
「各員了解。船体制御系全準備状態確認。起動シーケンス。正面スクリーン投影」
劇場の大画面が光を発する。映っているのは収まっているコンクリートの大空間。
カメラが捉えた正面は扉であったようだ。左右に大きく開き始め、奥に英仏海底のそれを思わせる巨大なトンネル。
「レムリア。探知システム状態報告」
自分のこと。
「あ、はい」
何を言えばいいの?と思ったが、目の前画面を良く見ると、装備しているカメラとレーダのリストと思しき表があり、機能の項目に全てOKの文字がある。
ならば。
「映像装置、探知装置共に問題ありません」
「よろしい。機関始動!」
「始動します」
アルフォンススの声に応じてシュレーターが喚呼する。握っていた操縦桿の奥手側、フタ付きスイッチを押す。
キュイーン。擬音で書けばそんな表現か。次第に周波数が高まる電磁音。やがて聞こえなくなる。人間の可聴域を超えた周波数であろう。
数秒後、ラングレヌスが座る位置でランプが幾つか。
「フォトンハイドロクローラ始動。主コイル、前段加速器温度所定。機関準備ヨシ」
「機関準備確認。浮上」
「浮上」
ラングレヌスが報告し、アルフォンススが宣言し、シュレーターが操縦桿を手前に引く。
画面が動く。
船が少し揺れ、浮き上がったと知れた。
「浮上しました」
「INS始動」
アルフォンススがそのいんす≠ニ称される装置を始動したようである。振動騒音の類が一切消えた。
しんと静かになる操舵室。INS:Inertia Neutralization System。慣性力中和装置。
「INS動作正常」
「光圧シールド透過モード」
「透過シールド作動。フォトンチューブ確立確認。リフレクションプレート展開固定」
呼応してか、レムリア傍ら船尾カメラに動きが生じる。船尾の丸みが、くす玉のように左右に割れ、くるりと回って裏返しになり、船尾にパラボラアンテナを付けたような姿となる。
「全機能動作正常確認。起動シーケンス全完了。副長復唱せよ。アルゴ発進」
「発進」
セレネが答え、アルフォンススが船長席机上のボタンを押す。
船が動く。
動き出した。レムリアが思ったその瞬間。
9
見たままを書けば、正面スクリーンに映っていたのは最初、トンネルの黒い断面であった。それが刹那、文字通り刹那、画面左右に一瞬白い光が現れ、次いで一面の青に変わった。
その青が空であると判った時、レムリアのコンソール上の画面は、世界地図を映していた。地図上の赤い丸印が船の位置なら、アラビア半島東端を南下中ということになる。
本当だろうかという問いが声にならない。まばたきする前はアルプス山懐コルキス王宮の地下にいたのだ。さながら瞬間移動である。これは夢か、それともこれこそ21世紀なのか。アルゴ……その名は建造した船大工の名とも言われ、快速の意とも伝わるが、今乗るこの船の超高速においては、当然、後者であろう。そして、黒海の奥地へ向かう能力と乗り組んだ英雄達は、星の海とこの奇蹟のメンバーとして、21世紀に蘇った。ちなみに、アルゴ号の乗組員をアルゴナウタイ(Argonauts)と言うが、これは、宇宙飛行士を意味する英語アストロノーツ(Astronaut)の語源である。
「レムリア。船底カメラ画像を正面スクリーンに展開せよ」
アルフォンススの指示。
「はい」
見ると、3面ある液晶モニタのうち、右側モニタ画面は6つに分割され、その中に船底カメラ≠フ文字の付いた画像がある。
「タッチペンで触るんだ」
シュレーター。言われた通りにチョンと触ると文字が出、カメラを動かすか、映す先を変えるのか(move or screen)、と訊いてきた。映す先を触ると、リストが出てきて一番上にメイン=B
メイン、の文字に触れると正面スクリーンに出た。
それは、テレビで見た宇宙中継を思わせた。スペースシャトルにテレビカメラを持ち込み、延々地表を映し続けたものだ。但し今見ているこちらは相当な早回し≠ナはある。最初に視界に収まったアラビア半島は既に画面下方へ去り、インド洋が陽光に光り、煌めきながら、スクリーン全体を青く染める。
時々白い塊が目にも止まらぬ早さで画面を横切る。それは目の前画面の船首カメラ≠ニ見比べたら雲だと判じた。雲が船底カメラのすぐそばを横切る時、画面が一瞬白くなるのだ。
「巡航。探査自動航行確認。INS解除」
「INS解除確認」
アルフォンススにシュレーターが答える。
わずかな電磁音が操舵室の無音を遮った。乗り物に乗っている♀エ覚が戻る。
「では、わたくしは探査に入ります」
セレネの声が聞こえ、彼女が副長席ベッドに仰臥するイメージがテレパシーで飛んできた。
どうやらセレネは自分にテレパシーを同調させているらしい。一心同体というヤツだ。この手の活動で重要なのは発見≠ナありピンと来る≠セ。テレパシー経由であれば、この辺を共有でき、次のアクションに移るのが早くなる。船を直接制御可能、であれば、なおさらであろう。
超能力と先端科学の連動。のみならず、そのシナジーとして得ようとしているものは、形而上の次元に属する。
そこに、バベルの塔の無謀と違い、本当に手が届くかも知れない。
その現実味。レムリアは驚愕という名の暴風に全身が揺さぶられる感覚を覚えた。
自分は今、とてつもない何かに、組み込まれようとしているのかも知れない。
「レーダ異常ないか」
アルフォンススの問いかけに我に返り、画面に目をやる。レーダ画面に取り立てて表示は見えない。
「異常ありません」
「よろしい。出来れば3分おきに報告せよ」
「了解しました」
すぐそう返すのは、そう言えるのは、いわゆるバイタル・サイン・チェックで似たようなことをしており、身体が馴染んでいるせいだろう。3分、という時間も、時計を見なくても大体3分だと直感的に判る。絶対音感ならぬ絶対時間・絶対速度みたいなものが身についている。
「機関正常」
ラングレヌス。
「よろしい」
船は光噴いて高々度空中を南南東へ流れて行く。
地球を12分で一周すると書いた。速度に直せば実に秒速70キロ。
自分が学校までトラムに乗るより短い時間で、世界を一周してしまうというのだ。
文字通り地球の裏までちょっと行ってくる≠ナある。世界観の変換、パラダイムシフトというコトバがにわかに現実的・実在性を伴って身体全体に迫って来、意識のそれを要求される。
言い換えると、全容の見えない無限に近い大きな存在だったこの地球という星が、視界に全て収まる手のひらサイズに変わった。
自分が今、見ているのは、確かに丸い、青い地球。
それは巨大な、愛しい、しかし手の中の全て。
「綺麗……」
思わず声が出る。地球が青い球体であることは初期宇宙飛行士の名言だし、宇宙から撮られた写真ビデオにもそのように映っているので、知識としては知っている。
しかし、しかし。
ここまで鮮やかな、心の中全て洗い流されるほどの青さであるとは。
仮に美しさ≠ノ絶対的な基準器があるのなら、この地球の青こそ、それなのではあるまいか。古代珍重されたラピスラズリは、人がどこかしらそれを知っていて、無意識に求め続けた証左なのではあるまいか。
「見とれていいが、レーダとカメラの異物だけは見逃さんでくれよ」
シュレーターが傍らで小さく笑い、
「まぁ、オレもそうなったけどな。自分で造っておいて自分で見とれて自己満足の自己陶酔だな」
しかしその気持ちは良く判る。目の下を流れて行く瀝青は地球そのものなのだ。
いつまでも、眺めていたい。
さて、作者としては、彼女が瞳を青く染めているこの時間を利用し、数々登場した横文字語の意味とそれら名を冠したシステムについて軽く注釈を加えたい。但し、原理と構造まで言及すると多大な枚数を割くため、ここでは機能のみの説明にとどめる。委細は実際に動く状況を掌握いただいた後としたい。
「対消滅光子ロケット(ついしょうめつ こうし ろけっと)と言って意味が判るか?」
・光子ロケット
この船の主機関。原理自体は1930年代に発表されたが、実現は22世紀以降になると見られていた究極の推進装置。名の通り光そのものを推進力に用いる。先ほど船尾でパラボラ状のリフレクションプレートが展開したが、ここにその光を当て、船を押させる。原理上光速近くまでの加速が可能であり、故をもって宇宙航行用なのである。
「ギフォード・マクマホン・サイクル動作正常。液体窒素温度70ケルビン。INS(いんす)予冷装置7ピコケルビン、ゼロ点振動。燃料反水素容量10パーセントチャージ。残容量100パーセント読替設定」
・ギフォードマクマホン(Gifford-McMahon)サイクル
絶対零度を目した冷却システムであり、名前の由来は発明者から。この船では光子ロケットを筆頭に絶対零度・液体窒素温度で動作する機器が多い。これら極低温生成のために搭載している。従い、故障の許されない基幹装置。
・液体窒素
光子ロケット部、及び別記INSで使用している超伝導コイルの冷却用。
・ゼロ点振動
物体を絶対温度近傍まで冷却すると生じる現象。この振動の観測を持って冷却システムの動作正常と判断する。
・燃料反水素
光子ロケットの燃料である水素の反物質。通常の水素と出会うと対消滅#ス応を起こし、推進用の高エネルギ光子に変化する。なお、貯蔵中に通常水素と反応を生じてはならないため、絶対零度真空(負エネルギ環境)で保存。
・容量……残容量……
宇宙航行用として、最大40キログラムの反水素貯蔵を想定している。但し、現段階で実用化できたのは100グラム貯蔵ユニット1基のみであり、これで運用。前述25日で生産蓄積できる反水素質量10グラムを満タン≠ニして容量管理している。なお、質量単位は間違いではない。反水素1ミリグラムで標準的なロケットエンジン燃料1トンに相当するエネルギが得られる。
※以下研究者向け:反水素は電気的に中性であることから、電磁場による貯蔵・制御がしにくい。このため、電子と陽電子の対消滅タイプ光子ロケットも開発中。
「アリスタルコス。防御システム」
「光圧シールド甲板部動作。作動良好」
「よろしい。透過シールド準備。副長PSC状態報告」
・防御システム(光圧シールド)
生成した光子を推進以外に船体周囲に噴射し、妨害物を光の圧力≠ナ押しのける、言わば光のバリア。これは超高速航行では障害物を目で見て回避≠ネど不可能であるため。
・透過シールド
電磁的・光学的クローキング(cloaking:迷彩)システム。光子……すなわち電磁波であり、光である。これより、レーダに反応しない、更には見ても見えない≠ニするのは容易。なお光学クローキングは透明化するのではなく、船がなければ見えるはずの風景≠テレビと同じ原理で投影する。目的上必ず光圧シールドと併用され、総じて透過シールドと称する。
「フォトンハイドロクローラ始動。主コイル、前段加速器温度所定。機関準備ヨシ」
・フォトンハイドロクローラ(Photon Hydro-Crawler)
クローラとはいわゆるキャタピラ≠ニ同意。光子を直接噴射推進するのが不可能な状況で、空気や水など流体を光子圧力で加速噴射して推進する補助推進装置。地球上では主として船体の垂直浮上・降下時に用いる。すなわち空気圧で浮上して光子ロケットに切り替え、静止して空気圧降下する。これは、強大な光線を噴射すると周囲を傷つける恐れがある場合に用いられるシーケンスである。なお、補助推進装置としては他にソーラセイルを装備。マストに付いている工業製品の趣を漂わせる帆≠ェそれである。
・INS:Inertia Neutralization System。慣性力中和装置。
一般に乗り物が加減速を行うと、応じた力を身体に感じる。これを慣性力というが、当然、大きすぎれば人体は潰れてしまう。この慣性力を相殺する装置である。アルゴ号では加速度が100万G(地球重力の100万倍。加速開始1秒で秒速9800キロに到達)に達するため搭載した。要は操舵室部分を高速回転させて生じる遠心力を使う。操舵室出入り部の扉が頑健なのもこれに伴う。
※以下研究者向け:遠心力利用は連続直線加速には不向きであるため、代替に非常に大きな加速力を持たせ、所要となる加速時間を極端に縮めた。目標速度が大きい場合は瞬時加速を繰り返す。
「透過シールド作動。フォトンチューブ確立確認。リフレクションプレート展開固定」
・フォトンチューブ
光圧シールドは特に船体前後方向に長く伸びた形で形成される。これは早期に進路妨害を排除するため、及び大気圏内での衝撃波発生防止のためである。結果シールドの制圧範囲はチューブの形状を持つ。これを称してフォトンチューブと呼ぶ。
「全機能動作正常確認。起動シーケンス全完了。副長復唱せよ。アルゴ発進」
以上全て動作して飛行するその姿は、光と共に疾る流星そのものと何ら変わらない。
そして、チューブを形成していた光子達こそは、流星痕のように金色の光の粉となり、次第に拡散し、消えて行く。なお、PSCとリフレクションプレートの説明は、本文で記述済みであるため、省略した。
イヤホンマイクがピピッと電子音を鳴らした。
外国テレビの混信のように、意識にフラッシュで送り込まれる映像数葉。
溺れている?
「救難要請をキャッチ」
10
セレネの声に、地球眺める旅行者と化していたレムリアの意識は現実に引き戻された。
この間に船は地球を2周。担当しているレーダ画面に赤い×印が点滅している。
そこは副長セレネが心の悲鳴≠拾った位置だと知る。
船のコンピュータから、自動制御でそこへ向かう旨の合成音声。英語であるが日本語で記す。『位置の同定を行った。INS作動し、加速する』。
再び一瞬の無音の時間が訪れ、映画のシーンチェンジよろしく画面が光り、何か映し出す。
海面である。船は今中空に止まっている。レムリアは自席画面に表示された地図より、ここの位置を知る。
マラッカ海峡。
『船体停止。自動制御解除。操舵権移譲』
「手動操舵」
船が言い、シュレーターが応じ、舵持つ手に力を込めた。
「各員対象者捜索を開始」
船長アルフォンススが言った。
双子が操舵室を出て行く。
『甲板から目視だよ魔女子(まじょこ)さん。撃たれても死なねぇしな』
イヤホンに声が飛んでくる。先ほどシュレーターが操作覚えるのに一ヶ月と言っていたが、この辺の慣れた動きは、その一ヶ月で救助の訓練もしていた、ということであろう。
「気をつけて」
レムリアはそう返した。……口先ではない。EFMMも武装護衛付きで活動することがままある。医薬品、医療機器、麻薬成分を含む鎮痛剤(モルヒネ、ソセゴン)、狙われるものは多い。幾度か、遠距離弾が飛んできたことがある。
『優しいなぁ』
厳つい外見、軽妙な語り口。それは知る限り、修羅場を知り実力のある男の余裕。
画面を捉えていた視覚に違和感。
海面を映す画面は一面の水のように見えたが、良く見ると帯状に色の異なる部分がある。
レムリアは船底カメラが捉えたその画面を正面に回した。
「この部分は?……」
カーソル矢印を載せ、トラックボールで帯に合わせて動かし、残ったクルーに尋ねる。
アルフォンススが動く。
「油だ。船の燃料だろう。本件は船舶トラブルと判断する。……甲板二人、本船直下に油の帯が確認できるか」
問うて2秒。
『……確認した。確かに油だ。東西方向』
「副長、この場所の海流」
「北北西より南南東へ2ノット」
「海図をスクリーン上に照査。レムリア」
「……はい」
地図が出ている子画面の隅に海図と書かれたタブがある。
ペンでチョンとやると地図に重なった。
「シュレーター西北西へ微速。副長感(かん)あるか」
意味、テレパシーは何か拾ったか。
「いえ何も。遭難者は意識を喪失した状態かと」
「了解。シュレーター、進路西北西。両舷前進微速(りょうげんぜんしんびそく)」
その指示の意図、海流に沿って油が流れているのだとすれば、海流(北北西−南南東)と油の筋の方向(西−東)から、全体として西北西から流れてきているので、それをさかのぼって行く。
シュレーターが舵を西北西へ倒し、スロットルレバーをわずかに前方に動かし、船が動く。
レムリアは直下の海面を映していた正面の大画面を、船首カメラの映像に切り替えた。これで前方を見て船を動かす<Xタンダードな状態である。
「いいぞレムリア。それでいい」
アルフォンススが一言。この辺りの作業、ゲリラ出没地域で無人探査車を出すのに状況が似ているとレムリアは思う。……だからあなたの経験が必要なのですとは副長セレネから。
これだけのエレクトロニクスと、オカルトの極北たる魔法・超能力が、同時に存在しているというこの現実。
画面の奥の方に何かが映った。
レムリアがズームのためにトラックボールを走らせるのとほぼ同時に、イヤホンがピンと小さく鳴った。
『操舵室。先方に船影』
ズームアップしたカメラが、それを捉えた。
姿形は漁船というイメージの船だが、甲板を黒いネットで覆っており異様な雰囲気。傍らには腹を見せてひっくり返っている小型船舶あり。
その転覆船の腹の上にはホールドアップ状態の男性が2人おり、周囲には油が広がっている。油はどうやらこの転覆船の燃料らしい。
「シュレーター接近せよ。甲板、INS使用しない。加速衝撃注意」
「了解」
シュレーターが加速度を絞る。
『了解』
甲板の答えを待って船が加速する。海上であり、周囲に船影はなく、強い光が悪影響を及ぼす懸念はない。船は光圧で海上すれすれを走り、黒いネットの船に接近する。
そこでシュレーターが左右の加速レバーを前後互い違いに操作すると、船は海面すれすれで静止した。
「両舷ゼロ速」
エンジンを止めたわけではない。出力表示には前進と後退を同時に行っているとある。プラスマイナスゼロ≠ニして静止しているのである。
カメラはホールドアップの背景事情を捉えている。黒いネットの下には、転覆船へ向かって銃口を向ける男の姿が見え隠れ。
船が画像から銃を認識したと言って寄越す。一瞬静止画が出、銃の部分だけ切り取られ、隅っこにAK47という文字が出た。
AK47突撃銃。神の兵士≠自称するゲリラ盗賊がよく使う、要するに機関銃。
「海賊です。襲撃された船は……」
セレネが言いかける。見ただけでは判らない。
テレパシーを行使する。レムリアは自分のそれが鋭敏さを増していることを自覚する。セレネに絆されるというか、共鳴するような形で細やかに素早く動く。
「あっ!」
まるで透視したようにイメージが訪れ、レムリアは思わず声を発した。
転覆船と、その様子を水中から探っているシュノーケルの男。
転覆船は本来漁船である。甲板にハッチがあって、その下にプラスティックの大きな水槽を抱えている。
しかし、現在その水槽の中には魚ではなく。
多数の子ども達。
子ども達を詰め込んだ状態で船はひっくり返り、水面上に出ている船底に男性、否、男が2人立っているのだ。幸いにも水槽の蓋は水圧の故かまだ開いていない。ただ、子ども達の心理をテレパシーで捉えられないのが気がかり。
何が起こっているのか。
自分の経験が導く答えは一つ。
「人身売買」
セレネが呟いた。レムリアの認識もまさにそれ。海賊が船を襲ったら、たまたま子どもの密輸船だった。
『船長どうする』
甲板の声。子ども達を助け、双方の男共を拘束できるか。
何であれ、使える時間は短い。
船長が応じる。
「シュレーター。光圧シールド解除」
「了解」
光圧シールドが解かれた。
書いた通りそれは船の姿をカモフラージュするためにも用いられる。解除はすなわち、海賊船の傍らに帆船が忽然と姿を現すことを意味した。
当然、海賊達は驚愕の瞳を帆船へ向ける。
その瞳に映ったであろう、帆船と、その甲板上から向けられた2挺の黒い銃。
銃。2人が肩口に据えているのはレムリア自身の背丈以上ある長銃である。ラングレヌスの方が更に二回りほど銃身が太い。この船が装備している救助活動を支援するための工作機械だ。銃の姿をし、同様の機能を持った。
唐突すぎる状況に海賊達の動きが凝固。
「やれ」
アルフォンススは短く言った。
その一言に、レムリアはハッと目を見開いてアルフォンススを振り返った。そういう声を出したかも知れない。
2人の銃口からそれぞれ緑と銀色が生じる。緑色は光条であり、チカチカと数瞬にわたり線を描き視界を走り、他方銀色は光が走った後、パンと弾けるような音を寄越した。
海賊が叫び声を上げる。彼達の手にしたAK47は銃身が溶解した。
次いで銀色の光は海賊船甲板に幾つもの穴を穿ち、穿たれた穴からは海水が滲出する。
緑色の光条はレーザ光。アリスタルコスが操るレーザガン。
音を発した銀色は超高速で撃ち出されたアルミニウムの塊。電磁力で発射するもので、レールガンと呼ばれる。ラングレヌスの手にある(研究者向け:銃身は励磁し、固定磁界を与えている。短い銃身で充分な初速を得るため)。
「心配なら無用に。我々は制圧するだけだ」
レムリアの視線を受けてか、アルフォンススはヒゲの端で小さく笑んだ。
イコール救助のため殺戮≠ヘ行わない。
「甲板」
アルフォンススは2人を呼んだ。
沈没している人身売買船の調査を終え、海賊船に戻ってきたシュノーケルの男が、海面から顔を出し、自船の有様に気づき、ホールドアップ。
『海賊船は制圧した』
「よろしい。下船して沈没船も制圧せよ。これより本船は沈没船を処置する。水中の状況を確認する。シュレーター、潜航準備。光圧シールド」
「潜航準備了解。主機関停止。クローラに注水」
船は水面へスッと降下し、波の揺れが一旦船を捉え、すぐに消えた。
水面に船がある。当たり前のはずなのに違和感を覚えるのは、波の影響を排除しているせいか、空を飛ぶ方に慣れたせいか。
「このまま水平保持し潜航する。船外との接続部分の閉鎖状況を確認せよ」
「エントランス、甲板ハッチ、生命保持ユニット部いずれも水密ロック確認」
「よろしい。甲板は制圧後そのまま水上待機せよ。レムリア、ソナーが起動する。異常探知に注力せよ」
『了解』
「了解」
レムリアも答えて画面に目を向ける。ソナー。音響探査装置。
水中で電波は飛ばない。ある程度以上の水深では光も届かない。そこで音波を発し、その反射有無で障害物の位置や形状を探知する。映画等潜水艦の描写でコーンコーンと音を出す場合があるが、その音こそ、このソナーから発せられる探査ビーコンである。
『下船完了。幸運を祈る』
「了解。潜航開始」
甲板2人の声を受けて船が潜航を開始し、レムリアのコンソールで画面が忙しく動く。潜行モード。水中移行表示。水深。ソナー動作開始の表示。前照灯。
正面スクリーンに裏返しになった船が映される。基本的に陽光が届く深さであり、船のライトも当たっているが、やはり影になっているところは暗く不鮮明だ。ただ、その部分は簡略CGのような画像で補填され、輪郭が把握できる。画面の表示によれば、ソナーの反応から画像に起こしたようだ。水面下にある甲板ハッチは閉じられたままと確認できる。
「水圧で保持されているようだ。船ごと持ち上げる。シュレーター本船を下へ回せ」
「了解」
船が水中を移動し、甲板部分を裏返しになった船の下へ差し入れる。
「そのまま浮上せよ。重心偏倚(へんい)による船体バランス変化に注意」
「了解」
シュレーターが舵と出力を操る。船が揺れる。程なく。
「船長。向こうの船が浸水で持たない。このまま持ち上げれば船体が折れる」
浸水した船を持ち上げると、船自身と、その中に入っている海水の重さが船の骨組みに加わる。
アルフォンススは頷き、
「了解。舵は指示あるまでホールド。以降副長代行せよ。レムリア、ハッチから目を離すな」
「判りました」
「了解」
答える背後をアルフォンススは横切り、操舵室を出た。
『シュレーター、そのまま上がれ』
無線を介して船長の指示。
「了解」
船が少し上方へ動く。
『アリスタルコス聞こえるか』
アリスタルコスと通信するためには、船体の一部を水上へ出し、電波のやりとりを可能にする必要がある。水の中で電波は飛ばない。
少し雑音。
『船長……ああ、上がってきた。これ行けるのか?』
アリスタルコスの声が入る。彼の視界に水面下の船が見えてきたのだろう。
『判っている。このままでは折れる。甲板外の部分を切り落とす。前半分はそれで、後ろ半分は私が』
『了解した』
『シュレーター持ち上げろ』
「了解」
男達のやりとりは緊迫感に溢れているが、どこか余裕がある。そのせいか、中にいるであろう子ども達に関し、レムリアも不安や焦りをあまり感じない。うまく行く、という不思議な確信がある。
船が密輸船を押し上げる。レムリアは画面を注視する。
甲板に載せた密輸船が、水上にその全容を見せ始める。
それと同時にアリスタルコスのレーザ光、及び操舵室脇からブルーの光条が、それぞれ密輸船めがけて突っ走る。
密輸船の船体は、2本の光条によって、アルゴ号甲板よりはみ出した前後の部分を切り落とされた。
密輸船の船倉部分が現れ、甲板下に浸水していた海水が、堰切れたように流れ落ちる。一方、切断された船体前後は水しぶきを上げてそれぞれ海中に落下し、泡と共に没する。
樹脂製の倉庫を甲板に載せ、帆船が海中より浮き上がった。
『各員、本船へ帰還せよ。シュレーター、帰還完了次第光圧シールド。救助優先とし、本船はこの場を離れる』
つまり犯人どもは自走不能の船に放置=B
ただ、船の多い海域だからいずれ発見される。……それがアルフォンススの認識と知る。
『了解』
双子から返事。
画面には海賊船に取り残された男達と、彼らに銃口を向けながらアルゴ号へ戻ってくる兄弟達の姿が映る。
しかし男達、すなわち海賊も人身密輸団も、その意識は反撃や恐怖という次元には無いようだ。謎の帆船が突如現れて沈み、そして密輸船を載せて浮かんできた。
その有様に唖然として動けない。
そして、船は忽然と姿を消す。透過シールドの作動。
次は中の子ども達を救い出すステップである。レムリアは席を立とうとした、その時。
船のコンピュータが警報を寄越す。麻薬成分のガスを検出。
麻薬。種類は。
「アヘン……」
レムリアは呟いた。そして全て合点が行った。心の悲鳴が一瞬だけで終わり、その後子ども達の心が読み取れない。
その理由。アヘンである。タバコのように吸引する麻薬であるが、この煙を船倉内に満たし、怖いも何も判らないようにしているのである。
依存症にして拘束するという意図もあろう。
思わず握った手のひらがトラックボールに爪を立てる。
「アムステルダムへ。依存症の療養所があります」
レムリアは反射的に言った。オランダで少量の麻薬は捕まらない(合法という意味ではない)。当然依存症も多い。なおこの時、アルゴプロジェクトが隠密であるという認識はレムリアの脳裏になかった。
吹き飛んでいた。子ども達を救いたい。ただそれだけ。この船使えるなら使いたい。
副長セレネが船長アルフォンススにプライベートコール。関係者外秘。
この間3秒。
『シュレーター向かえ。到着後は彼女の指示に』
アルフォンススは言った。彼女とは自分のことだ。カメラに動きがあり、マストの中途まで昇ってきたアルフォンススの姿を捉える。その背負った銃は、銃と言うよりどこかの対空砲を外して背負っているという印象が強い。必殺銃を抱えたアニメの合体ロボットを見ているようだ。
『船底を破る。赤外線レーダ同調』
画面の中でメニューや選択の表示が勝手に動く。アルフォンススがその電磁波干渉#\力を用いて船と通信し、船の探知装置と銃の照準を連動させている。
サイボーグという言葉と概念を知っている。彼は生身のまま同じ事が出来るのだとレムリアは合点がいった。
画面に3次元レントゲンよろしく透過された沈没船の船倉が映し出され、その裏蓋≠切り取る形で線が四角形に記入される。
文字通りの切り取り線だと判る。アルフォンススの銃はその線の通りに蓋を切るのだろう。
引き金を引いた旨の表示が出る。それは意に反して、アニメのロボットのように銃口を振り回すなど、大げさな儀式はなかった。
しかし、光のナイフは、樹脂で出来た倉庫の底部分に確実に切り取り線を入れた。
船内からロープを出し、双子がよじ登り、出来た割れ目に指先を入れて力任せに引き剥がす。
子ども達は。
『これは……』
マスト上から見たのだろう、アルフォンススが絶句した。
カメラも中を映している。しかしレムリアは見るのを躊躇った。見なくても判っていた。
子ども達は生きてはいる。生きてはいるが、そこは人間がいるような状況じゃない。
見るのは可哀想。
『一人ずつ身体を洗うべきか?レムリア』
「コレラ感染の危険があります。しかるべき施設に急ぐのが先決。船長さん達は……」
『了解。甲板は光圧シールドで常に下から上への流れがあり、外部とは隔絶されている。拡大はないから安心を』
つまり、仮に子ども達の間に伝染病が発生していても、甲板では常に上方に風が吹いていて病原菌は吹き飛ばされるので、直ちに甲板上の乗組員が感染するような事態は起こらない。
「わかりました。では先方に衛星電話を掛けたいのですが」
衛星の電波を捕まえるには、船外に出る必要があるが。
これにはシュレーターが応じた。
「コンソール下に幾らかコネクタが格納してある。本船が衛星との交信を中継するから接続して発呼してみろ」
「はい」
「レムリア……この子達に麻薬禁断症状が出ます」
セレネが言う。船は甲板に人がおりINSが使えず、なおかつ海面上からの出発であるため光出力を抑制した。このため加速度が稼げず、アムステルダムまであと3分。
待って。お願いだから待って。
レムリアは念じながら衛星携帯電話の底面コネクタ蓋を開き、ケーブルを繋ぎ、ダイヤルメモリを呼び出し、発呼ボタンを押した。
音はイヤホンへ回された。イヤホンマイク−船のコンピュータ−衛星携帯電話……そんな通信経路。
だったら。
レムリアは電話をコンソール上に投げ出して操舵室を飛び出す。
ルルル、ルルルと呼び音を聞きながら通路を駆ける。
電話が繋がった。掛けた先は教会付属の孤児院。
「レムリアです」
レムリアはまず言った。階段を上り、甲板へ出る。
金色の光のドームに囲まれて甲板はあった。マストがあり、座すアルフォンススの姿があり、件の船倉が裏返しに載っており、存在を主張している。
中からは子ども達のうめき声。
『レム……ああ、魔女さんですか?』
信号変換と宇宙往復のタイムラグを持って、オランダ語が返る。院長をしているシスターさんが出たようだ。
魔法使いのレムリアで通っているので、話は通じる。
「はいそうです。人身売買組織に拉致された子ども達を救出しました。閉じこめられ汚れており麻薬中毒の疑いがあります」
『船の設備で汚れと消毒は何とかなりませんか?』
セレネの英語。
『魔女さん何を?』
「すいませんこちらのやりとりです。人数は……」
『22人だ』
「22人です。今すぐお願いしたいのですが」
『今すぐ、ですか?』
「離脱症状の対策だけ専門家へ連絡をお願いします。後は私の方で」
『今どちらに?22人もどうやって……』
シスターの困惑が伝わってくる。当然であろう。以前、街中でみなしごに出会い、連れて行ったことはある。
それと同類だが人数が違う。
しかし、説明する時間はない。理解もされまい。
基本的に姿を隠す……その言葉をレムリアはここで思い出した。
ただ、私は魔法使い=B
『着くぞ』
シュレーターの声に街路番地を伝える。カトリックの教会なので十字架が屋根にある。すぐ判るはず。
程なく船が中空に静止した。
「今、真上です」
『えっ』
「風が吹きます」
11
夜を迎える12月の教会。
シスターが突然の風に驚き、礼拝堂から飛び出した時、教会の庭先には、沈み行く月の姿と、何か大きな影≠ェあった。
巻き上がる砂埃に、シスターは腕を上げ顔を覆う。
程なく風が収まり、シスターが腕を下ろすと、子ども達の、うめくような、意味をなさない幾つかの声。
そして。
「(月よ我が身に我が思う映し身を)」
原語で記述することは控える。それは、彼女自身と、彼女の母親のみが知る語。
シスターが近づくと、影を映じた構造の上に、天使がいた。
月に照らされ、翼輝かす天使がいた。何か箱状の物体の上に立つ天使であった。
「中からぶち抜くぞ」
「お願いします」
成人男性と娘の声。その会話は英語であり、シスターにとって英語≠ニしか判らない。
声がして数瞬、天使の立つ箱の中から光条が数本、天へ向け突き抜ける。光のビームが壁を貫き夜空へ走る。
そして、影の下。
ランプ明滅するエレクトロニクスシステムが姿を現し、大きな翼のように左右に広がる。
「天の国へようこそ」
箱の上の天使は、ヴェール状の着衣を広げて言った。天使は続いて、幾つかの言語で何か言った。そこにはオランダ語も混じり、シスターにもそれと判じた。
「ちょっとでかい音がするぞ」
別の男。英語であるがシスターにも理解できた。
カウントダウンの声があって破裂音がし、それでも思わず身体がびくりと震えるような音がし、箱の側面から銀色が幾条か迸って出入り口が開いた。まるで封じられた宝箱が破られたようであった。
光が開いた出入り口の傍らに、スッと飛び降りて来る少年。
否、少年ではない。傍らの月影にいるのは魔法使い≠フ小柄でスリムな少女。
レムリアは月の光に働きかけ、天国の天使≠ノ化身して見せたのであった。いいのか悪いのか判らないが、必要なのは怖がらせないこと≠セと思ったからだ。そしてその技は一種の催眠術であり、故にてシスターにも天使と見えたのである。
但し、化身となるのは月明かりの及ぶ範囲だけ。だから飛び降りれば魔法少女レムリア。
「ここから出て。階段を通って下へ」
レムリアは子ども達の手を引き案内する。他に大男の姿もあり、同様に子ども達を導く。
甲板から船内を経由し、生命保持ユニットへ。
ユニットは孤児院の庭先に展開されている。
洗浄消毒の設備を使って子ども達の汚れた身体を洗う。ちなみに、船倉内は不潔ではあったにせよ、人間だけしかいなかったせいか、洗い落とした汚れの成分から、懸念される菌やウィルスは検出されなかった。
シスターが驚きつつ、しかし思いついたように院内に取って返し、バスタオルや寄付された服を持ってきてくれる。レムリアは子ども達の水分をエアシャワーで飛ばした後、それらを羽織らせ、送り出す。
「突然すいません」
レムリアはシスターへ向かって言った。どこかの女の子の髪の毛をシュシュでまとめ、シャツを着るのもままならぬ幼い男の子にポンチョをかぶせる。
「いえ……ああ、寒いわ。子ども達は中へ入れて下さいね。少し人を呼びます。麻薬中毒とか聞きましたが?」
「はい。何も判らなくさせて拉致したものと」
「ドクターはこちらへ向かっています」
「ありがとうございます」
後から出てきた他のシスターや、手伝いに来てくれているボランティアのおばさま方、それに、孤児院の年長児であろう、子どもも何人か出てきて、22人を順次孤児院の遊戯室へ導く。
全員の消毒が終わったところで、レムリアも誘導作業に加わる。
「暖房を最強にして。パンが幾らか残っていたでしょう。あと麻薬であれば喉が渇くはず。災害避難用の水を」
「判りました」
シスターの指示と、応じる声と。
「ドクターから連絡がありました。程なく到着されるそうです」
「ありがとうございます……よかった」
報告にレムリアは思わず笑みを作って応じ、手を叩いてパチンと鳴らし、そっと目を閉じた。
それは、嬉しい時の、安堵した時の、彼女の癖。
「あなたは……あなたは確かに魔女のレムリア」
仕草を見て、改めて認識したようにシスターが言った。
「今、わたくしは多分……」
シスターが言いかけたその時。
「魔女さん。一人倒れてしまいましたっ!」
レムリアは声の方へ目を向ける。
「ちょっと失礼」
駆け寄ると、耳を捉えたのは、間違いなければ日本語、であった。
「おかあ……さん」
細身の、否、痩せてしまった少女である。
タオルの下に手を入れ、骨張った身体に触れると熱く、脱水症状の様相。
熱帯の海上で箱の中に閉じこめられていたのだ。当然であろう。
「レムリア!」
背後の船、甲板上から声を掛けてきたのは、双子の片方。
「この服には名前がある。読めるか?」
月明かりの中に彼が掲げたのは、淡い水色のワンピース。
すなわち、彼のあずかり知らぬ文字言語で書かれているということであろう。
「ちょっと待って下さい」
レムリアは船の彼にまず言い、少女の様子を見る。
「この子は脱水症状を起こしています」
それは本来医師の診断すべきこと。
ただ、ここには設備がある。対して医師を悠長に待つ気はない。
「この子をベッドへ。……その服を見せて下さい」
シスター達に生命保持ユニットのベッドに運んでもらい、服へ手を伸ばす。
服を持った彼……銃の形状からしてラングレヌスであった。彼は服を投げたりせず、手に持って生命保持ユニットへ降りてきた。
「これだが」
ワンピース首部分のタグに名前がある。
日本の文字。それこそ、この子であろう。
「ち・あ・り。いぬかい」
二段に分けて書かれた「いぬかい・ちあり」をレムリアは下から読んだ。
名前を呼ばれたせいであろう、ベッドの少女が反応する。テレパシーが働いてその通りと知る。彼女は冬の南の島で、海岸を一人歩いていて人身売買グループに拉致された。
身元が判ればすることは一つ。
「この子は日本の子です。届けます」
レムリアは言った。点滴が出来る。その時間で日本まで行き着けてしまうのだ。
だったら、やってしまえ。
そばで緊急自動車のサイレンが聞こえ、シスターのひとりが医者到着の由。
「判りました魔女さん」
孤児院長のシスターは言った。
「この子達は私たちが責任を持って。その日本の子をあなたに託します」
「ありがとうございます。お願いします。ではまた」
レムリアは挨拶しながら点滴作業の準備をする。展開された保持ユニットが閉じて行く。
「神のご加護を」
「ええ、子ども達が、ここに来られたのは、多分」
『状況は聞いた。発進する』
アルフォンススの声。
「お願いします。風は控えめに、目的地は日本」
『了解。シュレーターできるか?』
『クローラ逆進起動。浮上と同時に光子推進に切り替える。加速度上限3Gにセット。保持ユニットは衝撃に注意』
3Gはジェット旅客機の離陸時加速のレベルである。
「了解」
エレクトロニクスを格納した影≠ェ動く。
教会庭先から道へ向かって一陣の風が吹き出し、影が地を離れる。
かすめ行くほうき星のように光の帯が形成され、何かがその中を駆け抜けて去る。
船は教会建物に暴風が直撃するのを避けるため、バックする形で一瞬だけ風を噴いて宙に浮き、即座に光子ロケットに切り替え、東方に去った。
形成された光の帯が粉となり広がり、散って消えて行く。
入れ違いに、教会に何台もの救急車が到着し始める。
その時点でアルゴ号はロシア領空高度15万。球面上の2点間最短経路を大圏コースというが、それに則った針路である。欧州の夕暮れに対し深夜帯。
『日本のどこだ』
シュレーターが訊いた。
「え……」
訊かれて気付く。この平和な国には平和の故にEFMMで来たことはなく、電話一本の病院や知り合い等があるわけではない。
思わず唇を噛む。勢いに任せたはいいが、そこまで考えてなかった。
〈とりあえずどなたかに託せませんか?結局、この少女はそこへ戻るのでしょう?〉
それはセレネのテレパシー。
「とりあえず東京へ」
レムリアは言った。ただ、それは、名を知ってる都市であり、人が多そう、というだけ。
とはいえ、一千万都市にこんなもの下ろす?
イヤホンから声。
『私だ。郊外の人気(ひとけ)の少ない公園か何かにまずは下ろせ』
大都会東京。
但し行政区分都≠ニしての土地は東西に延びており、いわゆる23区より西、多摩地域に向かえば、ビル群よりも住宅が、さらに武蔵野の面影を残す丘陵地帯となり、田畑も見られる。最西端は関東山地の一部に含まれ、冬季は雪に閉ざされる地域もある。
『ここはどうだ。総合病院がそばにあると出ているが』
アルフォンススの声に保持ユニット内部、液晶モニタを見る。
船外カメラ画像。航空写真のアングルであり、深夜であるため街灯がポツポツ映っている程度。地図が重ねられてあり、住宅街裏手の草っぱらの様相。
日本時間午前1時50分。
『誰かいるようです』
セレネが言ってカメラがズーム。冬の真夜中、野原の真ん中に人がいる。日本はそういう国なのか。
高感度モードで捉えた姿は、寝袋から顔だけ出して、仰向けに寝そべっている眼鏡の青年であった。
ただ、そこに居住・睡眠というわけではなさそうである。手のひらサイズの機械を手にし、口元に近づけ、何やら喋る。
『流星観測ですね』
セレネが、言った。
テレパシーの結論であろう、この緊張した状況にあまり場違いなその言葉は、レムリアに落雷にも似た衝撃と動揺を与えた。
深夜の屋外に人がいること。それは、夜を共に過ごす存在がある人か、選択の余地なき孤独の象徴か、レムリアの認識はそのどちらかであった。
対し、星を見るためだけに寝転がっているというのだ。それは天体観測の流儀なのかも知れない。世界一般にそういう物なのかも知れない。ただ、ただ、この青年の有様は余りにも無防備に過ぎる。
まるで自宅庭先にいるような風情雰囲気。
日本とは、こういう国か。
青年が何事か気付いたか、驚いて半身を起こす。
寝袋から手を抜き出して携帯電話を操作。服装はジャージの上にキモノ(はんてん)。
『本船を見られたのか?』
『いえ。ただ、流星が本船によって一旦見えなくなり、また出て来たので驚いているようです。透過シールドも突発現象には対応できませんから』
船長と副長の会話があり、モニタが何やら文字を映し出す。CDMA、解読中とまず出、次いで日本語が並んだ。
『レムリア読めるか』
「あ、はい」
投稿者:あいはらまなぶ
住所:江戸の外れ
観測時刻:12月12日午前1時53分
概況:火球ではありませんが、発光−消滅−再発光した珍しい流星を観測。群。2等。ポルクスよりいっかくじゅう−消滅−ともにて再発光−地平線下
あいはらまなぶ、なる人物が、珍しい流星が見えた旨、携帯電話を用いて情報サイトに投稿を行ったのであった。
この彼なら大丈夫。
投稿を見て次の瞬間紡がれた思惟がそれ。
なぜ、その感覚が生じたのか。なぜ、そう思ったのか、レムリア自身良く判らない。
ただ、このプロジェクトへの参加を決めた時と同じような判断が自分の中でなされ、この決断が追々プロジェクトに必要になって行くとも感じた。原因による結果ではなく、結果の方が先に来た。
運命が、選択肢のみならず、決定権までを行使する瞬間があるというなら、今がまさにそれらしい。
それは、地球が動き出すような大きな認識。
恐らく、形而上の存在が目の前に降臨し、顕現したなら、こんな感慨を持つだろう、と思われる。しかし、ビジュアル的には、モニタの向こうでお兄さん年齢が寝そべっているだけ。
なのに何故。だがしかし。
「彼に託しましょう」
『何だって?』
船長アルフォンススが問い返す。唐突すぎる結論は流石に意表を突いたようである。
『レムリアの言う通りに。確かに彼なら大丈夫』
口添えは副長セレネ。
私たちのテレパシー回答一致。しかし共に、根拠は不明。
ビジュアルはさておき、これは間違いなく天啓託宣の類。
『了解』
アルフォンススは察したか、深くは問わなかった。
『シュレーター。眼下青年を目指して降下。クローラによる爆風に注意せよ』
『了解しました。出力を順次クローラに変換。離着陸モード』
それは、青年にとっては、流星を隠した方向から風が吹き始め、すぐにまさかと思うほど強くなるという現象であった。
青年は、はんてんの袖先で顔を覆い、それでも尚耐えきれず、風に背を向けた。
船は草むらの上に降りた。
風が収まる。青年は突然の事象に何事か呟きながら顔を戻す。
不思議な状況がそこに出現している。白人の大男が青い服の少女をお姫様抱っこ≠オて立っており、傍らには瞳の中に星の光を蔵したショートカットの娘がいる。
「この子を知りませんか。ちあり・いぬかい」
レムリアは青年に向かって問うた。
「ちあり?ちありいぬかい……いぬかいちありか。待った」
青年は訝しげに応じ、すぐに気付いたように瞳見開き、その携帯電話を操作した。
「この子か?」
携帯電話の画面を見せる。それは犬飼ちありという10歳の少女が行方不明というニュース記事。検索して出したのである。
大男が膝を屈し、携帯電話画面の写真と少女を比べる。
やつれているが、ほくろの位置や眉毛の感じは写真と一致する。
「でもこの子は奄美大島で……」
「人身売買組織の手になるところでした。彼女は……麻薬をかがされて、何も覚えてはいないでしょう」
「う……何か良く判らんが承った」
青年は一発結論を寄越した。
判断は正しかったという認識。
運命のままに動き、後からその正当性を明らかにされるこの感じ。
これこそは、奇蹟そのもの、なのではないか。
大男が少女を下ろし、青年の肩に担がせる。
「預かった」
「ではいきなりご面倒ですが」
「確かに面倒だよ可愛い子。天使か妖精か知らないけどさ。一期一会だ。名前訊いてもいいかい?」
青年はレムリアの目を真っ直ぐに見て問うた。
「レムリア」
彼女は答えた。青年の認識を知る。神隠しと呼ばれる現象が自分の前に発生した。
非常識を受け入れる心理的土壌がこの青年にはあったのだ。
これは偶然なのか。幾度も自問している気がするが、これこそは本当に奇蹟なのではないか。
「幻の大陸だな。夢かも知れないけどな。ともあれ預かった。突っ込まれてもアリバイはあるんだどうにかするさ。行きな天使さん。形而上の存在が地上に長居するもんじゃない」
青年は薄い笑いを浮かべて言った。携帯電話を開く。警察へ掛けると知る。
『レムリア』
「行くぞ」
「はい」
セレネとアリスタルコスに促され、レムリアはスロープから船内へ戻る。
「また風が吹きますのでご注意を」
「ああ判った」
青年は少女を抱いて船に背を向けた。
これは出会いだ。それがレムリアの認識。
そして欧州に対しユーラシア極東の理解者。
地球の、表と裏。
12
運用テストはひとまず成功と言って良いだろう。次は満月に。そう約束して、レムリアはアムステルダムへ戻った。
市内には運河が縦横に走る。加えて真夜中であれば、人のいない場所を見つけて船を下ろすのは造作もない。
船を下り、街路へ上がって少し走り、先ほどの孤児院へ向かう。
大都会アムステルダム。
だが麻薬のイメージも手伝い、治安が取りざたされる街ではある。21世紀になって改善された方だが、深夜帯にローティーンの少女が一人で歩いて安全なわけではない。
「子ども達はどうですか?」
応対に出た若いシスターに、レムリアはいきなり訊いた。
「あ、子ども達は大丈夫ですが……あの確か魔女さん、先ほど中国だか日本だか極東の方へ」
3時間で行って戻れる距離ではない。
常識では。
「日本の技術は流石ですね」
レムリアはそれだけ言った。超絶技術大国というイメージがあるので、多分これで事足りる。考えてみればオランダと日本の関わりは古く、しかも友好的である。数百年前、日本の唯一の貿易相手はオランダだったと聞くし、コンパクトディスクなど、光ディスクの開発は、オランダの発想と日本の技術力の協業による。
「あ、ああ、そういうことですか。凄いですね」
シスターはそう応じ、ニコッと笑った。
お茶をもらいながらその後の状況を聞く。子ども達はここで食事を取ってもらい、いわゆる禁断症状の重い子は病院へ搬送されたとのこと。今ここに残っているのは4名。煙をあまり吸わなかったらしい。
顔を見に行く。ぐっすり寝ており、安心したような表情。
とは言え怖い目に遭ってきたのだ。念のためそのまま夜明けまで様子を見させてもらい、
明るくなってから後を託し、トラムに乗ってアパートへ戻る。
ポストを覗き、いつものように何もなく。
鉄の階段を上って、カギを開けて入る、自分の部屋。
一昨日までと変わらないし、実際いつも通りだが。
なんだか別世界のコピーに来たような感覚。
余りにも、余りにも短時間に多くの出来事が起こりすぎ。
そして、その間に、自分が変わってしまった。
シャワーを浴びてトーストを口にくわえ、オーラ・ノートとアマトールに歌わせる。
紅茶をいつもの手順で淹れて落ち着く。のつもりだが、遠足前日の幼児のように落ち着かない。
いつもと同じ物を見ているがやはり違う。今の自分にはアルゴ・ムーンライト・プロジェクト監視員にして専属看護師という肩書きが着いて戻った。
世界を3周し、地球儀裏側の海に、日本に降りたのは夢かまことか。
子ども達の姿と共に思い出したこと一つ。船で消毒する際、一人ひとり顔写真を撮影、行方不明者データベースに検索を掛けたのだ。その結果をメールでパソコンに送ってくれる手はずになっている。EFMMサイドで当該国の組織につながりがあれば、自分が付き添って帰すことが出来るからだ。
やはり夢ではないのだ。そして、だから、この部屋は、昨日までと同じだが違う。
ノートパソコンをベッドの下から持ち出して電源を入れ、ネットワークのケーブルを繋ぐ。
システムの起動の間にテーブルに載せ、メールチェック。スパムが100。フィルタで削除。発信ドメイン名コルキスが1つ。件のメール。
開くと、データベースが添付されており、子ども達22人の国籍がズラリとリストされていた。いぬかい・ちありちゃんはサイタマ・プリフェクチュア。後は土地柄東南アジア系の子が多い。タイ、マレーシア、フィリピン、台湾、ベトナム、インドネシア。
彼らはその後摘発されたようです。国際ニュースサイトに現代の奴隷商人摘発とあります
字面から受けるイメージはセレネの言葉である。リンク先のサイトを覗くと、確かに船から見たのと同じ犯人≠フ写真が載っている。当局の逮捕に抵抗もせずおとなしく従ったという。その理由に曰く、
『海の中から神が船に乗って現れた。だから我々は観念した』
すなわち彼らは、突如現れた船に対し、神による奇蹟の顕現、悪の処罰を見た。
そういう認識の裏で自分が関わっているという現実。
影響力の大きさに背筋が戦慄する。今の自分の素直な感想。見えざる手による大きな采配。
そこへ組み込まれた。
変わった。動いた。
新たな世界が動き始めた。
過去を振り返るタチではないが、変化≠フ認識は、過去と現実を比較している裏返し。
レムリアが故郷に背を向け、世界一自由≠ネこの街へ来て2年。
しかしそれは逃げた≠ニいう後ろめたさと、居場所無しの根無し草な不安定感を彼女に与えていた。なまじっか心身に関する知識もあるから、それが思春期の自分には良くないことだとも判っていた。ただでさえ心不安定になる年頃である。身の方まで不安定でいい影響があるわけない。
事実、中途半端に日々を過ごしていたように思う。学校はフリースクールだから最悪半年に一度顔を出せば良く、単位はメールなり手紙なりでレポート提出。かまけてそれだけこなしていた¥[足感のない毎日。
そして今、肩書き増えて戻った真の意味を知る。自分は多分、自分のフルパワーで動ける居場所を見つけた。それが飢えるように欲しかったから、列車に乗って前を見たのだ。
だから、この部屋がいつものようでいつも通りではなく、どこかしら余所余所しい。
気付く。船にオリエンタリスを置き忘れてきた。
どころか、衣装ケースもハンドバッグも置いたままだ。
持って帰る≠ニいう意識がなかったからに相違ない。子ども達の様子を見て、一休みするためにここへ来ただけ。
寝に来ただけ。
でもまぁいいやと思ってしまう。またあの船に乗るわけだから。
あそこに私の部屋があるんだし。
不思議な話ではある。大陸地塊に載った不動のアパートに浮遊感があって、10秒で地球を一周する船に安心安定を覚えるのだ。
その背景には、彼ら大人達の中に素直に入って行けたし、迎えてくれたことが背景にあることを否定しない。
大人達に迎えられて喜んでいる。
子どもだから大人に囲まれて安心しているのか、大人の一員と認められて安心しているのか。
どちらの見方も恐らく正しいのだろう。そしてどちらにせよ言えることは、自分の居場所が出来た。
自分の持てる全てを注げる何かが見つかった。
その立場になると、一昨日までの自分は、今日をやり過ごす、そんな日々だったと気付かされた。更にこの街へ来た動機を反芻すればこんなのはイヤだ=Bすなわちこれをやりたい≠ゥらではない。
パラダイムシフトであった。
やれ、自分
困難は予想される。ただ、喜びと確信も同時に存在する。
レムリアはまずメールのリストを各国のEFMM協力機関に転送する。アヘンが抜け次第、この子達を帰したい。
子ども達とのコミュニケーション能力も高める必要があるだろう。小手品で人心掌握、はよく使う手だが、それよりプリミティブな手段は食べ物お菓子か。
アイディアと課題が湯水のように意識に湧き出す。幾らでも出来ることがあるし、やらねばならないことがある。
翌日からの10日間
彼女にとって、それまでの2年間全てを凝縮するよりも充実した日々になった。
まず手を付けたのは世界情勢の掌握と周産期に関わる知識の充実であった。
EFMMであれアルゴ号であれ、出かけて行くのは怪我や疾病、災害が多い地域であり、背景には戦役・貧困がもたらす社会基盤の整備不足がある。可能性の高い地域をあらかじめ把握しておくことは無駄ではない。
そして、そうした場所で最も弱い立場にあるのが赤ちゃんとお母さん。栄養が最も必要で、しかも病気に対して最も弱い。
それと、日本語。
EFMMは日本と縁が薄いと書いたが、日本からの寄付による食料・薬品・資材は実はかなり多く回ってくる。ただ、かなりの数日本語≠フ物品であって、メンバーが解読≠ナきず、使えなかったりするのだ。自分は多少なりとも読めるわけだが、更に問い合わせするなど、充実化できれば。
この考えに、先の青年、相原の存在が大きくなりそうという認識が重なった。彼とコミュニケーション取れるようになれば、日本とコネクションが出来上がる。
次は地理歴史。
理由は単純、今≠フ前には過去≠ェあり、過去から今への流れには大自然環境の影響が大きいから。
繰り返される大地震、噴火や洪水、暴風雨。それらはとりもなおさず、救助活動の対象となる。
見えてきたのは躍動する大地=Bそしてつながり=Bもう一つ書くことを許されれば循環=B
大気であれ、海であれ、大地の下であれ、ダイナミックに巡っている。
船に乗るという行為は、地球全体を一つの視野に収めるというパラダイムシフトを迫った。
相応しい、か、どうかは判らないが、その視点は、考えのとっかかりになる程度の情報を得たように思う。
そして時は来た。
電話が彼女を呼ぶ。
彼女は応えて部屋を出る。ウェストポーチに必要最小限の応急処置用具と衛星携帯電話。
及びお菓子も少し。子ども達を相手にする時のみならず、何か食べ物を口にすることは、パニック状態の心を落ち着かせる。
照らす満月の光を浴びて彼女はレンガの街路を駆け抜ける。街娼さんが客を取る古いビルの脇から運河へ。……この街には、この制度が生きている。
岸に船有り。
見た目には観光用の帆船然としている。この場所を選んだのは、上記した女達のビルから運河側を見る人は多くないだろうという考えによる。
スロープは岸に付けられており、見張りであろう、大男アリスタルコスが腕組みして立っており、太い腕を見せている。
「用心棒みたい」
彼女は彼に言った。
「おかげさまで守る姫があってな。さ、乗った」
「はい」
操舵室に顔を出す。
「お待たせしました。すいませんこの間は荷物を置いたままで」
レーダ席に腰を下ろし、イヤホンマイクを耳にねじ込む。
コンソールにタッチしてトラックボールとディスプレイ群が電源オン。
「構いませんよ。貴女の動く別荘になれればこの船も本望でしょう」
セレネが笑顔。
「総員揃ったか」
アルフォンススが高位から訊いた。
「はい。副長以下全5名、所定位置に着きました」
「よろしい。アルゴ発進する。機関正常。船体制御系正常。定常ルーチン起動シーケンス。探知システム状態報告」
「映像装置、探知装置共に正常です」
レムリアは答えた。
「フォトンハイドロクローラ始動。浮上せよ」
「了解、アルゴ浮上」
アルフォンススが宣言し、シュレーターが操縦桿を手前に引く。
あの加速……レムリアは思い出す。文字通り瞬く間に数千キロ彼方に達したあの加速。
光子ロケット……相対性理論……原理や理屈は良く判らない。
ただ、判っているのは、科学雑誌に書かれた概念、いや、SF映画そのものの世界に、自分は来ている。
船が水面を離れる。
「浮上しました」
「INS始動」
操舵室の静寂。
「INS動作正常」
「透過シールド」
「透過シールド作動。フォトンチューブ確立確認。リフレクションプレート展開固定」
船尾カメラが捉える光のくす玉=B
「起動シーケンス全完了。副長復唱せよ。アルゴ発進」
「発進」
セレネが答え、船が動く。
街の光が正面スクリーンで幾重もの直線光跡となる。
再びの、船で見るオリオン座。
後で聞いたがオリオン座の方向に常に飛び立つようである。当然、満月ごとに見える位置は変わってくるので、いつも少しずつ方角がずれる。こうすることによって同じコースばかりを飛んでしまう問題を避けている。なお、オリオン座は、北半球では冬の星座であるが、南半球においては1年を通じて見えているので、夏期の出発方向は、コルキスから見て赤道を越えた向こう側、ということになる。
そして、今回は、セレネがヘッドホンを装着して横になる前に、レムリアの衛星携帯電話がEFMMからの着信を告げた。
13
EFMMの団長である。
「すいません。私の……」
レムリアが断って出ようとしたら、電話は切れた。
衛星携帯電話は、名の通り、電話端末と通信用の人工衛星とが、直接通信する。
従って、衛星との間に建物などが入って電波が遮られれば、通話は切れることもある。
呼び出す途中で切れる。それ自体は珍しいことではない。
だが、これは何か違う。
何か引っかかる。
「君の電話の通信システムは本船コンピュータに記憶させた。そのまま発呼して使えるはずだ」
船長が言ってくれた。
それだ、とレムリアは思った。この船は高い空を飛んでいる。電波が途切れることは通常無い。
確かに、使う衛星を切り替える際に、一時的に途切れたりすることはあると聞いた。だが、技術の進歩(シームレスハンドオーバ)で会話が切れる心配は無いとも聞いている。
それともう一つ。
「レムリアさん?」
端末を黙って見つめるレムリアに、セレネが訊いた。
かけ直してはならない。違和感がある。
「今の着信に逆探知はかけられますか?」
レムリアは訊いた。
「それは何故ですか?」
セレネが訊き返す。レムリアの抱いた違和感≠ノ超感覚の発動を感じている。
レムリアは答える。
「緊急呼び出しはショートメッセンジャーの一斉送信が普通なんです。一人一人に団長自ら電話を掛けるなんて悠長なことはしない」
「裏に何かあると」
「ええ」
「船長」
「了解した。試みよう」
セレネの口添えにアルフォンススは答え、自らコンソールを操作した。伴ってメインスクリーンに小画面が一つ開く。
その画面の構成は、レムリアにはネットのチャット≠思わせた。パソコンの歴史を知る向きにはコマンドプロンプトと言った方が実際には近い。
「これでコンピュータと会話を行い、探知した電波の座標を出させる。EFMMの使っている通信システムは?」
「インマルサット」
レムリアは答える。それは20世紀から存在する衛星通信システム。及び衛星自身の名前。
開いた小画面で英語のやりとりが走る。その間にレムリアはEFMMの本部に電話を掛ける。
電話端末の問題なら、この発呼は失敗するはず。また、本当に自分に用事があって切れてしまった、ならば、本部にメッセージの一つもあるはず。
それに、本部はメンバーが今どこにいるか把握している。船の探知がそこと一致するなら。
この船なら、そこまで飛べる。
数秒で。
「レムリアです。団長と……」
応対した事務の女性の声は切迫していた。
『ああ姫様。実は定時通信が途絶えました』
操舵室内にスピーカーからの声が響く。
メンバーの注目が集まる。
「今回の予定の場所は?」
『アフリカの……』
国際安全保障上の理由から名を伏す。
その場所を聞いた船長の動作が、にわかに慌ただしい。
「過去1時間にアフリカから発呼されたインマルサット向けの通信は7件。そのうち1件が合致する」
画面に地図が用意され、伏した地名その場所に、発呼位置の「+」マークが重なった。
「ありがとう。……嫌な予感がします。行ってみます」
レムリアは確信を得て言った。
『行くって姫様今どち……』
答えず切る。説明できないし信じてくれない。
「船長」
「シュレーター行け」
「了解。当該座標に急行」
程なく、INSが作動し、超絶の加速を行い、サハラ砂漠をかすめる辺りに。
「ここは、EFMMでは定期巡回点に定めています。理由は……」
レムリアは地図上の「+」をトラックボールで動かしながら説明した。
ウラン鉱山を擁する村。
ウラン。ウラニウム。言わずと知れた核燃料であり、原子力発電は勿論、核兵器の燃料として最右翼にある物質である。武器は勿論、外貨の獲得源にも使え、その物流を支配することは、国内権力のみならず国際影響力を高める。貧困国家や支配欲の権化、或いは、テロリズムなどの歪曲した主張を掲げる非国家主体にとって、垂涎の的。
自然界に存在する物質だが、利用≠キるには大がかりな加工が必要であり、企てが始まった20世紀初頭は、大国の国家予算を必要とした。しかし20世紀後半から21世紀にかけては、一般市場で流通している機器・材料で利用可能なウラン≠ェ得られるようになった。実際、国際機関の査察で、軍事国家からそれら機材や測定器が見つかっている。そのため、ウランの加工≠ノ転用可能な機器は、その辺の電器屋で売っていても輸出は厳しく規制される。
海外からネット通販やオークションで何でも輸入≠ナきる時代だが、逆は法に触れる可能性があるのだ。一般常識として知っておいて良い。
戻って、その村は軍事国家の勢力下にあり、政府が軍隊を配置して管理している。しかし、周辺の地元民族が奪取制圧を虎視眈々と狙っており、小競り合いが頻発していた。一般に割拠した少数民族が政府正規軍に楯突いて軍事的に勝利を得られる公算はなく、無駄な戦闘は挑まない(神≠フ名によって信じ込んでいる手合いは除く)ものであるが、この地は、狙うものの故に、周辺の他の貧困国や国際テロリズムの支援を受け、潤沢な武器と組織を有していた。
「正直、背景が何であろうと私たちには関係ないのです。重要なのはウランの産出に高い賃金で人を募り、放射性物質に関する知識のない人々を危険な作業に従事させていること」
判っているのに看過は出来ぬ。ちなみに政府はEFMMの定期巡回をあっさり許可した。これは国際医療団を受け入れることにより、正当性を主張し、危険作業を押しつける核奴隷≠否定する隠れ蓑にするためと容易に予想できた。
「そんな場所で団長殿以下連絡が途切れたわけだ。政府の受け入れ方針が変わったか、蜂起した民族が占領して訪れた君たちの団体を人質としたか。単なる医療器具泥棒か。レムリア……どれにせよ君の判断は的確と言えそうだ。かけ直すと君という存在を連中に知らしめる。或いは虚偽を言ってさらにおびき寄せるなどした可能性がある」
アルフォンススは腕組みし、更にこう付け加えた。
「もう一つ。聞きたくないかも知れないが言うぞ。総員、放射線防御準備。シュレーター。状況、核」
「了解。核施設接近モード」
船は時間的にとうに現地に到達している頃合いだが、次第に減速し、あと10キロというところで一旦静止した。光圧シールドの出力を最大とし、放射線測定を行いながら徐々に接近開始。
つまり。
「核事故の可能性があるということでしょうか」
レムリアは訊いた。
「否定は出来ない。君の言う通り放射性物質の知識を持たない作業者であれば、不適切な取り扱いで事故を起こす可能性もあり得る。それでインマルサット無線機器や、電話が破損したとも考えられる。EFMMメンバーはは放射線防護服を」
「被曝者を診察するので着用しているはずです。ただ、私は現地に呼ばれたことはありませんので確定的なことは言えません。何せ随行禁止ですので……」
そうだよ。レムリアは自分のセリフに電話の違和感≠フ正体を見た。
ここに団長が自分を呼びつけるはずがないのだ。あまりにも危険すぎると許可してくれなかったのだ。
なのに発呼され、あまつさえは切れた。
「団長さんの故意、という事は考えられませんか?」
セレネが訊いた。
わざと、故意に私に電話した。
あり得ないことをした。
あり得ないことが起こっているというメッセージとして。
「EFMMはどうやってここへ来ている。レムリア」
シュレーターが尋ねる。
「ヘリコプターと聞いています。大きくEFMMのロゴとURLが書いてあるはずです……」
レムリアの声をかき消すように船からアラーム。画面に赤ランプを模した点滅が現れ、放射能標識と物質名。
レムリアは一呼吸置いて、読み上げる。
「セシウム137有意」
「船を止めろ。検出される放射性物質、継続性、強度、射出方向を探査」
「了解」
レムリアは赤文字で表示された放射線詳細探査システムに起動を命じると、自身もヘリコプターを探しに船底カメラの絵を覗き込んだ。
ただ、この位置ではジャングルばかり。
「解析急げ。テレパス。意思人格の感はないか」
アルフォンススの声を背中に感じる。テレパシーで何か感じないかと言うこと。
「いいえ何も」
レムリアは唇を噛む。動揺が超感覚への集中を妨げる。
対しセレネ。
「ただ命に関わる……待って下さい。途切れた。強制した。断った……」
セレネは感じたままにであろうか、語の羅列を口にし、同時にレムリアにイメージが飛んできた。
構成し直せということのようだ。レムリアは動画のように再生されるそれをつなぎ合わせ、文にする。
「重大なことが起こり、解決を要請するも拒絶。強制をなお拒絶したため……そこからは薄れています」
目を閉じてイメージを追うが、霞の向こうに消えて行くよう。
それは距離が遠くなったことを意味するのか。
それとも。
再度アラーム。
「プルトニウム239検出。船長、ウランの核反応が起こった可能性が高いぞ」
その時。
「魔女っ子。あれは違うか」
「えっ」
アリスタルコスが割り込みで探査システムを動かし、船底カメラ画像にカーソル「+」記号が表示される。
ヘリコプターと横たわる人体。
14
超感覚が即座に返して寄越す。違う。及び、絶命している。
人体は兵士である。迷彩服を着、自動小銃を手にしている。
船はアラームを継続している。文字が重なり、カーソルの方向と放射線源が一致している旨表示。
すなわち兵士の死因は放射線障害。
あり得ないことが起こっているというメッセージとして
そしてヘリコプターはEFMM所有と判明。
『重大なことが起こり、解決を要請するも拒絶。強制をなお拒絶したため……そこからは薄れています』
自分の言葉を反芻する。
核物質に関わる何かが起こり、EFMMのメンバーは姿を消した。
「ラングレヌス」
「おうよ」
アルフォンススの声に大男が応じた。
レムリアはギョッとする。不死身という触れ込みの彼だが、放射線障害の機序は遺伝子を傷つけるもので、先回見せた銃弾等に対する頑強さと異なる。
「心配のお目々だなレムリア。優しくてありがたいね。だけどよ、この船の宇宙服は対放射線防御能力があってな。宇宙空間は放射線のシャワーの中だからそういう作り。大丈夫だよ」
大扉へ歩きながらラングレヌスは言い、その背中にレムリアは思わず微笑みを浮かべた。
そして大男は、扉の向こうへ出ながら振り返って一言。
「多分、な」
ニヤッと笑い、扉を閉めてしまう。
「総員手がかりを探せ。カメラ、レーダ動員せよ。テレパス。人の意識は感じないか」
「いえ……いや、西へ流れる感あり。西へ流れています」
セレネが答える。レムリアは船長副長のやりとりに唇を噛みしめ、自席の画面に目を戻す。
今大事なのは、EFMMのメンバーを見つけること。
テレパシーは何も明確なことは言わず、画面にあるのはヘリコプターと兵士の遺体だが。
そこに、ウェットスーツを思わせる着衣をまとったラングレヌスが映る。NASAのそれのようにゴワゴワした感はないが、宇宙服とはそれらしい。先回と同じく長銃を背負い、それと別に腰元に何か機器を付けている。画面に出ている使用機器表示には放射線検出器とあるのでそれだろう。マイクのような形のセンサーを手にし、横たわる兵士に向ける。
船内画面には赤文字で警告。大丈夫と言われても、不死身という触れ込みでも、やはり心配は払拭できない。
しかしラングレヌスの物言いは至って落ち着いたもの。
『メータが振り切れるな。頭から足の先まで背中一面反応する。この兵隊が被曝したことは確かだろう』
「了解。その場で動きを待て。レムリア、この兵士の過去の動きを探る。マイクロ波SAR用意」
「はい」
ラングレヌスの報告に対し、アルフォンススがレムリアに言って寄越す。
自分に言うからには探査装置の名前であり、画面を操作して探す。シュレーターの説明によれば、良くは判らないが、輪郭が強調された画像が得られるレーダだという。マイクロ波は電波の種類であり、SARは合成開口レーダの意(synthetic aperture radar)。
当該レーダを見つけ、メニュー上でカーソルを合わせてクリックしたら画面がモノクロになった。
「えっ」
間違えたかと思ったが、そうではなかった。
兵士の脇から、土に描かれた筋が浮かび上がる。
車のタイヤ痕である。輪郭が強調≠ウれた結果、抜き出されたのだ。
メンバー達は車で連れ去られたのか。
「ラング、バーチャルを使え。タイヤ痕を追う」
『了解』
ラングレヌスは答え、女性の髪飾り、カチューシャに似た器具を取り出し、カチューシャ同様に頭に装着した。但しそのカチューシャ≠ゥらは顔の前にアームが伸びており、右目の前に小画面がセットされる。
ラングレヌスはその姿で振り返り、船のカメラに見せて寄越した。彼の小画面に船内のモノクロ画像が伝送され、同じ画像が見られるのであろう。
タイヤ痕に沿って進む。沿って幾人か兵士が倒れており、いずれも脇を通るたびに船内画面に警報が出る。いずれも船の側に頭を向け、俯せに倒れており、例えば背後から放射線を浴びて倒れたとするなら、向きが揃っているのは理解できそうだ。少なくとも何らかの核事故が起こった、とは確実に言えそうである。
だとしたら……レムリアが気になるのは、メンバーもそうだが。
危険な作業に従事していた地元の人たちは?
超感覚が反応。
「えっ」
「あ」
それが殺意≠ナあること、及び、同じ認識をセレネが持ったことを同時に掌握する。
刹那の後、銃撃を受ける。自動小銃、いわゆる機関銃による側方からの狙撃であり、乾いた連続発射音の後、ラングレヌスの身体が左右に小刻みに揺れる。
彼の身体に着弾したのである。ガムの噛みカスのような物が幾つか、彼の身体の傍らに無造作に転がる。変形を受けた弾頭である。
『船長、反撃良いか』
彼はまるで他人事のように許可を求めてきた。戦車でも操縦しているかのようだ。
「そのまま行け。攻撃の火の元に敵の本拠がある」
『囮了解』
それは、彼が進むのをやめないならば、敵は次々攻撃者を送り出さねばならないであろうの意味。更に言うと、その攻撃者は前哨で足りないならば、本拠地から出てくることになろうという意味。
よって敵の本拠をあぶり出せる。
程なく、行く手タイヤ痕の向こうから、銃というには大がかりな武器を抱えた兵士が二人。
抱えているそれは、ゲリラが野戦病院を襲撃するのによく使うため、レムリアにも何なのか判った。
一応カーソルを合わせ、船に識別させてみる。
思った通りである。肩に担げる小型ミサイル、スティンガー。
「アリス!」
『甲板だ。射程に入り次第落とす』
彼の声はイヤホンから届いた。レムリアが画面をいじっている間に操舵室を出、甲板に出たらしい。
「撃って来ます」
これはセレネ。程なく、カーソルを当てたそれが火を噴く。
後方へ炎と煙を噴き、ランチャーからミサイルが離れ、加速を開始。
煙が弧を描き飛んでくるミサイル。
レムリアの画面に何か文字。そのまま読み上げる。
「シーカー(目標捜索装置)作動を探知」
「逆照準……アリス行け」
画面の動きを書けば、ミサイルが搭載していた探査装置の出所を船のコンピュータが逆探知、アリスタルコスのレーザガンの照準をミサイルへ誘導。
画面を横切る緑の光条。
ミサイルが胴体部分で真っ二つとなり、爆発する。
その爆発の煙の向こうで、事態に気づき、明らかに驚いて反転逃走する兵士たち。
『おいおい』
ラングレヌスの呟き。
『こいつら、地下に何か作り込んでるぞ』
言葉尻に含む不敵。
画面奥に逃走する兵士達を、カメラのズームで追いかける。
彼らは走り、地面に飛び込むような仕草をし、そのまま姿を消した。
例のSARに切り替えるが、塹壕の類は映らない。銃口だけこちらを覗いているような感じでもない。船のセンサも武器を検出しない。
完全に姿を消し、攻撃してくる気配なし。地下に絶対安全の構造物があり、その中に入り込んだと考えるのが妥当なようだ。
「なるほど」
アルフォンススが呟いた。
「更に来ます」
セレネが言った。
レムリアにもそれは感じる。ただ、それは個々の具体的な攻撃手段を示していない。
もっと大規模。ズラリと並んだ殺意。
「大きいです……」
感じたままレムリアは呟いた。
池に落ちた雨粒の波紋が重なって一つの大きな波になるように、殺気が重なり、合わさり、全体として衝撃波を形成し、攻め寄せてこようとするのを感じる。
重低音。
地面が割れる。
地割れではない。それは地面を装った、蓋。
画面に幾種類もの警告が出て赤くフラッシュする。照準システムの探査ビーム、赤外線探知装置。
「放射線を探知。照準装置の検出位置と一致します」
船のコンピュータが表示するままをレムリアは読み上げる。照準装置は銃器に搭載されたものだろう。銃器と、放射性物質が、同じ位置にある。
すなわち。
「劣化ウラン弾というヤツだよ。副長指揮を頼む」
アルフォンススは言うと、自席を立ち、背後扉より姿を消した。
程なく各人のイヤホンから電子音が聞こえ、それぞれのコンソールに権限移譲した旨表示が現れる。
判断結果を合議の上、副長の認証を得て実行せよ。
レムリアのコンソールで一つ画面が開いた。
それは、武器を着て∽w先に立つ船長アルフォンススの姿であった。
「ライブ・アモってんだ」
シュレーターが唇の端で笑う。一言で済まされたそれを理解しやすく書くならば、防弾チョッキの肩の上に銃器装架用の台を追加、そこに機関砲と思しき銃器を搭載した物だ。
船長アルフォンススは同じくカチューシャをセット。すると、船長と電子的に融合した、と船は言って寄越した。
それは武器と一体化した人間の姿である。稼働中武器としてFELという文字が加わる。
機関砲と思しき巨大銃器の正体、FEL。Free Erectron Laser。自由電子レーザという。任意波長のレーザビームを生成する。
それは未来世界を舞台にした戦争さながらであった。
大地の蓋開いて現れた、ズラリと並ぶ攻撃隊を、アルフォンススは左から右へ一瞥した。
それは文字通り、視線を左から右へ走らせただけであった。
兵士一人一人を、彼の網膜が捉え、その旨が赤い四角で大画面の居並ぶ顔にマークされ、同時に、彼らの手にした武器が赤熱溶解した。
アルフォンススが見る≠アとは、その瞬間に照準され発砲される意味であった。(作者註:Live Ammoであり、直訳すると生体弾薬であって、この作動機序とは主旨が異なるが、人体がさながら、というイメージからの命名であろうか)
『強襲』
アルフォンススが言った。
「了解」
シュレーターが答えた。
兵士達は己れらの武器を作動させようと引き金に手をし、無力化の事実に気が付いた。 次いで溶解の熱さの故に放り出した時、彼らは目の前に唐突に出現した船の姿を見た。
船の傍らには、異常な武器を手にした3名の男があった。
小銃が溶けたことで腰のピストルを抜こうとした者もいた。しかしピストルはその瞬間に蒸発するのであった。
異常な男達は進み始めた。兵士達はそれぞれに降参の意を示して両手を挙げ、異常な男達に道を空けた。
異常な男達は、人工的な蓋のそばに立ち、そこから中をのぞき込んだ。
地面の下に広がるブルー。
『空、じゃねぇな』
ラングレヌスの呟き。
船の画面全てが、警告の赤で塗りつぶされた。
着色を解除すると、文字だけが残る。人跡未踏の秘密の湖のような映像の中、高温、高濃度の放射線。
「チェレンコフ光。これは水で出来た原子炉だ」
シュレーターが言った。
「ウラン鉱山と言ったな」
「ええはい」
レムリアは答えた。
「鉱脈全体を水で包み込んだのだ。ウラン鉱脈が卵の黄身、水が白身というわけだよ。プルトニウムでも生産してるんだろ。蓋はその卵の殻さ」
『それは、天然原子炉の条件を人工的に、ということか』
アルフォンススが口を挟んだ。レムリアが説明を受けるのはずっと後であるが、太古、地球上にはウラン鉱脈を地下水が取り囲んだ結果、継続的に核反応が生じる条件が整った天然原子炉≠ェ構成されたことがある。
「そうだ。被曝の危険さえ誰かに押しつければ、水を流し込むだけだ。技術も資材もいらん。効率は悪いが、確実だ」
シュレーターの声に重なり、双子のどちらかの声がイヤホンにボソボソ。
『簡単に口を割ったぞ。医者達はこの池の地下10キロ、プルトニウム抽出工場だ。但し逃がしたぞ』
命の保障と引き替えに聞き出したらしい。10キロ。レムリアのテレパシー能力の限界を超える。
対して。
「私なら……のはずですが。感じ取れません。放射能や大量の水が影響しているのでしょうか」
セレネは困ったように言った。
『まぁ追求は今はいい。問題はどうやって行くかだ。人質取られた要塞攻撃は難儀だ』
アルフォンススは溜息をついた。
レムリアに訪れる。それは天啓。
「私が行きます」
『なに……』
アルフォンススだけではない。メンバー全員の驚愕と呆れた感情を受け取る。
しかし、別に単なる無茶無謀な発言ではない。EFMMにはすぐ自分と判るからだ。警戒を解いてもらう労はない。
それに何より、自分は普段、戦乱に近づくなと言われ、庇護を受ける立場だった。
この万全の仲間達を得て、恩返しをする時は今。
及び。
「船長」
レムリアは問いを発した。
『何かね?』
「戦乱の場に年端も行かぬ娘が現れるというのは、何らかの心理的影響を与えるものでしょうか?」
『何だって?』
意図するところ、殺戮の亡者と化した男達が荒れ狂う戦乱の地において、女、しかも少女という存在が現れるインパクト。
何もないとは思わない。経験が確信を与える。
例えば難民キャンプを襲う自称聖戦士=Bテントの幕をめくると異邦人の少女、このシチュエーションに過去驚かなかった者はない。
そして、戦場においては、刹那の躊躇が、全てを制する。
『ジャンヌ・ダルクだな。それとも我々を導くつもりか?自由の女神よ』
アルフォンススが、ドラクロワの壮大な絵画を想起したことを、レムリアは知った。
ジャンヌ・ダルク。彼女は魔女裁判で火あぶりになる。言わば、先輩魔女。
ただ、自分に死ぬ気はない。比して女神はまさか。
「魔女として、お引き受けします」
果たしてアルフォンススは笑って寄越した。
『誰も考えつかない作戦として見上げた勇気を買おう。副長、何か感じるところはあるか』
「いえ、彼女もわたくしもある種の確信を得ています。船長の赴くままで問題は無かろうと」
『良かろう。だがスーツのサイズが違う。シュレーター。船の装備で講じる防御策はあるか』
「敵施設の破壊を厭わぬのであれば」
シュレーターは即答し、レムリアに向かって親指を立て、後ろを指し示す。
意図するところ、用意せよ。昇降口へ向かえ。
『構わん、許可する』
アルフォンススの言を聞きながら、レムリアは巨大な扉を開く。
『では船長、その地下10キロにこの船を突き立てる。光圧シールドチューブを地下に向かって走らせる』
『了解した』
15
コンクリートが湿った地肌を見せる地下の一室。
EFMMの団長は、防護服の奥で金色の眉に困惑の皺を寄せた。
「もう血液が足りんぞ」
ベッドに仰臥する軍人は口元に呼吸器を付け、激しく息をし、その旨心電図に表示が出ている。
ポータブルの輸血装置は間もなく残量がゼロになると警告している。
「ない、では困るのだ」
別の軍人がしゃくるように銃を動かし、団長は金色の口ひげをぴくりと震わせる。
急性放射線障害で大量の輸血を行っているのである。
「核物質を侮るからだ」
「黙れ」
引き金に指が掛かり、銃の部品金属が動いてわずかに音。
「撃てば良かろう。その代わりこの将校は確実に死ぬ」
「理屈だな。では貴殿スタッフの血液を頂戴するとしようか」
軍人は傍らのアフリカ系女性スタッフに銃口を向けた。
大きな音がした。
発砲ではない。
「またかっ!」
銃の軍人が叫び、背後を振り返る。
また……それは核事故の再発懸念を示した。
縦横に配された配管群の向こうが白銀の光に包まれる。そこを炉心≠ニ誤認しても確かにおかしくはない。
しかし正体は強烈な照明である。降ってくるように上方から照射され、地上と結ぶエレベータを包み、見えなくした。
それは、天とこの地下とを直結する光の筒そのものであった。
無論、核事故でも照明でもどちらでもない。アルゴ号の形成する光圧シールドチューブである。光子の噴射によって白銀となる、その領域が上方から降りてきたのである。
「(意図したこと形をなさず)」
光の筒から、少女の声がした。
軍人達にとっては、未知なる言語であった。
彼らは発砲した。
炸薬の音は鋭いインパルスとしてコンクリートの空間に反響し、鼓膜を貫通する。
同期して、声の主をも貫き、絶命或いは激痛の絶叫が聞こえる、はずであった。
しかし、彼らが見たのは、天地貫通する光筒をかすめて飛び去る銃弾の光跡と、
光筒の中で揺れる、短い髪の毛のシルエット。
「状況201(two-o-one)」
少女の声が、そう言った。
軍人達は、少女の存在に目を奪われ、恐らく、数値を聞き逃した。意味を持つことに思いが至らなかった。
対して、EFMMの団員は、反射的に姿勢を低くした。レムリアの意識した、刹那の躊躇に対し、これだけの時間は、充分に長いと言えた。
201……暗号コード爆発警戒=B
猛然たる風が地下室内に吹き付けた。
その風は光の色をし、渦を巻いていた。
横たわって形成された竜巻、すなわち、風のドリル。
それは天地貫く光の筒が、そのまま横倒しになって襲いかかってきたと書けば、状況の説明として適切になろうか。
光圧で加速生成された風のドリルは、軍人達を振り払うように突き飛ばし、それぞれ床や什器、壁面でしたたか頭を打つ。
しゃがみ込んだメンバー達は難を逃れる。
そして、団員と、軍人達の間に距離が出来たところで、強靱なビームが軍人達の火器を溶かす。
少女は手を上げ、光の風を制した。
「姫か……」
「こちらへ。今のうちに」
長い会話は不要。レムリアは何か言いたげな団長の声を遮り、腕を伸ばし、天へ掲げたその手。
手鏡。
船の発する光を弾き、白く輝く。
彼女は鏡を動かし、その強靱な光を軍人に差し向ける。軍人は一般に肉体的な痛みに対する訓練を受けるが、網膜細胞だけはどうにもならぬ。単に能力限界を超えて視界を白く奪うのみならず、光線に目を射られる痛みと恐怖は、生命として根源的、反射的なものだからだ。軍服や軍靴に忍ばせた予備の銃器を探すどころか、目を背け、しまいに先んじて目を庇うことを余儀なくされる。
光を掲げ、それを印として彼女は進む。行く手には船が尾部を下方に向け直立し、左舷昇降口を開いて彼らを待つ。
船を、船体を、エレベータシャフトに文字通り押し込んだのであった。
「あそこから中へ。リフトを下ろしました」
リフトとはエレベータのことであるが、ここでは無論船体そのもののことだ。空飛ぶ船とは言えないためにそう表現しただけである。船内には光子ロケット機関の異常に備え、幾つか隔壁が設けられている。そんな壁の一枚を通路にセットした。船尾が下向きなので、隔壁は床になる。
あそこから中へ。リフトを下ろしました」
リフトとはエレベータのことであるが、ここでは無論船体そのもののことだ。空飛ぶ船とは言えないためにそう表現しただけである。船内には光子ロケット機関の異常に備え、幾つか隔壁が設けられている。そんな壁の一枚を通路にセットした。船尾が下向きなので、隔壁は床になる。
ブザーと赤色回転灯。
地下の空間に風が起こる。何かが空気を動かしている。
船のものではない。
『原子炉の温度上昇を検知』
「奴らは水を抜くつもりだろう」
EFMMメンバーの一人が言った。
「水が抜かれると?」
レムリアは訊いた。メンバーと、マイクの向こうの乗組員に。
『原子爆弾になる』
「チャイナ・シンドロームだ」
双方から回答。前者、イヤホンに届いたシュレーターの回答で、理解は充分であろう。
「走って!」
レムリアは言いながら、軍人達はどうすべきかと自問した。
『彼らは、毒を口にしました』
セレネが言った。彼女の超感覚による分析によれば、警備する政府軍兵士が自ら支配者に君臨すべく核クーデターを計画し、ここを占拠、際してプルトニウムの生産量を増加させるべく、住民による所定の工程を逸脱させた。結果、水のもつ核反応抑制効果を上回るウランが投入され、事故を誘発……
それは街角の電光ニュースのようにレムリアの意識に流れた。しかしレムリアには、そんな情報に価値は感じられない。
EFMMのメンバーを船へ導く。全員の搭乗を待って、自らも船内に入る。
昇降口のゲートが閉まり、イヤホンに警報。通路そのものを放射線汚染区域として前後封鎖。基地に戻って処理するまで出るべからず。
それは良い。問題は基地に帰ること。すなわちここからどうやって脱出するか。
『近傍最高温度720ケルビンに上昇』
逃げること自体は容易である。ただ、現在ここで進行しているのは、核反応。
炉心溶融、象の足。……放置した炉(リアクター)の行く末を言う語を幾つか知っている。
チャイナ・シンドローム、EFMMのひとりが言ったそれも、行く末を示す語のひとつ。それは原発の炉心が核反応の暴走で超高温の火の玉と化し、溶融どころか大地を溶かしながら地中へ進行、そのまま地球内奥をも突き抜けて裏側まで行ってしまう……アメリカの反対側は中国……から来た言葉。
『緊急冷却装置はないのか』
『本船の機能で何か使えないか』
無線越しの男達の錯綜。
何も答えを用意できない自分が歯がゆい。仕方がないと判っているが、何も言えないのは辛い。……だから自分はこの地に呼ばれなかったのか、とも思う。
「姫……」
EFMM団長が何か言おうとした時、
『近場に大量の水はないか』
その、船長の舌打ちは、レムリアにとって良く聞くセリフの一つであった。
−近くに水は。水を下さい−
戦闘に巻き込まれた難民にまず必要なもの。まず求められるもの。
果たして、団長が呼ぶ声に対し、レムリアは返事の代わりに問うた。
「このウラン村で活動する際、水はどこから」
「ああ、5マイルほど東の……」
答えに被さりイメージが到来した。
団長の記憶である。医療団の来訪に合わせ、村の人たちがこぞってその距離を歩き、湯を沸かし、活動の準備を手伝う……。
平和そうに見えた、その光景はどこへ。
テレパシーが答えを寄越す。正確に言うと、セレネの方が若干早く、ややあって、レムリアが気づく。
同時に、何が今進行しているのか、風≠フ正体を知る。
人々が、多くの人々が、浮かんで@る。
村の人々である。そして、生きてはいない。生きていないことにすら、気付いていない。
〈レムリア……〉
衝撃と落胆の意志がセレネから飛んでくる。コンクリートの卵の殻に水をたたえた原子炉の下、ウランを掘り出す際に生成された、地下20キロ遙か、断層面にまで続く深い穴。
そこに今、炉心の減速材として使用されていた水が、滝の勢いで放出されつつあり、その水によって空気が動き、風が生じている。
そして、その水が下方に溜まり、死んだことすら知らないままの人々が、浮かんできた。
核事故の隠蔽のため、証拠≠ナある彼らは、プルトニウムを抽出する際に生じた核廃棄物もろとも、この穴に遺棄されたのである。
それは、余りに過酷で残虐な状況であり、表現を控えめにしたい。
原子炉でウランの核反応が起きると、副産物としてプルトニウムが生産される。このプルトニウムは反応後の物質(核のゴミ)に混ざっているため、より分けて取り出す。この作業を分離或いは抽出と呼ぶ。一般的なのは核ゴミを極めて強い酸である硝酸に溶かし、試薬として市販もされている「リン酸トリブチル」等で化学反応を行わせて取り出すものだ。いわゆる原子爆弾の原料には、ウラン235或いはプルトニウム239を用いるが、ウラン235を取り出すには巨大なプラントと高度な技術を要する。対しプルトニウムは原発の排出物から薬品で取り出せる。従って原子炉とウランさえ手に入れば、プルトニウムを取り出す方が技術的障壁は低い。この国はその炉を、天然原子炉を範として水だけで生成し、そして、プラントの運転……核物質の取り扱いを、前述の如く、人手で行ったのである。
すなわち人間の使い捨て=B
当然、秘密保持のため皆殺しも視野に入れたものと断じて良かろう。従い当然、放射線事故で死亡した人体は内部で処分=B他方、医療団を受け入れ表面上は健康維持に前向きに見せかけ、という構図が見て取れる。
浮かんできた人々は、セレネとレムリアの認識に一様に動揺を示した。二人だけがコミュニケーション可能であること。その故が……死であること。
一般に死した肉体は生命の特質を失って崩壊して行くが、このプールに置いては、崩壊の元となるバクテリアが一切存在しないため、亡くなった身体には一切変質が生じない。
かのチェルノブイリも、中心部では当時の作業員がそのような状況に置かれていると推察される。レムリアは業界雑誌の放射線特集の記述を思い出した。ちなみに象の足と書いたが、それは同事故でコンクリートが溶解し、象の足のような形で再固着した状況を捉えた写真による。
コンクリートが溶け出す温度は、摂氏1000度と少々。絶対温度に直すと1300ケルビンほど。
『900ケルビンを突破した。船長、どうする』
それは今、船を包む光の筒の外側が、応じた高温になっていることを示した。
コンクリートが溶解すれば、水は一気に失われ、原子爆弾状態になる(※)。
船長は断を下さない。迷っていると判る。船が脱出した後、原子爆弾が炸裂する。それは許されることなのか。
−逃げて。
多くの声が二人に示唆した。
−私たちが経験した、頭の中に光がキラキラ見える状態と、同じ状態が起きようとしている。
−あなた方の言うように、私たちがその結果死んだのであれば、次はあなた方が死んでしまうことになる。
−私たちと同じ経験を、あなた方が、なさらぬよう。
−この村をこのようにした陰謀が、これ以上発揮されぬよう。
−あなた方の躊躇はわかる。しかし、既に神の元にある我々のために、あなたがたや、より多くの人々が、同じように命を落とすことは我々の本意ではない。
−逃げて。神には我々から祈りを捧げる。
『船長。行きましょう』
セレネが進言した。
『1070ケルビン。限界だ』
シュレーター。
『判った』
アルフォンススは重く、引きずるような声で言った。そして。
『アルゴ発進する。但し条件を付す。後進出力最大、同時に前進出力も発生させ相殺せよ。前進加速度1G設定』
それは前進と後進を同時に指令し、若干前進が勝る程度にせよ、の意。
その意図は。
『光圧で大深度へ掘削する。穴掘って炉を落とせ。地上への影響を極限まで軽減する』
『了解船長!レムリア、穴掘りながらここを脱出する。INSは使用できない。衝撃に備えよ』
「判りました」
シュレーターの注意喚起にレムリアは答え、イヤホンのピンを打った。
「姫。誰と話しているんだ?」
「リフトを動かします。手近のハンドル類につかまって下さい」
レムリアは答えず、昇降ゲートのハンドル、隔壁のロック用レバーなどをメンバーに示した。
各人がそれぞれつかまり、更に手と手を握り合う。
「EFMMはOKです」
『よろしい行け』
『主機関出力漸次増大』
船がぐらぐらと前後に揺れる。前進と後進をかなりの出力で同時に掛けているので、バランスの関係で多少の振動はどうしても生じる。
「姫、地震では」
「いいえ、このリフトが動いているだけ」
『炉の滑落開始確認。炉心温度1200ケルビン。限界近い』
『船体を回転させ炉床を打ち砕け、反応済み燃料を散らせ!』
卵の殻に穴を開け、水底にうずたかく積もっているであろう核ゴミ≠光圧で飛び散らせろ。
核反応は燃料の密度が高い方が促進され、あるレベルを越えると反応が連鎖的になって止まらなくなる。その状態を臨界という。一気に全物質が核反応を起こせば核爆発である。
『船の向きを変える。レムリア……』
船長の声を警報音が遮る。
『異常振動検知……船長、エンジン制御ではないぞ』
シュレーターの冷静な分析、背後の焦燥。
確かに異質の振動が混じる。船の前後バランスによるものは、ある程度のリズムがあり、振幅も一定だが、混じった振動は、ランダムな周期で振幅もギザギザ=B
「姫、今度こそ地震だ。ここは地溝帯の上だからな。たまにあるんだよ」
『地殻変動です。船体を左右から圧迫。断層が動きます』
それはつまり、億トン単位の大地岩盤同士の擾乱。
−神のご加護を。
その言葉は、この船と、このプロジェクトの場合、待つものではなく、自ら実践するもの。
「離脱!離脱して下さい!」
レムリアは思わず叫んだ。
『やむを得ん脱出!シュレーター飛べ!レムリア衝撃注意!』
船の通路が一瞬ヘ≠フ字に曲がり、隔壁が撓って見えたのをレムリアは覚えている。
そして船は動いた。動いたのだが、大地が、地震波が船体を変形させる力の方が、わずかに到達が早かった。
端的には直下型の地震であった。通路にいたレムリアとEFMMメンバーには、大地と船体の加速による振動が同時に加わり、一旦浮き上がって隔壁に叩き付けられたような格好になった。
直前にレムリアは頭から袋を被せられ、強い腕に抱え込まれる。腕はEFMM団長のそれであり、とっさに放射線障害患者搬送用の包袋を自分に被せたのだと知る。
船よ。今我々の全てを託すのは、超絶の構体と光のエンジン。
身動き取れない中、激しい振動を感じる。超感覚が状況をイメージに組み立てて寄越す。
火が駆け上って来るイメージ。
水が流れ込むイメージ。
深く掘られたゴミ穴≠ヘ、大量の水と、核反応の熱を地下の断層へもたらし、大地岩盤間の固着を解放し、地震を生じさせたのであった。20世紀半ば、アメリカで化学兵器工場の廃液によって地震が誘発されたデンバー地震≠ニ同じ現象であった。
水分と熱で大地は泥と化し、震動で安定を失い、地溝帯へと泥流が流れ込む。アルゴ号はその流れに呑まれ、そのままでは地溝帯の深奥で煮たぎるマグマへ引きずり込まれる過程にあった。
光の柱が天へ貫いた。
フォトンチューブを生成すれば、村の人々にも光圧が作用する。アルフォンススはそれを良しとせず、使用を避け、ギリギリまで方策を練っていたようだが。
結局、苦渋の断を経て安定とフォトンチューブシールドを回復し、船は光条の中を地下から空中へ飛び上がった。
ウラン鉱脈をこの地へ露出させた大地溝帯の活動は、陥没クレーターを形成しながら、再びその鉱脈を地下深くへと引き込んで行く。
人類が貪欲な探求心で解放した禁断の力を、大地の女神へ返すが如く。
核施設と……村の人々もろとも。
レムリアは感じている。自分たちが脱出できたことに、村の人たちが喜びと安堵を感じていること。その確認を持って、神の元へと人の世を離れ始めたこと。
ちなみに、放射性物質が地下数十キロとはいえ、大地の中に散乱したことになるが、散乱した故に臨界条件は満たさず、懸念されるような規模の核反応は生じない。それは再び掘り出されない限り、物理の法則通りに、ゆっくりと反応し、減少して行く。目の敵にされる核物質だが、そもそもは自然が生成し、大地に鉱脈を形成し、人類が発見するまでの長い時間をそこで経てきたのだ。それが今また大地に戻り、同じような長い時間をそこで過ごす。
プルトニウム239の半減期、2万4千年。
ウラン235、7億年。
『レムリア。大丈夫ですかレムリア』
セレネの言葉にレムリアはイメージの視界から意識を引き抜く。船の振動は既になく、強靱に抱えていた男の腕の力も弛緩している。袋から顔を出すと、照明された通路が見える。
団長の太い腕の中から這い出し、袋を脱ぎ捨て、仲間達を見回す。
「私は。でも、EFMMのメンバーが」
言いながら素早く面々の腰に装備されたバイタルモニタの液晶画面をチェックする。放射線カウント数増加無し、心拍・脈拍・呼吸とも問題なし。
総勢5名。命に別状はない。恐らくは強い震動に連続的に晒され、失神状態。
自分は、団長の腕と身体がベルトとクッションになり、その状態にまで陥らなかった。
更にINSを用いれば、全員の失神を防げたであろう。使用しなかったのは作用エリアが操舵室と個室のみに限定されているためであり、どうしようもなかったのだが、この結果は、それでは不十分であることを意味した。なお、INS作動中は大扉は開かない。その向こうで操舵室が高速回転している。
「出来れば病院へ」
レムリアは言った。
『了解した。船内センサに反応はないが、メンバーに放射線障害の兆候はないか?』
アルフォンススの言葉にギョッとする。
「……あ、はい。失神はしていますが、放射線による意識障害とは考えにくいと思います。下痢や出血、皮膚の異常も認められませんが、これ以上は経過観察の領域に入ります。ただ、私の手の内では」
知っているのはむしろこの目の前の面々である。
すると。
「我々の病院探しか、プリンセス」
団長が細く目を開けた。
「あ、はい」
「本部を経由して……」
核事故の契約病院は日本にある、と団長は言った。
日本。
EFMMの主旨から、救助活動で訪れたことがないのは前述の通りである。
「不思議そうだな。行ったことは確かにないからな。だが経験は最も豊富だ……」
団長はそこで再び意識を失った。
「日本だそうです」
『原爆か』
アルフォンススの言葉にレムリアは思い出す。ヒロシマ・ナガサキ。世界で最も平和な国と言って良いだろう日本。唯一、核兵器の攻撃を受けた国。
「向かって下さい。私の方でアポイントを取らせます」
【※についての解説】
一般の発電・商用原子炉の水が抜けることにより発生する「高温」は、核分裂で生じる熱を吸収する物質がなくなるためであって、核分裂反応が暴走的に生ずる原子爆弾とは本来的には異なる。実際には炉の水が抜けると、核分裂反応の引き金となる「中性子」は、高速で飛び去ってしまい、むしろ核反応は減衰する。従って、原子力発電所の事故は「原爆化」するわけではない。
また、実在した天然炉(億年単位の太古)では、鉱脈への地下水の流入→中性子の適度な減速による連続核反応→核反応熱による水の蒸発→核反応の停止→再度の地下水の流入というプロセスを数回繰り返したと考えられている。
にも関わらずシュレーターより「水が抜けて原爆」という表現が出てきたのは、直感的な理解のしやすさのみならず、排水によって核廃棄物が炉の底部排水孔に高密度に集積し、不完全な原爆を生成する可能性を含んだためと考えられる。
16
日本時間では夜に当たる。
日本の病院との契約は、アドバイザリーとして、のようであった。インターネットテレビ会議システムで連結し、リアルタイムに情報をやりとりしながら診察、治療を行うというものだ。
考えてみれば当たり前だとレムリアは納得した。放射線障害の治療は一刻を争う。どんなに速い飛行機を使っても、都度日本まで飛んで行く時間は無い。
目を開けたEFMM団長に、当該病院のベッドの上だと話したら、当然、その目は円くなった。
「1万キロは優にあるんじゃないのか?あれから何時間経った?時差があるから……24時間か」
病室の時計を見て団長が呟く。実際には15分であるが、レムリアは何も言わなかった。
「つくづく、不思議な姫だ」
団長は円くなった青い目を細めた。レムリアはゆっくりまばたきを返した。現在メンバーはめいめいベッドに横たわり、血球数の変化を常時観測する大がかりな装置に取り囲まれている。但し、放射性物質の残留は検出されなかったため、一般病室であり、レムリアもベッドサイドのイスの上。
「最も、私の見立ても間違っていなかったと自画自賛していいかな?追い込まれて浮かんだ存在は姫だった。姫ならひょっとしてと思ったのは確かだからな。何せ貴女が携わった子どもは皆回復してしまうからな。貴女には特別な能力があるのではないか……エビデンスは何もないがな。ただ一つ事実は貴女の存在によって我々オトナも助かったということだ。あのリフトはどこから持ってきたとか……まぁ、訊くだけ野暮だな。姫よ貴女は奇蹟を呼んだ。いや貴女自身が奇蹟なのかも知れない。ミラクル・プリンセス」
「え……」
はっ、とする。身体がびくりと震えて一瞬熱くなる。
ミラクル。奇蹟。
それはアルゴプロジェクトが標榜していること。
寄り添う車輪。太陽と月。
このシンクロニシティ。
「ふふ、その表情は初めて告白された少女みたいだがな。オレ達の誰も異論はないだろうよ。ところで、村はどうなったんだ?」
「証拠隠滅のため……」
言葉を濁すがこれで通じるであろう。
「何か報道は?」
「判りません。その後何もメディアを見ていないので」
「そうか」
ノックがあり、病室の入り口に人影。白髪混じりで顎髭の男性医師。
「サムエルソン、生で貴殿に会えるとは思わなかったよ」
ジャパニーズ・イングリッシュという言葉を聞いたことがあるが、そうとは思われない歯切れの良い英語で、男性医師は言った。
「ドクター・ナカムラ。初対面だが初めてじゃないな。不思議な気持ちだ」
「こちらもだ。しかも放射線障害の患者で来院とはな、このお嬢さんが『病院の上です』何かの冗談かと思ったね」
日本人医師、中村は笑みを見せ、検査装置の数値を見た。
「今のところリンパ球減少などは見られない。しかしどこの事故に巻き込まれたんだい。核事故ならニュースにもなるはずだが……」
中村医師は、団長サムエルソンのベッド脇から、テレビのリモコンを取り出し、ベッドサイドのテレビに向けた。
画面と音が出る。ニュース・ショーだとレムリアは理解した。
そして次の瞬間、思わず椅子から立ち上がった。
後ろ姿の女の子。画面下にテロッププライバシー保護のため音声は変えてあります=B
「どうしたね?」
「彼女、ちあり・いぬかい……」
「よく知ってるなぁお嬢さん……神隠しか誘拐かってな」
「kidnap……」
誘拐を意味する単語、kidnappingの途中でレムリアは口ごもった。
恐怖に似た感情を覚える。なぜなら、誘拐という見方は正しいのだが、状況から嫌疑は流星を観測していたあの青年に掛かるからだ。
テレビの声に耳を凝らす。『良く覚えていません。空を飛ぶ船に乗って、天使の声が聞こえていました』
少女は薬物で常時微睡んでいたのだ。それを強調したいために、テレビはこのセリフを取り上げた。レムリアは気が付いた。ただ、ニュースの曰く、青年の名前は明らかにされておらず、事情を聴取している、とあるのみ。
それは犯人扱いの意味ではない。言い換えると、まだ捕まっていない。
恐怖が身体を震わせる。
自分が、罪を、着せた可能性。
「彼女……大丈夫か。顔色が悪いぞ」
「いえ。あの、ドクター・中村。後をお任せしてもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろん。次の任務かね?」
「ええはい。ではわたくしはこれで」
「忙しいな。変化があればEFMMにメールするよ」
「ありがとうございます。すいません」
挨拶も早々に病室を後にし、階段を駆け上がる。目指すのは病院屋上、ドクター・ヘリ用のへリポート。但しもちろん、そこに下ろしたのは、ヘリを装った船。
コンクリート打ちっ放しの階段ホールに響く自分の足音。照明が少なく薄暗いが、心の中は尚のこと暗い。恐怖をトリガとする悪い予感が発生し、前線の雷雲のように沸き上がり発達し、心の中をどす黒く占拠して行く。
〈どうしましたレムリア〉
予感を知ったか、セレネがテレパシーで訊いてきた。
その質問の答えは、言葉で用意する必要はない。
〈判りました。探しに行きましょう〉
耳に仕込んだ無線機から、雑音混じりに声が聞こえる。船長……あの青年……誘拐の嫌疑……。
緊急事態であれば当船に保護を。
鉄扉を開けて屋上へ出る。薄着を突き刺す寒さと、ビル風に舞う白いもの。
雪。
傷だらけの映画フィルムのような光景の中、装う必要のなくなった船は、リフレクション・プレートを開いて発進待機状態。
昇降口スロープ先端にはセレネの姿。寒いのに。
「すぐ出ます」
「すいません。私が一人で行けば良いのでしょうが……」
精神と肉体のダブルの寒さに、レムリアは羽織ったカーディガンの前を合わせる。生来基礎代謝が旺盛なのか寒さは余り感じないが、今回ばかりは胴震い。
「気にしないで。私たちの活動で誰かが罪を着るようなことがあってはなりません」
僅かな距離ではあったが、昇降口でセレネは自らのヴェールを広げ、風雪を避けてレムリアを迎えた。
「船長、行けます」
二人が船内通路を移動中に船が起動する。ビームが雪の中を刺し貫いて一閃し、光チューブが形成される。
「データベース照合を実施」
レムリアが操舵室に入って最初に聞いたのは、そんな言葉。
大画面に映っているのは、寝袋の彼を上空から捉えた、あの日の画像であった。船のデータベースから呼び出したのであろう。
「男性と認識された場合は取得して比較せよ。テレパス。彼の意識波を確認できるか」
アルフォンススが指示を出す。言葉尻からデータベース照合とは、彼の写真と街行く人の顔を照らし合わせるということのようだ。
しかし、東京の人口、一千万。
「西へ……」
レムリアは自動的にまず言い、それが超能力的直感であって、しかし正解であると後から判じた。
彼は西にいる……東京多摩地区であるから、彼女の認識は間違っていない。
「船を差し向けていただいて構いません。先日と近い場所にいると思われます」
セレネが丁寧に指定した。不思議な認識が生じる。彼我の距離はテレパシー能力の限界を遥かに超える。しかし、確実に彼はそこにいる。
その認識はセレネも同じようだ。能力の限界以上だが間違いない。
テレパシーって複数人で同じものを追跡すると感度が上がるのか。
「電波望遠鏡のようですね」
セレネは小さく微笑み、パラボラ・アンテナのイメージを送って寄越した。
二人でイメージのパラボラを西へ向ける。
パラボラを向けた先へ舵が取られる。船が西進し、PSC作動の文字が出る。自動操舵モード。
雪は本降りとなって来た。都心に比して気温の低い多摩地区に進行したこともあり、正面スクリーンは一面の白。
「SAR」
「はい」
指示を得てレムリアは画面をレーダ探査によるコンピュータグラフィックスに変える。
「座標一致。両舷停止」
シュレーターの言葉の意味。先日と同じ場所に到着、船を空中で停止。
テレパシーが捉えたのは、痛み。
次いで船のレーダが人体反応。赤外線で得た発熱体の形状を人体と解析。
感じた痛みは心の痛み。……彼であった。
テレパシーの反応が船に送られ、赤外線の反応位置と一致することが確かめられた。
彼は、雪の中で思考停止状態。放心。
強い精神的ショックが彼を捉えていることは間違いなかった。
レムリアは走り出した。
「おいおい待ってくれ。……ちっ。吹雪になるな」
シュレーターが慌てて降下処置を行おうとし、空気圧を作動させようとして、操作を中止した。降下の暴風は吹雪を作り出す。
「レムリア30秒待て。セイル展帆」
船は帆を広げ、更にその帆を水平に寝かせた。
帆は翼となり、動力を切った船は上空から滑空降下した。
レムリアはスロープが出るより早く雪原へ飛び降りる。
17
「おや天使さん」
レムリアの姿を見るなり、青年相原学は言った。
寝間着にはんてんで雪の中に突っ立っている。傘を差しているわけではなく、その全身は濡れそぼり、頭髪には雪が付き、額の前で氷柱をなし。
唇は青紫。動いていなければまるでオブジェである。
「遂にオレも天国へ行けたかな?」
「違う……あの……」
甚大なショックをレムリアは感じていた。この青年の言動は常軌を逸している。
そこへ追い込んだのは、恐らく自分。
自分が、誰かに、迷惑を掛けた。
「君の方が風邪を引くぜ」
雪積もる草原を歩く足音がザッザと乱れ聞こえ、レムリアの両脇を大男二人が相原へ向かう。
「へへ。同じ人間が二人見えるぜ」
大男達は何も言わず、相原学を抱え上げた。
「船に運ぶぞ」
当船に保護
「あ、はい」
「何する〜おお、雪って不味いなぁ」
船のベッドに横たえた時には、相原学の意識はなかった。
異常な言動の一因は低体温による意識障害と思われた。すぐにベッドの内蔵ヒータを起動し、加温パッドを両脇と腿裏にセットする。
『彼に何が?』
セレネが訊いてきた。異常な言動の主たる要因。
それは、強く彼の意識に刻まれ、エンドレステープのように、壊れたオーディオディスクのように、際限ないかの如くフラッシュバックを繰り返していた。記憶の強烈さの故に、テレパシー能力を駆使するまでもなく、勝手に意識に飛び込んできた。
件の出来事で誤解を招き、失恋したのであった。
−ロリコン、うそつき。
彼の心は粉々に破壊されていた。雪の冷たさ、痛さ、痺れて感覚を失って行く己れの身体が心地良いというのだ。自傷行為と言って良かった。
自殺しようとは思わない。その代わり死んでも構わない。
自分を喪失した状態。
生きているという自覚がないから、死のうという思慮も沸かない。
「失恋って、ここまで、ひどく傷付くものなのでしょうか」
ベッドサイドに居並ぶ偉丈夫のどちらともなく、レムリアは訊いた。
端的に彼らは強靱な体躯に眉目秀麗。言動も面白い。仮に交際相手として嫌いになる要素は見られず、質問相手として適切かは確信が持てないが。
「本気なら、あり得るだろう。突如力任せに引きはがされるわけだ。強いほど深く、広く根を張っている。それを一度に、根こそぎどころか周りの土ごと失う。そんなんで判るか」
レムリアは頷いた。彼は若木の根になぞらえたが、それは人体に置き換えれば、当然、深傷。
「私は……ひどいことを……」
「天使さんよぉ……」
相原の声は、さながら夢見人。日本語であっても、イントネーションが携えた雰囲気でそれと判った。
「気にするな。事実は君が知ってるんだ……それでいい」
そのセリフは、相原に自分たちの英語の会話が伝わっていることを意味したが、レムリアはその重大性にこの時点では気付いていなかった。
「でも」
背後でノックがあり、船長があった。
「せんちょ……」
「君のせいではないし、君にはどうにもできない」
アルフォンススは殺伐と言うに相応しいイントネーションでただ事実のみを述べ、手にした冊子をレムリアに手渡した。
Starship Argo. System and control manual.
「これは……」
「本船の説明書だ。この青年は工学系の学生だ。読んで聞かせてやれ」
失恋の対処が宇宙船の説明書。
「いいかも知れないな」
アリスタルコス。
「ああ、飛ばしてやれ」
ラングレヌスも同意らしい。レムリアには奇異で意図不明に感じるだけだが、彼らが言うからには、それが男のやり方、なのだろう。
恋という遺伝子的、プリミティブな情動と対極に位置する最先端人工技術の塊。癒しとは程遠い気もするが。
「ちゃんと訳してな。日本語の実技だ」
「はい。えー、目次。緒言、本船の概要、外観寸法、内部構成、動力システム、航法システム、防御・ステルス、操舵インタフェース、ローカルSCADA(すきゃだ)……」
読み上げるうち、相原の表情は穏和に変わっていった。
どうやらマニュアルの文言だけで、どんな船かが想像できるようなのだ。テレパシーに飛び込んでくるので判ってしまう、のだが、応じて出来たイメージの船を夢うつつで飛ばしている。
つらいフラッシュバックの代わりに。大音量の音楽にフラッシュバックを邪魔させるのと同じように。
レムリアは納得し、読み続けた。その内容は作中にて殆ど紹介したので省略するが、救助支援機器……銃として、プラズマガンも搭載していると追記しておく。要するに電気化学的に火の玉を生成して高速で放射するものだ。これら4種の銃器の主用途は、ビームによる穿孔∞切断=B弾丸による粉砕∞破壊=Bそして火の玉による溶解∞焼却=Bアルフォンススの専用機FELによる光の弾幕′`成となる。船自体に砲火・大火器の類は搭載していない。
なお、SCADAとは、Supervisory Control And Data Acquisitionという産業用のプラント制御の仕組みを指す専門用語で、同じ概念でこの船の制御系も組まれている。これは、多くの自動制御系と、それらを束ねて指示を出す脳に当たる部分を持ち、更にそこから人間が介入できる。
「それで?……」
メンテナンスのページまで来たところで、寝言のように相原学は言った。
仰向けになり、目を閉じたまま。
「え?」
「この船に乗って、君は何をしてるんだい天使さん」
『構わん』
アルフォンススが一言。
すなわち、話しても良い。
そしてそれは、この間感じた認識を呼び起こす。
相原の存在が大きくなりそう。
「奇蹟の天使を手助けするために」
地球を巡って降りた話を、レムリアは語って聞かせた。
相原学は都度都度で、一言二言感想を挟んだ。
「奇蹟を起こして人助けか。いいな、そういうの。話のネタにしていいかい?」
「え?」
「物語にまとめてみたい」
その言葉で、レムリアは彼の彼女≠ェ、少なくとも彼の本質を見抜いてはいなかった、と直感した。
失恋ショックによる退行現象も多少は含まれているかも知れぬ。ここにいるのは「正義でありたい」という男の子普遍的な憧れを抱いたままの、割れ砕けた水晶のゲシュタルト。
恐らく現時点、彼の心理は自分より幼い。子どもの心がピュアというなら、大人の心はその外側に色々と積もった状態。しかし今ここで見えている心は、恐らく。
自分の、小さいけど自分の手のひらで包み、すくい上げたい。この、ぐらりと動揺するほどの衝動は、何。
「難しい言葉知ってるな」
「え!」
レムリアは思わず大きな声を出した。ゲシュタルト、のことであろうが、口に出したわけではない。
心に浮かべただけ。彼にテレパシーがあるようには感じないが。
〈眠りましたよ〉
セレネからメッセージがあり、そして教えてくれる。夢という意識だけの時間へ遷移する過程で、自分と彼とが超常的な意思疎通を行った瞬間があったのだと。だからこそ、言語の壁も存在しなかったと。
そして、その瞬間の存在は、予知夢や既視感が生じる要因でもある。
18
携帯電話のバイブレーション。
レムリアではない。相原学のはんてん袖の中。
振動のせいか転がり出てきて床に落ちる。衝撃で折りたたまれた画面が開き、着信表示。
ちありちゃん
無論、いぬかいちありちゃんのことであろう。電話越しのテレパシーは自信がないが、強い心配を寄せられているとハッキリ感じる。ちありちゃんは相原学を心配している。
レムリアは思わず、電話を拾った。
受話器の絵のあるボタンを押して、受信。
『あの……』
ちありちゃんは電話の相手が違うことに気付いたようである。
「(月よ我が身に我が思う映し身を)」
レムリアは返事の代わりに、あの日の呪文を口にした。
ハッと息を呑む気配。
『天使さん……』
ちありちゃんは、しかしすぐにそう応じた。
テレビインタビューの通り、その辺りは憶えているらしい。例えば睡眠導入剤もそうだが、薬物による記憶障害は、体内濃度によっては途切れ途切れ≠フモードがある。そして勿論、印象に強い現象ほど、薬の作用を越えて記憶されやすい。
「具合は如何?ひどいことされたんだから、急いで元に戻ろうとしなくてもいいよ」
寝しなの子どもに囁くように、レムリアは言った。
恐怖と絶望の中を彷徨ったのだ。簡単に復古するほど心の傷は軽くはあるまい。
『ああ、やっぱり、天使さんだ』
ちありちゃんはまず涙声でそう言い。
『私のことをあなたは知ってる。ああ、やっぱり天使さん本当にいたんだよね。そうだよね。テレビが……』
少し明るい声。しかし、続いた言葉は沈んだ声。
揺れ動く感情の大きさは、心が落ち着きどころに戻っていない証。
「ゆっくりでいいよ。あなたの話を聞きたい」
一息おいてのちありちゃんの説明によれば、テレビの報道は彼女の意に反しており、まるで相原学が誘拐したような物言いになっているという。それで相原が逮捕されたのではないかと心配になって電話した、との由。電話番号は、相原学自身が、何かあった時にはと、ちありちゃんの両親に教えていたもの。
公明正大だからこそできること。いやむしろ当事者の当然の配慮。
『私、ちゃんと他の子ども達と一緒だったとか、日本に連れてきてもらってあの男の人に預けられたとか、ちゃんと話したのに……』
放送では全てカット。
『お願い天使さん。あの時の天使さんなら私の願いをかなえて。あの人に掛かった疑いを……』
「もちろん。心配しないで。2〜3日のうちに騒動は収まるでしょう。約束します」
レムリアは堂々とした口調で、今だけは天使の気分で即答した。
自信を持って言える理由は、自分は国家権力と直結だから。
『よかった……』
携帯電話を頬に当てたまま、床にぺたんと座り込むイメージが浮かぶ。
「天使の権限で。ところで、私はあなた自身が心配なのだけれど、大丈夫なの?」
レムリアの問いに、ちありちゃんは、夜が怖くて眠れないと答えた。
今夜も然りと。
ならば。
「行きましょうか。あなたのもとへ」
『えっ……』
ちありちゃんが絶句する間に、操舵室からイヤホンへ探知済みの由。サイタマ・プリフェクチュア。現在地より50キロ。山地の裾野で、この雪はより深く、より強く。
相原の電話のマイク部を指で塞ぐ。
「急行願います」
これで操舵室には話が伝わり、ピン、と音が返る。このピン音は注意喚起に用いられるが、今の場合了解という操舵室の応答である。マニュアルを読み聞かせたせいか、自分自身、この船で何が出来て、クルーが何を考えているか大体把握した。
船が飛ぶ。
「電話は切らなくていいから」
『うん』
不思議に思う気持ちが伝わって来る。その間に体調を尋ねる。体温に食欲の有無。
船が止まる。
上空で静止。ちありちゃんのお宅は(レムリアの認識を日本的に表現すれば)平屋建てで庭先が田んぼ。
今はそこが一面銀世界。
イヤホンに声「降下する」。
今度はレムリアがイヤホンに指で触れ、ピン音を返すと、船は直ちに雪原へ高度を下げた。暴風は出せないが、深夜であり、周辺環境から見られる心配はまず無いので、セイルで滑空、軟着陸。
「お庭にワンちゃんがいますね。名前はビクター。白くて耳にブチがある。彼が吠えますよ」
果たして、医療室モニターには吠える犬の姿と、携帯電話の向こうから吠え声。
『うそ……』
「庭先にお邪魔しました」
『えっ。えっ!?』
「出てみて下さい。私がいます」
電話を閉じる。少し変なセリフ。
「光学シールドオフ。スロープを下ろして下さい」
イヤホンに音が返り、レムリアは舷側通路を通って、スロープより雪原へ降り立つ。
Tシャツにショートパンツという姿の自分。
寒くはない。
気取る必要もない。
対し、パジャマにオーバーコートを羽織った姿で、縁側から降りてきた女の子。
あの日、目の前で倒れた女の子は、やせ細って骨張っていた。
少しの時を隔てて再会した彼女は今、豊かな国の子どもとして相応の外見に回復し、髪も少し伸びた。
レムリアは笑みを作った。儀礼的なものではなく、彼女の快復に安堵して。
「天国の船」
女の子は視界を奪う異様な存在を見上げ、まずそう言った。
それから、ゆっくりと、スロープ下端に立つレムリアに目を向けた。
「眠れない夜は空の散歩が一番。お迎えに上がりました、いぬかいちありさん。よろしかったらどうぞご乗船を」
手を差し伸べる。舞踏会に隣国の姫君をお迎えする王女の作法で。
「天使さん。ああ、本当に天使さん……」
ちありちゃんは、さながら磁石に引かれるように、雪原を歩き、レムリアに手を伸ばす。
「元気になって良かった」
伸ばされた手を迎え、包む。
「ビクター。彼女を一晩誘拐してもいい?」
レムリアはちありちゃんを抱き寄せながら、犬小屋わきのぶち犬に尋ね、ウィンクした。
腕の中でちありちゃんが目を見開き、振り返って犬を見つめる。
魔女に黒猫、のみならず、動物の意思掌握は難ではない。機序としてはテレパシーの能力の一種と思われる。血脈がもたらす人間以外への対象拡大であろう。明確に言語として知覚されない点が、対人間型生命と異なるが、何を考えているかは判る。
「……吠えない。ビクターが知らない人に吠えないって」
「あなたの瞳がキラキラしているのを久々に見た。彼はふさぎ込むあなたが心配だった。あなたを傷つける者が来たら守ろうとしていた。守護者としての狼の遺伝子を呼び覚まされた」
レムリアが彼≠フ気持ちを代弁すると、当の彼≠ヘ尻尾を振った。
「だから、留守は任せな」
本当はレムリア自身が照れるようなことを彼は思ったのであったが、レムリアはこう翻訳≠オた。
すると、ちありちゃんは納得したようにビクターからレムリアに向き直った。
「連れてって。空の散歩」
以下、レムリアが操舵室へ飛ばした指示を、逐一書き出すのは野暮というもの。
「舵はお任せします」
スロープを登り、通路を歩き、扉を開け階段を上がり、
甲板へ。
ふたり、夜空の散歩。
船が浮き上がり、緩やかに加速しながら上昇し、厚い雪雲を突き抜けてその上、
雲の海原は、月明かりの中。
少女二人を甲板に乗せて、船は天空を行く。
大きくカーブを描き、月の姿を左舷に見、針路は欧州。
但しこれにはレムリアの意図がある。
ちありちゃんが言う。
「この感じ憶えてる気がする。どこかで見たような……こういう気持ち何て言うんだっけ」
「デジャヴのこと?」
緩やかな気流に短い髪を任せて、レムリアは言った。
「そうそれ」
「違うよ。あなたの実際の記憶」
レムリアはまず言った。それは悲しいことですごいこと。先にも書いたが不明瞭なのはモルヒネの影響。
それでも憶えているのは、それほどの強い印象。
「少し飛ばすよ」
シュレーターの舵で船は加速し、応じて出力を増した光圧シールドの金色の光が船体を淡く包み、二人の周囲を数多の光子が舞い踊る。
そして。
舷側のロープにもたれ、レムリアは星の世界を見上げた。
地球の自転速度を遥かに上回る速度で航行するということ。
応じた速度で星空が巡ること。
シールドの光周波数を変更すれば、金色の光は無色に出来る。雲より上にあって人工光の影響は皆無となる。
従って。
「うわ……」
ちありちゃんが有様に気付いて絶句する。プラネタリウムの場面転換よろしく、冬の銀河を擁した星空が目に見えて天を巡る。白く煙る星の川がコーヒーのミルクのように大天蓋をたゆたい動く。
自分が動いていると言うより、数多の光点を張り付けた天球が回るが如し。ガリレオの発想はなるほど驚天動地であったと妙に納得。
更に。
「あれ?もう朝?」
「違うよ。沈んだはずの太陽を追いかけて追いついた」
漆黒の夜空が下方より青みを取り戻し、夕焼けとの間にグラデーションを描き、西から太陽が顔を出し、天高くへと昇って昼になる。
「魔法みたい」
ちありちゃんが感想を述べると、着ていたパジャマが姿を変えた。
「あ、あれ?」
パールシルバーのフリルが煌めくワンピース。
レムリアが知る日本の女の子の服は、キモノか、変身して悪と戦うアニメのヒロイン。
選んだのは後者。変身≠ネら月明かりが必要だが、この程度なら手品の範疇。
「これ……ああ、『ヴァルキューレ』か」
「あなたの無事を孤児院のシスター達に見せてあげたいんだ。……で、そこの子ども達にその番組人気でね」
レムリアはウィンクした。フランスを中心に、日本のアニメは知名度が高い。
「透過シールド作動」
船は青空で姿を隠し、アムステルダムへ降下して行く。
19
白昼、歩行者天国になった運河沿いのレンガ道。
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| 読者様より生写真ご提供m(__)m
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楽器を片手のミュージシャン、ジャグリングで拍手を浴びるパフォーマー。
混じって歩いて行くのは、とんがり帽子にホウキをかついだ魔法少女と、変身アニメのコスプレ少女。
高校(ギムナジウム)の生徒くらいとおぼしき男の子が声を掛けてくるが、レムリアは軽くあしらう。
「今のお兄さんはなんて?」
「彼女達カワイイね付き合わない?要するにガールハント」
「え?じゃぁ私たち今ナンパされたわけ?」
「その通り。まんざらじゃないってことでしょ」
ウィンクして教えたら、ちありちゃんはくすぐったそうに身をよじって。
「コスプレにナンパ。秋葉原みたい」
「アキハバラ……」
レムリアが思わずちありちゃんを見ると、ちありちゃんは驚いた様子。
「秋葉原知ってるの?」
「テレビで見たことあるよ。メイドさんがコンピュータの部品売ってるんでしょ?へぇ〜こんな感じなんだ」
レムリアの認識にちありちゃんは苦笑。
「ちょっと違うけど……まぁそんな感じ。最近は執事もいるんだよ」
「へえーっ!」
レムリアの誤解が解けるのは随分先の話である。
公園を横切り、教会脇の孤児院へ。怪しい姿のはずだが、かえって溶け込む不思議。
エントランスでドアベルを鳴らすと、シスターの声で応答。
「すぐ行きますからどうぞお入り下さいな」
……教会という性質上、来る者は拒まず、なのだろうが、レムリアとしてはもう少しセキュリティレベルを上げた方がいいのではと正直思う。アムステルダムは良くも悪くも自由な、自由すぎる都市だからだ。ちありちゃんを連れてきたのも昼だと判っているから。
テレパシーを持つ自分ですら、日が暮れた裏路地は怖い。
ドアを開けて顔を見せる。丁度シスターが現れ、オウ!と、目と口をアルファベットのo≠フ形に小さく開く。
「(あなたはあの時の)」
通訳の部分は略す。
「お世話になったそうで」
ちありちゃんは頭を下げた。
レムリアが日本のお辞儀≠フ意味とタイミングを知ったのはこの時である。
この動作は日本においては謝意を表すと、レムリアはシスターに説明した。
「日本からわざわざ?」
シスターはその事実に気付いて更に目と口を開いた。
「誘拐してきました」
レムリアはウィンクして付け加えた。
「あらあらまぁまぁどうしましょう。日本、フジヤマ、アキハバラ、キョウト、お茶。そうよお茶をお出ししなきゃ。遠い遠いところいらしたんですもの」
来客が遠すぎて類推が及ばないせいか、悩ましく右往左往するシスターの向こうを、男の子がひとり、通りがかる。
「あ、『ヴァルキューレシルバー』」
その子はすぐにちありちゃんのコスプレに気付いたようだ。指さして声を上げる。
そのまま、周囲に叫びながら、来た道を取って返す。みんな来いよヴァルキューレがいるぞ……
「さて、見つかっちゃったよ。どうする?」
レムリアはいたずら少女の瞳でちありちゃんに言った。こういう場合レムリアとしてはやることは一つ。
「え?えっ!」
何事かと戸惑い目を見開くちありちゃん。二人のやりとりにシスターは一歩下がって微笑。
これから何が始まるか、予想が付いているのだ。
正義の味方ヴァルキューレが日本から見参。第一発見者≠フ子は孤児院中を触れて回り、恐らく孤児院の子ども達が全部集まった。
頃合いである。レムリアはドラキュラ用の付けキバを口にくわえ、シスターの背後に回り、人質よろしく抱きかかえて広い場所へ。
「へっへっへ。シスターは我ら魔族が預かった」
レムリアはちありちゃんにウィンクして見せた。
日本語「活躍してね」。
即席の正義の味方ショータイム。ちありちゃんも了解したようで、頷いてウィンクを返した「やっつけるわよ」。
「あ〜みんな助けて〜」
シスターも心得ている。
すると。
「あれ?ヴァルキューレゴールドは?」
子どものひとりが指摘した。
正義の味方ヴァルキューレはゴールドとシルバーの女の子コンビである。
「シルバーだけ?」
「ねぇ、ゴールドは」
「予算の都合で私だけなんだ。オランダは遠いねえ」
ちありちゃんがアドリブを利かせる。
「そのかわり、みんながゴールドになってくれたら」
「よーし。オレ達でシスターを助けるぞ!」
子ども達が寄ってたかって魔女を襲撃。
放っておけば、特に男の子は本気で殴りかかってくるので。
魔女としてはシスターを残して逃げ出す。この後アニメでは派手な立ち回りになり、敵が一発逆転を狙ったところで必殺技炸裂、がパターン。
「逃がすか魔族!闇の手先は闇へ帰れ!」
ちありちゃんパターン通りに動いて決めポーズ。魔族レムリアを追う一方、男の子達がシスターの身の安全を確保。
必殺ビームを喰らって爆発するわけにも行かないので、可愛くて勇敢な追っ手が中庭にみんな集まったところで種明かし。
「あ〜参った。これで勘弁してくれ〜」
魔女のとんがり帽子を脱ぎ、くるりと裏返すとお菓子山盛り。
キバも外す。
「あ、魔法とお菓子のお姉ちゃんだ」
「なーんだ。え?」
正体のバレたレムリアに対して、俄然注目が集まるちありちゃん。
「こっちのお姉ちゃんは?」
「でも、ヴァルキューレはマンガだぞ」
理性的な分析有り。
すると。
「このお姉さんは、当院に一度来たことがあるのです。元気になりました、と私たちにご挨拶に来てくれたんですよ」
シスターが種明かし。
「なーんだ」
その時。
「お姉ちゃん、ママの所へ帰れたの?」
その場が静まりかえる。過冷却の水が、軽い衝撃でさぁっと一気に凍りつき、結晶が走る有様に似て。
ちありちゃんは突然の変化にハッと驚き、戸惑いからか、目を泳がせた。次いで、幼くストレートな質問の翻訳を聞き、静まりかえった意味を知ったせいであろう、顔色を変えた。
ここは孤児院である。
ママ、母親という言葉の重さ。
「うん」
ちありちゃんは慎重と言える間合いを持って頷き、ゆっくりと、まばたきしながら少し考え、そして。
再び目を開いたその姿に、今度はレムリアが衝撃を覚えた。この149センチの身体がビシッと音を立てたかと思うほど。
ちありちゃんの、黒く輝く双眸と、その身の周りに放たれる光。
満ちあふれて包む光。
オーラライト(霊光・後光)が自分の能力で視覚化されているのだ、ということはすぐに判った。自分の能力上、それは見えても不思議ではない。
ただ、実際見たのは初めてである。超感覚は言う。今、この目の前の日本の少女には、降臨と称するに等しい、強い何かが宿った。入り込んだ。
いや、それは正確な表現ではない。
たまに聞く、奇跡体験を経た人の人格変化なのだとレムリアは気付いた。生死の境目から帰還した、など、形而上を感じた人が覚醒≠キるという現象だ。
「ああ、神様……」
シスターも同様な変化を感じ取ったと思われる。ため息のように声を漏らし、両の手で口元を覆う。
その目に、光の粒がきらり。
「大丈夫、だよ」
輝きを背負った少女はまず言った。
「思うんだ。私がこの魔法のお姉ちゃんに見つけてもらえて、そう、家に帰れたのは、ちゃんと神様は見て下さっていると、みんなに伝えるためだって。だって奇蹟にしか思えないから。陸も見えない海の上で、このお姉ちゃんに見つけてもらえたなんて」
ちありちゃんの言葉を、レムリアは慎重に訳した。
ただ、既に日本語の段階で、彼女の言葉は子ども達に伝わっているように思われた。
「お母さんにも言われたんだ。そういう経験をしたからには、その経験を伝えなさい。その経験を生かしなさい。
そして、次は自分の力で、そういう経験が必要な人に届けなさいって」
レムリアは彼女の言葉を置き換えながら、自分の母親の言葉を思い出した。
この魔法は、自分だけの特別な力は、自分にしかできないことをするため。
期せずして、シスターと目を合わせていることに気付く。
「私は家に帰ることが出来た。それは幸せなこと。そしてきっと、みんなにも同じくらいの幸せが待ってる。自信を持って言えるよ」
「すぐ幸せになりたい」
小さくて真剣な声。レムリアは声の主と、ちありちゃんを交互に見る。それは自分自身、どんな答えを用意しようかと悩むものであったが。
「私と友達になるんじゃ、だめ?地球の裏にお友達がいる子なんて、世界中探しても簡単には見つからないと思うよ」
間髪入れず、ちありちゃんはそう言った。
その言葉にレムリアは舌を巻いた。そして、心理学にいう代償行為の提供だと気付くと共に、そんな分析をしている自分をちょっといやだと思った。
シスターが微笑みながら何度も頷く。ちありちゃんの言葉はキリスト教の概念に合致する内容を含むが、レムリアの知る限り日本はキリスト教国ではなく、それ以前に、無宗教に近いと認識している。道徳的概念を宗教の戒律で根拠化する必要がないからだ、と、どこかで聞いた。
「すばらしいお母様だと思いますわ」
シスターがそっと言った。
「恐縮です。どこかの受け売りだと思うんですけどね」
ちありちゃんは苦笑い。
「いいえ。きっと、神様がお気持ちをあなたに託されたのでしょう。えーと、わたくしもあなたのお友達になってよろしいかしら?」
「あ、シスターずるい」
「私が一番になるっ」
「こらこら、みんな一緒だから。一番も最後もないのよ。お友達カードを作って交換しましょう」
そして、ちありちゃんが手にしたお友達カード……クレヨン書きの名刺≠P2枚。
欧州の早い日暮れで真っ暗になる。総出で見送られて孤児院を辞する。引き留められたが、ちありちゃんは本来寝ている時間だ。いい加減に家に帰さないとならない。
「日本時間だと?」
「午前2時」
ちありちゃんは「わお」と目を円くして。
「夢?」
「あなたが目覚めた時、そのカードが残っているかどうか、じゃないかな?」
レムリアはウィンク。
「また、あの船で飛んで行くの?」
「ええ、数分」
運河の堤防を離れた船は、夕闇の一瞬を突き、人々の視界をくぐって天空へ躍り上がる。
星の宝石箱を進むこと少々。
時を数えれば夜明けの方が近い時刻。雪雲の去った星空は、先んじて春の様相を呈し、されど大地は一面の白銀。
そこに船は影を落とし、少し雪煙を立てて降下した。構体が大地に接すれば音を立てようが、積雪は音を吸収する。
ビクターが尻尾を振ってこちらを見ている。命に応じて吠えはしない。主人の帰宅に、主人の変化に、嬉しくて声に出したいのをじっと我慢している。
レムリアは少女の着衣を元に戻し、彼女を下ろした。
「行っちゃうの?」
少し寂しげ。眠れない≠ニいう日常へ戻る事への、不安と怖さ。
「今は、ね。でも大丈夫。何かあったらまたこうして飛んでくる。私にはあなたの心の危機が判る」
レムリアは断言した。それは半分本当で半分嘘である。1万キロテレパシー使えるとは思わない。ただ胸騒ぎ≠ヘするであろう。加えて、何かあれば今日のように偶然が積み重なってシグナルをキャッチできるという、漠然とした認識がある。
それこそ奇蹟のように。
「天使の権限で?」
パジャマにガウンの少女は小首を傾げて尋ねた。
「ええ、天使の権限で」
レムリアは笑顔で答えた。
イヤホンに声。相原青年が目覚めた。
次は彼を返しに行かねば。
「では、次の任務に向かいます」
「うん。頑張って。私祈ってるから」
いっぱいいっぱい、子ども達を救って。
20
温泉療養施設。キームゼー。
医療宿泊棟は大理石をメインとした円形の構造物であり、中央に噴水を備えた庭があり、環状の回廊が囲み、その外側にリハビリやレクリエーションなどの部屋が並ぶ。
回廊には車いすのお年寄りが多い。
「このようなステッキの先端から花が咲くというのはありきたりで面白くないので……」
流暢なドイツ語は少女の声。
声の主はTシャツにジーンズという軽装で、回廊でステッキを手にして立っている。回りをお年寄り達が囲んで眺めており、あたかもストリートマジシャン。
その少女を見守る、優しい目線ひとつ。
紫の帽子をかぶった高齢の婦人。ステッキを支えに立っている。
「奥様、その帽子を取ってみて下さい」
「これですか?姫様」
彼女を姫様と呼んだその婦人は、もう結果が判っているかのように、微笑みながら頭の帽子を手に取った。
くるりと返すと、中からヘレボルス・オリエンタリス1輪。
「あらまぁ」
衆目から拍手。
そこで少女……レムリアは持っていたステッキを折りたたみの傘よろしく縮め、再度伸ばすと、一輪挿しの花瓶に化ける。
「花瓶にしてみました」
更に拍手。
婦人の帽子からオリエンタリスを抜き取り、花瓶に挿して差し出す。
「どうぞ、お持ち下さい」
レムリアは言い、
「快癒おめでとうございます」
オリエント急行車中で倒れた婦人は、一輪挿しを受け取り、目を見開き、大きく息を吸い、ハァと声に出して吐き出した。
ブラボーと口笛まで混ざって、余興は終わった。
観客だったお年寄りはめいめい、或いは看護師に付き添われて回廊の双方へ去ったが、件の婦人だけは、オリエンタリスを手にその場に残った。
「本当に来て下さるとは。殿下」
「いいえ、遅くなりまして申し訳ありません。お身体よろしくていらっしゃるようで何よりです」
「そりゃそうよ。あなたは人生最高の瞬間をくれたの。あの瞬間を思い出すだけで副作用もリハビリもお花摘み。……ああなんて不思議で素敵なのかしら。ここに姫君が、本当の姫君が来ていて、それを知っているのはあたしだけなのよ。誰も知らないの。施設のスタッフもよ」
上気した顔、高揚した声。明らかにこの場所では大きな音量だが、やりとりの言語がオランダ語であるせいか、留まる目線はない。
「奥様血圧が上がります」
「少しくらい構わないの。むしろその方が血の巡りが良くなるってお医者に言われたわ。安定しているし不整脈も出なくなった。全てあなたのおかげ。あなたを思うだけで身も心も躍るよう」
気恥ずかしいがそれは真実なのだろう。経験はないが、恋心≠ェそういうものだと容易に想像が付く。恋する女は美しいという物言いが納得できる。血の巡りが活発化し、代謝も良くなる。
「まるで魔法。そうあなたは魔法使い!」
奥様は納得したようにハイトーンの声で言い、手を叩いてパチンと鳴らした。
快活そのもの、と言えるその音は、回廊を行き交う人々を、さすがに幾人か立ち止まらせるに充分だった。その立ち止まった中から一人、進路を変更して歩いてくる老男性。
「ほほう……あなたが、その魔法の看護師さんというわけですな」
医師であろう。白衣の男性が、古風な発音の英語で話しかけ、ゆっくり歩いてくる。薄くなった頭部、度の強い老眼鏡、ふくよかな頬や顎の回り。
「あら見つかったしまったのね。所長さん」
悔しそうな奥様。
「初めまして。こういう者です」
レムリアはウェストポーチからEFMMのIDカードを取り出し、所長と呼ばれた老男性に提示した。
所長氏は老眼鏡を上下に動かしながらIDカードを覗き込み。
目を見開いた。
「おお。……これはこれは。足をお運びいただき光栄です。ハイネス。いやマジックショーの姫君がなんと……まぁ、ここで声を大にする物でもありますまい」
「あら。所長さんは殿下のことを……」
「ええ、誰もを元気にする奇蹟の姫君、ミラクル・プリンセスってね。我々の前にいるこのキュートな姫君はそれはもう伝説です。マダムがそこまで快復されたのはある意味当然かと。そうかそうか。殿下の魔法の秘密が判ったぞ」
所長は笑みを見せた。
その言いぶりは褒めすぎであって本来照れるべきであろう。しかし、その言葉には本質的な気付きが含まれていると知り、レムリアはただ「恐れ入ります」とだけ返した。この所長氏は、自分が今回、この施設にこれまで無い物を持ち込んだと理解したのだ。
すなわち自分は、お年寄り≠ナあることを意識した行動は取っていない。ただ、年上に対する敬意は払ったつもり。
でも、それだけ。見舞いついでにひととき楽しんでもらえれば、というエンターテナー。
「企業秘密ですから、バラしちゃダメですよ」
レムリアは小さく笑い、いたずら少女の耳打ち。
一方奥様は戸惑い、
「あら、判らないわ。わたくしには教えて下さらないの?」
「(……)」
その問いに、レムリアは奥様の手を取り呪文を唱える。呪文の詳細は彼女の意により記述を控える。
「今、何て?」
「これで、『奥様は魔女』です。これをお持ち下さい。少し持ち上げぎみに。そうです」
レムリアは渡した一輪挿しを一旦受け取り、奥様のステッキを少し高い位置まで持ち上げてもらった。
「え?でも」
「術式は奥様もご覧になった通り。私と全く同じ要領で」
「術式って……え?本当に?」
奥様はステッキの先で、まず足下を軽くカツンと突いた。それはレムリアがマジックショー冒頭で最初に取った動き。
大理石に弾かれて戻ってきたステッキを、くるりと回転させて天地逆さにする。
結果、ステッキの先から花が一輪。
「あら。でもこれ普通のステッキよ。マジック用に?」
「これで今度は奥様が是非」
「わたくしがマジックショーを?」
「ええ」
レムリアが頷くと、奥様はハッと目を輝かせた。
「これで、わたくしもここの皆さんに魔法を掛けられるわけね」
「おっしゃる通りです」
すると、奥様はいたずら少女の笑みを返した。
「あなたはまた一つわたくしに魔法を使ったようね。あなたが帰ってしまった後のことを考える寂しさが一気に吹き飛んだわ」
「魔法使いですから」
レムリアは笑って、手のひらのひとりぼっちオリエンタリスを、花束に変えた。
「ミッション・コンプリート」
アルゴ・ムーンライト・プロジェクト〜第1部〜/了
〜special thanks〜
illustration 茶坊主
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アムステルダム生写真 H.M.さん